あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

八王子の天皇お墓武蔵野陵参拝

2019年11月27日 05時45分30秒 | 墓所巡り
2019/11/17参拝。
八王子いちょう祭りで通行手形オリエンテーリングに参加。多摩御陵入口信号で武蔵野陵の参道のケヤキの紅葉が美しかったので寄り道。
トップ画像右奥が参道。左下が八王子いちょう祭りC会場陵南公園です。どっちを見るべきか?体力があれば両方楽しめるんだけども、既に甲州街道のいちょう並木を追いかけて2時間過ぎてる。両方は無理!

緩い坂道を登りました。陵南公園ではなく武蔵野陵を選択するあたりブログのカテゴリーに歴史散歩と墓所巡りを設置してる私らしいなあ。
参道のケヤキ並木。ここまで来ると甲州街道の多摩御陵入口交差点あたりが祭りの見物客でごった返してたのが嘘みたいに静かです。
実は武蔵野陵の記事は投稿済み。
こちらの記事に武蔵野陵の見取り図を掲載してます。
実は今回武蔵野陵を訪れたのは確認したい事があったから。2014年に参拝した時に多摩陵(大正天皇のお墓)の並びに土木工事をしてました。その時は平成の上皇陛下の陵を造成してるんだろうと思ったのですが、後に上皇両陛下が別の場所にもっと小規模なお墓にしたいと希望されている〜云々というニュースが流れたのです。で、思った訳ですよ。今どうなっているんだろうと?すみませんねえ、下世話な好奇心が抑えられんかったんや。
総門を入ると右手に赤く紅葉した木が見えた。これはモミジです。
早くない?と思われるでしょうが、木の下に池がありまして、他より幾分気温が低いと思われ、早めに色づきます。確か池のそばに手水舍があったと記憶。それ用の水源でしょうか?
で、目的の多摩陵の奥の土木工事現場は、さすがに前回訪問時から5年も経っているので、工事は終わってました。
「あると思った饅頭型の陵がないね!これはやっぱり他にお墓を作るつもりかな?」とつぶやいたらダンナが「失礼なことを言うな!お墓は死んでから造るものだ!」とご立腹。
「そりゃあ一般庶民はそうかもしれんけど。偉い人のお墓を造るのは時間がかかるものだよ。生前墓を用意してるのが普通じゃないの?」と私。
「逝去してから時間をかけて作ったらいいじゃないか?大体重機を使えばそんなに時間はかからないだろ?」とダンナ。
「でもさ〜、孫文さんの中山陵とか参拝の時に石段登りは登山か!と思う程大きかったんだけど?」と私。けどもどっちも知識的な根拠はないんだよね。結論が出る訳ない。
現状を見るという目的は果たせたので、序でに御陵を参拝していこうと意見がまとまった。
大正天皇が眠る多摩陵。敷地内で一番大きな陵です。
大正天皇の奥さん貞明皇后が眠る多摩東陵
二つの陵は隣り合わせに造成されています。
移動して昭和天皇の眠る武蔵野陵
左隣に昭和天皇の奥さん香淳皇后の眠る武蔵野東陵です。
さて、甲州街道に戻るか。
途中、よさこい踊りを見下ろした辺りで年配のご婦人の座るベンチがあった。大きめのベンチは3人でも座れそうなのでシェアをお願いしおやつ休憩です。
休憩を取ったのはちょっとだけ武蔵野陵を確認したハズが結構時間が経ってて、既に13時を回ってたから。
甲州街道の多摩御陵入口信号に戻ってきた。
目の前をTOYOTA2000GTが横切ってるんですけど!???
実はですね。八王子いちょう祭り例年大人気のクラッシックカーパレードが12時20分追分交差点スタートだったんですが、待つのもな〜。と思い、クラッシックカーがやって来るのを待たないでお昼ご飯の後武蔵野陵へ行ったから、てっきり終わってる!と思ったんですが、まだ終わってなかった模様です。時刻は13時24分。甲州街道のいちょう並木と次々と走り抜けるクラッシックカーを眺めつつ西進を再開。次の関所も街道の北側にある。向こう側(南側)を東京方面から高尾方面に走るクラッシックカーを眺めてオリエンテーリング再開です。(続く。明日はクラッシックカーと黄葉のイチョウのコラボを紹介します)


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松平定信の墓と江戸六地蔵

2019年10月07日 06時04分58秒 | 墓所巡り
石のテーマパーク清澄庭園を訪問後、大江戸線清澄白河駅に向かってると何か見つけた。トップ画像です。見れば駅の裏に霊厳寺があった。実はだいぶん前に参拝済みだけど、その時見落とした歴史物件があった。それは江戸六地蔵。せっかくなのでよってくことに。
この通りはすぐそこに深川江戸資料館があり、通りはなんとなく江戸情緒の感じられる店も並んでます。けど、なぜか訪問した2019/10/1は通りに案山子が並んでます。
あ。見つけた。霊厳寺。
説明板発見:霊厳寺(松平定信墓)
由来:松平定信は、江戸中期の陸奥白河(福島県)藩主であり、天明7年(1787)老中となりました。
定信が行った政策は、寛政の改革といわれ、天明の打ちこわし後の江戸の秩序回復に努めました。とくに七分積金の制度は、町方入用を節約させ、不時の備蓄にあてたものです。
明治には、東京府の公共事業に役立ちました。
この霊厳寺にある墓は、昭和8年に国の史跡に指定されています。」
WIKIによりますと「霊厳寺 山号:道本山 院号:東海院 宗派:浄土宗 本尊:阿弥陀如来 創建年:寛永元年(1624) 開基:雄誉霊厳」
門を抜けると右手に幼稚園。
そこに法然上人幼少時の勢至丸さまの像。
門の寺紋。
ご本堂。
本堂左手前に目的の江戸六地蔵があった。
説明板発見:東京都指定有形文化財(彫刻)
銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一つ)指定:大正10年3月
江戸六地蔵の由来は、その一つ大宗寺の像内にあぅった刊本「江戸六地蔵建立之略縁起」によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永3年(1706)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中6カ所に地蔵菩薩をそれそれ1体ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第6番)は、廃仏毀釈で取り壊され、5体が残っています。
六地蔵のうち、霊厳寺の地蔵は第5番目で、享保2年(1717)に造立されました。他の六地蔵に比べ、手の爪が長く、宝珠を持つ左手の指のうち、4本の指が密着した形になっています。像高は、273センチあり、かつては鍍金が施されており、所々に金箔が残っています。
江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました」
歴史補完:江戸六地蔵は1番:品川寺真言宗醍醐派1708年造立。現存旧東海道
2番:東禅寺曹洞宗1710年造立。現存奥州街道
3番:太宗寺浄土宗1712年造立。現存甲州街道
https://blog.goo.ne.jp/arare_002/e/80f8f500ef1b4d8339a5c50e3f254db4 甲州街道を守るお地蔵さん(2019/4/6)の記事 新宿御苑側にあるので立ち寄りました。
4番:真性寺真言宗豊山派1714年造立。現存旧中山道
5番:霊厳寺浄土宗1717年造立。現存水戸街道
6番:永代寺高野山真言宗1720年造立。現存せず千葉街道
横から地蔵を見学。
ん?何か衣に模様がある。
写るかなあ?
もしかしたら浄財した人の名前を刻んであるのかも?
次に松平定信公のお墓へ。
入れん!ってか、どれがそうなんだろか?
門前の柵の隙間から撮影。奥の宝篋印塔かと思ったけど、ブログを書くにあたり調べたら、正面のが定信公のお墓だったわ。
撮影しそびってました。門の奥にある墓石です。
説明板発見:史跡 松平定信墓 指定:昭和3年1月18日
松平定信(1758−1829)は8代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白河藩主となり、白河楽翁を号していた。
天明7年(1787)6月に老中となり寛政の改革を断行。寛政5年(1793)老中を辞している。定信は老中になると直ちに札差統制(旗本。御家人などの借金救済)・七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の立て直しを計った。
また朱子学者でもあり、花月草紙『字下の人言』『国本論』『終身録』などの著書もある」
時刻は13時21分。大江戸線で両国に移動。訪問日は2019年10月1日で、都民の日は複数の公共施設の入館料が無料になる。目当ては江戸東京博物館です。
https://blog.goo.ne.jp/arare_002/e/1eb69bed3ef024db3947fdff431cf3c0  江戸地蔵1番品川寺(2014.1.31)の記事のブログ記事です。
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新撰組・近藤勇の墓

2019年05月02日 05時01分53秒 | 墓所巡り
2019年4月6日のさんぽ。青梅駅8時56分着→しだれ桜の梅岩寺→青梅街道のレトロ建築→金剛寺→釜の淵公園の桜とレトロ建築→青梅駅11時6分発→国分寺乗換武蔵小金井駅11時49分着。 小金井街道から野川へ12時6分着→武蔵野公園→野川公園でエノキの巨木と桜→道を間違え14時6分、近藤勇の墓がある龍源寺到着。今ここです。
到着したらまず目に入るのは門前の近藤勇の胸像です。私たちが一番目にする写真を写した模様。
門前にあったあれこれを写す。
分かりますか?史蹟近藤勇墓所・近藤勇と天然理心流の石碑です。文章紹介。
「近藤勇と天然理心流 この地に生まれた近藤勇は、鹿島神道流を修行した近藤内蔵助長裕が創始した。天然理心流の4代目を継いだ剣豪です。その真髄は「誠の剣」であり「力の剣」であると言われています。
古武道は日本人の心のふるさとであり貴重な歴史的文化遺産であります。『天然理心流』の木刀5本と柄砕3組の演舞のフィルムが日本武道館の古武道協会に永久保存されています。
三鷹市剣道連盟では、近藤勇先生慰霊剣道大会を毎年開催しています。 昭和63年3月吉日 三鷹市剣道連盟」となってます。
石碑に並び仏様の像。

山門をくぐる。
まず目に入ったのは石灯籠。
ど〜みても寛永寺か増上寺の石灯篭に見える。え〜と?
厳有院殿 尊前 延宝8年5月8日と刻んであります。ということは、徳川4代将軍家綱の墓所に奉献された石灯籠ですね。
で、延宝8年5月8日とは、家綱の死没した日です。延宝8年は西暦で1680年。
もうすっかり慣れた作業です。本当は右端に東叡山寛永寺と刻まれるのですが、なぜかない。んで、左端に奉献した人の役職と冠位と名前がくるのですが、これは大概磨耗して読めないんだよね。
お墓は本堂裏手にあります。が、その前に巨木です。
上の方が刈り込まれ悲しい状態ですが、本堂前に並ぶ2本は樹齢300年に達するんだって!とてもそれ程年を経てるとは見えませんが。
鑑賞してまずは参拝。
龍源寺さんです。
そして裏手の墓所に向かう。見つかるかどうか不安だったけど、一番手前にあった。
近藤一族のお墓です。上の画像右から2基目の古い墓が近藤勇のもの。
傍に興味深い石碑がある。
昭和32年に建てられた近藤勇の辞世です。
説明板発見:近藤勇の墓 東京都指定文化財
天保5年(1834)武州多摩郡上石原村の宮川久次郎の3男として生まれ、15歳で天然理心流近藤周助に入門、近藤家の養子となって28歳で天然理心流4代目を襲名した。
文久3年(1863)土方歳三と京都に上り、慶応3年(1867)大政奉還までの4年間、新撰組として活躍した。
京都、鳥羽伏見の戦いで敗れた後、甲陽鎮撫隊を組織し山梨県勝沼で官軍を迎え撃つが、大敗して千葉県流山で投降する。
慶応4年(明治元年)4月25日、板橋宿で処刑された。享年35歳。
法名は貫天院純義誠忠大居士。 平成5年10月31日 三鷹市教育委員会」
14時13分、龍源寺さんを後に。すぐ近くに近藤勇の生家跡があるのだ。そもそも野川公園のマップを読み間違えなければ、そっちが先に訪問してたんだ。だって野川公園の正門前にあるんだもの。
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七人塚と太田道灌の墓

2019年02月11日 06時26分24秒 | 墓所巡り
13時26分、上粕屋神社を出発。太田道灌のお墓に向かってると七人塚を見つけた。そりゃなんだろ?
説明板発見:七人塚
江戸城の築城で有名な太田道灌が、主君上杉定正に「道灌 謀反あり」と疑われ、定正の糟屋館に招かれ、刺客により暗殺されました。そのとき上杉方の攻撃を一手に引き受けて討ち死にした道灌の家臣7名の墓で「七人塚」と伝えられています。この塚は、上粕屋神社の境内の杉林の中に7つ並んでいましたが、明治の末に開墾するとき一つ残された伴頭のものといわれ、今でも七人塚と呼ばれています。
へえ〜!ど〜みても塚が7つもない!と見えたのはそういう訳か〜。ってか!!やっぱ上粕屋神社さんと道灌の暗殺現場の上杉家の館って関係あったんじゃん!なぜに御由緒の説明板に触れてないのか??
ともあれ、ここで頭をひねっててもどないもならんので、道灌のお墓に移動しましょう。
13時32分、太田道灌のお墓に到着です。

え〜と??赤いキャップは何かしら〜??神社仏閣めぐりをしていると、こういうキャップを時折見かけます。大概名のある木とか言い伝えを持つ木が枯死した時に根元まで切り倒してこのキャップをつけてあるんですよ。これもたぶんそうじゃないかな〜?

ということで、説明板を見つけたら図解がありました。
説明板発見:洞昌院(太田道灌の墓)
蟠龍山洞昌院は、太田道灌が開いたと伝わる曹洞宗のお寺です。太田道灌は江戸城築城などで知られる室町時代に活躍した武将で、文武両道の鑑(かがみ)とされています。洞昌院には、太田道灌の墓(市指定文化財)があり、15〜16世紀のものと推定される宝篋印塔がまつられています。
文明18年(1486)の太田道灌の最期には様々な伝承がありますが、敵に囲まれた道灌が洞昌院まで逃げ延びたが、門が閉まっており中にはないれず、ついに力尽きて刃に倒れたとも言われています。以後、洞昌院には山門に扉をつけてはならないと語り注がれています。」
説明板を読み歩くと土地の歴史や伝承が書かれてることがあるので面白いです。
歴史好きとしては何故に殿が優秀な配下を騙し討ちして排除したのか?が気になるところ。
確か〜?
太田道灌の殿の扇谷上杉家は関東管領筋で、親戚筋から羨まれていた。優秀な道灌がついていたら扇谷上杉を追い落とすのは難しい。そこで道灌の殿の上杉定正に「道灌 謀反あり」と囁いて道灌排除を嗾ける。うかうかと乗った定正は道灌を自分の館に呼び寄せ暗殺した。
で、道灌を失った扇谷上杉家は凋落の末滅亡した。だったような〜?調べてないから私の記憶ではそうなっている。
道灌の最期が悲劇だったとは残念です。

あ。観光めぐり太田道灌公の墓付近を訪ねての地図がある。
え〜と??上粕屋神社の裏手に上杉館跡があるわ〜。上粕屋神社さんで本殿の裏を見に行こうとしたら、立ち入り禁止と書いてあって、行けなかったんだけどね。でもってその辺に「からぼり」も通ってるけども。そんなん見かけなかったよな〜??ってなことで、またいつか訪問する目的が出来てしまいました。今引き返せばいいけども、今更戻るのはなんか嫌!という訳のわからん理由でパスする。おいおい。
13時37分出発。「道灌塚」バス停へ。
で、待ち時間があったので次の訪問先を考える。実は今回の丹沢・大山フリー切符で巨木探訪!も昨年からずっとぼやいてる腰痛と右足痛の回復具合をチェックする目的があったのですが、じんわり右足首が熱くて痛み始めてる。それまでならば痛みが出るのはお尻っぺたと足のジョイント部分から痛みが始まるので足首から痛くなるのは変なんだけど?確認のため触れてみたら、じんわり熱い。そして腫れぼったい。
これは無理しちゃいかんな。と、バス路線の途中にある伊勢原大神宮に寄ってから帰宅することにする。
元はね〜、246号線に面する高部屋神社さんの巨木を見にいくつもりだったけどさ。そこは次回の丹沢・大山フリーきっぷ利用時に行こうと思う。
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山岡鉄舟と三遊亭円朝のお墓

2018年05月16日 06時05分46秒 | 墓所巡り
2018年4月21日の散策の最後は全生庵さんの山岡鉄舟と三遊亭円朝のお墓です。
徳川15代将軍徳川慶喜のお墓を見学したら時刻はすでに午後16時19分。谷中霊園から東京メトロに一番近い千駄ヶ谷駅をめざす。坂を下りていると、三崎坂を下りる。根津神社のつつじまつりでいただいた根津権現界隈浪漫ちっくマップによると、坂道を下る途中に山岡鉄舟と三遊亭円朝のお墓があるらしい。
山岡鉄舟といえば、先ほど大雄寺さんで高橋泥舟のお墓に参拝したばかり。(高橋泥舟は山岡鉄舟の義兄にあたる。泥舟は、徳川慶喜が寛永寺で謹慎生活を送っていた時から水戸に向かう道中、さらに水戸に転居した際に警固にあたってます)
幕末の三舟と言われるのは勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟の三人。洗足池のほとりにある勝海舟のお墓に先月末(桜の季節)に参拝したばかりなので、山岡鉄舟のお墓に参拝すると、3人のお墓のコンプリート完成です。
これは立ち寄るしかないよな〜。
午後16時29分、全生庵に到着。トップ画像です。入り口に説明板が2枚立ってました。
「東京都指定旧跡 山岡鉄舟墓 指定:昭和28年11月3日
江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた鉄舟は、天保7年(1836)6月10日幕臣小野朝右衛門の5男として江戸本所に生まれた。通称は鉄太郎、諱は高歩(たかゆき)、字は礦野(こうや)、猛虎、鉄舟、一楽斎は号である。父の飛騨郡代在任中、高山で井上清虎に一刀流を学んだ。嘉永5年(1852)江戸に戻り槍術の師山岡静山の婿養子となって山岡家を嗣いだ。幕末の動乱の仲で東征軍の東下に対し、駿府で西郷隆盛と会見し、勝海舟と協力して江戸無血開城を実現させた。
明治維新後は天皇の側近として宮内大書記官や宮内少輔などを歴任した。公務の傍ら剣術道場を開き、明治13年(1880)には無刀流を創始した。書家としても優れ、また明治16年(1883)臨済宗普門山全生庵の開基となった。開山は松尾越叟である。明治21年(18888)7月19日53歳で死去した。
山岡家墓所には、基壇上にある有蓋角塔の正面に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」とある。墓所の周囲には、鉄門といわれる石坂周造、千葉立造、松岡萬(つもる)、村上政忠の墓がある」
ん!?全生庵さんて、山岡鉄舟さんが開いたんだ!
「東京都指定旧跡 三遊亭円朝墓 指定昭和28年11月3日
初代三遊亭円朝は、通称出淵次郎吉といい、天保10年(1839)4月1日音曲師橘屋円太郎(出淵長蔵)の長男として江戸湯島切通町に生まれた。2代目三遊亭円生の門人となり、安政2年(1855)16歳で真打ちとなる。芝居噺で人気を博し「真景累ヶ淵」や「怪談牡丹燈籠」「塩原多助一代記」などを創作した。本業の話芸以外にも點茶、華道、聞香、和歌、俳句、書画など和敬清寂の道に精通していた。建築、作庭にも秀で、自らの設計監督によって内藤新宿では、数寄屋造の家屋や茶室、更に新宿御苑を借景とした百坪余りの枯山水の平庭を完成させた実績もある。また、臨済禅の修行においても、山岡鉄舟や由利滴水の指導の下に参禅し、難しい公安を喝破して居士号を授けられた。さらに書画古美術に対する鑑識眼は極めて高く、毎年円朝忌を中心に円朝の収集した幽霊画が公開されている。
明治33年(1900)8月11日62歳で死去した。墓石には山岡鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とある。」
いつだったか?江戸東京博物館で幽霊画を見たような??
大妖怪展激混み!(2016年9月8日)の記事 こちらの記事に江戸東京博物館で開催された全生庵の伊藤晴雨の幽霊画の画像が少しあります。
この記事ですね。さてと?お墓はどこだろうか?

入り口から正面の本堂。そこのつつじも綺麗でした。本堂の右脇を進むと墓地です。

見回したら案内板が見えた。

山岡鉄舟のお墓です。
墓石をアップで。

説明板に書かれてあったように、墓石の全面に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」と刻まれてます。墓参する方が多いようで、あれこれお供えがありました。
さて?三遊亭円朝のお墓はどこかな?

これか?達筆すぎて読めません。でもこの墓石のそばにわかりやすい石柱が立っていた。

ちなみに墓石には山岡鉄舟が「三遊亭円朝無舌居士」と書いてある。

全生庵の鐘楼の前に、石碑が数種類建っていた。画像は山岡鉄舟の画賛的なものかな?それより、背後の鐘楼の軒丸瓦が三葉葵ですね。さすが幕末維新の功労者が開いたお寺ですねっ。
時刻は16時36分。三崎坂を下りながら道沿いの江戸情緒ある店を眺める。まねき猫のお店や江戸千代紙のいせ辰の店が面白かったです。
ところで、これどない思う?
3月に入って今現在もずっと右足が痛いんですよ。座ると痛いんだけどね。寛永寺の根本中堂で説明を聞くべく中堂にあがりました。その時に靴を脱いで靴箱に入れようとして靴の状態を目の当たりに!!
もしかして、右足の痛いのって靴底が右だけチビてるせいじゃないの?
ムカッ!となったので、上の画像撮影後捨てました。で、新しい靴で散歩し始めたのですが、合わない〜。現在両足に水ぶくれが出来てしまい、絆創膏でごまかしてます。慣れるまで我慢か〜。捨てたのは早まったか?いや、あれはもうダメだったよな〜。
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徳川慶喜の墓の形が変わってる訳

2018年05月15日 05時21分44秒 | 墓所巡り
2018年4月21日、寛永寺の徳川将軍家御霊廟特別参拝の後、谷中霊園にある徳川慶喜のお墓に参拝した。
実は徳川慶喜のお墓については既出記事で紹介済みです。
15代将軍 徳川慶喜のお墓 谷中散歩その3(2017年11月3日)の記事
なので、新しく記事立てする必要ないかな?と思いましたが、周りのお墓と形が違う理由を、寛永寺特別参拝の葵の間(徳川慶喜が2ケ月蟄居生活を送った部屋)で説明のお坊さんが語っていたので紹介します。
武蔵野陵って?(2012年1月26日)の記事 この記事に大正天皇のお墓・多摩陵と大正天皇の奥さん。貞明皇后の墓・多摩東陵、昭和天皇、昭和天皇のお墓武蔵野陵、奥さんの香淳皇后のお墓武蔵野東陵の画像があります。
まず上の「武蔵野陵って?」の記事に掲載してある天皇陛下のお墓の形をご覧ください。そののちにトップ画像が徳川慶喜のお墓を見比べてください。トップ画像の左が慶喜、右が奥さんの美賀子さん。
「サイズは間口3、6メートル。奥行き4、9メートル。切石土留を巡らせた土壇の中央奥に径1、7メートル、高さ0、72メートルの玉石畳の基壇を築き、その上には葺石円墳状をなしている」と説明板に書いてある。
で、墓の形です。つまりだね。徳川慶喜は天皇陛下と同じ神道のお墓なのです。慶喜が生前この場所にこの形で墓を造ったんだって。
寛永寺は天台宗のお寺なんですが、キリスト教徒の外国人のお墓がお寺の墓地にあったりするのでアリなのか?まあ旧寛永寺の墓地に徳川慶喜がお墓を作りたいと希望して寛永寺が許可したものの、神道の形の墓ができて寛永寺はたまげたみたいですが。
ちなみに、なぜに徳川慶喜のお墓が寛永寺の徳川将軍家の墓所にないのか?といえば、明治になり慶喜はもう徳川宗家でないので資格がないということらしい。まあ、無理やりですよね〜。明治維新であり新政府だから旧幕府の宗主だった徳川慶喜に嫌がらせですよね〜。まあこれは私見ですが。そんなことは公には認められないだろうし。
ちなみに「神道 墓の形」で検索すると、単に横に長い長方体の墓石がヒットします。現在の神道の墓の形はこれな模様。
さて時刻は早くも16時10分です。帰らなくっちゃ!迷いたくないので分かりやすい出口の管理事務所に向かう。
谷中霊園を後にする前に最後のおまけでダンナにこのお墓を紹介。

高橋お伝の墓
わかりやすくいうと、打ち首された最後の罪人です。説明板によりますと、「嘉永3年7月(1850)上野国利根郡下牧村に生まれる。本名高橋でん。
明治9年8月(1876)借金を断れたため古物商の後藤吉藏を殺害し、金品を奪う。
明治12年1月31日(1879)市ヶ谷監獄にて処刑される。享年29歳。
遺体は小塚原回向院に葬られた。
お伝の死後、仮名垣魯文による戯作『高橋阿伝夜刃譚」(たかはしおでんやしゃものがたり)が発表される。
明治14年3回忌に仮名垣魯文の世話で谷中霊園に「お伝の墓」が建立される。
墓石には辞世の句
しばらくも望みなき世にあらんより 渡し急げや三途の河守」と刻まれている。」
調べたんだけどね。四谷怪談のお岩さんのモデルは健気な女性で人もうらやむいい夫婦でした。なのに作られたお話は怪談ですよ。ひどいですね。
で、お伝さんですが、まず結婚した最初のダンナがらい病を発病し苦労して厚く看病した。その後恋仲になった男が遊び人で、まあ借金をこしらえた訳。で、ダンナの借金の相談に行った先が古物商の後藤吉蔵。「愛人になるなら金を貸す」と言われ、まあ寝ちゃう訳だ。ところが、ことが終わると吉蔵は「金?貸せないねえ」ときたもんだ。で、怒ったお伝さんはつい吉蔵を殺してしまうと。短絡的だけどもまあありがちな展開ですね。これさ、江戸時代なら情状酌量で遠島とかで済んだんじゃないかな?哀れな。
ちなみに、谷中霊園は形だけ。お伝さんのお墓は小塚原回向院にあるので。
さて、時刻は午後16時19分。地下鉄千代田線千駄ヶ谷駅を目指そう。
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老中阿部正弘のお墓

2018年05月14日 05時22分51秒 | 墓所巡り
寛永寺徳川将軍家御霊廟特別参拝の後、谷中霊園にある徳川慶喜のお墓に参拝することに。墓は旧寛永寺墓地区画にある。管理事務所から墓所への参拝順路は知ってるけども寛永寺からだと??と。桜並木を直進したら慶喜の家臣渋沢栄一のお墓を見つけた。根津神社のつつじまつり会場で手に入れた「根津権現かいわい浪漫ちっくマップ」によるとすぐ近くに阿部正弘の墓もあるようだ。とはいえ、谷中霊園は面積約10万平方メートル。7000基の墓がある。所在地を知らずにいって簡単に見つかるものでない。
所在は乙11−1。近くまで来てるハズだけど??自力で探すのを諦め、近くの事務所らしきところで聞きました。
私「阿部正弘さんのお墓はどこですか?」
事務所のおばさん「後ろです」
はっ!?
振り向く。一段高く、囲われた区画にあるようだ。短い石段を上がった所で視線の奥に古いお墓が立ち並んでいた。トップ画像です。すぐに見つかったものの、この中で阿部正弘のお墓はどれなんだろうか?どうも格的にはどれも変わらない。
帰宅後調べましたれば、これ、全て阿部さん一族のお墓です。阿部正邦(備後国福山藩初代藩主)・正福(二代藩主)・正右(3代藩主)・正倫(4代藩主)・正精(5代藩主)・正寧(6代藩主)・正弘(7代藩主)・正教(8代藩主)・正たけ(10代藩主最後の藩主)です。全部お殿様のお墓です。ならば、当然格も揃えるよな〜。
あ〜失敗した!法名調べてくればよかったよ!
とはいえ、大概亡くなった年号が墓石に刻んであるハズなので、うろ覚えながら幕末の年号を探す。
ちなみに、阿部正弘さんが亡くなったのは安政4年6月17日です。
年号では大変メジャーな安政ならば、絶対わかるはず。

あった!
ってか、墓石に「阿部朝臣正弘墓」とそのままズバリ刻んである。
 
他の面には亡くなった年の安政4年と亡くなった日付の6月17日。更に亡くなった歳の39歳と刻まれてます。分かりやすっ。

たくさんあるお墓から阿部正弘のお墓を探す根性がない方は、これ探してください。
阿部正弘のお墓の前に建ててあります。墓誌みたいなもんです。トップ画像で説明すると、左右に並ぶお墓の左奥、墓誌が立ってる場所がありますね。ここです。
ついでなので阿部正弘さんてどんな人だったのか?も書いておきますね。
歴史上彼が有名なのは12代将軍徳川家慶と13代徳川家定に仕え、25歳で老中就任。幕末にあり老中首座を務め安政の改革(幕政改革)をやった人だから。
水野忠邦が天保の改革に失敗した後、かわって26歳で老中首座になる。
ちなみに、ペリー来航の時の老中で日米和親条約(嘉永7年1854年3月3日)を結んでいます
ですが、心労がたたったのでしょうか?安政4年(1857)6月17日に老中のまま急死してます。享年39歳。若い〜。
そして将軍家の世嗣ぎ問題井伊直弼ら南紀派が推薦する紀州藩主の徳川慶福(後の徳川家茂)と、島津斉彬や徳川斉昭ら一橋派が推す一橋慶喜(徳川慶喜)が、家定の後継者候補ですが起きた時は、正弘は一橋慶喜派でした。
13代家定の奥さん篤姫とは仲が悪かったとか。今NHKの大河ドラマ『西郷どん』では阿部正弘役は藤木直人さんですね。実際の阿部正弘さんは肥満体だったそうですが。
日本の開国を決定しちゃった正弘さんですが、勝海舟を登用したのも正弘さんだったとか。難しい時代に日本の政治の舵取りをしてたらそりゃあ若死しちゃうよな〜。
さてと?次こそは徳川慶喜のお墓じゃ!
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渋沢栄一の墓は谷中にある

2018年05月13日 05時15分59秒 | 墓所巡り
2018年4月21日、かねてより念願だった寛永寺の徳川将軍家のお墓に特別参拝。説明のお坊さんについて5代綱吉公・8代吉宗公・家定&篤姫夫妻の墓に参拝を終えたら時刻はすでに15時44分になっていた。この後観光するには時間がない。ダンナに「谷中墓地に15代将軍徳川慶喜のお墓があるよ?」と聞いたら「見たい」というので慶喜のお墓に参拝することに。
しばし考える。
私の知る慶喜のお墓に行き方は、谷中墓地の管理事務所前からいく方法ですが、現在地は寛永寺なのです。ならば、旧寛永寺の墓地からも行けるハズ。根津神社のつつじ祭りの本部テントでいただいた根津権現かいわい浪漫ちっくマップを眺めたら、言問通りの向こうに桜並木と書かれており、そこからいけそうだ。レッツトライ!
その前に軽くお勉強。谷中墓地とは? 谷中墓地は旧称で、1935年以後は都立谷中霊園に改称。都立霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地を含む。
桜並木を抜けて右手の乙11号1側に渋沢栄一の墓がある。トップ画像です。墓石に「青淵(せいえん)渋沢栄一」と彫ってありますね。青淵は渋沢栄一の雅号です。彼の偉業は既出記事の北区飛鳥山公園の渋沢史料館と晩香廬・青淵文庫見学で紹介済みです。

飛鳥山公園のある晩香廬(2013年6月9日)の記事 こちらの記事に渋沢栄一の立像の画像があります。飛鳥山の青淵文庫・晩香廬・澁澤史料館3館合わせて入場料300円)桜の季節は飛鳥山いいですよ〜。おすすめは澁澤史料館の2階から眺める桜です。

明治期の実業家であり政治家であり会社のコンサルタントでもある明治の著名人でしたが、実は若い頃には徳川慶喜に仕えてたのですよ。なので慶喜つながりでお墓参りしたかったのね。
訪問した2018年4月21日の渋沢家の墓所はこんな感じ。手前が区画整理中なのかな?ぽっかり空き地になってました。渋沢栄一のお墓は上の画像で3つ並んでる墓石のうち、太陽が当たってるやつです。
旧寛永寺の墓地だった場所にあります。
次のお墓へ移動〜。
ちょっと待て!慶喜と渋沢栄一のかかわりについてもう少し書いておくべきか?
では渋沢栄一年表
1840年(天保11)2月生まれ。現在の埼玉県深谷市に養蚕を兼業する豪農家の長男。
実家が豪農だったので、商才が求められ父と共に小さい頃より商売に携わり、叔父から漢籍を学ぶ。
14歳の時には単身で仕入れするほど優秀。18歳で従妹と結婚。
文久元年(1861)、江戸に出て千葉道場にて北辰一刀流に入門。修行の傍勤皇志士と交友を結ぶ。
元治元年(1864)、一橋慶喜に仕える
慶応2年(1866)、徳川慶喜征夷大将軍になり、栄一は幕臣になる。
慶応3年(1867)徳川昭武(慶喜の異母弟・後の水戸徳川家11代当主)に従ってフランスへ。(パリ万博使節団)
明治元年(1868)昭武と共にヨーロッパ各国を訪問し先進的な産業・軍備を視察するも明治維新により新政府から帰国を命じられフランスより帰国。静岡で慶喜に面会。静岡藩より出仕することを命じられるが慶喜より「自分の道をゆけ」といわれ静岡にて商業活動開始。
明治2年大隈重信により明治新政府にスカウトされる。以後、政治家と実業家に邁進する。
では徳川慶喜のお墓〜、ん??近くに老中阿部正弘のお墓があるではないか!幕末といえば阿部正弘もはずせない。現在NHK大河ドラマ「西郷どん」では藤木直人さんが演じてらっしゃいますね。行ってみよう!
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徳川歴代将軍御霊廟特別参拝

2018年05月12日 05時31分18秒 | 墓所巡り
徳川慶喜公が2ケ月謹慎生活を送った葵の間見学の後は、念願の寛永寺の徳川将軍家のお墓の参拝です。
芝増上寺の徳川将軍家のお墓を見学した後に上野の寛永寺の徳川将軍家のお墓も見学したい!と思って何年経ったのか?台東区の上野のお山フェスティバルの特別公開に申し込み続け落選しつづけ。寛永寺の特別参拝が開始してかrさ5名以上のグループ参拝しか受け付けになってなく。ようやく個人の申し込み受け付け開始を知ったのが今年の2月上旬でした。もう楽しみで楽しみで。しかし撮影禁止だったのでできる範囲で紹介します。
まずはいただいた寛永寺のパンフレットより「国指定重要文化財 徳川歴代将軍御霊廟:徳川将軍を祀る「御霊廟」は、御本尊・位牌・木像を安置する本殿とそれを拝む拝殿を相の間でつなく「相の間造り」という霊廟建築と、将軍が埋葬されている宝塔(墓所)や水盤舎などの総称です。
しかし大部分の建造物は第二次世界対戦の空襲で焼失し、幸い被害を免れた勅額門・水盤舎じゃ重要文化財に指定されています。
寛永寺に祀られている将軍は4代家綱公・5代綱吉公・8代吉宗公・10代家治公・11代家斉公・13代家定公で、その宝塔は将軍の権威を今日に伝えています」
これを踏まえてトップ画像を見ていただきたい。
画像の中に漢数字がありますね。解説しますと、
一、常憲院殿御宝塔 五代将軍綱吉公 宝永6年(1709)没 享年64歳
二、有徳院殿御宝塔 八代将軍吉宗公 寛延4年(1751)没 享年68歳
三、温恭院殿御宝塔 13代将軍家定公 安政5年(1858)没 享年35歳
四、天璋院殿御宝塔 家定公御正室篤子(篤姫) 明治16年(1883)没 享年48歳
となります。南からざっくり唐門→拝殿→中門→御宝塔(お墓)という造りで、相の間造りになってます。が!パンフレットに書かれてるとおり、現在は唐門・拝殿・中門がありません。第二次世界大戦で焼失しました。
ちなみに、戦前の建築物の画像がいただいた資料に載ってました。

これは御位牌所です。豪華な建物も焼けちゃったんでしょうか?あ!思い出した!寛永寺の根本中堂には正面に須弥壇がありましたが、右端のポツリと画像に写ってる屋根のある御位牌が一つありました。誰の御位牌だったっけ?家治のお父さんだったような?あれ?家斉の父だったっけ??うろ覚えです〜。
日本は基本木で作るから燃えると本当に残らない。壮麗な将軍家の建物が残ってればなあ〜。

現在はこんな感じです。
上の見出しに常憲院殿 御霊廟とありますね。これは元々5代将軍綱吉公=常憲院のお墓なのです。よくわからない?
実はですね暴れん坊将軍吉宗公といえば、享保の改革ですよ。質素倹約を推し進め、徳川の財政を立て直した江戸中興の将軍様です。吉宗は言った「豪華な墓はいらない。尊敬する綱吉公の墓に合祀してほしい」と。
で、漢数字の一、二、三、四ですが、特別参拝ではこの順番に見学参拝しました。
ちなみに、四の天璋院(篤姫)のお墓だけ旦那さんの家定のお墓の並んで作ってあるのは明治になってから亡くなってるので、従来通りにする必要もなかったかららしい。
で現況図で判読できるかどうか不安ですが、左上の左が篤姫。右が家定。一つ下がって小さいのが3つ並んでますね。これは右から徳川16代家達公(1940年)没・中央が家達公の奥さん・左端が17代家正公(1963年)没ご夫妻のお墓になります。
徳川宗家のお墓ですね。

お墓見学の前に諸注意を受けた場所です。実は背景の二つの建物は、左が徳川御三家。右が御三卿の拝殿です。
で、現況図の左下に斜めの道がありますね。この先にあります。
特別拝観ではここから勅額門を右手に見つつ水盤舎のそばを通って参道へ入ります。現況図ではわかりませんが、太い線は全て石垣です。



これがそう。がっちり上まで石垣があるので、中は見えません。

石垣に使ってる石は、下が大きめ。上が小さめ。
石垣の向こうは大きな木が参道の脇にあります。感動するのは並び立つ石灯籠。都内の散歩中あちこちで見つけた東叡山寛永寺の石灯籠です。あれが常憲院と有徳院の御宝塔に続いてます。
誰が納めた石灯籠が、霊廟前に並んでるのだろうか?すんごく気になったのですが、見学者は説明のお坊さんの後を粛々とついていくだけ。かろうじでそれぞれの参道前に並ぶのが「常憲院」「有徳院」であるのは読めましたが。後、石灯籠を納めた日付はなんとか見えた。通常通り、それぞれの御命日だった。「宝永六年」「寛延四年」はなんとか見えた。ええ。法要が行われた日と思われます。で、最後に納めた位とか人名を彫ってあるハズなんだけどもさ〜。見えなかった!残念です。ちっ!
さて、まずは5代綱吉公から。御宝塔の入り口に青銅製の扉。左が虎?(もしかしたら竜だったかも?)右が鳥。石段があってその奥に青銅製の御宝塔。宝塔には文字が刻んでなかったように見えた。参拝は石段の下からなので近づけなくて確認できない。説明のお坊さん曰く「掃除の人しか上に上がりません。入るときは足袋を新しいのに履き替えます」気軽にお墓見物してる私とは心がけからして違います。当然ですが。特別参拝なので、お坊さんのリードでみんなで手を合わせて一礼して次へ。
8代将軍吉宗公有徳院の御宝塔です。こちらは石塔。ってか青銅製なのは綱吉公のみでした。御宝塔は8角形の段の上にある。これが暴れん坊将軍のお墓か〜。と感慨を覚えた。そもそも寛永寺の将軍家のお墓に参拝したいと思ったのが吉宗公のお墓だったからね〜。で、再び石段の下から並んで手を合わせ一礼。
いただいた現況図には十代嫡子家基公の御宝塔が乗ってるのですが、特別参拝ではスルーです。そっちへは行かないのです。
で、家定公と篤姫のお墓に参拝。篤姫は何年か前のNHK大河「篤姫」の主人公です。この日の参拝者が一番前のめりで宝塔を見つめてました。NHK大河ドラマのときに「篤姫のお墓に参拝したいっ!」と希望した人がとても多かったようで、現在の勅額門の前にこんな説明文が出てました。

特別参拝ツアーは御三卿の拝殿の前で解散。現存する数少ない徳川時代の建築物。5代綱吉公の勅額門を撮影。

この奥に水盤舎も残ってますが、撮影はできません。残念です。
説明板発見:徳川綱吉霊廟勅額門(重要文化財)
五代将軍綱吉は、延宝8年(1680)5月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永6年(1709)1月10日に63歳で没した。法名を常憲院という。綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と讃えられたが、今日では「生類憐れみの令」などを施行した将軍として著名。
元禄11年(1698)9月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。又、それに伴って先聖殿(元湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。
綱吉の霊廟は宝永6年11月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみても、もっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災いを免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造り、前後軒唐破風付・銅瓦葺き。」
根本中堂周りを観察。

川越の喜多院から移築した根本中堂を横から撮影。

根本中堂正面両側の青銅製灯篭。三つ葉葵の紋が光ってます。この後何を見に行くか?しばし考えたけども、ナンナに「徳川慶喜のお墓見に行く?」と聞けば「行きたい」というので、旧寛永寺の墓地を抜けて行くことにした。上野桜木の信号を渡ろうと向かってて、社務所前に先ほど特別参拝で綱吉公の後廟所で見たのと似た石灯籠を見つけてストップ!

頑張って胴に刻んでる文字を読む。

右から奉献石燈籠二基 武州東叡山 大猷院殿(三代将軍徳川家光) 尊前

慶安4年12月20日(家光の命日は4月20日なので、月命日ですね)
従5位下南部山城守⚪︎ 重直 まず「従5位下」は、江戸時代においては譜代大名、10石以下の外様大名、大秦旗本、御三家、御三卿。ざっくりしてますね。で、「南部山城守重直」は陸奥盛岡藩二代藩主南部重直の模様です。こいうのとても面白いです。
さてと?言問通りの信号の先は桜並木。で、その先はかつては寛永寺の墓地でした。まずは渋沢栄一と老中阿部正弘のお墓に参拝したい。
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幸田露伴の五重塔跡 谷中散歩その5

2017年11月05日 05時06分33秒 | 墓所巡り
谷中霊園の徳川15代将軍徳川慶喜のお墓を見る。周りにも著名人のお墓が点在して、歴史好きには何時間でもいられるポイントです。しかし谷中散歩に費やせる時間はあまり残ってない。ならばもう一つだけ。谷中墓地でぜひ確認したい場所がある。それは天王寺五重塔跡
今年の7月にNHKBSプレミアムで「幸田家の人びと 江戸〜平成 4代の物語」(2003)と言う番組を視聴して、露伴がこの近所に住んでて谷中墓地にある五重塔が小説のモデルになった。というのを見た。
実は番組を視聴した動機は今年の4月に池上本門寺を参拝した時に、幸田露伴のお墓も拝見してたこと。
池上本門寺墓所巡り(2017.9/7)の記事 こちらの記事に幸田露伴のお墓の画像があります。
ならさ、ついでに五重塔の跡も見たいと思いまして。

これがそうです。今は基盤しか残ってません。
説明板発見:東京都指定史跡天王寺五重塔跡
谷中の天王寺は、元日蓮宗・長燿山(ちょうようざん)感応寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長耀(ながてる)に由来する古刹である。元禄12年(1699)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺と改称したのは、天保4年(1833)のことである。最初の五重塔は、寛永21年(正保元年・1644)に建立されたが、130年ほど後の明和9年(安永元年・1772)目黒行人坂の大火で消失した。
罹災から19年後の寛政3年(1791)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。
総欅造りで高さ11丈2尺8寸(34.18メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治41年(1908)6月東京市に寄贈され、震災・戦火にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和32年7月6日放火により消失した。現存する方3尺の中心礎石と4本柱礎石、方2尺7寸の外陣四隅柱礎石及び回縁の束石20個、地覆石12個総数49個は全て花崗岩である。大島盈珠(えいしゅ)による明治3年の実測図が残っており復原も可能である。中心礎石から
金銅硝子荘舎利塔や金銅製経筒が、4本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。」
資金があれば復原可能なんだって!へえ〜。資料を残すって大切なのね。ちなみに、周りにはかつての五重塔の写真パネルがあります。

立派ですねえ。放火した人はどんな動機でこんな立派な塔を、しかも周りはお墓しかないのに燃やしたんだろうか?

さてと?どう行けば夕焼けだんだんが近いかな?
 
長谷川一夫のお墓。この細道を直進すればいいんだね。ってか、長谷川一夫って知ってる?戦前戦後にかけての時代劇二枚目スターです。晩年は宝塚歌劇『ベルサイユのばら』の演出をしたとか。
ずいぶん寂しいお墓です。手入れも墓参り客もいない感じ。むむ?違うお墓かもしれん。でも敷地の外にある石柱には確かに長谷川一夫のお墓って書いてあるんだよね。

説明板発見:都指定旧跡中村正直(まさなお)のお墓 了かん寺墓地内
明治時代の教育者、啓蒙学者。天保3年(1832)幕臣中村武兵衛の子として江戸に生まれ、幼名を釧太郎、名を正直、号を敬宇と言う。昌平坂学問所に入り、佐藤一斎について儒学を学ぶ。慶応2年(1866)幕府の
英国留学生派遣に取締として同行、英国市民社会の実情に触れた。
明治5年(1872)新政府に出仕し、大蔵省翻訳御用を務めるかたわら、翌年、家塾同人社を開いた。女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)校長就任。訓旨院の開設など女子教育、障害者教育にも力を注ぎ、東京帝国大学教授・元老院議官・貴族院議員も歴任した。
明治24年6月7日、60歳で病没。そいう気は神葬え行われた。
正直は、西周(あまね)・神田孝平らと明六社を起こし、啓蒙思想の普及に努め、日本近代化に貢献した。」
う〜む。私は歴史好きですが、深く日本史を勉強したことはありません。歴史ドラマには出てこないけど、生き様のすごい人が谷中墓地にはいっぱい眠ってるのですね。あれだ。小説書きや漫画かきでネタに困った人は墓地に来てあちこちに立ってる説明板読めばいいと思う。明治期を生きた人はあちこちに偉人がいっぱいです。

あ。地域猫発見!あ〜〜、逃げないデェ〜〜。

墓地を抜けたらお寺さんの境内に綺麗な彼岸花。訪問したのは9月14日です。早くも!彼岸花がっ!!って思いました。
手元の根津権現かいわい浪漫ちっくマップによりますと、彼岸花が咲いてるのは了かん(かんの字は人べんに完)寺さんでした。ということは、現在地から築地塀と笠森稲荷が近い。行ってみよう!(続く)
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谷中霊園墓所巡り 谷中散歩その4

2017年11月04日 05時50分45秒 | 墓所巡り
谷中霊園訪問の目的は徳川15代将軍徳川慶喜のお墓でした。谷中霊園は広く6000基ものお墓があります。明治期の著名人のお墓も多いとか?今回街歩きに持参したのは数年前根津神社のつつじ祭りでいただいた根津権現かいわい浪漫ちっくマップです。これに載ってた谷中霊園にある著名人のお墓は横山大観・鳩山一郎・長谷川一夫・阿部正弘・渋沢栄一・佐々木信綱・上田敏・高橋お伝です。何しろ墓域が広いものだから、すべて探しまわるのは無理!ともかく横山大観と鳩山一郎だけは所在地の番地をWEB検索してからの墓参です。
の前に、徳川慶喜のお墓を探してた時に思いがけず見つけてしまった歴史上の著名人のお墓を紹介します。
まずはトップ画像のお墓から。
1)東京都指定旧跡大原重徳のお墓
幕末・明治維新期の公卿で、大原重尹(しげのぶ)の五男として享和元年(1801)10月16日京都に生まれた。天保9年(1838)兄重成の死去により大原家6代の当主となった。嘉永6年(1853)ペリー来航以来攘夷論を主張し、安政5年 (1858)日米修好通商条約の勅許に反対して、水戸藩前藩主徳川斉昭の許に赴こうと密かに出京したが失敗した。文久2年(1862)勅使として江戸に下り、辰口伝奏屋敷から江戸城に臨み、将軍家茂に幕政を改革し攘夷の方策を整うべしとの勅諭を伝達した。これによって一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永(春岳)の政治総裁職就任が実現した。王政復古派の公卿の一人として活躍し、慶応3年(1867)12月9日の夜小御所で開かれた御前会議(小御所会議)では山内豊信(容堂)、松平慶永ら公議政体派と論争し、この会議で徳川慶喜の辞官(内大臣の辞退)、納地(所領の返上)が決定した。(後略)
明治12年(1879)4月1日、79歳で死去した。」
なかなかの歴史上の人物ですね。
2)楠本正隆のお墓 乙7号1側 1838-1902

政治家。天保9年、肥前大村藩上士として生まれ、号西州。維新の際は尊王攘夷に奔走し、藩論を統一して薩長二藩の統合を策し、島原半に赴き、尊王派を応援した。大村藩中老として藩主を助ける。維新後の廃藩置県の際、藩政を整理して藩債を残さなかった。(後略)
明治29年男爵。35年2月7日没。67歳。
正隆の子正敏(男爵1938.2没)も同所に眠る」これらは説明板がお墓のそばにありました。
さてと?横山大観のお墓はどこかな?調べでは乙8 4側に所在してるハズ何だけど?

乙8は細いアスファルト道、通称ひょうたん横丁に面した場所です。タクシーの運転手の休憩所でもあります。
少し迷ったけども。見つかりました。
3)横山大観のお墓

大観のお墓には墓碑もある。どう書いてあるのかじっくり読みたいけども時間が惜しい。時刻はすでに午後3時になろうとしてるのです。上野の科学博物館を出たのが午後2時だったから、濃い1時間です。

横山大観は日本画の大家です。ちなみに、住居跡が横山大観記念館として、不忍の池を挟んだ向かいに残ってます。大観が制作してた2階の部屋は大観の絵を見たことある方には必見の場所かも?
根津界隈散策(2009.11/15)の記事 こちらが横山大観記念館の見取り図などの記事です。
続きまして、同じくひょうたん横丁に面してある鳩山一郎のお墓を探します。
4)鳩山一郎のお墓

すぐ見つかりました〜。江戸時代の墓石だと表に戒名しか書いてない場合があるから、分かりやすい名前が墓石にあると探すのがとても楽です。

よく見ると、鳩山会館でも見た3羽の鳩が羽を向かい合わせに輪に成ってる模様が彫ってありますね。これは鳩山家の家紋かしら?
ちなみに、鳩山会館訪問の記事はこちら。
鳩山会館外観(2012.8/21)の記事。 こちらの記事に鳩山会館の画像があります。お庭のバラが有名ですが、さつきが咲くとさらにゴージャスです。
鳩山会館内観(2012.8/20)の記事 こちらの記事は建物の中の画像です。
満足したので、お土産に夕焼けだんだんにあるやなかしっぽやさんで猫のしっぽドーナツを買って帰ろう!と夕焼けだんだんへ向かいます。でもせっかくだから、幸田露伴の小説に登場する五重塔跡地がみたいなあ。桜の季節に池上本門寺さんで幸田露伴のお墓詣りしたのがね。ゆかりの地がそこにあるんだから見たいじゃない。
ってなことで、跡地のある谷中五重塔跡桜通りを進みます。

春には桜の名所ですね。
ん?なんか不思議なフォルムなんだけど?これは何??

5)川上音二郎のお墓
説明板発見:川上音二郎 1864-1911
新派俳優。壮士劇の卒先者。福岡県の人。福岡藩主黒田氏の御用商人川上専蔵の子。玄洋社に入り、自由党壮士の群に投じ、自由童子と称し各地を浪遊し政談演説をする。過激な民権論を試み。政府を攻撃し法に触れ獄にとうぜられること数々あり。(中略) 外国演劇視察のため渡仏。帰国後、書生芝居を組織。浅草にて新作を演じオッペケペ節を歌い大いに喝采を得る。日清戰争劇でも満都の好評を博す。衆議院議員の選挙運動に失敗。一座で渡航米国にて興行大好評を得る。英・仏を巡回し名声を上げる。独・伊・露巡演好評。(中略)
妻定奴は近代日本最初の女優です。銅像は戦時中金属の拠出で取り外され、台座のみ残る。」
つまり、もともとは円柱の上に川上音二郎の銅像があったんですね。それがなくなったから不思議なフォルムに見えたんです。
あ。五重塔跡の碑を見つけた!ここにあったのか〜。(続きは明日)
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15代将軍 徳川慶喜のお墓 谷中散歩その3

2017年11月03日 05時18分40秒 | 墓所巡り
谷中霊園に徳川慶喜のお墓があるのは以前から知っていたけれど、谷中霊園は6000基からのお墓があるのです。詳しい場所がわからないと、到底辿り着けません。そこで大きめの霊園にはお墓の番地が振り分けてありまして、墓参りはこれを頼りに探すのです。ところが、番地は整然と並んでるとはいかない。どうにか詳しい場所はわからないものか?と、WEBの海を泳いだ結果、谷中霊園の管理事務所スタートにすれば、慶喜のお墓までの道案内がある。という有力情報を見つけました。実際に管理事務所から谷中霊園に伸びる道を見ると、トップ画像の行き先案内矢印を見つけました。
助かる〜~っ!!

曲がり角には次の行き先表示矢印がある。

たどっていくとさらに道を左折しろと。で、突き当る。

霊園の中に唐突な壁。実は壁の向こうが目的地の慶喜のお墓です。
んで?このさきどうすればいいのか?
これを探してください。案内板をよく観察すると、ブルーの枠は矢印になってます。つまり、この立看板は赤丸が現在地で壁に沿って反対側に回れの道案内板だったのだ。赤い三角部分がゴールです。
指示通りに回ります。

到着。こっち側は壁でなく鉄柵なので、中に何があるか見やすいです。上の画像の左へ移動。

鉄格子に葵の御紋が!奥にあるのがお墓です。
せっかくなので鉄格子が画面に写らないように、鉄柵の間に携帯を通して撮影しました。特徴的なお墓です。向かって左が慶喜。右が奥さんの美賀子さん。以前にこのお墓の形は宮中の人のお墓の形だと見たことがあるような?
説明板発見:東京都指定史跡徳川慶喜墓
徳川慶喜(1837-1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第7子で、初めは一橋徳川家を継いで、後見職として徳川家茂を補佐しました。慶応2年(1866)、第15代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇の謁見しています。明治35年(1902)には公爵を授爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年(1913)11月22日に77歳で没しました。
お墓は、間口3、6メートル。奥行き4、9メートルの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1、7メートル、高さ0、72メートルの玉石畳の基壇を築き、その上には葺石円墳状を成しています。」東京都教育委員会
詳しい説明ありがとうございます。ちなみに77歳で没した慶喜は、徳川代々の将軍で一番長生きだったとか。
徳川将軍のお墓は初代家康は日光。2代秀忠は芝増上寺。3代家光は日光。以降は芝増上寺と上野寛永寺に順繰りにあります。芝増上寺の将軍家の墓所はたまに公開されてて訪問済みですが。
お江と秀忠のお墓(2012.3/1)の記事 こちらの記事に芝増上寺にある2代将軍の徳川秀忠と正室お江の方の画像があります。 第二次世界大戦で焼失した秀忠の墓所。焼失前の画像もあります。
徳川将軍家のお墓(2012.2.29)の記事 こちらの記事に、芝増上寺に眠る代々の将軍と奥さんのお墓の画像があります。オリジナルの豪華な墓廟はすべて戦災で焼失し、現在はかつて豪華な墓廟の中に納めされていた墓基のみになっています。
上野寛永寺の将軍家墓所は基本日公開。お祭りとかに関連して当選すれば見れるんだけれども、今年も落選しました。何度目だっけ?ぼちぼち四捨五入で10回になるか?数年前より寛永寺さんは5人以上のグループ申し込みでなら拝観OKとなりましたが、私5人も寛永寺の将軍家の墓所を見に付き合ってくれる友達いないんだよね〜。ぼっちな散歩がほとんどなのですよ。そのうち個人受付で拝観できないものか?と願ってます。叶うかどうかはわからないなあ〜。でも暴れん坊将軍の吉宗様のお墓を墓参りしたいんだ。
さてと?いい感じに1本の記事になりそうなので、明日は谷中墓地を歩いてて見つけた他の著名人のお墓を紹介します。
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池上本門寺墓所巡り

2017年09月07日 05時20分57秒 | 墓所巡り
2017年4月2日、目黒川の桜→洗足池の勝海舟夫妻のお墓→池上本門寺の五重塔特別開帳を見にいきました。
五重塔特別開帳(2017年6月25日)の記事
池上本門寺の春まつり(2017年6月30日)の記事
特別公開の五重塔が目当てで池上本門寺を訪問し満足した後、ダンナに「本門寺の有名人のお墓見たことある?」と尋ねたら「知らない」というので、一番インパクトのある芳心院のお墓を紹介。
芳心院墓所(千両塚)(2017年7月6日)の記事
ダンナに一驚きしてもらい、ついでだから他の有名人のお墓も案内した。
トップ画像は、五重塔の近くにある幸田露伴・幸田文さんのお墓です。ここはお墓の名前が生前の名前と一致してるから探すのが楽でした。露伴先生のお墓の周辺に、ご一族のお墓もあります。最近、「幸田家の人々」の番組を、BSプレミアムで拝見。妹さんは有名な洋楽家でした。日本初の〜がつくほどの方だったとか。
続いて案内したのがプロレスラーの力道山のお墓です。

もちろん像はお墓本体ではありません。お墓は奥の。

この手前に私でも知ってるプロレスラーや有名人の名前を彫った石板がありました。中には児玉誉士夫と刻まれていて、何か繋がりがあったのかな?と調べたら、後援者?だった模様です。
ちなみに、児玉誉士夫のお墓も池上本門寺にあってすぐ近くにあります。

墓碑銘がありました。讃岐高松藩6代藩主の正室「永昌院 薫姫」(1744-85)のお墓。
私の田舎が讃岐香川なので、ついチェックしちゃいました。墓の入り口に鳥居みたいに横に石柱を倒したように成ってるのですぐわかります。
五重塔まで戻ってきた。
五重塔周辺には、歴史上の有名人のお墓がいっぱいです。
木挽町狩野家のお墓(亀が墓石を背負ってるので見つけやすいです)。
有名人が一杯な池上本門寺の墓所(2012年2月22日)の記事 こちらの記事に狩野家のお墓の画像があります。
肥後熊本藩細川家の墓域。ここには維新の人斬り河上彦斎の墓もある(彦斎は佐久間象山を斬った人)ので案内してみた。
確か、出羽米沢藩上杉家の墓域もそばにありました。やっぱり、五重塔を作ったのが徳川2代将軍の秀忠で、五重塔に秀忠も祀られてるからでしょうか?忠義ってことかも???や。わからんけども。だったらロマンじゃん〜?
確か、前回墓所巡りした時は物知りなご隠居が「ここは〜」と詳しく案内してもらったんだけども。記憶が曖昧で。
この近くに歌舞伎の松本幸四郎さんのお父さん、白鷗さんのお墓を見た気がするんだが。撮影しそびった!
あと、児玉誉士夫と同時代の政治家のお墓も!あれ?名前が思いだせん〜。確か、大野とかなんとか。派手な虎の石像があるお墓だったんだけどな。下調べと記憶のおさらいしてくればよかったよ。
思いだせないものは諦めて、歴史散歩を挟みつつ紀伊徳川家の墓域へ移動します。

日蓮上人説法像
長崎の平和記念像の作者と同じ、北村西望の彫刻(材質は純アルミ。高さ3、4メートル。重量1トン)です。ただし、台座は明治の政治家星亨の銅像の台座だったものを流用したので、像と台座のバランスが悪い。

代々の住職の墓域へ移動しました。

実は、次の目的の紀伊徳川家の墓域は坂の下にありまして、上から撮影したかったんです。でないと、墓域が広くて全体図が画面に収まらないと思いまして。

で、わざわざ撮影したのがこちらです。大きな宝篋印塔が複数並んでいます。
全体を抑えてから石段を下りまして、紀伊徳川家の墓域へ移動しました。

説明板発見:大田区文化財 紀伊徳川家墓所
この墓所は、養珠院お万の方(承応2年 1653)没。及び瑶林院(寛文6年 1666)没。を始め、主として江戸藩邸で没した藩公の内室(令夫人)を埋葬したものである。
墓域の規模、構築の優美さなど、幕府直系大名の墓所としての威容を示している。
お万の方は、徳川家康の側室で、紀伊大納言頼宣、水戸中納言頼房の生母である。その薫化により日蓮宗に帰依した頼宣は、法華経を信奉することが篤かった加藤清正の息女の瑶林院を妻として以来、池上本門寺との関係がより深いものになった。
上の画像は、養珠院のお墓です。

妙操院のお墓。家斉の側室。梶久三郎勝俊の孫(1832年没)

天真院のお墓。 光貞正室・天真院 安宮照子(1625〜1707没

奥から養珠院・妙操院。
あれ?瑶林院のお墓の画像がない!撮影しそびったか?お墓に戒名と没年月日が刻んであるから、特定はしやすいのですが、拡大しても読めず。解像度を上げておけば〜。
紀伊徳川家の墓域は、日蓮上人を荼毘に付した跡地に建てた宝塔を見下ろすようにあります。

宝塔 文政11年(1828)建立。
この宝塔は、明治以前創建の屋外にある木造宝塔としてhあ、全国で唯一の貴重な建物です。日蓮上人550年遠忌を記念して建てられました。

変わったお墓が集まってるんだけど〜??
何が変わってるといえば。

これ、日本のお墓のデザインじゃないよね??もしかして、隠れキリシタンのお墓だったりして〜?もしくは外国人のお墓かも?いや、勝手な想像ですが。調べないとわからんな〜。
ここの近くに、狩野探幽のお墓があるんだよ。確か。

あった!分かりやすい墨つぼの形の墓石です。

玄徳院日道って彫ってありますね。狩野探幽のお墓の右に、探幽のお墓より立派なのでわかります。これも墓碑銘かな?
この周辺にも有名人のお墓が点在してるのですが、下調べしてないからパス!

この日の最終目的地の日蓮上人入滅の地に到着です。
*勝海舟と西郷隆盛が江戸城開城を話し合った茶室があった(現在は西郷隆盛の弟、従道が揮毫した会見の石碑があります)小堀遠州作の庭、松濤園は、普段非公開ですが、2017年9月7日から9月11日の日程で公開されています。 入場料は無料。 開場時間10:00-16:00
秘密の名園で散歩(2009年10月6日)の記事 こちらの記事に、松濤園の画像があります。
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遊行寺と小栗判官&照手姫のお墓

2017年07月19日 06時25分26秒 | 墓所巡り
2017.7.16.8:38到着。
遊行寺さんの入り口は他にもありますが、歴史情緒あるこの入り口がオススメです。

参道もこんなに素敵でしょ?画像では分かりにくいかもですが、緩やかに奥に向かって傾斜が高くなってます。

石垣ファンには参道の左右にある石垣もオススメです。丁寧に格調高く石を加工してあります。
トップ画像の入り口の左右に青銅の大きな灯篭がありまして、これも鑑賞ポイントです。

説明板発見:青銅製燈籠
浅草・芝などの江戸講中や戸塚宿など遠近の篤志者が一体となって建立、寄進した燈籠です。高さ約2、8メートル、石製台座を含めて3、9メートルの大きさで、台座に500名弱の寄進者の名が刻まれています。銘文には天保13年(1842)8月の建立とありますが、左側燈籠に「遊行57世 他阿上人一念書」の銘があるので、一念上人が遊行相続した嘉永元年(1848)以降に一対である現在の形に仕上がったと考えられます・
鋳造師は江戸神田の西村和泉守藤原政時で、8代目となります。他に東京都千代田区の平河天満宮鳥居などを手がけています。」
なるほど〜。幕末に500人の寄付金で作ったのね。
あれ?
ダンナがいない…。多分先に行った模様です。
チッ!参道の左側に浅割板太郎のお墓があるから紹介しようかと思ったのに。
仕方ないので追いかけてみたら。

この大銀杏も紹介しようと思ったのに。ダンナがいない。

訪れた2017年7月16日(日曜)の早朝は、境内で骨董市が開催されてる模様。覗いてみたかったけど、ダンナがいない。探さないと〜??遊行寺さんは大きいのう。

手水舎です。まだアジサイが綺麗です。
手を清めます。

あ。ダンナ発見!先に参拝してたのね。一声かけてよ。

私「そこで止まって〜。階段を降りないで〜」
一応振り返り、大イチョウと一遍上人の立像の説明をする。
この後、一旦降りて境内とか骨董市散策もありなのですが、もうすでに体感で30度超えてるのね。今日の最高気温は35度予想だし、大分疲れてしまったので、今更降りたくない!
私「ここから右手の坂を登ります!先に参拝してくるからちょっと待ってて」と。急いでお参りを済ませダンナを案内する。遊行寺さんはかつての旧東海道に南側を隣接してまして、お正月の箱根駅伝でも難所の遊行寺坂になってます。つまりですね、境内を奥に進むと上り坂なんだよね。

到着したのは小栗堂。
この裏に小栗判官と毒殺された家来10人のお墓と名馬と照手姫のお墓があるんだよね。

小栗判官と毒殺された家来10人のお墓
小栗判官が目を洗った泉跡。


名馬のお墓。

照手姫のお墓。
今の子らは小栗判官の復讐成就のお話なんか知らないよね〜?80歳位の人には馴染み深いお話かもしれんけどさ。
説明板発見:(伝)小栗14代城主・小栗孫五郎平満重と火神の墳墓由来について
桓武天皇の曾孫・平上総介高望から7代の子孫と伝えられる平重家(平上総介重幹の4子)は、平安時代の久寿2年(1155)に、伊勢皇太神宮小栗御厨(神領)の保司(長官)となって要害の地で会った小栗山(協和町宮本)に築城し、地名の小栗を称して小栗氏となり、その子孫は15代に至るまでの300年余の間、領主として常陸の国(茨城県)の小栗地方を統括され、盛衰の歴史の中に小栗部名の威光を見るに至りました。
その小栗14代城主であった小栗孫五郎平満重は、室町時代の応永30年(1423)8月2日、関東公方足利持氏との激戦に奮戦拙く破れ小栗城は落城しました。
この落城により満重はその子助重と十勇家臣共に、一族の小栗貞重等(愛知県)を頼って落ち延びる途中、相州藤沢近辺の悪党横山大膳の館(横浜市戸塚区東俣野)で、歓待宴酒に毒を盛られ、家臣十名は毒殺されて哀れにも上野ケ原に捨てられたが、幸いにして時宗総本山・無量光院清浄光寺(藤沢市)八世・(遊行寺14代)他阿太空上人のご光配によって藤沢山境内に手厚く埋葬されました。
幸運にも照手姫の助けによってこの大難を逃れ、九死に一生を得た小栗助重は、熊野本宮湯ノ峰温泉(和歌山県牟妻郡本宮町)に浴して快復し、父道重の死(応永33年3月16日)後、10余年を経た嘉吉元年(1441)の結城合戦(結城市)に、幕府軍の将として活躍し、その論功により再び小栗領に復しました。
なお助重は、毒殺という非業の死を遂げた十勇家臣の菩提を弔う追善に、藤沢山に入り、追孝謝恩の歩様を持って父満重と家臣の墓石を、八徳池のほとりに営んだと伝えられています。
またこの施主助重が、世上有名な小栗判官とされた室町時代の武将で、小栗15代城主・小栗彦次郎平助重であります。(御戒名:天照院殿前金井太陽宗源大禅定門)。
ここに、無念にも相州の野辺に露と消えた小栗十勇家臣の悲惨な死を哀悼し、さらにその追善への意向を表敬して、小栗主従墳墓の概略由来などを顕彰するものです」 
さて時刻は午前9時になりました。こっから旧東海道を東京方面に信号を4つ越えると、次の目的地の入り口になります。しかし、旧東海道と言っても、遊行寺坂を登るのですよ。もうヘロヘロ。しかも暑い〜。影ない〜。坂の両側は切り立ってて、休めない〜。辛抱たまらず、「遊行寺坂上」バス停手前の歩道橋の階段に影を見つけ休憩しちゃいました〜。
休憩後、しばらくはまた上り坂。旧東海道の道の両側に、かつての松並木が再生されてる場所に出た。

よ、ようやくの日陰です〜。もう干からびる〜〜。上の画像の撮影時刻はまだ9時22分ですよ?でも体感は35度!です!!影がないと、アスファルトは照り返しがですねっ。辛いデスゥ〜〜!!
遊行寺(小栗堂)から旧東海道の遊行寺坂を登って信号を4つ超えて、ようやく目的地の入り口を見つけました〜。

お越しの際は、徒歩での訪問でなく藤沢駅から戸81系統の戸塚バスセンター行きに乗って「鉄砲宿」バス停下車がおススメです。バス停から徒歩5分で行けますよ!
*7月21日に画像と文章を追加しました。
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芳心院墓所(千両塚)

2017年07月06日 05時33分45秒 | 墓所巡り
2017.4.2に池上本門寺に訪問した目的は、本門寺春祭り限定公開の国の重要文化財五重塔でした。参拝後ふとダンナに尋ねてみる。
「本門寺には歴史に名前が残る人々のお墓があるんだけど、知ってる?」
「知らない」と答えが返ってきたので、ガツンとくるお墓へ案内しました。
造るのに1万両かかったという芳心院墓所です。
説明板発見。芳心院墓所:万両塚に埋葬されている「芳心院殿妙英日春大師」は、徳川家康と側室お万の方の孫にあたり、紀州徳川家初代藩主頼宣の娘、鳥取池田家初代藩主池田光仲の正室です。
宝塔背面の銘文には、芳心院の家系・人となり・信仰の深さと「逆修7分全得」(生前に墓を作るなどの善行を積めば、七の功徳全てを得ることができる)のために生前に建てた自分のお墓であったことが記されています。
宝塔内部からは、法華経巻子本8巻と火葬骨の収められた青銅製の骨蔵器が発見されました。自身の法華経信仰を300年後の私たちに伝えてくれる貴重なお墓です。」

周囲に空堀があります。一説によると、芳心院が生前蛇が嫌いだったので、濠を作ったと言われています。でも造成当時から濠に水は入っていなかったとか。

この石垣も上等ですね。まるで江戸城の基壇の石垣のよう。
家系図もありました。

ビッグネームがいっぱいです。

宝塔の説明文もあります。



宝塔の正面には、芳心院と生活を共にした侍女たちのお墓もあります。(一部供養塔も)

実は、芳心院墓所の空堀の外に別の遺跡があります。

古墳時代のものです。池上本門寺は小高い丘の上にあります。

古墳時代のお墓ですかね?

お墓だけでなく、生活の跡も残ってます。

分厚い富士山の火山灰。江戸時代の富士山の噴火は、江戸中期の宝永4年(1707)の宝永大噴火が有名。噴火は2週間続きました。

弥生時代の集落ですって!

トップ画像の芳心院の宝塔の背後に、しだれ桜が見えていたので見物に行きました。

そもそもは、桜の名所でもある池上本門寺ですからそれも楽しみに訪問しましたが。

2017年4月2日は桜の咲く進行が遅く、まだ開花してませんでした。残念〜。

既出記事です。
万両塚(2012年2月23日)の記事こちらの記事は池上本門寺の有名人のお墓めぐりです。
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