あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

サツキが綺麗だったので鹿島神社と青柳寺2021/5/29

2021年07月06日 05時20分46秒 | 神社・仏閣
町田から相模大野方面に自転車を走らせる。濃いピンク色が目に飛び込んできた。

同じ敷地に鹿島神社と青柳寺がある。
けどここにサツキがあるのを花が咲いて初めて気づいた。
春の枝垂れ桜見物と、秋のイチョウの黄葉の時だけ立ち寄る私。義父の四十九日は過ぎたけど、参拝はよくないかもしれないので、この日は階段の下からちょっとだけ撮影させていただいて失礼しました。
町田から相模原に戻るには坂道を登らねばならない。
まだ謎の花が綺麗に咲いている。周辺に数株。小さな群落になっている。
この花の正体が知りたいなあ。
(もちろん、記事作成時には謎でしたが。後日正体が無事判明しました。まさかの古代ローマからの聖なる花クマツヅラです。上の画像は、前回は去年の枯れた花枝をそのまま撮影したので、今回は枯れたあれこれを取り除き撮影しました。ちなみに、先日6月29日に通りかかったら、撮影の株は既に見頃過ぎでしたが、周辺に新しい株が結構な数増えてました。まあ、ここは道端なのでそのうち排除されるかもですが。)
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新しくなった二宮神社さんの桜は?

2021年04月07日 05時24分10秒 | 神社・仏閣
2021/3/29 11:08二宮神社さんへ。御祭神は二宮尊徳です。トップ画像の鳥居の奥にも二宮金次郎の石像が写ってますね。
小田原城内鎮守の報徳二宮神社を勧請した小さな神社です。実は近年小田急相模原駅周辺で大規模な再開発がありまして。二宮神社さんの前の道の拡張工事がなされ、境内が削られました。それまでは沿道沿いの桜があったのを覚えてますが。撤去されたのも覚えている。それ以来桜の季節に参拝してなかったので知らなかったんだけどね。新しく桜を植えてたようです。
まずは参拝。
う。手水鉢に柄杓がない。コロナ〜〜。
桜は桜でもソメイヨシノではない。

蕾が少なめ。若木だからね。新しい風景にそのうちなるだろう。
移動。せっかくなので線路向こうの松が枝公園の桜も見物だ。
ひよっ!!既に散り始めてるぅ〜〜!!(続く)
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座間市・宗仲寺2021/2/22現在

2021年02月27日 05時46分56秒 | 神社・仏閣
最近やたら検索の多い記事がある。
相模原市南区新戸の河津桜・あじさいライン(2020.3.10)の記事です。ならば確認して来ようと2021/2/22午後見物に出かけました。が。今日はその前に訪問した宗仲寺さんを紹介します。こちらの河津桜も素敵なんだよね。
2021/2/22座間市・さくら百華の道にて。
トップ画像は途中に行幸道路から見かけたさくら百華の道の河津桜の様子。満開!訪問時、複数の人が見物してました。撮影時刻は12:44です。自転車出発。
最短コースで米軍座間キャンプの地下を横断するトンネルを抜ける。と、宗仲寺さんに13:01に到着した。
説明板発見:宗仲寺 
山号:来迎山峰月院 宗派:浄土宗
当寺は徳川家康公の重臣で、時の領主・内藤清成が、慶長8年 (1603)実父竹田宗中の菩提のため、鎌倉岩瀬・大長寺第4世・源栄上人を開山として創建したと伝えられています。
当寺域は、平安時代に宗仲寺の前身として伝えられています。良真院、鎌倉時代には澁谷道場と呼ぶ修行場があり、その跡に当時が建立されたと思われます。
源栄上人は家康公の厚い信任を受け、松平家の菩提寺であり、徳川家先祖の墳墓がある岡崎(愛知県)の大樹寺第19世住職となった後、当寺へ隠棲されたと伝えられています。
当時には家康公が在世中に鷹狩りの際、立ち寄られたと言われ、寺領として七石四斗の御朱印及び下馬札を賜ったほか、家康公から下賜された茶器一式、家康公木彫像(源栄上人作)、家康公肖像画一幅などが寺宝として伝えられています。
本堂などの伽藍は、明治9年の新戸大火で山門を残して焼失しましたが、同27年に再建され、昭和50年に本格的改築が行われ、現在に至っています。
また、昭和56年には、水子観音堂が建立され、巨匠・山本豊市による乾漆彫刻の水子観音像が奉安されています。」
軒丸瓦が三つ葉葵です。そして咲いてるのは河津桜。


枝垂れ梅。

境内から見た山門側の桜を撮影してみた。
中央奥に立て札がある。
この銀杏は徳川家康公お手植えの木です。
まずは参拝。

上の画像ではわかりづらいけど、御本殿の屋根の上に三つ葉葵の紋が輝いています。
おや?ここにも三つ葉葵がついてます。(正面から本堂に向けて撮影したけど、逆光だったので背面から撮影しました)
では毎年楽しみにしてる裏手の墓地奥にあるペット墓地へ。
所在地の目安。奥の緑色の屋根が本堂。手前に並ぶのが墓石。で河津桜や紅梅、枝垂れ梅の広場。画像増量となったので明日に続きます。
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先週末、初詣に行ったらば

2021年02月02日 13時09分12秒 | 神社・仏閣
2021.1.30、今更ではあるけれど初詣に出かけました。
1月も末となればもう空いてるだろう?と思ったのよね。
3が日は避ける!と12月に決めてた。12月末に早めに初詣に行くつもりだった。けど血圧が許してくれなかったのだ。連日180くらいのまま年越ししちゃったのが敗因です。1月初旬、降圧剤が変更となりようやく血圧が下がり始めるまで10日近くかかったの。
で、行けそう〜。ってか今行かないとねぷた飾りが見えないじゃん!

到着〜。けども予想外に人が多い。参拝列がまさかの4本伸びてます。あれ?何で??
見上げた先にねぷた飾り。「疫病退散」とある。
そっか〜。やはり神様頼みになるのは仕方ないな。
行列はいつもと同じように進む。けどみんな沈黙してる。
参拝。もちろん疫病退散祈願で全力お参りですわ。
最後にダンナのおすすめのお札を購入。寒川神社さんの八方除けです。
さあ帰ろう!と思ったら、ダンナが「トイレに行ってくる」と消えてしまった。
時間潰しは境内の出店見物です。
まさかの1月末にも出てます。チコちゃんキョエちゃん発見。上から3段目はほぼ鬼滅の刃だね。いやさ、狐のお面は本来ならば、お面屋さんに売ってて当たり前なんだけどもさ。やはり鬼滅関連だと思うんだよね。
そして名物八福餅。予算を全力でお札に注ぎ込んでしまったので、今年はパスで。
ちなみに、お賽銭は以前から用意してあった令和元年のピカピカ五円玉と平成31年のピカピカ100円玉をダンナと私で分けて投入しちゃいました。縁起良さそうだったので。
帰り道、信号待ち。参拝入り口で参道を見返し。大きな松の木がたくさんあります。
相模線宮山駅到着。今年の干支のポスターがありました。
ちなみに、例年通りならばねぷた飾りは節分まで飾られています。
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東急線・バス1日乗り放題パスを使って紅葉巡り

2019年12月15日 05時45分44秒 | 神社・仏閣
2019/12/8参拝。今日から12月8日の東急線・バス1日乗り放題パス1000円を利用した紅葉散歩を紹介します。
我が家からの最寄り駅小田急相模原駅8:24発→中央林間駅8:36着。東急中央林間駅の券売機で乗り放題パスを購入し、8:43発→鷺沼駅9:10着。鷺沼駅はホームから長いエスカレーターを上がった先が地上1階だった。初めて降りたけど、駅の構造に驚く。
9:22発鷺02系統武蔵小杉駅行きバスに乗車。東急バスは1回210円の統一運賃なので、2回バスに乗車すれば元がとれるお得な切符です。(東急線1日乗り放題のワンデーパスは680円)バスは次第に乗客が増えて行く。実はほぼ東急バスを利用するのは初めてなので、こんなに客が多いと思わなかった。ちゃんと降りれるのか?不安になって目的地のだいぶん手前のバス停で席を立って降車口近くへ移動。ちなみに、東急バスは接近するバス停の表示がない。目的地のバス停までどれくらいか?が分からなかった。バスにもいろいろあるのね。9:44影向寺バス停に定刻で到着。
さて登りです。降りた影向寺バス停は、中原街道にあって、徳川家康入府の道でもある昔道です。なので沿線には古寺が多く、地形に素直に道がある。事前調べではバス停から徒歩8分の上り坂とあったのですが、体力の衰えてるおばさんは到着まで14分かかりました。
説明板発見:影向寺(ようごうじ)
当寺は、天台宗に属しています。縁起によれば、天平11年(739)光明皇后がご病気のおり、聖武天皇は夢告で武蔵国橘樹郡橘郷、すなわちこの地に霊石のあることを知り、早速、当時の高僧行基を使わし祈願させたところ霊験あらたかで、皇后のご病気も快癒されたという。そして聖武天皇の勅命により、この地に伽藍がそびえたのは、その翌年のことであると伝えています。事実、境内から採集された古瓦の中には、奈良時代のものが含まれており、当寺の創建が縁起に近いことがわかります。
境内の安置堂内には、当寺が古刹であることをうらづける数多の文化財が所蔵されています。
重要文化財に指定されている、本尊の木造薬師如来坐像(けやき材)と両脇侍立像(桜材)の三躯は。一木造で、平安時代後期の作品です。
風格のあるおだやかな表情とあふれる量感が特徴的です。この本尊には、木造二天立像二躯(平安時代後期)と木造十二神将立像十二躯(室町時代)が眷属として侍立しています。また、木造聖徳太子立像一躯(室町時代)もあり、いずれも川崎市重要歴史記念物に指定されています。
閉まってます〜。御本尊も両脇侍も見られない〜。残念。
堂内の図は見つけた。ほぼ正方形。
薬師堂は、江戸時代初期の万治年間(1658−1660)に火災で失い、その後まもなく復興したと伝えられているもので、現在の薬師堂がそれにあたるものとおもわれます。建立の時期は建築様式上の特徴から、寛文頃(1661−1672)のものとされております。

境内の東南隅にある影向石は、縁起でいう霊石にあたるものでしょうが、その実際上の用途は、塔の心礎であろうといわれています。

また、江戸時代の民衆が本尊によせてきた信仰を物語る絵馬や昔話の舞台となった乳を乞う母親が祈願したイチョウの大木など、当寺にかかわる歴史的な話題は数多く伝えられています。 川崎市教育委員会」
影向寺さんの境内は小さめですが、あれこれの建物がぎゅっと詰め込まれてます。
太子堂。説明板は画像左に立ててある。あったけど撮影を忘れた。確か明治に建立したとか書いてあったような。
影向石の説明板発見:当寺のいわれとなった霊石。奈良朝に本寺創建のとき、ここには美しい塔が建てられ、その心礎として使用されました。心礎には仏舎利が納められ、寺院の信仰の中心となります。「影向(ようごう)」とは神仏の憑りますところのことで、寺域は太古より神聖な霊地。神仏のましますところとして、信仰されていたものでしょう。幾星霜をへ、塔が失われた以降、この影向石のくぼみには常に霊水がたたえれ乾くことなく、近隣から眼を患う人々が訪れて、この功験によっていやされました。江戸のはじめ万治年間に薬師堂が火を蒙ると、本尊薬師如来は自ら堂を出て、この石の上に難を逃れたといわれ、それ以来、栄興あるいは養光の寺名を影向とあらためたと伝えられます」
影向石の後ろに石仏が並んでいた。
面白そうなのをチョイスして撮影。手に弓と矢と槍(槍でなく錫杖かも?)と玉を持ってますね。
側に枯れた木の残骸。これはケヤキかな?があった。
参拝後、わざわざバスに乗ってこのお寺に来た目的の元へ。最近ハマった巨木鑑賞です。ここに神奈川の名木百選に選出されてる木があるのだ。素敵〜〜。
明日に続く
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東村山・千体地蔵堂まつりその1

2019年11月21日 05時57分03秒 | 神社・仏閣
2019/11/3訪問。三鷹の国際基督教大学(ICU)の文化財を見学し12時31分に出発。武蔵境駅から国分寺、西武に乗り換え東村山駅へ。徒歩で向かったのは今年6月16日に訪問した東京に2つしかない国宝の千体地蔵堂です。
13時51分地蔵堂に到着。ヤバい。計画より1時間遅れです。当初計画では、地蔵堂の内部を見学したら、北府中へ移動して府中刑務所の祭り(~16:00まで)見学だったのに。移動時間を考えるとあきらめたほうがいいのだろうか?とはいえ、まだ諦めるには早いかも?地蔵堂の天井さえ見れたらいいんだから。参拝行列に並ぶ。
あれ??全然進まないんですけど〜??「ちょっと見てくるわ」と行列にダンナを残し最前列へ向かう。と?先頭は止まってた。待ってるの?なぜかしら〜??
よくよく観察すると、行列に並ぶ人は皆さん緑のカードを持っている。あれは何だろうか?情報収集が必要だ。
テントに向かう。「すみませ〜ん」かくかくしかじか。結果、緑のカードは1体3000円の厄除け小地蔵購入者に配布される参拝券でした。これを持ってないと、行列に並んでも参拝出来ないらしい。
地域のお祭りなので、地元民は知ってて当たり前なんだろうけど、遠方より来た観光客には謎の仕来りでしたね。
質問に行ったのは、小地蔵販売テントです。テントに貼り出されたポスターが上の画像。
行列からダンナを連れ出して、ベンチへ移動。
「これこれこういう訳で、行列に並んでも入れません」と告げると「どうするの?」と質問返し。
「待つ!」
実は情報収集の途中にタイムテーブルもゲットしてある。
現在2時近くです。タイムテーブルには2時から一般見学不可・厄除け小地蔵開眼法要(2:00−2:20)小地蔵ご購入者の焼香時間と書いてあった。つまり行列してるのが小地蔵購入者なんだね。
で、待つという意味は2時20分以降ならば、一般見学が再開されるんだ。
で、タイムテーブルをよくよく読むと写真撮影可能時間3:00−4:00とある。つまり、2時20分以降からは地蔵堂内部の一般見学は再開されるけども、撮影できるのは3時以降という意味だ。ってなことで、ダンナにそう告げる。待ち時間1時間&府中刑務所見物中止が確定しました。
「このベンチで待ってて。タイムテーブルには2時30分−2時50分(約20分)雅楽と浦安の舞が披露されるのだ。ちょっと長めの休憩しようよ」と宣言。
ダンナはともかく私は見たいものがある。厄除け小地蔵開眼法要である。行列しないので、カメラマンできるよ。
先導者が鈴を鳴らす。次いで住職がやってきた。地域の偉い人が後に続く。
行列していた人が参道を開けて住職を通す。
前回訪れた時に閉ざされていた扉が大きく開いていた。テンション上がるう〜!
先導者はここで停止。住職が先へ。
納められた厄除け小地蔵の開眼法要が始まる。読経が聞こえてきた。ベンチに戻り一旦休憩。
徐々にベンチに人が集まってきた。背後に立ち見の人もやってきた。
2時30分、雅楽の演奏者が3人舞台に上がる。マイクを持った女性が開催を告げる。まずは有名な越天楽。(黒田節)
む〜ん?天候が悪いせいか、音が悪い。あまり出てない。竜笛はともかく左端の篳篥がな〜。
続いてもう1曲。その後小学生から中学生の4名の舞手が登場する。
初々しいなあ。
周りから近所のおばさん達の舞手になった子供達の裏事情が聞こえてきた。
背後のテントがなければここだけタイムスリップしてるなあ。でもなんで神社さんの本殿の扉を開けないんだろうか?せっかくの舞なんだし、雅楽の奉納なんだから神様にもご覧いただきたいのに。
タイムテーブル通りに舞が終わる。地蔵堂へ向かう。
手前で動線を確認。楽しみ〜〜!!

おまけ:千体地蔵堂へ向かい歩いてる時、所沢方面からブルーインパルスが飛んできました。東村山からも見えるんだ!!列に並びつつブルーインパルスを目で追いかける。と、隣で旦那が非常にショックを受けてた。どした??と聞けば、まさかここって所沢に近いの?と。何言ってんでしょうかねえ?東村山の隣駅が所沢でしょ!と言ったら「ソレもう旅行じゃん!」とな言いやがった。訳がわからないので聞き返したら、「相模原の我が家からそんなに遠い場所に来てると思わなかった」そう。彼の距離感が訳わからんわ。けどまあ、今回は小田急線の狛江駅からICUへは小田急バス1本で移動したし、小田急バスで武蔵境駅に移動したからね。距離感がつかめてなかったというのもうなずける。彼的には11月3日は入間基地の基地祭に複数回足を運んでるので、彼の使う交通手段。つまり小田急相模原→新宿。西武新宿→所沢→稲荷山公園が頭にあるらしい。それをブルーインパルス見て自覚する旦那。ま、今日の目的は目の前の国宝であって入間基地ではないのです。今は大人しく待つのだ。
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梅岩寺の4つの紋と増上寺の石燈籠

2019年07月23日 06時01分01秒 | 神社・仏閣
2019.6.16参拝。目的は大ケヤキとカヤでした。国宝正福寺の千体地蔵堂を見学に立ち寄った際、ガイドさんに梅岩寺さんの見どころを教えていただきました。曰く「紋が4つあるから探してごらん。八十八箇所の石像があるよ」でした。
その前に忘れそうなので先に梅岩寺さんの基本情報を紹介します。
山号:芳林山
寺号:梅岩寺
宗派:曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所:狭山三十三観音 霊場9番・10番
御由緒:応永5年(1397)に真言宗寺院として創建された。
その後戦国時代を経て、曹洞宗に改宗された。
ふまえて、トップ画像は梅岩寺の山門です。屋根の軒丸瓦に注目。丸に二引きの模様がありますね。寺紋でなく武将の家紋がついてると仮定して調べたら、これは足利将軍家の紋です。足利氏の二つ引両、新田氏の一つ引両が有名。
他に紋がついてそうな場所は?

振り返る。あ。まだ参拝してなかった!先に巨木でワイワイしちゃいました。反省。
あ。屋根の上に紋がある!
え〜と??ズーム!
わかるかなあ?
中央の屋根の中央に燦然と金色に輝いてるのが徳川の家紋三つ葉葵です。
で、その真上に先ほど出てきた丸に二引きの足利家の家紋。
その上、屋根の一番上に輝く3つの丸。これが全部違ってます。
左にあるのが五三の桐。もしかしたら五七の桐かもしれんが目を凝らしても判別できない。で、五三の桐が家紋の武士といえば、豊臣秀吉です。
屋根の上の中央は三つ葉葵だと思う。で、右端は?なんだこれ?
〜〜〜調べたは調べた。家紋のWEBで植物家紋を90ページまでチェックしたわ。けど決定打がない〜。梅鉢のような5つ丁子のような?瓜にしては形が細いなあ〜??などと。ギブです。どこの家紋なんだろうなあ?ガイドさんにもっと詳しく聞いておくんだったあ〜〜!!
さてと次だ。八十八ケ所の石仏は、山門から本堂をつなぐ参道の両脇に並んでます。
説明板発見:新・四国石仏 東村山市指定・有形民俗文化財
指定:昭和55年3月
江戸期、特に中ごろから霊場巡り、巡礼が庶民の間に盛行し、近くは坂東・秩父に、遠くは四国八十八ケ所詣でなど、いわゆるお遍路が行われました。
四国への霊場巡りは現代とちがって数ヶ月もかかり、経済的にも身体的にもそれはたいへんなことで、だれでもが実行できるものではりませんでした。そこで地元に八十八ケ所の石仏を造立し、四国まで行かなくとも、同じに功績が多くの人に得られるようにしました。
これを新・四国石仏といいますが、この石仏は文政7年(1824)に久米川村の榎本権兵衛が建立し奉納したものであり、現今、完全に八十八体として残されているものはこの近郷になく信仰史のうえからも価値があります」ですってよ。選んだのは私の故郷の70番前後の石仏です。
鐘楼と十三仏信仰の石仏。新しいですね。
このあたりまでほうほうほうと呑気に見てたらば!
これはっ!!もしやせんでも芝増上寺の徳川将軍家に奉献された石燈籠ではなかろうか!?
いや〜〜!!東村山市のあちこちにあるんだね。
いや、決めつける前にチェックだ。
形は寛永寺や増上寺の石燈籠です。傘の部分に三つ葉葵がついてるし。
胴部分を読んでみた。
右から奉献 石燈籠 両基
武州 増上寺
有章院殿 尊前
正徳六年 丙申四月三十日
従三位下行〜〜〜読めない
解説いきます。
やはり芝増上寺に奉献された石燈籠でした。
有章院殿は第7代将軍徳川家継のことです。
正徳6年4月30日は、1716年6月19日で、家継の死没日でした。
ちなみに家継は6代将軍家宣の四男として宝永6年(1709)生まれなので、8歳での死亡です。死因は風邪による急性肺炎だったとか。
その後ろに石燈籠を奉献した人の冠位・知行地・名前がくるのですが、冠位の従三位までしか読み取れません。だいたい大名の位階にあたります。
 
次。右から武州増上寺
文昭院殿 尊前
正徳二年壬辰年十月十四日
従三位下子播磨子平朝臣織田氏秀
彫りがよくて最後まで読めたけど!!
まずは最初から、増上寺です。これも!
文昭院殿は6代将軍徳川家宣です。
正徳2年10月14日は家宣の死没日で、1712年11月12日にあたります。
けどさ。播磨は播磨守だと思う。平の朝臣もまあいい。時代が違うからな。けど織田って?すぐに人物特定すべく織田家の家系図を調べました!けども!!わから〜ん。多すぎ〜。織田=信長の家系と思った。冠位も従三位だと大名確定だし。けども「氏秀」が見つからんのじゃ!なんでや〜〜!!
だいたいさ、石燈籠の最後の部分は彫りが薄くなってしまい読み取れないことが多い。たま〜に読み取れると嬉しそうに探るんだけども、確定できればそれはそれで楽しいんだけども。
もう分からん〜。時刻はすでに13時30分、出発します。

参道で振り返って地図を眺める。次の目的地まで最短コースでいくか?当初の予定通りに満ち満ち楽しそうな道でいくか?
久米川辻:旧久米川村の中心だった場所。期待して目指したけど、今はただの道だった。時刻は13時37分。ここから一気に南へ移動。結局最短コースを選択しました。
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熊野神社さんの隣でお昼ご飯

2019年07月21日 05時30分22秒 | 神社・仏閣
2019.6.16徳蔵寺さんの板碑保存館を12:35に後に。どこでお昼を食べるか?に頭が一杯で、徳蔵寺さんの前にあるパン屋さんマドンナの土偶パンを買い忘れる痛恨の失敗!や。やっちまったぜ〜。
久米川村の鎮守熊野神社さんに12:47到着。地図を見たら神社に隣接して公園があったのだ。そこなら食べれるハズ。
画像では分かり難いけど、画像のパンの向こうには西武西武園線があります。黄色い車両を眺めつつパンとお茶のお昼ごはんです。
さてと、熊野神社さんへ移動。
説明板発見:久米川町の鎮守熊野神社
御祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命・天照大神・(須佐之男命)
由緒:創建は定かでないが、言い伝えによると本社は新田義貞が久米川合戦の時、後詰を置いた所とされる。また、文明18年(1486)聖護院門跡道興准后が東遊の際、神前で、「里人のくめくめ川と夕暮れになりなば、みずはこほりもぞする」の歌を読まれたとされる。「東村山市史」
さらに、熊野神社境内から応永32年(1425)の青銅製鰐口と水鳥形香炉が初件されてることから、鎌倉・室町時代から社殿が存在していたと考えられる」
とりあえず参拝。13時7分出発。次の目的地は楽しみにしてる梅岩寺さんのカヤとケヤキの巨木です。

道の向こうに大きな木が見えた。信号待ち。
どの木も大きいなあ?どれが目的の木なんだろうか?あれ?手前に何か石塔がある。
庚申塔だった。

説明板発見:梅岩寺の庚申塔・東村山市指定有形民俗文化財
指定:平成3年(1991)7月24日
江戸時代のころより庶民の間に庚申信仰がさかんになり、ムラムラには庚申講結成されその講により庚申塔が数多く建てられました。
庚申信仰とは、庚申の日の夜に三尸(さんし)という三匹の虫が眠ってる人間の体を抜け出し。天帝に悪業を告げて命を縮めるというので人々は夜、眠らずにいて虫が出てゆくのを防ぐという道教の思想に基づくものです。
この梅岩寺の庚申塔は、現存する市内最古のもので延宝5年(1677)の年号が記してあります。天和2年(1682)に没した梅岩寺3世一宜高策大和尚が建立したと思われます。
また、右手の石塔には、天保2年辛卯4月吉日 馬頭観世音 総村中 の銘があります。」
13:10梅岩寺さん到着。
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徳蔵寺さんの増上寺の石灯籠が!

2019年07月19日 05時41分48秒 | 神社・仏閣
2019.6.16東村山市散歩。12:07徳蔵寺さんに到着。トップ画像右手の建物が目的の板碑保存館です。入館する前にまずは参拝。
あれ!!
この石灯籠の形はアレじゃないの!?
すぐに胴を確認すると?
右から、奉献石燈籠
武州増上寺
惇信院殿 尊前
宝暦十一年辛巳六月十二日
堀田ーーーーーーーーとある。
これは芝増上寺に奉献された石燈籠で、惇徳院は9代将軍徳川家重のことです。
宝暦11年6月12日は家重の死没した日で、1761年7月13日にあたります。
その後に冠位・領地・名前がくるんですが、大概奉献した人の名前は小さめに彫られてて読み取り出来ません。
つまりこれは増上寺にあった9代将軍の墓所の前に並んでた石灯籠です。戦後、焼失した徳川家墓所。跡地を買ってホテルを建てたのが西武。石灯籠は石なので焼けても残りました。邪魔だったので、希望した寺院に配った歴史があります。徳蔵寺さんにも配られたんですね。あちこちにあるなあ。
またあった!少しスリムな石燈籠。時代が違うかも?胴を確認。
奉献 石燈籠 両基
武州 増上寺
文昭院殿 尊前
正徳二壬辰歳 十月十四日
従三位下 左ーーーーー読めない〜。
調べた。
文昭院は6代将軍徳川家宣です。
死没は正徳2年10月14日(1712年11月12日)
従三位は大名クラスの大分冠位が高い人ですが、同じく判読できないので誰かわからん。
もひとつあるなあ。
今度はどこまで特定できるかな?
武州増上寺 文昭院殿 尊前
正徳二年壬辰十月十四日 その次は全く分からん〜。曲面に彫ってあるからなあ。
もう一度角度を変えて撮影だっ!
従三(もしかして五)位下關前????もしくは下関備前守藤原〜??ダメだぁ〜〜。あ〜、拓本取りてえ〜。でもさ、関前ってさ。どこかで聞いたような〜??『居眠り磐音』じゃないの?あれ??関前藩って本当にあったの?調べた。豊後関前とう場所らしい。けどこの石燈籠が本当に関前なのか分からん〜。そもそもさ。西武が配った石燈籠は、2万基もあったようなので、ならそんなに大事なものじゃなかったのかなあ?私は日本史専攻してないので、その辺の大事さがよくわからんのだよねえ。
ま。いいか。
さて、参拝。そして板碑保存館の入り口を探す。と?社務所の入り口に「保存館入館希望の方はブザーで呼んでください」的な張り紙を見つけた。
押す〜!
おばさんが奥から登場。一人200円の入館料を支払う。と「入り口は開けてあるのでご自由にご覧ください」とのことなので移動。

板碑保存館の1階は、東村山市の史料展示だった。石器・土器・国分寺瓦・古銭など。画像はお茶壺。2階へ向かう。

徳蔵寺:福寿山と号し、臨済宗(禅宗)大徳寺派に属し、本尊は白衣観世音菩薩、開山は壁英宗趙禅師・寛永12年(1635)示寂。開山年は、元和(1615〜1623)年の頃と思われる。江戸末期には赤坂の種徳寺末であつた。
当寺は、もと板倉氏(旗本か)の屋敷であったと言われ、土塁や堀の跡が残っていたという。
境内からは、中世の文化財である板碑も発掘され、また、昭和55年(1980)、本堂改築にあたって基礎工事中、宝篋印塔(鎌倉時代・供養塔)が数基発掘されたことなどから、この地は開山以前から歴史的に重要な位置にあったと考えられる。
住所に小字「西宿」とあることから、中世鎌倉街道の重要な宿場であったと思われる。」(パンフレットより抜粋)


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東京の国宝は2つ。一つはこれ

2019年07月16日 05時39分27秒 | 神社・仏閣
今日はら2019.6.16の東村山市の巨木と歴史散歩を紹介します。すでに一月も過ぎてて、大分記憶が怪しくなってしまいました。
1月頃、巨木の資料を集めて東村山市の巨木散歩を作りました。けどついでならば、北山公園の花しょうぶが綺麗な時期に行きたいなあと待ってました。
9時半頃、西武線東村山駅到着。駅前で散策パンフレットを配布していたのでゲット!北山公園の花しょうぶ祭り開催中だったので、あれこれイベントもやってる模様です。
北山公園の前に、駅から近い金剛山正福寺さんを目指す。実はここには2009年に迎賓館赤坂離宮(旧東宮御所)が国宝指定されるまでは東京都唯一の国宝指定の物件があるのです。
説明板発見:正福寺山門 東村山市指定有形文化財(建造物)
指定:平成17年4月20日
金剛山正福寺は臨済宗の寺院で、鎌倉の建長寺の末寺です。その仏殿である地蔵堂は、応永14年(1407)建立の典型的な禅宗様建築であり、東京唯一の国宝建造物である(昭和3年・1928指定)
鎌倉幕府執権であった北条時宗か、またはその父である時頼によって開基され、勧請開山は中国南宋の石渓心月仏海であると言い伝えられていますが、確たる史料は現存していません。
正福寺山門は、昭和48年(1973)に行われた解体修理の際発見された、親柱ほぞの墨書銘「元禄十四辛巳年無神月吉祥日建◽︎(者)也、此時住寺號月山(以下略)」から、元禄14年(1701)、月山の代の建立であることが判明しました。
山門の建築形式は、四脚門で切妻、昭和48年の修理の際に、茅葺から茅葺形銅板葺に改修されました。建築様式は禅宗様で、その規模は、桁行十尺(3、03メートル)、梁行十尺で、高さも柱底部から桁下端までで十尺となっています。屋根は、かつては、化粧裏板の上に登り、梁を架けて茅葺としていたものと考えられます。また、彩色は柱、桁、冠木、束等に朱の痕跡が見られ、もともとは全体が朱で塗装されていたものとみられます。江戸時代の伽藍の遺構を示す、貴重な禅宗様建築物です。」
あれ?
増上寺の石灯籠がないっ!!
実は再訪です。2013年に、所沢の西武球場前にある西武ゆり園・狭山不動尊北山公園の花しょうぶ・正福寺の千体地蔵堂を散策しました。
その時に、お堂の前に3対6個の石灯籠があったのだ。石灯籠は、第二次世界大戦で焼失した芝増上寺の徳川将軍家に奉献されたものでした。記事を閲覧くださるとわかるのですが、6代徳川家宣(文昭院)のものだけ灯籠の胴部分に刻んである文字を読んだのですが、残り5個を放置しちゃまして、再訪したら調べようと思ってたのになぜないんだぁ〜〜???
あ!「ガイドします」の旗がある。
画像には写ってないのですが、正福寺の右手に神社があります。画像の右にU字の区切りが写ってますね。これがお寺と神社の境で、明治の神仏分離令以降敷地を分けたんだって。神社の方の境内にテントと人影があった。ガイドさんならば石灯籠がなくなった理由を知ってるハズ。突撃だっ。
「すみませ〜ん。歴史ガイドはもう始まってますか?お願いしたんですが」
年かさの男性とおばさんが、ガイドとしてテントで待機してた。訪問したのが北山公園の花しょうぶ祭りの会期中の日曜だったからイベント関連ですかね?ラッキーです。
「あの、以前境内に石灯籠がいつくかあったと思うのですが、何故になくなってるのですか?」と尋ねたら、思いもよらない回答を得た。
「石灯籠はそもそも正福寺と関係ないものですので撤去しました」
ええっ!?
「どこに撤去したんですか?」
「たぶん寺の裏手にはいくつかあると思うけどね」と誠にそっけない。
歴史ガイドなんだから、あれの由来を知ってるよね?そのうち1個は、芝増上寺にあった6代将軍徳川家宣の命日に合わせ、中納言か大納言クラスの人が奉献した石灯籠だったんだけど〜??歴史好きならスルーできないと思うんだけどなあ。
でもさ、ここは東村山。というか西武沿線です。そもそも芝増上寺は、徳川宗家の菩提寺です。徳川15代のうち6名の将軍が葬られてます。残ってれば間違いなく世界遺産です。けど昭和20年2度の空襲でほとんど焼失。跡地を西武が購入してホテルを建てました。焼け残った建築のいくつかを西武球場前の狭山不動尊(かつてのユネスコ村)へ移し、2万基はあった石灯籠は、戦後しばらく放置。やがて西武により欲しい寺に配られたと聞きますので、正福寺さんにあった6個の石灯籠もその時に得られたと思うんだ。それも歴史じゃん?と思うのは観光客の身勝手なのかなあ?
ともあれ、地元民にとっては、正福寺さんの地蔵堂は最近まで長らく東京都内唯一の国宝でした。そこに全く関係ない増上寺の石灯籠が並んであるのは許せなかったのかも?見方が違えば価値観も違うこともあるか。あ〜あ。せめて残り5個の石灯籠が誰が誰に奉献したものだったのか?知りたかったなあ。
気をとりなおし、ガイドさんのお話を聞く。けど思い出そうとしてもほとんど出て来ない。
やっちまったね。石灯籠が処分されたショックでせっかくのガイドさんの話を聞いてなかったみたい。
けど地蔵堂でない部分の説明は覚えてます。
真新しい小さな建物。中には貞和の板碑がおさまっている。ガイドさんのお話は後で紹介します。説明板を撮影してるのでそちらを優先させて。だって一月も経ってるので記憶が〜。
貞和の板碑:東村山市指定有形民族文化財
指定:昭和44年(1969)3月1日
種子は釈迦如来で、月輪、連座を配し、光明真言を刻し、銘は「貞和五丑己卯月八日、帰源逆修雨」とあり、西暦1349年のものです。卯月(4月)8日は釈迦の誕生日であり、法名が帰源という人物によって、逆修供養として生前に自分の死後の冥福を祈願し造立されたものです。
高さ300センチ(うち基部の高さ55センチ)、幅51〜58、5センチであり、完全な形をとどめるものとしては都内最大級の緑泥片岩製の板碑です。
この板碑は、昭和2年にここ正福寺境内に移建されたもので、かつて前川の橋として使われ、経文橋または念仏橋ともよばれていました。それ以前には経文橋から約100メートル南にあった自教院(野口町1丁目)の境内にあったと言われています。」
覗いてみた。
 
なるほど石に刻んだ模様が蓮で、そのうえに釈迦如来の種子(しゅじ)=梵字・真言になってるのですね。(*分かりやすさ優先で東村山市ふるさと歴史館に展示してる正福寺さんの板碑の説明画像を追加で貼り付けます 2019.7.16追加)
ガイドさん曰く「新しい覆い屋が出来たところなんです」と嬉しそう。でも裏側がどうなってるのかも知りたかったなあ。
私的には板碑また出た!です。ものが石だけに、歴史散策をするとあちこちの資料館や博物館に収まってるんだよね。wikiによりますと「板碑は、主に中世仏教の供養塔として使われる石碑の一種である。板石卒塔婆・板石塔婆とよばれ、典型的なものとしてイメージされる武蔵型板碑は、秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆ともよばれる」
「以前海老名の資料館で板碑は秩父の長瀞の青い石で出来てるって聞いたことあります。覆い屋があるので色ははっきりしないけど、この板碑もそうですか?」と聞けば「そうです」と。しかも私が板碑に興味を示したからか「板碑に興味があれば、ふるさと歴史館・徳蔵寺さんの板碑保存館もオススメです」とニュー情報ゲット!それは行かねばならんね。
「私この後北山公園の花しょうぶ見物の後、梅岩寺さんの巨木と野火止用水の万年橋のけやき見物に行くんです」と言ったら、ガイドさんが「梅岩寺さんに行ったら4つの紋を見てください」とチェックポイントを教えてもらった。「万年橋のけやきは大枝が落ちたことがあって、その枝を使って稲荷神社の賽銭箱を作ったんですよ」と。小ネタもゲット!それは必ず寄らないと!情報補完的にはぜひともに。と、思いがけずに素敵な情報を教えてもらい大満足。
「私が小さい頃は、野火止用水に水がなくて、中を歩いてましたよ」と。郷土の歴史も教えてもらった。ガイドさんが「説明します」といる場所では、こういう本やwebに出てない情報を得られることがあるので、歴史好きな人は利用するのが吉ですよ。
ということで、いよいよ国宝の千体地蔵堂へ。
なんといっても鶴が腕を広げるようにスッと空に向かう屋根が特徴的。
「私、北鎌倉の円覚寺さんの舎利殿が11月3日だったかな?限定で公開されるに合わせ見に行ったんですよね。天井をどういうふうに組んでるのか知りたくて。でも手前に柵があってお堂に入れなくてがっかりしたんですよ。模型なら横浜の県立歴史博物館にあるからって聞いて見に行ったけど、天井は見えなかったんだよね」とぼやいたら、「残念ながら私の資料にも天井の写真はないなあ」と慰めてくれた。けど、ガイドさんが「正福寺さんの地蔵堂も普段は非公開ですが、年一度の地蔵祭りには公開してます」と教えてくださった。
「え!?入れるの?それっていつですか?」と尋ねたら「11月3日です。その時は境内から外の道路まで店が並んで賑やかですよ」と嬉しい情報をゲットです。ちなみに記事を書くにあたり調べたら、地蔵まつりの11月3日が一番賑やかですが、千体地蔵堂の公開日は8月8日・9月24日・11月3日の年3回あるみたいです。
ガイドさんが手持ちの資料を開き、全国に現存する禅宗様仏殿の地図と画像を見せてくれた。似たような形の建物ですが、「正福寺さんのお堂の屋根が一番反ってますねえ」と言えば「美しいでしょう」とガイドさん。
「屋根は何度も葺き替えられていて、かつては茅葺や藁葺だったこともありましたが、現在はさわら葺きです」
へえ〜。さわら葺きか。珍しいねえ。桧皮葺の建物がままあるけどさ。まあ同じこけら葺きだけどさ。
「千体地蔵堂は、小さなお地蔵さんを願いを込めて1体お借りする。願いが叶うと2つにして戻すところから。かつては地蔵堂の梁にたくさんの地蔵が並んでました。今は下に降ろしてあります。地蔵祭りの時に中に入るとみえますよ?」と。うわ〜〜、見てえ〜!!「11月3日に来ます」とガイドさんに宣言した。ガイドのお礼を言ってお別れ。
あ!説明板に地蔵堂の天井の画像がある。けど、これ。平成6年度設置の説明板は古ぼけて、画像もボケボケ。あ〜〜!!どうなってるんだぁ〜〜!!
ついでなので知識補完で説明板も紹介します。
正福寺千体地蔵堂と堂内:この正福寺千体地蔵堂は、都内唯一の国宝建築物です。地蔵堂本尊及び小地蔵尊像は、市指定文化財となっています。
千体地蔵堂は、鎌倉円覚寺舎利殿とともに唐様建築を代表する建物です。波形欄間、花頭窓、屋根の反りなどに特徴があります。昭和8年〜9年に屋根の茅葺きをこけら葺きに改修した際に発見された墨書銘により、室町時代の応永14年(1407)の建立とわかりました。寺の縁起では鎌倉幕府の執権北条時宗が鷹狩りの際病気になり、夢の中で地蔵菩薩からもらった丸薬で病が治ったことから地蔵堂を建立したといわれています。
地蔵堂本尊は、昭和48年の修理のとき文化8年(1811)m江戸神田須田町万屋市兵衛弟子善兵衛と書かれた墨書銘が発見されました。
また小地蔵尊像については、江戸時代の地蔵信仰が盛んなとき、多くの小さな地蔵尊の木造が奉納され、堂内の天井に近い長押(なげし)に置かれ、千体地蔵堂の名もここに由来します。祈願する人は、小地蔵尊像を1体借りて、家に持ち帰り、願いが成就すれば別に1体添えて奉納するというもので、像の裏側には祈願者の名前や年号が入っており、大きさは10センチから30センチほどのもので正徳4年(1714)から享保14年(1729)のものが多く、奉納者は、地元はもちろん、所沢・国分寺・小金井などに及んでいます」とある。
花頭窓。右下とその隣の窓の上部が優雅なデザインでしょ?これが花頭窓です。
波形欄間。扁額と入り口に挟まれた部分が波形になってますね。ここです。
あれ?扁額に「国宝千体地蔵堂 巨福山建長寺」とあるね。正福寺さんが臨済宗建長寺派だからでしょうか?
斜めから撮影。地蔵堂がほぼ正方形なのが分かりますか?
こちらは現在の小地蔵尊像。形の違うのもあるね。お願いが叶って2体に増やして奉納したものかも?もっと近くで見たかったのだけど、奥でカップルがあじさいの横で撮影会やってたので遠慮した。
さてと?参拝して次へ行こうとしてたら、暇してたのだろうか?もう一人のガイドさんのおばさんが近づいてきた。「ガイドしましょうか?」と。「先ほど年配の方にガイドしてもらいました」「あらそう?」と。そこへ女性2人の観光客もやってきて、ならばと案内されたのは千体地蔵堂の横の木です。
「今満開なんですが、何の木かわかりますか?」とガイドさん。これはもしや「リンデンバウムですか?」と私。「そうですが、一般的には菩提樹ですね」あ!なんかハーブ繋がりでドイツの方を思い出しちゃった。森鴎外の作品に出てきたのもドイツのリンデンバウムですね。
でも「お釈迦様が悟りを開いたのはインド菩提樹なのでまた別の種類ですが」とガイドさん。日本では臨済宗の開祖栄西が中国から持ち帰ったので、仏教寺院によく植えてあるんだって。「満開の花をよく観察してください」とガイドさんに勧められ観察。
ん?あれ??変だ!
ピンボケしてはならん画像をピンボケ撮影しちゃったのですが、花房がどこから出てるかみえますか?葉っぱの裏の葉脈から伸びてるんですよ。こんなの日本にはないよ!びっくり〜。咲いてるときだけ観察光景です。私らラッキーかも?
これはタラヨウです。あきる野市の広徳寺さんの巨木、タラヨウ(多羅葉)を5月21日の記事で紹介しましたが、あれは4月13日に訪問したもの。実はまだついてませんでした。熟するとどんな色になるのかな?
本堂は真新しい。とりあえず参拝しておしまい。ガイドのおばさんに北山公園への近道を教えてもらう。お礼を言ってお別れ。まさかの時刻は既に10時14分です。ここで40分近く過ごしちゃったよ。時間が過ぎるのはなんて早いんだろか?
 
足元のマンホールを撮影。東村山市のマンホールは、多摩湖がデザインなのか?
10時26分、北山公園に到着。今年は花しょうぶが花畑にならないと事前のweb開花情報で仕入れ済みだったので、がっかりはない。絨毯になってないなら写し方を工夫して撮影してみよう!
せっかくなので、北鎌倉の円覚寺さんの国宝、舎利殿の記事を貼り付けました。正福寺さんの千体地蔵堂の建物と見比べてください。似てます。

せっかくなので、東京都のもう一つの国宝赤坂迎賓館の記事もリンク貼りました。ちなみに、貼り付けたのは赤坂迎賓館参観まんがの一部です。全文を読みたい!と思われた方は、ブログの左にあるカテゴリー【漫画 赤坂迎賓館界隈楽々散歩】を閲覧ください。
千体地蔵堂の内部が見たかった私は、11月3日に再訪しました。記事をリンクしますので、興味がありましたら閲覧下さい。(2020.2.20追加)
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青梅さんぽ2・金剛寺

2019年04月28日 06時01分32秒 | 神社・仏閣
2019年4月6日の青梅さんぽを紹介します。
青梅駅→しだれ桜の梅岩寺→青梅街道のレトロ建築→しだれ桜の金剛寺(イマココです)
9時31分、急な坂を下りると山門が目の前に現れた。
実は素敵な白壁の向こうにあるのは幼稚園。白壁のある右でなく奥へ向かう。
む〜ん??お目当のしだれ桜がショボい。やはり大枝が折れたというのは本当だったか。がっくりしつつも来ちゃったからには参拝せねば。
説明板発見:金剛寺表門 東京都指定有形文化財(建造物) 指定:昭和36年1月31日
真言宗豊山派青梅山無量寿院金剛寺は平将門の創立と伝えられますが、元享年間(1321−24)に再興され、三田氏、小田原北条氏の帰依を得た古刹です。
この表門は、天保2年(1831)の火災の際に、金剛寺の諸堂宇の中で唯一焼失を免れた建造物です。明治の初期に街区の整理により現在地に移築され、その際に屋根、礎盤(石造または木造の繰形を呈する柱と礎石の間に据えるもの)などが改変されていますが、旧状をよく保っています。構造は一間(2、75メートル)の間口に、出入り口が一つの一間一戸の四脚門で、屋根は切妻造、瓦棒銅板葺です。二本の主柱から1、06メートル離れた門の外側と内側に4本の控柱を設えています。門の主柱と控柱をつなぐ頭貫の木鼻と拳鼻部分に彫られた渦文様の上に鳥が飛ぶような絵様と呼ぶ装飾は、桃山時代の技法を伝えているといわれます。この絵様から、表門が建立されたのは17世紀前半ないし中頃と推定されています。この表門は小型で簡素な門ですが、江戸時代後期の、彫刻を多用する建物とは異なった趣があります。 平成22年3月 東京都教育委員会」
見上げる。
本来の目的のしだれ桜は?
こんな感じで写すといい感じだけども。
分かりますか?しだれ桜の画像をごらんください。
右中央にある大枝が、途中でぶっつり途切れています。巨木の本によりますと、金剛寺のシダレザクラ樹高8メートル 幹回り2、3メートル 樹齢150年。梅岩寺のシダレザクラと姉妹桜と言われている。ほんの10分前に梅岩寺の見事なしだれ桜を見て金剛寺さんに移動したので、記憶の中で比べやすい。折れてしまったのは残念だけど、桜はまだ咲いている。やがて再び見事な姿に復活すれば嬉しいなあ。頑張れ!
さて、お参りせねば。あれ?また説明板がある。何かしら〜?
金剛寺の青梅 東京都指定天然記念物 指定:大正11年6月
平安時代に活躍した平将門の伝説を持つ古木であるが、現在では完全に老衰期にある。
この梅は季節が過ぎても黄熟せず、落実まで青く、このため「青梅(あおうめ)」と称せられ、青梅市の名称もこれによって付けられたといい、いわば青梅市の象徴でもある。
しかし、植物学的には突然変異であるとされているが、滝上氏所有の梅もこの種の「青梅」だと言われている。 平成5年3月31日 東京都教育委員会」
そうか!この木からこの地が「青梅」のと呼ばれるようになったのか。
参拝。
あれ?あそこにも説明板がある。何かしら?
金剛寺銅鐘 市指定有形文化財 平成15年8月2日指定
この銅鐘は、中世末以来多摩郡の鋳工として著名な横川村(元八王子市横川町)加藤鋳物師集団による作品で、寛文6年(1666)8月に金剛寺に寄進されたものである。
銅鐘に陰刻された金剛寺縁起は、青梅地名伝説と将門伝承話を伝える最古の文献として評価することができる。寄進者には、青梅村をはじめとする山の根諸村支配の代官であった高室四郎左衛門尉昌直(昌久)を筆頭に18人の名が刻まれ、草創期の青梅村の治政者と集落形成の有力者との結束意識をうかがうことができる。 青梅市教育委員会」
さて、次です。9時46分、金剛寺さんを後に。
坂道を下りていたら、ようやく咲き出したしだれ桜があった。別の種類のようだ。
坂を下ってたら行き止まり。
道の行き止まりにあったまるで昭和のドラマセットみたいな建物がありました。さて?
実はYAHOO!の地図でルート検索したらずいぶん大回りを指示された。近道がありそうなんだよな〜。地図で航空写真に切替えると、川に橋があるみたいなんだよな〜??
あ。ラッキー道路工事の警備員さんがいるわ〜。「すみません〜」
聞けばやっぱり川には橋があった。
9時57分橋のたもとに到着。

川を渡れば青梅の桜の名所・釜の淵公園です。
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令和元年5月1日限定御朱印

2019年04月20日 16時00分15秒 | 神社・仏閣
2019年4月9日、町田行きました。途中で、青柳寺さんと鹿島神社さんの前を通るので、山門を撮影。トップ画像です。さて、駅へ行こうと思ったら、何か張り出してあった。
新元号施行を記念して、5月1日限定の御朱印をお預け致します。と書いてある。
な、何だって〜!!
たぶん5月1日は日本全国の神社さんで同じような限定御朱印がいただける模様。
しかし私はその日は田舎で大掃除してるハズ。いつもはゴールデンウィークは同人誌即売会に複数参加してて、田舎に帰省しないのですが。今年は親を見に戻らねばならん。残念だけども、まとまった休日が取れるチャンスなのだ。お掃除するぞ〜〜!!
ということで、神社の好きなみなさん、5月1日に特別な御朱印をゲットするチャンスです。前もって特別な御朱印や特別なグッズ販売がないか?今のうちに情報収集しておきましょう。何しろ2019年5月1日は令和元年5月1日であり、ただ1日しかないのだ!多く周って特別な御朱印を集めたい人は情報収集が肝心です!
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入生田・長興山紹太寺

2019年04月14日 05時54分36秒 | 神社・仏閣
2019年3月31日、小田原周辺の桜巡りをしました。箱根登山鉄道入生田駅は紹太寺さんのしだれ桜があります。
しだれ桜と樹叢の巨木は既に記事投稿済み。どちらも長い記事になったので、お寺の紹介は別記事立てします。
入生田駅から紹太寺さんへ向かうと、最初の説明板を見つけた。
長興山紹太寺総門(大門)跡
紹太寺の総門は、東海道に面したこの場所にありました。
元禄4年(1691)ドイツ人博物学者ケンペルは、江戸に向かう途中、この総門をみて彼の著書『江戸参府紀行』に次のように記しています。
「入生田村は。小さな村で、その左手の四角の石を敷き詰めたところに紹太寺という立派な寺がある。この寺の一方側には、見事な噴水があり、もう一方の側には、金の文字で書かれた額があり、しかも前方には、金張りの文字のついた石造りの門が立っている」
この長興山の扁額は、黄檗宗の開祖隠元禅師の書き下ろしたもので現在子院清雲院(現・長興山紹太寺)の本堂正面に掲げられています
なお、現在道路の左側に積み上げてある加工された石は、この総門に使われていたと考えられます。 小田原市教育委員会」
とあったので、しだれ桜見物後立ち寄る。
大きな扁額が掲げられています。
隠元さんか〜。え〜と?WIKIによりますと、「隠元さんは1592年中国福建省生まれ。29歳で生地福建省福清の黄檗宗の古刹で得度。
江戸時代初期、長崎の唐人寺で住持に空席が生じ、3年の約束で日本に招請される。
4代徳川家綱と会見し、京都に寺地を賜り日本に残り日本の禅宗の一派黄檗宗の開祖となる。」
説明板発見:黄檗宗 長興山紹太寺(禅宗)
由緒:本寺は、江戸時代初期小田原藩主だった稲葉氏一族の菩提寺です。当初は、小田原城下山角町にありましたが、第2代稲葉美濃守正則が寛文9年(1669)現在の地に移建し、山寺号も「長興山紹太寺」と称し、父母と祖母。春日局の霊を弔いました。
開山は、京都宇治の黄檗山万福寺で隠元禅師のもとに修業に励んでいた名僧鐡牛和尚で、当時は東西14町70間、南北10町16間という広大な寺域に、七堂伽藍が配置され、黄檗宗では関東一の寺院でした。しかしこれらの堂塔が幕末安政年間の火災で焼失してしまったのは、まことに惜しまれます。境内裏には「稲葉氏一族と春日の局の墓があります。
天然記念物「長興山のしだれ桜」は、寿塔のすぐ近くです。「春を忘れぬ形見に」と稲葉正則が植えたもので、樹齢ざっと320年。樹高13メートル。4月初旬は、巨大な花笠を広げたように開花し、多数の見物客で賑わいます。」
ちなみに、こちらが火災にあう前の伽藍図。
今は全て焼失し、建物など構造物は残ってません。一部説明板が立つ場所が残るくらいです。
ふもとの紹太寺さんでは、隠元から伝わったとされる普茶料理(精進料理)も楽しめる模様。ただし4名以上事前予約必要で12時からいただける。時間のない私はもちろんスルーしちゃいました。お高いし。で、この後稲葉氏が藩主を務めた小田原城へ桜見物に移動しました。
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甲州街道を守るお地蔵さん

2019年04月06日 05時55分37秒 | 神社・仏閣
2019.3.17環境庁の巨樹・巨木林観察コース明治神宮と新宿御苑をめぐる連載も今日で最終回です。最後に紹介するのは新宿御苑から丸ノ内線新宿御苑前駅のすぐ北にある太宗寺さん。ここに江戸六地蔵があるのだ!あるのは知ってて新宿御苑に行ったら寄ろう!と思ってたのに、御苑で疲れ果てパスしつづけていた。この日はまだ14時を回った所。余力があったので、行ってみた。
ありゃ?何だこれ??
内藤新宿散歩の地図と案内板を発見:内藤新宿散歩は、新宿駅から四谷大木戸までの約2キロの道のりです。江戸時代の甲州街道を歩きます。今の新宿追分あたりから新宿御苑あたりまでは代表的宿場であった内藤新宿が開設され、多くの旅籠屋が軒を連ねていました。
元禄11年(1698)、内藤家などの屋敷地の一宇などが収公(領地を没収すること)され、宿場が開設された。内藤家は信州高遠藩主であり、現在の種塾御苑の地に下屋敷を構えていた。徳川家康の江戸入府にあたって江戸周辺地を検分し、家康を迎えたといわれ、以後江戸城西方の交通要所を警固した宿場や関所とともに、幕府は江戸城下から出る主要街道の出口に人や物資を監視する木戸番所を設けた。甲州街道口は、現在の四谷四丁目交差点にあたる所には、四谷大木戸を置き、道の両側に石垣を気づいて木戸が設けられた。
説明板発見:銅造地蔵菩薩坐像 江戸六地蔵の一つ 東京都指定有形文化財(彫刻) 指定:大正10年3月
江戸六地蔵の由来は、本像の内部に奉納されていた刊本『江戸六地蔵建立之略縁起』によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病いにかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永3年(1706)建立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ1体ずつ建立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋待ち鋳物師太田駿河守藤原正儀によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第6番)は、廃仏毀釈で取り壊されて、5体が残っています。
6地蔵のうち、霞関山本覚院太宗寺の地蔵は、3番目として正徳2年(1712)に造立されました。像高は六地蔵の中では一番小ぶりで267センチです。本体には、かつて鍍金が施されていました。
江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました」
読みがいのある説明板だなあ。まさか江戸六地蔵が民衆が寄付を募って建てたものだったとは驚きです。日本の町民文化って本当にすごいわ。
あ。も一つ説明板がある。これによると、寄付した人は合計72000人以上に及んでいた、とあります。
江戸って本当にすげえわ。今時でも72000人以上から寄付を集めるって大変よ〜。私の生地って市民を総計しても7万人もいない。
ちなみに、江戸六地蔵の設置場所も説明板にあったので書いておきますね。
品川寺 品川区南品川3−5−17 宝永5年(1708)建立
東禅寺 台東区東浅草2−12−13 宝永7年(1710)建立
真性寺 豊島区巣鴨3−21−21 正徳4年(1714)建立
霊厳寺 江東区白河1−3−32 享保2年(1717)建立
永代寺 江東区富岡1−15−1 享保5年(1720)建立
ん?あれ??日暮里のお寺が入ってない!
やっぱあそこは自称だったのかな?
新宿ミニ博物館というものなんだって!で、内藤新宿太宗寺の文化財という体で見物しましょうということらしい。あ。太宗寺さんの簡単な縁起も書いてある。
太宗寺は、慶長年間初頭(1596頃)に僧太宗の開いた草庵を前身とし、のちの信州タ高遠藩主内藤家の菩提寺として発展した寺院です。
寺号「太宗寺」は、創建時の庵主太宗の名をいただき、山号「霞関山」は、当時四谷大木戸一体が霞が関と呼ばれていたことにちなみ、院号「本覚院」は内藤正勝の法名「本覚院」を拝しています。浄土宗の寺院です。
とのこと。
では文化財めぐりをするか。
2)閻魔堂の閻魔像と奪衣婆像
「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれた閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。
現在も、毎年お盆の7月15・16日には、盆踊りとともに閻魔像・奪衣婆像のご開扉、マンダラ十王図・涅槃図の公開が行われています。
閻魔様の像は撮影してませんが、建物の直前に立つとタイトアップボタンが設置してあるので中が見えます。閻魔様は堂の天井近くまであって、奪衣婆も大きかった。丁度お彼岸だったので、去年あちらに渡った父と叔父たちの平安を祈る。
説明板発見3)切支丹灯籠 新宿区登録有形文化財 歴史資料 登録:昭和60年3月1日
昭和27年(1953)太宗寺墓地内の内藤家墓所から出土した織部型灯籠の竿部分(脚部)で、現在は上部の笠・火袋部分も復元し補われています。
石質は白みかげ石で、江戸時代中期の製作と推定されます。
切支丹灯籠は、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れ切支丹がひそかに礼拝したとされるもので、織部型灯籠(安土桃山時代〜江戸初期の大名・茶人古田織部の好んだ灯籠)の全体の形状は十字架を、また竿部の彫刻はマリア像を象徴したものであると解釈され、マリア観音とも呼ばれています。」
この灯籠と同じのを見た気がする。あれは確か〜?
去年目黒川の桜を見物して、目黒不動尊に移動する途中で立ち寄った大鳥神社さんに切支丹灯籠があった。
ちょっと変わった建物ですが、これが本堂です。
説明板発見:4)内藤正勝の墓(内藤家墓所) 新宿区指定史跡 平成7年2月3日指定
江戸時代に信州高遠の藩主をつとめた(元禄4年より幕末まで)譜代大名内藤家の墓所です。
現在の墓所は、昭和27年(1953)東京都の区画整理事業に伴い、墓地の西北部にあったものを現在地に改葬したもので、約300坪・57基の墓塔を現存の3基に改葬し、改葬記念碑を建立しました。
墓塔は3基とも宝篋印塔で、中央が5代正勝(寛永6年造立)、右側が13代頼直、左側が内藤家累代の墓塔(ともに明治時代の造立)となっており、このうち正勝の墓は区指定史跡に指定されています。
太宗寺は、寛永6年(1628)にこの正勝が葬られ、6代重頼が寺地を寄進し起立したものですが、正徳4年(1714)7代清枚(きよかず)が葬られて以後ここを歴代の墓所とし、当主ほか一族が葬られました」
うぎゃああああ〜〜〜!! ぱったり
え〜と、今起きたことを簡単に説明しますと、このあと文章が全部消えた〜。
何でですかね?なんかメッセージも出てた気がするが、無視して入力を続けて送信したのよ〜。全部消えてた!しばらく放心。
た、対策せんと!
全文入力して送信せずに、ぶつ切りで送信しようかな?これ、サーバーに負荷がかかるとか聞いた気がするので、なるべくまとめて書いて送信するようにしてたけども。入力した文章が消えるとなれば、ブツ切りしかないよな?
あ〜もう!何書いたっけ!忘れてしまったわ。え〜と??
5)三日月不動像 布袋尊像(新宿山ノ手七福神)
塩かけ地蔵。近くにお百度石もありました。
時刻は14時15分。まだ早いけど帰るか。新宿御苑から小田急新宿駅を目指す。途中、新宿門脇のインフォメーションで物販テントがあった。ダンナは地方限定カップ麺を購入。あとで撮影させてもらおうと思ってたのに、ダンナは帰宅後即食べちゃいました!ダイエットしてたんじゃなかったんかい!撮影できず。
私が購入したのはからむしうどん。
うどんを見ると食べてみたくなるのが讃岐民の習性。にしてもからむしってどこかで見覚えが??と思ったら、うどんの説明文をいただく。そこには上杉家ゆかりの植物からむし(青苧・苧麻)と書いてある!
えっ!?上杉家??と驚き読むと、戦国時代、上杉謙信・景勝・直江兼続が栽培を奨励した自然素材苧麻(カラムシ)が蘇ります。かつて麻織物原料として、また葉は食用として使われ、現代ではその粉末を織り込んだ「からむし麺」が驚くべきパワーで大人気をよんでいます。
からむしには独特のねばりがあり、モロヘイヤなどネバネバ野菜と同じく。豊富なミネラル分を有しています。とあって、ほうれん草と比較の成分表が載ってた。すげえ。上杉謙信がすごいのか?直江兼続がすごいのか?歴史好きなら一度は食べてみたいよ。このからむしうどん。
ってなことでこれで明治神宮・新宿御苑の巨木巡りの連載はおしまいです。明日からは3月24日の京王線の巨木巡りと早咲き桜です。まだまだ巨木巡りは続くんじゃ。
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渋谷・金王神社さん

2019年02月19日 18時19分29秒 | 神社・仏閣
今日から2019年2月17日の刀剣展と巨木探訪散策を紹介します。
最初は渋谷駅から徒歩約13分の距離にある国学院大学博物館から。開館が10時なので少し遅めに家を出た。ところが、ああ、渋谷ダンジョン!!
渋谷駅で迷う。いや、正確には地上に出てから迷った!六本木通りはどこだ〜??渋谷警察署が目印はハズ。
渋谷駅っていっつも工事してるよね。渋谷駅も何度も乗り降りしてるのに迷った!地上に出てからも迷った理由は坂道です。まさか六本木通りが坂道だなんて〜。坂は可能な限り回避したい私は、坂道を見てもそれが目的の六本木通りだと認識できず。しかも!坂道は途中でY字に別れてて、登ってる道が正解かどうか確信が持てず。恐る恐る登ってたら、「金王神社」というのを見つけた。
アレ?なんか記憶が刺激された?と、予定にはなかったけど寄り道した。

金王神社さんに行ってみて、見た気がした。もしかしてブラタモリ?
そうだよ〜、何年か前に金王神社さんで高低差についてタモリさんが語ってたのを思い出した!
あれだ!渋谷川の回。小学校の音楽で「春の小川はさらさら行くよ〜」と歌ったことありますか?あのモデルの川が渋谷川です。金王神社さんは中世の渋谷城だった!でブラタモリお得意のCG画像が流れたんだった。あ〜すっきり!
さて、境内を見回すと、立派な神楽殿もあった。

そして御神木。

今私のブームが巨木探訪なせいか、木を見るとついつい観察してしまう。

1周して気づく。もしかして、向こう側が見えてる?

御神木には大きな洞があった。
あ。説明板発見!:金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)社殿及び門 附 渡り廊下 区指定有形文化財
社記によると、この八幡は渋谷氏の祖、河崎基家が寛治6年(1092)に創建したといわれます。
現在の社殿は、徳川家光が3代将軍に決定したとき、守役の青山忠俊が家光の乳母春日局とともに、慶長17年(1612)に造営を開始したものです。その後たびたび修理されましたが、江戸初期の建築様式をとどめている貴重な建物です。
門は、明和6年(1769)と享和元年(1801)に造られたとする二説があり、江戸中期の建立には違いがありませんが、その後何度かの修理を経て今日に及んでいます。
このあたり一帯の高台には、渋谷氏の居館があったと伝わり、東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い地形(黒鍬谷)があって、城館を囲んでいるうえ、かつては数カ所に湧泉があるという好条件を備えていました
しかし、その城館は大永4年(1524)、北条氏と上杉氏の合戦のとき、北条氏の一群に焼き払われてしまったということです。
平成22年には、社殿に付属してその価値をいっそう高める建造物として、渡り廊下が附として追加指定されました。」
あ。だから神社が東、江戸城方面に向けて建ててあるのかも?違うかな〜?だって正面が南に向いてない神社って結構レアだもんな。
で?ここからどうやって国学院大学へ行けばいいんだ??予定にない寄り道につき、しかも苦手な高低差を前に困ってたら、親切な年配の警察官、もしかしたら警備員さんだったかも?が、丁寧に案内してくださいました。もうとても助かりました。今時はスマフォで道案内できるんだろうけど、私、スマフォ持ってないんだよ〜。

10時6分、国学院大学博物館に到着です。
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