あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

自由学園 明日館(みょうにちかん)で講演会

2017年03月31日 05時52分14秒 | レトロ建築
2月、隣町の町田で旅行会社の新ツアー発表会がありました。その時に3月6日に池袋の自由学園明日館を使い25講座の講演会があるのを知り参加しました。だって、自由学園・明日館はフランク・ロイド・ライト設計の国の重要文化財なんです。そこで無料の講演会が25講座も開催されるならば参加するでしょ〜。参加希望は午前・午後と選べるようになっていたけど午前の部で申込みました。
3月6日は生憎の冷たい雨の日でした。開場が午前9時45分だったので、9時24分JR山手線池袋駅に到着です。メトロポリタン出入り口から徒歩5分、自由学園・明日館に到着です。既に参加者が行列しています。
さっそく列に加わって、どの講座に参加するか検討します。明日館の6つの教室を使用して、それぞれテーマを変え・講師を変え講座が開講されるのだ!

え〜と?
10:00~11:15で1講目は…ローマ・バロックの建築(駒沢女子大学講師、岩谷洋子先生。ローマか〜、1回旅したけどあの時は1日あった自由行動の日を地元旅行会社主催のまるごとナポリ・ポンペイへ日帰り旅行しちゃったからなぁ〜。バチカンとコロッセウム・トレビの泉位しかツアーで見てないし、そのまま半日自由行動もろくに見てないんだよね〜。でもバロック期の大理石彫刻は劇場で役者がポーズ決めてるみたいで面白かったんだよね〜。これ行って見よう!

講座会場の教室です。画像左に少し写り込んでいますが、教室の壁にプロジェッターの画像を映し出し眺めながら片側に並べた椅子で先生のお話を聞くスタイルです。
15分休憩
次の講座も同じ部屋の講座を選択したので、この時間を使って他の部屋を覗いて来た。



部屋により収容人数が違う模様。私が選択した講座は人気の先生の講座だと知るのは2限目に入ってからでした。
11時30分〜12時45分 名画は嘘をつく(西洋美術史家、木村泰司先生)
はっきりいってとっても面白い!既にどこかで先生の講座に参加した方がリピート受講されてるようで、部屋の椅子は全て埋まっています。更に部屋毎につく旅行会社の社員が、どこからか椅子を追加で持ち込んでいました。
椅子!スチール椅子ではありません。時代を帯びた座高が低く、少し小さめの椅子です。
これさ、もしかしたら明日館が小学校だった時代に実際使われていた椅子のリメイク品じゃなかろうか?
先生が次々に映し出す西洋絵画を次々に解説していくんだけど、あまりのスピードに理解と記憶が追いつかない。
え〜と?アダムとイブを描いてる絵は本来羞恥を知らないアダムとイブが既にアダムとイブの局部を葉が覆っている。その葉は本来イチジクなのに絵はオリーブの葉。手にりんごを持っている。蛇も描いてある。時系列が違う出来事を全部おなじ画面に詰め込んである。と行った感じです。これがもう次から次へと…。早々に全部記憶するのを諦めた!
でもレンブラントの話は面白過ぎて覚えてる。
一番有名な【夜警】は今の日本円にして2000万円で受注した。オランダはいち早く市民階級が台頭した国で、夜警のモデルは自警団で、劇場型の絵は不人気だったというのは後世の嘘。レンブラントの奥さんが金持ち出身で奥さんに紹介されて仕事がひっきりなしだったが、奥さんが亡くなって落ちぶれたというのも嘘。レンブラントの絵が流行遅れになっただけ。もうバッサリ!気持ちいい位。
日本で人気のフェルメールは、住んでる町から出なかった。ってか家族の借金で人も仕事もある大きな町に行くのが無理だった。奥さんが裕福な家の娘だったので奥さんの家で曲がりしていた。
2時限目終了。お昼休憩です。ってか午前の部に申込んだので午後は受講出来ないと思ってたんだけど、旅行会社の社員の方が「引き続き受講出来ます」と言うので午後も講演を聞くことにしました。いや、本来は午後から雑司ヶ谷ぶらぶら歴史散歩をするつもりだったんだけど、雨が止まないんだよね〜。計画変更です。
お昼を重要文化財の教室でとる事を避け、食堂へ移動する。







食堂もフランク・ロイド・ライトの設計です。お昼ご飯がおいしい!まあ食べてるのはあんパンとお茶なんですが。
いつの間にやら講演会の参加者が増えて食堂に人が集まってきたので館内散策へ。

ここはラウンジルームです。コーヒーが確か300円だったかな?でも講演参加者で一杯ですね〜。

あ。上の画像で皆さんが使っている椅子がオリジナルの椅子と同じ形の椅子です。そもそもが小学校なので、明日館は全てが小ぶり。子ども用の小さめな椅子です。

こちら西出入り口を屋内から撮影しました。

屋外から撮影した出入口。上の画像左手に行くと、ショップがあります。以前訪問した時はここにあったっけ?確かあの時は木製の鍋敷き購入したような…。あれ、使い勝手よかったんだよな〜。まだあれば欲しい!とショップに入ったらば、商品のラインナップが全く変わってました!子供用のあれこれが多いのは変わらないんだけど、女性が好きそうなものが並んでた。欲しかったなべしきもない〜〜。撤収。まだ見てない部屋へ行こう!

明日館前にある芝生は立入り禁止なので、側溝の上を通る。と?クリスマスローズがありました。分かりにくいけど、奥の柵もおしゃれっぽい。これもロイドさんの設計かな?どうだろ?
明日館の東翼に到着。

婦人の友社羽仁先生記念展示室
明治36年(1903)、羽仁夫妻が「婦人の友」の前身「家庭の友」を創刊しました。婦人の友社の110年の歩みと現在の活動を展示しています。
ん?確か自由学園明日館の建物の道路はす向かいの建物が婦人の友社だったような〜。
自由学園明日館の歴史は後で紹介しますが、そもそも羽仁夫妻が大正10年(1921)に創立した建物です。

東の出入口を屋外から撮影。

あ。明日館の見取図がある。これを見ると学校らしい作りだよね。(画像の赤線は非常脱出経路です)
上の画像には載ってませんが、見取図の下部が道路に面していて、道路を渡って講堂があります。(*現在講堂は耐震補修中で見学出来ません。8月より一般公開再開の見込み)

あちこちでレトロ建築物を見学していますが、明日館は現在も使って保存してる建物です。動態保存って言うそうな。結婚式やコンサート。セミナー。クラス会などに使用可。重要文化財で結婚式出来たら、一生語れるよな〜。
さてと、午後の講義は13時30〜14時45分。次はどこの講義を聞こうかな〜?同時刻に6つの講義があります。私が選択したのは2限目と同じ先生の名画でよむギリシャ・ローマ神話です。
ところがところが、講義を聞きたい人は更に増加して、もう椅子に空きがありません。う〜ム…。教室の入口でうなってると、旅行会社の社員さんが気を聞かせ、食堂から空いてる椅子。ええあのちいさい椅子を持って来て教室の端に席を作ってくれました。
今日の25講座の参加者は全て同じ旅行会社のお客さんかその友人です。海外旅行慣れしてる方々は他人との距離の取り方が巧い。場合場合で初見の人同士でも、うまくつき合えるのだ。狭い教室にどんどん人が増えたなら、小さい椅子を詰める。うっかり落とした物に気付いてない年配の男性に、うまく教えて差し上げる。うっかりお昼ご飯の持ち込みを忘れて空腹を訴えてる方には手持ちのお菓子をプレゼントといった具合(海外旅行ではバスでツアー参加者の持参したお菓子が配られることはよくある)。和気あいあいですね。しかも講義は期待通りとても面白く、なぜに西洋絵画に唐突に裸の女の人が描いてあるのか?は面白かったです。
ユピテル(ギリシャ神話でゼウスのこと)のように神様を登場させるのがお約束。
アルカディア(現実にはない理想の楽園)を描くのもお約束。でも実際は描いてる絵師の住んでる場所や、絵画を注文した注文主の住む都市をモデルにしてる。
お約束なので外してはいけない。笑えたのはアルカディアつまり風景ですね。それを描くのが得意な絵描きは、描かねばならない神様は外注に出してた!おいおいおい。人物がおまけだったのね。
ユピテル(ゼウス)は元々燃え盛る炎なので、人間とふれあうためには変身して近づく。白鳥だったりだね。西洋絵画が描かれた時代は誰でも知ってる事だったけど、現代人は西洋絵画は読み解かねばならない。
そういえば、西洋絵画に意味不明の動物が登場するけど、あれは神様が変身した所だったのか。牡牛に変身するエウロペ。黄金の雨に変身するダナエ・雲に変身するイオ。月桂樹のダフネ。なども絵画を紹介。ユピテルは最高神なので、ユピテルの生涯と描かれた絵画を数多く見ました。面白かった。
3時間目が終了。さて、4時間目はどうしょうか?15時〜16時15分が時間割です。でももうお腹一杯なんだよね〜。詰め込み過ぎて頭がもう疲れたので帰る事にしょう!ってな事で撤収しました。
自由学園 明日館
休館日:毎週月曜
開館時間:10時〜16時(入館は15時半まで)
見学料:見学のみ400円。喫茶付きは600円

自由学園概要:
自由学園は、羽仁吉一・もと子夫妻による大正10年(1921)に女学校として創立されました。明日館はその自由学園誕生の校舎で、アメリカが生んだ建築の巨匠フランク・ロイド・ライトとその弟子の遠藤新の設計になる建物です。
羽仁夫妻は、友人の建築家遠藤新を介して、当時帝国ホテル設計のために来日していたライトに校舎の設計を依頼しました。ライトは羽仁夫妻の教育理念に深く共感し、設計を快諾したと言われています。大正10年(1921)に中央棟。西教室棟が竣工。大正14年(1925)には東教室棟が完成。昭和2年(1927)に講堂が完成しました。
同年初等部が設立され、昭和9年(1934)自由学園は東京都久留米市に移転しました。その後、羽仁夫妻が自由学園と日本の教育の明日を託して命名した「明日館」は。卒業生の諸活動の拠点として使われてきました。幸いにも関東大震災や太平洋戦争の被害を免れ、戦後は自由学園生活学校の校舎としても使われました。
軒高を低く抑えて水平線を強調した立面、幾何学的な建具の装飾は、「プレーリーハウス(草原様式)」と呼ばれる一連のライト作品の意匠を象徴しています。日本に残るライト建築の特徴である大谷石が多用され、建物の基本構造が現在の2×4後方の先駆けと言われるなど、他の日本建築には見られないライトの作風を示す典型的な建物です。
平成9年(1997)に国の重要文化財に指定され、平成11年(1999)以降、国および都の補助事業による保存・修理工事を行い、別棟3幢の新築を含めて平成13年(2001)9月完了しました。『自由学園 明日館のパンフレットより』
ちなみに、明日館の外観画像に映る木は桜ですので、今行けば桜越しのレトロ建築が見えます。か、風邪さえ引いてなければ今ごろは桜巡り出来たのに〜〜。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吐き気を和らげるお薬 ドンペリドン錠

2017年03月30日 05時43分41秒 | 健康
脳梗塞を発症して以後、毎朝降圧剤と血液をサラサラにするお薬を服用しています。
これ等のお薬を飲み始めてより、お薬を服用して1時間後から3時間後の間は脈拍が早くなったり、ドキドキしたり諸症状が出て、不快な時間が毎日訪れるようになりました。中でも特に困るのが症状が辛い時間帯に運動すると(例えばこの運動は自転車に乗ったり、坂道を歩いたりという少し身に負担をかける程度でも)、突然謎の液体と共に吐き気がこみ上げてきて全く我慢出来ず吐いてしまうんですよ。近くにトイレがあれば駆け込めば吐けますが、運動してる状態という事は外にいる訳で。そうなると近くにトイレがない場合が普通。となると?せいぜい道端の草陰か木陰で吐くという…。これが度々起きまして、最初は降圧剤が私に合ってないと疑って、自分に合う降圧剤を探しあれこれと試しました。
そして降圧剤のカルスロット→シルジニピン(ジェネリック薬)元はアテレックに変更して数年なんとか辛い時間帯に動かないように、外出する日はお薬を飲む時間を早朝に変えて〜という工夫で乗り切ってたんですよ。
しかし、ある日同じ工夫をして出かけようとしたらめまいが酷くてどないもならず、寝転がってめまいをやり過ごし…。この時の原因は血液検査をした所、酷い貧血状態のなっていたのです。11〜15g/dLは欲しい血液中のヘモグロビン値が6だか8だかに落ち込んでました。敗因は血管中に血栓が出来ないように血液サラサラのお薬バイアスピリンを毎日服用しているせいで、一端出血すると、なかなか血が止まらないんですよね。だから鼻血で病院で出血箇所を焼いてかさぶたを作り出血を止めねばならず。毎月ある生理の出血量が増えて貧血に陥る。対処として、鉄剤のフェロミア(ジェネリック薬クエン酸第一鉄ナトリウム錠)を処方され、ヘモグロビン値が上がると休薬し、血液検査の結果を見て数値が下がると投薬再開みたいな感じですね。ヘモグロビン値が上がるとめまいやふらつきで動けない〜という症状は消えました。
それで数年が過ぎた頃、お散歩しているとやたら息が切れるようになりました。明らかにおかしい。何が原因なのか??ってな事で、最初は脳梗塞の原因を探った時に循環器内科の先生に心臓が肥大してると言われていたので、これが原因か?と検査したら肥大していたハズの心臓が普通サイズに戻ってて疑いは晴れた。なら他に原因があるハズ?とまたまた血液検査です。しかも今度はヘモグロビン値だけでなく詳しく調べたらば…。
運動すると息が切れて辛い原因はなんと!血糖値でした。具体的にはHbA1c(ヘモグロビンA1c)の値が7.2もあったんですわ。(正常値4.6〜6.2)
更に中性脂肪(TG=トリグリセド)は273!(正常値は30-149)
もうダメダメ!!分かる人にはこれだけで分かるみたいですね。私、いつの間にやら糖尿病になっていたんです。分かりたくない人にも分かり易く。HbA1cの値が6、4以上は糖尿病!なんだって!となると、脳外科の先生には対応出来ない。内科の先生の出番です。しかも糖尿病専門の先生がいいな〜。ってな事で紹介状を持って内科に行きました。これが2014年9月のことです。
そんで毎日飲む薬が常時3個から5個に増えた!この時処方されたのがトラゼンタとプラバスタチンNa錠です。以後は血液検査の数値の変移でお薬を変更し、今はジャヌビアとアトルバスタチン錠というのに変更してます。んで以降HbA1cの値は6〜7の間を行ったり来たり。中性脂肪の値は食べ物によりすぐに上下しますので100〜150のほぼ正常値に治まってます。こうなると息切れがして動けない〜はなくなったんですが、吐き気です!毎朝服用するお薬が増えたからか、ゲロゲロの回数が増えてしまいました〜。
湯河原に紅葉散歩に出かけて緩い坂を上っててゲロゲロ。多摩センター駅から里山10キロウォーキング大会に出発して間もなくゲロゲロ。まあ、ひと吐きすると楽になり、ケロっとなりウォーキング大会も湯河原紅葉ウォーキングも普通に続けました。でも吐くというのはテンションが下がります。吐いてしまったブツの中にお薬の成分も紛れてる訳で…。
せっかくの楽しいお散歩を度々ゲロ吐きで台無しにされブチ切れた私は、まずは内科の先生に相談しました。でも欲しい答えはない!なら次!脳外科の先生に相談しました。でもダメ!なら次!あまりにお薬と相性が悪く、市販の風邪薬を服用し外出した先で目の前が真っ暗になり危うくそばにいた通行者に救急車を呼ばれそうになって以後アレルギー科にも罹ってるので、アレルギー科の先生に相談したけど、やっぱり欲しい答えはもらえない。
欲しい答え、それは出歩いてもゲロ吐きしないですむ事。
となると…。
思い当たったのは薬剤師さんです。私はとかくお薬と相性が悪く、薬局でお薬を出される時に併せていただくお薬の説明書に記載されている注意事項のすべての人におこる訳ではありませんが、○○・●●…という症状のうちあれこれが起きてしまいます。この場合は「吐き気」です。吐き気をなんとかしたいんだ!!
と。「出かける度にゲロゲロしてるのはお薬が悪いと思うだが、毎朝5個も飲んでるので、どれが犯人かわからない。ついては犯人を探して欲しい」と頼み込み、普通患者さんには渡さない薬剤師さん用の処方箋ての?詳しいあれこれが書いてあるのを検索した結果、飲んでる5種のお薬全てに「吐き気」が起きる場合がある!とあったんですよ。
つまり犯人は全員!オリエント急行殺人事件でした〜。なんてこった〜〜〜!!
あんまり絶望する私に薬剤師さんが「先生に吐き気防止のお薬を出してもらう事をおススメします」と。
ええ〜〜!!またお薬増えるの〜〜!!それはちょっと…。と躊躇したのですが、やっぱり吐き気が我慢出来ず、お散歩を始めた先でゲロゲロゲロ〜〜〜〜っ!
でもさ、お散歩を止めるという選択はない。運動しないとたちまち血液検査の数値が悪化するんですよ。具体的にはHbA1cの値が上昇する。(中性脂肪値は食事内容を変えると下がる)
しゃーなしだ!
ってな事で、一番診察予約日が近かった脳外科の先生にお願いして処方箋持って薬局へ。
先生が当初処方したお薬はナウゼリンOD錠です。これは継続して服用するタイプ。効くのに時間がかかるお薬で、運動する日だけ飲み速攻効いて吐かなくてすむという私のニーズと合わない。そこで薬剤師さんが進めてくれたのがドンペリドン錠。即効性に優れるお薬です。

早速朝他のお薬5個と一緒に服用し、お散歩に出かけました。1〜2回は吐き気が起きる事なくこれで楽しくお散歩が出来る!!と思ったのですが…。
2月の府中市郷土の森博物館〜京王百草園梅散歩の折、百草園に続く急坂を上ってる時ムカムカムカムカ〜〜!!ト・トイレはどこだ!?この時は必死で闘いなんとか吐き気に勝利しました。
吐き気防止のお薬を飲んでるのになんでだ〜!??
間もなく今度は内科に受診して処方箋を持って薬局へ。そんでわざわざ前回吐き気防止薬を進めてくれた薬剤師を指定して(利用してる薬局には薬剤師さんが複数いるので)相談したら、「もしかして低血糖になってたのかも?飴とか嘗めてみては?」とススメられました。なるほどな〜。低血糖は内科の先生にも言われてたんだ〜。
そんで3月、高尾梅郷散歩に出かけた朝、JR横浜線片倉駅から京王片倉駅へ移動するゆるい坂を約15分弱歩いたら、京王線に乗車後ムカムカムカムカ〜〜〜っ!辛抱たまらず!しかしいくらなんでも車内でゲロ吐きも出来ず、必死に闘ってしまった〜。
何でやねんっ!
これは低血糖と違うっ!頻脈や動悸はともかく、冷や汗もまあないとは言えないけど、手足が震えたりはない!頭痛やめまいやかすみ目はともかく、脱力もしてない。さっきまで高尾の梅を想像してワクワクしてたのに〜〜っ!!(*注:低血糖の症状は個人差があり、それぞれに違うので、何度か低血糖症状に陥って自分の場合を把握して下さい。患者さんは自分の場合〜を掴まねばなりません。うん、知ってた)
そんでまたまた一番近い診察が脳外科だったので処方箋持って薬剤師さんに訴えた所ですね。今度は前回の薬剤師じゃない方だったので、最初から現状ゲロゲロしてる事をまたまた薬剤師さんに説明した所、薬剤師さんが製薬会社が専門家用に作ってる処方箋医薬品用の画面を検索してくれて原因が分かりました!
な・長かった〜。これが本日のブログテーマで吐き気を和らげるお薬ドンペリドン錠の飲み方にについて気をつけねばならない事!です。
トップ画像をごらん下さい。これ、横軸がお薬服用後の時間経過。縦軸が血糖中のドンペリドンの濃度です。ドンペリドン錠は飲んですぐに効く!吐き気を和らげるお薬です。服用後30分で一番効果が高くなり、すぐに効果が下がっていくのですよ。実際、京王百草園の激坂上りは午後に入ってからだったので、朝5時に毎朝飲むお薬と一緒に飲んだドンペリドン錠の効果はほぼ望めなかった訳で。朝6時に飲んだ高尾梅郷の時は8時半くらいだったから、服用後2時間半という事は、一番効果が高い30分後が17ng/mlとして2時間半後は6ng/mlには下がってしまってるという事です。
〜〜〜〜〜!!!まさか!お薬によりそんなに効き方に差があったとは〜〜〜っ!
ってな事で、3月19日、渋沢駅から水無川近くの大倉バス停へ移動。そこから秦野戸川公園まで土手をおかめ桜を追いかけて〜〜との計画でしたので、家を出る直前にドンペリドン錠を服用した所、期待通り吐き気は起きませんでした〜。まだ試した回数が少ないけれど、午後から運動する時もあるので、その場合はお昼ごはんを食べる時にドンペリドン錠を追加すればいいと、カバンにお薬を入れて持ち歩く事にしました。
高血圧患者さん、糖尿病患者さんで私と同じ吐き気症状で不快な思いとしてる方は参考にしてみて下さい。
ちなみに、薬局で患者さんに出すお薬の説明書からドンペリドン錠を抜粋した画像かこれ。

今は、花粉症のお薬も同時併用してる時期なので、本当に毎朝飲む薬を準備して並べると気が滅入るんだけど、綺麗な花をエサにして出歩いています。高血圧や糖尿病であっても運動をしたい方におススメです。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茅ヶ崎の海岸から駅までぶらぶら

2017年03月29日 05時48分54秒 | ぶらぶら散歩
3月22日、茅ヶ崎市の氷室椿庭園の200種の椿を見にゆきました。見終わったらもうお昼。
氷室椿庭園でお昼にしてもいいけど、10分も行けば海岸に出るのだ。なら海を見ながらお昼ご飯にしたいです。
氷室椿庭園に着く前に迷って図らずも周辺をウロウロしました。氷室椿庭園は三井不動産の副社長の氷室氏の庭園でした。周辺のおうちもそれなりで、大きなお屋敷やレトロ建築・一軒家なども一杯。迷って椿庭園を探すのも楽しかったです。

上の画像は椿庭園から海岸の途中で見かけたお庭。ローズマリーが満開でした。

「弱虫ペダル」って知ってます?元は少年漫画ですが、アニメ化・ドラマ化・舞台化されて人気です。アニメ好きの男子高校生が入学した高校にアニメ部はなく、ひょんな事から自転車部に入部。なぜか自転車に適正があった彼はインターハイの選手になります。自転車部の競技は団体戦。ともかくゴールを切った生徒の高校が勝ちになります。その時の舞台が江の島から箱根のコースです。上の画像を全国の高校生が自転車で駆け抜けていきます。
こんな素敵な道が競技コースなんていいでしょ?
ちなみに、競技でなくともサイクリングに最適。
松林は防風林。松林の向こうはもう茅ヶ崎の海が広がっています。

遠くに見えるのは烏帽子岩。これを眺めつつあんパンをパクつきました。
さくらあんパンを食べ終わり、リンゴのパンケーキを取り出した所ーー。
「トンビに気をつけなよ〜」と。下から声が聞こえて来た。
ん〜??今の、もしかして私に言ったの〜?
「トンビがさ、後ろから狙ってくるんだよ〜」
おじさんでした。おじさんが指さす方を見ると、トビが2羽輪を描いてます。
む??もしかして既にロックオンされてる?
実は以前鎌倉梅散歩の時、稲村ケ崎でお昼ご飯をパクついてる時、しゅっとあんパンをトビに盗られた事がありましてね。
トビに襲われた(2012年3月28日)の記事鎌倉梅散歩の途中、お昼ご飯を食べてたら…。という記事です。
「わかりました!」と返事を返しリンゴのパンケーキをしまいお散歩再開!いきなり後ろから盗られるとショック受けるよね。もう二度とゴメンです。
烏帽子岩を眺めたベンチの横に歩道橋があります。

道路向こうは運動公園になっていて。ん?何かある?
これさ、国木田独歩の石碑です。
説明板があったんだけど、説明板が痛んでまして、一番上と一番下の文字が数個づつ読めなかった〜。
国木田独歩(明治4年〜41年、1871〜1908)は、詩人・小説家で、『武蔵野』や『鎌倉夫人』を書いた人。
1908年独歩は肺結核にかかり、茅ヶ崎にある結核療養所の南湖院で療養生活を送る。前年に刊行した作品集『運命は』が高く評価され、療養しながら作品を発表するが、病状は悪化、38歳で死去。<WIKIより>
上の石碑の背後に松林がありますが松林の裏に何があるか?と言いますと?

野球場なんですよ。この野球場は海側が松林になってるんだよね。

松林といえば、テニスコートも松林に囲まれてます。何気に素敵でしょ?
ちなみに、テニスコートの側に桜がありました。前回氷室椿庭園を訪問した時は調度見頃だったこの桜、でも今回は既に散り初めでした。
ん〜??これ、何桜かな?
この辺りの家の庭には、蘇鉄があるお家が散見。あと松の木。昭和の庭のお約束かな?それとも海辺の家のお約束なのか?今どき蘇鉄があるお家はまれですね。

高砂緑地に到着しました。
明治30年代に、この地の一画に、新派劇の俳優で、当時有名だった川上音次郎・貞奴夫妻が別荘を設けました。市内の小和田に別荘を設けた九代目市川団十郎を慕ってのことと伝えられています。今も緑地の中にある石の井戸枠が音次郎の別荘にゆかりのものといわれています。

上の画像奥の石組がゆかりの井戸になります。
大正8年(1919)、音次郎の別荘地だった所を含めて、付近一帯を実業家原安三郎が別荘とするために購入し松籟荘と名付けました。

高砂緑地の門を入ってすぐ左に、日本家屋と庭園があります。そこの梅は早咲きのようで、訪問した3月22日には既に花はなく。風情ある枝振りを楽しむのみ。
日本家屋の奥が小高くなっていて、そこに洋館がありました。戦後しばらく占領軍に接収されました。後に貴重な近代洋風建築物として、またすぐれた別荘建築として高く評価されました。
主屋は老朽化で取り壊されましたが、石畳や階段に在りし日の名残りがあります。






 
高砂緑地には文人の詩を刻んだ石碑などが散在しています。高砂緑地を後に。すぐ近くにあるカトリック茅ヶ崎教会にも蘇鉄と松がありました。
道路は狭いけど、レストランが散在。この辺りお金持ちが多いのかな〜?一軒一軒の敷地も大きいし。どこも素敵なお庭だし。

JR相模線に乗車。厚木駅で下車。行きでも気付いたのですが、いつの間にか小田急からJRに移動する途中に自動改札が出来てました!!

私はこの自動改札を待っていた!少し前までここに自動改札はなく、なんかタッチパネルがぽつんと1個あったんだけどさ〜。うっかりタッチパネルを見過ごしたり、気付かずに一端改札を抜けて再び入場して〜とか混乱してたら厚木駅から宮山駅(寒川神社最寄駅)800円以上引き落とされてたの。しかも往復だから1600円以上!それ以後、厚木駅で乗換が嫌になり、ずっと海老名駅で乗換えてたのね。まあ私が間抜けだっただけなんだけどさ〜。だから自動改札があるのを見てすんごく嬉しかったです。ここってすごく不思議な駅なんだよね。元からある改札に駅員さんいるんだけど、未だにあれがJRの駅員さんか小田急の駅員さんか分からない。1回質問したらすんごく横柄で威圧的な口調で対応されたから、詳しく聞くの止めたのを覚えてる。ここ数年来はずっと寒川神社さんに初詣に行ってるから何年前の出来事だったか覚えてないし。やや、初詣以外にも小田急から相模線利用してるしな〜。あ。それた。

ちなみに、園央道が出来、小田急線の厚木駅では園央道の下をくぐって小田急電車が来る様子が見えます。この奥さ、園央道の向こうは相模川です。相模川の鉄橋が見えて手前に園央道がある。奥から小田急線がやって来る。というのは、画像で見るより動画の方が感動出来ます。鉄道ファンにおススメポイントです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

氷室椿庭園の顔、氷室雪月花が見頃

2017年03月28日 05時52分09秒 | 花見散歩
茅ヶ崎市氷室椿庭園は、三井不動産の元副社長氷室捷爾・さん・花子さんご夫妻の庭園が茅ヶ崎市へ寄贈され、平成3年10月に開園しました。
広さ約2800平方メートルの庭園には、椿や松、バラなど1300本におうおよぶ庭木が植えられています。椿の品種は200種以上あり、なかでも「氷室雪月花」が淡桃に紅の吹掛け紋が入った美しい品種です。(パンフレットより)
昨日に引き続き、氷室椿庭園に咲く(2017.3.22訪問時)椿の画像を紹介します。
トップ画像はサンダイアルという品種で氷室雪月花ではありません。氷室雪月花は見頃で沢山花がついているベストタイミングで訪問出来たのですが、ピンぼけ画像ばかりになってしまいました。やっちまったんですわ。
 

 

 

 

 

 

 

  
上の画像の中央と右がこの庭で作られた《氷室雪月花》です。淡桃色に紅の斑掛け紋が入るとあり、調度見頃に訪問したようで、氷室雪月花が沢山咲いてました。それぞれに趣きがあり、形も少しづつ違っていて、この品種を見るために訪問したならば、大満足のタイミングでした。

上は《大虹》この椿がNHKの大河ドラマ『女城主直虎』のオープニングに出てくる花に似てると思った椿ですが。何か以前訪問した時と大きさが違う。更に紅白の色の出方も違う。この画像のみを見たらその通りなのですが、大虹も氷室雪月花と同じく花毎に色の出方が違ってました。出来るだけNHKの大河ドラマのオープニングに似た紅白色分けのものを探したのですが、大虹は既に見頃を終えようとしてるのか、あまりよい状態の花が見つかりませんでした。更に頭の上で咲く花も多くてね。あと、晴天の太陽が…。花色が出ない方角で咲いてる品種も多くてさ〜。

上は《紅唐子》だったかな?前回みて派手で珍しく気に入った椿ですが、前回訪問時より今回は全体に訪問するのが遅れた印象で、この品種も綺麗な花を探したけど綺麗なのは数が少なく、しかも頭の上で咲いてるので二つ折り携帯を目一杯腕を伸ばしてシャッターを切ってました。

上は《サンダイアル》・綺麗な花でした。
お庭には椿だけでなく、バラや蓮。山野草も植えられていて、訪問時に雪割草が花をつけていました。
  
椿の種類があまりに多い。椿の木に品種名を書いてある椿と品種名のない椿があります。専門家が判断しないと品種特定出来ないのかな?と思いつつも、撮影しててこれが○○という品種と分かって撮影したのもありますが、大概いいじゃないの!綺麗な状態の椿を撮影するわ!を優先して撮影し、画像をピックアップしてます。中には氷室椿庭園で登録された《白頭山》などが綺麗な状態で咲いてたのに、撮影に失敗してピンぼけ画像になっててがっくり〜というのもあります。庭園内は散策路というか、通路があって、通路沿いに咲いてる椿しか撮影出来ません。例えすぐそこに綺麗に咲いてても、これ以上近づけない〜という椿も多かった!そこはデジカメで望遠撮影したけどな。
最後に、一言言いたい!
氷室椿庭園って、椿の手入れの専門家がちゃんといるんですか?ど〜見ても、病気にかかってる木が散見したんですけど。しかも病気の木が多かったんですけど。まだ防除可能だと思うけど、重病化する前に適切な手当をして欲しい。何しろここは「椿」庭園なんだから、看板の椿が病気ってダメでしょ!
ちなみに、初訪問の時のブログ記事がこちら。
氷室雪月花(2013年3月20日)の記事 
氷室椿庭園の椿が見頃(2013年3月19日)の画像 2013.3.17に訪問した時の氷室椿庭園の記事です。今回より多く咲いていた椿の画像をご覧下さい。

氷室椿庭園には11:00~12:30過ぎまで滞在。
ここでお昼ご飯というのもいいんだけども、晴天なら青い海を見ながら食べたい!

氷室椿庭園から徒歩約8分、烏帽子岩が見える浜辺に到着しました。

追信:2017/3/29
氷室椿庭園を訪問した時に、2013年に訪問した時と比べ、椿の花の数が少ない。椿の葉に黄変が見られる。椿の葉に茶色の斑点があるのを不審に思い茅ヶ崎市の建設部公園緑地課に問い合わせメールを出しました。
返答がありました。以下、回答を短くまとめます。
氷室椿庭園の椿は、木の老朽化、地面が砂地であるための栄養不足、密集した樹木による日照不足など、多くの問題点がある。
平成25年よりアドバイザーを迎え、土壌改良・日照の確保・枝の若返りなど、樹勢回復に努めているところです。
葉の黄変については、土壌改良を行っているところではありますが、まだ栄養が行き届かず、変色しているものと考えております。
葉の斑点については、年末頃から幹についたコケの駆除を実施していますが、その際に使用した酸性の消毒薬が葉に落ちたため、多くの斑点が出来てしまいました。
枝の若返りを図るため、昨年より多くの木を強く剪定してるので、枝葉が少なく花付きも少ない状況。
この庭園から作出された椿など、貴重な花木ですので、幼木の育成にも勤めています。
本年度訪問された皆様には良い状態の庭園をご覧いただけず、申し訳ありません。来年・再来年に再訪して下さい。

回答メールは丁寧な文章でした。氷室椿庭園の現状を把握されて対処中ならば安心です。甦った健康な椿と花を期待して、来年以降再訪しましょう。前回見た綺麗な大虹の赤白色分けの大輪の花が頭に焼き付いててあれがまた見たいんです。うん、期待してるよ〜。

先週末、ダンナが年度末で仕事が〜とか言いつつなんか彼の声が変だな〜?って思ってたんですよ。疲れてそうだからお出かけは見送って〜とかいいつつも日曜には私も肩が痛いな〜?咽も痛いわ〜??って感じてました。週が明けるともうヤバい感じ。昨日はイソジンのうがいをやって葛根湯も飲んで〜と、努力したのですが、今朝はもうダメ。タンのような固まった鼻水が〜。咽は更に痛く腫れてるし、そもそもしゃべりたくない〜〜。
やっちまいました〜…。今週は本格的に桜シーズンになると言うのに。今日もしだれ桜かそれとも〜と。準備もバッチリなのに〜。
皆様も風邪には気をつけて下さい。ああ。空は雲一つない絶好のお出かけ日和なのに〜。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

氷室椿庭園 椿開花情報2017.3.22現在

2017年03月27日 05時45分00秒 | 花見散歩
今年の大河ドラマ『女城主直虎』を見てますか?オープニングに赤と白の色分けの大きな花が出ます。メイキング番組で「実際には存在しない花。主人公の直虎を象徴する花を作った』と言ってました。でもなぜか私、あの花を見た事ある気がする???あれは…確か…。茅ヶ崎市の氷室椿庭園で見たんじゃなかったかな?椿が見頃になったら確認に行くか?と思い、茅ヶ崎市の氷室椿庭園の開花情報をチエックすることに。
しかしですね。2月に入ってから毎週チェックしていたものの、茅ヶ崎市の紹氷室椿庭園の介ページでは椿の品種名を《咲き始め》《咲いてます》の区分で記載するのみ。これじゃあ相当な椿マニアでないと椿の品種と実際の花が結びつかないよ〜。仕方ないので《咲いてます》に品種が増えるのを待って、3月22日に訪問しました。

氷室椿庭園は、JR茅ヶ崎駅から南へ徒歩約20分。一度訪問した事あるからと見覚えのある道を、見覚えのある脇道で曲がったのですが。間違えた!あれ〜〜??なぜにこの道は行き止まりなんだろうか?しかし近い場所のハズなので勘の働くままに探してたらようやく到着した。時刻は既に11時。椿庭園にある椿の品種は200種以上もあるのです。なので早速椿画像を紹介。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
こうして見ると個性豊かでしょ?氷室椿庭園は再訪なのですが、初回訪れた時は椿の大きさ・形・色の豊かさにとても驚きました。
ところで椿の開花時期っていつだと思います?ざっくり冬!それはある意味正しいけど、品種により相当ばらつきがあります。椿の見頃は2月下旬から3月下旬です。しかし早い品種は10月から遅い品種は4月に咲きます。
また咲いてる椿の中には、氷室椿庭園で登録された品種も貴重な椿もありまして、どれがその貴重な椿なのか?と。予想して探すのも楽しいです。なので、ここまで、図鑑のようにアップで掲載しました。
というのは建前で、実はいつものガラパゴス携帯電話での撮影だったので、ピンぼけ画像を量産してしまいました〜。ピンぼけ画像は小さくしてみた。あと、見頃!と予想は間違いで、既に見頃過ぎの椿が多かったのでがっかり〜。
いくらかは大きな画像で紹介したいと思いまして、以降の画像をお楽しみ下さい。



















さすがに椿の品種が多く、画像が増え過ぎなので今日はここまで。明日引き続き氷室椿庭園の椿を紹介します。
氷室椿庭園基本情報
入園料:無料
休園日:月曜日 ただし、3月は休園日なし。
開演時間:9時から17時。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治大学に残る登戸研究所の戦跡

2017年03月26日 05時24分19秒 | 歴史散歩
旧陸軍登戸研究所、現明治大学平和教育登戸研究所資料館の展示室の見学が終了。質疑応答&トイレ休憩の後学内に点在する史跡を館長さんのガイド付きで巡りました。

まずは資料館の建物の前身から。上の画像が資料館の建物です。「陸軍登戸研究所第二科が研究施設として実際に使用していた建物で、航空写真から1937年〜41年に建設されたことが分かります。
この建物は戦後に「36号棟」と命名され、長らく明治大学農学部の教育施設として利用されていました。
資料館の前に井戸がありました。

この井戸も当時からあったもの。登戸研究所は丘の上にあり、水の確保は大変でした。後に研究所内で偽札作りが始まると、井戸では水がまかなくなり、丘の下に浄水場が作られました。これも現存してるそうですが、学外にある為見学会では見学してません。
資料館に隣接し、古い構造物が残っています。

かつての薬品庫です。通称「弾薬庫」と呼ばれる建物です。ただ詳細は不明とのこと。明治大学は丘の上にあります。小田急線がある北側が一番低く南に向って上り坂になっています。資料館は明治大学の南に位置してまして、隣接の薬品庫の上は、今は農学部の畑があるけども、陸軍登戸研究所時代に風船爆弾の実験をしていたとか。ついでのミニ知識で、現在専修大学になっている場所で、かつては電波兵器の実験をしていたんだって。なにしろ登戸研究所は11万坪もあり、明治大学が購入したのは5万坪ですから、周囲の土地に登戸研究所のあれこれの痕跡があって当然かもね。
説明板には「外観は台形ですが内部は奥行き約3、2メートル。間口は約2、7メートルの長方形をしており、天井までの高さは約3メートル。壁面にはスイッチやコンセント跡が見られます。
第一校舎の裏手にも同様の倉庫跡が残っています。」と書いてありました。
見学ツアーは資料館の近くへ移動。

今は空き地ですが、ここにはかつて偽札印刷工場がありました。5号棟と呼ばれていました。「残したいと努力したのですが、築造50年を超える木造の倉庫のような建物は、耐震性もなく保存を諦めました」と残念そうな館長さん。いつだったか取り壊す直前に新聞でそのニュースを読んだ記憶があって、行っておけば良かったなあ〜と後悔しました。
跡地にも説明板があった。
説明板:五号棟跡
「登戸研究所第三科で作っていた偽札の「印刷工場」(5号棟)の跡地。5号棟は、1941年撮影の航空写真からも存在が確認される、登戸研究所時代から使われていた最後の木造建築物でしたが、2011年2月、老朽化と新校舎建設のため惜しまれつつ解体されました」

偽札工場(5号棟跡)と偽札を保管する倉庫跡の26号棟跡(こちらも既に更地になってます)の奥に、倉庫跡があります。上の画像の道の奥にあります。現在は農学部が一帯を使ってるので、見学者の立入りは出来ません。かつての陸軍登戸研究所の航空写真と現在の明治大学キャンパスの航空写真を見比べると、この道も私達見学ツアーがいる道も、登戸研究所時代からあります。

上の画像は学生会館前に残る消火栓です。見学ツアーでは見てません。生田駅から資料館に向う時に撮影しました。
説明板発見:旧陸軍登戸研究所関連史跡 消火栓
登戸研究所時代に設置された消火栓です。明治大学生田キャンパスになった今も、当時と同じ場所に残る貴重なものです。すでに消火栓として機能しませんが、旧陸軍の☆のマーク(五芒星)が確認できます。現在は埋もれていますが、もとは図書館前に残る消火栓と同じ姿をしていました。」
館長さんいわく「研究所時代に設置された消火栓は大学内に2つ残っています。しかし学生会館前の消火栓は学生達が蹴ったり遊んだりした為、地面にめり込んでます。ので、綺麗な図書館横に残る消火栓を案内します」と言う事で図書館横の消火栓に移動します。
ちなみに、説明板に赤字でわざわざ「*貴重な戦争遺跡です。大切に扱って下さい」と書かれてるのが涙が出そうですね。運動部の大学生はあんまり昔の物に思入れなさそうだもんなあ。

図書館横の消火栓に到着。トップ画像がこの消火栓です。こちらの消火栓にも説明板がありましたが、学生会館前の消火栓とほぼ同じ。最後に「現在は埋もれている学食棟前に残る消火栓もこの消火栓同様、以前は同じ姿をしていました」だって。壊してしまったらソレまでなので大事にしてね〜。

こちらは図書館前です。現在は大きなヒマラヤ杉が並んでる場所ですが、登戸研究所時代ここは旧本館前の車寄せだった所です。なんとなく現存する道とカーブに名残りがありますが、そうと説明してもらわないと分かりません。

登戸研究所時代から既に70年が過ぎ、ヒマラヤ杉は大木になってます。
説明板発見:旧陸軍登戸研究所関連史跡 旧登戸研究所本館前一帯
登戸研究所の本館は、ちょうどこのヒマラヤ杉並木と現在の図書館との間に建っていました。
1944年(昭和19)年に撮影された写真でも当時の杉並木の様子が確認出来ます。また、写真背景足元に映る円形に囲われた車寄せへのアプローチも、そのままに近い形で植え込みとして残っており、この一帯は登戸研究所時代の名残りをもっともよく残す場所となっています」
説明板には登戸研究所時代の1944年10月に、三笠宮視察で本館前で撮影した集合写真が載ってまして、館長さんが「皆さんは三笠宮さまをご存知ですか?」との質問に、ツアー参加者が「今朝亡くなりました」と答える。
!!!!!ええ〜〜!!そうなの!?
三笠宮様は大正天皇の第4皇男子崇仁親王さまのことです。戦争の時代は宮様も軍に所属していました。
大学の正門へ移動。登戸研究所時代もここに正門がありました。ちなみに、正門前に向ケ丘遊園行きのバスが停まっていました。
正門近くにある動物慰霊碑へ。

実は上の画像は動物慰霊碑の裏側から撮影してます。正面から撮影した画像を帰宅後再生したら、完全逆光で真っ黒になってしまってて使えなかったの。残念。
説明板発見:旧陸軍登戸研究所関連遺跡動物慰霊碑
1943(昭和18)年、研究で用いられた実験動物の霊を慰めるために登戸研究所が建立しました。台座を含め、高さ約3メートル、幅約95センチ、奥行き約15センチの大kさは動物慰霊碑としては国内最大級です
敗戦後、軍により証拠隠滅を図られた登戸研究所ですが、この裏面に刻まれた「陸軍登戸研究所」の文字は、戦時中より登戸研究所がここに存在した事実を如実に語ります」
館長さんのエピソード紹介がありました。「この石碑を建てた費用は、1943年春、当時の首相兼陸相の東条英機から授与された陸軍技術有功章の副賞である金一封(当時の金額で1万円。現在の1000万円相当)が使われました。登戸研究所の前には日々実験動物が山のように積み上げられていたのを見たと近在方の証言があります。副賞を使い、実験動物の為に動物慰霊碑と実験事故で死亡した職員の為に弥心神社(現生田神社)を作りました」

という事で弥心神社に移動です。

説明板発見:旧陸軍登戸研究所関連史跡弥心神社(現生田神社)
「現在は生田神社といいますが、もとは登戸研究所が1943年(昭和18)に建立した神社で、研究(知恵)の神様である「八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)」を祀る「弥心神社」と呼ばれていました。
境内向って右手、1988(昭和63)年に元所員有志により建てられた「登戸研究所跡碑」裏面には「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」という句が刻まれています。これには、一度胸の奥にしまい込んだ研究所時代の記憶を、戦後数十年を経て再びこの丘に立ち、ようやく話し合う事が許された」という万感の思いが込められています」

こちらが説明板に書かれてあった「登戸研究所跡碑」の表面。

こちらが石碑の裏面。
館長さん「以上で本日の見学会のメニューは全て終了となります」
見学会主催の旅行会社の社員さんからも一言。「皆様おつかれさまでした。以上を持ちまして見学会は終了です。あと、関連書籍が欲しい方は、構内の丸善ブックセンターでお買い求めいただけます」
確か、大学内のブックセンターでは割引購入出来たと記憶。本屋の前にまずは腹ごしらえじゃ〜!!

めり込んだ消火栓のある学生会館の隣に食堂があり、一般の人も利用出来るとのこと。上の画像は本日のおススメ。すんごく安かったのは覚えてるんだけど、いくらだったかは既に思い出せない。300〜400円位だったかな?
学食の他にこんなお食事処もあるようで。



食事をしながら旅行会社のアンケートを記入。当初はお昼に見学会が終わるんだから、この後生田緑地へお散歩しよう!と計画していたのですが、頭を使い過ぎました。身体は元気だけど脳みそはど〜にもぐったり。もう帰宅することに。

見学会は2016年10月27日にありました。あれから5ヶ月。こんなに放置するつもりじゃなかった。でも見学会の記事が書けなかったのよ。ヘタれな自分。反省ですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

しだれ桜がもう見頃!?

2017年03月25日 01時04分43秒 | しだれ桜
陸軍登戸研究所の連載の途中ですが、駅前のしだれ桜がもう見頃になっててびっくりしたので、昨日2017.3.24のしだれ桜の開花状況をお知らせします。
トップ画像は10:35撮影。近所のスーパーに買い出しに出かけたら、散歩道で白木蓮が満開になってまして、青空に映えてとても綺麗だった。ふと?そういや、小田急線小田急相模原駅北口のデッキから見えるしだれ桜はもう咲いてるかな?と。確認に行ったらば!なんと!!
撮影時刻12時25分
既に見頃になってました〜!!
え??ちょっと待って!なら相模大野の相模女子大のしだれ桜ももう咲いてるかも?町田駅側の青柳寺さんのしだれ桜も咲いてるかも??かも?かも?かも〜??
かも?じゃないわ!確認しなきゃ分からんわ!と。出かけました。
相模女子大学の正門側のしだれ桜は全く咲いてません。そっか〜!次!
撮影時刻13時11分
青柳寺さんのしだれ桜はようやく数輪花が咲いてました。来週ですね。
次!
実は相模原在住のgooブログで読者登録させていただいてる方の記事でごく最近「原町田交差点のしだれ桜」の画像を見た事がありまして。それはまだ咲いてなかったんだけども。原町田ってJRの線路向こうだったよね?と。駅近くの町の案内所で「原町田交差点でしだれ桜があるって見たんですけど、それってどこにありますか?」とお尋ねした所。
「あそこが原町田5丁目交差点です。桜は〜〜??もしかして咲いてますね?」
「ええ!うっすらピンク色が見えます。行ってみます〜」と。わくわくして信号を目指しましたらば!!
撮影時刻13時29分。
うおおオオオ〜〜〜!これもう8分咲きくらいだよね?
惜しむらくは、午前にスーパーに買い出しに出かけた時は青空だったのに、お昼ご飯食べて自転車を走らせたとたん強風の中自転車を漕ぐ事になりましてね。や〜な予感はしたのよね。相模大野→町田と進むにつれどんどん雲が増えてゆき、原町田交差点に到着した時には、いつ雨が落ちて来ても不思議でない空模様になっていました〜。マジか〜…。
でも目の前に8分咲きのしだれ桜があるんだよ?なんとか綺麗なさくらの画像にならないものか!

う〜〜。ムズい。8分咲きなら、さくらの花びらの色が一番綺麗で濃いハズなんだけども…。

太陽の光がもっと欲しい所ですが叶いませんでした〜。

この画像ならもう随分咲いてるのが確認出来るかと?
うん!ダメだわ。このコンディションでは繊細なさくらの色が再現出来ないわ。
ってか、風が強過ぎる。しだれ桜の枝が右へ左へゆらゆらしてて桜の花を大きく写すの無理〜〜っ!!
そういや、浄運寺さんてこの近くだったよな?

着いたらまず参拝。本堂横の椿が見頃です。でもこの椿、何か変?

アップで撮影してみた。ピンボケした…。やっちゃったわ〜。

引きで撮影してみた。ちょっと変わった椿です。豪華だね。
浄運寺さんの本堂前にもしだれ桜がありました。

こちらは5分咲きくらいかな?
しだれ桜って、ソメイヨシノより少し前に見頃を迎える印象でしたが、しだれ桜と言っても違う種類なのかな?咲く時期が微妙にズレてるのね。今まであまり気にしてなかったわ〜。
ってな事で、明日は旧陸軍登戸研究所資料館の外、明治大学生田キャンパスに残る戦跡巡りに戻ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

登戸研究所と秘密戦

2017年03月24日 06時01分01秒 | 展覧会&観光施設&能楽
登戸研究所とは、旧日本陸軍が秘密戦のための兵器・資料を研究・開発するために設置した研究所で、一般にはその存在は秘密にされていました。
秘密戦とは、防諜(スパイ防止)・諜報(スパイ活動)・謀略(破壊・後方かく乱活動・暗殺)・宣伝(人心の誘導)の4つの要素から成り立っていて、戦争には叶わず付随するものの、主として秘密のうちに水面下で行われる闘いの事です。
秘密戦は、戦果が公表されることも稀で、戦後になっても記録が残されてないのが普通です。『毎時大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブック』より
昨日の記事では書きたい事が多過ぎて文章が長くなってしまいましてすみません。今日は昨年10月27日に開催された旧陸軍登戸研究所(現刑事大学平和教育登戸研究所資料館)見学会の続きです。資料館第二展示室からスタート。
資料館第二展示室では登戸研究所第一科が中心となって開発された風船爆弾についてです。

風船爆弾って聞いた事ありますか?私は一般的な風船を思い浮かべ、まさかあの風船が日本から飛ばして遠いアメリカまでとどく訳がない!眉唾ものだと思ってたのですが、ガイドさん(資料館館長の山田先生)の話しが進むに従い目からウロコが何枚も落ちましたよ〜。
まず風船爆弾のサイズは風船爆弾の風船の直径は約10メートル!ここからして驚愕しましたよ!だって風船は和紙で作ってあるのですよっ!
風船の素材はコウゾの和紙にこんにゃく糊でコーティングしたもの
です。
〜〜〜っ!!最近流行りのラノベでは異世界トリップした現代人が、現代の知識をトリップ先で再現して無双するのが流行りですね。でも本当の日本人も大概無茶してます…。だって、現代人が過去にトリップしたとして、風船爆弾を作る訳がない!しかも和紙で風船を作らない。そもそもその発想が出来ないよ。
ちなみに、風船の素材のコウゾの和紙は、日本全国の和紙の産地に号令して腕利きの職人が作ったそうです。しかし、当初は場所によりサイズ・紙の薄さもマチマチで使い物にならなかった。そこで紙のサイズを決め、薄さを決めた。つまり統一規格を考案。日本人が得意なマニュアルを作り実行したんですね。今どきは人間国宝に指定される腕利きの和紙職人に、お前の作った紙は使えないからこっちで決めたマニュアル通りに作れ!と強制。更には、いくら腕利き職人を動員しても生産が間に合わないので、和紙の生産の機械化&和紙の巨大化を目指した。これは皮肉な事に、戦後なり地方で和紙の生産が後退するきっかけになったとか。
ちなみに、こんにゃく糊でコーティングする技術は江戸時代からあったんだって!今では和紙より素晴らしい素材が数多くあるとはいえ、日本の和紙文化って現代では過小評価され過ぎかも?
さて、直径10メートルの風船爆弾をどうやってアメリカに飛ばしたか?知りたいよね?
なんと、あの時代の日本人は風船爆弾を自然の力を利用して飛ばしたんですよ、ええ〜??マジでェ〜??話を聞いて空いた口が塞がらない有様です。ポカ〜ンですっ。
具体的には風船爆弾を、冬になると日本の上空1万メートルから12000メートルの高度を吹く偏西風に乗せて飛ばしたんです。
風船爆弾はアメリカに着けばOK!というものではありません。何しろ兵器です。兵器ならば殺傷力を備えてなければ兵器ではありません。では風船爆弾に何を乗せて飛ばしたか?というと、当初は凶悪なウィルスを乗せて飛ばす計画でした。しかしそこで立ちはだかるのが上空の低温です。冬、高度1万メートルを2昼夜半かけて9000キロ先のアメリカへ飛ばすのですよ。まずはその低温に長時間耐えられるウィルスを見つけなければならない。試行索後の末、牛を殺す牛疫ウィルスを発見。あとは風船爆弾に積み込むばかり。風船も出来上がるまでにこぎ着けたのが既に昭和19年11月でした。
この時期が問題。終戦は翌年8月な訳で。陸軍登戸研究所に勤める研究員達は、日本のトップエリートです。この戦争が日本の負けで終わる事は既に見えてました。で、牛疫ウィルスです。こいつは強力で、もし実践投入したら、後の世に日本が世界初の細菌兵器使用者になってしまう。それは具合が悪いと思ったそうで、風船爆弾につり下げるものを牛疫ウィルスから4キロ焼夷弾2個と15キロの爆弾に変更して実戦投入しました。この段階で風船爆弾の威力は強力な兵器からおもちゃ程度になっちゃった訳ですが、それでも実戦投入です!
風船爆弾は2昼夜半偏西風に乗せて飛ばすので、気温が下がるとバラスト砂袋(和紙製)を落とし、高度を保つ工夫だってついてました。
攻撃開始は昭和19年11月7日。
風船爆弾は偏西風が吹く翌20年4月上旬まで順次攻撃を継続、延べ9300発放球した。なんと!こんなやり方なのに、>実際1000発以上がアメリカに着弾してたんだって!
ええ〜〜〜!!マジでぇ〜〜!!ショボい焼夷弾と爆弾に切り替えてなかったら、日本の攻撃で牛疫ウィルスに感染した牛が大量に死んでたかもしれない。あの時代に正体の分からないウィルスを押さえ込めたと思えないので、世界初の細菌戦が成功してたら、今の歴史がちょっと変わったかもしれないですね。
ちなみに、アメリカでは風船爆弾にぶら下げていたショボい焼夷弾や爆弾に触ったアメリカ人が、実際死んだりしたそうですが数はわずか。ただ日本としては心理作戦としては成功という評価だそうで。しかし時のアメリカ政府(軍部)は日本から風船爆弾が到達してる事は秘密にして情報管制したそうで。そりゃあ隠すよ。恐怖は伝染するからね。おおやけには出来ませんよね。
という、教科書には絶対に載らない秘密作戦は本当にありました。びっくり〜〜!!

続いて第三展示室へ移動。今日の記事もまだ長くなっていますので、以降は巻きで書きます。ってか、当日風船爆弾に気分が盛り上がり過ぎて1日の記憶容量を割き過ぎたのか、以降の部屋はだいぶん記憶はヌケ落ちてます。短く。短く。ではスタート!
第三展示室は、生物兵器・毒物・スパイ機材など研究開発を行った第二科の活動を紹介しています。第二科は、日本陸軍が水面下で行っていた秘密戦を兵器・資材の開発という点で支えました。とりわけ、諜報・諜報活動に関係して、登戸研究所の中でも七三一部隊や中野学校・特務機関・憲兵隊などと最も関係が深かった部署といえます。『明治大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブック』より
第二科組織表
第1班…秘密インキ・オブラート紙・風船爆弾(材料研究)・気圧信管・焼夷剤・爆薬・毒性化合物など
第2班…毒物合成(蛇や植物が持っている毒を実用化できるように)・え号剤など
第3班…毒性化合物・青酸化合物(青酸二トリル)・耐水マッチなど
第4班…細菌(炭疽菌)・対動物用細菌・各種毒物など
第5班…秘密カメラ(ライター型・マッチ型・ステッキ型・カバン型・ボタン型)特殊カメラ(遠距離撮影用・夜間撮影用・水中撮影用・暗視装置<あ号>)・超縮写器材(マイクロドット)・感光材料など
第6班…対植物用細菌(小麦条斑病菌)・土壌破壊菌・真菌・昆虫(ニカメイチュウ)など
第7班…対動物用細菌(牛疫ウィルス)など
どれもこれもまるでスパイ小説ですね。今ならスパイ映画!007が使ってそうなスパイ兵器のオンパレードですね。ガイドさん(資料館の館長の山田先生)の披露して下さった話の中で今覚えてることを書き出しますと?
1)戦後、登戸周辺でお米の不作が起きた。もしかして登戸研究所で研究していた昆虫が逃げたのでは?と疑った。これが登戸研究所が最初に注目されたきっかけ。
2)更に帝銀事件で使われた毒物は、登戸研究所で作られた毒なのでは?という噂が起きる。これに対し、元研究員達は口をつぐんだ。真相は闇の中。
3)登戸研究所が発足した当時、のちに登戸研究所所長となる篠田大尉は私財を投じ、世界中のスパイ小説を収集した。そして登戸で研究しものによれば再現した。(これらの本は終戦時の秘密文書ー秘密兵器徹底殲滅の中で全て失われた)
4)研究の成果で米が穫れなくするニカメイチュウを、中国で実験する事になった。缶詰にニカメイチュウの幼虫を入れて中国に送った所、日本より中国は暖かく、中国に到着後開けたら幼虫が全て蛾になっており作戦が失敗した。
以上思い出したエピソードです。他にもガイドさんが話してくれたエピソードがあったかもしれませんが、もう思い出せない。ごめんなさい。

つづいて第四展示室へ移動。
第四展示室は、偽札製造を行った第三科の活動を中心に紹介しています。第三科は高度な印刷技術を駆使して、とりわけ中国の蒋介石政権の紙幣偽造に力を注いでいました。『明治大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブック』より
偽札を作る目的は、経済謀略(インフレ促進)です。主に中国の紙幣。米ドル。インドルピーを作りました。まず本物のお札を作っている職人をスカウトし、本物のお札を作ってる印刷機で、精巧な偽札を作り中国で使ってみたらすぐにバレた。失敗したのは中国と日本では紙幣に使う原料が違っていたから。印刷技術云々でなく手触りが問題だった。そこで新札の偽札を1枚1枚シワシワのボロボロにして使ってみたら、問題なく使えた。当初はちまちまと偽札を使っていたが、いっこうにバレないので次第に大胆に偽札を流通させた。中国で支払う給料や購入物資など全て偽札を使用した。最終的に40億円相当の偽札が印刷され、25億円が物資購入で使用されたとか(1945年当時の日本の国家予算は200億円です。どんだけ大量に偽札を作ったのか!)。
やがてアメリカ・イギリスも日本の偽札戦略に気づき、対抗措置として高額紙幣を発行し、日本の偽札を無力化しようとした。
昭和20年に入ると、敗戦の気配が強くなり、登戸研究所は本土決戦に備え長野に移転疎開した。しかし、偽札を作っていた第3科は登戸に残った。印刷機が大き過ぎて動かせなかったから。
やがて終戦を向かえた時、印刷機と偽金はいずこへかと消えてしまった。責任者は後に政財界の黒幕といわれた児玉誉士夫だった。私でもロッキード事件は覚えてるよ。突然のビックネームの登場に私の思考が一時停止しました。気付いたら「次の部屋へ〜」と移動してた。
先生のお話は突っ込みどころが多過ぎて、思考停止してる場合ではありませんよ。でも先生はニコりともしない。次から次へとエピソードがこれでもか〜!と披露されるのだ。私は歴史の闇が面白過ぎて叫びそうになってたのに〜〜。
ちなみに偽札印刷をしていた建物は木製で、2009年まで現存していたが、建物の耐震に問題があり撤去されました。後で学内に残る跡地見学しました。

続きましては、登戸研究所時代に暗室として使用されていた部屋を見学。
入口のクランクが当時のまま残っていて感動。手がふさがっていても通路をクランクにする事で、外の光を暗室に届かないように工夫されていた。当時の外光が室内に届かないように工夫した二重窓や流し台も残っています。資料館として使われている建物の中で、登戸研究所時代の雰囲気が残るのはこの部屋だけ。必見!

最後に第五展示室へ。
第五展示室では、日本軍の戦局悪化にともなう本土決戦体制の構築の流れと、そのひとつだった登戸研究所の移転の様子を展示。また、敗戦・占領政策と登戸研究所の関係や、資料館として生まれ変わる過程を、研究員だった伴氏に取材した高校生の交流を中心に紹介。
松代大本営って聞いた事ありますか?戦局が悪化し、日本本土で地上戦をするのを見据え、天皇・政府・軍を長野県の松代へ移転する予定でした。軍の大事な機関だった登戸研究所は、昭和20年3月から4月にかけて研究科を順次移転します。第一科第一班班長の伴さんも長野に移転しました。その際、本土決戦になった時、敵が飲み水に毒物を投入する事を想定し、伴さんは石井式濾水機と濾過筒を登戸から移動させていました。ちなみに、石井式濾水機の石井の文字は、あの731部隊の石井四郎部隊長が開発したからその名前が付いてます。
1989年、長野の高校生が伴氏の自宅を訪問した折、裏庭に大量の濾過筒があるのを発見。(そもそも極秘司令で破棄を命じられたのを伴氏が壊さすに残したブツです)。その現物が第五展示室には大量に展示されています。濾過筒は本来使い捨てなので、残ってるのが奇跡。更には実際に濾過筒の端に「軍事秘密」と刻印されてるのを確認して、何だろか?クルものがありましたよ。
「さて、ここでガイドブックにも掲載してないものを紹介します」と館長さん。
「これは去年長野に取材にいった時に私が見つけました」と取り出したのは白くて細い棒です。
一見ショボい。でもこれただの棒じゃなかった!
「長野では土バチを食べます。飛んでる蜂を捕まえて目印を付け、後を追いかけて地面に作った巣を発見。そこへ地元の人がこの棒を突っ込んで火をつける」ン??なんかおかしな事を言ったね?と。細い棒が燃える?だと??棒を確認したら、片方に焦げた跡があった。
「この棒はどうしたんですか?」と蜂取りの方に尋ねたら「この棒はよく燃える。蜂を採るのに都合がいい。欲しければあげます。他にもあるし」といわれのでいただいてきました」
お、おう?何が起きた?話は続く。
「この棒の正体は軍の秘密兵器です」
ええっ!マジでぇ?
「例えばこの棒を傘の持ち手に仕込み、スイッチを入れると先端から火を吹くスパイ器材です」
な、何だってぇ〜〜!!おお〜〜〜っ!!今では蜂取りの道具が実は〜〜〜っ!!ときたか!感動した!ただのショボい棒じゃなかったんだ!かつての秘密兵器が今や平和利用されてるのね。
「ちなみに既にNHKが取材に来て撮影していきました」
お、おう…。裏話を聞くととても感動する逸品だけど、実際はただの白い棒だからね。裏話がないと分からんわ〜。まあそれがスパイ兵器だけども。…テレビのビジュアル的には使えないよな〜。NHKの取材した人も撮影素材をどう料理するか頭を抱えたんじゃないかな〜?
館長さんのお話は登戸研究所と研究員の戦後。戦争犯罪の免責と引き換えという名目の元、横須賀のアメリカ軍基地に連れてかれ働かされ、追ってアメリカ本土で研究を続け〜という状況に。帰国出来たのは戦後随分たってーー。
ちなみに、朝鮮戦争(1950年−1953年*休戦) ベトナム戦争(1955年−1975年)です。登戸研究所研究員の戦後(1945年〜)の免責引き換えのアメリカ軍でお勤め実績はこれに投入されたと思われますが、それもまた別の秘密戦なので詳細は想像になりますね。
更に伴さんの元へ登戸と疎開先の長野の高校生が時を同じくして登戸研究所の事を調べ出し、取材に行き、かつて登戸研究所の研究員が、あの時代事は秘密にして墓まで持って行くという固い決心が、「これからの日本を作って行く未来ある高校生が知りたいのならば…」と思い、凍り付いていた歴史が動き出し、やがて資料館開館(2010年3月29日)へと続くのですが、あんまり今日の記事が長くなったので省略。明日は学内に残る戦跡巡りです。つ、疲れた〜。
尚、資料館内の画像が全くないのは、狭い資料室に見学者がぎっしりで撮影出来なかったからかも?館内撮影禁止だったかどうかはもう覚えてません。見学会参加者が20〜30人もいたので、物理的に無理だったよね。撮影は最初の第一室で諦めたんじゃないかな?違ったか?何しろ5ヶ月前の出来事を記憶の限り思い出そうと頑張って記事にしてるので、余程印象深かった出来事と言葉しかもう覚えてないんだよね〜。
ちなみにトップ画像に使用したのは、画像が全くないのはさまにならないと思い、学内に現存する陸軍マークの星形のついた消火栓です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧陸軍登戸研究所見学

2017年03月23日 05時37分33秒 | 展覧会&観光施設&能楽
その昔、陸軍登戸研究所と呼ばれていた所は、現在明治大学平和教育登戸研究所資料館となりました。登戸研究所は、日本が戦争をしていた時代とても重要な軍の施設でした。
あなたは今何歳ですか?私が子どもだった頃、推理小説といえば明智小五郎が登場する江戸川乱歩のお話でした。だいたいその時代にちょっと悪い大人が子どもにヒソヒソと話してくれた戦争時代の秘密な作戦や、スパイ小説に登場する秘密道具。だいたいそれを真面目に研究して実践したいたのがどうも登戸研究所だったらしい。そういう解釈でした。
それはだいたい合ってるのですが、かつてはおおやけにしてはいけない事でした。

去年の10月のある日、海外旅行のツアー会社から毎月送られてくる月刊誌に「明治大学平和教育登戸研究所資料館」見学会の参加
募集がありました。
見学内容:資料館ができるまでのドキュメンタリーDVD鑑賞(30分)→スタップによる館内展示ガイド(約1時間)→(質疑応答・トイレ休憩など約20分)→学内に点在する史跡のガイド(約40分)
集合時間:午前9時55分(*終了は12時30分を予定しています) とありました。
これ、参加するしかないでしょう!ってな事で見学会に申込、10月27日に見学会は実施されました。
すんごく為になり、勉強になりました。子どもの時にどこかの悪い大人がこっそり教えてくれた風船爆弾の実物縮小模型が資料館に展示されてるのを見てびっくらこきましたよ!

ええ!!風船爆弾!それ、マジにアメリカに飛ばしたの?え??風船って和紙製??マジで??しかも実際に9300発も飛ばしたの!?んでもって実際にアメリカに約1000個が到達してるの〜〜??
マ。マジか〜〜…。全然知らなかったんですけど〜?
風船爆弾という名前は知っていたのに、それが実際に使われていたとはっ!!てっきり悪い大人の作り話だと思ってたわ(子どもの頃から捻くれてたんです、私)驚いたなんてものではありませんでした。
実際に見学ツアー説明についてくださったのは、なんと!資料館の館長さんの山田朗先生でした!
もうね、館長さんの話は専門家しかしらないような裏話を交えてエピソードがボロボロ出て来るのですよ。今までに歴史カテゴリーであれこれ記事を投稿しましたが、驚き加減でいえばこの見学会がぶっちぎりでした。せっかくなので、感動を大事に大事に記事にしようとして出来ず挫折。今まで放置していたのですが、図書館で借りて来た本の返却日が過ぎてしまいまして〜〜!さすがにヤバいのでこの辺りで投稿する気になりました。あの面白さをどこまでお伝え出来るか?自信ないんですが、おつきあい下さい。

最寄駅は小田急線生田駅。南口より徒歩約15分。明治大学は丘の上にあるので、明治大学地域産学連携研究センターのエスカレーターを利用すると便利です。明治大学の敷地は、南に向ってゆるい坂道になっています。少し息が上がる頃、資料館に集合時間前に到着。
資料館はトップ画像です。実はこの建物はかつて陸軍登戸研究所時代に第二科研究室(36号棟)だった実際の建物です。明治大学のキャンパス内に、陸軍登戸研究所時代の戦争史跡が今でも現存しているのです。もう最初っからびっくりだよねっ!終戦後、登戸研究所は米軍の接収を経て、慶応義塾大学が借用(1950年まで)、その後明治大学が研究所時代11万坪の跡地のうち5万坪を購入しました(下のマップの赤の点線で囲んだ部分)。当初は登戸研究所の建物をそのまま利用していたものの、年を追ってかつての建物は老朽化し撤去されていきました。しかし跡地が大学になったからこそ、少ないとはいえ戦跡が学内にのこっている模様。
かつて登戸研究所時代の建物配置図です。『明治大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブック』より
こちらが現在の建物配置図です。
見比べると現在の大学の建物が、かつての研究所時代の建物を壊して同じ場所に新しく建物を建てて来たのが分かります。
集合時間が来ていよいよ資料館に入室。まずは戦争の時代のDVDを鑑賞です。
あれこれ見たのですが、ほとんど忘れちゃいました(やっぱ10月の出来事を3月に記事にしているのがヤバいです。最近は記憶力の低下がヤバ過ぎです)ただ焼け野原になった川崎の映像はバッチリ覚えてるんですが、川崎と登戸は上空をいく爆撃機からすれば目と鼻の先という程近所なのに、登戸研究所は無傷だったんですって(戦時中に何度も飛行機から掃射はあったけど)。研究所を無傷で残したのは裏がありまして。アメリカは潜入スパイからの情報で、登戸研究所の重要性が分かっていて、戦後登戸研究所の人材と研究成果をアメリカが使うために空爆しなかったとか。実際、戦後主だった研究者は、横須賀基地のケミカルセクションで働き、更にアメリカ本土に連れてかれサンフランシスコで技術指導にあたったとか?(戦争犯罪免責と引き換えで情報提供した)
それってさ、結局はアメリカが朝鮮戦争やベトナム戦争で登戸研究所の研究成果を実践したってことか…。
研究成果の実践と言っても、戦争時代の実物資料はほぼ残ってません。というのも、敗戦がいよいよ真近に迫ると、陸軍は真っ先に極秘通達で登戸研究所の機密文書や秘密兵器を一切合切、徹底的に破壊・隠滅命令を下し、直後速やかに実行されたので現存してません。
ただ、本土決戦に備え、4月に登戸研究所の主立った研究室を長野各地に移転疎開したので、そちらに持っていったものはわずかに残ったとか。あとは研究者の記憶の中に。
しかし戦後も研究者達は秘密を墓まで持って行く覚悟だったので、長らく陸軍登戸研究所の真実は謎のままだったとか。それがなぜに今資料館があるか?というと、ある研究員の元に長野と川崎の高校生が登戸研究所の取材に訪れた時、私は登戸研究所の秘密を未来に残さねばならないと思ったからだそうで。この研究員というのが、かつて4つあった研究科の第二科(憲兵・スパイ器材、毒物・生物化学兵器の研究・開発部署)の第一班班長だった伴繁雄氏です。結構高い地位に合った彼は、自分の知らない研究は書けないので、かつての部下に号令をかけ、何を研究していたか?レポートを書かせました。それが本として発行されています。

戦争犯罪に関する本の出版を引き受ける出版社を探すのは相当苦労されたようですが、無事1冊の本になりました(左側)*著者の伴氏は原稿を書き上げて間もなく死去。出版には奥さんが頑張られ実現させたとか。彼女の頑張りがなければ、私達は登戸研究所の真実を知る事が出来なかったかも。
ちなみに上の画像の右の本は、資料館の館長さんにして私達のガイドさんの山田先生の著書です。図書館から借りて来てます。貸出し期限過ぎてしまってるので、明日返却する奴。(*3月22日に返却済み)
という事で、前置きが凄く長くなってすみません。いよいよ資料館の見学開始です!
まずは第一展示室から。
第一展示室は登戸研究所が設置された歴史的な背景と目的、立地条件、組織の概要、運営体制、他機関との関係、戦争の進展とともに研究所の規模と役割が次第に変化していく過程を中心に全容が紹介されています。
何が凄いって1927年(昭和2年)に室長ほか数名で始まった研究所が、1945年(昭和20)には862名<雇員&工員618名・技手&嘱託112名・将校&技師132名>まで拡大したこと。更に登戸研究所の1942年度の使った金額が、679万円だったこと。(当時200万あれば本格的な飛行機工場が一つ建つ時代)
ちなみに、昭和20年4月、戦況悪化に伴い、登戸研究所は研究室毎に長野に移転疎開したそうで。唯一偽札を印刷していた第三科は印刷機があまりに大きくて重く、動かせなかったので登戸に残ったとか。あと聞いた面白エピソードとしては、研究所で事務員や逓信士として働いてた近所の主婦が多勢いたそうで。彼女等は研究所が長野に移転する際彼女達は解雇されたとか。後に取材で「ワンピースが買える位の退職金が出た」と語ったそうです。それを聞いた私は「昭和20年4月に退職金が出たんだ〜」とびっくりしました。どうも私が戦争時代は理不尽だと思っていたのは、だいぶんドラマとか映画の脚色されたり悲惨さを強調するため作ったエピソードを見た影響が強過ぎるようです。日本のテレビや映画はお話の主人公を感傷的に描き過ぎて視聴者のが感情移入し易いように作り込む傾向にあります。だからあの時代に生きた人々の実際の所が伝わってない模様。気付けただけラッキーと思おう。
次は第二展示室へ移動。
第二展示室の説明の前に、陸軍登戸研究所の大前提を知っておかねばなりません。
そもそも陸軍登戸研究所は、<秘密戦>における兵器・資材の研究、開発機関です。
では<秘密戦>とは何ぞや?→戦争には必ず付随するけど、歴史に記録されない<裏側の戦争>
→戦争に限らず、平時においても密かに行われている<水面下の戦争>
→<秘密戦>の4つの要素、防諜・諜報・謀略・宣伝(戦争プロパガンダ)
のこと」見学会で配布されたコピーより。
うわ〜〜。まだ展示室1部屋分しか書いてないけども、記事が長くなったので一端切ります。風船爆弾のエピソードが面白過ぎて、更に長い文章になりそうなんです。面白過ぎて省略出来んのじゃ!よって続きは明日に持ち越し。すみません。うまく書けてる気がしないけど、頑張って続き書くね〜。
こちらが見学会でいただいたパンフレットです。凄く詳しく出来てます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お守りを返しに出雲大社相模分祠へ

2017年03月22日 05時48分22秒 | ぶらぶら散歩
2017.3.19訪問。秦野市水無川の土手に300本のおかめ桜が満開中としり、これは都合がいい!と早速お出かけしました。桜が咲く土手は県立秦野戸川公園に続いています。なのでついでに秦野戸川公園をぶらり散歩しました。300本のおかめ桜はとても素敵で気持ちいいぶらり散歩になったので、公園の大倉バス停から移動する予定を変更し、帰りも水無川の土手を歩く事にしました。

せっかくなので公園に来た時と違い、ふれあい橋を渡り向いの土手を下流へ歩こうと思う。

あれ?これって、おかめ桜じゃないね?あ。桃だ!桃が数本咲いてます。

秦野戸川公園では駐車場利用が最近有料になったそうで。こっそり土手に止めてる車両を見つけてしまいました〜。まあこっち側に停めててもそうそう見つからないよね〜。

水無川は名前のごとくほとんど水がありません。なので、河原に降りて向い側に移動するのも簡単です。
………。やってみたい。
やってみた。簡単だった!(もういい年なんだからさ〜。落ち着こうよ。自分)

疲れたので休憩。そういえば、お昼ごはんを食べた時ダンナが「まだ5000歩しか歩いてないよ〜」って言ってたので、「今何歩くらい?」と尋ねたらば。「1万歩ちょうどくらい〜」だって。…結構歩数増えたな〜。出雲さんは結構最寄駅が遠いんだけどな〜。……やっちゃったか?
でもこんなに綺麗な風景が引き換えならば、少々疲れそうでも諦めよう。
ってな事で、おかめ桜の途切れる平和橋に到着です。
私「バス停を探さないと?」ポケットを探る。
ナイッ!!地図とバス停と出発時間を書いた紙を落とした〜〜!!
ともかく、平和橋バス停は昨日WEBで路線図見たからなんとなく覚えてるから〜〜〜。
あ!発見!良かった〜。んで?秦野駅行きのバスの時刻表は〜??
今は12時55分?だから〜。あ〜あ!まだ15分くらいあるなあ〜。もしかしたら渋沢駅行きに乗った方が早いかも?向いのバス停の時刻表を見に行くかな〜??迷ってると、まさかまさかでバスが来た。バスが遅れてたんですよ〜。ラッキー。
ここで私のブログを長くご覧して下さった方は「あられが簡単にバスを使うのはおかしい?」と思いましたよね?でも今回は《丹沢・大山フリーパスB切符》を利用してるので、バスに乗っても乗らなくても同額なんですよ。ならバスに乗った方がいいじゃんね〜。まあ、フリー切符の使える路線は限られてるのですが。
ってな事で、うろ覚えの降りるバス停は〜確か【榎木堂】だったハズ。バス停の名前を追いかけて、榎木堂バス停到着です。
一番近い道を南にまっすぐ。橋を越えて。始めの信号が《新町》って書いてあったハズ。ハズハズハス〜〜。道が簡単で良かったわ。あ。富士見大橋だ!道合ってる!!以前渋沢駅から水無川沿いを桜散歩した時、ここで水無川から別れて出雲大社相模分祠に向ったんだった。
秦野の水無川の桜(2013年4月17日)の記事 こちらが2013年3月30日の水無川桜散歩の記事です。満開のタイミングで、土手の桜。土手の斜面に芝ざくらが咲いています。
あ!新町交差点!更に小田急線の踏み切り!ということは、奥に見えてる高い木が出雲大社相模分祠の境内の樹だ!ってな事で地図なしで無事に到着しました〜。

一昨年の5月だっけ?に購入した出雲さんのお守りをお返しに来たのです。これが今日の散歩の一番の目的でした。お守りを購入して1年過ぎてるのでずっと気になってたんですよね。

白い鳥居は鎌倉宮の鳥居も白色だったなあ〜。結構珍しいんじゃないかな?
鎌倉宮の河津桜82013年3月17日)の記事こちらの記事に鎌倉宮の白い鳥居の画像があります。

お礼のお参り。調度初参りの一家がいらっしゃって。名付けの額を持ってました。一生の思い出ね。三脚をお持ちじゃなさそうなのでシャッターやるよ?と声をかけようか迷ってたら、巫女さんが気を効かせてカメラマンしてました。

ん?龍神の泉の入口が派手になってます。んで??祝『名水百選』選抜総選挙『おいしさ』部門全国一位 秦野の名水 天然水1ℓ150円 環境省主催
へえ〜へえ〜へえ〜〜!!秦野はあちこちに湧水が湧いてるんですがね。味も環境省のお墨付きなのですね。
ちなみに、出雲大社相模分祠さんは桜も綺麗です。
出雲大社相模分祠(2013年4月18日)の記事  桜の季節の出雲大社相模分祠の画像を確認できます。
あ〜。ずっと気になってたお守りを無事にお返し出来てすっきり〜。さ〜帰るぞ〜!!
昔道をゆるゆる進む。
あ!野花が一杯〜。これって春の七草じゃないかな?

ほとけのざとなずな??いや違う。よく見たらここはほうれんそう畑じゃなかろうか?

でも何かが足りない…。あ!モンシロチョウがいないんだっ!でもシジミチョウは見ましたっ。春!春ですねえ。(疲れてボチボチ頭が回ってない)
今泉名水桜公園に到着。ここっていろんな桜が植えてあるの。以前桜が咲いてる時期に訪問した記事がこちら。
今泉名水桜公園へ(2013年4月20日)の記事 こちらの記事に昔道沿いの今泉神社・今泉名水桜公園・大岳院と桜の画像があります。
でよって見た。やっぱり咲いてた。でもこの公園の主役は水鳥です。撮影するなら望遠がいるけどな。
ふと?そういえば、公園の隣のお寺の本堂って有名建築家の作品だったような〜。ここまで来たら見に行こう!

これ、本堂なんですよ。

こっちが正面。

ご本尊は釈迦三尊像かしら〜?
お寺の境内から公園の池を眺める。

水鳥が楽しそうに浮かんでいた。さて帰ろう。結構疲れちゃったな〜。
帰宅したら案の定20000歩超えてた!や、やっぱり〜。疲れるハズだね。心は充実してるけどね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秦野戸川公園初訪問2017.3.19

2017年03月21日 05時41分18秒 | ぶらぶら散歩
訪問は2017.3.19です。秦野市の水無川は桜の名所で、数年前小田急線渋沢駅から水無川を桜を追いかけて下流に、富士見大橋まで歩きました。とっても素敵でした。
秦野の水無川の桜(2013年4月17日)の記事 こちらに2013年3月30日に訪問した水無川の土手に咲く満開の桜道の画像があります。
今年の桜をどこに見物にいこうか?と。桜情報を集めていたら、秦野市の水無川の土手で300本のおかめ桜が満開とありまして、出かけました。渋沢駅からバスで大倉入口まで。おかめ桜の並木はこの近くの平和橋から始まります。満開のおかめ桜並木の下には黄色い菜の花が咲き乱れ、メジロの群れもやってきて、とっても楽しく水無川の起点に到着しました。更に土手道を進むと、神奈川県立秦野戸川公園に到着します。

秦野戸川公園には初訪問です。まず驚いたのが高い吊り橋です。訪問に先立ち公園のホームページをチェックしたので、公園は川の両側に立地して、川を吊り橋がかかってるのは知っていたのですが、パソコン画面で見るのと実際に訪れるのでは大違いです。で、でっかい!高い〜〜〜っ!え?私、これ登るの??
そうなんですよ〜。まずは公園のマップをゲットすべくパークセンターを目指します。ってな事で、【パークセンターはこちら】の立札の示す方向へ。

ぶっちゃけ坂道です。

坂道です。
坂道は緩くくねって吊り橋の高さへ向います。途中でまだかろうじて花がついてるちいさな梅林がありました。

梅好きに<人気のある思いのまま>がありました。

こちらはもうすぐ咲きそろいそうなミツマタです。

吊り橋を背景にいい撮影モデルになりそう〜。
時間をかけて坂を上り切ると、既にほとんど若葉になってる河津桜が数本。
ん?奥に白い花の咲く樹は並んでるね。あれは木蓮か?辛夷か?

木蓮でした〜。

うっ!逆光〜〜!!逆光はともかく公園内からだと電線が邪魔です〜。街路樹ですかね?10本位満開の木蓮が並んでます。ちなみに木蓮が並ぶ場所は、《ちいさな庭の見本園》の側でして、見本園に隣接して現在チューリップがめきめき成長中。
ではパークセンターへ。
パークセンターは、丹沢へ登る人向けにビジターセンターも兼ねてる様子。渋沢駅発9時50分大倉行きに乗車しました。満員でした。立ち乗り客にはこれから丹沢へハイキングに行く学生グループがいました。秦野戸川公園はお手軽ハイキングの出発地なんですね。
でも私が知りたいのはこっち。

公園の桜マップと見頃情報です。え〜と?現在見頃を迎えているのはおかめ桜だけか〜。やっぱおかめ桜は早咲きだからね。あと寒緋桜と…。とりあえず桜がある山里庭園を目指すか〜。

パークセンターで4/7~4/17開催チューリップフェアのポスターを見つけました。【県立秦野戸川公園の開園20周年を記念して、10万本のチューリップを植栽しました】だそうで。見応えありそうですねえ。

パークセンターを出ると、顔出し看板を見つけました。

橋を渡る前によもぎあんパンと熱いお茶で腹ごしらえ。橋の左右にベンチあります。ふと、坂道を上る時に木蓮を見上げたのを思い出し、手すりから下を覗くと??ええ。いい感じ。木蓮って上から見るとこんな花の形なのね〜。

橋を渡りました。またまた坂登りですわ。緩い勾配だけどね。ンでトップ画像の場所で山里庭園をゆるゆると降りて行きます。ここは山里庭園で、道の左右に庭木がたくさん植えられていました。

上の画像の手前の木は、黄色い花で一杯の山茱萸です。橋を入れようとしたら花の色が綺麗に出なかった〜。失敗した〜。
途中、茶室があり、着物姿のおば樣方がお茶会をやってました。自分の順番が来るまで外で待っていても、今日は暖かいから楽しそうでなにより。

せっかく上った坂をゆるゆると一番下まで降りて川を渡る。

振り返ると吊り橋が凄い高さに見えてびっくり〜。ゆるゆるウォーキングですが、お昼ご飯からここまでのんびり歩いたので40分かけてます。
あ。山茱萸がある。

上で撮影失敗した黄色い花の山茱萸です。お散歩していたどこかのおじさんが「綺麗だねえ」と声をかけてきたので「これ梅林にもよく植えてあるんですよ。紅白の梅とかと一緒にすると白・ピンク・黄色の3色になって綺麗なんですよね。楽しいお散歩で気分が上がってると、知らない人との会話も楽しいね。

あ。ツクシ発見!ツクシを見たの久々かも〜。

時刻はまだ12時18分でしたが、今日の散歩は別の目的もあるので、水無川沿いをおかめ桜が途切れる平和橋まで追いかけて戻ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おかめ桜300本が満開です

2017年03月20日 14時34分40秒 | 桜散歩
2017.3.19訪問。小田急線渋沢駅に9時38分到着。駅前のバス停に行くと既に9時50分発のバスが待ってました。大倉入口バス停下車。バス停のすぐ北の平和橋に10時に到着すると?
やった〜〜!!まだ見頃だ〜〜っ!!

秦野市のホームページのおかめ桜レポートでは、3月8日の開花状況しか分からなかったんだよね〜。「今はもっと咲いています」と書いてあるのみだったので不安はあったけど、最高気温が15度くらいの日が続いてたから、おそらくまだ大丈夫だと踏んで、小田急電鉄のお得なきっぷ【丹沢・大山フリーパスB】を利用して出かけました。何はともあれ、まずは画像をごらん下さい。

おかめ桜は水無川の平和橋から上流に向い、300本植えられています。平成22年2月に秦野市民が毎年美しい花を咲かせ、桜の名所となるように植えたと説明板に書いてありました。いいお散歩コースです。桜を愛でながら上流を目指します。

まだ知る人ゾ知る桜道なのか、こんなに綺麗なのに歩いてる人が殆どいません。たまにランニングしてる人に追い抜かれる位です。

振り返ってみた。逆光だった。

更に上流へ向うと、道の奥に吊り橋が見えた。あそこが一度行ってみたいと思っていた神奈川県立秦野戸川公園です。やがて二級河川水無川の起点の標識を見つけました。え〜と?二級なの??川にほとんど水が流れてないんですけど…。あ!だから「水無川」という名前が付いてるのね。

【水無川起点】の標識を越え、土手の道を更に進むと?駐車場に出た。駐車場脇の坂道を上がると、既に秦野戸川公園に着いてました。

時刻はまだ午前10府36分です。秦野戸川公園を歩いてみたいんだけどもさ。予想外に吊り橋がデカい…。吊り橋の高さまで、登るのか〜…。ま、頑張ってみましょう!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高尾梅郷散策スタンプ

2017年03月16日 06時05分06秒 | 梅散歩
2017.3.11-12に高尾梅郷で梅まつりが開催されました。満開の木下沢梅林を楽しんだ後、徒歩で旧甲州街道を高尾駅へ戻ります。木下沢梅林から一気に坂を降りて、日影バス停付近で中央フリーウェイ越しに木下沢梅林を見上げてみると…。うそ〜んっ!まさかあんなに高い場所だったのか…。

馬の鼻先ににんじんをぶら下げる如く、私には梅林がエサだった訳ですね。

日影バス停付近も旧甲州街道の道幅は狭く、上りと下りの行き交いに苦労してます。上の画像ポイントは右肩のカーブミラーに写り込む車やもしれん。
ど〜にもすれ違えない危険なポイントには、バス会社の人が旗を持って整理してらっしゃいました。毎年やってるのね。ご苦労さまです。
ウォーキング参加の私たちはたまに背後から迫る車に注意する位で、のんびり旧甲州街道をいきます。沿道には春の花も咲いていて、例えばこれ。

たぶんナガバノスミレサイシンだと思う。高尾山はすみれの名所でもあるんですよ。日本には56種類のスミレがあると言われてます。中でも高尾は約20種類のスミレが見られるという、野草ウォッチング好きには憧れの場所でもあるとか。上の画像も撮影した時はよくあるタチツボスミレだと思ったのですが、よくよく見ると、タチツボスミレにしては葉っぱの形が長いのでおそらくナガバノの方ではなかろうか?ちなみに基本は薄い紫色の花ですが、株により白色もあるんだって。ちなみに高尾さんでは比較的多いスミレだとか。
そんなこんなで園央道の高架下を超えて旧甲州街道「荒井バス停」に着いた。
ん?【荒井梅林はこちら】散策マップによると、スタンプ押印ポイントではないけど10分ほどいくと梅林があるらしい。
上ってみた!鉄ちゃんが梅越しの中央線狙いでカメラの3脚を立ててました。トップ画像です。

見晴らしがいい。奥に見える梅林は高尾天満宮があった天神梅林かな?そこへ中央線がやってきた。撮影に失敗した!何やってるんでしょうか?電車写真は電車の顔が写らなきゃダメなのですよ。再生したら長い車両の真ん中しか写ってなかったわ。今日失敗写真多いなあ〜。
気を取り直し、荒井梅林へ。

実は荒井梅林も再訪でして、前回は見頃前だった木下沢梅林のがっかりを荒井梅林の満開の白梅で癒したんだよね〜。って!!
なんと、今回荒井梅林は立ち入り禁止になっていました〜。誰だ〜!?マナー悪い奴がやんちゃしたの?

せめてもの立ち入り禁止のロープの外から1枚だけ撮影してみた。これ、順光で見たかったかも〜?
時刻は既に13時41分になりました。え〜と?さっき木下沢梅林出発したのが12時44分だったから、ここまで調度1時間かかったのね。途中で休憩も寄り道もしなかったので、次にゆかれる方、目安にして下さい。まあ、私はのんびり歩いてるから参考にならないかもですが。あ。これは下り坂の所用タイムでる。小仏から駒木野まではゆるゆると坂道になってます。一番したの駒木野バス停が標高196メートルで、木下沢梅林最寄の大下バス停が標高300メートルです。とはいっても日影バス停なら標高220メートルですがね。後で急に坂が急になるんだよね。坂が嫌いな私と同志だと思われましたら、片道は高尾駅からバスに乗って一気に大下バス停に行くコースが疲れません。おススメです。
さてとお散歩再開。

最後のスタンプ設置会場の関所梅林に到着しました。時刻は14時15分。

空いてる机と椅子があったので休憩です。そうだ。旧甲州街道沿いにコンビニありません。自販機も見かけなかった気がします。私が訪問した当日は梅まつりが開催されていたので、梅郷に点在する梅まつり会場では臨時の売店が出店してて食べ物にも飲み物にも困りませんでしたが、今から行こう!と思う方は軽食持参が必須です。

ああ!臨時の郵便局が出てる〜〜!!母への写真ハガキを毎日出してるので、買いだめしていた52円シール切手が尽きてしまったのだ!切手集めが趣味の母の為にも出してないシール切手が欲しいですっ!
突撃したけど、買ってない52円シール切手は2シートしかなかったわ。

ちっ!まあ4月に2パターン発売されるから、それまでのつなぎにはなるな。と。2シート購入した所、おまけがついた!マスクとしおりとキッチンペーパーとポスくまのティッシュです。うおっ!4つもいいの?客こないの?暇なの??使える品のセレクトで私としては願ったり叶ったりですよ。ありがとうございます!
ちなみに、関所梅林のスタンプでスタンプハイクのスタンプコンプリートになりました。4つ集めたご褒美があるのか?と思ったら、抽選くじの箱が登場した。何の気なしにくじをおじさんに渡したら2等が当たりました。ちなみにダンナが3等を当てた。どんだけ当りの確率が高いのか??そんでいただいた2等賞の景品は?というと??
万能ドライバーでした。ちなみにダンナが当てた3等の景品は災害時に使える笛とミニ電灯がセットになったもの。え〜と??災害時に使える品という事か?祭りの景品としてはいかがな…。ああ!!祭りは3月11日・12日の開催です。3月11日といえば、東日本大震災の当日ではないの?そりゃあ防災用品はアリですわ。ってかナイスな景品のセレクトやもしれん。まあ、普段には使わない品々なので。そのうち我が家にも非常持ち出し袋を準備するかな?そこへ入れておくのはアリか。
関所梅林の後は最後の立ち寄りポイント高尾駒木野庭園へ。時刻は14時33分。前回は贅沢な作りの古い民家の屋内が見たくて上がらせていただきましたが、既に足が棒のよう。お庭をぶらりするだけに。

ヘタれなんです。体力がエンプチィなんです。今日は上り下りが多かったんで、足がむくんでまして、靴を脱ぐのはパスしていのだ。おまけにつま先が痛い。寒いかな?と思ってソックスをミズノのブレスサーモにしたんだけどね。汗かいたわ〜。足が燃える位暑いわ〜。

庭は綺麗。池も澄んでて底まで見えた。にしき鯉が美しい。ってな事で撤収。
旧甲州街道と、甲州街道が交わる交差点に出るともう駅まであとちょっと。

最後に見つけた雰囲気あるこのポイントは、画像上がJR中央線で、右手奥は旅館です。今も現役の旅館かどうかは謎だけどな〜。当日はハイキングツアーもガイド付きで出会ったのですが、ここで年配の男性ガイドが「私の好きなポイントです」とおっしゃってたのが聞こえました。ええ。目指すはみんな高尾駅なので、狭い路肩は混み合ってます。それは嫌なので、この先で私達は甲州街道をはずれて、中央線沿いの路地を行く事に。
「ここで問題です。帰りはJRと京王線どっちの高尾駅がいいですか?」
ちなみに運賃が安いのは京王線。ってな事で京王の高尾駅へ。もうすぐ200年・400年のしだれ桜が境内を彩る大光寺さんを横目に通り過ぎる。
高尾・大光寺の桜(2015年4月7日)の記事 こちらに2015年3月31日の高尾しだれ桜巡りの時に見た満開のしだれ桜の画像があります。もうすぐ桜の季節ですから今年はどこへさくら散歩に行こうか?迷ってたら参照にして下さい。
あ、現在のしだれ梅は、だいぶんつぼみがピンク色になってましたが、まだ咲いてません。
京王高尾駅から京王片倉駅へ。車内がほとんど埋まっていたのは高尾山で今日火渡りの神事があったから?乗客はみんな火渡りしたのかな?

京王片倉駅からJR片倉駅へ向ってると、レトロな建物で営業するカフェを見つけました。き、休憩したい。でも医者にコーヒー禁止を言われてるからぐっと我慢じゃ。時刻は既に16時33分。結構移動に時間がかかったのね。
ちなみに、クリスマスプレゼントでカロリズムをあげたら、ダンナがお散歩先に持参して歩数を教えてくれるようになりまして。本日の歩行は2万歩超えだそうですよ。き、聞きたくな〜いっ!
ちなみに疲れからか翌日熱が出た。私の身体って…。
おまけ:2015年3月14日ー15日に開催された高尾梅郷梅まつりの記事はこちらです。
高尾梅郷祭り(2015年3月16日)の記事 遊歩道梅林から天神梅林。湯の花梅林までを紹介してます。

高尾梅郷・木下沢梅林は1400本(2015年3月17日)の記事 旧甲州街道から木下沢梅林を紹介してます。

梅郷の向いは杉林〜(2015.3.18)の記事 咲き始めの木下沢梅林が分かります。花見はタイミングがとっても大事なのがよく分かるかと?今回が満開だったから、改めてこの時の記事を見て驚いたわ〜。そりゃあ人出が全然違う訳でした。

見頃の荒井梅林(2015年3月19日)の記事 今回立ち入り禁止だった荒井梅林ですが、前回は開放されてました。荒井梅林の様子が分かります。

小仏関所跡(2015.3.20)の記事 今回はさらりと流した小仏関所跡(梅林)ですが、こちらの記事に史跡の解説があります。ホラ、前回は梅があんまり咲いてなかったからさ、人出も少なくて歴史散歩し易かったんだよね。歴史好きにはおススメの記事かと。

高尾駒木野庭園(2015年3月23日)の記事 今回は屋内見学を見送った駒木野庭園内の古民家ですが、こちらの記事に屋内の様子や由来解説があります。あと、小名路会場とスタンプラリーのスタンプ画像も掲載。この時は私もダンナもティッシュだったんだよね。それに比べて今回は2等&3等当り!係のおじさんにもっと喜んであげるべきだったかも?つ、疲れてたんや〜。帰宅したら熱出たんや〜。愛想無しですまんかったわ〜。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

裏高尾・木下沢梅林は満開

2017年03月15日 05時37分46秒 | 梅散歩
2017.3.11.12は高尾梅郷で梅まつりが開催されました。祭りは点在する4つの梅林を巡りつつ観梅する趣向。一番の目玉は1400本の梅がある木下沢梅林のトレッキングです。実は高尾梅郷梅まつりは平成27年に続き2度目の参加です。前回訪れた時は木下沢梅林は見頃前だったんだけど?今回はどうかしら〜??とワクワクと上り坂を上がりましたらば〜〜〜!!
よっしゃ〜〜!満開じゃぁああああ〜〜!!ちなみに11時27分に到着しました。ここでお昼ご飯を食べる計画です。
ってな事で、今日は木下沢梅林を画像増量で紹介します。

一番おススメの撮影ポイントは、駐車場向いの丘の上。状況が分かるように観梅客を入れて撮影してみた!実は前回ここから撮影してません。というのも、木下沢梅林は丘の向いですから、気付かなかったのです。ところが、梅まつりのチラシや梅まつりの開花情報に乗ってるのが丘の上から梅林を見た画像でしてね。気付かなかった事事態に呆然ですわ。悔しくて、今回リベンジなのですよ。梅林の周りは飛び頃の杉林ですがね。この際無視!!花粉症のお薬も飲んでるし。あえて無視!!

機嫌よく撮影してたらワンコを連れた方がいらっしゃったので、お願いして撮影させていただきました。自分の腕のなさにがっかりです。素晴らしいシュチュエーションなのに撮影をしくじった〜〜!あ・あり得ん…。
気を取り直し梅林へ移動。

梅林入口で入園の寄付を募っています。でも無料でも入園出来る。
梅林はトップ画像で一目瞭然なのですが、高低差があります。

梅林に入ってすぐこの急斜面。そして梅林の道は狭い。素晴らしい撮影ポイントであっても立ち止まるのは後続の邪魔になる。もちろん前方からも続々と人が降りて来る。

せいぜい歩きながらシャッターを切る位しか出来ません。入口は朝9時から午後4時まで開いてるので、朝一に高尾駅から小仏峠行きのバスに飛び乗ってくれば人が少ない時間帯に着けたのか〜。ちと後悔です。前回はまだ見頃前だったから、あんまり人がいなかったんだよね〜。

ここの梅林は勝手に梅の側に立入り出来ません。狭い散策路とう名の道と階段を上り下りするトレッキングコースになっています。
ともかく、まずは前回お昼を食べた場所でお昼ごはんにすべく目指したのですが…。人で埋まってます…。それでもなんとか空いてる場所を探してあんパンと熱いお茶でお昼ご飯〜。

人が途切れるのを待って散策路をパチリ。

ちなみに散策路が広いのは梅林内の高い場所だけです。斜面の角度がきつい場所は道も狭いので足元注意にせざるを得ない。頭の上の梅はあんまり楽しめない。

上の画像奥を左右に走る赤色は、中央フリーウェイです。梅林の高い所は、旧甲州街道から見上げてた高速道路を、下に見る位置にあるんですよ。びっくりだよね?
あ!忘れてた!あられと梅のコラボを撮影しないといけないんだったわ〜。

この所まめに出歩いて、お花の写真を撮りまくっているのは、毎日母に1枚写真ハガキを出す為です。毎日1枚のお花の写真を確保するのは予想以上に大変です。更に大変なのは、小学生の夏の宿題の絵日記のごとく、毎日埋めねばならん絵はがきの裏面ですわ。いや〜、ネタに困るのなんの…。文才が欲しい。
そもそもなんで突然そんな手間のかかる事を始めたのか?というと、正月に実家に戻ったら母が「娘に年に1日しか会えないのは寂しい。あと10回会えるかな?」と言うんですわ。もう心にぐっさり突き刺さりましたよ。でも実際私は神奈川在住。実家は讃岐香川にあるので、そうそう帰省は出来ません。金銭的に大ピンチになってしまいます。ンで写真ハガキですわ。今どきはスマフォもテレビ電話も出来るのは知ってても、思いついたタイミングで見返せる写真は年取った母には向いてるし…。いや、脳梗塞発症後、できるだけしゃべりたくない私は、もともと電話が嫌いだったのに拍車がかかり、よっぽどの用事がないと電話をかけない人になってしまった。という裏事情もあるのですがね。

ってな事で、あられです。私のブログネームでもありますが。そもそもは実家があられ屋だからです。たまにブログに登場するあられは実家で作ってるのですよ。よくブログにペットやぬいぐるみを撮影モデル使ってる人がいますが、私は実家のあられを使ってます。ぼっち散歩が多いからだけではないのだよ。

心温まるエピソード(自分でいう)の後は梅林散策再開です。

高低差があると言う事は、画面構成も高低差を取り入れて遊べます。

ちなみに、木下沢梅林の向いは杉林。

背後の杉はほんのり赤いのは、あそこに杉花粉がついてるから!
いや〜〜、2月に暖かくて強風の日が多かったのに、3月に入って低温ですね。相模原は今日なんか最高気温9度ですよ。おまけに風もそこそこ強くなるそうな。杉花粉が早く飛び切るには、気温が高くて風が強い日が多いと嬉しいんだけどさ。寒いと花粉は飛ばないんだよね。
飛び頃の杉花粉がスタンバイ中の杉林は睨みつけるだけで!

梅林の散策路を下りながら、高低差を楽しんで画面構成してみた。

いかがです?あ。上の画像の左上に中央フリーウェイが通ってます。急斜面に立地してるので、あっという間に下ってきちゃいました。

急斜面を横から撮影すると、右1/4は地面になってしまう!不思議な構図だけど水平はちゃんとあってるよ。これはこれでアリでしょう?

ここは中央フリーウェイに一番近い南側の散策路から梅林の上の高い場所を仰ぎ見て撮影してみました。
上の高い場所にある広場はもう昼食をとる客で埋まってるので、この散策路の斜面でお弁当にする人も多かった。おそらく彼らは再訪客と見た。いい所を知ってるからね。

っという事で、少々疲れたので私らもあられでおやつです。あられはさっきまで撮影モデルに使ってた奴ね。
おやつを食べ終わったら時刻は12時44分。木下沢梅林に到着したのは11時27分だったから、1時間以上も滞在してました!まだ滞在してたいけれど、まだ梅まつりスタンプコンプリート出来てません。お散歩再開です。(明日に続く)
今日の記事で、なぜこのところせっせと花見に出かけてるのか?ネタばらししちゃいました。母への写真ハガキに年配女性が好きそうな花の写真が欲しかったんですよ。癒しと見て気持ちのいい基準で写真をチョイスです。【母への写真手紙】に使った画像は誰が見ても気持ちがいいと思うので画像の一部をフォトチャンネルにしました。
母への写真手紙

以後、画像を増やしていきます。なぜに一部の写真かというと、既に写真ハガキを投函した後なので、どの写真を使用したか忘れたのが理由の一つ。またデジカメ画像で写真ハガキにしたのでブログ画像に使ってないのが理由の二つ。よかったら見てやって下さい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高尾梅郷梅まつり

2017年03月14日 05時15分29秒 | 梅散歩
2017.3.11-12に高尾梅郷で梅まつりが開催されました。
「旧甲州街道と小仏川に沿う民家の庭先、山の斜面、畑などに、梅が香り高くほころびかけています。梅の花をめでながら、散策をお楽しみ下さい」 と梅まつりのチラシに記載。チラシの裏に観梅記念スタンプハイクのスタンプ帳になっていて、高尾梅郷に点在する会場を回りながら観梅ハイキングを楽しむという趣向です。
祭り1日目に参加する予定でしたが、朝起きたらまさかの雨雲が広がっていて翌日に順延することに!天気予報では一日晴れのハズが〜〜〜ッ!!ってな訳で、日曜の天気予報は1日曇りでしたがもう強行です!自宅を午前7時半出発。JR横浜線片倉駅下車。徒歩で京王線京王片倉駅に到着したら…。どないも我慢出来ない吐き気がこみ上げてきて〜〜〜。これって、吐き気防止のお薬が効いてくるまで時間がかかるのか??もうね。吐き気がこみ上げるのは毎朝飲んでるお薬のせいなので、自分の努力ではどうにも抑えきれず。かといって既に電車に乗ってしまったので、どないも〜〜〜。あ!そうだ!!ティッシュ持ってたわ!!ってな訳で、苦慮の挙げ句こみ上げてきた謎の液体をちびちびとティッシュに吸い取らせて切り抜けた!ポケットティッシュまるまる1個消費したけどな。あ〜〜〜、花粉症シーズンで助かった〜〜。ティッシュ多めに持参してたからね。ギリギリセーフ!
高尾駅のトイレで手を洗いお散歩開始!
午前9時19分、まず一つ目の遊歩道小名路会場到着。

梅まつりのチラシゲット&スタンプ1個目ゲットです。時刻が早いせいか、休憩所に客の姿はない。私も休憩なしでウォーキング開始!すぐに遊歩道梅林到着(午前9時24分)。

いい感じでしょ?歩くのがとっても楽しい!しかも満開です!!

いや〜〜、諦めてた!だって、2月12日に小田原市の曽我梅林の梅まつりに出かけたら、早咲きの白梅(十郎)は既に見頃を過ぎててとっても悔しかったのだ!あれからひと月も立ってるし、八王子市観光協会の高尾梅まつりの開花情報は3月2日から凍り付いたように動きがないし!そりゃあ、到着するまで不安だった訳ですよ!でも見て下さい。コレ!!

どうよ?高尾の梅は遅咲きか?でもせっかくの観梅散歩なのだ!目の前で満開だったらそれでいい。大満足〜〜!!



梅郷橋にはこんな行き先案内がありました。

川に沿って直進。

遊具広場の脇の梅まで見頃!

広場を過ぎたらなんとコレ!

川が深山幽谷風味。上の画像では分かりませんが、左上奥には遊具広場があるんですよ。
ちなみにこの先しばらくは杉林を進みます。杉林は私有地です。地権者のご好意で祭り参加のウォーキング客の通行が出来てるので、迷惑にならないように杉に注意して進みます。ってか、私の歩くスピードが遅過ぎてトレインしてたので、広くなってる場所で後続を先に通します。

午前10時3分、天神梅林到着。
ここの勾配は辛い!天神梅林を上がってみると、向いに中央フリーウェイが見えました。

急坂はパスしたかったけど、天神梅林はスタンプ設置場所なのですよ。〜〜〜上るしかないよね〜。
しか〜し!!天神梅林の奥、一番高い所にあったのは小さなお社と俳句用テーブルのみ。
お社は高尾天満宮でした。天満宮と言われて思い浮かぶお社と比べると、とってもこじんまりしてます。周りの梅林は捨てたもんじゃないけどな。
さて、ウォーキング再開。
再び杉林を抜けていくと、園央道の高架下に高尾梅の郷まちの広場(本部)会場が設置されてました。ちなみにここに天神梅林のスタンプがありました。ほら、天神梅林は急勾配だったでしょ?危ないでしょ?だからスタンプはここへ移動してある模様。
梅まつり本部では、和装でお琴の演奏(11:00~/13:30~)がありました。到着したのは10時30分過ぎだったので、着物のご婦人方がお琴を並べてました。それを遠目にベンチがで休憩です。おやつを取り出してパクつく〜。ちなみに売店もありました。
お散歩再開。

ウォーキングコースの途中にも素敵な梅の木がまとまっている場所があり、ついつい足を止めて記念撮影してしまいます。
満足したらお散歩再開。

午前10時41分、湯の花梅林到着。
ちなみに湯の花梅林手前でハイキングコースは旧甲州街道に出ます。と?梅見客を満載した臨時バスが小仏バス停目指し連なってやってきます。
バスの画像探したら、下りのバスの画像があった!JR高尾駅から小仏バス停へ。梅見客はそこで下車して1400本の梅がある木下沢梅林へ向います。
ちなみに旧甲州街道は狭くバスの対面走行はムリ。なので、少しでも広い場所で待って上り下りの車やバスがすれ違う仕組みです。ウォーキング参加者は後ろからくる車に注意してね。今どきは車の音が静かだから気付いたら車をトレインしてるっ!て笑えない事態も起こるんだわ。

旧甲州街道の沿道には、国際フライフィッシング場とがありました。道は緩やかな上り坂。旧甲州街道に沿うように北側にR中央線と、高速道路の中央フリーウェイが走ってるのですが、進むにつれて高低差がなくなってゆきます。高尾梅郷のメイン梅林の1400本の梅がある木下沢梅林の手前で一気に坂がきつくなり、木下沢梅林では高低が逆転します。午前11時27分、木下沢梅林に到着です。

メインの木下沢梅林は画像増量にしたいので、今日はここまで。続きは明日。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする