清水坂と右富士の問題。
志村坂上交差点から国道17号線を西へそれると旧中山道清水坂。
最初は少し右へカーブして、その後、左へ急カーブして坂下へ下りていく。
坂は台地の斜面を巻き込むようにして、西北から西向きに下っていく。
清水坂の坂下にある板橋区教育委員会が立てた説明板には「街道で唯一富士を右手に一望できる名所であった」と記されている。
板橋から先、蕨、浦和、大宮に掛けては比較的平坦で、江戸から大宮方面へ向かうとところどころで富士は見えていただろう。広重の『木曽街道六十九次』でも、「木曾街道 大宮宿 冨士遠景」、「岐岨街道 鴻巣 吹上冨士遠望」として富士が描かれている。
中山道の道筋は都内から埼玉では、北北西や北西に向かっており、富士は西南方向なので、江戸から大宮、高崎方面へ向かうとき、富士は基本的に進行方向左手に見える。もし進行方向右手に見えるのなら、それは道が西南より南向きになっている場合に限られる。説明版に「街道で唯一富士を右手に」とあるので、これは江戸から大宮方面へ向かう際に、この清水坂付近でだけ、進行方向右手に富士山が見える、つまり坂道のどこかが西南向きになっていて、富士が見える方向より道筋が南向きになっていたのだと理解される。
逆に、大宮方面から江戸へ向かう時には富士は基本的に右手に見えている。清水坂周辺でも富士は見えていただろうが、それだと「街道で唯一富士を右手に一望できる名所」ということにならないので、やはりこの話は、江戸から大宮・高崎方面へ向かう際の話、ということになる。
Wikipediaにも、「この坂道は左斜めに大きく湾曲していて、中山道中で唯一右手に富士山を望める名所として知られ、「右富士」と呼ばれていた。『江戸名所図会』にもその記述が見える。と記されている。
板橋宿 - Wikipedia → 「清水坂、ふじ大山道の追分」の項
だが、手もとの『新版 江戸名所図会 中巻』(1980年、角川書店刊)の「清水坂」の項のあたりの頁では、右富士云々の記述は発見できなかった。
早稲田大学の図書館のサイトでは江戸名所図会の実物写真を閲覧できるのだが、この「清水坂」「清水薬師」の項でも右富士についての記述はない。以下の資料写真は、早稲田大学図書館のサイトのもの。 というわけで、Wikipediaの「『江戸名所図会』にもその記述が見える。」という記述は誤りなのではないだろうか。
また、東京都立図書館蔵の『江戸名所図会』の「清水薬師 清水坂」の項の解説には、「清水坂は中山道最初の難所ですが、街道筋では唯一富士山を一望できる名所でもありました。」と記されている。坂上の方だったら確かに富士は見えただろう。だが、右富士とか右側に富士が見えたとは書いていない。
そしてこの東京都立図書館の解説も、前述のように、広重の絵に「木曾街道 大宮宿 冨士遠景」や「岐岨街道 鴻巣 吹上冨士遠望」があることからすると、「街道筋では唯一富士山を一望できる」の文章がやや奇妙だ。大宮や鴻巣でも見えてたじゃないか。。。
東京都立図書館 > 清水薬師 清水坂
さて、右富士が見えたというのは、いったいどこに書かれてるんだろう?
本などでも清水坂は右富士の名所だったと書いてあったりする。だが上記の『江戸名所図会』以外の江戸時代や明治期の文献に、右富士云々が書かれているという指摘、そして引用は、ネットでざっと見た限りではみつからなかった。
だいたい、そんな名所なら版画かなにかがネット上にも出ていても良さそうなのだが、「中山道 右富士」で検索しても右富士の絵が全く出て来ない。もちろん右富士の写真もない。地元の人々の言い伝えのみなのだろうか? ちなみに「東海道 左富士」だと、富士吉原の左富士を描いた絵や写真がたくさん出てくる。
さて、見える、もしくは見えていたとしたら、恐らくこのあたりから右手のカーブミラーの方向。でもこれだと実は坂の右手にならない。。。
Google Map上で、坂の途中から富士山の山頂へ向けて線を引いてみる。図中、緑色の線が中山道の清水坂の道筋。右下から左上へ向かって、蛇行しながら坂を下っていき、下部で西よりわずかに南向きになる。
一方、図中青色の線は、清水坂が西向きになる場所から富士山の山頂へ引いた線。最も西南向きに近い場所から富士山の山頂へ線を引いても、線は進行方向左側になってしまい、少なくとも現在の道筋では右側にならない。
Google Mapはメルカトル図法のようなので、実際に富士山が見える方角はこのラインよりほんの少しだけ西寄り(上側)になるが、富士山までは100km程度なので、この場合の方角のズレはごくわずかだ。道の向きより右側(図中上側)に富士山眺望のラインが来ることはない。
1906(明治39)年測量の古い地図を見ても、中山道の道筋はほぼ西向きで、西南西にもなっていない。
またもし、江戸期に坂下の方の道がもっと西南向きになっていたとしても、坂下になると富士山は南西側の崖に隠れてしまって見えないのではないかと思われる。
地形図で確認したところ、最も西南向き寄りになるポイントの標高は約15m。で、その80mほど西側には標高約22mの高台が見えている。地球の丸みをも考慮した上で、富士が見えるかどうかの計算をしてみたのだが、この条件ではまず見えない。富士山の山頂がわずかに見えるということもない。
現場でも、これは見えないだろうな、と感じていたのだが、地図からの判断や、計算上では「右富士」はどうもそもそも見えないようだ。(最初の方でも書いたように、進行方向左側であれば坂の上の方、もしくは坂下の方で、富士山は見えていたものと思われる。)
さてさて、右富士が見えたという根拠はどこにあるのだろうか?
注)この話は、現時点でのとりあえずの検索や計算等にもとづく情報で書いています。江戸時代〜明治前期までの道筋や坂の様子が現在とかなり違っていたりすれば、坂の途中から「右富士」が見えていた可能性はあります。右富士について、描かれた絵があることを御存知であるとか、昔の文献に清水坂の「右富士」について記されていることを御存知の方は御一報頂ければ幸いです。
#階段・坂 #階段・坂 板橋区 #旧中山道 #旧街道
旧金龍堂書店、谷内六郎の絵にもとづくモザイク壁画「砂山」
所在地:北区赤羽1-54
設置年:50年ほど前(1960年代)
Photo 2014.11.4
赤羽岩淵駅そばの本屋さん(旧金龍堂書店)の建物に設置されたモザイク壁画。
週刊新潮の表紙絵でも知られた、谷内六郎の絵にもとづくモザイク壁画としては、表参道と青山通りの交差点にある山陽堂書店のものが有名だが、赤羽にもややひっそりとモザイク壁画はあるのだった。
金龍堂書店の店主が、山陽堂書店のモザイク壁画を気に入って新潮社に依頼したのだそうだ。同じようなモザイク壁画が造られているのには何か訳があるのではと思っていたが、やはりそういう関係があったのだった。経緯については下記に詳しいので、リンク先を御覧下さい。
青山〜赤羽、谷内六郎壁画めぐり - Excite Bit コネタ
Tokyo Lost Architecture
#古い建物 北区
旧陸軍士官学校本部・陸軍省庁舎
防衛省市ヶ谷記念館
所在地:新宿区市谷本村町5
竣工年:1998(平成10)
階数 :2F
Photo 2007.6.14
市ヶ谷の旧陸軍省庁舎は現存していた頃には結局見ることがなかった。
写真は全て、現在の防衛省市ヶ谷記念館。これは1994年に解体が始められた旧陸軍省庁舎の部材を一部保存し、正面玄関の車寄せ、正面2階の東部方面総監室(旧陸軍大臣室)、東端の陸自幹部学校校長室(旧便殿の間)、大講堂などを移設・復元したもの。
市ヶ谷駐屯地 - Wikipedia
旧陸軍士官学校本部・陸軍省庁舎(模型)
所在地:新宿区市谷本村町5
竣工年:1937(昭和12)(1934(昭和9)との情報もあり。)
構造 :RC
階数 :3F・塔屋・BF
備考 :1994(平成6)解体
Photo 2007.6.14
正面車寄せ上、バルコニーがある旧東部方面総監室に展示されている旧庁舎の模型。
外観としては、中央に玄関と塔が建つ形は戦前の典型的な庁舎建築であり、それほど特色があるわけではない。ただ三島由紀夫自決事件の舞台でもある建物でもあり、外観だけでもいちど見ておきたかったなと思う。
保存・復元された講堂
舞台袖の壁や天井が斜めにせり出しているさまは、ちょっとスピーカーのようにも見える。上下左右の壁面が絞り込まれるようなデザインは、遠近法で奥行き感を与えるためのものらしい。六角形の照明が個性的。
玉座が置かれた舞台は、半楕円形に前方に張り出しており、プロセニアムアーチもそこにあるようだが、その外側にも一つ長方形の額縁状の枠がある。玉座のスペースとそれ以外の舞台部分とを仕切るようになっているようだ。華やかな装飾があるわけではないが、舞台はやはり立派で、床もピカピカ。
見学した日が雨天だったのと、資料保存のためカーテンを閉め切っているため、講堂内はやや薄暗い感じだった。
講堂・演台上から
講堂後方には2階席が設えられている。いわゆるアリーナ部分は、現在は昔の資料などを展示するスペースとして主に使われているようだ。
防衛省・自衛隊:市ケ谷地区見学(市ケ谷台ツアー)の御案内
文化資源学会 > 第15回文化資源学研究会
陸軍士官学校本部(市ヶ谷台1号館)の設計者及び経歴が知りたい。また、同本部の床面積、構造、建築様式、... | レファレンス協同データベース
市ヶ谷記念館(旧陸軍士官学校本部)(建築デザイン) - むにゅ’s のぉと - Yahoo!ブログ
Tokyo Lost Architecture
#古い建物 #古い建物 新宿区 #近代建築 #官公庁 #オフィス
以前の赤城神社 拝殿
所在地:新宿区赤城元町1-10
建設年:1959(昭和34)
構造・階数:RC・1F
備考 :2008年解体
Photo 2008.3.15
赤城神社は鎌倉時代創建の古い歴史を持つ神社。江戸時代末期に壮麗な社殿が造られたそうだが、戦災で焼失してしまい、戦後の1951(昭和26)に本殿を再建し、更に1959(昭和34)に写真の拝殿などを再建したという。
境内で幼稚園経営をしていたが、拝殿その他の建物の老朽化と収入確保のため、新しい社殿の建設と、RC造の共同住宅(6F・B1F)の建設が行われた。
現在の赤城神社 拝殿
所在地:新宿区赤城元町1-10
建設年:2010(平成22)
デザイン監修:隈研吾
構造・階数:S・1F
Web Site:赤城神社 Web Site、Wikipedia
Photo 2011.6.30
新しい拝殿は素木の開放的な造り。屋根は瓦ではなく、金属板で葺いてある。
神社本庁の監督下にある神社は、拝殿や本殿の建物をビルディング的な四角い箱状のものや、突飛な形にしないようにお達しが出ているという話を聞いたことがある。RCや鉄骨などの素材を使っても良いが、イメージとしては昔からある寺社建築調にしましょうということらしい。仏教寺院の方は、ビル型あり、インド寺院風ありで、なんでもアリになっている。だが、神社の方は、ビルの上に載ったり、ピロティに鎮座したりということはあるが、神社とは思えないような大胆な形の社殿を見た記憶は確かにない。
さて、赤城神社の新社殿。一目見て現代建築的だが、全体の形などは昔からある神社建築に似ている。いわゆる神社建築コードがあるのなら、その範囲内でできるだけ現代的にして、かつ神社建築の趣旨も押さえて、ということなのかなと思う。
Photo 2011.6.30
木造調だが、構造は鉄骨造で、鉄骨柱を木板で囲っている。防火地区だったりすると、耐火仕様にしなければならないし、強度や費用を考えると妥当なのかもしれない。重々しさは無いが、モダンで明るいガラス張りの神社建物も考え方としてはありかもしれない。以前の社殿も木造風に見せかけたRC造だったわけなので、そのあたりでどちらが優れているという判断はできない。当初はこのモダンさに違和感を感じたのだが、新築後に何度か訪れている内に次第に慣れてきた。
それでもモダン過ぎるような気はやはりする。新しい建築に挑戦するのは大切なのだが、薄く軽くなりすぎていて、いじわるな言い方をするなら模型材料のバルサで造ったみたいな感じでもあり、この軽い感じ、悪く言えばプレハブ感はどうなのかなぁと思う。だがRC造よりは自然な気もして、なんとも言えない。
Photo 2011.6.30
さて、以前は神楽坂本通りから来ると、参道はほぼ平らだったが、新しくできた社殿に至る参道は階段になっている。拝殿や本殿を高く上げることで、参拝時に神聖な空間へ近づいていく気分を演出すると同時に、その地下に駐車スペースなどの空間を確保しているようだ。
都市部にある神社としての役割や位置づけ、機能を考えると、敷地・建物の複合的な利用は神社を維持していく上での一つの方向性で、最近ではよくある話だ。だが、「地形の維持や原地形の表現」という観点からすると、ちょっと気になることもある。もともとの地形は神楽坂本通りから入って社殿まではほぼ平らで、その裏手は神田川沿いの低地へ至る急な崖になっていて、下ることはあっても上りには決してなっていなかったのだが、新社殿では人工的に上りにしている。石垣を築いたりして社殿を高く掲げているケースは昔からあるので、神聖性の演出としての人工的架構はもちろんあり得る。だが、新しい社殿の参道は、人工地盤が大規模で一体的に上手く造られすぎているので、まるで自然の地形的な高みに上っているように感じられてしまい、経緯を知らないと、もともとそういう地形だったのだと錯覚しそうだ。
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 新宿区 #新しい建物 新宿区 #神社 #隈研吾
東京聖三一教会
所在地:世田谷区代沢2-10
設計 :石本喜久治(石本建築事務所)
竣工年:1961(昭和36)
Photo 2015.2.10
某講座の階段まちあるきで、北沢川支流の谷を巡り、北沢・代沢あたりをぐるぐる。 で、下見の時には見逃していた東京聖三一教会という教会に遭遇。
帰宅後、改めて調べてみたら、白木屋百貨店(後の日本橋東急の建物)や昔の朝日新聞社の建物を設計した、建築家石本喜久治(石本建築事務所)の作品と知る。
あまり有名ではないようだが、良い感じの空間だった。。なんだか掘り出し物を発見したような気分。
1階が事務所になっているようだったが、なぜか不在で、コンタクトが取れず。 右の階段を上って2階へ行くと、ご自由にお入り下さいと書いてあり、外扉が開け放たれていた。
ちょっとした丘の上にあり、なおかつ、2階建てになっているので、高さがあり、塔がそびえる形になっていて美しい。
上に行くに従って段階的に細くなり、高さ感がある塔。白一色に塗られ、清新なイメージ。壁面にちょっとした装飾があるのが可愛らしく、一方でスリット状の窓はモダンでかっこいい。
堂内にはコンクリートでアーチと梁を架けている。アーチだけにせず、梁を渡した理由は、構造的なものなのか、デザイン上のことなのか私にはわからず。。壁や天井はどうやら折板状になっているようだ。
パイプオルガンが設置されている、堂内入口上の3Fフロアへの螺旋階段。シンプルだけれどきれい。
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