都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

東京女子医科大学 1号館

2021-10-27 | 新宿区  
東京女子医科大学 1号館
所在地:新宿区 河田町 8
構造 :RC
階数 :5+R1
設計 :増田清
建設年:1930(昭和5)
解体年:2016(平成28)
Photo 2009.4.18

 十字型平面の病院建築。
 下記、東京女子医科大学の記事によれば、設計した増田清が機能的で合理的な設計として、日本で初めて「十字放射型病院建築」プランを提案したという。十字放射型プランは、①壁面が多いため多くの窓が設置でき採光や風通しがよい、②エレベーターを用いた効率のよい動線計画が可能、③交差部から各病室への目配りがしやすい、④増築がしやすい、などのメリットがある。
 創立者の吉岡彌生は「学校の附属病院は、暗い冷たい部屋が一つもないように、理想的な病院をつくりたいと思い、十字形放射状という面白い設計を選んでみた」と述べていたという。


 Photo 2003.9.25

 見る方角によっては1枚目のようにシンメトリーになり、両翼が手前に広がる形に見えるが、別の位置から見ると真っ直ぐな建物から出っ張りが手前に出る形に見えるなど、少々意外な見え方をする建物だった。

 機能的に当時としては斬新な造りだったのだろうとは思うが、外見だけを見ると十字型が上手く生かされていたのかよく分からない感じに思われた。勝手なことを言ってしまうと、十字のそれぞれの腕(翼部)がもう少し長ければ壮麗で格好良いプロポーションに見えたのではないだろうか。敷地の広さの制約もあるので無理な話ではあるのだが。


 Photo 2009.4.18

 正面玄関の庇には、校章をモチーフとしたテラコッタ製のレリーフが付けられていた。またその庇から連なる1階と2階の境や屋上のパラペット部分にも、帯状にテラコッタの細長いタイルが張られ、外観のアクセントになっていた。


 Photo 2009.4.18

 外壁全体はスクラッチタイルだが、1階の壁面には大きめで出っ張りのある他では見掛けないタイルが張られていた。

 跡地には2020年に彌生記念教育棟が完成した。新棟には旧校舎にあった特徴的なタイルやアーチ型の窓のデザインが継承されている。

ピックアップ - 東京女子医科大学
施設将来計画-2020年2月完成 新校舎棟 | 東京女子医科大学
新・レトロ建築写真帖 東京女子医科大学病院1号館 (東京女子医学専門学校病院1号館)
うめ日和 | 東京女子医大 1号館 (建築探偵見習日記⑦)

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 新宿区  #近代建築  #大学  #病院  タグ一覧
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東京慈恵会医科大学本館

2021-10-09 | 港区   
東京慈恵会医科大学本館
所在地:港区 西新橋3-25
構造・階数:RC・3F
建設年:1933(昭和8)
解体年:2017(平成29)〜
Photo 2013.3.29

 H型の平面をもつ低層だが大きな建物。外壁はスクラッチタイル張り。他の校舎や病棟、研究棟が多くあるので、街区外側の通りから見えるのは玄関がある北側が中心。
 このうち東側はベランダがあり、中央部は壁面にガラス面を合わせた形、西側は庇が出る形で、内部の利用形態に合わせたのか外観が少しずつ異なっている。


 Photo 2006.4.15

 玄関・車寄せ西側、道路沿いの部分は、各階で連続する庇が回っている。後付けの避難階段やエアコンの室外機・配管があるため整ってきれいな外観とは言えなかった。

 病院建築はやはり古いと耐震性、設備、屋内環境に問題がありそうで、古い建物を使い続けるのはやはり困難なのだろう。中庭など緑地があってゆったり安らげる環境が理想だが、都心では土地の高度利用も求められてしまう。そのようなわけで2000年頃から建て替えが検討されていて、他の病棟などを順次建て替えた末、この建物も解体・建て替えとなった。

東京慈恵会医科大学/西新橋3丁目 - ぼくの近代建築コレクション
東京慈恵医科大学本館 - ゆる~り、ゆるゆると~

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#失われた建物 港区  #近代建築  #大学  #病院   タグ一覧
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名倉病院

2019-10-14 | 千代田区 
名倉病院
所在地:千代田区神田駿河台 4-2
建設年:1931(昭和6)
構造・階数:RC・3F
解体年:2003(平成15)頃
備考 :2006(平成18)に高層ビル(17F)が完成。
Photo 1995.6.3

 御茶の水界隈にはなぜか病院が多い。東京医科歯科大学、順天堂大学病院、日大病院、三楽病院、杏雲堂病院、同和病院、そしてこの名倉病院。スクラッチタイル張りの比較的モダンな形をした端正な建物だった。

 正確な解体年は把握していないが、新しいビルは2004年3月着工とのことなので、恐らくその前年に解体されたのではないかと思う。

 大学生の頃、三楽病院や杏雲堂病院が次々に建て替えられ、この界隈の雰囲気もかなり変わってきた。名倉病院は御茶の水に残る最後の近代建築病院だったが、都心で低層の病院を維持するのは、資産的にも設備的にも大変な時代なのかもしれない。

 新しいビルの玄関まわりには旧ビルで用いられていたスクラッチタイルが貼られている。またこの新しいビルでは1Fのみが診療所(名倉クリニック)で、上層階はオフィスや賃貸住宅になっているそうだ。

廃景録名倉病院
名倉病院/神田駿河台4丁目 - ぼくの近代建築コレクション

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区  #病院  #近代建築 
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同和病院

2019-09-14 | 千代田区 

同和病院(旧東京医師会館)
所在地:千代田区神田淡路町 2-8
建設年:1929(昭和4)
構造・階数:RC・5F
解体年:1998(平成10)
Photo 1995.6.3

 急傾斜の瓦屋根が目を引く。玄関のステンドグラスが綺麗だった。背面にも個性的な窓が並んでいた。


 建物裏側 Photo 1995.7.22

 屋根裏状になった部屋があったのか、高窓があったのか分からないが、小屋根が付いていた。スクラッチタイルとスペイン瓦が印象的。


 Photo 1995.6.3

廃景録同和病院
ぼくの近代建築コレクション同和病院/神田淡路町2丁目

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区  #病院  #近代建築 
2014.6.16
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聖路加国際病院

2019-07-20 | 中央区  
聖路加国際病院
所在地:中央区明石町10
建設年:1929(昭和4)
構造 :SRC
階数 :6F・B1F・塔屋
備考 :中央部のチャペル棟を残して建て替え
Photo 1988.2.28

 隣接地と共に再開発され、大半が建て替えられたが、中央部のチャペルと塔屋は保存された。両翼部も高層化することはなく、ボリュームの雰囲気は残されている。ただ多少凹凸が少なくなり、ややペラッとした印象になった気がする。


 改修後の様子 Photo 2001.4.22

Wikipedia > 聖路加国際病院

ぼくの近代建築コレクション
  聖路加国際病院(南面)/中央区明石町
  聖路加国際病院(聖ルカ礼拝堂)/中央区明石町

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #古い建物 中央区  #近代建築 
#病院  #塔 
2007.2.25
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東大病院分院

2019-04-30 | 文京区  
東大病院分院
所在地:文京区目白台3-28
構造・階数:RC・3F
解体年:2010〜11(平成22〜23)
備考 :2001.6 閉鎖
Photo 1997.6.1

 東大病院分院は、文部省の医術開業試験場として1908(明治41)年に目白台に移転して来たそうだ。1917(大正6)年に東京帝国大学へ移管され、医科大学附属医院分院となったそうだが、建物の建設年など沿革の詳細はネットでは分からなかった。

 日本近代建築総覧にも載っていないので、建物の建設年代は不明。ただ、スクラッチタイルを使った外観などから考えると戦前の建物だったのではないだろうか。

 2002年に訪れたら、門が閉まっていて中には誰も居なかった。門の脇の守衛室も閉じられ、傍らには分院の閉鎖を告げる貼り紙があった。


正門わきの守衛室  Photo 2002.6.10

 病院としては閉鎖されたが、その後、2009年1月末頃までは、まだ建物等は残存していた。
 しかし、2010年3月に再訪したところ、写真の本館や正門、守衛室などを残して、他の建物群は全て解体されていた。この時点頃までは跡地の利用法が決まっていなかったようだ。

 その後、跡地に東京大学目白台国際宿舎(仮称)が造られることが決まり、2017年頃から建設工事が始まった。現状は把握していないが、ネット上の情報では、2019年2月時点ではまだ建設工事が続いているようだ。

 また、現在も正門わきの守衛室や塀は残されているようだ。この感じだと新しい建物が完成した後もこれらは残されるのかもしれない。


2022.8.25追記
 跡地には2019(平成31)に目白台インターナショナルビレッジが完成。正門わきの守衛室や塀は保存された。

東京大学医学部附属病院
東京大学医学部附属病院分院跡地(目白台国際宿舎)を見てきたよ! | 護国寺ナビ

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2022.10.20追記
 国土地理院の空中写真で確認したところ、およそ以下のことが判明した。撮影年に幅があるので正確には分からないが、中央部分と東側は、戦時中か戦後すぐの頃に完成したようだ。また、1枚目写真の左側部分は、昭和30年代までに完成したようだ。

 1936〜42年頃 本館の建物なし。
 1945〜50年  中央部と東側部分が完成済み
 1961〜69年  西側部分も完成済み

コメント (2)
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永寿総合病院

2019-04-16 | 台東区  
永寿総合病院
所在地:台東区元浅草2-11
構造 :RC
階数 :6F+B1F(当初は5Fで、6Fは後年の増築)
建設年:1928(昭和3)
解体年:2002(平成14)
備考 :1956、1960に増改築されている。
Photo 1992.8.13

 浅草通りと清洲橋通りの角に建っていた建物。もともとアパートとして建てられたものが転用されたそうだ。角地に建っていたので存在感があったが、外観上は華やかな意匠は見受けられない。病院としてみた時、確かに古い感じではあったが、70年も前の建物には見えなかった。


2022.10.10追記
 1953(昭和28)年発行の火災保険特殊地図で確認したところ、この時点では日本水産KKで5F建てだった。この建物、アパート→オフィス→病院と用途が替わったようだ。また『日本近代建築総覧』には増改築の時期だけが記されているが、当初は5階建てで昭和30年代の増築で6階建てにされたらしい。

永寿総合病院/元浅草2丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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下谷病院

2019-04-12 | 台東区  
私立学校教職員共済組合 下谷病院(旧 東京府医師会下谷病院)
所在地:台東区根岸3-12
構造・階数:RC・3F
建設年:1928(昭和3)
解体年:2002(平成14)
備考 :2001.12閉院
Photo 1995.6.17

 下谷病院は私立学校教職員共済組合が運営していた病院だったそうで、最初は東京府医師会下谷病院として建てられたものだったという。

 縦長で3分割された窓が並び、それぞれに庇が付き、頂部にも庇が巡らされている。正面から見るとほぼシンメトリーだったようだが、道路沿いにあって引きがそれほどないため、正面から全景を把握したり撮影するのはできなかった。また中央部には細かな装飾が付けられていたようだが、それは撮らずじまいに終わった。中央部の装飾については下記、「ぼくの近代建築コレクション」に写真があるのでそちらを御覧頂ければ。

 白黒で撮ったものしかなく、またエアコンの室外機や配管などが後から設置されていたこともあり、きれいだった印象は残念ながらあまりない。
 病院建築は清潔でなければならず、また機器もいろいろ入るので、それに対応する強度や設備、スペースが必要で、新しくし続ける必要もある。古い建物がなくなるのは残念だが、仮に自分がどこかの病院でお世話になるとしたら、やはり最新で安全できれいな方が良いと思うわけで、時代の流れからすると、病院建築が建て替えられて無くなっていくのは致し方ないことなのだろうなと思う。


2022.10.10追記
 1952(昭和27)年発行の『火災保険特殊地図』には「根岸病院」と記されていた。昭和初期に東京府医師会下谷病院として建てられたと諸々の資料には書かれているが、根岸病院だった時代もあったようだ。

 また、Wikipediaを参照したところ、老朽化と法改正でスプリンクラーの設置が義務づけられたため建て替えが必要になったが、同所での建て替えはせず移転して東京臨海病院となったと記されていた。

下谷病院/根岸3丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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慶応大学病院別館

2011-05-06 | 新宿区  
慶応大学病院別館
所在地:新宿区大京町30
建設年:1932(昭和7)
構造・階数:RC・3F(一部4Fに増築)
備考 :2009 解体
Photo 2006.2.19(本記事内の写真全て)

 見に行こうと思えばいつでも見ることができたのに、結局いちどだけ外から見て、それきりになってしまった建物。Eの字型になった建物で、3F建て(一部4F)だったが、正面約70m、奥行き約65mと比較的規模の大きい建物だった。

 信濃町の駅から線路沿いに西へ行き、慶応大学病院の西側の裏に回り込むと、3棟の近代建築が並んでいた。別館はその中で最も南側、中央線の近くに建っていた建物。この北側には北里記念医学図書館と、予防医学校舎がまだ残されている。

建物正面中央の玄関部分

 昭和初期に完成した建物だが、モダニズム系のデザインと言ってよいのだろうか。外観にはいわゆる様式的な装飾がない。後年の改築で窓はアルミサッシに替えられており、エアコンの室外機が多数置かれ、その排水パイプが見え、また換気扇のダクトも目立つ。いかにも古い病院、といった感じで、様式的な近代建築のような味わいは残念ながらなかった。装飾がなく機能的な改修などが目立ってしまうのが、モダニズム系の建物の宿命なのかもしれない。

 中央部分には4Fが増築されていたようだ。3Fまでと4Fの窓の様子が明らかに異なるし、また中央の窓の両側に、当初の屋上階(4F)から引かれたと思しき雨樋がある。増築部分を取り去って考えると、更に地味な感じに思えてしまうが・・・。

車寄せ内。天井が一部斜めになっていて、採光窓が付けられている。

 玄関先の造りもモダンな感じ。車寄せの屋根の一部を大きく斜めにして、工場の天井のように採光窓を確保している。だが、解体を前にして手入れがされていなかったのか、塗装が剥げて、なんだか汚く痛々しい感じ。

張出部分がある翼部

 張出部分は恐らく階段室だったのだろう。様式建築なら華やかに飾り立てられるはずのこの部分にもほぼ装飾がない。全体は窓台と庇部分が少し出っ張っていて、それが色違いの帯状になってアクセントになっているが、階段室周囲は各階の庇もない。幾何学的でちょっとロボットチックな印象。

中央正面から

 全体に妙な威圧感というか迫力があったのが印象的だった。シンメトリーでやや規模が大きいことや、商業施設ではなく病院だったからなのかもしれないが、フレンドリーな感じの装飾がなく、素っ気ないデザインに感じられてしまったためかもしれない。

北側側面

 北側の棟の中央部分も 4Fになっていたが、ここは増築だったのかどうか不明。3Fには上向きに斜めになった大きな窓が見えるが、これも内部の様子が分からない。また、表通りに面していない側面は、一層ごちゃごちゃ感があった。

 跡地には新しい病院施設が既に建設されている。ガラス張りで規模も大きくてピカピカ。病院のような施設の場合、古くても良い感じに維持されているならよいのだが、古いばかりで清潔な感じでなく、寒々しく薄暗かったりすると、古い建物を大切にしましょうとは言いにくい。もちろん、外観は古くさくても、内部がきれいで安全で高機能だったら問題はない。だが、そういうコトはあまりなくて、外観がパッとしないと内部もパッとしないことが多い。そういう場合には、建て替えて暖かくきれいにしなければ、環境的にはやはりまずいなぁと思う。とはいっても、毎日ここで働いていた人とかにとっては、愛着のある建物だったのかもしれないが。

ニッポン懐景録新宿区信濃町周辺
近代建築散策慶應義塾大学信濃町キャンパス
都市風景への旅近代建築東京都新宿区大京町
Tokyo Lost Architecture   #失われた建物 新宿区 #近代建築  #病院 
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旧第一信用金庫本店

2006-09-20 | 新宿区  

 市谷柳町、大久保通り沿いに建つ洋風建物。

旧第一信用金庫本店
所在地:新宿区市谷柳町1
建設年:1925(大正14)
構造・階数:RC・2F
Photo 2006.8.27

 久々に訪ねてみたら、外壁が塗り直され、ちょっとオシャレな感じに変わっていた。現在はレストラン・洋菓子店として利用されている模様だが、以前は居酒屋だった記憶がある。

Photo 1995.6.3

 10年ほど前の写真と比較してみると、側面や正面上部の看板が取り外され、側面には照明も取り付けられたことが分かる。店舗の庇も建物にマッチしたものに取り替えられている。建設当初の色と同じかどうかは分からないが、外観は改装によって、オリジナルの建物を活かしたものになり、良い感じになった。

 しかしこの建物、昔から飲食店だったのかしら? そう思って、例のごとく日本近代建築総覧を見るも記載なし。手掛かりは浪漫亭という新聞などにも載ったことがあるお店の名前。Netで検索してみると「新・浪漫亭/ビストロかがり火」というHPがあり、その中の「浪漫亭あれこれ」にこの建物の来歴が記されていた。それによるとこの建物は、以下のように変わってきたという。

1925(大正14) 第一信用金庫本店(注1)
   戦後    柳町病院(注2)
1989(平成 元) 浪漫亭
1996(平成 8) 新・浪漫亭
2005(平成17) ビストロかがり火

注1)第一信用金庫は、後に帝都信用金庫となる。更に2000.3に合併し、現在は東京シティ信用金庫  注2)柳町病院は1982に道の反対側に移転

 浪漫亭あれこれというページには第一信用金庫本店当時の姿が載っている。

 これと現在の姿を比較してみると、現在は2階部分のみになっている半円形の付柱が、もともとは1階から立ち上がっていたこと、また中央上部には第一信用金庫の社章とおぼしきレリーフがあったことも分かる。

 単なる商店にしては立派な外観だったので不思議に思っていたのだが、もともと銀行系の建物だったということで納得。戦後、病院になったり、居酒屋になったりと紆余曲折はあったが、それでも残り続けたのは幸運なことだと思う。

 大江戸線が開通して、市谷柳町は交通も便利になった。オシャレなレストランとしてこれからも残り続けていって欲しい建物だ。

#失われた建物 新宿区  #近代建築  #銀行・保険  #商業系  #病院 
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