都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

2019年1月 記事一覧

2019-01-31 | 記事一覧 

01/13 中居町牛乳店
01/16 リーブルテック(旧 東京書籍、旧 東京書籍印刷)
01/19 旧立川飛行場格納庫
01/21 大谷口配水塔
01/23 同潤会三ノ輪アパートメント
01/25 同潤会鶯谷アパートメント
01/27 サキガケ荘
01/29 名曲喫茶クラシック
01/31 公社青葉町住宅

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公社青葉町住宅

2019-01-31 | 渋谷区  
公社青葉町住宅
所在地:渋谷区神宮前5-52
構造・階数:RC・11F
Photo 1987.9.27

 戦前の近代建築ではなく、恐らく昭和30〜40年代の建物だったが、30年程度で取り壊されてしまった。右手奥の建設中の建物はJBPオーバル。

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 渋谷区  #公営・公団・公社・公立住宅 
#集合住宅  #モダニズム 
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名曲喫茶クラシック

2019-01-29 | 中野区  
名曲喫茶・クラシック
所在地:中野区中野 5-66
構造・階数:木・2F
建設年:1916(大正5)
備考 :2005.1月末閉店 2005.11.2解体
Photo 2005.5.18

 2005.11に「Site Y.M. 建築・都市徘徊」に記載しましたが、ブログ内に記事を移設しました。


 五木寛之氏のエッセイを週刊誌で読んでいたら、行きつけの喫茶店が次第になくなってしまい残念である、というくだりがあり、フムフムと読み進めていたら「よく通った中野のクラシックももうない。」とあった。へ?、去年行ったんだけどな。自宅の近くでしょっちゅう通ってるし。間違いじゃないかしら?。気になって、早速訪ねてみる。すると、ガーン。2005年1月末で閉店だと。もう一度行っておけば良かった。

 今回、初めて外観をしげしげと眺めてみた。お店をやっていた頃はこの路地にクラシックという黄色い看板が出ていたのだが、既にそれもない。1月の閉店後、数ヶ月の間に、ペイント落書きもされてしまった。今となってはただの廃墟。なんだかとても残念。

 しかしこのお店、営業していた当時もかなり怪しい建物ではあった。年月を経てそうなってしまったのだろうが、店内の床があちこち傾いていた。窓や手摺もゆがんでいて、崩れてしまうのではないかとちょっと怖い。寄りかかったりするのをためらってしまう。椅子もかなり年季が入っていて、ギシギシガタガタ。バネがバカになっていて、座るとズルズルっと沈み込んでしまう。ただこの老朽化加減は昔からのものだったと、30年ほど前から店の様子を知る方に伺った。となるとこの怪しさも昔からのものだったのだろうか??

 また、コーヒーを頼むとミルクがマヨネーズの蓋に入って出てくるのが印象的だった。店内がかなり暗いので、コーヒーは怪しい黒い飲み物になる。暗いと人間の味覚はやや鈍くなくなるということがよく判った!。多分にヒトは目で味わっているらしい。

 それから、このお店には飲み物のmenuしかなかった。食べ物を出さない代わりに、ゴミを持ち帰れば食べ物の持ち込みOKというシステム。慣れたお客さんは、コンビニでサンドイッチなどを買って、店内でピクニックみたいにそれらを広げて食べていた。こういう営業スタイルでよく続けられるなぁと、ちょっと不思議だったのでした。

 渋谷のクラシック喫茶・ライオンの方は、CDも使っていて、スピーカーも新しくしたりしているようだが、中野クラシックはアナログオンリーで、全部が「クラシック」だった模様。まあ、それはどちらでも良い。閉店の理由は判らないが、チェーン店のCafeに押されて、このような個性的なお店がなくなるのはやはり残念だ。建物がまだあるんだから、またお店開いてくれないかなぁと、何回も通ったわけでもないのに勝手に期待。

 閉店になったらたちまち落書きがされてしまった。アートだという人もいるが、いかにもレベルが低い。どう考えてもやはりただの落書き。汚損しているとしか言いようがない。無人だから、古いからといって、落書きで汚して良いわけはない。もったいない、もったいない。

 2005.11.2に通りかかったら、まさに解体している最中だった。結局、再開はなかった。重機が建物に襲いかかり、瞬く間に廃材の山を作っていた。解体の現場は、記憶を粉砕するようで、あまり見たくない。

名曲喫茶クラシック - Wikipedia

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中野区  #木造店舗  ブログ内タグ一覧
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サキガケ荘

2019-01-27 | 中野区  


Photo 2000.6.25

サキガケ荘
所在地:中野区中野5-51
建設年:1933(昭和8)以前
構造・階数:木・2F
備考 :2002年末に解体。
    建て替えられて、マンション(レジデンスサキガケ)になった。

 敷地の奥の方に建物の玄関があった。手前左側は店舗(鮮魚店)として利用されていた。右奥に見える木造建物群の一角も同時に取り壊され、再開発された。
 1933(昭和8)年の火災保険特殊地図(都市製図社発行)に既にサキガケ荘が記載されているので、関東大震災前後の建物なのではないかと推測される。


Photo 1996.3.21

 サキガケ荘があったのは、中野駅北口・中野ブロードウェイの東隣。背後にそびえるのは中野ブロードウェイビル。周辺は戦後形成された露店群の名残を留める商業地。飲屋街、食堂街に混じってこのアパートも存在していた。因みにブロードウェイビルもそれら店舗群を整理して再開発した建物。


Photo 1996.3.21

 明治の頃の建物ではないので、擬洋風建築と言って良いかわからないが、サキガケ荘もその系統に属する。モルタルでできた怪しい模様が軒先に着く。写真から判断して、玄関上の2F部分も居室だったようだ。

廃景録サキガケ荘

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中野区  #住宅系  #集合住宅 
コメント (2)
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同潤会鶯谷アパートメント

2019-01-25 | 荒川区  


Photo 1995.4.30

同潤会鶯谷アパートメント 2号館
所在地:荒川区東日暮里5-16
建設年:1929(昭和4)
構造・階数:RC・3F
解体年:1999(平成11)

 右から書かれた「鶯谷アパートメント」の文字が印象的。

 鶯谷アパートメントは、尾久橋通り北側の敷地に3棟が建っていた。1号館は尾久橋通り沿いから奥へ伸びる形で、規模はやや小さめ。2号館は尾久橋通りに面してコの字型。3号館は尾久橋通りには面しておらず、2号館の北側で裏通りに面しており、やはりコの字型で、3棟の中では最も大きかったようだ。


尾久橋通りから2号館全景。右端は1号館。 Photo 1995.4.30

 1、2号館の間の通り沿いに門があり、そこから3棟の間の中庭状の場所に入って、それぞれの建物にアクセスする空間構造だったようだが、敷地を囲う形で塀があり、門もあったため、敷地内には入らずじまいにおわった。裏側にもまわってみなかったので、3号館の写真も撮っていない。


同潤会鶯谷アパートメント 1号館  Photo 1995.6.17

 訪問の時点ではまだ居住者も多かったため、遠くから撮影しただけでおわっている。中庭や建物内部などは下記のサイトで紹介されている。

廃景録同潤会 鴬谷アパート
廃墟系同潤会鶯谷アパートメント

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 荒川区  #近代建築  #住宅系  #集合住宅  #同潤会 
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同潤会三ノ輪アパートメント

2019-01-23 | 荒川区  
同潤会三ノ輪アパートメント(手前 A棟、奥 B棟)
所在地:荒川区東日暮里 2-36
建設年:1928(昭和3)
構造・階数:RC・4F
解体年:2006(平成18)
Photo 2004.10.11

 改めて三ノ輪アパートの写真を見てみると、確かに老朽化が進んでいて建て替えもやむを得なかった感じ。最初の写真では建物の角の部分とかが補修されていたりするのだが、その9年後に撮った写真を見ると、補修した部分が再度剥がれて、鉄筋が剥き出しになっているにも関わらず、今回は補修されなかったことが判る。建て替えを前にして、もはや補修がされなかったのだろう。震度5程度でも倒壊しそうな雰囲気だった。


Photo 2004.12.25 手前 A棟、奥 B棟

 4階の窓の部分は木材で出窓状に加工してあったが、当初からこうなっていたわけではなさそう。


Photo 2004.10,11

 北東側から。敷地内に二棟の建物(手前中央 B棟、左奥 A棟)が建っていた。共に4階建てで、北側のB棟の階段室は2ヶ所で東北端部だけは3階。剥き出しになった鉄筋が痛々しい。


Photo 2004.10.11 南側のA棟


Photo 2004.10.11

南側のA棟の階段室は3箇所。


Photo 2004.10.11

二棟の建物の間のスペースとB棟。4階が張り出す形になっていた。
上野下アパートも同じようなスタイル。間取りが1〜3階とは違う模様。


Photo 2004.10.11

B棟を北側から。錆び付いた配管が沢山並ぶ。庇の上には苔や雑草が生え、ダストシュートには穴が開いてしまっていた。


Photo 2004.12.25

ダストシュートを覆うコンクリートの鉄筋が剥き出しになっていた。
奥の方は壁面部分の鉄筋も露出していた。下の部屋の窓枠は昔のものだろうか。

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 荒川区  #近代建築  #住宅系  #集合住宅  #同潤会 
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大谷口配水塔

2019-01-21 | 板橋区  
大谷口配水塔
所在地:板橋区大谷口1-4
建設年:1931(昭和6)
構造 :RC
解体年:2005(平成17)
Photo 2004.10.10

 関東大震災の後、荒玉水道組合によって建設された配水塔。東京都水道局に管理が引き継がれ、1972(昭和47)まで使用されていたが、老朽化のため使用停止となり、2005年に解体された。

 他に大きな建物が少ない住宅地の中、巨大な姿が印象的。「水道タンク前」というバス停もあり、地域のランドマークとなっていた。高台でもあり、昔はかなり遠くからでも望むことができたのではないだろうか。

 中野区江古田1-3にも同じ設計者の手による野方配水塔がある。こちらのほうは非常用貯水タンクとしてまだ現役。

 水道局施設内には立ち入りができないので、金網越しに撮影。西洋建築風の意匠とドーム屋根が強い印象を与える。

 施設の東側は路地を挟んでそのまま住宅地になっている。住宅地の中の道を歩いていると忽然と巨大な塔が現れるので驚かされる。

 初めて見ると少しビックリするが、毎日のように見慣れていると、地域の重要な景観要素・ランドマークと認識されるようになるのだろう。

 大谷口給水所再整備に際しては、この建物が長年地域のランドマークになっていたことなどを考慮して、デザインの継承が試みられたといい、新設のポンプ所はかつての配水塔に似たデザインになっている。ただ改築等ではなく完全に新しい建物なのに、昔のデザインをまねる必要があったのかはいまひとつわからない。

大谷口配水塔 - Wikipedia

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 板橋区  #近代建築  #塔 
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旧立川飛行場格納庫

2019-01-19 | 東京都下 
旧立川飛行場格納庫
所在地:立川市緑町4
建設年:?
構造・階数:S+RC・1F
備考 :跡地再開発により解体
Photo 1995.7.18

 第二次大戦中は陸軍の立川飛行場だった場所で、戦後はアメリカ空軍の立川基地になり、1969(昭和44)まで飛行場として使われていた。その後も宿舎などとして使われていたが、1977(昭和52)に全面返還された。

 1994(平成6)にはこの南側エリアがファーレ立川として再開発されたが、この建物は1995年時点で廃屋状態で残されており、周辺敷地も立入禁止になっていた。

 格納庫の建設年は未把握。戦前に陸軍が建てたものか、戦後の接収中に米軍が建てたものかも知らず。

 その後、建物は2003年頃までに解体されたようだが、新しいビルはすぐには建たず、駐車場、空地などになっていた。現在は玩具メーカーのコトブキヤの本社、壽屋ビル(2016年竣工)などになっている。

立川飛行場 - Wikipedia
ファーレ立川 - Wikipedia

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 都下  #倉庫・蔵 
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Tokyo Lost Architecture内の古い記事について

2019-01-18 | Weblog 

 都市徘徊blogを始めるより前から、「Site Y.M. 建築・都市徘徊」をやっていて、その頃から同サイト内に「Tokyo Lost Architecture」も記していた。ただ、容量が小さく限界に達してしまったので、2005年12月から本ブログを始め、その後、新規記事はこちらの方に多く書いている。

 それと、当初はinfoseek内にサイトを開いていたが、2010年にサービスが終了してしまったため、FC2に移行。こちらの方は容量が比較的大きいが、その後も新規記事の多くはブログに掲載している。

 ただ「Tokyo Lost Architecture」の古い記事は同サイトの中にあり、新しい記事は都市徘徊blog内にあるというねじれがあるままになっており、古い記事は都市徘徊blog内で使っているタグには関連付けられていない。

 また、古い記事はあまり整理せずに掲出していたものも多かったので、少しだけ整理をしたりしながら、徐々にこちらのブログに記事を移設しようかと考えている。当面は古い記事も残すが、最終的には「Tokyo Lost Architecture」関連の記事はこちらのブログに集約できればと考えている。

 「Tokyo Lost Architecture」の古い記事内にリンクを張って頂いている方には申し訳ありませんが、徐々に移行する予定でおりますのでよろしくお願い致します。

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リーブルテック(旧 東京書籍、旧 東京書籍印刷)

2019-01-16 | 北区   
リーブルテック(旧 東京書籍、旧 東京書籍印刷)
所在地:北区 堀船1-23
建築年:1936(昭和11)
構造・階数:事務棟 RC・3F、工場 RC+S・平屋、守衛所 RC・平屋
解体年:2015(平成27)
備考 :「DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築」選定
Photo 2015.6.20  写真は事務棟・守衛所

 教科書でもお馴染みだった東京書籍の印刷工場。当初は東京書籍株式会社だったが、印刷部門の分離・独立に伴い東京書籍印刷株式会社となり、更に2009(平成21)に社名変更して株式会社リーブルテックになったという。

 王子駅から少し歩いた場所に長いヴォールト屋根が並ぶ工場建物が塀越しに垣間見え、正門のわきにはスクラッチタイル張りの守衛室があり、その奥に、これもスクラッチタイル張りの3階建て事務所が見えていた。昔の姿を今に伝える都心では数少ない戦前からの工場建築だった。

 事務所はもともと2階建てだったが、1952(昭和27)に3階が増築されたそうだ。また、3棟並んだ工場はかまぼこ型の屋根をしており、その屋根内には柱がなく広い工場空間になっていたという。

 「DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築」にも選定されていたが、2011年に工場が埼玉に集約されたことから、工場は訪問時点で既に解体工事が始まっており、周囲が囲いで覆われ始めていた。

 アーチ型の屋根の工場には外光を取り入れる半円型の窓が並んでおり、その姿も印象的だった。

 2016年には北東側に新本社ビルが完成し事務所も移転した。事務棟も解体され、現在、跡地は大きなホームセンター(2017年6月オープン)になっている。

東京書籍 - Wikipedia
DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築 - Wikipedia

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 北区  #近代建築  #工場 
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