都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

旧 大塚アパート

2024-07-12 | 港区   
旧 大塚アパート
所在地 :港区 南麻布4-2-14
構造・階数:木・2
建設年代:?
解体年 :2023(令和5)頃
Photo 1995.5.27

 南麻布にあった、もとはアパートだった洋風建物。最近の住宅地図には個人宅のような形で載っていたが、総2階の姿はやはり集合住宅。建設年代の詳細は未把握だが、1960年代の地図には既に載っているので、それより以前、戦後まもなくもしくは昭和戦前期に建てられたものだったのではないかと思う。


 Photo 2011.3.29

 人通りのある道に直接面しているため、1階の窓には目隠しの板が取り付けられていた。壁は洋風の下見板張りだが、屋根は日本瓦。また、1990年代に見た時は壁が水色だったが、2010年代には薄い小豆色に塗り替えられていた。


 Photo 2011.3.29

 2階の窓外の手摺はアルミ製のようで新しい。雨樋も新しいものが付けられていたし、エアコンもあったが、外観は全体的に昔からの様子を保っていた。


 Photo 2011.3.29

 窓や扉は昔ながらの木製。古い住宅でもアルミサッシになっていない建物は珍しい。

 昨年末に通り掛かったところ、既に無くなっており、跡地には別の新しい建物が建っていた。老朽化している感じだったので、残して行くのは難しかったのだろう。
 昔からの街並みを形作っていた建物はかようにして次第に消えていき、かつての街並みを思い起こす手掛かりも次第に少なくなっていく。

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#失われた建物 港区  #洋館・洋風住宅  #集合住宅 
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山岡家住宅

2024-07-09 | 港区   
山岡家住宅
所在地:港区 南麻布3-3-33
構造・階数:木・2
建設年:1860(安政7)
解体年:2020(令和2)
備考 :後方の母屋は1933(昭和8)築
    集合住宅「鶯啼居」に建て替え。旧建物の一部を保存復元。
Photo 2011.3.29

 仙台坂上交差点から南へ、薬園坂へと向かう道の途中にあった土蔵造りの家。屋根はトタン葺きだったが、いわゆる店蔵の構えで立派な建物だった。
 この撮影時は隣接地の建物が解体されて更地になっており、後方の建物も見えていた。その時点では奥の建物が通り沿いのものと関連があるのかどうかも知らなかったが、そちらも古そうな木造家屋だなと思っていた。

 正面から。2階には小さな窓が一つあるだけで、これも密閉できるもの。1階はガラス戸の引き戸などで、大きな開口部を持つが、両側の壁は厚い。この界隈では他に同様のものがなく珍しかった。

 南側から見ると、後方の建物は瓦屋根だが洋風下見板張りだったことが分かる。
 きれいに手入れされていたので残り続けることを期待していたのだが、残念ながら2020年に解体された。

 さて、Google Mapでこの場所を見ると、現在も「山岡家住宅」としてピンが建てられている。不思議に思って改めてネット検索したところ、下記の記事やサイトを見ることができた。

山岡嘉彌デザイン事務所
【商人の息づかいを残す】建築家・山岡嘉彌氏に聞く
  旧江戸御府内最古の店蔵保存再生への道 | 建設通信新聞Digital

ザ・AZABU > No.27(2014.3.18)、 No.58(2022.3.17)

 一連の記事によれば、これまで建物を所有して維持していたのは、上記サイトの建築家の方だそうだ。山岡家は近江から江戸に来て、近くにあった仙台藩下屋敷の出入り商人として、薬、米、炭、雑貨などを扱っていたという。かつてはこの道沿いには同様の店が建ち並んでいたというが、次第に減ってしまったそうだ。

 そのような経緯もあって、同氏はこの建物をずっと残して行きたいと考えていたそうだが、近年の台風などで傷みが激しくなって維持が困難になり、建て替えを決断したという。

 通り沿いの店蔵の建物は約160年前に建てられたもので。安政7(1860)年の墨書が残っていたそうだ。店蔵の建物としては、かつての江戸市中エリアに残る最古のものだったという。港区が解体前に行った調査では、部材の多くがもっと前の宝暦年間(1751~64)のものであることが分かったという。山岡家が近江から江戸に来てここに居を構えた時期の建物が、姿を変えてはいるのかもしれないが残されていたようだ。

 また、店蔵の後方の建物は居住棟で、こちらも90年近く前の1933(昭和8)年に建てられたものだったという。

 解体後の跡地には「鶯啼居」(おうていきょ)という5軒からなる集合住宅が建てられているが、上記のような経緯もあったことから、同氏は旧建物の部材などを保存し、新しい建物の1階に一部を復元したそうだ。現在は関係者以外は見ることができないが、かつての建物の部材や施工技術は、将来にも受け継がれていくことになったようだ。

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#失われた建物 港区  #土蔵造り  #和風住宅 
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小山湯

2024-07-06 | 港区   
小山湯 
所在地:港区 三田1-11
構造・階数:木・2
建設年:1921(大正10)
解体年:2023(令和5)
備考 :2007(平成19)年1月末廃業
Photo 2006.4.23

 三田小山町西地区市街地再開発事業に伴い、昨年末に解体された銭湯。営業自体は17年前ので終了していたが、建物はずっと残されていた。
 1枚目はまだ営業していた頃の様子。入口を入ると正面に下駄箱があり、そこから右手へ入っていく。玄関扉はもともとは観音開きだったのだろうが、この頃は中央をつなげて大きな片開きにしていたようだ。両開きの場合、左手の階段上から降りてくると扉を回り込まねばならないので、変えてしまったのかもしれない。2枚の扉がつながっていたのか、左扉を毎回外して並べていたのかはわからないが、珍しいことになっていた。


 Photo 2018.12.15

 側面はトタン張りだが、立派な建物だった。出桁2階のこの部分が脱衣所や番台で、その右手にわずかに見えている部分が浴室。


 Photo 2023.1.30

 ボイラーなどがある浴室後方(建物西側)。正面の扉は浴室後方の部屋に入るための関係者用の扉。2階に部屋やトイレ?物干し台もあったので、所有者の住居部分だったのかもしれない。このため廃業後にもこちらには人の出入りがあった。


 Photo 2018.12.15

 脱衣所棟の2階の窓には、木製窓枠の古い窓が残されていた。


 小山湯階段上から Photo 2013.1.18

 小山湯は三田の高台北側の山下に建てられていたので、高台側へ階段を上っていくと、建物を上方から見ることができた。


 Photo 1995.2.5

 手前右から玄関棟(脱衣所棟)、浴室棟、ボイラー棟、煙突。奥に見えているのは首都高速2号目黒線、ツイン一の橋(都営アパート)など。


 Photo 2023.9.23

 解体が始まった頃の様子。既に北側壁面が半分取り壊されて内部が部分的に見えていたが、この時は郵便受から内部の様子を窺うことができた。
 奥にタイル張りの湯船が見える。壁画も部分的には見えるが絵の題材は不明。建物北側、玄関から入って右手のエリアで、どうやら男湯の側だった模様。

小山湯、寺井雑貨店/三田1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
小山湯 港区三田 - 東京ノスタルジア
東京の銭湯・温泉小山湯

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日完工芸

2024-07-03 | 港区   
日完工芸
所在地:港区三田1-10
構造・階数:木・2
解体年:2023(令和5)頃
備考 :三田小山町西地区市街地再開発事業に伴い解体
Photo 2023.1.30

 地下鉄麻布十番駅の東側、古川右岸の三田一丁目には木造住宅が多く建ち並ぶ住宅地が最近まであった。地区内には看板建築の商店や長屋、銭湯などが建ち並んでいた。日完工芸は小さなオフィスビルのように見えたが、切妻屋根(前面は入母屋屋根状)、妻入のモルタル看板建築だった。

 ファサード上部が屋根頂部より低い位置で水平に切られたデザインだったので、立面としては屋根頂部はファサード壁面に隠されていなかった。しかし前面側の屋根が入母屋状で頂部の棟とファサードが少し離れていたので、近くからだと最高部は見えなかった。入母屋屋根の端部を切った形だったため、ファサードが台形になっていたようだ。

 南側の壁面は改修されてい、洋風の下見板張りになっていた。縦長の窓で昔は上げ下げ窓だったのではないかと思うが、最後の頃は引き戸のガラス窓が上下に並んでいた。

日完工芸/三田1丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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京品ホテル

2024-06-30 | 港区   
京品ホテル
所在地:港区 高輪4-10-20
構造・階数:RC・4
建設年:1930(昭和5)
解体年:2010(平成22)
備考 :1973(昭和48)頃に大幅に改築?
    ホテルは2008(平成20)に廃業
Photo 2006.11.5

 品川駅前にあったホテル。下記Wikipediaにもあるように、名前の「京品」は東京と品川から一字ずつをとったものとのこと。近くに京浜急行があるが、京急グループとは関係がなかったという。

 建物は戦前の1930(昭和5)年に建てられたものだったそうだ。ただ昔の写真とはだいぶ様子が異なっており、1973(昭和48)年頃に外観も含めて大幅に改装されていたようだ。この頃の住宅地図では(建)となっていて、地図の調査時には建て替えのように思われたのかもしれない。

 ところで、下記、港区の写真サイトには、「廃止前の京品ホテル」と題して1967(昭和42)年撮影の写真が掲載されているが、ここで言っている「廃止」は、品川駅前の都電の廃止のことで、ホテルの廃止ではない。また、写真中、奥のトンガリ屋根は京浜電鉄の高輪駅ビル(1925年築、RC造、3階)で、これは後に建て替えられてウィング高輪になっている。

 下記オークションサイトには、建物の昔の様子を写した絵はがきが出品されている(落札されてページが消える可能性あり)。

京品ホテル - Wikipedia
港区ホームページ/No.250 廃止前の京品ホテル
WinterGarten・二十面相の館 
rx-29300【戦前絵葉書】 京品ホテル全景(東京品川駅前) /// 検)高輪建築街並宿泊観光京浜急行の落札情報詳細 - ヤフオク落札価格検索 オークフリー

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東芝港クラブ

2024-06-27 | 港区   
東芝港クラブ
所在地:港区 高輪4-4
構造・階数:木・2
建設年 :?
解体年代:2006〜08(平成18〜20)
Photo 2006.3.10

 高輪4丁目、二本榎通りの先の尾根道から西へ入り、品川区との区界にあるS字階段へ向かう途中にあった建物。

 外見上はさほど豪華な建物には見えなかったが、黒板塀が巡らされ、しっかりした門があり、庭木も手入れされていて、御座敷のある料亭のような施設だった。

 同じ高輪にある旧朝吹常吉邸(現 高輪館)は、「東芝山口記念会館」としてかつて東芝が保有していたもので、近代建築ファンの間ではよく知られている。しかしこちらは、それとは規模も豪華さもかなり違っていて、失礼だが本当に東芝の倶楽部施設なのだろうかと思ってしまう雰囲気ではあった。ただ、大企業だから様々な大きさやテイストの保養施設があって、「港クラブ」もその一つだったのかな、などということも想像されるのだった。

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高輪3丁目の洋館

2024-06-24 | 港区   
高輪3丁目の洋館
所在地:港区 高輪3-4-10
構造・階数:木・2
建設年:?
解体年:2010(平成22)
Photo 2006.3.5

 桜田通りから東に入った場所にあった洋館付き住宅。住宅地図等を見ても詳細はよく判らなかったが、1990年代以降は貿易関連の会社として使われていたもののようだった。

 急傾斜の屋根と上げ下げ窓が印象的。洋風なのは写真の部分だけで、左側の奥まった部分は少し新しめの普通の2階屋だった。

 1階の窓は少し張り出したベイウィンドウ。

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とらや(高輪虎屋)

2024-06-21 | 港区   
とらや(高輪虎屋)
所在地:港区 高輪1-20-8
構造・階数:木?・3
建設年:1925(大正14)頃
解体年:2022(令和4)
備考 :1949(昭和24)創業、1955(昭和30)頃改築
Photo 2006.11.5

 赤坂の「虎屋」と同名だが別の和菓子店。角地に建っていた白壁の3階建てで、城の櫓のような雰囲気もある建物だった。

 1階の庇は銅板の本瓦葺き。2階の庇と3階の屋根は以前は瓦葺き(写真1、3枚目)だったが、2006〜08年に金属板葺きに換えられた。また、北側部分は切妻屋根で銅板葺き


 Photo 2008.9.27

 Googleストリートビューで見ると、2009年時点では営業していたが、2013年以降の画像ではシャッターが閉まっており、その頃から長期に渡って休業していたようだ。


 Photo 2006.11.5

 高輪・二本榎通りにある印象的な建物だったが、残念ながら2022年に解体された。

ノスタルジ野とらや
【とらや】〜港区のレトロな和建築 - 港区
高輪にある虎屋、取り壊し。│高輪ライフ

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旧渡辺甚吉邸

2024-06-18 | 港区   
旧渡辺甚吉邸(旧ラオス大使公邸、旧スリランカ大使公邸ほか)
所在地:港区 白金台4-19-10
構造・階数:木・2+R
設計 :遠藤健三、今和次郎、山本拙郎
建設年:1934(昭和9)
解体年:2018(平成30)
備考 :2022(令和4)に取手市に移築完成。国登録有形文化財
Photo 2017.1.10

 白金台にあった旧渡辺甚吉邸は2018年に解体されたが、その後、取手市内に移築された。もともとの所在地で残せなかったのは残念だが、東京の現状などを考えると移築であっても残らないよりはましで、残ったのは良かったことだ。

 建物は岐阜の名家、渡辺家の当主、甚吉の私邸として建てられたもの。渡辺甚吉は実施設計を行った遠藤健三を伴ってヨーロッパに赴き、その体験からチューダー様式でこの住宅を建てたという。全体計画は洋風住宅を手掛けていた「あめりか屋」の技師長・山本拙郎、また、内部の装飾類は考現学で知られる今和次郎がデザインしたものという。

 戦後は米軍が接収、渡辺家に返還された後はラオス大使公邸やスリランカ大使公邸として利用され、更に2010年からは結婚式場「白金甚夢迎賓館」としても使用されていた。

 塀や1階部分の壁は鉄平石を積んだもので、都内に残る洋館の外壁としては珍しいものだった。2階、屋根小屋部分はハーフティンバーで、チューダー様式の田舎家の雰囲気。

 正門左側の平屋は車庫だったものだそうだ。

 都内に現存していた頃は内部を見学する機会がほぼなかったが、移築後の現在はときどき見学会が行われており、他のサイトには現状や内部の様子も掲載されている。また、移築作業を行った前田建設によるレポートも見ることができる。

旧渡辺甚吉邸主屋 文化遺産オンライン
旧渡辺甚吉邸移築活用プロジェクト|Construction REPORT|実績・事例|前田建設工業株式会社
奇跡の住宅- 旧渡辺甚吉邸と室内装飾- | LIXILギャラリー | LIXIL文化活動 - LIVING CULTURE
旧渡辺甚吉邸(東京) : 洋館探訪ブログ
思いつくまま 第845回・旧渡辺甚吉邸
Anthology -記憶の記録-
 − 取手市のお散歩2023 その3その4その5

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キクヤレストラン

2024-06-15 | 港区   
キクヤレストラン
所在地:港区 芝浦1-4
構造・階数:木・2
建設年:1946(昭和21)?
解体年:2007(平成19)
Photo 2003.5.8

 第一京浜の芝4丁目の交差点からJRをくぐって海側に行ったところにあった建物。木造モルタル2階建てのいわゆる看板建築だったが、2007年に解体されて4階建てのビルに建て替えられた。レストランは現在もその新しいビルで営業を続けている。

 キクヤレストラン周辺。写真右側がキクヤレストラン。中央は喫茶さんぼるがある5階建てビルで、この建物は現存している。左は1990年代半ばまで歯科医院(岡本歯科)だったもの。この後、歯科医院は廃業したようで、しばらくすると建物もなくなり、現在は駐車場になっている。

キクヤレストラン解体前日 : やっとかめ どっとこむ

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