あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

福田家の長屋門

2019年08月09日 06時04分37秒 | レトロ建築
2019/7/8の散策。ギオンスタジアム沿いの道で、思いがけず素敵な落書きを見つけて鑑賞。(10:18)坂を降りて道なりに走ってると、武家屋敷っぽい建物を見つけて自転車を停めた。(10:26)
説明板発見:福田家の長屋門 相模原市登録有形文化財
この長屋門は近世末頃の建築で、上部に2階を設けるため、軒高が15尺(約4、5メートル)とかなり高くなっているのが特徴です。軒はセガイという形式で市内では19世紀に一般化したものです。
屋根は修復してありますが、当初は茅葺だったと思われます。
注)外からの見学はできますが、屋敷内に立ち入ることはできません。
平成14年4月1日登録」
この道も走るのは始めてです。昔道なんだろうか?曲がってるし。

眺めて再出発。この道がどこに出るかわからない。とりあえず北に走れば52号線に出れると思うんだよね。
そんなこんなで目的のスナックさいかちに10時36分到着。
本当に着けたよ〜。感動した!
というのも、7月6日に公民館で相模原の戦国史の歴史講座に参加。そこで永禄12年(1569)武田信玄が小田原攻めの際、戦勝のさい先を祝って植えたさいかちの木が、相模原市南区下溝にある!と紹介されてたのだ。
それは見たい!と思った私は、講座の講師に「見に行きたいので所在地を教えて欲しい」と質問。聞いてもたどり着けそうになく、ど〜しても場所を知りたかったので、しつこく聞きましたらば「スナックさいかちの前」という実に具体的な場所を教えていただきました。ごめんね〜、先生、ど〜しても見たかったんや。ってな事で明日に続きます。

記事をある程度まとめて書いて予約投稿してます。うっかり間違えて8月9日の記事を2本作ってしまったようです。この記事は2本目になります。日々チェックしてくださってる方は、もう1本ありますのでよろしくお願いします。
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藤沢レトロ旧近藤邸

2019年08月01日 05時20分03秒 | レトロ建築
2019/6/23訪問。実は先に投稿した鵠沼の蓮池で舞妃蓮を楽しんだ後、徒歩で藤沢駅へ向かう途中、体育館のそばにある旧近藤邸を見学しました。時系列で投稿する予定が、以前訪問した蓮池の記事の閲覧が多く、ならば!と先に蓮の開花情報を投稿してたのです。で、続きの旧近藤邸がようやく紹介できます。
旧近藤邸の後ろに見えるのは、藤沢市の体育館です。
平日はリーズナブルな喫茶店として使われてる旧近藤邸。訪問したのは日曜日。入れないのか?と肩を落としかけて説明板を見つけた。「日曜日に見学した人は見学時間午前9時から午後5時まで(入場無料) 見学を希望する人は向かいの市民会館内の受付に申し出てください。」ということで受付へ。鍵を開けてくださり見学開始。ちなみに、見学が終わったら携帯で係りの方に「見学終わりました」の電話を入れるだけの簡単仕様。自由に見学出来て素敵。では画像増量で。
画像中央が入り口。入ってすぐ説明ペーパーをゲット
旧近藤邸:旧近藤邸は、関東大震災の直後1925年(大正14年)、藤沢市辻堂の松林に別荘として建てられました。当時の和洋折衷の代表的な建物といわれています。建て主の近藤賢二氏没後、所有者が変わり、老朽化に伴って取り壊しが決定されましたが、保存を望む声が、近隣の住民や建築家から起こり、1981年3月、藤沢市民会館の前庭に移築されました。
旧近藤邸を設計した遠藤新は、1914年(大正3)に東京帝国大学を卒業後、帝国ホテル(旧館)の設計で知られるアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトに6年間師事し、その思想を学ぶと同時に、日本の生活と風土に合わせた独特の様式を編み出しました。常に建築と人間との調和を考え、西欧の模倣ではない「真の日本の住宅」を追い求めた遠藤新の精神を、旧近藤邸の随所に読み取ることができます」
1階の居間兼食堂部分。現在は喫茶店として使用中。上の画像の右端に見切れてる場所に暖炉があります。
大谷石を使ってる。ライトっぽい。
画像奥に畳が見えてます。和室になっていて、藤沢市のレトロ建築がパネル展示で紹介されてました。非公開物件が多くて気軽に見学出来ないのが残念だなあ。
移動。もう一つ1階にある和室。ここも喫茶店で使われてます。
窓のデザインが素敵だったので。
窓の外が見える。
水平を強調する横線がいっぱい。
かつての使用人室。和室。テーブルの上に説明文「この食卓は、もと松井眞邸(1938年・昭和13)遠藤新設計で東京都東久留米市学園町に建築された。にあったが、1991年旧近藤邸へ内納眞様より寄贈された。
なお、もとの姿は、横1665×幅750×高さ665であったが、旧近藤邸にあったテーブルの形を考慮して改造した。 1992年6月19日 旧近藤邸を守る会」
2階へ移動。
階段が細い。しかも急です。
平面図を見ると、バルコニーが2つある。ちなみに上の画像はサンルームよりバルコニーに向けて撮影。けどバルコニーには出れません。


8畳の和室から、サンルームに向けて撮影。すりガラスです。
和室。白いしっくい塗。

今でもいけてそうだったので、もう1枚。
レトロ建物の窓の鍵。アルミサッシの偉大さがわかるよなあ。アルミサッシを発明した人は偉大だ。
玄関を中から外に向けて撮影。周りに喫茶店のあれこれがあるのでデザインがわかりにくかも?外へ移動。
外から見ると窓はこんな感じ。
窓。
庭側からホール入り口を撮影。
中に近藤邸のミニチュアがあったので撮影。
さて、受付に電話して「見学終わりました。ありがとうございました」と伝えて藤沢駅に向けて出発。
なんかあった!名誉市民:片山哲先生「片山哲氏、明治20年紀南に生まれる。こよなく湘南を愛し、居を構えてより50有余年。清節道を守って湘南の人となる。市民諸君より推されて衆議院銀に当選すること11回。昭和22年5月には内閣総理大臣に就任し、戦後の難局処理に当たる。その后外遊数回、世界の人物と風光に接し、益々わが湘南の風物、世界に秀でたるを信ず。」
何かあった!
2階の回廊みたいなデザインでイトーヨーカドーまで続く。そこで1階に降りると商店街。藤沢駅まですぐだった。
自販機がワグビーワールドカップ仕様になってました。もうすぐですね。
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黒門が開いてる!?

2019年07月15日 05時26分37秒 | レトロ建築
2019年5月18日は国際博物館の日でトーハクの一般展(総合文化展)が無料で観覧できました。朝から見学したけどあまりの量に全部見切れず、本館2階と法隆寺宝物館などの見学を見送りました。ちっ!9月の敬老の日も無料観覧できるので、その時こそ総合文化展をコンプリートするのだ!と謎の誓いを立てトーハクを後に。既に15時過ぎてるので、このまま帰宅してもいいんだけど、もうちょっとだけと移動。
と?あれ??黒門が開いてます!
ここを土日に通ったことがなかったので私が気付いてなかったのね。

戻って中から門を見学したい!けどもう疲れて戻る気力がない。
ちなみにトーハクwebによりますと「「黒門(重要文化財):旧因州池田屋敷表門。旧丸の内大名小路(現在の丸の内3丁目)にあった鳥取藩池田家江戸上屋敷の正門です。明治時代、当時の東宮御所正門として移されたのち、高松宮邸に引き継がれ、さらに昭和29年(1954)トーハクに移築されました。創建の時期は明らかでありませんが、形式・手法から見て江戸末期と考えられます。屋根は入母屋造左右に向唐破風屋根の番所を備え、大名屋敷表門では東京大学の赤門と並び称されるものです。
土・日・祝日および1月2日・3日の10:00~16:00に開放しています」
さて、疲れてるのにやってきたのは旧東京音楽学校奏楽堂です。
耐震工事だったのかな?しばらく休館してました。実は私は訪問済みなのですが、ダンナが入ったことないというので行ってみた。
何か演奏会やってればラッキーだな〜。日曜コンサートってまだ続いてるんだろうか?

あれ??
針紙が?
あれ〜??
実は国際博物館の日で、ここも無料で入館出来る!と思い込んでたんだけども違ったようです。
公開日:日・火・水曜日*木・金・土曜日はホールの使用がなければ公開。
公開時間:9:30~16:30
入館料:300円
おかしいなあ?なんか無料入館出来るってどこかで見た気がするんだよね?
ブログを書くにあたり調べたら、国際博物館の日&上野ミュージアムウィークで2019年5月14日に入場無料だったようです。ま、紛らわしい〜。
ちなみに、旧東京音楽学校奏楽堂は、東京芸大音楽部の前身、東京音楽学校の校舎として、明治23年(1890)に建設された。2階の音楽ホールは、かつて滝廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台です」奏楽堂のwebより抜粋。
去年の11月に工事を終えリニューアルオープンしてました。

あれ?このへんに白い自由の女神いなかったっけ?展示物は期間限定だったのかな?トーハクで動物作品を見てたので、目に付いた作品も動物作品でした。これも芸大生の作品かな?
さて、と。実は駅に戻る途中の広場で、新潟県の観光イベントをやってたのだ。せっかくだから佐渡の観光パンフレットと上杉謙信ゆかりの栃尾の油あげが見たいんだよね〜。懲りてない私。
新潟県のとりどりの観光パンフをゲットして、ホクホクで帰宅しちゃいました。

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東京国立博物館の庭は、元は寛永寺の庭です

2019年07月10日 07時20分03秒 | レトロ建築
トーハクの庭は普段立入禁止。春と秋、期間を決めて公開されます。庭園散策マップによりますと「東京国立博物館の敷地は、元は寛永寺の境内でした。現在本館が立ってるところが寛永寺の本坊にあたり、本館北側に広がる庭園は、寛永寺の庭であったと考えられます。ただし、庭は何度も改修を重ねており、5棟の茶室なども移築されたもので、当時の面影を残しているのは、本館東側の築山と中央の池のごく一部、そして庭に一角の古い墓石のみです。
また、当館には創設当初「天産部」があったためか、多種多様な植物があることも、この庭園の特徴です。」と書いてある。
では早速入ってみよう!
まずはトップ画像。「大燈籠:京都で現在も代々続く陶家・清水六兵衛家の4代(1848-1920)の作です。4代が61歳のときに作り、昭和13年(1938)に五代によって当館に寄贈されました。陶製の燈籠という、器にとどまらない4代の作風の幅の広さを伝えるものとして、大変貴重な作例です。
総高は、2メートル30センチ強。宝珠・傘・火袋・中台・竿・基礎部の大きく6つの部分から成り、総重量は1トンを超える、大変堂々とした作品です」
応挙館:尾張国(現在の愛知県)の天台宗寺院、明眼院の書院として寛保2年(1742)に建てられ、後に東京品川の益田孝(鈍翁・1848−1938)邸内に移築。昭和8年(1933)当館に寄贈され、現在の位置に移されました。室内に描かれている墨画は、天明4年(1784)、円山応挙(1733−1395)が明眼院に眼病で滞留していた際に揮毫したものであると伝えられています。松竹梅を描いた床張付と襖絵が残されています。墨画は保存上の理由から収蔵庫で保管されていますが、2007年、最新のデジタル画像処理技術と印刷技術を駆使した複製の障壁画が設置され、応挙揮毫当時の絵画空間が応挙館に再現されました。木造平屋建て、入母屋造、瓦葺、間口15メートル、奥行き9メートル、2室、廻り廊下を巡らせています。
訪問時、応挙館ではお茶会が催されていて、内部を見れませんでした。
九条館:もと東京赤坂の九条邸にあった建築で、当主の居室として使われていました。昭和9年(1934)九条家から寄贈され、現在の位置に移築されました。床張付などには狩野派の筆と伝えられている楼閣山水図が描かれており、欄間にはカリンの一枚板に藤花菱が透かし彫りにされています。木造平屋建て、瓦葺、寄棟造、間口15メートル、奥行き10メートル、2室、廻り廊下を巡らせています。

2棟の廻りには、大きな木があります。

トーハク創設当時、「天産部」が多種多様な植物を植えたらしいので、この大きなイチョウも当時からここに立ってたのかも?けど、創設前は寛永寺の庭だった場所。ならば、江戸時代から生き延びてる木もあるやもしれん。そう思えば妄想が捗るなあ。どうだろ?
石燈籠
六窓庵:いただいたチラシによりますと、
慶安年間(1648-52)奈良の興福寺慈眼院に建てらてたもので、現在奈良国立博物館にある八窓庵などとともにヤマトの三茶室といわれました。明治8年(1875)に博物館が購入。明治10年(1877)当館に移築されました。その後、第二次大戦中に解体されましたが、昭和22年(1947)9月数寄屋の名工木村清兵衛により現在の位置に再建されました。入母屋造・茅葺きで席は三畳台目出炉、金森宗和 (1584-1656)好み。水屋・寄付・腰掛などは明治14年(1881)に古筆了仲によって設計、増築されたものです。
にじり口にある手水鉢は四方仏水盤といわれる形式のもので、延長3年(925)関白藤原忠平が建立した法性寺(山城の国)の石塔のひとつでした。その後、銀閣寺を蹴て所有者が幾人か代わり、明治18年(1885)に当館の所有になりました」
歴史を経る中で増設・移築を繰り返した物件ながら、よく令和の時代まで残ってたなあ。驚き〜。
ちなみに、増設してるので撮影画像を見返して、どの建物が六窓庵なのか?大分頭をひねりました。



どれも違う建物に見えますが、撮影場所が違うだけで同じ建物を撮影してます。
近くにあった水鉢。このあたりには、曰くありげな石灯籠がいくつかあります。

そういえば、トーハク本館内から撮影したのはこの向かいだったかな?
反対側から見るとこんな感じです。創設時に「天産部」が庭に植物を植えまくったと記述がありましたが、この辺りには様々な木があります。季節が変わると趣の違うと思う。秋の庭園公開で見比べたいなあ。長くなったんでここで一旦区切り、明日も庭園紹介。
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東京国立博物館の庭は、元は寛永寺の庭です

2019年06月07日 17時31分36秒 | レトロ建築
トーハクの庭は非公開。けど春と秋の期間限定で一般公開しています。
いただいた庭園散策マップによりますと、「東京国立博物館の敷地は、もとは寛永寺の境内でした。現在の本館が立っているところが寛永寺の本坊にあたり、本館北側に広がる庭園は寛永寺の庭であったと考えられます。ただし、庭は何度も改修を重ねており、5棟の茶室なども移設されたので、当時の面影を残しているのは、本館東側の築山と中央の庭のごく一部、そして庭の一角の古い墓石のみです」
では早速お庭を拝見。
まずトップ画像。
大燈籠:
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青梅さんぽ3・釜の淵公園

2019年04月29日 06時02分01秒 | レトロ建築
2019年4月6日青梅で桜とレトロ建築さんぽ。9時46分、金剛寺出発。下り坂です。梅岩寺さんからずっと下ってます。下ったらまた登らなきゃならんので、ちょっとだけ憂鬱。
9時57分、釜の淵公園到着。りゅうえん橋を渡る。
釜の淵公園は青梅の桜の名所です。先に桜の記事は4月9日に投稿済み。
この記事では公園内にある施設を紹介します。
こちらは青梅市立郷土博物館と青梅の名前の元になった「青梅(あおうめ)」がある金剛寺の株分けした梅の木です。金剛寺さんは釜の淵公園の前に立ち寄った場所で、記事は昨日投稿しました。
そしてレトロ建築はこちら。
旧宮崎家住宅です。内部公開もされてます。縁側から入ります。
説明員さんに「入りませんか?」と誘われたのですが、この後11時6分発青梅の電車に乗車したいので我慢しました。でも説明員さんのお話はとっても面白かった!
説明員さん「この住宅は、もと北小曾木村あざ夕倉(現・青梅市成木8丁目)にありました。青梅駅から北へ行ったこの場所は、幕府の直轄で石灰の産地です」
私「あ!漆喰の材料ですか?」
そうです」
説「ごく平均的な農家ですが、建築様式が3つの部屋からなっていて、後に4つの部屋になる前の時代の建物という理由で、都指定重要文化財となりました」
私「広いですね?」
説「そうですか?11人住んでましたが」
私「ええっ!?」
説「この建物の材木が面白いんですよ。自分たちで建ててるから、いろんな木が使われてまして」
私「栗とか柿とか?」
説「使われてます」
私「自分たちで切り出したんですかね?」
記事を書いてるのって、4月18日ですが、既に訪問して12日も経ってて、地図とか見取図とか拝見しながら説明していただいだのにうろ覚えです。ああ、若い頃の記憶力カムバック!!書き留めておけばよかったんや〜。


おさんぽはゆとりを持ってやらなきゃならない!教訓を得た。いっつも計画を立てるときに詰め込みすぎる私の悪い癖。
反省しつつも、青梅駅までこの後上りなのだ。ぐずぐずしてられん!
あゆみ橋から多摩川を眺める。
釜ケ淵公園の桜の記事に掲載してない画像をチョイス。

最後にあゆみ橋から、左側が釜の淵公園で、右側がこれから登らなきゃならない斜面の高さを確認ください。
が、頑張ろう。時刻は10時39分。
急な坂をへ〜こら息を切らし登る。
10時55分、青梅駅に到着。目一杯急いだけど15分もかかった。
当初予定の11時6分発に無事乗車。目指すは武蔵小金井駅です。(本当は国分寺駅へ行き、日立製作所の春の一般公開参観したかったのに、今年の春の公開は中止になっちゃったんだよ〜)
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青梅桜とレトロ建築さんぽ

2019年04月27日 06時08分48秒 | レトロ建築
今日から2019年4月9日の青梅の桜とレトロ建築巡りを紹介します。
小田急相模原ー町田でJR横浜線乗換ー八王子で八高線乗換ー拝島で青梅線乗換ー青梅駅着。徒歩数分でしだれ桜の梅岩寺に9時2分到着。
実は梅岩寺のしだれ桜2019/4/6午前現在というタイトルで、4月9日に記事投稿済み。
今日は梅岩寺の桜は軽く紹介して散策ルート優先で紹介します。
梅岩寺のしだれ桜は市の天然記念物で青梅市内最大の桜です。青梅駅から奥多摩方面へ。徒歩数分で梅岩寺さんに到着。しだれ桜は2本あります。山門をくぐらず左を見るとまず1本。この桜は巨木の本では筆者が「臥龍桜」と名付けてました。
奥の石垣の上に長い花枝のしだれをもつ桜が目的のもの。
巨木の本によりますと樹高:11メートル 幹回り3メートル 樹齢150年と書かれてます。
ちなみに巨木の本の筆者さんはこちらを「飛龍桜」と名付けてました。
あまりの花房の長さに、真下に立ち見上げたら、頭の上から桜が滝のように降ってくる感じで素晴らしい。
なんとか降る感じを表現出来ないか?と工夫した構図が下のです。
9時18分梅岩寺を出発。急ぎます。11時過ぎの電車に乗りたいのだ。
青梅街道に出て西へ進む。道沿いにレトロな建物が次々現れて、レトロ建物好きの私は楽しいです。



散策時刻が早いからか、あまり人気がない。現在も住人がいる建物かどうかよくわからないのが残念だ。中にはお店っぽいのもあるけども。
あ?何か説明板が立ってるわ。
旧稲葉家住宅というらしい。公開されてるようだけども、公開時刻10時〜17時・休館日月曜日とありました。時刻を確認したら9時29分でして、諦める。けど説明板は読んだ。
旧稲葉家住宅東京都指定有形民俗文化財 指定:昭和56年3月12日
稲葉家は、江戸時代に青梅宿の町年寄を務めた家柄で、青梅でも有数の豪商でした。青梅街道に沿って土蔵造二階建ての主屋、門、棟割長屋が並び、主屋の東側に井戸と、北側には土蔵があります。
間口5間半、奥行き7間の土蔵造の主屋の表部分は、店舗として商業活動に充てられ、奥の部分は生活の場となっていました。
店舗部分は、間口いっぱいに土間を持つ前土間形式で、防火戸の収納部となる袖壁を左右にもつ一階部分と、土戸で守られた登り梁形式の二階部分からなっています。
軒の低い登り梁形式から、江戸時代後期(18世紀後半)の建築であると考えられます。
また土蔵は明治19年(1886)頃の建築、棟割長屋・門・井戸屋方はその後の建築と考えられます。 平成23年3月 東京都教育委員会」
公開時刻前だったので中は見えなかったけど、隣が空き地だったので斜めから撮影できました。
この旧稲葉家住宅前の信号を渡り、青梅街道から細い道を南へ向かう。と、急な下り坂が現れた。
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日本のガウディの作品を見に東池袋

2019年03月27日 05時55分22秒 | レトロ建築
2019.3.9東京メトロ1日券で行く巨木探訪も今回が最終回。実は巨木の紹介は昨日の記事が最後です。丸の内線茗荷谷駅→池袋で有楽町線に乗換→東池袋駅に移動。まずはA3版の紙をラミネート加工出来るキンコーズ東池袋店を探す。最近右足のふくらはぎと大腿部の状態改善目的でストレッチングボードという運動器具を購入したのですが、3分間ストレッチング体操の図解がA3版でした。使ううちに絶対ダメにしそうなので、その前にラミネート加工したいと思いWEB検索したら近所になく、ヒットしたのがキンコーズというチェーン店。セルフでA3サイズのラミネート加工が200円+税というお得仕様です。店はすぐに見つかったのに、結構時間がかかってしまい店を出たらもう午後4時前でした。イカン!早く探さないと太陽の位置が低くなりすぎる!
早速キンコーズの近くにある日本のガウディと呼ばれている2つの梵寿鋼氏の作品を探す。
去年の秋、杉並区の巨木散歩をした時に、京王線代田橋駅スタートで、梵寿鋼さんのビルを見物しました。
日本のガウディが設計のラポルタ和泉見物(2018年11月25日)の記事

日本のガウディ作品マインド和亜(2019年11月26日)の記事
他にはない建築で、もっと見てみたい!と思い東池袋に来たのだ。
探したらすぐに見つかるハズと思ったら、こんなのがありました。

画像では分かりにくいのですが、1階は何かの物流倉庫です。

正面から2階から上を見上げた。撮影時刻は午後4時頃ですが、この日はスカッと晴れていたので、建物の白い壁が青空に映えます。

横に回る。
 
見上げたり近くから観察したり。

物流倉庫の側面は居酒屋っぽい。居酒屋の隣に建物の入り口があった。そこはマンションの玄関ホールだった。

派手!外観に派手な彫刻がなされていても、白色一色なので玄関ホールの派手なモザイクが目立つのなんの。


足元は派手だけども地味!個性がイマイチかもしれんので、オリジナルでなく張り替えたかもしれんと予想。

だって、見上げた天井はこんなに派手なんだもの。

ちなみに、照明もこんなに個性的。

住民とすれ違う。彼女らはエレベーターに消えてった。う、羨ましい〜。内部も派手なのだろうか?それとも??想像が膨らむなあ。

建物の出口方面を撮影。
さて、梵さんのもう1棟はどこだ?
〜〜〜〜〜〜〜!!!見つからない〜。道沿に区画を1周したけど見つからないっ!
もしやこれ??

どうみてもつい最近壊した気配。まさかな〜??とは思いつつももう足が限界で、範囲を広げて探す気力がない!ので帰宅した。帰宅してから「東池袋 梵寿鋼」を検索ワードで探したら、紹介した白い建物の、トップ画像からほんの50メートルほど離れたところにあったと分かる。ちっ!!あの空き地が罠だったんだ〜〜!!なんでハマるか自分!!
梵さんの作品には特別な名前がついている。白い建物はルポア平喜といいますが、斐禮祈・賢者の石と呼ばれています。ちなみに、「斐」の字の上に山カンムリがついてるかも?
そして、私が見つけられなかった建物は、東商ビルといいまして、ビッセル・輝く器(南池袋2−31−3)です。ってなことで、また東京メトロ1日券で巨木探訪のついでに建物探訪もやらなきゃならないことが確定した〜。あ〜、事前調べが大切なんだ〜。わかっているのに私はまた甘かったんだ。反省したっ!
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旧新橋停車場

2019年03月02日 06時13分53秒 | レトロ建築
旧新橋停車場は入場無料。月曜休館。開館時間:10:00-17:00です。
東京メトロ新橋駅から浜離宮へ行く時は開館前でした。帰りに通りかかったのは11時15分ごろ。正面玄関が開いていた。

3月3日まで明治150年記念NIPPON 鉄道の夜明け展が、旧新橋停車場内の鉄道歴史展示室で開催されてます。とっても面白かったので、ぜひ画像を紹介したいところですが、展示室は撮影禁止です。私が一番面白かったのは、新橋ー横浜間の線路の地図です。
去年の大河ドラマは西郷隆盛が主人公でした。幕末当時、品川付近は薩摩藩の江戸藩邸がありました。去年放映されたNHKプレミアムの歴史番組「英雄たちの選択 汽笛一声!文明開化を決めた資金調達〜若き大隈・伊藤の挑戦〜」という番組では、外国に借金してまで今急いで鉄道を作る必要がない(西郷)VS鉄道こそ西洋列国の力の源泉。日本が西洋の食い物にされないためには喫緊に鉄道開設が必要だ(大隈・伊藤)という対立を紹介してました。新橋から横浜に向かうには薩摩藩の土地が必要でした。でも西郷が許さない。で、大隈・伊藤の結論は、陸がダメなら海があるじゃない!とばかりに、海の上に鉄道の線路を作りました。手作業の人海戦術で。明治期の土木は大概無茶ですよね。横須賀でも空いた口がふさがらないほどに魂消ました。今東海道線は陸地だから、現代を生きる人にはその頃の鉄道敷設の無茶苦茶具合は推察できませんが、「鉄道の夜明け」展には幕末期の海岸線と海の上を通した新橋から横浜までの線路の大きな地図が展示されてます。よくよく見ると、海上に線路があったのは、現在の高輪あたり。そして海に堤防を築き、その上に線路を作った横浜(現在の桜木町駅辺り)手前の神奈川海岸だけ。海の上を走る蒸気機関車か〜。まるれジブリ映画みたいですね。見物したかったなあ。
他に、開通記念に乗車に臨んだ明治天皇とおつきの人々の浮世絵も展示してて、服装が!束帯と冠と草履を履いて赤絨毯をいま歩こうとしてました。あ〜、お雛様が近くにありましたら、お内裏様の服装ね。西洋人は当時の正装のドレス着用の女性と金モールつきの軍服の男性。その後ろに蒸気機関車とこの新橋停車場が描かれてるのだ。必見です。
ちなみに、歴史資料展示室は2階と地下になってます。地下には開業当時の駅舎基礎石組みの遺構を建物内から見物できます。
いただいてきたパンフレットによりますと旧新橋停車場この建物は1872年(明治5)10月14日(太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎を概観を、当時と同じ位置に、できるだけ忠実に再現したものです。
新橋停車場駅舎は、アメリカ人R.P.ブリジェンスの設計による木骨石張りの構造で、1871年(明治4)5月に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。
1914年(大正3)に新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称。物流の大拠点として戦前前後を通じて東京の経済活動を支えました。
文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923年(大正12)9月1日の関東大震災の火災で焼失し、1934年(昭和9)から始まった汐留駅の改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体しました。
1986年(昭和61)、汐留駅は廃止。跡地の再開発に先立ち埋蔵文化財の発掘調査が1991年(平成3)から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘されました。
1996年(平成8)12月10日、駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡として国の指定を受けました」

プラットホーム側から新橋停車場の建物を撮影。
説明板発見:プラットホーム構造
プラットホームは「盛り土式石積み」という構造で作られています。両側面の真下には、溝状に地面を掘って基礎石を敷き詰め、その上に切石を石垣のように積んで土留め壁が作られ、内側には土が詰められました。基礎石には龍野藩脇坂家。仙台藩伊達家両屋敷の礎石などが使われました。切石は笠石を含めて6段あり、地表には笠石を含めた上3段が出ていました。最下段部分は小口面を揃えて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積んでいます。ただし、一律的に小口面と長手面が交互になっているわけではなく、2・3段目では小口面が続く個所もあり、4・5段目では長手面が並ぶ個所もあります。
プラットホームの規模
プラットホームの前兆は151、5メートル幅は9、1メートルありました。再現されたのはそのうち駅舎寄りの25メートルです。遺跡指定の範囲に残されているプラットホームの遺構は35メートルです。

説明板発見:再現軌道
創業当寺、枕木やレールの台座(チェアー)は小石や砂の混じった土をかぶせられ、レールの頭だけが地表に出ていました。レール断面は上下対照のI型で、双頭レールといいます。この復元軌道の半分は小石をかぶせて当寺に近い状態を再現し、残りは枕木や台座が見えるようにしました。双頭レールは錬鉄製で、1873年にイギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道で使われたあと、新潟県柏崎市の製油所で使われたもので、新日本石油株式会社、新日本石油加工株式会社の両社からご寄贈いただきました。

説明板発見:0哩標識:1870年4月25日(明治3年3月25日)、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。1936年(昭和11)年に日本の鉄道発祥の地として0哩(ゼロマイル)標識と約3メートルの軌道を復元しました。1958年(昭和33)10月14日、旧国鉄によって「0哩標識」は鉄道記念物に指定され、1965年(昭和40)年5月12日、「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として国の指定史跡に認定されました。

パンフレット掲載の再現見取り図。
10分で見学の予定が既に11時40分!急ごう!
東京メトロ銀座線新橋駅乗車。三越前駅で半蔵門線に乗換え、終点の押上駅へ。A3出口のエレベーターで地上へ。時刻は早くも12時23分。実は事前に計画してた東京メトロで巨木散歩はここがスタートのハズでした。

スカイツリーがど〜ん!撮影してる場合ではない!急ぎましょう〜。
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新橋駅から浜離宮へ

2019年02月25日 21時44分58秒 | レトロ建築
2019年2月24日のお散歩を紹介します。
小田急東京メトロパスを利用して(東京メトロが1日乗り降り自由になる)東京メトロ沿線の巨木散歩に行こう!と金曜日に用意を終えた。あとは土曜か日曜か天候のいい方に出かけよう!と計画の最終チェック中に、2019年2月24日限定で、天皇陛下在位30年記念慶祝事業で都内あちこちの動物園・水族館・美術館・博物館を始め、公園も入園料が無料なるイベントを見つけた!もうこの時点でお出かけは日曜日に確定です。
で、どうせならば巨木探訪を絡められないだろうか?と。ほとんど完成していた散歩コースを見直し、無理矢理ええ、無理矢理ですっ!当日限定無料で入れる公園で、巨木がある場所で東京メトロ沿線の場所を超特急で探した。
で、300年の松のある浜離宮恩賜公園に決定しました。チョイスポイントは開園時間が午前9時なこと。大事な事です。元々組んでいた散歩コースにプラスするんですから〜。
ダンナに「朝7時15分に出発します!」と宣言しました。
当日、小田急相模原駅発午前7時44分に乗車。銀座線で新橋駅に8時46分到着。何はともあれ、浜離宮を目指すぞ!と、意気軒昂にホームに降り立ったものの、こっからどう行けばいいんだ?ともかく2番出口を目指そう。
ふっと、駅のラックが目に飛び込んできた!もしかしたらあそこに東京メトロの駅周辺案内地図があるかもしれん!
ありました〜!!これで浜離宮に行ける!
案内地図片手に地上をてくてく歩いてると、でっかい交差点に着いた。「新橋」交差点だと思うんだが、信号に「新橋」と標識が出てない〜〜!!おっきすぎるんんじゃ!!
と、ぼやきつつ歩いてると、レトロ建物を見つけた。
これってもしや〜??
旧新橋停車場じゃん!!
実はダンナの父親は、国鉄マンでした。ダンナはあちこち親に連れられて駅を見にいってたとかなんとか。で、すんごく気になったようですが、到着したのは8時54分でして、旧新橋停車場の建物内にある資料館の開館時間は10時です。また後ででお願いしますっ!
心残りのダンナを急かすのは、予定なびっしりなだから。ええ。今日は元から計画した散歩コースに、2つ無理無理にねじ込んだんですから!
あれ??

なんか、通りに警察がいっぱい出てるのなぜかしら〜??もしやもうすぐある東京マラソンの予習とか?ともあれ、朝9時前からご苦労様です。

おおっ!見た事あるぞ!何だっけな〜?確か黒田紀章?あ、違う黒川紀章さんだ。んで、カプセルホテルじゃなくてカプセルタワービルです。

なんか、取り壊すだのなんだの、いつかニュースで見た気がするんですが、変わらずここにあったのね。

嬉しいですっ!いつまで保存してくださるかわかりませんが、もう少しこのままでいてね。

あれ?なぜに突然信号機?
あ。説明文がある。「保存理由 元この高速道路の下には汐留川が流れ、鉄橋も架かっていました。汐留駅は、わが国の鉄道開業当時における始発駅の新橋駅でしたが、大正3年(1914)東京駅が中央駅になると、ここは貨物駅になりました。大震災後、築地に東京市中央卸売市場が完成すると、汐留駅と市場間に荷物運搬のための線路がしかれ、大きな働きをしたのです。
都民の暮らしの台所を支えて来たこの信号機を、国鉄廃止にあたり捨て去られるのにしのびず、東京都中央卸売市場築地市場、東京都第一建設事務所並びに中央教育委員会、地元各位の多大なご協力に依り、ここに永久保存されることになりました。 昭和62年(1987)12月」
新橋旧停車場を一目見ておいてよかったなあ〜。
さて、気をとり直し出発です。交差点の向こうにもうお堀が見えてる〜。ワクワクするわ〜。

立派な石橋が!広いわ〜。

おおっ!門の両側の石垣が!江戸城してるわ〜!!もう本当にワクワクが止まらん〜〜。
の前に、巨木の場所です。法被を着込んだおじさんに聞いてみます。
「すみません〜。トウカエデってどこにありますか?」
実は巨木の本によりますと、浜離宮には三百年の松のほかにもう1つあるとあったのですが、場所が今ひとつわからんの。浜離宮は広いから、見つからないかも?と不安だったんだ。法被のおじさんなら知ってるハズ。

「こちらの地図で説明します。今いるのが右下の大手門で、門を抜けるとすぐ三百年の松があります。まっすぐ行って菜の花畑。南へ抜けて花木園。南下してお茶屋が。その先が潮入の池。潮入の池の西側にトウカエデが並んでます」
「おおっ!ありがとうございますっ!」
浜離宮の見どころを押さえた上で最短コースだと思われる。もう楽しみ〜〜っ!!
あ。通常は、浜離宮恩賜公園の入園料は300円です。小田急東京メトロパスを利用すると240円。しかし訪問当日は天皇陛下在位30年記念慶祝事業で、浜離宮恩賜公園の入園料は無料でした。庶民にはとっても嬉しいです。
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浴風会本館・礼拝堂

2018年12月02日 06時57分11秒 | レトロ建築
2018.11.25訪問。京王浜田山駅から一駅、高井戸駅下車。時刻はまだ1時前。こんどはすぎなみ景観ある区マップ高井戸・浜田山編でウォーキング。

環八通りを南へ。二つ目の信号、高井戸西交番前で西へ。上のゴリラ像が角の山中公園入り口にいるので、目印にしてね。で、目的地は東京都選定歴史的建造物 浴風会です。

東門に13時に到着。
目指すは本館。で、到着したはいいけど、完全逆光だった。

説明板発見:東京都選定歴史的建造物浴風会本館
浴風会本館は関東大震災後、高齢・障害のある被災者のために建てられたものである。建設当時は、この本館を中心としてほかの建物をほぼ対称に敷地全体に配置した構成となっていた。
鉄筋コンクリート造り、地下1階:地上2階一部3階建て、壁はスクラッチタイルで大きな窓がある。中央の塔が全体を象徴し、塔で垂直線を強調したデザインを用い、翼部は庇等によって水平線を表している。このデザインは、東京大学安田講堂(設計:内田祥三)と共通するもので、この時代の特徴でもある。
建築年:大正15年(1926) 設計:内田祥三(よしがず) 土岐達人(たつんど)

裏手に回ると、真っ青の空によく映えていた。





ん?何かどこかでみたことあるような??
あ!あそこだ!白金台の東京大医科学研究所附属病院にとても似てるわ〜。
画像では分かりにくのですが、本館と礼拝堂の間に中庭があって、バラがたくさん植栽されてました。名残りのバラがちらほら咲いてます。また患者さんの家族かな?いや、老人ホームの方かもしれんけど、あちこちでのんびり日向ぼっこしならが歓談してます。なんか、本館はCMやドラマのロケ地に度々使われてるそうです。
では礼拝堂を見よう。

礼拝堂の池の真っ赤に紅葉してたモミジ越しに本館を望む。光度差があって、うまく画面構成出来ませんでした。

池の鶴のオブジェは日比谷公園の雲形池の鶴に酷似してます。もしや?同じ作家さんの作品かも?知らないけども。

礼拝堂です。完全逆光です。
さて!礼拝堂の中はどないかな??

う!数段ある階段を上がってて気づいたのですが、礼拝堂はボロボロです。なんか、タイルが割れてたり、隙間があったりで危険な感じ。黄色のロープも張られてて。極め付けは礼拝堂に鍵がかかってます。
マジでぇ〜??教会とかだと、よっぽどでないと礼拝堂は開いてるものだけども?
反対側に回ってみた。

画像では分かりませんが、地下に降りていくデザイン。上の画像右下に階段がちょこっと見えてます。
どうにも入れそうにないわ〜。ってか、ここ、使われてるんだろうか?
調べた。そもそもこの礼拝堂は1927年(昭和2)竣工ですが、教会の礼拝堂ではない模様。祀ってあるのは阿弥陀如来で、仏教の礼拝堂でした。ただし仏教に限らずほかの宗派や宗教にも使えるように作られたらしい。もちろんキリスト教にも。塔も鐘楼ではなく、梵鐘があるようです。だから大晦日には除夜の鐘をつくそうで。不思議な建物ね。見たいな〜。
さて時刻は13時17分。ここからなら南門を抜けるのがショートカットできるんだけども、南門って開いてるんだろうか?

脇の小さい門が開いてました。通りはイチョウ並木が東西に延びてます。名前がついてて歴史と文化の散歩道という通りらしい。
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日本のガウディ作品マインド和亜

2018年11月26日 04時15分58秒 | レトロ建築
昨日紹介した日本のガウディこと梵寿鋼(ぼんじゅこう)さん設計のラポルタ和泉から徒歩3分、マインド和亜に到着。時刻は午前9時39分です。見えると同時に私もダンナもテンションMAXです。歩きながら撮影開始。



玄関。
玄関入ってするのオブジェ。

ピンボケしちゃったけど、玄関から見えた。右手に進むとなんと!中庭がありました。これさ、ディズニーランドにあってもすんなりなじむ不思議な建物です。

外観に戻った。上の左の方は、シャッターに描いてある絵です。馴染み過ぎてて最初は気づかなかった。

バルコニー?

まさかのコンビニが1階に入ってました。これさ、最初YAHOO!の地図で所在地検索かけた時、ビルの名前でかけても地図に名前が書いてなかったのに、不思議な赤色のマークが出てて「何だろか?このマーク??」となったのですが、まさかのデイリーヤマザキの印だったとは!!この面白建物にコンビニ!しかも周辺にお店はほぼなかったので、利用率高そうです。撮影しようとしたら、中からおっさん客が出てきてびっくり〜。

建物は通りの角にある。コーナー撮影してみた。

ちなみに裏手。逆光〜〜!!

実は上はコーナーの壁を撮影したのですが、右下にはゴミステーションで張り紙がありました。なんか、芸術作品に日常の業務連絡メモが貼り付けてあるようでシュールだ。
脇にも建物の入り口がある。外から象の足っぽいのが見えた。中を見てみたいけど、そっから先は住人のプライベート空間なので諦めた。
さて、次だ。え〜と??この先の細道を西北西に行けばいいのだよね?

すぎなみ景観ある区マップ 永福・和泉編片手に進む。マップによると、上の画像の屋敷林の角を曲がる。

大きなケヤキ?かな??鹿の子的な木肌の木が目印です。ここに9:42到着。

道なりに進んでると、下り坂が見えてきた。マジ〜〜!?この日の散歩は坂道がないところを選んだつもりなのに〜〜!!で、見えてきたのが杉並和泉学園の芝のグラウンド。手入れが大変そ〜。

そんで、次の目的地和泉熊野神社さんと龍光寺さんの林が見えた。あ、今度は上り坂か〜。ちなみに、降って登る真ん中にあったのは神田川でした。到着時刻は10:02。いいペース。
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日本のガウディが設計のラポルタ和泉見物

2018年11月25日 18時24分04秒 | レトロ建築
今日は杉並区散歩へ行ってきた。初夏に荻窪周辺散策をした時に、ゲットしたすぎなみ景観ある区マップ 永福・和泉編&高井戸・、浜田山編片手にウォーキング。まずは京王線代田橋駅下車。北口より甲州街道へ。徒歩数分で変わった建物が見えてきた。
実は以前レトロ建物の記事を投稿した時に「日本のガウディを知ってる?見た?」と書き込みをいただきまして、いつか行こう!と思ってたのです。で、永福・和泉編の地図を眺めて行き先を絞り込んでた時に、行けるんじゃね?と組み込んでしまいましたっ!では早速。
甲州街道から入るとまず目に入ったのが建物の上部の白いペガサスの彫刻です。
で、正面に回るとこれ。

下部がビルの入り口。覗いてみた。

すごい〜。

これ、普通の賃貸マンションですよ?信じられんわ〜。でも「FOR RENT」って書いてあったから間違いないと思うよ。

ちなみに、北側(甲州街道の反対側)の外観はこちら。

正面のくねる女性を中から見ると、ステンドガラスがありました。ピンぼけ画像でごめんなさい。
9時36分、ラポルタ和泉を後に。北西に進みます。
大きな木が入り口の遊び場96番。ここを過ぎて数分の9時39分、次の目的地マインド和亜に到着です。

これまた同じ方の設計です。ってか、ラポルタ和泉の建築途中にマインドのオーナーさんが「作って!」お願いして出来たんだとか。
ちなみに設計者さんは梵寿鋼(ぼんじゅこう)さんです。
明日に続きます。
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大磯 旧大隈重信邸見学

2018年11月10日 06時50分17秒 | レトロ建築
なぜに大磯に残る数少ない明治の古建築がいま公開されたのか?といえば、今年が明治維新元年から起算して150年にあたるからです。今年は全国あちこちで維新に関連するイベントが開催中ですね。
「大磯には明治期の立憲政治の確立に重要な役割を果たした伊藤博文・大隈重信の邸宅などの歴史的遺産が集中して残されていることから、去年(平成29年11月21日閣議決定)、国土交通省が神奈川県や大磯町と連携し、旧伊藤博文邸(そう浪閣)を中心とする歴史的な建築群や緑地を一体的に保存・活用するため整備を進めてます」(パンフレットより)とのこと。
構想はわかった!何にせよいままで望んでも見学できなかった建物が見えるのは嬉しい。とはいえ、今回の公開範囲は限定的かつ現状公開です。おそらくそう浪閣は西武グループが結婚式場として使用していたので、内観を公開するにはまずかつての姿に復元作業があります。まあ、ぶっちゃけ金の問題です。まず西武から買い取りです。

まずはテストから!ということで、今回はなんと!!ガイド付きでも無料公開です!国土交通省太っ腹!これは乗るしかないでしょう!!明治記念大磯邸園として整備したのちは、有料になる模様です。ツアー最後にあったアンケートに「見学料はいくらが適当ですか?」という問いがありましたので。
さて、前置きはここまでにして、まずはガイドツアー一つ目の旧大隈重信邸を紹介します。

入り口を抜けるとまずは庭が出迎えてくれる。奥に2つの和館がある。上の画像右手(西側)に旧大隈重信邸が、左手(東側)に旧陸奥宗光邸がある。まずは右の大隈重信邸へ向かいます。

まず気づくのが大隈重信邸は玄関が西側の壁に近い場所についてることです。窮屈そうでとっても不自然なんだよね。だって玄関といえば家の顔だよ?敷地が狭いならともかく広いんだ。なぜにすぐそこに壁があるのか??誰もが思う疑問はガイドさんがあかしてくれた。
「大隈重信の出身地は、薩長土肥の肥前国、現在の佐賀県です。1838年(天保9)に佐賀藩砲術長の父の長男として生まれました。
伊藤博文が大磯にそう浪閣を建てた翌年の1897年(明治30)に大隈重信は大磯に別邸を建設します。大隈がこの別邸を使用したのは古河市兵衛に譲渡するまでのわずか4年でした。
関東大震災にも耐え、古河家から古河電工に所有が変わった後も維持管理されていたため、居住部分はほぼ往時のままの姿で保存されています。
建設当時、西隣には最後の佐賀藩主・鍋島直大の別邸(現在はマンション)があり、家相上悪いとされる西側にわざわざ玄関を配置し、主君への忠義を示しています
ガイドさん、最初っから飛ばしすぎ。さすが内田康夫さんの小説の主人公と同じ名字を持つだけあるねっ。調べるの大好きなんだろうなあ。情報が満載されてて、ガイドツアー参加者は大満足ですっ!ともあれ、大隈重信がかつての殿にお尻を向けるのはダメだと、わざわざ西側に玄関をつけたのがわかりました。
では靴を脱いで和館へ入ります。

画像では写ってませんが、玄関の前は車寄せで大きな庇がついてます。ブラタモリ「湘南」の回でも紹介されてましたが、大隈重信は宴会好きで、毎晩のように宴会してたのだとか。東京から車を連ねて大磯に移動し、宴会というのがお決まりのコースだった模様で、執事さんの記録では1年で2万人を超える人が宴会に参加したとかなんとか。1年は365日しかないのに。連日宴会したとして、20000人➗365日=54、7人。つまり、毎日50人以上が集っていたという〜〜〜!!どんだけ〜。
玄関を入るとまず目の飛び込んできたのは正面に据えたでっかい鏡です。

鏡に見えます。でもこれ銅鏡って呼ばれてるんだって。確かこれをつけたのは大隈重信ではなく、後に古河家が別邸として使用していた時につけたとか。古河家と陸奥宗光のつながりは、陸奥の次男が古河家の養子になっていたことから。で、古河家といえば、足尾銅山です。だから!の銅鏡なワケですねっ。足尾銅山が大公害(鉱害)を起こした時、時代は富国強兵。そして政財界につながりががっちりあったので、問題にはなったけども抑え込めたんだって。なんかネタがポロポロ出てくるなあ。

銅鏡の右手にこじんまりとした応接間があった。それを横目に進むと、16畳と10畳の続きの26畳の大広間があります。

現在は、明治の資料を設置してあり、大きさは感じられませんが、ぶっちゃけここは宴会するための場所ですね。

ちなみに有名なのは床の間の床柱です。

この木はサルスベリでして、「大隈さんちのサルスベリ」といえば有名だったとか。なんか、床柱に使えるほど太く真っすぐなサルスベリは珍しかったんだっって。

ちなみに大広間があるのは「富士の間」と呼ばれていて、外観はこんな感じ。

大広間の縁を回すようにあった広縁部分から庭を撮影しました。ブラタモリの番組内では「かつてはここから正面にど〜ん!と海が広がっていた」と言ってましたね。現在は松などが伸びてしまい海は見えません。更には西湘バイパスが海側に走っているので、もし今松を低く整えても、かつての景色には戻りません。
さて、大広間に設置してあった資料を少し紹介。
 
これは伊藤博文に明治天皇が下賜した杉板戸絵です。裏表共に描かれており、パンフレットには静御前の舞と野見宿禰の相撲の場面が紹介されてたので別の絵を載せてみた。

こちらは大隈重信が明治14年に上奏した〜〜密奏した憲法の意見書です。
幕末維新を彩った立志伝の立役者も、明治も半ばになると数が減り(例えば西郷隆盛は明治10年<1877>に49歳で死去。大久保利通は明治11年5月に暗殺)残る大物は伊藤博文と大隈重信で、大隈が明治天皇に出した上の意見書が対立の元になりました。
で、こちらは大日本帝國憲法

そうそうたるメンバーの署名が並んでいますねっ。参考までに伊藤博文が初代総理になったのが明治18年2月、大ん本帝國憲法発布が1889年(明治22)2月11日でした。つまり大隈重信案はボツになったという。にしても武士の世が終わった幕末維新元年が1868年で、それからわずか20年ちょっとで憲法作ったのですよ。あの時代誰も彼も憲法作りに熱中したって何かのドラマで見たなあ。
他にも資料は並んでましたが、ガイドツアーは13人も参加してるので、短い時間ではなかなか撮影出来ず、他の資料はかるく見るだけにとどめちゃいました。
大広間の富士の間から神代の間を撮影。次はこちらを見学します。

なんといっても見所はこの窓です。

明治の頃、板ガラスは今と製法が違い鉛ガラスと呼ばれてました。この製法で作られたガラスは、外の景色がゆがんで見えたりガラスに気泡が混じったりしましたが、透明度はなんと今の時代のガラスよりは上!!味わいがあります。しかしガイドさんの一番の心配は、この鉛ガラスが割れたら今再現出来ないこと。なのでガイドツアー参加者は、不注意な事故が起こらないようにリュックは前に抱え、窓に近づきすぎないように見学を求められました。
さて、神代の間ですが、由来は千年以上も地中や湖底に埋もれていた杉を使ってることから。大隈はここを書斎として使用。

で、何か気づきました?床柱が竹?そうです。そして奥の戸板が神代杉。しかし注目は低い襖です。
実は大隈重信は外務大臣時代の明治22年10月に爆弾襲撃を受け、右足を切断する大怪我をおい辞職しました。(大磯の邸宅は明治30年に建設)なので、襲撃をうけても刀を振り回せないように低く作ってあると説明。

ちなみに神代の間の外観はこちら。

ぜいたくな石の使い方してるよね〜。
内観を終え、庭に出た。目に飛び込んできたのはこれ。

大隈時代の古い家屋台帳によると、この場には浴室があった。大隈重信は風呂好きで、邸宅の南20メートルほど海側に丘を降ったあたりに四畳半くらいの浴室と離れがあったとか。この五右衛門風呂はその跡地近くから掘り出されたものだって。明治22年の襲撃で右足を切断した大隈は、義足くらし。底が熱くなる裸足で五右衛門風呂には入れない。身長180センチの長身の大隈は片足に下駄を履いて小さくなって五右衛門風呂をたのしんだとか。ちなみに、坂を下ればそのまま海岸に直接繋がっていたので、海水浴の後、お風呂に入ってという松本順先生提案の治療の一環だったかも?とガイドさん。
次は隣接の陸奥宗光邸です。

ちなみに、現在は明治維新150年のイベントに合わせ公開されてますが、普段はこんな感じです。
元勲通りと呼ばれています(2015年3月1日)の記事 こちらの記事は以前に大磯歴史散歩をした時のもの。入り口が閉まってる時の旧陸奥宗光邸と旧大隈重信邸と、敷地を囲む石塀の画像を載せてます。石垣スキーには必見の素晴らしい石垣を巡らせてます。
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杉並さんぽ10-1 コンドル設計の鉄門

2018年06月16日 05時56分28秒 | レトロ建築
東京都は毎年11月の第1週を文化財公開ウィークとして、都内にある文化財を一斉公開してます。特別公開・通年公開・企画事業と区別はありますが、人々に文化財を身近に感じていただくため行われるイベントは歴史好きな私には好都合。いつだったか公開事業の古民家を訪問した時に、東京文化財通年公開編・特別公開編の冊子をいただきました。お花散歩とか展覧会見物のついでに少しづつ訪問してます。未訪問の中に杉並区堀ノ内にある重要文化財(建造物)妙法寺鉄門がありました。
杉並の尾崎熊野神社さんの巨木クロマツを訪問しようと計画を立てた時に、距離的にも小田急東京メトロ1日券を使えば妙法寺鉄門もついでに行ける!と気づきました。それだけではもったいないなあ〜と杉並区内のウォーキングプランを立てて角川庭園・大田黒公園・荻外荘などあれこれ追加しすぎてしまい、妙法寺に着く頃にはヘロヘロになってました。まさに計画倒れ寸前です。でもジョサイア・コンドル設計の鉄門がそこにあるなら見たいやろ!その一念で足を動かし、ようやく妙法寺さんに到着したのは16時を回ってました。
ついてびっくり。妙法寺さんは大きかった!

まず境内図で鉄門の位置を確認。
派手〜。
 

 


説明板発見:重要文化財『鉄門の由来』
この鉄門は明治11年に完成した、洋風の意匠を基調とし一部に加味した折衷の鉄門である。
我国の近代建築家養成の恩師と言われている英国人教師コンドル氏の設計遺構で、明治建築史上貴重な存在である。
昭和48年重要文化財に指定された。
門柱左右の7文字の漢詩は、当時の身延山第74世吉川日鑑法主の筆跡である。

「花は浄界に飛んで 香りは雨と成る。
金を祇園に布(しい)て 福は田にあり」
ちなみに鉄門の背後の建物は書院で奥に御成の間(東京都文化財指定)があります。

パンフレットによりますと「徳川時代、歴代将軍が野遊の時に使用された部屋で、天井・床の間・腰障子には狩野探幽・常信の絵が描かれてる」そうです。
パンフレットの側に東京都文化財ウィークの絵葉書が3種置かれていたのでいただいてきました。これによりますと「重要文化財(建造物)妙法寺鉄門(指定:昭和46年6月2日)
寺院の門として異彩を放つこの洋風意匠を基調とした鋳鉄製の門は、妙法寺が明治10年(1877)に工部省赤羽工作分局に設計施工を依頼し、翌明治11年(1878)に完成しました。
設計は、明治10年に工部省のお雇い外国人として来日し、工部大学造家学科教師であったジョサイア・コンドル(1852−1920)が担当しました。コンドルの来日年代から、来日第一昨ではないかといわれています。
門は幅(門柱真々)4、3メートル。全高4、96メートルの規模で、両開きの扉が付き、左右に袖柵を設けています。門柱は4枚の鋳鉄製側板を接合し、基部に牡丹模様の香狭間・唐獅子付き腰額縁、中央に銘文額縁、上部に井桁橘文様付き額縁を設えています。柱頭には、青銅鋳造の童子(東側女性・西側男性)を安置しています。
門扉を吊り込んだのき上には、彩色された鳳凰を冠し、5個のアカンサス装飾(地中海地方のキツネノマゴ科の葉をモチーフとした装飾)付きの灯篭を付設しています。門扉はアカンサス唐草文様を主に、橘花と井桁橘文を幾何学的に配置しています。
洋風を基調としながらも、日本古来のモチーフを散りばめた折衷様式ですが、異なる様式を優れた力量でまとめています」
ちなみにwikiによりますと、現存するジョサイア・コンドル設計作品は
神田のニコライ堂(重要文化財)ニコライ堂(東京復活大聖堂教会)2012年4月1日の記事
丸の内の三菱一号館 三菱一号館(2010年11月17日)の記事
台東区湯島の旧岩崎庭園本館及び撞球室 旧岩崎邸庭園の大銀杏(2017年12月26日)の記事
高輪の三菱関東閣(非公開) 
三田の綱町三井倶楽部(非公開) 綱町三井倶楽部から東京タワーへ(2017年12月17日)の記事 画像は外観のみ
五反田の清泉女子大学本館(旧島津家袖ケ崎邸) 旧島津公爵邸見学(2017年4月1日)の記事
北区の旧古河庭園本館 旧古河庭園の紅葉(2017年12月21日)の記事
世田谷区の岩崎家廟
など。 岩崎家廟(2013年1月14日)の記事
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