駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

爪はがし事件

2010年09月18日 | 世の中
 北九州市で起きた爪はがし事件に無罪判決が下った。どうも冤罪だったらしい。信じ難いことだ。虐待報道は嘘だったのか。なぜこれが事件として取り上げられてしまったのか。
 ストレスで爪を剥がすといった報道で作り上げられた鬼看護師のイメージは容易に払拭されない。本人を直接知る人はそんなはずはないと思っていたのだろうが、メディアの報道しか知らない人の心に作られたイメージは白紙に戻らない。捕まったのだから訴えられたのだから何かあると考えがちなのが、遠巻きの人の心理というものだ。
 ここまでは夕刊で見た情報と記憶にある情報で書いた。もう少し詳しく調べれば、多少違った見解になるかもしれないが、平均的な情報で感想を書くのは妥当と思う。
 菅家事件、村木事件そして今回の爪はがし事件。冤罪で失われたものは取り返しがつかない。無罪の判決や申し訳ないでは済まない。個々の人生を毀した咎に並んで、こうした間違いをやり過ごしてしまう社会の自浄能の不足に慄然とする。運が悪い可哀相では不十分だと思う。構造的な欠陥に踏み込んでゆく必要がある。
 今の日本社会には多くの問題があるが、第一に洗い直す必要があるのは検察とマスコミの体質ではないかと思う。その根底に歪んだ正義が横たわっているのではないかと危惧する。硬直した正義ほど恐ろしいものはない。独立性や独自性が密室に依って保たれるというのは錯覚だ。情報公開によって独立性や独自性は始めて実現でき、許容されるものだと思う。
 人は誰しも身近でない遠い他人の身の上には無関心になる傾向があり、他人の不幸は密の味という心性を多かれ少なかれ持っている。洪水のように溢れる情報を前にして、多くの人は断片の情報に終始し、先入主で処理してしまいがちだ。
 受け手には情報を咀嚼吟味する力が、情報送り手と法の執行者には第三者による公平性公正性の評価が求められる。
 やるせない事件でつい力が入り、偉そうな論評を書いてしまったが、まずなによりも、誰にも起こり得る事件として受け止めることが大切だと思う。そこから始まる。
 
コメント (4)
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