10/03 都立港工業高校
10/09 東京慈恵会医科大学本館
10/12 トーホー薬局(旧 東洋研磨剤)
10/15 横田畳店
10/18 ハウスオブロータス・上田邸
10/21 旧 金山平三邸(T邸)
10/24 目白日立独身寮(旧 学習院昭和寮)
10/27 東京女子医科大学 1号館
10/30 明治神宮外苑水泳場
明治神宮外苑水泳場(神宮プール)
所在地:新宿区 霞ヶ丘町11
構造・階数:RC・3
建設年:第1期 1930(昭和5)、第2期 1931(昭和6)
解体年:2017〜18(平成29〜30)
Photo 2006.2.19
明治神宮外苑水泳場は、1930(昭和5)年5月に開催された第9回極東選手権大会で使用するため、第1期工事が1930(昭和5)年に竣工、大会後に第2期工事が行われ、1931(昭和6)年に全体が完成したという。
1997(平成9)年からは冬期にフットサル競技場として開放したが、老朽化もあり2002(平成14)年12月に水泳場は閉場。2003年からは常設のフットサル競技場「千駄ヶ谷コート」となった。
従って、この写真は水泳場時代ではなく、フットサル競技場の時のもの。またこの頃は写真左側のアイススケート場(1963(昭和38)開場)の入口も兼ねていたので、玄関上部には「明治神宮アイススケート場」の文字がある。
私自身は場内の写真は撮っていないが、下記リンク先では場内の写真を見ることができる。また、かつては中央線の車内から、プールのスタンド部分で日光浴をしている人などがチラッと見えたりしていたのが記憶に残る。
その後、東京オリンピックを前にして同所は再開発されることになり、2017(平成29)年に閉鎖、解体された。
そして跡地には三井ガーデンホテル 神宮外苑の杜プレミアが2019(令和元)年11月に開業した。明治神宮の所有地であり国の場所ではないが、かなり公的な性格の強い場所が純民間の施設になったのと、もともと高さ制限のあった場所の規制がいとも簡単に緩和されて、それを受けた建物が早速建てられたのには違和感が残る。
明治神宮外苑|年表 明治神宮外苑水泳場|東京都立図書館
神宮外苑(昭和5年)▷明治神宮外苑水泳場(1930-2002) | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives
千駄ヶ谷コート - Wikipedia
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 新宿区 #近代建築 #野外劇場・スタジアム #公共施設
タグ一覧
東京女子医科大学 1号館
所在地:新宿区 河田町 8
構造 :RC
階数 :5+R1
設計 :増田清
建設年:1930(昭和5)
解体年:2016(平成28)
Photo 2009.4.18
十字型平面の病院建築。
下記、東京女子医科大学の記事によれば、設計した増田清が機能的で合理的な設計として、日本で初めて「十字放射型病院建築」プランを提案したという。十字放射型プランは、①壁面が多いため多くの窓が設置でき採光や風通しがよい、②エレベーターを用いた効率のよい動線計画が可能、③交差部から各病室への目配りがしやすい、④増築がしやすい、などのメリットがある。
創立者の吉岡彌生は「学校の附属病院は、暗い冷たい部屋が一つもないように、理想的な病院をつくりたいと思い、十字形放射状という面白い設計を選んでみた」と述べていたという。
Photo 2003.9.25
見る方角によっては1枚目のようにシンメトリーになり、両翼が手前に広がる形に見えるが、別の位置から見ると真っ直ぐな建物から出っ張りが手前に出る形に見えるなど、少々意外な見え方をする建物だった。
機能的に当時としては斬新な造りだったのだろうとは思うが、外見だけを見ると十字型が上手く生かされていたのかよく分からない感じに思われた。勝手なことを言ってしまうと、十字のそれぞれの腕(翼部)がもう少し長ければ壮麗で格好良いプロポーションに見えたのではないだろうか。敷地の広さの制約もあるので無理な話ではあるのだが。
Photo 2009.4.18
正面玄関の庇には、校章をモチーフとしたテラコッタ製のレリーフが付けられていた。またその庇から連なる1階と2階の境や屋上のパラペット部分にも、帯状にテラコッタの細長いタイルが張られ、外観のアクセントになっていた。
Photo 2009.4.18
外壁全体はスクラッチタイルだが、1階の壁面には大きめで出っ張りのある他では見掛けないタイルが張られていた。
跡地には2020年に彌生記念教育棟が完成した。新棟には旧校舎にあった特徴的なタイルやアーチ型の窓のデザインが継承されている。
ピックアップ - 東京女子医科大学
施設将来計画-2020年2月完成 新校舎棟 | 東京女子医科大学
新・レトロ建築写真帖 東京女子医科大学病院1号館 (東京女子医学専門学校病院1号館)
うめ日和 | 東京女子医大 1号館 (建築探偵見習日記⑦)
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 新宿区 #近代建築 #大学 #病院 タグ一覧
目白日立独身寮(旧学習院昭和寮)
所在地:新宿区 下落合2-13
構造・階数:RC・2+R
設計 :宮内省内匠寮
建設年:1928(昭和3)
解体年:2018(平成30)
Photo 2004.5.15 上写真は第二寮
日立目白クラブと目白日立独身寮は、もともと学習院の旧制高等科男子生徒向けに建てられた寄宿舎「旧学習院昭和寮」で、戦後の1953(昭和28)年に日立グループが譲り受けたもの。以降、本館は日立目白クラブとしてグループの社員や家族の懇親会や結婚披露宴などに利用され、四棟の寮舎は独身寮として用いられてきた。
本館と舎監官舎(現 別館)は東京都選定歴史的建造物となっており、門衛所も残されている。一方、敷地南側の独身寮はマンション化されることになり、3年前に解体された。
住宅地図で配置を確認したところ、四棟の寮舎は東から第一寮、第二寮で、第三寮は西南端にあり、第四寮は第三寮よりやや東北側にあった。また後年、南側に新しく第五寮と第六寮が建てられていた。当時はあまりその認識がなく本館東裏の第一寮は撮影し忘れ、写真がない。ここでは第二〜第四寮を載せる。
本館同様、寮舎もスパニッシュスタイル。ただ特徴的な瓦屋根は平屋部分にあるだけで、他はみな陸屋根だったようだ。
第二寮 Photo 1995.6.24
建物入口はアーチ型でタイル張り。玄関庇はないが、奥に玄関扉を設けるつくりになっていた。
第三寮 Photo 2010.4.29
かつては敷地内に多くの樹木があり、建物の全景(特に北側)はあまり見えなかった。
第三寮 Photo 2015.12.22
解体の少し前には周囲の木々が伐採され、外周の塀越しでも建物全景が見える状態だった。もしかするとこの頃、既に居住者は退去していたのかもしれない。
第四寮 Photo 2010.4.29
本館西側から敷地奥を見ると、通路の奥に第四寮が見える。
第四寮・南側ファサード Photo 2004.5.15
建物群は落合の高台の南端部の崖上にあり、神田川の流れる谷地に南面した陽当たりのよい場所に建っていた。明るい雰囲気の姿が印象的。
第四寮 Photo 1995.6.24
四つの建物は部分のデザインは同様だったが、内部の間取りが異なっていたのか、外観全体の形は一つずつ違ったものになっていた。
第四寮 Photo 2015.12.22
第四寮は敷地外側の道に近い位置にあったため塀越しにも見えており、解体の少し前には西側側面の全体が見えていた。塔屋と煙突のある様子がよく分かるが、側面だからかでざいんは地味。
日立目白クラブ - Wikipedia
日立目白クラブ/旧学習院昭和寮 - 造形礼賛
目白日立独身寮(旧学習院昭和寮) 新宿区下落合 - 東京ノスタルジア
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 新宿区 #近代建築 #住宅系 #集合住宅 タグ一覧
旧 金山平三邸(T邸)
所在地:新宿区 中井2-13-19
構造 :木
階数 :平屋、一部中2階
建設年:1924(大正13)
解体年:2012(平成24).11
Photo 2006.2.19
洋画家、金山平三(1883−1964(明治16−昭和39))の自宅兼アトリエとして建てられた住宅。
絵画アトリエのある住宅では間接光でアトリエ内を明るくするため、しばしば北側に大きな窓が設けられているが、この住宅もそうで、磨りガラスの大きな開口部が北側にあり、恐らくそこは天井が高くなっていたようだ。
2階建てかそれ以上の高さのある建物だったが、資料によると、基本的に平屋で一部に中2階がある家屋だったという。南側には別の住居があるので、庭の側の様子は分からないままだった。
北側の小窓の下部には煉瓦が積まれていた。全体は洋風だが壁の大半は押縁下見板張り。窓の下にだけ煉瓦積みが見えているのはちょっと面白いスタイル。当初からのものではなく、なんらかの改修をしたときにできたものだったのだろうか。
金山平三が亡くなった翌年の1965(昭和40)年に、妻の金山らくは夫の故郷である神戸市に転居したという。また夫妻には子がなかったそうなので、その後、住んでいたのは、敷地と建物を買い取った方だったようだ。
金山平三 - Wikipedia
旧金山平三邸 新宿区中井 - 東京ノスタルジア
美珍麗・探訪 | 緊急告知・金山平三アトリエが解体!〔東京・中井〕
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 新宿区 #近代建築 #戸建て住宅 #洋館・洋風住宅 タグ一覧
ハウスオブロータス
所在地:港区 元麻布2-11
階数 :2
設計 :白鳳社建築工務所
建設年:1939(昭和14)以前
解体年:2013〜14(平成25〜26)
Photo 2005.5.14
スペイン瓦屋根のスパニッシュスタイルの洋館。1977年の住宅地図では、U.B.House ABBOTTと記載されており、もともとは外国の方が居住していたようだ。
1990年代からは、写真家の上田義彦氏と妻の桐島かれん氏一家が居住していたそうだ。1997年の住宅地図ではウエダと記されている。一家は後に別の場所に引っ越したが、2000年代にはハウスオブロータスという名で、アジア民芸などを時折販売する店を桐島かれん氏が開いていた。
Photo 2005.5.14
日本近代建築総覧では、竣工時期が1939(昭和14)年以前とだけ記されている。ただ下記リンク先の桐島氏による記述では、「当時で築80年は経っていたでしょうか。昭和初期に建てられた美しい洋館・・」とあるので、昭和初期の建物だったのかもしれない。
Photo 2011.3.29
最終的になんらかの事情で建物・敷地は売却され、残念ながら建物は解体された。ただ、2020年時点でも新しい建物は建てられておらず、跡地はコインパーキングとなっている。
港区 - 東日本 近代建築万華鏡
信濃町~麻布十番: 雅万歩
物がたりのはじまり | 桐島かれん Web Magazine “Love of Life”
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 港区 #戸建て住宅 #洋館・洋風住宅 #近代建築 タグ一覧
2021.10.19 追記
本記事掲載後、この建物は戦後の占領期にGHQに接収されていた住宅(House#134)だった、との情報を頂きました。
横田畳店
横田畳店
所在地:港区 三田1-8
構造・階数:木・2
建設年代:震災後〜戦前
解体年 :2007(平成19)頃
Photo 2006.4.23
トーホー薬局の西隣にあった銅板張り看板建築。1階は改修されていたのか古い感じではなかったが、2階壁面は全面が銅板張りだった。
そしてこの建物もトーホー薬局同様、パークコート麻布十番 ザ タワーの建設に伴って、解体された。
パークコート麻布十番 ザ タワー - Wikipedia
國徳商事・ トーホー薬局 - 都市徘徊blog
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 港区 #商業系 #看板建築
#銅板張り看板建築 ブログ内タグ一覧
トーホー薬局(旧 東洋研磨剤)
所在地:港区 三田1-8
構造・階数:木・2
建設年:1931(昭和6)
解体年:2007(平成19)頃
Photo 2006.4.23
一ノ橋ジャンクションの近くにあったタイル張りの木造店舗。もとは別の会社だったようだが、当時のことは知らず。
パラペットと2階の窓台などは石張り(またはモルタル)。窓は縦長で観音開き、木製窓枠のままだったようだ。
この近辺、三田1-7〜1-9にあった家屋群は全て、パークコート麻布十番 ザ タワー(三田小山町第2地区市街地再開発事業)の建設に伴い、2006.4〜2007.10の間に解体された。
パークコート麻布十番 ザ タワー - Wikipedia
國徳商事 - 都市徘徊blog
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 港区 #タイル張り看板建築 #看板建築 タグ一覧
東京慈恵会医科大学本館
所在地:港区 西新橋3-25
構造・階数:RC・3F
建設年:1933(昭和8)
解体年:2017(平成29)〜
Photo 2013.3.29
H型の平面をもつ低層だが大きな建物。外壁はスクラッチタイル張り。他の校舎や病棟、研究棟が多くあるので、街区外側の通りから見えるのは玄関がある北側が中心。
このうち東側はベランダがあり、中央部は壁面にガラス面を合わせた形、西側は庇が出る形で、内部の利用形態に合わせたのか外観が少しずつ異なっている。
Photo 2006.4.15
玄関・車寄せ西側、道路沿いの部分は、各階で連続する庇が回っている。後付けの避難階段やエアコンの室外機・配管があるため整ってきれいな外観とは言えなかった。
病院建築はやはり古いと耐震性、設備、屋内環境に問題がありそうで、古い建物を使い続けるのはやはり困難なのだろう。中庭など緑地があってゆったり安らげる環境が理想だが、都心では土地の高度利用も求められてしまう。そのようなわけで2000年頃から建て替えが検討されていて、他の病棟などを順次建て替えた末、この建物も解体・建て替えとなった。
東京慈恵会医科大学/西新橋3丁目 - ぼくの近代建築コレクション
東京慈恵医科大学本館 - ゆる~り、ゆるゆると~
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 港区 #近代建築 #大学 #病院 タグ一覧
都立港工業高校(旧愛宕高等小学校)
所在地:港区 西新橋3-18
構造・階数:RC・3F
建設年:1928(昭和3)
解体年:2013〜14(平成25〜26)
Photo 2013.3.29 敷地西南側から
都立港工業高校は、東京慈恵会医科大学の北側の一角にあった学校。敷地西側にあった南北に長いRC・3Fの校舎(上写真)は、1928(昭和3)に愛宕高等小学校として建てられたものだったそうだ。港工業高校は1946(昭和21)開設、1948(昭和23)開校という。
2004(平成16)に港工業高校が廃止されてからは、警察関連施設などとして利用されていたという。なお、2007年版のゼンリン住宅地図では建物外形の記載のみで、施設名などの記載はない。
西北側から Photo 2013.3.29
上写真、1928年に愛宕高等小学校として建てられた部分は、各階の庇の下側が曲面になっており、角部分も庇が丸められている。また、窓は縦長で開口部はあまり多くない。
北東側から Photo 2013.3.29
こちら側の建物は戦後、港工業高校になった後の建物だそう。北東側の角は体育館とかだったようだ。
北側道路から東南方向 Photo 2013.3.29
北側道路にはカマボコ型屋根の小体育館?もあったが、こちらも後年の建物。
東南側から Photo 2009.3.31
東南側には他よりは高さのある校舎が建っていた。こちらも後年の建物だったようだ。
都立港工業高校/西新橋3丁目 - ぼくの近代建築コレクション
東京都港区旧愛宕高等小学校(昭和モダン建築探訪) : 関根要太郎研究室@はこだて
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 港区 #近代建築 #学校 タグ一覧