あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

丸亀京極家の大名庭園の巨木?

2024年04月05日 05時53分06秒 | 香川の巨木と神社仏閣
昨日に続いて丸亀京極家の大名庭園万象園を紹介します。
トップ画像は密かに私が万象園で一番みたいと思ってた傘松です。

説明板発見:千代の傘松
近江美し松を300年の年月をかけ傘型に仕立てたもので、その芸術的な雄姿は限りない生命の象徴であろう。
樹齢600年、直径15メートルにも達す。
刈り込み時には枝の上下に庭師を配し、呼応してそれに対処する。年間、枝葉の刈り込みに30人の手間を要す。

しゃがんで傘の下がどうなってるか撮影してみた。
ところで、環境庁の巨木とは?「地面から130センチ、幹の周囲を3メートルを越える木」と設定されてます。
傘の直径は15メートルあるけども。幹の周囲は3メートルなさそう〜。ってか、地面から130センチを測る?だと覗いた感じ??無理じゃね?
ということは、例え樹齢が600年あっても、巨木ではない。
けどさ、樹形は抜群です。特別枠でいいと思うけどな。

傘松が大き過ぎ。
さて、奥に見える建物ですが、母屋(茶室)です。同行してる丸亀在住の友人は、この中でお茶会に参加したことがあると言っていた。羨ましい。

建物を反対側から。

あ。白いアセビ。真っ白の花いろは珍しいなあ。

傘松の反対側から。室内の様子が少し見える。

母屋のお茶室の隣に変わった建物があった。

説明板発見:現存最古の煎茶席
茶亭「観潮楼」は、池に面する二方の障子を開けると、外の景色が楽しめる解放的な作りとなっており幕末から明治時代にかけ流行した初期の煎茶文化の特徴を残しています。
江戸後期の初めに建てられたもので、現存する最古の煎茶席となります。

現在は建物に上がれないようにしてあります。わかりにくいけども、右手に船着場があります。

遠目から右奥に観潮楼。(続く)
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豊姫神社さんへ

2024年02月11日 06時01分28秒 | 香川の巨木と神社仏閣
2024/2/9参拝。
この日は2〜3ヶ月に一度の通院日。晴れたので自転車で行こう!ついでに延命院さんの蝋梅見物だ。と自宅を出発。
延命院さんが見えてきた。蝋梅の咲き具合はどうだろうか?
微妙。満開を期待したけども。木によっては1部咲きにもなっていない。けど芳香は素晴らしい。芳しい香りが参道の石段あたりに漂っている。
延命院さんは小高い丘の上にある。阿讃山脈を眺め見る。この日は久々のいい天気で、三豊中学校も見えている。
そういえば、前回参拝時にうっかりして見過ごしてしまったけど、延命院さんの並びに神社があった気がする。
トップ画像です。鳥居の奥の左手奥に伸びる道は駐車場代わり。
豊姫神社(とよひめじんじゃ)
ご祭神:厳島比売大神 八幡大神 豊受比売大神
御由緒は説明板がなくてわからない〜。上の画像左奥に塚があって、その上に石板が立ってる。そこに文章が彫ってあるけど、読めない。せめて近づけたら読めただろうと思うと残念だ。

御本殿の両側に狛犬を見つけた。吽の狛犬は玉を両手両足を使って抱え込んでいる。珍しいフォルム。
阿の狛犬も玉を持ってました。
さて?延命寺さんの蝋梅を見物しよう。
あれ?何か、蝋梅の花が前回行かなかったあたりに見えてる。あそこへ行ってみよう。
池があった。水面に黄色い蝋梅の花が映り込んでいる。面白い〜(続く)
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出雲屋敷謝恩祭&開運星祭り

2024年02月06日 06時19分06秒 | 香川の巨木と神社仏閣
香川県三豊市に出雲大社讃岐分院がありまして、2月3日は節分祭ではなくて出雲屋敷謝恩祭と開運星祭が行われます。
嫁入り先が出雲屋敷でした。家に神棚があって、大国主大神を家の祀ってます。で、年に一度お札を返して新しくいただくということですね。
今年も2月3日に参拝に行って来ました。ついでに義母のリクエストで古い見守りをお返しして新しい見守りを授けていただきました。
私はこれで3度目の参拝です。今年は2月3日が土曜にあたり、裏手にある大きな駐車場も満車になっていました。お参りの列も出来てて多くの人が参拝してました。
ダンナが新しいお札を購入するのに列に並ぶ間に古き良きストーブで暖まる。


温い。目にはゆらゆらと温められた空気が見えてるんだけど、撮影出来るかなあ?
無理でした。おじさんが蓋で焼き芋をしてる。さつまいものいい香りが漂う。
出店が3つ。今年は3個入りのおはぎを購入。うっかり撮影し忘れて食べてしまった。お参りが終わったら、西村JOYで牛糞6袋を購入してから帰宅予定です。
あ!お昼はうどんが食べたい出雲大社讃岐分院の近くに前から行ってみたかった「三好うどん」がある。以前から食べてみたかったんだ〜。
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200年ぶりの公開の両界曼荼羅

2023年11月20日 06時51分28秒 | 香川の巨木と神社仏閣
10月終わりの四国新聞に紹介されてた大曼荼羅。
生きてる間に2度と公開されなそう〜。なら見物するしかない!
あれ?公開期間がすごく短い。11月7日(火曜)〜12日(日曜)ということは6日しかない。しかも「文化財保護のため、公開が中止になる場合がある」と注意書き。ということは雨の日には公開しないんだな。
ってな事で11月9日に出かけてきました。なんと公開時間は朝7時から。というのも両界曼荼羅は善通寺の金堂(本堂)内で公開するのだ。善通寺にお参りに来れば見れるんである!なんと拝観自由の無料という太っ腹!
9時前に駐車場に到着。早速両界曼荼羅を見物すべく歩いてたら
こんな立て看板を見つけ寄り道(昨日の投稿記事です)見物後、改めて両界曼荼羅見物に向かう。
金堂に到着。早速参拝へ。
非常に残念ですが撮影禁止です。
でも感動です。普通、私たちが曼荼羅を見る場所を思い出すと、博物館か神社仏閣の宝物館がほとんどです。けど今回の両界曼荼羅は金堂の左右の壁です。正面には巨大な御本尊で、シュチュエーションがすごい。けど残念なのはせっかくの両界曼荼羅の近くで見物出来ないんだな。上の新聞の切り抜きでわかりますよね。そう近づけないの。くっ!
あ。説明文のコピーを置いてある。
両界曼荼羅図 2幅 原在中:長谷川賀一筆。 絹本(紫)金銀泥描
向かって右の壁に胎蔵界:縦436、2 横402、4センチ(装丁法量 縦509 横450、9センチ
向かって左の壁に金剛界:縦397 横367、4センチ(装丁法量 縦516、9 横416、2センチ)
製作年:江戸(享和元年〜2年<1801−1802>)
紫の画絹に金銀泥の線描で諸尊を描く。その図像は長谷寺本(白描図像の写本・国重文)の高雄曼荼羅に倣ったもの。高雄曼荼羅(京都・神護寺所蔵)とは、天長年間(824−833)に製作された現存最古かつ唯一の空海監修の大曼荼羅で国宝に指定されている。
本図は、箱書によると胎蔵界は原在中(1750−1837)が、金剛界は長谷川賀一(1757−1810)が、それぞれ享和元年・同2年に描いたもので、点眼(開眼供養)を慈雲尊者飲光(1718−1805)が行なっている。近世における本格的な転写本として貴重な遺品である。
(中略)
金堂内での公開は、文政6年(1823)の弘法大師お誕生1050年に行われた大曼荼羅供以来200年ぶり。直近の公開は、平成18年(2006)に香川歴史博物館(現:香川県立ミュージアム)で行われた特別展「創建1200年 空海誕生の地 善通寺展」。
さて見物終了。次は南大門へ行かないと!というのは、聖霊殿で御影堂奥殿再現ご開帳を見物していた時、説明のお坊さんが「南大門の屋根の四方にも四天王がいる」とおっしゃってたのです。
南大門到着。確かに四天王がいる。
拡大。
次です。
あ。御神木!真魚ちゃんの御朱印をまだ買ってないや!
1250年記念でイベント盛りだくさん。五重塔も特別公開しているのか。けど公開は11月26日までの土日限定なのね。本日は11月9日は木曜なので見物出来ません。
移動。
いつの間にか晴れてきた。奥の山も紅葉が始まっている。
おおう。境内に木が少ないなあ。と思ったけど、元から木がないのではなく、かつては木があったけど枯れてしまったのね。名残の切り株がありました。切り株の大きさから大きな木だったようです。しかも奥にもう一つ切り株がある。
切り株の側の龍王社。金堂の西側にあります。雨を呼ぶという善如龍王が祀られている。香川は雨が少ない土地柄で、日照りの被害が多い。五穀豊穣のため、雨乞い神事はあちこちに残っている。寺社にも求められる大事な役目で、江戸まではここで雨乞いが行われていた。国の登録文化財。
東院を後に。西院に戻る。
出る時は気づかなかったけど、手水舎が太陽の光に照らされてて。
花束が飾ってあった。
さて、真魚ちゃんの御朱印を買わないと!
まず売店をのぞいてみたけどない!あれ〜??どこだ?もしやまた御影堂で売ってるのか?と思ったのだけどダンナは知っていた。
「あそこに行列があるだろ?あそこで買えると思う」
ん?指差す先は納経所です。見れば確かに行列がある。ええ〜!?あそこ!!
大ショックです。思い出して欲しい。御影堂で御影堂奥殿再現ご開帳チケットを購入した時は、先着30食ブレゼントの「こなとなりて」をいただいた私達。奥殿再現を見物した後で御朱印を買っていれば、行列に並ばなくてもよかったのだ。やらかした〜。
場所は納経所ということは、四国八十八か寺巡りの納経帳集めをしてる方々とも一緒な訳で。一々記帳していただいてる関係で、行列はなかなか進まない。
でも並んでも真魚ちゃんの御朱印が欲しい訳は、奥殿再現で説明のお坊さんが「真魚というのは、弘法大師の幼名です。けど貴重なのは真魚の御朱印に使われた紙です。御神木を練り込んであるのです。御神木を剪定したり、折れ枝を紙に練り込んであるので、例えば家の仏壇の奥にしまって差し支えない品です」だって!
御神木というのはこれ。
 
以前詳しい投稿済み。

真魚ちゃんの御朱印ゲット!
この御朱印はほぼ印刷。日付のみその場で記入してくれます。
御神木を練り込んだ特別な紙なので、授与は10月1日からなくなるまでの限定販売となってます。1部五百円なり。高いような?御神木を保護する料金だと思えば気持ちよく支払えます。さ。帰ろう!
おや?こちらも期間限定ですが、金比羅さんの宝物も同時公開な模様。期間は奥殿再現ご開帳と同じく11月26日まで。
そういえば、謎の旗があったなあ?
これは何?
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生誕1250年祭秋行事開始の善通寺さん

2023年11月19日 06時15分43秒 | 香川の巨木と神社仏閣
時は先月下旬に遡る。新聞に「総本山善通寺で200年ぶり」「巨大曼荼羅、来月公開へ」という記事を見つけた。添えられてた画像は人の縮尺が間違ってるのではないか?と思う程にでかい。公開は11月7日から12日まで。すごく短い。上に、200年ぶりならば、次回公開があったとしても私は生きてない遠い未来だろう。ならばいかねばならぬ。
人混みが苦手なので、調べたら巨大曼荼羅は善通寺さんのご本堂(金堂)で公開するので朝7時には公開が始まるとあった。7時ならばさすがに見物人も少ないハズ。
ダンナを誘って11月9日に出かけた。
おやっ!巨大曼荼羅以外にも素敵なイベントをやってる模様。こっちは9時からか。え〜と?
撮影時刻を確認すると9時2分だった。始まったところじゃん!先にこっちへ行こう。
何かある?よくある寄付かしらね?
うおっ!き、金額が桁違いじゃん!さすが善通寺さんだ。
少し拡大してみた。右上の一番金額が多いのはなんと2千万円なり。その隣は一千万円なり。しかも「篤信者」とあるのは個人で寄付するけど名前は非公開という方だ。き、奇特な方ですね。大半はどこぞのお寺さんですね。
寄付は聖霊殿の屋根の葺き替え費用な模様。建物が国の登録有形文化財です。老朽化もするだろう。いくら必要なんだろうなあ?上の掲載されてる方々だけで億超えだけども?
あ。先を急がねば。え〜と?どこでチケットを買えるのだろう?春のイベントの時はチケット売り場が臨時で設置されてたんだけどな。
春のチケット売り場があったところをウロウロしてると、視線の奥に御影堂を見つけた。あそこで聞けばわかるはず。
あ。ちなみに、上の画像の右に写っている立て看板を前面に回るとこうでした。
特別御朱印は気になるけども500円か〜。私、御朱印集めはやってないんだよね。買うかどうか後で考えよう。
さて。御影堂へ。
「奥殿再現ってどこに行けばチケット買えますか?」
「ここです」
「二人分、お願いします」
で。白いビニール袋を2ついただいた。
中身はこれ。
お札は春にもいただいたけども。なんか予想外のものが入ってる。
「こなとなりて」精進料理手づくり体験セットです。「粉」です。
ちなみに撮影は帰宅してから。
ちなみに紙袋は全部で4つ。こんぶ・ダイシモチ麦・乾燥しいたけ・びわの葉でした。
簡単そうなびわの葉の羊羹を作ってみた。
閑話休題。
御影堂奥殿再現のチケットを購入したつもりだったのですが、戒壇巡りと宝物殿入館もセットになっていた。まずは大きなビニール袋を渡されて靴を袋にインしたら、戒壇巡り開始。
うん、まさかの春に続いて今年2年めの戒壇巡りです。
一度やってるから〜と期待せずに始めたのですが。9時開始だったのでほぼまだ誰も入ってない。空気がひんやりしてる。人の気配も感じない。そして暗闇です。思わず「ナム大師返上こmんどう」違う!「南無大師遍照金剛」だ!と狼狽えつつ左手を壁に添わしつつ暗闇を進む。運がいいとここでお大師さんに会えるらしいけど。信心深くない私は荷物を落とさないことに気をやってしまい出会えませんでした〜。
光を感じてゴール?かと思えば違うのだ。正面に仏壇に似てる祭壇があり、お参りしてるとレコーダーからおじさんの声が聞こえてきた。声は弘法大師という設定な模様。
実は祭壇地下ですが、真上が弘法大師のお母さんの寝室です。つまり御影堂の奥殿と呼ばれる場所です。ということは、本日見物に来た初公開の「御影堂奥殿再現ご開帳」の仏像達は本来はここの真上にいらっしゃるという事です。
戒壇巡り再スタート。そしてゴールで階段を上がる。案内人に宝物殿の行き方を説明してもらう。
宝物殿は春も見た。けどあの時はチベット密教の仏像展示をやっていたのでその区画分新しくなってるハズ。新しいのは多分これだと思う。『どうする家康』合わせか?秀吉と家康の書状が展示してあった。秀吉はなんつーの?紙いっぱいに文字を書いてます。秀吉は字が下手だと思う。比べて家康は慎重派?きちっと書いてるな。
さてと、次こそ目的地だ。
不本意ですが、新聞の転載です。なぜって撮影禁止だったから。
新聞の画像を使って説明しますと、祭壇のように設られていて、御影堂奥殿の再現は、中央に弘法大師像。木造玉眼古色 像高さ:78、8センチ。製作年:江戸(天保4年<1833>
弘法大師を囲うように四方に四天王像。木造玉眼彩色。 像高さ:右手前から持国天65、8センチ 左手前像長天63、7センチ。 左奥広目天63、3センチ。 右奥多聞天63、9センチ。製作年:全て江戸時代(17世紀)
ちなみに、多聞天は毘沙門天のことです。
右手前に愛染明王坐像。木造彫眼古色。 像高さ:56、2センチ。製作年:不明
左手前に降三世明王像。木造玉眼古色。 像高さ:126センチ。製作年:江戸<19世紀>
更に外側に掛軸で両界曼荼羅。左は金剛界。縦165センチ横158センチ胎蔵界。縦164センチ横157、3センチ。 製作年:江戸(享保12年<1727>)
更に外側に弘法大師12大弟子像。
普通は10大弟子ですが、弘法大師の死後2人追加になってます。紙本著色。 各縦85、2センチ横163、5センチ。 製作年江戸(18世紀後半〜19世紀初頭)
ちなみに、四天王像と弘法大師十二大弟子像以外は初公開です。
上の画像の右奥のお坊さんが詳しい説明をしてくれます。1回説明が終わると待ってれば次のお坊さんが来て再度最初から説明してくれるので聞き逃しがありません。
そして最後に国宝の金剛錫杖頭のコピーが出口に設置されてます。春の時はお祓いみたいなのをしてくれたのですが、今回はお触りOKでした。みんな行列して手を合わせたのち触りました。で、出口。
奥殿の大きな写真パネルが展示してあります。ここだけ撮影OKでした。奥殿再現は聖霊殿でやってまして。御影堂入り口で靴を脱いでずっとビニール袋に入れて持ち歩いてたのをここで靴を履いてゴールです。
ブログ公開は11月19日です。御影堂奥殿再現ご開帳は11月26日(日曜)までです。今すぐ行けば見えます。
さてと。次は200年ぶりに公開された巨大な両界曼荼羅を見に行こう!(続く)
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近隣の萩の名所なのは知ってた

2023年11月17日 06時42分33秒 | 香川の巨木と神社仏閣
時は9月25日に遡る。このところ似たような出しばかりでごめんなさい。
その日、西讃地方で一番大きな病院に入院していた義母がようやく退院の運びに。
心が軽くなって病院からも近いのでダンナに萩寺に萩を見にいこう!と誘う。
けど突然の思いつきで場所がうろ覚え。私らは長いこと神奈川暮らしだったので近場でも道に疎い。迷い迷い到着。
駐車場に車が疎らに停まってる。やな予感。
ああ〜、遅かったぁ〜。まあね。萩原寺の萩まつりは9月18・19・23日に開催だったからちと遅いのはわかっていたけども。花の見頃って年毎に少しずれるものだしと淡い期待を抱いてたんだけどさ〜。凹む。
宝物館か。確かここには空海の急就章があるんだよな。5月に県立ミュージアムの空海展で見たやつ。
ちなみに急就章とは、空海が唐に留学した時に手に入れた王羲之が書いた本。子供が字を覚えるために作られた古字書。帰国後、空海は原本を時の天皇嵯峨天皇に献上。おそらく自分用に写本したものが萩原寺に伝わっている。原本を使って複数の天皇が幼少期に勉強したらしい。5月に県立ミュージアムに展示してあったのは確か鳥の名前の楷書体のページだったような?うろ覚えだけどね。ここの宝物館でもう一度見れるなら見物したいところだけどさ〜。綺麗な萩の花を期待して来たのに、すっかり見頃を過ぎてるものだから心が荒んでしまった。次の機会にしよう。

門を出たら不自然な石垣が目の前に?
気になったので上がれる場所を探して登ってみれば。
讃岐にはありがちのため池だった。上の画像はため池をカットして、名残の萩を取り入れて写してある。今思えばため池も入れて撮影すればよかった。
売店で団子を購入。
もしかしたら期間限定の萩だんごやもしれんが。売店の方が「焼きたてだよ〜」とおっしゃってたのでついつい1パック購入してしまった。確か安かったと思う。300〜400円くらいだったと。記憶が曖昧。
さてと。お寺さんに来たのならばお参りせねば。本堂はどこかしら?あれ?山門らしきものがため池の下にある。ということは、本堂は山門の奥ね。
もう一度降りて改めて山門から上がることも出来たのですが、つい楽しようとため池の淵から向かったらば、山門をスルーしてしまった。どうも表からだと左右に仁王様もいらっしゃったらしい。帰りに見ればいいや。と思ってスルーしたのに、実はここにはもう戻ってこなかったという〜。
次、行ってみよう!急な石段を上がると盛りの過ぎた萩がある。
どうやらこれが本堂のようだ。
立派。お寺にしたら少し変わってるな?と思うのは石垣の基壇の上に本堂が載ってるから。ん〜?湿気対策か??
あ。説明板発見。
萩原寺本堂:巨鼇(きょごう)山地蔵院は平城天皇の大同2年(807)弘法大師空海の開基と伝えられている。
空海は雲辺寺山の頂上及び麓に寺を建て、それぞれ千手千眼院雲辺寺・地蔵院萩原寺と名づけ、千手観音・地蔵菩薩を安置し、以来当院を前寺、雲辺寺を奥の院と呼ぶようになった。
延喜3年(902)には醍醐天皇が当院を勅使談義所として、朱雀天皇が天慶2年(929)四箇談義所の一ケ寺として定められた。
本堂は乱石積みの基壇の上に建ち、桁行5間、梁間6間の入母屋造である。背面に庇が月、向背3間のこの辺りでは数少ない5間堂の建物である。
軒は本格的な二重繁垂木とし、組物は平三斗のつめ組で、妻飾りは虹梁太瓶束からなっている。中世密教本堂の遺風を伝え(以下画面に写ってないので不明)」
あやや!雲辺寺が奥の院で萩原さんが前寺でセットだったのか。確か駐車場の前の道を登っていくと雲辺寺のケーブルカーの駅に着くはず。ということは、昔はあの辺から雲辺寺まで徒歩で歩く道があったのね。いや、今もあるかもしれんが。でもさ、この萩原さんは88ヶ所の札所じゃない。奥の院の雲辺寺が札所だからかな?元はセットだったから?現在は「別格」札所になってる模様。歴史って面白い。説明文も面白い。
基壇を分かりよく撮影してみた。そして変わった建物だと思った第一印象も間違ってなかったわ。
あ、空海さん発見。
こんなのもあった。
上の画像右手奥に坂道があるのでどこに続くのかな〜?と興味持って眺めてたらダンナがさっさと降り出した。
どこいくの?とついていったら道路に出る。その前にはため池。香川県って昔っから雨が降らない土地だから、あちこちにため池があるんだよね。池が多過ぎて讃岐人はそれが珍しいとも思わんけども。全国的に見たらおかしいから。いつぞら高松空港から福岡に飛んだ時、車窓から見下ろしたら池ばっかりでびっくりしたわ。んで、ため池って多くは地元住民が管理してるんだよね。我が家の近所にもため池が何個かあって、うちの場合池2個の草刈り当番があります。
あ。駐車場!ここに出るのか。ってな事で、思いがけず戻って来ちゃったので帰ります。
上の画像は、駐車場脇にほぼ唯一残ってたまだ見頃のピンクの萩。
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祇園さんのお祭り。でも寝坊したら〜

2023年11月16日 05時25分14秒 | 香川の巨木と神社仏閣
時は今年7月2日に遡る。
前夜は花火が上がり、家の前の道をたくさんの人影が通っていた。祇園さんは夜店を冷やかすのが面白いお祭りだった。人混みが嫌いな私は、翌日も祇園さんは続くので明日お参りに行こう!と見送ってしまった。
さて翌日、実は実家の母から連絡があって、おばさん所に連れて行ってくれるという。確か大量のじゃがいもをあちこちに配っていた時に、おばさんところにも持っていきたい。ついては家を知らないので連れて行って欲しいと、私から母に頼んだのだった。のを今、思い出した。
ともあれ、おばさんとは田舎に戻って初めて会う。おばさんが午前中だけ時間が取れると言うのですぐに母と訪問した。
久々に会うと話も弾む。うっかり時間の許す限りおしゃべりしておばさん宅を後にした。自宅まで母に送ってもらった後、自覚がないだけで疲れてたみたいでうっかり昼寝してしまった。
気づくとまさかの午後3時になっていた。こんなに遅くて祇園さんまだやってるのかしら?
いや、迷うくらいならすぐ自転車を飛ばすのだ!と。
前夜、ダンナは一人で人混みをものともせずに見に行ったらしい。曰く「幼稚園が駐車場になっていた。満車で停められない人はふれあい公園に停めて祇園さんに徒歩で行っていた」と教えてもらっていたのですが。幼稚園の駐車場に車は停まってなかった。私が小さな頃に来たことあった祇園さんは道沿いにたくさんの夜店があったのに。何もない。
嫌な予感がしつつ祇園さんに向け自転車を走らせると?公民館の隣の広場に一つだけ、店じまい中の出店があった。
やはり遅かったのだ。お祭りは終わってしまったのだ。
とはいえ、来ちゃったからには神様にご挨拶せねば。
人影のない参道。奥まで自転車で進む。終点に駐車場。ここまで来るとまばらに車が停めてある。
自転車を邪魔にならない隅っこに寄せて停める。
振り返る。やっぱ誰もおらん。寝坊したのが敗因だけど。祇園さんのお祭りは昨日今日の2日間だ。なのにまさかのひと気のなさにビビる。
狛犬発見。一応画像撮影。
手水鉢。何か刻まれている「征清兵士凱旋報●」最後の一文字が読めないね。
ってか日本における「征清」とくれば日清戦争だろう。あれは確か1894年(明治27)から翌年にかけてだったハズ。
あれ?そういえば、さっきの鳥居に。画像再生&切り抜き
右の柱に明治41年と刻んである。明治41年は日清戦争から13年後だから関係あるかないか微妙なところだなあ。
ん?それより名前名前「須賀神社・八幡神社」を併記してある。どういうこっちゃ?
周りを見回したけども説明板はなかった。のでwebで検索かけてみる。
「山本町にある須賀神社は、二柱の神様(須賀神社と八幡神社)が仲良く並んで鎮座するちょっと珍しい神社。
江戸時代までは「祇園宮」と呼ばれていたため、今でも地元民には「大野の祇園さん」と呼ばれて親しまれている」とある。
詳しい縁起が出てこない。なんでや〜!ちなみに続きがあって「毎年7月に行われる夏祭りは「祇園祭」と呼ばれている。参道の両側にはたくさんの露店が並び、花火も打ち上げられる賑やかなお祭り。獅子舞の奉納もあり、多くの参拝者で賑わいます」
くっ!寝坊して獅子舞の奉納が見れなかった〜。しまった〜。やらかした〜。確か去年まではコロナで自粛してこじんまりとした祭にせざるを得ず。今年は久々に通常開催になったのにな。また来年じゃ!
さて、参拝せねば。手水鉢ですが、氏子さんが柄杓を洗うので回収したのかな?置いてない〜。
肩を落とし石段を上がる。里山の中腹に神社があるので、まず石段を上がらないといけないのですよ。
うん、わかってた!お祭りのあれこれも撤収済みでした。
上の画像をご覧下さい。奥に仲良く2つ奥社があります。どちらかが須賀神社さんでどちらかが八幡神社です。
お祭り気分さえ味わえない。自分が悪いんだけども。
さ。帰るか。
振り返っってびっくり。さっき石段を登った時には気づかなかったけど。巨木ではなかろうか?大きな木が斜面に立ってるので、巨木を測るルールで計測できない。
ちなみに環境省の巨木定義によりますと「巨木とは地面から130センチの幹周りが300センチ以上の木のこと」です。
目測でそれくらいあると思う。斜面が自然の土なので地面から130センチを測るのも難しい。そして幹周りも計測できん感じだけどさ。
でも立派な木だなあとしばし見ほれる。
あれ?反対側の木も大きいみたいだ。
くっ。この木も根元は斜面にある上に周囲を細い木々が取り囲んでいる。
もしやひこばえか?どっちにしてもこの木も計測は難しい感じだ。一応記事をかくにあたり環境省の巨木データーをあたってみた。
載ってた。マジか。
須賀神社:クスノキ 樹高15メートル 幹まわり500センチ 樹齢不明 確認年1988年
もう1本は私のスキルが低く、何の木か特定出来ず。最初に木の種類を特定しないと、巨木データーは使いにくいのだ。けどまさか掲載されているとは!どちらの巨木好きが測ってくれたのだろう?巨木好き、侮れん。素敵〜。
さて。帰ろ。ってか、お祭りっぽさが残ってたのは石段を上がったところの石灯籠2基に灯りが灯されてたところだけ〜。がっくり感が酷い。だから7月の出来事なのに記事投稿してなかったのか〜。ま。話題に乏しい記事ですまんのう〜。

追記:2023/11/26
自分ちの氏神様を知らないのもいかがなものか?と山本町誌を調べました。
八幡神社:ご祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)・息長帯姫命(おきながたらし)・仲哀天皇。
今から900余年前、大野郷の産土神として下大野に祀ってあったが、のち、上大野の産土神の祇園宮(須賀神社)に移して大野一郷の産土神として崇敬された。
生駒家(丸亀藩)の崇敬が厚く、元和年間に神供田として寄進され、天和2年(1682)には丸亀藩京極家より田畑・社林が寄進された。
現在の社殿は天保12年(1841)に本殿・幣殿を再建。明治5年(1872)に郷社となった。
向かって左が郷社の八幡神社。右が摂社の須賀神社。
祇園宮(須賀神社):ご祭神は須佐之男命・稲田比売命・大山祇命・大物主命・木花咲耶姫が合祀されている。
創祀年については正確ではないが、京都祇園宮の応安元年(1368)の文書に記述がある。その他の史料により、当社が勧請されたのは文永7年(1270)ごろであろうと思われる。大野郷が京都祇園宮の社領であり、現在も神田・庄の側・神内の地名が残ってることからも、京都祇園宮の祭神である牛頭大王(須佐之男命)を産土神として祭祀したことは当然のことと考えられる。
明治維新の際、須賀神社と改称。明治18(1885)年に本殿と幣殿を再建されて今日に至る。
祭典は毎年旧暦の6月7日に行われていたが、近年になって新暦の7月14&15日に行われ、最近では7月の第3土曜・日曜に行われている。夏冬の疫病の防止と家内安全、子供の守り神として三観地域より10000人程の参拝がある。
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かつては一つだったのか

2023年11月13日 06時35分56秒 | 香川の巨木と神社仏閣

天満神社の御本殿から180度振り向いたら、不自然な大きな直線路が見えた。世話人に聞けばこれがかつて競馬をしてた馬場だという。
見物に行こう!と歩き始めて、思った以上に大きな道だと知る。天満神社に上がる道は急坂だった。上の画像を見たらわかりにくいのだけれどここは里山だ。水平の長い道を作るのは大変だったはず。
あれ?何かある。展望台かな?
手前の木々が大きくなってて近辺が見えないけれど。遠くに伊吹島らしき影がある。ということは右手は七宝山か。見晴らしがいい。
さてと。期待したちょうさも獅子舞もなかったけれど。子供が期待するお祭りとはちょっと違うみたいだ。大人の、まあ神様への奉納の儀式がメインのお祭りなのだろう。
帰ろ!
展望台のそばに雑木が実をつけていた。これはおそらくアレだ。冬になると黄色くなるやつ。サポニン的な。昔は石鹸代わりだったやつだと思うのだけれど。名前が出てこない。何だったかなあ?
気にしつつ急坂を降りる。
あれ?坂が途中で建物方向へ?何かしら〜??
お寺でした。しかもここ。我が家はこのお寺の檀家ではなかろうか?法事の時はダンナがここに仏具一式を借りに来てるハズ。
あ。説明板発見:宗運寺縁起抄
延暦15年(797)桓武天皇御願、右大臣藤原内麿41歳の建立。比叡山より山王権現の分身出世大黒天を迎えて鎮守とし「山王山総本寺」と称して、700メートル西の平地に七堂伽藍を構えていた。
惜しいかな、財田川、河内川に接していたため薄ウドの水災を蒙り、3度目の大洪水、天文9年(1540)に壊滅状態となる。
大檀主御家中、山下右衛門盛久隠居「宗運」を通して、生駒親正領主の庇護のもと、この高台に移転し新たに天満宮を迎えて山王駒石山天満宮宗運寺と公称されていた。
明治維新の神仏分離の制によって、本堂を中心の伽藍一帯が神社に。客殿を中心としてのこの地域が宮寺と別れたまま現在に至る」
へえ〜へえ〜へえ〜!
随分と由緒あるお寺だったのね。あ?お寺はおかしいか。高台には天満宮があるからね。多分天神さんって呼ばれてたのかも?知らんけど。

サクッとまとめた説明板もありました。
さてここで地図を再度確認すると?宗運寺さんの隣に「横穴式古墳」がある。
どこにあるのか?

探したところどうもこれらしい。
らしいというのは入り口に土嚢を積んであって中に入れない。ってか、多分古墳の上にお寺の建物が建ってる感じかな?
あ。説明板があるわ。
わからんけど、建物を建てた後、古墳を見つけたのかも?だとするとあり得る。
そして私が自転車を預けたのは、天満神社の駐車場でなく宗運寺さんの駐車場だったと知る。か、帰ろ。
けどついでなので帰りにスーパーで買い物してから帰ろうと思い自転車を走らせていると、やけに近くから太鼓の音が聞こえてくるので、音源を探してみれば。
あれ、ちょうさじゃないの?
追いかけてみる。
うをををを!ちょうさだったけど。方向が逆。天満神社のちょうさならそっちへ戻るのかな?見送る。手前が雑草の荒地でなく黄金色の稲の田んぼなら絵になるんだけどな〜。
ちょうさを見送ってスーパーに向かってると、獅子舞の倉庫があった。天満神社に行くときに遠くで見た獅子舞はここのかも?
ん?道の反対側にのぼりがある。「奉納 天満宮」って書いてあるなあ?んで荒神社とある。
気になったので道を渡って確認することに。
これが荒神社か?ちっこいな。ドアなんかアルミでしょ?
説明板がない。なので考察してみる。
確か宗運寺さんの縁起に「700メートル西の平地に七堂伽藍を構えていた」とあった。
そんで「惜しいかな、最多川、河内川に接していたため数度の水害を蒙り、3度目の大洪水で壊滅状態となる」とあった。
で、天満神社の説明文には「慶長11年(1606)、山下盛久が天満宮を再営し元和年間(1610年ごろ)に生駒壱岐の守が社殿を再建した」だっけ?
ここで注意せねばならんのは再建したのは江戸時代に入ってから。で、確かこの辺りは長宗我部が攻めてきた場所なので、おそらく戦国時代には大きなお寺はほぼなかったんじゃなかろうか?大概大きな寺は戦いのときに本陣として利用されるもんだし。ということは、この荒神社はかつて大伽藍を構える神社の一部だったんじゃないかな?で。現在はこう。それに背後は現在は財田川だもの。
おそらくそうだと思う。大きく外してないと思うけどどうだろうか?
自転車をスーパーに走らせながら考察していたら、また太鼓の音が聞こえてきた。

あ。獅子舞見っけ!随分広い地域を回ってるのね。
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善通寺の大楠と周辺にあるもの

2023年07月02日 05時43分05秒 | 香川の巨木と神社仏閣
訪問は今年、2023年6月3日です。巨木見物が好きな私は、以前境内にある2本の大楠を見物したのですが、それは初詣のついでてした。
楠は常緑樹ではありますが、初夏には新芽に更新するのですよ。
ならば確認せねば。
おお、色鮮やかです。
こちらは大楠の1本、五柱明神の楠です。けども前回訪問時は画像中央のお社に上がり参拝して間近で木を眺められたのですが、現在は周囲に大きく規制線的にロープを張ってあり近寄れなくなってました。
こちらは南大門前の大楠です。
お正月に見た時は、元気ない木に見えましたが、若い葉っぱを十分に蓄えた姿は素敵でした。
移動しようとして不思議な、いやお寺によくある代々の住職の塔的なやつかな?と思い近づけば、全く違ってた。
説明板発見:
三帝御廟:三帝とは、後嵯峨天皇(第88代天皇在位:1242年2月ー1246年2月)。亀山天皇(第90代天皇在位:1260年1月9日ー1274年3月)。後宇多天皇(第91代天皇在位:1274年3月ー1287年11月)。
近年まで伽藍の北100メートルほどの住宅地にありましたが、昭和39年(1964)に現在地に移されました。
へえ〜。
ちなみに、五柱明神に隣接して小さなお社がありました。
こちらは佐伯祖廟です。弘法大師は豪族佐伯善通卿と母、玉寄御前の三男として生まれました。この祖廟は、元は善通寺の背後にある香色山の麓にあった小高い丘(現在の駐車場)の上に「佐伯八幡宮」としてお祀りされてました。
さて移動。
その前に伽藍(東院)を眺める。

東院と西院の間に塔頭がいくつか残ってまして。
観智院さんの前を通りがかったところ、普段と違いお寺さんが欲しいあれこれが並んでました。
問:これ、何だ?
答え:法螺貝。ちなみに売値の札があるので並んでる仏具やあれこれは売り物です。
高松藩藩主松平公の息女が、庵を結ばれていた寺の本尊を移したと言われ、安産・子育ての守護仏として婦女子の信仰の厚い寺である。
だから子安観音なのか。記念祭の間だけだと思うけども。十一面観世音立像が公開されていたので、本堂に上がって見物しました。「出すのが大変なので。息子の時代になったら公開するかもしれないけども。私はもう出すことはありません」とお寺の方が言ってました。ついでだと思うけども。大きな金色のうどん鉢の形をしたものがありまして。「売れないのよね。良かったら鳴らしてみる?」と誘われました。いいの?喜んで!とばかり、巨大な枝が長いタンポを両手で持って、金色のうどん鉢の縁を擦り上げるように叩くと、何とも言えない音色が響きました。あ〜、耳が幸福だ。
さてと、帰ろう!としてお正月にも寄った熊岡菓子店へ向かう。

あれ?人がいない。もしや?
やな予感は当たりまして、店の看板のかたぱんは売り切れてました。ええんや。えびせんがあったら!
えびせん220円・芋けんぴ180円・ミレービスケット150円(各100グラム)
くっ!カタパン〜!!
ちなみにお土産品はこんな感じ。
左から弘法大師1250年お誕生日記念の Tシャツ(2200円)。肩口に真魚ちゃんをキャラクターにしたものを印刷。背中にもワンポイント。
中央上部の三枚の紙は、親鸞堂からお坊さんらが撒いて歩いてたもの。拾いました!
中央下にあるお札は、うちのお寺にいただいた記念祭の特別開帳と戒壇巡りと宝物殿鑑賞3点で2000円のところ1000円になるチラシをチケット売り場で出したらいただけたお札です。中央下右のファイル(550円)は、義母へのお土産。
空海が唐で恵瓊阿闍梨にいただいた国宝の錫杖頭を裏表で印刷してあります。
そして熊岡菓子店で購入したお菓子。それとお接待でいただいたお茶。久々にお出かけして大満足。
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善通寺五重塔特別公開

2023年06月30日 10時17分32秒 | 香川の巨木と神社仏閣
弘法大師空海御誕生1250年記念祭に合わせ特別ご開帳となった瞬目大師像を堪能後、誕生院から東にある伽藍地区へ向かう。
あれ?
五重塔も特別公開中だった。訪問は6月3日なので、今なら見物できます。
正面から望めば、奥に通常非公開の像が見えた。
あ。何か看板が出てる。
これは、五重塔に設置してあるセンサーや観測サーバーを地下に設置してあるとの図解説明ですね。
横の扉が空いてたので、他の像も動物に乗ってるのがわかった。中央が馬で右が白象で左が孔雀です。見たいけども。
実はそれ以上に気になってるのが法然さんの逆修塔なんだよね。先程見物した親鸞堂の説明にも出てきたしさ。すんごく今見たいのだ。あ、後からよることにして。先を急ごう。
「国重要文化財 五重塔特別公開(初層・第二層)
善通寺のシンボルとして親しまれている五重塔は、高さ43メートルに及び欅造りの大塔です。
現在の塔は、弘化2年(1845)、仁孝天皇の御諭旨により再建が始められ、明治35年(1902)に完成した4台目です。
初層には4体の如来像が祀られています。
また、心柱が五層目の屋根より吊るされ、地上からわずかに浮く特殊な構造もご覧いただけます」記念祭のパンフレットより

ちなみに、今回は御誕生1250年祭での特別公開ですが、通常は非公開。
ただ、毎年ゴールデンウィークには公開してる模様です。拝観したい方は問い合わせてください。
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空海御誕生1250年記念祭のみの拝覧券

2023年06月28日 14時12分52秒 | 香川の巨木と神社仏閣
梅仕事で間が空いてしまいましたが、善通寺さんで4月23日から6月15日まで開催された弘法大師空海御誕生1250年記念祭を紹介します。
まずは誕生院前に設置されているチケット売り場へ。
御影堂秘仏本尊・瞬目大師像特別ご開帳と戒壇巡りと宝物館「チベット密教展」の拝観がセットで2000円を購入。ちなみに、檀家になってるお寺さんより2000円が半額の1000円になるチラシをいただいていたので、それを出すと、1000円となり、更にお札をいただきました。
最初は御影堂地下にある戒壇巡りから。
階段を降りると真っ暗。なんか修行らしいです。左手を壁に沿わせて前進します。煩悩の多い私は、一刻も早くゴールに着くことしか考えてませんでした。
御影堂の地下から上がると、建物外の回廊へ。宝物殿へ向かいます。
途中で気になる立札を見つけた。
入り口に何か書いてある。拡大。
弘法大師産湯のお水
おおう!格子の間から見れば。
井戸がありました。
そういえば、御影堂のある誕生院は、弘法大師空海が生まれた佐伯家の邸宅跡に建てられた寺院です。

現在の建物は天保2年(1831)の建立で、昭和12年(1937)に大規模な改修
を行なっています。

宝物殿手前に昔使っていた梵鐘が置いてありました。
ちなみに梵鐘の向かいには松の巨木。仰ぎ見るに素敵な枝ぶりです。近年松の巨木はどんどん姿を消してるので、この松は末長く残って欲しいです。
宝物殿へ。内部は撮影禁止。善通寺の寺宝の名品20点と、「空海の心とチベット密教」の出展が29品。私が注目したのは、九こ杵と五こ鈴と九こ鈴です。
宝物殿を見学の後、御影堂を抜けて回廊で隣接する建物へ。そこに本日のイベントの目的の秘仏瞬目大師像があります。
大師像の左右に大きな掛け軸の絵がありまして。大勢が描かれてました。お坊さんが大勢の信徒さんへ話をされており、後ろで一緒に聞いていたのですが「大師像は弘法大師の母、玉寄御前が唐へ旅立つ息子との別れを嘆くので、大師が月明かりの夜、池水面に映った自らの姿を描き写して残したものと伝えられております」
「鎌倉時代、土御門天皇ご拝覧の折に、絵が瞬いたことから、生身の大師であるとして「瞬目(めひき)大師」の尊号を下賜されました」
「50年に一度のご開帳ですが、今回はガラス越しでなく直接皆様にご覧いただいております。私も今回初めて間近に拝見して感動しております」
「大師像を拝観した後は、裏手が出口となってますが、手前で大師が唐で修行されてたおり、恵瓊阿闍梨よりいただいた国宝の金銅錫杖頭のレプリカを使い、ご加持を行なっておりますのでぜひ参加ください」
的なお話でした。
あれだ。5月に県立ミュージアムで展示してあった本物。レプリカとはいえ、ご加持を受けれるのってとてもラッキーでしょ?ってなことで、最前列でお祈りしてきました。相変わらずミーハー(死語)な私。
さて、御影堂に入る時に脱いだ靴をようやく履く。
何やらお経が聞こえる。どこから聞こえてるのか?
声に惹かれて素敵な閻魔様を拝観してると?ダンナがとても興奮してました。
聞けば、「今を去ること50年前、子供だった私は、祖母に連れられて瞬目大師像のご開帳に来たのを思い出した。その時にこの閻魔様をみた。全く同じで思い出した」と。
ほお〜。
感動が止まらない様子なので、私はお経の声を探して先へ向かいます。
ここだ。ここでお経を唱えてる。
どこだ?ここ??
入り口左の柱に「親鸞堂」と書いてある。
説明板発見:
この堂に安置してある親鸞上人の尊像は「鎌田の御影」と称され、親鸞上人自作の尊像です。
親鸞62歳の時、関東の下総蒲田荘(現在の千葉県市川市)、吉田源五郎左衛門という信者の家に滞在し、朝夕に法談されていた。その地を離れる際、多くの信者が別れを惜しんだので、親鸞は自分の像を作った。像の背中に「讃岐の善通寺は弘法大師の生誕地であり、我が師法然上人も彼の地に詣でて自ら逆修の塔を建てた。私も善通寺へ詣でたいと思うが無理だ。できればこの像を善通寺へ送って欲しい」と遺命した。
その後吉田家で像を供養していたが、夢で「早く善通寺へ送れ」とのお告げがありそのようにした」(私が少し文章を簡単に書かせていただきました)
ず、随分勝手なことを言ってますね。けどまあ。昔話はそういうの多いから。
その後、御影堂前の売店へ。自分土産を探していたら、何か聞こえてきたので外へ出てみると?
親鸞堂からお坊さんたちが列して御影堂へやってくる。何か葉っぱ状のものを振り撒きながら進んでるので、拾います。
さてと。誕生院(西院)を後に、伽藍(東院)へ向かいます。(続く)

あ。
トップ画像の御誕生記念祭のチラシに一緒に写ってるペットボトルのお茶とウエットティッシュはお接待でいただいたものです。
上の画像は駐車場から済世橋を渡り境内に入ったところで学生服の子供らが「お接待です」と配ってました。さすが空海さんの生まれた場所ね。太っ腹!と思ったのですが、今思えば当日は6月3日でして、翌日が大師市の本番。前日とあってあれこれの行事が行われていたので、その一環だったのやもしれんと思います。
いただいたペットボトルのお茶は、この後東院を見物して駐車場に戻って車内で一気飲みしちゃいました。もうね。前日の大雨が嘘のような晴天で、とても暑かったんです。ありがたくいただきました。
ちなみに、四国における「お接待」とは?
「何の見返りも期待せず、通り係のお遍路さんに親切にすること」です。お遍路の文化の一つです。
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巨木探訪 志々島の大楠

2023年04月13日 06時03分00秒 | 香川の巨木と神社仏閣
2023.4.10訪問。
香川に戻ったら一度は見たいと願ってた巨木です。
説明板発見:県指定天然記念物 志々島の大くす
指定の年月日:昭和45年4月28日
根本周り:12メートル
樹高:22、5メートル
枝張り:東25メートル。西20メートル。南17、5メートル。北26メートル。
樹齢:推定1000年以上 三豊市教育委員会」
なんだかな〜?樹高・樹齢については資料によりばらつきがあります。根本周りというのもちょっと〜?巨木は普通胸高周囲(地面から約130センチ)で幹周りを測るのですよ。まあ、眼前の志々島の大楠は地面からほど近い位置に大枝があるので、環境省推奨の胸高周囲で測れないとは思いますが。
ともあれ、見たかった巨木です。ここは堪能しておこう。
巨木を撮影する時は、出来たら木の幹に手を添えて、タバコの箱のごとく木と人間を対比させて撮影します。けど志々島の大楠はだいぶん大きくロープを貼ってあり、そのスタイルでの撮影は無理でした。幸いというか、団体さんが見物してたので、少し入れて木の大きさを表現させていただきました。
にしても。なぜに大枝がこんなに地面に近い場所で左右に伸びてるのだろう?楠は個性的な樹形の巨木が多いのですが。にしても。大体地面からすぐ上に大枝があれば、普通薪として切って乾かして使うよね?
閃いたのが、もしかして幹がいつぞの時点で土砂で埋まったのかも?と。これだけの巨体を支えるために、木と地面が接する部分はゴツいのが普通なんだけども。それを前提に上の画像を眺める。けど、分からねえ!近づけないんだよね。でもどう見てもこの図体を支えるには地面と接する部分の幹が細いと思う。倒れるのを回避するために、地面の近くで大枝を左右に伸ばしてバランスをとってるから今も倒れてないと思うけども。
ま。素人が専門知識もなく推測しても分からないので。
来年の年賀状の画像を義姉に頼んで撮影してもらった。コロナ縛りが緩くなったので、賀状にこの画像を使っても顰蹙されないと思うのだ。
さてと。降って見物に来たので登ります。
おおっ!この角度からなら全体が見える。でかい。上の画像中央下に、赤い鳥居がかろうじて見えてます。
あ。そうだ。昨日ぼやいてた大楠とウバユリのコラボを去年見逃したのですが、上の画像の左手に灰色の柵で囲われた部分がありますね。この辺りにウバゆりが群生します。ウバゆりは7月半ばに咲くらしい。花期が短いらしい。次にこの木に会いに来るならば、夏に来よう。藪蚊が多いらしい。マイナス情報だけでなく、何度か訪問してる義姉によりますと、今日(4月10日)の大楠は今までで一番新緑が美しいらしいです。楠は常緑ですが、ちょうど今頃若葉が更新になるんだよな。巨木好きな方へお知らせでした。次は、最近人気の天空の花畑に向かいます。
大楠から徒歩15分でとっても素敵なお花畑があるのですよ。
これを見るだけで急坂を上がる価値あるわ。(続く)
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延命院の蝋梅と歴史

2023年02月05日 07時11分04秒 | 香川の巨木と神社仏閣
2月3日に延命院へ。四国新聞に綺麗な画像が載ってたので、出雲さんへお参りに行くついでに寄りました。
10時過ぎに到着。階段沿いに蝋梅が並んでます。蝋梅見物で参拝客が来てたけども。コロナ予防でマスク生活が長いから気づかない人が多いようで、せっかく綺麗に咲いてるのに、階段で記念撮影しただけで皆さん通り過ぎちゃってます。
もったいない!そこはマスクを少しずらして思いっきり深呼吸して下さい。朝の蝋梅はとてもいい香りなんですよ。
階段を上がりまずは参拝へ。あれ?ピンク色が見えた。
ピンクは早咲きの梅の色でした。
まだ2〜3分咲きですが、春です。
参拝。
延命院 勝楽寺:当院は、弘仁年間弘法大師空海の開基にして、寺運栄しも天正6年長宗我部元親の兵火により灰燼に帰すも天正より文禄年間宥盛法印により再興される。
天正15年生駒親正公入府讃岐15箇院(西讃5箇院)を設定、ほごし名刹に列す。
本堂は寛文年間に再建されたが、近年時代と共に老朽化著しく、平成15年10月に改築した。
何かあった。
ご利益ありそう〜。
説明板発見:一の字由来
当地は、石器時代より肥沃な田園が広がっていました。古代よりこの小高い岡には地域の祖先の霊が鎮まり、一帯を治めた富豪の墓「延命古墳」も残されています。
今より1100年前、光孝天皇の御代に菅原道真公は讃岐国司に任じられました。仁和三年(887)に巡察の折、三野三郷が一望できるこの地に立たれ、農耕の状況をつぬさに見聞きされました。この時、讃岐国が風雨順時、五穀豊穣でとこしなえに栄ん事を祈って「一」の字を奉納されました。
一は物事のはじめ。又は全体を知るの意であります。古来よりこの一とご縁を結べば諸願成就し、開運富貴の身になると言われています。」
境内にもあちらこちらに蝋梅があります。まだ若木ですが。
あれ?何か塚のようなものがありますね。確認します。
おや?
形は古墳塚&石室です。
あ。これが延命古墳か。
四国みちに沿って、あれこれあるのですね。
視線の奥に見える鳥居は、豊姫神社さんのもの。
池もあった。
さて、帰ろう。階段下に駐車場があります。駐車場は小さめ。道も細い一車線なので、訪問の際はご注意下さい。
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2023の初詣

2023年01月20日 06時39分44秒 | 香川の巨木と神社仏閣
投稿し忘れてました。初詣は1月2日のこと。親戚にお年始に出かけた帰りに行きました。
神奈川在住時の初詣は、何年もあちこちの神社へ出かけてました。最終的にはねぷた飾りの寒川神社さんに固定されましたが。今年は出雲大社さんです。
出雲大社は神奈川在住時に秦野駅から徒歩で出雲大社相模分祠へ桜散歩のついでにお守りを返しに伺っていたのですが。義母が毎年送ってくるお守りは出雲大社讃岐分院で授かったものでした。出雲大社には分祠・分院がたくさんあるのです。
さて、まずは参拝です。
それからお守りを。
本殿の隣にうさぎ。見つめる先には。
大国主命。
何か石碑っぽいのがあるなあ?と確認すれば、大平正芳さんの名前がありました。元総理の大平さんは香川県観音寺市出身なので、名前入りをあちらこちらでお見かけします。この時は「通称産業大臣」の文字がありますね。検索したら、1968-1970佐藤栄作さんが内閣総理大臣の時のものでした。大平さんは1910年生まれなので60歳ごろのものということに。
あ。絵馬発見。
おそらく因幡の白兎なので、色が白でなく肌色なんだろうねえ。リアルにピンクか赤だと絵馬のモデルとしては使えないので肌色チョイスなんだろうか?
アホなことを言ってないで帰ります。ってかお腹が空いたので、お昼を食べていこう。
うどんで。
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大楠と本門寺さん

2022年12月04日 07時52分39秒 | 香川の巨木と神社仏閣
前回の続きです。間が空いてすみません。
まずは本門寺の巨木を紹介。
全容はトップ画像で何となく確認下さい。訪問日が大坊市の開催中でして、大楠の前で植木市ろ出店があったので全容の撮影ができませんでした。
上の画像のように大楠に直接触れれません。
大楠の説明板もなし。ただ讃岐の保存木の杭が立ってました。のでwebで調べましたところ。
本門寺の大楠:樹高17、5メートル 胸高周囲4、9メートル
樹齢はわかりませんでしたが、環境庁の巨木基準は胸高周囲が3メートル以上の木を巨木とする。なので基準は満たしてます。こちらのお寺の開基が1323年なので、その頃からあったとすれば樹齢約700年というところです。
ちなみに、本門寺の境内を見回すとクスノキがあちこちに散見出来ます。

あまりにクスノキばかりなので楠にこだわりがあって植栽されているのか?とも思ったのですが、実はかつては松の木もそこそこあったけども枯れたと言うことらしいです。
精霊殿(位牌堂)
本堂 天明元年(1781)建立
本殿に参拝した後、赤い実がたくさん見えたので確認へ。
何かしら〜?
アップで。
本殿背後に回って三師塔。
さてと?大量の植木が気になる。
みれば、1本全て1500円なり。安い。人気の栗の木ポロたんも人気の柑橘も全部1500円。しかも大量(数十本)に搬入されてて選び放題です。
欲しい!いやね。うちには柑橘のスイートスプリング畑があるのですが、去年2本枯れて、今年はまだ枯れてないけども枯れそうなのが更に2本ある。補充したいと思ってたのだ。けどもダンナから待った!がかかった。先にスイートスプリングの畑をもっと手入れしてから買わないとダメという。
ちえっ!今年はスイートに害虫が来ないように私は頑張ったよ?いいじゃん!1〜2本柑橘を増やしたってさ。植える場所は空いてるんだしさ。
けども柑橘はダンナが肥料も消毒も頑張ってるので今回は購入を見送ることに。
ちえ〜〜〜!!!
そこへ携帯の着信。出てみると弟から。
弟:「米糠がたくさん溜まってるので、今から持っていく」
私:「今大坊市に来てる。米糠は帰りに寄ってくから〜、ちょい待ってて」と。
米糠は弟に無料でもらってるのですよ。元耕作放棄地へ入れて土を改良するのだ!
ってなことで帰ります。大坊市は4日間開催。お会式が毎年11月22日&23日なのでこの日が一番盛大らしい。本当は私も23日に見物に来る予定でしたが、23日は一日雨だったので止めたのだ。大坊市はかつてたくさんの出店や芝居小屋やサーカスも来て大いに賑わったイベントだったそうですが。それでも昨日、23日は人形浄瑠璃やお米の販売やバザーや手作りキーホルダー作りなんかもあって楽しそうだったのよ。また来年ね〜。
帰りは近道です。参道ではなく幹線道へ出る。

いい香りだと思ったら、何か咲いてました。白塀の向こう側に木があり、枝だけ歩道へ伸びてたよ。
立ち止まったらば、道の反対側に昭和の風情の衣料品店が。現役で営業中のようです。すげえ。
気づけはあたりには昭和の風情の家屋がそこそこありました。これは本門寺さんの門前だから現在まで残ってるのかな?本門寺さんは三豊一帯で一番境内の広いお寺らしい。三豊には四国八十八ヶ寺が何個もあるのに、それを上回るお寺があるって実は訪問して初めて知りました!子供の頃来た時はそんなのに興味なかったからなあ。かつて母親に連れられて来た時は、出店の瀬戸物屋しか覚えてないや。母がラーメン鉢を買うのだ!と1軒目で粘ってたので覚えるよ。
あ。行列発見。何かしら〜?
見ればドーナツを店先であげていた。聞けば大坊市の時だけ作るらしい。1個110円。手ごろなので弟に手土産にしよう。
行列の最後尾に並ぶ。弟に10個、自分用に4個。おばさんが油であげたばかりのドーナツを隣の女性が砂糖を敷いたパットで受け止める。手際よく紙袋へ入れたものをいつも持ってるマイバックに入れてもらった。熱々でした。
さてと。帰ろう。お寺の横に流れるのは高瀬川かな?いい感じ。財田川はススキがないんだよねえ。なんか最近は外来種が季節ごとに出てくるのだよ。

追伸:
帰りに弟にもらった米糠は大量でした。下手な保管では虫が湧く。それは困る!とダンナがこの当日翌日にかけて元耕作放棄地に全部ばら撒いて、耕運機で耕しました。
この元耕作放棄地の端っこに、現在秋ジャガや冬至カボチャや寒咲き菜の花を育ててるのですよ。と?雑草が元気すぎて、野菜を育てるために入れた肥料を勝手に消費して元気に大きく育ってしまったので、せっせと雑草抜きを続けてます。
とと〜?あちこちから野良猫がやってくる。何しにって米糠をなめに来てるのだ。大概は耕運機で耕した時に土の下に埋まってるのですが、全部が全部埋まってない米糠。それをいろんな猫が舐めにくるのだ。ちなみに、寒咲き菜の花を植えようと新しい畝を立ててたら、私の顔を見ながら畝を掘ってウンコをした猫ちゃんには本気で説教をかましてしまいました。畝立てが終わってからならウンコは許そう。耕した田んぼは猫から見れば巨大な便所だろうからなけども!!今から肥料を入れたり小石を拾うのだ。最悪なことに、時間がちょっとだけたった猫のウンコと畝から取り除きたい小石の外見がほぼ同じなのだよ。そう。何度か猫のうんこを鷲掴みしてしまったのであった。クソ猫〜〜!!!
コメント (2)
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