その昔、陸軍登戸研究所と呼ばれていた所は、現在明治大学平和教育登戸研究所資料館となりました。登戸研究所は、日本が戦争をしていた時代とても重要な軍の施設でした。
あなたは今何歳ですか?私が子どもだった頃、推理小説といえば明智小五郎が登場する江戸川乱歩のお話でした。だいたいその時代にちょっと悪い大人が子どもにヒソヒソと話してくれた戦争時代の秘密な作戦や、スパイ小説に登場する秘密道具。だいたいそれを真面目に研究して実践したいたのがどうも登戸研究所だったらしい。そういう解釈でした。
それはだいたい合ってるのですが、かつてはおおやけにしてはいけない事でした。
去年の10月のある日、海外旅行のツアー会社から毎月送られてくる月刊誌に「明治大学平和教育登戸研究所資料館」見学会の参加
募集がありました。
見学内容:資料館ができるまでのドキュメンタリーDVD鑑賞(30分)→スタップによる館内展示ガイド(約1時間)→(質疑応答・トイレ休憩など約20分)→学内に点在する史跡のガイド(約40分)
集合時間:午前9時55分(*終了は12時30分を予定しています) とありました。
これ、参加するしかないでしょう!ってな事で見学会に申込、10月27日に見学会は実施されました。
すんごく為になり、勉強になりました。子どもの時にどこかの悪い大人がこっそり教えてくれた風船爆弾の実物縮小模型が資料館に展示されてるのを見てびっくらこきましたよ!
ええ!!風船爆弾!それ、マジにアメリカに飛ばしたの?え??風船って和紙製??マジで??しかも実際に9300発も飛ばしたの!?んでもって実際にアメリカに約1000個が到達してるの〜〜??
マ。マジか〜〜…。全然知らなかったんですけど〜?
風船爆弾という名前は知っていたのに、それが実際に使われていたとはっ!!てっきり悪い大人の作り話だと思ってたわ(子どもの頃から捻くれてたんです、私)驚いたなんてものではありませんでした。
実際に見学ツアー説明についてくださったのは、なんと!資料館の館長さんの山田朗先生でした!
もうね、館長さんの話は専門家しかしらないような裏話を交えてエピソードがボロボロ出て来るのですよ。今までに歴史カテゴリーであれこれ記事を投稿しましたが、驚き加減でいえばこの見学会がぶっちぎりでした。せっかくなので、感動を大事に大事に記事にしようとして出来ず挫折。今まで放置していたのですが、図書館で借りて来た本の返却日が過ぎてしまいまして〜〜!さすがにヤバいのでこの辺りで投稿する気になりました。あの面白さをどこまでお伝え出来るか?自信ないんですが、おつきあい下さい。
最寄駅は小田急線生田駅。南口より徒歩約15分。明治大学は丘の上にあるので、明治大学地域産学連携研究センターのエスカレーターを利用すると便利です。明治大学の敷地は、南に向ってゆるい坂道になっています。少し息が上がる頃、資料館に集合時間前に到着。
資料館はトップ画像です。実はこの建物はかつて陸軍登戸研究所時代に第二科研究室(36号棟)だった実際の建物です。明治大学のキャンパス内に、陸軍登戸研究所時代の戦争史跡が今でも現存しているのです。もう最初っからびっくりだよねっ!終戦後、登戸研究所は米軍の接収を経て、慶応義塾大学が借用(1950年まで)、その後明治大学が研究所時代11万坪の跡地のうち5万坪を購入しました(下のマップの赤の点線で囲んだ部分)。当初は登戸研究所の建物をそのまま利用していたものの、年を追ってかつての建物は老朽化し撤去されていきました。しかし跡地が大学になったからこそ、少ないとはいえ戦跡が学内にのこっている模様。
かつて登戸研究所時代の建物配置図です。『明治大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブック』より
こちらが現在の建物配置図です。
見比べると現在の大学の建物が、かつての研究所時代の建物を壊して同じ場所に新しく建物を建てて来たのが分かります。
集合時間が来ていよいよ資料館に入室。まずは戦争の時代のDVDを鑑賞です。
あれこれ見たのですが、ほとんど忘れちゃいました(やっぱ10月の出来事を3月に記事にしているのがヤバいです。最近は記憶力の低下がヤバ過ぎです)ただ焼け野原になった川崎の映像はバッチリ覚えてるんですが、川崎と登戸は上空をいく爆撃機からすれば目と鼻の先という程近所なのに、登戸研究所は無傷だったんですって(戦時中に何度も飛行機から掃射はあったけど)。研究所を無傷で残したのは裏がありまして。アメリカは潜入スパイからの情報で、登戸研究所の重要性が分かっていて、戦後登戸研究所の人材と研究成果をアメリカが使うために空爆しなかったとか。実際、戦後主だった研究者は、横須賀基地のケミカルセクションで働き、更にアメリカ本土に連れてかれサンフランシスコで技術指導にあたったとか?(戦争犯罪免責と引き換えで情報提供した)
それってさ、結局はアメリカが朝鮮戦争やベトナム戦争で登戸研究所の研究成果を実践したってことか…。
研究成果の実践と言っても、戦争時代の実物資料はほぼ残ってません。というのも、敗戦がいよいよ真近に迫ると、陸軍は真っ先に極秘通達で登戸研究所の機密文書や秘密兵器を一切合切、徹底的に破壊・隠滅命令を下し、直後速やかに実行されたので現存してません。
ただ、本土決戦に備え、4月に登戸研究所の主立った研究室を長野各地に移転疎開したので、そちらに持っていったものはわずかに残ったとか。あとは研究者の記憶の中に。
しかし戦後も研究者達は秘密を墓まで持って行く覚悟だったので、長らく陸軍登戸研究所の真実は謎のままだったとか。それがなぜに今資料館があるか?というと、ある研究員の元に長野と川崎の高校生が登戸研究所の取材に訪れた時、私は登戸研究所の秘密を未来に残さねばならないと思ったからだそうで。この研究員というのが、かつて4つあった研究科の第二科(憲兵・スパイ器材、毒物・生物化学兵器の研究・開発部署)の第一班班長だった伴繁雄氏です。結構高い地位に合った彼は、自分の知らない研究は書けないので、かつての部下に号令をかけ、何を研究していたか?レポートを書かせました。それが本として発行されています。
戦争犯罪に関する本の出版を引き受ける出版社を探すのは相当苦労されたようですが、無事1冊の本になりました(左側)*著者の伴氏は原稿を書き上げて間もなく死去。出版には奥さんが頑張られ実現させたとか。彼女の頑張りがなければ、私達は登戸研究所の真実を知る事が出来なかったかも。
ちなみに上の画像の右の本は、資料館の館長さんにして私達のガイドさんの山田先生の著書です。図書館から借りて来てます。貸出し期限過ぎてしまってるので、明日返却する奴。(*3月22日に返却済み)
という事で、前置きが凄く長くなってすみません。いよいよ資料館の見学開始です!
まずは第一展示室から。
第一展示室は登戸研究所が設置された歴史的な背景と目的、立地条件、組織の概要、運営体制、他機関との関係、戦争の進展とともに研究所の規模と役割が次第に変化していく過程を中心に全容が紹介されています。
何が凄いって1927年(昭和2年)に室長ほか数名で始まった研究所が、1945年(昭和20)には862名<雇員&工員618名・技手&嘱託112名・将校&技師132名>まで拡大したこと。更に登戸研究所の1942年度の使った金額が、679万円だったこと。(当時200万あれば本格的な飛行機工場が一つ建つ時代)
ちなみに、昭和20年4月、戦況悪化に伴い、登戸研究所は研究室毎に長野に移転疎開したそうで。唯一偽札を印刷していた第三科は印刷機があまりに大きくて重く、動かせなかったので登戸に残ったとか。あと聞いた面白エピソードとしては、研究所で事務員や逓信士として働いてた近所の主婦が多勢いたそうで。彼女等は研究所が長野に移転する際彼女達は解雇されたとか。後に取材で「ワンピースが買える位の退職金が出た」と語ったそうです。それを聞いた私は「昭和20年4月に退職金が出たんだ〜」とびっくりしました。どうも私が戦争時代は理不尽だと思っていたのは、だいぶんドラマとか映画の脚色されたり悲惨さを強調するため作ったエピソードを見た影響が強過ぎるようです。日本のテレビや映画はお話の主人公を感傷的に描き過ぎて視聴者のが感情移入し易いように作り込む傾向にあります。だからあの時代に生きた人々の実際の所が伝わってない模様。気付けただけラッキーと思おう。
次は第二展示室へ移動。
第二展示室の説明の前に、陸軍登戸研究所の大前提を知っておかねばなりません。
「そもそも陸軍登戸研究所は、<秘密戦>における兵器・資材の研究、開発機関です。
では<秘密戦>とは何ぞや?→戦争には必ず付随するけど、歴史に記録されない<裏側の戦争>
→戦争に限らず、平時においても密かに行われている<水面下の戦争>
→<秘密戦>の4つの要素、防諜・諜報・謀略・宣伝(戦争プロパガンダ)のこと」見学会で配布されたコピーより。
うわ〜〜。まだ展示室1部屋分しか書いてないけども、記事が長くなったので一端切ります。風船爆弾のエピソードが面白過ぎて、更に長い文章になりそうなんです。面白過ぎて省略出来んのじゃ!よって続きは明日に持ち越し。すみません。うまく書けてる気がしないけど、頑張って続き書くね〜。
こちらが見学会でいただいたパンフレットです。凄く詳しく出来てます。
あなたは今何歳ですか?私が子どもだった頃、推理小説といえば明智小五郎が登場する江戸川乱歩のお話でした。だいたいその時代にちょっと悪い大人が子どもにヒソヒソと話してくれた戦争時代の秘密な作戦や、スパイ小説に登場する秘密道具。だいたいそれを真面目に研究して実践したいたのがどうも登戸研究所だったらしい。そういう解釈でした。
それはだいたい合ってるのですが、かつてはおおやけにしてはいけない事でした。
去年の10月のある日、海外旅行のツアー会社から毎月送られてくる月刊誌に「明治大学平和教育登戸研究所資料館」見学会の参加
募集がありました。
見学内容:資料館ができるまでのドキュメンタリーDVD鑑賞(30分)→スタップによる館内展示ガイド(約1時間)→(質疑応答・トイレ休憩など約20分)→学内に点在する史跡のガイド(約40分)
集合時間:午前9時55分(*終了は12時30分を予定しています) とありました。
これ、参加するしかないでしょう!ってな事で見学会に申込、10月27日に見学会は実施されました。
すんごく為になり、勉強になりました。子どもの時にどこかの悪い大人がこっそり教えてくれた風船爆弾の実物縮小模型が資料館に展示されてるのを見てびっくらこきましたよ!
ええ!!風船爆弾!それ、マジにアメリカに飛ばしたの?え??風船って和紙製??マジで??しかも実際に9300発も飛ばしたの!?んでもって実際にアメリカに約1000個が到達してるの〜〜??
マ。マジか〜〜…。全然知らなかったんですけど〜?
風船爆弾という名前は知っていたのに、それが実際に使われていたとはっ!!てっきり悪い大人の作り話だと思ってたわ(子どもの頃から捻くれてたんです、私)驚いたなんてものではありませんでした。
実際に見学ツアー説明についてくださったのは、なんと!資料館の館長さんの山田朗先生でした!
もうね、館長さんの話は専門家しかしらないような裏話を交えてエピソードがボロボロ出て来るのですよ。今までに歴史カテゴリーであれこれ記事を投稿しましたが、驚き加減でいえばこの見学会がぶっちぎりでした。せっかくなので、感動を大事に大事に記事にしようとして出来ず挫折。今まで放置していたのですが、図書館で借りて来た本の返却日が過ぎてしまいまして〜〜!さすがにヤバいのでこの辺りで投稿する気になりました。あの面白さをどこまでお伝え出来るか?自信ないんですが、おつきあい下さい。
最寄駅は小田急線生田駅。南口より徒歩約15分。明治大学は丘の上にあるので、明治大学地域産学連携研究センターのエスカレーターを利用すると便利です。明治大学の敷地は、南に向ってゆるい坂道になっています。少し息が上がる頃、資料館に集合時間前に到着。
資料館はトップ画像です。実はこの建物はかつて陸軍登戸研究所時代に第二科研究室(36号棟)だった実際の建物です。明治大学のキャンパス内に、陸軍登戸研究所時代の戦争史跡が今でも現存しているのです。もう最初っからびっくりだよねっ!終戦後、登戸研究所は米軍の接収を経て、慶応義塾大学が借用(1950年まで)、その後明治大学が研究所時代11万坪の跡地のうち5万坪を購入しました(下のマップの赤の点線で囲んだ部分)。当初は登戸研究所の建物をそのまま利用していたものの、年を追ってかつての建物は老朽化し撤去されていきました。しかし跡地が大学になったからこそ、少ないとはいえ戦跡が学内にのこっている模様。
かつて登戸研究所時代の建物配置図です。『明治大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブック』より
こちらが現在の建物配置図です。
見比べると現在の大学の建物が、かつての研究所時代の建物を壊して同じ場所に新しく建物を建てて来たのが分かります。
集合時間が来ていよいよ資料館に入室。まずは戦争の時代のDVDを鑑賞です。
あれこれ見たのですが、ほとんど忘れちゃいました(やっぱ10月の出来事を3月に記事にしているのがヤバいです。最近は記憶力の低下がヤバ過ぎです)ただ焼け野原になった川崎の映像はバッチリ覚えてるんですが、川崎と登戸は上空をいく爆撃機からすれば目と鼻の先という程近所なのに、登戸研究所は無傷だったんですって(戦時中に何度も飛行機から掃射はあったけど)。研究所を無傷で残したのは裏がありまして。アメリカは潜入スパイからの情報で、登戸研究所の重要性が分かっていて、戦後登戸研究所の人材と研究成果をアメリカが使うために空爆しなかったとか。実際、戦後主だった研究者は、横須賀基地のケミカルセクションで働き、更にアメリカ本土に連れてかれサンフランシスコで技術指導にあたったとか?(戦争犯罪免責と引き換えで情報提供した)
それってさ、結局はアメリカが朝鮮戦争やベトナム戦争で登戸研究所の研究成果を実践したってことか…。
研究成果の実践と言っても、戦争時代の実物資料はほぼ残ってません。というのも、敗戦がいよいよ真近に迫ると、陸軍は真っ先に極秘通達で登戸研究所の機密文書や秘密兵器を一切合切、徹底的に破壊・隠滅命令を下し、直後速やかに実行されたので現存してません。
ただ、本土決戦に備え、4月に登戸研究所の主立った研究室を長野各地に移転疎開したので、そちらに持っていったものはわずかに残ったとか。あとは研究者の記憶の中に。
しかし戦後も研究者達は秘密を墓まで持って行く覚悟だったので、長らく陸軍登戸研究所の真実は謎のままだったとか。それがなぜに今資料館があるか?というと、ある研究員の元に長野と川崎の高校生が登戸研究所の取材に訪れた時、私は登戸研究所の秘密を未来に残さねばならないと思ったからだそうで。この研究員というのが、かつて4つあった研究科の第二科(憲兵・スパイ器材、毒物・生物化学兵器の研究・開発部署)の第一班班長だった伴繁雄氏です。結構高い地位に合った彼は、自分の知らない研究は書けないので、かつての部下に号令をかけ、何を研究していたか?レポートを書かせました。それが本として発行されています。
戦争犯罪に関する本の出版を引き受ける出版社を探すのは相当苦労されたようですが、無事1冊の本になりました(左側)*著者の伴氏は原稿を書き上げて間もなく死去。出版には奥さんが頑張られ実現させたとか。彼女の頑張りがなければ、私達は登戸研究所の真実を知る事が出来なかったかも。
ちなみに上の画像の右の本は、資料館の館長さんにして私達のガイドさんの山田先生の著書です。図書館から借りて来てます。貸出し期限過ぎてしまってるので、明日返却する奴。(*3月22日に返却済み)
という事で、前置きが凄く長くなってすみません。いよいよ資料館の見学開始です!
まずは第一展示室から。
第一展示室は登戸研究所が設置された歴史的な背景と目的、立地条件、組織の概要、運営体制、他機関との関係、戦争の進展とともに研究所の規模と役割が次第に変化していく過程を中心に全容が紹介されています。
何が凄いって1927年(昭和2年)に室長ほか数名で始まった研究所が、1945年(昭和20)には862名<雇員&工員618名・技手&嘱託112名・将校&技師132名>まで拡大したこと。更に登戸研究所の1942年度の使った金額が、679万円だったこと。(当時200万あれば本格的な飛行機工場が一つ建つ時代)
ちなみに、昭和20年4月、戦況悪化に伴い、登戸研究所は研究室毎に長野に移転疎開したそうで。唯一偽札を印刷していた第三科は印刷機があまりに大きくて重く、動かせなかったので登戸に残ったとか。あと聞いた面白エピソードとしては、研究所で事務員や逓信士として働いてた近所の主婦が多勢いたそうで。彼女等は研究所が長野に移転する際彼女達は解雇されたとか。後に取材で「ワンピースが買える位の退職金が出た」と語ったそうです。それを聞いた私は「昭和20年4月に退職金が出たんだ〜」とびっくりしました。どうも私が戦争時代は理不尽だと思っていたのは、だいぶんドラマとか映画の脚色されたり悲惨さを強調するため作ったエピソードを見た影響が強過ぎるようです。日本のテレビや映画はお話の主人公を感傷的に描き過ぎて視聴者のが感情移入し易いように作り込む傾向にあります。だからあの時代に生きた人々の実際の所が伝わってない模様。気付けただけラッキーと思おう。
次は第二展示室へ移動。
第二展示室の説明の前に、陸軍登戸研究所の大前提を知っておかねばなりません。
「そもそも陸軍登戸研究所は、<秘密戦>における兵器・資材の研究、開発機関です。
では<秘密戦>とは何ぞや?→戦争には必ず付随するけど、歴史に記録されない<裏側の戦争>
→戦争に限らず、平時においても密かに行われている<水面下の戦争>
→<秘密戦>の4つの要素、防諜・諜報・謀略・宣伝(戦争プロパガンダ)のこと」見学会で配布されたコピーより。
うわ〜〜。まだ展示室1部屋分しか書いてないけども、記事が長くなったので一端切ります。風船爆弾のエピソードが面白過ぎて、更に長い文章になりそうなんです。面白過ぎて省略出来んのじゃ!よって続きは明日に持ち越し。すみません。うまく書けてる気がしないけど、頑張って続き書くね〜。
こちらが見学会でいただいたパンフレットです。凄く詳しく出来てます。
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