都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

2011年5月 記事一覧

2011-05-31 | 記事一覧 
05/02 東京郵政局・関東郵政局
05/06 慶応大学病院別館
05/10 立花医院
05/14 國徳商事
05/22 キャピトル東急ホテル
05/26 旧 区立千桜小学校
05/30 T邸

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T邸

2011-05-30 | 新宿区  
玉置邸
所在地:新宿区下落合2-14
建設年:?
構造・階数:木2
備考 :解体年不明。2000年の住宅地図には掲載あり。
Photo 1995.6.24

 日立目白クラブの入口前の角にあったお家。写真右側・画面外が日立目白クラブ。

 やや大型の木造2階建ての和風家屋。周辺は明治大正期に近衛家が所有、居住した場所で、今も通称 近衛町と呼ばれる高台の高級住宅街。昔のこの界隈はこのような建物が建ち並んでいたのだろうなと思わせる景色を見せていた。

 比較的最近まであったようなのだが、いつのまにか解体されて、跡地は駐車場になっている。想像ではあるが、場所柄、世代交代などがあると、そのまま所有し続けることが難しく、解体、売却ということになるのかもしれない。目白の住宅街も徐々に変貌を遂げている。

Tokyo Lost Architecture   #失われた建物 新宿区  #住宅系 
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旧 千代田区立千桜小学校

2011-05-26 | 千代田区 
旧 千代田区立 千桜小学校/千代田小学校
所在地:千代田区神田東松下町22
竣工年:1929(昭和4)
構造・階数:RC・3F
Photo 1996.10.10
備考
1993(平成5)年4月 区立神田小、区立永田町小と合併して、区立千代田小学校となる。
1998(平成10)年4月 新校舎が旧神田小学校跡地に完成し、千代田小学校はそちらに移転。
1999(平成11)年3月~2001(平成13)年7月 東洋高校仮校舎として使用。
2006(平成18)年 解体

 震災復興期に建てられた小学校なので、復興小学校といってよいのかな? ただ、復興小学校の特徴の一つとして挙げられる、復興小公園との隣接はないようだった。

 校舎はL字型。柱は中央が尖った形で、軒先には段が付けられており、直線的でシャープな感じがアールデコっぽい。

敷地南側の通りから   Photo 2005.3.27

 西側の棟の屋上には樹木も生えていたようだ。屋上庭園が造られていたのだろうか。

 2000年の住宅地図には東洋高等学校と記されている。東洋高校はもともと水道橋駅のそば、三崎町にある学校だが、どうやら校舎建て替えのために一時移転していたようだ。小学校として使われなくなった後、一時は私立高校に貸し出されたりしたが、最終的に取り壊されたということらしい。

体育館   Photo 1996.10.10

 体育館は戦後の建物だったのだろうと思うが、これも同時に解体された。

 都心では、児童の減少により学校の合併が多く、また昭和初期の校舎は耐震性の不足や老朽化を理由に建て替えられることが多い。しかし、実際は耐震性はさほど不足しておらず、むしろ、建て替えによって大型の複合施設を造りたいという思惑から解体が進められているとの話もある。

 旧千桜小学校の場合、現状の詳細は知らないが、Google SVやGoogle Mapで見る限り、まだ更地のままのようだ。次の使い道は決まっていないが、とりあえず壊しておいたということなのだろうか。

 卒業生からすれば、自らが学んだ校舎は残り続けて欲しいと思うだろう。補強などをした上で、用途を替えたりしながらでも残していけると、本当はよいのではないかといつも思う。

都市風景への旅近代建築東京都千代田区東松下町
東洋高等学校東洋高校の歴史
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区  #学校 
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キャピトル東急ホテル

2011-05-22 | 千代田区 
キャピトル東急ホテル/旧 東京ヒルトンホテル
所在地:千代田区永田町2-10
建設年:1963(昭和38)
構造・階数:SRC・10F
客室数:約450室
備考 :旧 東京ヒルトンホテル(1984年まで)
    2006.11営業終了、解体建て替え
Photo 2000.3.8

 手前の建物は、山王パークタワーの低層棟。ちょうどこの頃に完成したため、GRAND OPENの看板が見える。

 旧東京ヒルトンは、日枝神社のある、星ヶ岡と呼ばれた高台の東南側の一角に建てられた大型ホテルだった。東京オリンピックを前にして、海外からの旅行客などを受け容れることができる、数少ない国際的なホテルだったそうだ。

 そういえば、従姉妹の結婚式がここだった。東京ヒルトンホテルの時代、私はまだ小学生だった。だから、天井が高く広いホールだったことぐらいしか記憶がない。考えてみればホテルの宴会場なんてみんな天井が高いのだ・・・。ただ、私が育った町には当時まだあのような場所は無かったのではないかなと思う。田舎の小学生的にはそんなことがもの珍しかったのだった。

 結局、大人になってからも、ほとんど御縁はなかった。だいたい、遊び人とか、偉い人やお金持ちでなければ、東京在住なのに東京のホテルに泊まるなんてコトはあまりないのだ。学生なんかじゃホテルで食事をすることも滅多にない。しかし大学卒業記念の謝恩会はなぜかここだった。どうしてそうなったのかは知らない。やっぱりバブルだったのかも。

 写真では塔屋の上からクレーンがちょっとだけ見えているが、これは解体のためのものではない。なぜこの時クレーンがあったのかは不明。

 外国の要人やスターの滞在歴やエピソードには事欠かないホテルだったそうだが、そのへんは検索するとたくさん出てくるのでここでは割愛。そのあたりはWikiその他を見て頂ければ。

Wikipedia - キャピトル東急ホテル
Tokyo Lost Architecture   #失われた建物 千代田区  #ホテル 
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國徳商事

2011-05-14 | 港区   
國徳商事
所在地:港区三田1-9
構造・階数:木造2F
備考 :2007解体
Photo 2006.4.23

 再開発によってなくなった、三田小山町の問屋さん。

 よく見ると、平入り木造2階の一種の看板建築だったことが判る。平入りでやや間口が大きいためか、2F前面には左右にバルコニー状の部分があった。一方、中央のアーチ型装飾の後ろには窓がない。シャッターには車庫とも書かれていたが、もしかしたらシャッターを開けると吹き抜け状の空間だったのだろうか。内部がどのようになっていたのか今頃になって気になる。

 玄関前には植木鉢やプランターがたくさん並べられていた。

 右奥に少しだけ見えているのは東京さぬき倶楽部。現在進行中の、三田小山町西地区の市街地再開発事業に参加しているといわれているので、建築家大江宏設計のこの施設も、あと数年で無くなってしまうのかもしれない。

中央部分を正面から
Photo 2006.4.23

 國澤徳五郎という方が経営していた菓子問屋であることが大書されていた。アーチ部の錆びた四角い鉄板には、國と徳の字が書かれていたようだ。中央には紋章かなにかが掲げられていたのかもしれないが、外されたか取れてしまったかして、U字型のモルタル製草紋様飾りだけになっていた。

 上方右に装飾のようなものが見えるが、実はこれは「會」という文字の上半分。一枚目の写真の左端には「場」の下半分が写っている。写真を拡大してみてみると、上部のこの欄には、右から「合名會社國徳製菓工場」という文字が付けられていたらしいことが、痕跡から判る。昔は問屋ではなく工場だったようだ。

 シャッターには「尊皇民意 立正安國 立憲不二誠統」とも書いてある。立憲不二誠統って何だろう?と思って、ググってみたら、なんと、この國澤徳五郎という方は1960年代に「尊王民意 立正安国 立憲不二誠統」という政党!から、衆議院議員総選挙に出馬されておられました。でもって下位で落選。政党名だったのか・・・。しかしWikiとかGoogleって、ほんと、いろんな検索結果が出てくるなぁ。

 一帯の建物群は、2007年までに全て解体され、跡地にはパークコート麻布十番 ザ タワーという超高層マンションが建設された(2010年完成)。

超高層ビルとパソコンの歴史パークコート麻布十番 ザ タワー
備忘録 > 三田小山町第3・5地区再開発/ツインタワーで1400戸

Wikipedia - 東京都第1区(中選挙区)
Tokyo Lost Architecture   #失われた建物 港区
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立花医院

2011-05-10 | 中央区  
立花医院
所在地:中央区日本橋人形町1-4
建設年:1927(昭和2)
構造・階数:RC2
備考 :1997頃解体か。
Photo 1996.10.6

 袖看板に立花外科とあり、外科医院だったようだ。カーブした壁面を持つコーナー部に小さな植え込みがあり、狭いところにシュロの木が植わっているが、その他は通りに面して敷地いっぱいまで建てられている。2階は少しセットバックしていて、奥行きはほとんどないがバルコニー(ベランダ)になっている。

 屋上のパラペットにはスペイン瓦?が巡らされており、玄関や一部の窓はアーチ型で、更にコーナー部の壁面には紋章のような装飾があった。だが全体に装飾は地味目で、様式的なビルというよりは洋風な個人住宅といった感じだった。

 私がこの建物を見たのはこの写真を撮った一度だけ。それもそのはず、下記サイトの情報によると、1997年頃に取り壊されて1999年にはマンションが建ったのだという。ただ医院自体は建て替えられたビル内で現在も営業しているそうだ。

 立花医院については、下記「ぼくの近代建築セレクション」に詳しく書いてあるので、そちらもどうぞ。

ぼくの近代建築コレクション立花医院/人形町1丁目

 またこの建物は下記の本にも掲載されている。

「下町や東京昭和遠ざかる」村岡秀男著、彩流社、2007、p.72
Tokyo Lost Architecture   #失われた建物 中央区 #病院 
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慶応大学病院別館

2011-05-06 | 新宿区  
慶応大学病院別館
所在地:新宿区大京町30
建設年:1932(昭和7)
構造・階数:RC・3F(一部4Fに増築)
備考 :2009 解体
Photo 2006.2.19(本記事内の写真全て)

 見に行こうと思えばいつでも見ることができたのに、結局いちどだけ外から見て、それきりになってしまった建物。Eの字型になった建物で、3F建て(一部4F)だったが、正面約70m、奥行き約65mと比較的規模の大きい建物だった。

 信濃町の駅から線路沿いに西へ行き、慶応大学病院の西側の裏に回り込むと、3棟の近代建築が並んでいた。別館はその中で最も南側、中央線の近くに建っていた建物。この北側には北里記念医学図書館と、予防医学校舎がまだ残されている。

建物正面中央の玄関部分

 昭和初期に完成した建物だが、モダニズム系のデザインと言ってよいのだろうか。外観にはいわゆる様式的な装飾がない。後年の改築で窓はアルミサッシに替えられており、エアコンの室外機が多数置かれ、その排水パイプが見え、また換気扇のダクトも目立つ。いかにも古い病院、といった感じで、様式的な近代建築のような味わいは残念ながらなかった。装飾がなく機能的な改修などが目立ってしまうのが、モダニズム系の建物の宿命なのかもしれない。

 中央部分には4Fが増築されていたようだ。3Fまでと4Fの窓の様子が明らかに異なるし、また中央の窓の両側に、当初の屋上階(4F)から引かれたと思しき雨樋がある。増築部分を取り去って考えると、更に地味な感じに思えてしまうが・・・。

車寄せ内。天井が一部斜めになっていて、採光窓が付けられている。

 玄関先の造りもモダンな感じ。車寄せの屋根の一部を大きく斜めにして、工場の天井のように採光窓を確保している。だが、解体を前にして手入れがされていなかったのか、塗装が剥げて、なんだか汚く痛々しい感じ。

張出部分がある翼部

 張出部分は恐らく階段室だったのだろう。様式建築なら華やかに飾り立てられるはずのこの部分にもほぼ装飾がない。全体は窓台と庇部分が少し出っ張っていて、それが色違いの帯状になってアクセントになっているが、階段室周囲は各階の庇もない。幾何学的でちょっとロボットチックな印象。

中央正面から

 全体に妙な威圧感というか迫力があったのが印象的だった。シンメトリーでやや規模が大きいことや、商業施設ではなく病院だったからなのかもしれないが、フレンドリーな感じの装飾がなく、素っ気ないデザインに感じられてしまったためかもしれない。

北側側面

 北側の棟の中央部分も 4Fになっていたが、ここは増築だったのかどうか不明。3Fには上向きに斜めになった大きな窓が見えるが、これも内部の様子が分からない。また、表通りに面していない側面は、一層ごちゃごちゃ感があった。

 跡地には新しい病院施設が既に建設されている。ガラス張りで規模も大きくてピカピカ。病院のような施設の場合、古くても良い感じに維持されているならよいのだが、古いばかりで清潔な感じでなく、寒々しく薄暗かったりすると、古い建物を大切にしましょうとは言いにくい。もちろん、外観は古くさくても、内部がきれいで安全で高機能だったら問題はない。だが、そういうコトはあまりなくて、外観がパッとしないと内部もパッとしないことが多い。そういう場合には、建て替えて暖かくきれいにしなければ、環境的にはやはりまずいなぁと思う。とはいっても、毎日ここで働いていた人とかにとっては、愛着のある建物だったのかもしれないが。

ニッポン懐景録新宿区信濃町周辺
近代建築散策慶應義塾大学信濃町キャンパス
都市風景への旅近代建築東京都新宿区大京町
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東京郵政局・関東郵政局

2011-05-02 | 千代田区 
東京郵政局・関東郵政局
所在地:千代田区大手町2-3
建設年:1962(昭和37)
構造 :RC
階数 :8F・12F
設計 :郵政大臣官房建築部・小坂秀雄
備考 :2005年5月~2008年12月の間に解体。現在は更地。
    日本郵政公社東京支社は2005年5月6日に港区麻布台へ移転
Photo 1996.10.10

 官庁系のモダニズムオフィスビル。柱や梁は鉄筋コンクリート打ち放し。3Fから上は庇が張り出していて軒が深く、ちょっと日本建築を思わせる。

 この頃の公共建築にはこのように水平に庇が張り出したものが多い。鉄筋コンクリートのモダニズム建築を日本的に解釈した結果、このようなデザインになったともよく聞く。

 機能面から考えても、軒が深いので窓が濡れないし、夏場の強い日差しが直接内部に入らず、外側に日陰が出来るので、冷房の面でも少し効果があったのかもしれない。雨が多く、夏は日差しが強くとても暑くなる日本の気候を考慮したのかもしれないなとも思う。

 旧郵政省には官庁営繕として設計部署があり、そこに小坂秀雄氏という設計者がいたそうだ。この建物や外務省(1960)は、同氏が郵政省の大臣官房建築部長だった頃の建物。同氏は退官後(株)丸ノ内建築事務所を設立して、逓信ビル(1964)など、多くの公共系建築物を設計したという。ホテルオークラ(1962)もこの事務所の設計だそうだが、言われてみれば、外務省やホテルオークラ、逓信ビルは確かに雰囲気が似ている。

 事務所のHPには、完成当初の写真が掲載されている。これによると、当初の建物は前方の8F建ての部分のみだったようで、後年、12F建ての建物が増築されたようだ。

(株)丸ノ内建築事務所小坂秀雄HP・小坂秀雄の建築東京郵政局

 2011年時点で、この建物の跡地は更地のままになっている。また、写真では見えないが、この後方には似たようなデザインの東京国際郵便局の建物がまだ建っている。しかしこちらも現在は使用されておらず、廃墟状態。将来的には一体的に建て替えが行われるのではないかと思うが、現時点では詳細不明。

Tokyo Lost Architecture   #失われた建物 千代田区  #官公庁  #オフィス 
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