都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

山岡家住宅

2024-07-09 | 港区   
山岡家住宅
所在地:港区 南麻布3-3-33
構造・階数:木・2
建設年:1860(安政7)
解体年:2020(令和2)
備考 :後方の母屋は1933(昭和8)築
    集合住宅「鶯啼居」に建て替え。旧建物の一部を保存復元。
Photo 2011.3.29

 仙台坂上交差点から南へ、薬園坂へと向かう道の途中にあった土蔵造りの家。屋根はトタン葺きだったが、いわゆる店蔵の構えで立派な建物だった。
 この撮影時は隣接地の建物が解体されて更地になっており、後方の建物も見えていた。その時点では奥の建物が通り沿いのものと関連があるのかどうかも知らなかったが、そちらも古そうな木造家屋だなと思っていた。

 正面から。2階には小さな窓が一つあるだけで、これも密閉できるもの。1階はガラス戸の引き戸などで、大きな開口部を持つが、両側の壁は厚い。この界隈では他に同様のものがなく珍しかった。

 南側から見ると、後方の建物は瓦屋根だが洋風下見板張りだったことが分かる。
 きれいに手入れされていたので残り続けることを期待していたのだが、残念ながら2020年に解体された。

 さて、Google Mapでこの場所を見ると、現在も「山岡家住宅」としてピンが建てられている。不思議に思って改めてネット検索したところ、下記の記事やサイトを見ることができた。

山岡嘉彌デザイン事務所
【商人の息づかいを残す】建築家・山岡嘉彌氏に聞く
  旧江戸御府内最古の店蔵保存再生への道 | 建設通信新聞Digital

ザ・AZABU > No.27(2014.3.18)、 No.58(2022.3.17)

 一連の記事によれば、これまで建物を所有して維持していたのは、上記サイトの建築家の方だそうだ。山岡家は近江から江戸に来て、近くにあった仙台藩下屋敷の出入り商人として、薬、米、炭、雑貨などを扱っていたという。かつてはこの道沿いには同様の店が建ち並んでいたというが、次第に減ってしまったそうだ。

 そのような経緯もあって、同氏はこの建物をずっと残して行きたいと考えていたそうだが、近年の台風などで傷みが激しくなって維持が困難になり、建て替えを決断したという。

 通り沿いの店蔵の建物は約160年前に建てられたもので。安政7(1860)年の墨書が残っていたそうだ。店蔵の建物としては、かつての江戸市中エリアに残る最古のものだったという。港区が解体前に行った調査では、部材の多くがもっと前の宝暦年間(1751~64)のものであることが分かったという。山岡家が近江から江戸に来てここに居を構えた時期の建物が、姿を変えてはいるのかもしれないが残されていたようだ。

 また、店蔵の後方の建物は居住棟で、こちらも90年近く前の1933(昭和8)年に建てられたものだったという。

 解体後の跡地には「鶯啼居」(おうていきょ)という5軒からなる集合住宅が建てられているが、上記のような経緯もあったことから、同氏は旧建物の部材などを保存し、新しい建物の1階に一部を復元したそうだ。現在は関係者以外は見ることができないが、かつての建物の部材や施工技術は、将来にも受け継がれていくことになったようだ。

Tokyo Lost Architecture
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キッコーマンビル

2023-08-03 | 神奈川県 
キッコーマンビル
所在地:横浜市中区 海岸通1-1
構造・階数:RC・3
建設年:1929〜32(昭和4〜7)頃
解体年:2000(平成12)
Photo 1989.5.27

 横浜港大桟橋の北西側の海沿い、象の鼻埠頭のそばには同じような規模(3F建て)のビルが3棟並んで建っていた。キッコーマンビルはその真ん中の建物で、両側には昭和ビルと横浜海洋会館ビルがあった。

 通り沿いに長いファサードを持つ横浜貿易協会ビルも含めて、同じような高さ(階数)の建物が並ぶ様子が印象的だったが、なかほどのキッコーマンビルが解体されてしまったため、昭和ビルがひとつだけ離れて残され、連続した街並みが途切れてしまったのは残念。
 ただその代わり、現在は日本大通りから象の鼻埠頭の海が開けて見える状態になり、街と埠頭が一体的になったようだ。跡地に別の建物が建ったりせず海沿いの公園になったのは救い。


 左から昭和ビル、キッコーマンビル、横浜海洋会館ビル  Photo 1989.5.27

昭和ビル/横浜市中区海岸通 - ぼくの近代建築コレクション
昭和ビル - Wikipedia
昭和ビル/キッコーマンビル

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吉原マシン工業/旧東武タクシー

2023-05-21 | 埼玉県  
吉原マシン工業/旧東武タクシー
所在地:川越市 久保町12
構造・階数:木・2
建設年代:大正末〜昭和初期
解体年 :2015〜17(平成27〜29)
Photo 2004.12.3

 かつて東武タクシーの事務所だったらしいモルタル看板建築。社名が2階上部に右から画かれている。下記、『川越の建物 近代建築編』によれば、昭和初期頃までタクシー会社として使用された後、吉原マシン工業となったという。建設年代が大正末〜昭和初期だそうなので、東武タクシーだったのはわずかな期間だったようだ。

 人造石洗い出し仕上げで、ざらざらした壁面に「東武タクシー」の文字や半円が連なる模様がわずかに立体的に画かれていた。窓が凸型だったのも特徴的。

 現在、東武タクシー(株)は東京都墨田区の向島にあり、川越市内には支所などもないようだ。かつて川越にあった写真の東武タクシーと、現在の東武タクシー(株)が同じ会社なのかも不明。

 Google ストリートビューでは、2015年5月時点では存在していたが、2017年3月時点では既に更地になっている。

参考『川越の建物 近代建築編』『川越の建物』編集委員会 編、仙波書房、2021

吉原マシン工業/川越市久保町 - ぼくの近代建築コレクション

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東海軒

2015-04-18 | 静岡県  
東海軒
所在地  :静岡市葵区紺屋町17
建設年  :1929(昭和4)
構造・階数:RC・3F
Photo 1995.4.15

 静岡駅前の国道一号線沿いに建っていた、駅弁の東海軒の本社ビル。2007年1月で閉鎖。同年5月に解体され、跡地には紺屋町再開発ビル(葵タワー)が建設された。

 1階は店舗と工場、2階は工場と事務所、3階は社員食堂などとして使われていたという。写真でもなんとなく分かるが、当初は角部分のみが3階建てだったらしく、後年、全体を3階建てに増築したという。

流れ星コレクション失われた名建築(中部1)東海軒

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有楽町 三信ビル

2006-02-18 | 千代田区 

 皇居前に行ったあと、更に足を伸ばして夕暮れの中、三信ビルへ。拙HP内のTokyo Lost Architectureでも、三信ビルは既に取り上げているが、テナントの多くが撤退を始め、いよいよかという雰囲気になってきたので、改めて見に行ってみた。

 やはりこちらも玄関先に「テナントの迷惑になりますから写真撮影はお控え下さい」と書いてあった。新聞などで取り上げられたこともあって、土曜の夕暮れにも関わらず、次々に見学者が訪れている。丸ビルもそうだったが、この建物も多くの人に愛されたビルだったに違いない。ただ三信ビルの場合、そこで働いていたという人だけでなく、アーケードの美しさに惹かれて何度も訪れる人が多い気がする。男性に連れられてやってきた女性が、アーケードに入るなり上を見上げ、うわぁきれいと、感嘆の声を上げる。古くても良いものは良い。

 この建物についても、老朽化、耐震性の不足が言われて建て替えが決定しているが、やはり企業的には土地の有効活用が建て替えの実質的な目標であろう。現行の制度下では、残す手だてはやはりないのかなぁと、これまた残念。

 今回はHPでは取り上げていない部分を少し。まずは外観から。

所在地:千代田区有楽町1-4
建設年:1929(昭和4)
構造・階数:SRC・8F+B1F
設計 :松井貴太郎(横河工務所)
備考 :2004建て替え決定
Photo 2006.2.4

 左は建物の北側の様子。あまり北側の写真は見かけないし印象もなかったのだが、改めて見てみると横連窓のモダンなファサードになっている。その部分だけ出っ張っていたりして、もしかすると増改築等をしたのかもしれない。この建物の歴史を詳細には知らないのでその辺は不明だが、北側の採光を良くするために、最初から横連窓で窓を大きく取っていたとしたら、なかなか先進的な建物だ。

 右は西側の玄関部分。昔より道路際の階段の段数が増えていると、昔を知る人が言っているそうだ。道路の方が地盤沈下したためかもしれない。たしかに基壇部分がやや不自然である。

壁面詳細

 1、2階の壁面に貼ってある石板は、それぞれ4本のボルトで留められている。ウィーンにあるオットーワグナー設計の郵便貯金局他でもパネルがボルトで留められたりしているが、ちょっとそれに似ている。

 さて内部を改めて見る。何度来てもいろいろ発見があるが、今回は通路上部の装飾。

エレベーターわきの通路上部の装飾

 アーチ型の中に、鳥が羽を少し広げて通路を見下ろす形の紋章が付けられている。アーケードのアーチ部分にも鳥の彫像があるが、現代の建物にはこのような装飾はあまり付かないので印象深い。再開発建物にも、このようなディテールを是非存続させて活かして欲しい。

三信ビル その1 その2 その3 その4
2007.1.20の様子(追記)
Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 千代田区  #近代建築  #昭和戦前期 #松井貴太郎(横河工務所) 
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早稲田大学大隈講堂 その4

2006-02-16 | 新宿区  

 41さんから大隈講堂に関する情報を教えて頂いたので、画像と併せて追加。

 1月21日の記事で、謎とした門扉のAの字は、WASEDAの6文字の内の一つでした。大隈講堂正面には3つのアーチがあって、それぞれに2枚ずつ計6枚の鋳鉄製の門扉があるのですが、それらに一文字ずつが記され、全体でWASEDAとなっているのだそうです。また門扉の多数の十字状の模様は、大隈家の家紋である「裏梅剣花菱」という紋をモチーフとしているのだそうです。

 大隈講堂については大学発行の早稲田ウィークリー内の記事にもいろいろ載っているので興味のある方は御覧下さい。

大隈講堂玄関より西早稲田キャンパス
Photo 2006.2.15

 「裏梅剣花菱」をアレンジした門扉の模様がシルエットになって、向こう側には西早稲田キャンパスの建物群が建ち並ぶ。この門扉は正面に向かって左側の2枚。WASEDAのWとAが中央に入っている。たまたま入学試験だったため、キャンパス入口にはフェンスが張られていた。

大隈講堂玄関ホール

 大講堂は最後部がカーブを描いているので、玄関ホール側の壁面(写真右側)もカーブしている。

大隈講堂1階客席最後部

 玄関ホールから大講堂内に入ってすぐの場所は、2階客席があるため天井が低い。しかしそこには流線型のカーブを描いたちょっと幻想的な天井がある。

1階舞台袖から大隈講堂客席

 天井や壁が3次元的にカーブしており、全体に卵形をしている大講堂。天井にちりばめられたダウンライトが星のよう。

大隈講堂2階客席最前部

 2階客席も優美なカーブを描いて並んでいる。

大隈講堂時計塔

 大隈重信候が人生125歳説を唱えたのに因んで、大隈講堂時計塔の高さは125尺(約38m)で設計された。2007年には早稲田大学は創立125周年を迎える。

 さて別件情報ですが、大隈講堂のそばには、第二学生会館の跡地に大隈記念タワーが最近竣工しました。大隈講堂が早稲田の最初の125年に因んで125尺の高さであることを受けて、大隈記念タワーは大学の次の125年の発展を期待して、もう125尺高い250尺(75.75m)の高さになっています。この件については、またその内に。

早稲田大学大隈講堂 その1
早稲田大学大隈講堂 その2
早稲田大学大隈講堂 その3


#古い建物 新宿区  #早稲田大学  #大学  #塔 
#映画館・ホール 
#佐藤功一  #佐藤武夫  #近代建築  #昭和戦前期 #重要文化財 
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丸ノ内八重洲ビルヂング2

2006-02-15 | 千代田区 

 昨日のつづき

 正面玄関から扉を開け、玄関ホール内に入ってみる。1階ホールが思いのほか立派だったので、急に写真を撮りたくなってしまった。警備員さんに尋ねたところ、撮影禁止とのことだったのだが、ちょっとだけノーファインダーで撮らせて頂いてしまった。

 建築史家の藤森照信先生が、以前にどこかの本で「門が開いていたら入っても良いと解釈する。何か言われたら、おとなしく退出する」と書いておられた。今回のような場合は・・・微妙だなー。しかもここに公開するのは更にまずいのかな?。

 関係者の方、防犯上等の問題があったら削除いたしますが、せっかくの文化財級の建物ですので、記録として残す意味での公開をお許し下さいませ。

八重洲ビルヂング 玄関ホール
Photo 2006.2.4

 正面玄関を入った先には、エレベーターホールと二つの階段室につながる正方形のホールがある。アールデコ系らしく、幾何学的な模様を施した格子天井が印象的。柱ががっしりしていて安定感がかなりある。

 守衛室のそばのガラスも、派手ではないがステンドグラスになっている。

 階段室もゆったりとしていて、オフィスビルだが上品な感じ。

 エレベーターホール付近。ホールの入口にはクラシックな時計が下がる。

 正面玄関内側。黒く重厚な金属製の扉が歴史を感じさせる。

西側の古河ビルとの間の様子

 建物は西側へ通り抜け可能。八重洲ビルの東側玄関から入ってホールを通り、まっすぐ西側へ抜け、古河ビルの裏口から入り、西側正面から出ると丸の内MY PLAZAになる。

 なお「デジカメ散歩」というサイトには、丸ノ内八重洲ビル・内部として、もう一歩踏み込んで撮られた写真があります。また昨日も記した「秋葉OLの楽しみ探し」内の「哀愁ビルヂング【みつびし篇】」には地下の探索写真が・・・。うーむ、かなりディープです。

 しかしこのような昭和初期の上質な本物のオフィスを壊して、レプリカで明治の三菱一号館を復元するというのが、どうも解せない。超高層オフィスを造りたいのならむしろ、80年近くを経てなお現存する八重洲ビルをうまく残しつつ、周辺を再開発すれば良いのではないだろうか。

 会社として三菱一号館を大切に思う気持ちは理解できる。部材もある程度は保管されているようだ。だが同じように丸ノ内八重洲ビルヂングを大切にはできないのだろうか? 一号館の方は全て煉瓦造で元通り造れるわけでは当然ないだろう。内部の間取りが忠実に復元されるかどうかも怪しい。それなのに文化財級の「本物」である八重洲ビルの方を壊すという。オフィスとして、一号館は現代的にはうまく使うことができないだろうが、八重洲ビルは現役であり、今後も使うことができなくはない。なにか矛盾している気がする。

 そう考えると、一号館の復元は実は単なる話題作りであって、客寄せの道具みたいな気がしてしまう。開発の罪滅ぼしをして、文化に貢献している素振りを見せてはいるが、実際は文化財の保存には関心があまりないのだとしたら、やや行いに品がない気がする。

 「まちもり通信・伊達美徳サイト」でも、「街はお遊びテーマパークか」として、一号館の復元をコピー建築によるテーマパーク化と批判している。

 実はかなり前に、担当者から当時の「丸ノ内マンハッタン計画」の説明を受けたことがある。自らの計画の説明には熱心だったが、性急な開発行為に対する素朴な疑問に対しての、情報の公開、正面からの回答はなかった。そして裏では、人々は何も分かってない、理解して貰えないとこぼしていた。場所が場所だけに日本のためにも東京のためにも有効活用しなければならない、他の地域との競争のためにも、丸ノ内の建物のほとんど全てを超高層に、という態度は一貫していた。

 また20年ほど前に、会社説明会の席上で「丸の内に多くの不動産を所有しているので、会社としての最大の業務目的は、現有資産の最大限の有効活用(つまり容積率のボーナスを獲得して超高層ビルを建設し、床面積を最大にして利益を確保する)であり、それ以外には実質的には関心がない」という正直な考えを聞かされたことがある。民間の不動産経営である以上、その辺は譲れない線であることは承知しているが、他の意見や疑問を顧みず聞く耳を持とうとしない姿勢と、理解を得るための情報公開を拒む姿勢に相当失望した記憶がある。

 同じことをするのであっても、建物の保存ができない理由や、開発が必要な理由をもっと丁寧に説明し、疑問に答えた方が、より多くの人に理解して協力して貰えるのではないだろうか。オフィスビル街であり、居住人口はほとんどいないが、なんといっても日本の中心地東京の駅前であり、民有地といえども公共性は高い。いくつかの検討案を公表し、広く意見を聞き、その上で地区計画を練っていくようなPublic Involvementのような手法が取られるべきではなかったか。行政により義務づけられた形式的な地元説明会を行い、既決定の計画のみを説明し、既に他には選択肢が無いとだけ宣言することで良しとするのは、やはり頑なな姿勢である気がする。

 日本建築家協会から保存要望書が出されたりしたのも、性急な開発に対する疑義だろう。保存に対する検討や熱意が足りないのではないかと周囲は考えている。

 マンハッタン計画発表当時、まるで墓石が建ち並ぶような計画概略図を見て、げっ、と思わず失笑していたが、いまではそれがほとんどそのまま実現しつつある状況。丸ノ内仲通りをブランドストリート化する計画も、粛々と実行されてほぼ実現した。疑問、怒り、哀しみ、その他もろもろの感情を通り越して、ただ呆れるというのが正直なところ。・・・やっちまったんですね。

 でもこんなこと書いていても、建物ができてしまえば見に行くし、それらを使ってしまう。私も「取り込まれてしまっている罪深い人」なのです。ああ。

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区  #近代建築  #昭和戦前期 #オフィス 

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丸ノ内八重洲ビルヂング1

2006-02-14 | 千代田区 

 丸ノ内八重洲ビルヂングに改めて久々に行ってみた。ちょこちょこ読ませて頂いているblog「秋葉OLの楽しみ探し」において、「哀愁ビルヂング【みつびし篇】」として取り上げられたのを見てからどうも気になっていたのだ。拙HP内のTokyo Lost Architectureでも紹介してはいるが、簡単な記述に留まり、外観のワンショットしか撮っていなかったのが気がかりだった。丸の内の一連の再開発によって取り壊される予定だとされる建物で、もう一度見るなら今のうちかと思い、再訪した次第。

八重洲ビルヂング
所在地:千代田区丸の内 2-6
建設年:1928(昭和3)
構造・階数:SRC・8F
Photo 2006.2.4

 八重洲ビルヂングは、北東の角に可愛らしい塔屋が付いている8階建てのオフィスビル。東側と北側が道路に面しているため、全景は東北側から撮ることになるのだが、朝寝坊の私はいつも逆光になってしまう。分かっていながら今回もまた同じ失敗を繰り返してしまった。トホホ。

 建物は暗褐色の石材が配された基壇部と、装飾がほとんどなくモダンなボディ部分、アーチ型の小窓と塔屋が載る上層部、というように3段階に分かれており、アールデコ系の様式を用いたオフィスになっている。

 容積率制へ移行する前に建設された周辺の他のビルと共に、100尺規制を受けているため、軒高が揃っておりオフィス街らしい雰囲気が感じられる。やや殺風景なオフィスビル群の街並みの中で、八重洲ビルの塔屋は彩りを与えるアクセントになっている。

 塔屋には小さなバルコニー状の張出がある。窓を開けてバルコニーに立ったりできるのだろうか? アーチ型窓の上部両側には×印のマーク。頂部には旗の掲揚塔のようなポールが付く。窓からは蛍光灯の明かりが漏れる。塔屋の下の部屋はどのようになっているのだろうか? 気になる~。

東側の正面玄関

 基壇部はどっしりとした大きな石材で造られ重厚。一階には大型のアーチ窓が連なる。

玄関上部

 アーチ型の格子天井と草柄のレリーフ。オフィスのためか装飾はあまり派手ではなく、どちらかといえば地味。

 さて、訪れたのが土曜日だったので、街には買い物や見物の人がそれなりにいたが、ビルのほうはひっそり。だが正面玄関が開いていたので、意を決して恐る恐る扉を開け中へ。

 というところで続きはまたこんど

Tokyo Lost Architecture   #失われた建物 千代田区  #近代建築  #昭和戦前期 #オフィス 
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昇降機を体験する

2006-02-01 | 中央区  

 昔風のエレベーターって良いよなー、と思っていたら、銀座一丁目にある奥野ビルで、すごいエレベーターに遭遇。エレベーターというより「昇降機」と呼ぶべきかも。

一階乗降口
Photo 2006.1.28

 半円形の針式の階数表示板がなかなか魅力的です。階を示す針がちゃんと動いているのは、ちょっと感動的ですらあります。ただし2~5階へ行く場合は階段を使うようにと注意書きがあり、階数表示板の文字も1,6,7だけが白くなっています。昨日の高島屋とは全く異なり、1階の扉は素っ気なくて倉庫の扉みたい。あれ、取っ手がついてる?!

 偶然、使っている人を見たので、後で見よう見まねで乗ってみました。まず、釦を押して篭を呼びます。篭が所定の位置に停止したら、手で外扉の引き戸を開け、続いて内扉の蛇腹を開けますが、これは結構力が要ります。しかも開けたそばから2つの扉がバネで閉まろうとするので、挟まれそうになります。

エレベーター内部
Photo 2006.1.28

 定員4名です。釦の上にある注意書きを良く読みましょう。

(1)停止階確認の上、外扉及び内扉を開き、篭の中に乗り、外扉及び内扉を完全に閉めてください。(乗り方にも注意が必要ですが、その注意書きが篭の中にある! →杣辺様の御指摘により、1階扉脇にも注意書きが書かれていることが分かりました。注意書きは篭内だけではなく外にもある、と訂正致します。)
(2)全自動制御方式ですので、行先階の釦を押せば行先階で自動的に停止します。
(3)降りたら必ず、内扉及び外扉を完全に閉めて下さい。閉め忘れますと、他で呼ばれても動きませんから十分注意して下さい。
(4)途中で停止した場合、内扉が開いていないか確認し、もう一度行先階の釦を押し直して下さい。
(5)停電又は故障で止まった場合は、あわてずインターフォン呼び釦を押して、外部に連絡してください。

 よく注意書きを読まずに乗ってしまいましたが、途中で止まることもたまにあるってことでしょうか?。止まらなくて良かった。ホッ。

 行き先階の釦は1Fと7F、そしてなぜか下の方に6Fがあります。外の扉と篭の扉をきちんと閉めて、目的階の釦を押すとようやく動き出しますが、動き出しは多少ぎこちなくガクンとなり、また停止の際は不意にストンと止まります。行先階でずれずに止まるかすごく不安。行先階に着いても扉は自動では開かないので、止まったらおもむろにまた二つの扉を手で開け、外に出たらちゃんと閉めます。

七階乗降口
Photo 2006.1.28

 一つ一つ指さし確認をして、一息つきながら乗る感じ。でもこれ、素晴らしく良いです。昇降機ってこういうものなのね。いかに現代のエレベーターが自動制御で無機質に動いているかを、逆に認識することができます。黙って上下に連れて行かれるのでなく、操作してようやく動いて貰っている感じ。頑張ってね、よしよしってな感じで、到着するととても嬉しい。こんなものが都心にまだあったなんて、かなり感動いたしました。

 東京都心で古めかしいエレベーターに遭遇したので今回は喜んでしまったが、10年以上前に、ロシア沿海州のハバロフスクにあるホテルで、似たようなエレベーターに乗ったことがある。これはかなりバカなエレベーターだった。釦を押して篭を呼ぶのだが、各階の壁には上下方向の釦はなく、篭を呼ぶだけの釦が一つ。複数の階で呼ばれた場合、最初に呼ばれた階に行ってしまい、更にそこで乗った人が押した階へ行ってしまう。二番目に呼んだ人は、最初の人が目的階に着くまで待たされる。うまく篭に乗れても、行き先は一つしか設定できない。1階で乗って最初に4階を押してしまったら、後から2階や3階を押しても、無視されて4階に連れて行かれてしまう。とにかく単細胞で使うのが面倒になるエレベーターだった。

 そういえば、パリの小さなホテルでも扉が手動のエレベーターに乗った。パリの古いアパートメントでは、建設当初はエレベーターが無くても、階段室の吹き抜けに後から設置したりしている。古いフランス映画などに出てくるような、自らの手で扉をガチャガチャ開け閉めするタイプで、奥野ビルのもこれに似ている。降りた後ちゃんと閉めないと、他の階の人が呼んでも動かないため、しばしば「おーい、ちゃんと閉めてくれないから動かねーぞ!」みたいなことを、他の階の人が吹き抜けを通して叫んでいた。

 もうひとつ、ドイツのシュトゥットガルト市役所で、とんでもないエレベーターに乗ったことがある。自動車のタワー式立体駐車場で、ゴンドラがタワー内を回転しながら上下するものがあるが、あれの人間版。しかもゴンドラが常時動いていて全く停止しない! スピードの速い観覧車に乗り込んで、途中で降りるような感じ。各階の壁には二つの「穴」が開いていて、左の穴では下から上にゴンドラが動いていき、右では逆に上から下へ動いていく。人は動いているゴンドラに飛び乗って、目的階で同様に飛び降りる。ゴンドラのスピードが結構速いので、乗り降りに相当覚悟が要る。ゴンドラの床と階の床が一致してから足を踏み出すのでは遅いぐらい。タイミングを間違えると、ゴンドラと壁の間に挟まれてしまいそうでかなり怖い、というか相当危険。初めての人は怖くてうまく乗れないし、目的階でうまく降りられず通り過ぎてしまう。よくこんなものが市役所で平然と動いているものだと、とにかく驚いた。乗るも乗らないも自己責任ってことなんだろうな。

 世界的に見れば、こういうオールドスタイル・ローテクのエレベーターなどはかなり多いのかも知れない。日本はとにかく電子システムで急速にエレベーターテクノロジーも進化して、安全で静かで速く揺れもなく、というのが追求されて、それが全国で当たり前になっているけど、そういう状況の方が特殊なのかも。中国のアパートは、8階建てまではエレベーターをつけないことになってるらしいし。

#古い建物 中央区  #近代建築  #昭和戦前期 #EV・ES 
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上に参りま~す。

2006-01-31 | 中央区  

 30年ほど前まではデパートのエレベーターには、エレベーターガールのお姉さんが乗っていた。エレベーターが自動化して、一般人にも操作できるようになったこと、また経費削減もあって、エレベーターガールのいる所はかなり少なくなった。大きなデパートで沢山の客を効率よく運ぶために乗員を残すとか、展望塔などで案内、解説のために乗員を付ける所ぐらいだろうか。私がエレベーターガールに「興味を持つ」頃には、既にそういう存在自体が、絶滅危惧職業?になりつつあったのでした。

日本橋高島屋エレベーター・1F
Photo 2006.1.27

 日本橋高島屋には名物エレベーターがある。私も小さい頃、両親に連れられて上京し、高島屋のエレベーターに乗ったことを、はっきりと記憶している。もうほとんど文化財のような半手動式のクラシックエレベーター。金色の金具が複雑に組み合わさった、シャッター状の扉が美しい。開閉時にジャラジャラ鳴る金属音もなんだか高級感があって、静岡のデパートにもこんなエレベーターがあったら良いのになぁと、憧れたもの。エレベーターのドアなんて単なる機械なんだが、その開閉の仕組みを芸術的に見せて、客を魅了するあたり、さすが昭和初期の消費と娯楽の殿堂。

 「建築探偵術入門」(文春文庫ビジュアル版、東京建築探偵団、1986)を見ると、高島屋は昭和8年(1933)建設で、当初はアメリカ式のオフィスビルとして建てられたという意外な経緯を持つらしい。修繕はされているのだろうが、エレベーターも70年以上経っているはず。エレベーター周辺のデザインはアールデコ系かな。

 エレベーターの中から、ドアの開閉の様子を動画で撮りたかったのだけど、混雑して撮りにくいのと、買い物もしないで、そこまでやる度胸というか、図々しさ?はまだ持ち合わせていないので、これは今後の課題。

日本橋高島屋 吹き抜けと正面奥のエレベーター
Photo 2005.6.12

 正面入口から入ると、吹き抜けの向こう正面に6台が並ぶさまも、堂々としている。

 建物のデザインの端々にはなぜか日本的要素が入っていて、例えば吹き抜け天井を支える柱の頂部には、石造の肘木(ひじき)と斗があり、寺院建築の組物のようになっている。

日本橋高島屋 屋上
Photo 2005.6.12

 屋上階のエレベーターホールを見ても、寺院の折り上げ天井のようになっているし、長押に相当する部分には釘隠のような金物が付いている。石を貼っている所なので、本来は釘隠は必要ないのだが。

 さてさて、世の中には「エレベーター萌え」なお方もおいでなようで、その名も「エレベーター通信-エレッツ-」なるHPがある。最新型のエレベーターの技術云々より、Old Styleなエレベーターを愛でる系のサイト。おお、日本にもこんなエレベーターがまだあるのね。(残念ながら無断リンクはダメらしいので、検索して御覧下さいまし)

 ところでエレベータ? エレベーター? 英語綴りはElevatorですが。エスカレーター、コンピューターも同様ですね。日本語の場合、市民権を得ると長音が無くなるという話を聞きましたが。皆さんはどちら? 日本エレベータ協会三菱エレベーター東芝エレベータオーチスエレベーター・・・。業界内でも統一はされてないみたいです。

 大学生相手に教えていると、エスカレーターとエレベーターの違いが判らん学生が意外に多い。どっちが自動階段を指す言葉なのか判ってないのだ。おいおい、頼むよ。乗ったことがないわけじゃないのでしょう?。エスカレートするっていう言葉もあるでしょ。エレベートしちゃったら変なんだから・・・。

 余談ついでにもう一つ。予備校時代に信州の田舎出身の友人がいた。彼の実家の方には、高層建物がほとんど無かったため、東京に出てきて、エレベーターに頻繁に乗るようになっても、なかなか慣れないという。発進、停止時の加減速が気持ち悪いとのたまう。未開社会の種族の人が東京に来て、エスカレーターに巧く乗れないのとちょっと似てる。都市生活にはいろんな意味で、本来はいらんスキルが必要なのかも知れない。そして見えないストレスも多いのかも。

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コメント (7)
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