あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

赤坂迎賓館 四ツ谷界隈楽々散歩【6】

2018年02月12日 06時04分37秒 | 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】
連載してきた漫画【赤坂迎賓館〜四ッ谷界隈〜楽々散歩】は今日で最終回。1回あたり4ページ詰め込みましたので、記事の容量は大きくなったけど短い連載で済みました。では早速。
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以上が漫画の本文。

こちらが漫画の散策地図と順路。
四谷駅→赤坂迎賓館参観→オークラホテルで井伊家の痕跡探し→清水谷公園で大久保利通哀悼碑→たい焼き「わかば」さんでおやつ→四谷西念寺で服部半蔵と岡崎信康のお墓→戒行寺さんで長谷川平蔵供養碑→於岩稲荷・田宮神社→消防博物館
せっかく赤坂迎賓館を見に四ツ谷まで来たんだから、ついでに楽しい散歩をしたい!と思いましたらば、参考にしてください。
私がハガキ応募で当選して赤坂迎賓館参観した2度は無料参観でしたが、現在は内閣府の赤坂迎賓館参観ページでWEB予約(参観枠が空いてれば当日参観可能)で本館及び主庭は参観料個人1000円と変更されました。和風別館(本館と主庭も参観可能)の場合、ガイドツアー方式で1500円と参観料金が変わります。
今日の漫画部分に連動する過去記事はこちら。
長谷川平蔵の碑と服部半蔵の墓(2012.9/4)の記事 こちらの記事に西念寺さんにある服部半蔵の画像とお岩稲荷の画像がありまず。
消防博物館(2012.9/5)の記事 消防博物館の江戸の判じもの浮世絵は地震を起こしたナマズが岡っ引きに捕えられてました。

しばらくしたら連載漫画部分の掲載順を、カテゴリーを開くと表紙部分から始まるように順番を入れ替える予定です。パソコンをスクロールしたらそのまま読めたら便利ですから。
あと、カテゴリーに漫画化した部分の過去記事を移動する予定です。その方が見やすいかも?と思いますので。
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赤坂迎賓館 四ツ谷界隈楽々散歩【5】

2018年02月11日 05時22分34秒 | 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】
今日も漫画【赤阪迎賓館〜四ッ谷界隈〜楽々散歩】の紹介です。







トップ画像に選んだのはオークラホテルの庭で見つけた徳川家光のお墓に奉納された石灯籠です。散歩をするとあちこちになぜこんなところに石灯籠が!と競馬場やら運動広場にも置いてあるのを見つけます。中にはかつてお墓に奉納した石灯籠もあったりします。そんな時、石灯籠の文字を解読すると「なんで!!」とぶったまげることがあります。だって、徳川将軍のお墓の石灯籠だったりしますからね。ここの石灯籠は、場所・お墓の主・奉納した人物・奉納日まですべてが歴史的で超驚きました!
ちなみに、今日の漫画に連動する過去記事はこちら。
近江彦根藩井伊家屋敷跡(2012.9/2)の記事 こちらの記事はオークラホテルに残る江戸時代の井伊家屋敷の痕跡です。

大久保利通哀悼碑(2012.9/3)の記事 こちらの記事に清水谷公園に建つ大久保利通哀悼碑の画像があります。

服部半蔵と西念寺(2012.4/19)の記事 こちらの記事は私が西念寺さんに初訪問の時のもの。服部半蔵と岡崎信康のお墓の画像があります。
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赤坂迎賓館 四ツ谷界隈楽々散歩【4】

2018年02月10日 05時34分51秒 | 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】
今日は赤坂迎賓館〜四ッ谷界隈〜楽々散歩その4です。







トップ画像に選んだのは、赤坂迎賓館の裏庭にある国宝の噴水です。
ちなみに、今日の漫画の過去記事はこちら。
迎賓館設立の沿革(2010.9/19)の記事 こちらの記事に迎賓館の裏庭の画像があります。
赤坂迎賓館の裏側(2010.9/20)の記事

迎賓館の盆栽(2010.9/21)の記事 こちらの記事に迎賓館の盆栽の画像があります。
赤坂迎賓館参観(2012.8/31)の記事
こちらの記事に赤坂迎賓館の裏庭と盆栽の画像があります。
赤坂迎賓館外観(2012.9/1)の記事 こちらの記事に喰違門の見取り図の画像があります。
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赤坂迎賓館 四ツ谷界隈楽々散歩【3】

2018年02月09日 06時18分52秒 | 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】
今日は漫画【赤坂迎賓館〜四ッ谷界隈 楽々散歩】の続き、3回目です。
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ちなみに、トップ画像は朝日の間です。いただいたパンフレットに掲載されてたものです。
今日の漫画にリンクしてる過去記事はこちら。
迎賓館で一番の部屋(2010.9/18)の記事 こちらの記事に朝日の間と天井近くにある陸軍・海軍の画像があります。
迎賓館設立の沿革(2010.9/19)の記事
こちらの記事に迎賓館を裏から見た画像、国宝の噴水の画像があります。

*朝日の間は平成29年2月15日から約2年間工事をしてて閉室中です。代わりに1階の玄関の見学が出来ます。
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赤坂迎賓館 四ツ谷界隈楽々散歩【2】

2018年02月08日 06時00分43秒 | 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】
今日は漫画【赤坂迎賓館〜四ッ谷界隈〜楽々散歩】その2です。







ちなみに、過去記事で今日の漫画にリンクしてるのはこちら。
迎賓館本館内晩餐の間って(2010.9/17)の記事 こちらの記事に彩鸞の間と花鳥の間とチャボの七宝焼きの画像があります。
迎賓館で一番の部屋(2010.9/18)の記事 こちらの記事に朝日の間と天井画の画像があります。
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赤坂迎賓館 四ツ谷界隈楽々散歩【1】

2018年02月07日 06時00分20秒 | 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】
今日から2013年8月の夏コミ合わせで発行した【楽々散歩〜四ツ谷界隈〜】の連載を始めます。
この本は創作同人誌です。2016年10月に完売済。
私の描く創作同人誌は『海外旅行漫画』と『旅先で撮影した画像を使った写真アルバムとおまけ漫画』が中心です。近場を散歩した話にどれだけ読者さんの需要があるかわからなかったので、印刷数を減らした思い出があります。完売して1年過ぎてるのでカテゴリー 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】を新設して掲載することにしました。気に入ってくださると嬉しいです。

四ツ谷と聞いて何を、もしくはどこを想像しますか?
少し前ならば四谷怪談でしょうか?
でも今は日本が国賓をおもてなしする処、赤坂迎賓館です。
数年前までは赤坂迎賓館は一般には非公開でした。その後、郵便申し込みで抽選、当選者のみに特別公開となり、現在は内閣府の一般公開ページからインターネット申し込みに変更されました。定員を超えると抽選により参観者を決定ではありますが、見学しやすくなり観光客には嬉しい限り。
【楽々散歩〜四ツ谷界隈〜】は、2010年と2012年の2度の参観体験をもとに作画しました。この頃は郵便はがきで申し込み抽選時代です。
では早速今日は1ページめを掲載します。
『四ツ谷界隈〜楽々散歩〜』(その1)
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一応最大長辺1024というので画像アップしてみた。セリフがちゃんと読めたらいいけども?どうですか?
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ちなみに、過去記事で今日の漫画ページにリンクしてるのはこちらの記事です。
赤坂迎賓館参観(2010.9/16)の記事
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消防の変遷

2012年09月06日 05時23分03秒 | 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】
江戸時代の消防フロアを見終わり、階下へ。時代が変わると消防の方法は一変します。なにしろ、建物を破壊して火の延焼を止める!という手は使えなくなりますから。
まずはトップ画像。これは二輪消防車(赤バイ)って言うようで。荷台に消化器積んでますねえ。
んで、明治の消防の制服。

消防活動のジオラマもあります。
明治の頃は、消防の機械も外国から輸入してたのですねえ~。これを見てわかるように、日本の火消しは、破壊から水で消火に変わりました。ちなみに、消防ポンプを国産化したのは、明治32年からです。う~ん…。明治32年って、1900年?それまで消防機械一式輸入してたのだろうか?………。明治政府の台所事情が気になるなあ。
こちらもかつての消防の衣装。なにげにおしゃれ。
んでもって今はこう。
うちのマンションの隣に消火栓があるので、消防車が時々やってきます。こういう服を着た人もウロウロしてます。まあ、あんまり近所で見かけたいユニホームじゃないよな。

消防博物館の1階まで降りて来ました。途中、明治・大正・昭和の消防の変遷を紹介するあれこれがあったのですが、撮影してません~。なんかね、子どもが次第に増えてきたの。どうも…。いい遊び場になってるようです。まあな~、クーラー効いてるし、子どもらはあちこちのブースで勝手に遊んでくれるし、子守りしてるお母様方にはここはよい場所字なのでしょう。でも子ども等を集団にして大人の監視なしで野放しにされるとうるさいし、何かと危険なのでさっさか回避しちゃいました。
1階には面白い展示が2つ。
馬ひき蒸気ポンプ

消防ヘリコプター

実は消防博物館には地下階もあります。ここが…。車好きの人にはこたえられない場所なのだ。な~に~し~ろ~…。消防自動車の変遷が見られるのだよ。しかも展示してある車は1/1スケールなのです。
では、張り切って紹介しましょう。


アーレンスーフォックス消防ポンプ自動車

ニッサン180型消防ポンプ自動車
説明文によると、「この車は、本格的国産消防ポンプ自動車の第一号といわれています。昭和16年(1941)に蒲田消防署に配属されました。戦時中は、空襲火災の消火活動で大きな力を発揮しました。戦後も、都民の安全を守り続け、昭和39年(1964)までの23年間活躍しました。
放水量:1700リットル/分
マキシム消防ポンプ自動車
説明文によると:昭和4年(1929)に輸入され、神田消防署に配置されました。小回りが効くことからせまい脇道でも使え、大いに重宝がられて、昭和28年(1953)まで、20年以上第一線で活躍しました。ノーザン・ポンプ社製のロータリー・ポンプを搭載し、当時としては、協力な放水量を誇りました。ややポッテリとしたスタイルは、どことなく愛嬌さえ感じさせます。
出力100馬力 最高速度時速80キロ 放水量2800ℓ/分
イベコ・マルギス梯子自動車
説明板によると:イベコ社のシャシにマギルス社の梯子を載せた車です。昭和58年(1983)に配置されました。バスケット内で操作が可能で、起伏角が水平下まで対応できます。引退する平成12年まで高所からの人名救助や消火活動に活躍しました。
出力:256馬力(188KW) 起伏角度:75度ーー15度 先端許容荷重:バスケット+180kg
他にも数台展示されてます。撮影もしたのですが、手ブレ画像につき掲載を諦めました。んで、説明文も撮影したんですけど…。どれがどの車の説明文だったか…。すみませ~ん。

ちなみに、消防車の乗車撮影会も実施されています。直近は、9月17日(月曜・敬老の日)だそうですよ。
消防博物館は、地下鉄丸の内線の四ッ谷三丁目駅に降りる階段に直結しています。
ってな事で、本日7月28日の散歩はこれまで!歩数はたった16868歩だったのに、疲れ具合はプラス1万歩!!
と。ダンナが…。「そりゃあ、地面からの輻射熱があるからね」
「あ。そうか」恐るべし!夏の太陽~~。もうぐったり…。
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消防博物館

2012年09月05日 05時43分43秒 | 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】
新宿通りに面した四谷三丁目交差点の角に東京消防庁の消防防災資料センター、消防博物館がある。

開館時間:9:30-17:00
休館日:毎週月曜日
入館料:無料!
そうなのです。ここはただで入れるのです。7月28日の炎天下、赤坂迎賓館ーホテル・オークラー大久保利通哀悼碑ー四ッ谷界隈寺社巡りと、いい加減ヘバってきました。ここへ来て、冷房の効いてる博物館はとても助かります。
まずはエントランスにある受付で、入館手続きをして入館バッチをもらってから入ります。
そのままエレベーターで階上の企画展示室へ。
6F/7Fでは消化器の使い方体験コーナーがあった!
もちろんやってみた!もう20年位前、本物の消化器で消火訓練したことありますが、昔過ぎてやり方がうろ覚えです。
今どきの体験コーナーは、燃えてる設定で、消化器を感知エリアへ向けると、赤外線探知機で消化器を正確に使用してることを認識出来る仕組みになってました。う~む…。んでも消化器自体は、40年前とあんまり変わってなかった!あ。うちの田舎では、小学生はすべからく消防クラブに入らされ、消防団の指導の下、訓練が年に1回くらいあります。だから、小学生の間に1回は消化器の使い方実習があったのだ。だから、今回で人生3回目の消化器で鎮火訓練だったのだ。

同じ階で、江戸の判じ物浮世絵がありました。
これはね。ナマズが地震で下手人としてひっ捕えた場面。周りの人間は、地震で儲けてる商人らが減刑嘆願してるのです。日本は昔っから地震が多かったんだね。
さて、階下へ移動します。
5F 江戸の火消しコーナー

江戸時代、火事が起こると大変でした。今と違い、家々は木と紙と土で出来てますから、火にはとても弱かったのです。
この頃の火消しの仕事は、家に水をかけて火を消すことではありません。
延焼する進行方向に先回りして、一斉に家を壊しています。壊すことで、火がそれ以上進まないように食い止める手法を取ってました。破壊消火といいます。
火の見やぐらを所々につくって、火の手を見つけると、火の見はじごを駆け上り、半鐘を鳴らして人びとに知らせます。とにかく生き延びるのが優先なのです。それでも100万都市の江戸では毎年のように大きな火事が起こりました。有名な明暦の大火では、焼死者10万人。江戸の2/3が焼けました。明暦の大火は別名振り袖火事(1657年)、八百屋の16歳になったお七という女の子が放火したのが原因です。まあ、これは作り話が入ってるかもしれんが。
さて、消火に当たった人には武家火消しと町火消しがあります。
これが『暴れん坊将軍』で、吉宗がちょくちょく遊びに行っていため組ですね。

火消しはそれぞれの組で「まとい」を持ってます。各組のシンボルでした。
ちなみに、町火消しは享保年間、大岡忠相が設置。つまり大岡越前つーか、吉宗の時代ですね。いろは48組、深川・両国16組です。

ちなみに、火事が起こると、大名の姫さまたちも火消し装束を着用しました。
  
さて、階下へ移動します。明治・大正に入ると、消防の仕方は大きく変わります。まず、レンガ造りの頑丈な建物が増えて、破壊消防はなくなります。
そこで登場するのが外国から消防の機械を輸入すること。
ってな事で続きは明日。
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長谷川平蔵の碑と服部半蔵の墓

2012年09月04日 05時18分06秒 | 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】
あまりのビッグネーム!!これは歴史散歩のカテゴリーかヒーローカテゴリーか迷ったのですが、今日の記事は長谷川平蔵と服部半蔵以外にも江戸に生きた人を紹介するから、歴史散歩に分類しました。
たい焼き「わかば」さんは、新宿通りから少し入った路地にあります。細い路地を更に南下、約200メートル。その近くに西念寺さんがあります。ここに服部半蔵の墓があります。

あれ?
ええそうなんです。私のブログを長らく読んで下さってる方は気づきましたね。実は「服部半蔵の墓」の記事は今年の春に既出です。それがこちら。
服部半蔵と西念寺(2012年4月19日)の記事 こちらの記事に、服部半蔵と殿、岡崎信康(徳川家康の長男)の墓の画像があります。
今回はダンナを案内したかったので、またまた立ち寄ってしまいました。
四ッ谷界隈は寺院が点在してます。んでもって、坂と谷がある。…まあ、四ッ「谷」という地名からして、谷は予想の範囲。でもうま~く回らないと、降りたり上ったりを繰り返さねばならん!それは勘弁なので、廻る順番を考えて、
!)西念寺 服部半蔵と結城信康の墓
2)戒行寺 長谷川平蔵供養碑

3)宗福寺 源清麿の墓
4)西應寺 榊原鍵吉(さかきばらけんきち)の墓
5)本性寺 萩原宗固の墓
6)お岩稲荷&田宮神社

というラインナップです。これでも絞り込みました。四ッ谷って本当に寺が多いんだもん。
ではさっそく。まずは坂を降りて上がると、そこは戒行寺坂
説明板発見:戒行寺の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺にちなんでいる。(『御府内備考』)。別名「油揚坂」ろもいわれ、それは昔坂の途中に豆腐屋があって、味のよい油揚げをつくっていたからこう呼ばれたという(『新撰東京名所図』)。
画像の奥に見えるのが戒行寺の門です。入ると、トップ画像の長谷川平蔵の供養碑が鎮座してます。
説明板発見:池波正太郎の原作と中村吉右衛門のテレビ時代劇で知られる『鬼平犯科帳』の主人公である火付け盗賊改の鬼平こと長谷川平蔵は、延享3年(1746)江戸赤坂築地中之町(現 港区赤坂6-12)の拝領屋敷で産まれた。姓は藤原、名は宣以。称は初め鉄三郎、後に平蔵といった。寛延3年(1750)鉄砲洲築地湊町に転じ、明和元年(1764)本所三つ目通り菊川町に移った。
父宣雄が火付盗賊改のとき、目黒行人坂の放火犯を捕らえて、京都西町奉行に栄進したが、わずか10ヶ月で急逝した。その後、宣以(平蔵)が家督を継ぎ、西城御書院番や御徒頭を勤め、御先手弓頭から火付盗賊改を兼帯。さらに石川島人足寄場を開設した。軽犯罪者や無宿者を収容して手業を習得させ、工賃の一部を積み立てて、出所時の更生資金に充て、授産所として成功させた功績は大である。
寛政7年、50歳で病没。当山に葬られた。
尚、当山には、鬼平の父宣雄ら5人の火付盗賊改が葬られている。
安倍式部信旨 享保9年2月24日(1724・3・19)卒
桑嶋肥後守政恒 宝暦7年11月10日(1757・12・20)卒
山岡豊前守景之 明和3年2月4日(1766・3・14)卒
長谷川備中守宣雄 安永2年6月22日(1773・8・10)卒
菅沼主膳正虎常 寛政元年4月16日(1789・5・10)卒
ちなみに、現在の戒行寺の本堂は新しいです。
戒行寺の向かいにあるのは宗福寺さん。

こちらには入口に説明板が立ってます。
源 清麿の墓:江戸後期の刀鍛冶の名匠源清麿は、本名を山浦環といい文化9年(1812)信州小諸に生まれた。
はじめ上田の刀匠河村寿隆について鍛冶を学び、天保6年(1835)江戸に出て幕臣窪田清音のもとで兵学を学ぶ傍ら刀工として精進した。
その後、四ッ谷北伊賀町(現在の三栄町の一部)に居を構えて刀剣の製作に励み、名も源清麿と改めた。新々刀(江戸時代後期の刀)の刀工の第一人者として、天保・弘化年間(1830-46)に活躍した。その刀の切れ味は正宗のようだといわれ、「四ッ谷正宗」と呼ばれた。
安政元年(1854)11月14日、42歳で没した。

細い道を西へすぐ。
西應寺
西應寺さんに到着。こちらには幕末から明治にかけて活躍した、最後の剣客榊原鍵吉の墓があります。
榊原鍵吉は、天保元年(1830)麻布広尾に生まれた。
12歳のとき、麻布狸穴の直心影流男谷精一郎門下となり、嘉永2年(1849)には免許をうける。
安政3年(1856)幕府講武所の剣術教授方に登用され、文久2年(1962)には同師範に昇進、元治元年(1864)には下谷車坂の屋敷で道場を開いた。
慶応2年(1866)には幕府遊撃隊頭取となり、上野戦争で活躍するが、明治元年(1868)8月徳川家達に従い静岡に移住した。
その後、明治政府より再三招かれるが断り、明治6年(1873)撃剣会を発足させ、維新後衰退した剣術の再興と普及に努めた。
明治27年(1894)9月11日死去した。
へえ~へえ~へえ~…。

さて、西應寺の先に、闇坂がある。この坂の左右にある松厳寺と永心寺の樹木が繁り、薄暗い坂であったため、こう呼ばれたという。(『御府内備考』)
そこから少しだけ西へ行った所に、本性寺がある。

説明板発見:本性寺は、松戸のある本土寺の末寺(度々花散歩で紹介してる日蓮宗のお寺です。)です。
山門と正面にある毘沙門堂は戦災に焼け残った四ッ谷では数少ない建築物です。双方とも総ケヤキ、釘一本も使わない切組造り手斧削りで、建造年代は元禄頃とされている。毘沙門堂には安置されている毘沙門天像は、もと江戸城本丸にあったもので、太田道灌時代から伝わっているとされ、五代将軍綱吉の側室、春麗院殿の発願により、堂とともに本寺に寄進された。この像は別名「北向き毘沙門天」といわれ徳川家康が北方の仙台伊達氏が謀反を起こさぬよう、北方の守護神、毘沙門天を北向きに安置して祈願したという伝説がある。以来江戸庶民の尊崇を集め、福運財運のご利益が顕在なので開運毘沙門天として一般の篤い帰依と信仰の的となっております。
ちなみに、萩原宗固の墓もあります。
説明板発見:萩原宗固は、江戸時代中期の国学者(1703-84)。市ヶ谷本村町の生まれ。
享保から天明に国学者・歌人として活躍し、門人として『群書類従』を編纂した塙保己一や、老中として寛政の改革を断行した白川藩主松平定信など著名人を養成した。
ちなみに、宗固は四ッ谷左門町・荒木町に居住していた。
次々と歴史の見所が現れるので、足取りも軽い~~。
そんで最後はここ。
 
お岩稲荷&田宮神社です。
ちなみに、お岩神社&田宮神社も再訪です。既出記事はこちら。
お岩稲荷と田宮神社(2012年4月17日)の記事ここに詳しく書いてるので、今回は画像だけ。

はっきり言って、上の記事は自信作です!未読の方はぜひとも一読下さい。
お岩稲荷と田宮神社四ッ谷左門町にあり、ここから約200-300メートル北上すると、本日最後の訪問地消防博物館に到着します。   幕末・明治(日本史) ブログランキングへ
8月20日に脳外科を受診して、どうにも服用してる降圧剤があってないようなので、1個を断薬して、どこまで血圧が上がるか実験しました。
2週間実験して、ほぼ15程上の血圧が上がりました。
そして昨日、やはり断薬したままではダメダということで…。
断薬した降圧剤飲みならず、飲み続けてたもう一つの降圧剤も止めて、新しい薬を試すことになった…。
新しいお薬です。ジェネリック医薬品はありませんってお薬なのですが…。
これ、まずは10mgから始めようってことで、朝晩10mgの服用を昨夜から開始しました。
就寝前血圧を測る…。
久々に、188・102という驚愕数値が出た!
いや~~…。さすがにここまで高い数値を見たのは久々じゃ~。
全然合ってないんじゃあないの??
んでもって翌朝、つまり今朝ね。
起きたら頭痛だった!!
いや~、これも久々だわ~。
脳梗塞を発症する前は頭痛は私の持病でした。もうね、頭痛予報が出来るほど、頭の痛さ具合でお天気予報が可能な程でした。この辛さは、経験者じゃないと決してわかっていただけないのですが、TVの御天気予報なんか目じゃない程、百発百中!でした。
それが、脳梗塞を発症後にはトンとごぶさただったのに…。
懐かしい痛みと共に、新薬は効かないんじゃないか…っと疑ってる私。
取りあえず、今週1週間実験して、来週再診です。
う~む。実験の為には頭痛薬を飲んではいけないのか?それとも飲むべきなのか?そこが問題だ!先生に聞きに行くにも、先生は月曜と金曜しか外来診察してないんだな…。今週は気が重いですわ。ってなことで凹んでます。
あ!!愚痴を書いてる場合じゃなかった!!
おととい9月2日は同人誌即売会COMITIAでした。スペースまでお越しいただきました皆様、ありがとうございました。
んでもって新刊がなくて申し訳ないっ
直前まで果物アレルギーと花粉症の密接な関係・こむら返りは夏の訪れ・ただ今実験中!といった内容でまたまた病気ネタで描きかけてたのですが…。気づきました!これって、元気な時じゃないと、描けない~。体調悪い時に病気ネタは描けんっ!!ならば、差し替えてお岩稲荷と田村神社のような、面白散歩ネタにしようかな?とか思ったのですが、こっちは間に合わず…。結果、なんも新しいものが机に並ばなかったという体たらく…。いけません。反省した!!つ・次はなんとか、仮令ペラくとも、新しいものを机に並べられるようにしますね。
あっ!!そういえば、5月に脳梗塞闘病記・補完なるペラいのを出したんですけど、こちらは2日のCOMITIAで無事に完売しました。ありがとうございました。こういう販売方法は楽なので、次もこの手で行ってみよう~っ!!これなら在庫も怖くないぞっ!!
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大久保利通哀悼碑

2012年09月03日 05時49分59秒 | 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】
ホテル・ニューオータニのはす向かいに清水谷公園がある。ここに大久保利通哀悼碑がある。

今、毎週土曜の夕方に、BSプレミアムでNHK大河ドラマ『篤姫』の再放送中です。作中、大久保利通を演じているのは、お笑いのネプチューンの原田泰造さん。今は大久保正助さんと名乗っているのね。西郷隆盛とは幼なじみ。物語ではこれから活躍していくのですが、史実では明治になって新政府に参加。西郷が西南戦争で自刃したあと、紀尾井坂において、暗殺されました。
あ。説明板発見:贈右大臣大久保公哀悼碑
明治11年(1878)5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に紀尾井坂の変と呼ばれ、人びとに衝撃を与えました。
また、大久保の同僚であった明治政府の官僚達(西村捨三・金井之恭(ゆきやす)・奈良原繁ら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場での周辺であるこの地に、明治21年(1888)5月「贈宇田偉人大久保公哀悼碑」が完成しました。
「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると6.27メートルにもなります。石碑の材質は緑泥片岩。台座の材質は硬砂岩と思われます。
「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人びとの痕跡を残しつつ、この地にたたずんでいます 平成5年3月」
ちなみに、大久保利通殺害の犯人は?
実行犯は6名。5人の石川県士族と、1名の島根県士族でした。
手口はまず乗車してる馬車の馬の足を切って止め、御者を刺殺し、大久保を馬車から引きずり降ろした。斬り掛かり刺殺。16箇所の傷のうち、半数は頭部に集中。つまり、ハナから殺すつもりで実行してます。今でいうテロですね。酷いものです。
清水谷公園には井戸もある。

説明板には:紀尾井町を南北に貫いているこの公園前の通りは、中でも、公園を出て右に上がった交差点の辺りは江戸時代から「清水谷」と呼ばれてきました。尾張屋板江戸切絵図にも「シミズタニ」と記されています。
それは、周囲から清水がわき出しており、通行人に喜ばれていたためといいます。
この清水谷公園の改修に際して、公園の名にちなんでここに湧水を復原しました。 平成14年3月 建替 千代田区教育委員会 とあります。
ちなみにこんなのもあります。
江戸水道の石枡と木樋
江戸時代の水道。四谷門をわたり江戸城内に給水された多摩川上水幹線で、数段重ねた石枡に木樋を繋いでいます。当時は、分水用や水質管理用、揚水用の枡などが設けられていました。画像の石枡は、江戸時代の水道幹線の大きさを示すとともに、当時の都市施設の実態がわかります。

さて、時刻は既に午後1時半。炎天下でございます。
気合いを入れて移動開始!!
まずはJR四ッ谷駅に到着。かつての江戸城の見附、四ッ谷見附の跡に四ッ谷駅は作られてます。外堀の内と外でかなりの高低差があるのを眼で確認するのが楽しいです。
そして、午後2時。たい焼き「わかば」さんで休憩。
たい焼き わかば(2012年4月20日)の記事…こちらの記事に、四ッ谷見付の画像もあります。

炎天下のお散歩は無理は禁物なのだ。ここで体力を回復してから、四ッ谷界隈の散策開始!
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近江彦根藩井伊家屋敷跡

2012年09月02日 05時37分43秒 | 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】
喰違門を抜けると、有名なホテルに着いた。
ホテルニューオータニです。実はここはかつて近江彦根藩井伊家の麹町屋敷があった場所です。

説明板発見:井伊家は外桜田にあった永田町邸(国会前庭一帯)を上屋敷として使用していましたので、ここは中屋敷として使われました。
井伊家は、武勇の誉れが高い家柄で、藩祖直政は、関ヶ原の戦いで徳川家康の軍奉行として活躍しました。慶長5年(1600)近江佐和山に18万石で封ぜられ、慶長9年(1604)直政の子直勝の時代に彦根藩主となり近江国等を領地とし、以後、16代にわたって明治維新まで続きました。石高はほぼ35万石でした。井伊家は譜代大名の筆頭であり、大老職に任じられる名家でもありました。幕末に幕政を動かした井伊直弼は特に有名です。
明治5年、この地は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて「紀尾井町」という町名になりました。
そう言えば、以前都内に残る井伊家のあれこれを巡ったよな…。

井伊家の石燈籠(2008年12月26日)の記事桜田門近くにあった井伊家の屋敷跡。
桜の井(2008年12月26日)の記事江戸の名水。憲政会館の敷地の外に残ってます。
井伊家墓所全体図(2008年12月1日)の記事世田谷の豪徳寺は井伊家の墓所です。
豪徳寺紅葉散歩(2009年12月6日)の記事豪徳寺は紅葉の名所です。
豪徳寺の招福まねき猫(2008年11月30日)の記事豪徳寺はまねき猫の発祥地の一つでもあります。
井伊直弼のお墓(2008年12月1日)の記事井伊直弼のお墓だけでなく、井伊家の墓所には代々の藩主6名の墓があります。
そう言えば、明治神宮もかつては井伊家の下屋敷だったんだよね。
ホテルの庭に、井伊家の屋敷の名残を探してみることに…。

地図ではちっともわかりませんが、ホテルの庭は、急坂の斜面でもありました。びっくりしました。
 
庭には、茶室があります。「なだ万」なんかもあったりして!!
おっ!?有望な石燈籠発見!由来がわかるかも~。
ん??でっかい木がある。これはもしやして~??
旧井伊家中屋敷のイヌマキとカヤ
井伊家の庭だった時代から立っていた木を見つけました!!
説明板発見;カヤ*目通り幹囲294センチ、直径93.6センチ。樹高約17、6メートル
イヌマキ*目通り幹囲268センチ、直径85.4センチ。樹高約21、1メートル
旧牛込門から旧赤坂門までの延長4キロの国史跡江戸城外堀跡には、四谷門のムクノキ、真田濠土手のマツなど、その歴史性を伝える特徴的な樹木が生育しています。その中で、ホテル・ニューオータニ敷地内には、明治時代の伏見宮邸の庭園やスダジイ・タブノキ、クスノキなど巨樹がみられます。
正面のカヤと奥の通路にあるイヌマキの2本の針葉樹は、年輪の測定から200年以上の樹齢を持ち、江戸時代中期の遡ることが判明し、この頃屋敷を構えていた近江彦根藩井伊家中屋敷に生育していた樹木であることが確認されました。
千代田区は、かつて江戸城内や大名屋敷の庭園などに多数の樹木が見られましたが、今はほとんど残っていません。そのなかでこの樹木は、ともに天明年間(1780年代)頃から当地に生育していたもので、江戸時代以来の樹木がほとんど確認されてない千代田区内にあって貴重なものです。 (平成21年4月1日、千代田区指定天然記念物)

またまた石燈籠が登場。どうやら庭のあちこちに石燈籠を配置してあるようで。
って!!
あれ?

この石燈籠の胴に刻んであるのは…。

大猷院殿!すなわち三代将軍 徳川家光の法名!!
あった~~っ!!
よ~く見ると、従五位下井伊兵部大輔の名前も見えます。
全文だと…。
 「東叡山
大猷院殿 尊前
 従五位下井伊兵部大輔
慶安五壬辰暦四月六日 藤原●」
これを解説すると…。
東叡山とは、寛永寺のこと。寛永寺は徳川将軍家の菩提寺で、歴代15人のうち6人が寛永寺には眠ります。
大猷院とは、徳川家光の諡号です。
従五位下井伊兵部大輔とは、井伊直継(1590年2月ー1662年8月)のこと。徳川四天王の一人、井伊直政の長男。
慶安5年は1652年です。前年慶安4年4月20日に家光が死去してます。
遺骸は遺言により東叡山寛永寺に移され、日光輪王寺に葬られました。日光輪王寺にある大猷院廟は慶安4年(1651)の翌年かあら造営され、わずか1年2ヶ月で完成しました。
尊前とありますので、一度は寛永寺、もしくは輪王寺に置かれていた石灯籠なのかもしれません。大名がこぞって石燈籠を奉納したので、その一つだと思います。
などと…。感慨にうっかりふけっていたらダンナを見失った~~~。どこや~~~っ!!!

ニユーオータニの庭は高低差がかなりあり、斜面を降りてしまうと見えなくなるのだっ!!
こういう時こそ文明の利器。携帯電話をかける。
「どこにいるの?」
「一番下~」と言うので追いかける。

普通の人はニユーオータニの建物に感動するのだけれど、今日ばっかりは庭の方が萌え度が高いのです。

庭と反対側のホテルの建物は、屋上に庭園がある模様~。でも次なる目的地は、大久保利通暗殺の碑がある清水公園です。
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赤坂迎賓館外観

2012年09月01日 05時11分27秒 | 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】
今回の撮影画像が前回に比べて少ないのは、コンデジを購入して初めてのテストも兼ねてるからです。公開している画像は、携帯電話で撮影した画像のみ。後はコンデジに撮りっぱなしとなってます。一度画像を確認せねば…と思いつつ、放置してます。
イカンなあ~。精密機器というのは、テストをちゃんとしないと、初期不良というのもあるのでな。
でも面倒臭いんだも~ん。ってな事で放置。
今日は赤坂迎賓館の北側から撮影した画像を載せます。

迎賓館の石畳はゴツゴツしています。…あんまりゴツゴツなので、わざと?だって酷いんです。ハイヒールならば、ヒールに傷がつくレベル。

そう言えば、迎賓館の玄関も国宝でした。どの玄関がそうなのか??

こっちは、道路に面してる入口玄関。あ。参観の入口はこちらではなく、西側です。身分証明書を提示した上で、持ち物検査がありました。受付証は、当選ハガキで変えられます。リストと照合して、ハガキは回収されてしまいました。

迎賓館に続くプロムナード。左右に並ぶ低い木は松です。松って洋館にもマッチするのですね。…確か、皇居の前にも、松が整然と並んでます。これまた綺麗なんですよね。

上の画像の左手は、赤坂迎賓館の和館とヘリポートがあります。こちらは非公開。洋館も公開されてるのは2階のみでして、階下の部屋やホールは一般には非公開となってます。一部、御付きの人の部屋だけ、南面の庭から覗き見出来ました。
さて。赤坂迎賓館参観のついでに、歴史散歩をします。

こちらは、迎賓館の和館の入口。東門です。
門のすぐ先に、紀之国坂信号があります。そこを左折して坂を上ります。
そうなのね、この坂は、江戸城の外堀を越える坂なのです。
ふと、右手に堀が見えました。

江戸城の外堀の名残です。左手の堀は埋め立てられて、現在は上智大学のグラウンドになっています。
埋め立ては、関東大震災の大量のガレキ処理を急いだ時の政府が、外堀をガレキ捨て場に使用したからです。もし江戸城の外堀が今でも完全な形で残っていたら、間違いなく世界遺産に認定されていただろう…。って「ブラタモリ」で言ってたような~。
外堀を眺めつつ渡りきると、江戸城外堀跡 喰違見附がありました。
説明板発見:左手の喰違見付跡は、江戸時代初期の慶長17年(1612)に甲州流兵学者の小幡景憲によって縄張りされたと伝わる、江戸城外郭門のひとつです。
へえ~へえ~へえ~~!!残ってたんだぁ~~!!
感動です。
説明板に戻る:通常江戸城の城門は枡形門と呼ばれる石垣を巡らしたものとなりますが、ここは土塁を前後に延ばして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(城の出入り口)構造となります。
この地域は、二つの谷に挟まれた、江戸城外堀の中では最も高い地形に立地するため、寛永13年(1636)築造の江戸城外郭門に先駆けて、江戸城防御の要として構築されたと考えられます。減債は一部土塁が削り取られているものの、その形状は保存されており、往時の様子を留めています。この遺構は江戸城築城史を捉える意味で重要です。



花の命は短くて(2012年4月10日)の記事こちらに、牛込見附から市ヶ谷見付の間に現在の外堀の様子の画像を掲載しています。注目すべきは高低差です。
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あす、9月2日、創作同人誌即売会COMITIAに参加します。
開催場所:東京ビッグサイト 東5・6ホール 11:00-16:00
サークル名:竹里館出版局(ちくりかんしゅっぱんきょく)
サークル配置:たー19a
ジャンル:旅行 です。

今回は、直接参加サークル3368サークル。委託参加サークル88サークルだそうで。

んで、肝心のうちの新刊ですが…。すみません。ありません。在庫を搬入してます。よかったら見に来て下さい~。

え~、「赤坂迎賓館 参観」で検索をかけると、どうもこのブログ記事がヒットするようです。
それはそれで嬉しいのですが、実は記事を一読してわかるように、あんまり詳しく書いてません。なぜなら、既出記事に詳しいのがあるからです。
それは何か?ともうしますと、2010年9月16日ー9月21日の記事です。
ジャンプし易いように一つだけリンクさせておきますと、
迎賓館本館内晩餐の間って(2010年9月17日)の記事 こちらに彩鸞の間と花鳥の間の画像があります。
こんな感じで、迎賓館の内観が少し分かります。少しというのは、中は撮影禁止なんですね。見たけりゃ、参観申込して当てろ!って事ですね。
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赤坂迎賓館参観

2012年08月31日 05時39分57秒 | 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】
今年の5月、赤坂迎賓館の参観募集があった。すぐに申し込んで、抽選結果のハガキが到着。と。無事に当選。しかもっ!!私が希望してる土曜日の参観に当たりました。わ~~いっ
実は…。
赤坂迎賓館の参観に当たったのは2回目。でも前回はハズレ平日参観に回されてしまい、平日に仕事のあるダンナが行けなかったのだっ!!ここは日露戦争の直後に完成してて、当時、中国遼寧省旅順・大連の旅の直後の赤坂迎賓館参観でした。バッチリのタイミング。なのに一人で行くのはもったいなくて…。なので、今回はダンナにも迎賓館を見せてあげたいと申し込んだのです。

迎賓館の参観で一番いいのは、絢爛豪華な迎賓館の内観が見れる!!
でも、残念ながら、内部は撮影禁止!!なのです。でもそこは、いただきましたパンフレットで補完して、記事を書きました。んでも、これは以前詳しく記事にしてるのでこちらを参照して下さい。
赤坂迎賓館参観(2010年9月16日)の記事
迎賓館本館内晩餐の間って(2010年9月17日)の記事
迎賓館で一番の部屋(2010年9月18日)の記事
迎賓館設立の沿革(2010年9月19日)の記事
赤坂へ遺品館の裏側(2010年9月20日)の記事
迎賓館の盆栽(2010年9月21日)の記事
ちなみに、迎賓館の盆栽に載せてない盆栽を今回新たに撮影しましたので、画像を掲載しますね。
 

 
迎賓館スタンプ(2010年9月22日)の記事

南面の噴水<国宝>


休憩所にはテントとパイプ椅子が並べてあり、飲み物の自販機もあります。暑いから、皆さん一服してから北面へ回ります。
疲れたので休憩がてらパンとお茶で昼食です。
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今日は満月です。
それだけなら珍しくもないのですが、今月2度目の満月なんですよ。月は28日周期なのであることですが、なんたが嬉しい~。
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たい焼き わかば

2012年04月20日 05時04分37秒 | 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】
服部半蔵のお墓と徳川家康の長男・信康の慰霊塔がある西念寺を跡に。
四ッ谷駅方向へ歩く。散歩の最後にお土産屋さんとしてチョイスしたのはたい焼きわかばさん。
や。お土産は私もあっこさんも新宿御苑で既に購入済みなんだけどね。当初に予定してた訪問先なので、計画通りに立ち寄ることに…。
って…。何故に四ッ谷の街はこんなに道が狭くて入り組んでいるのか~
出来る限り近道で行きたかったのですが、結局大通りに出て分かり易い道を行くとこに…。も。疲れてるのに~~。
そんなこんなで到着したたい焼きわかばさんですが、行列が出来てました…。

や。人気店だってことは事前に分かっていたんですよ。でもさぁ~。既に桜の季節だよ?もうたい焼きの季節は終わってるんだから、行列はなくなってるかと思ったんだよねえ。
って、愚痴ってても変えないので、おとなしく行列に参加する。
待つ事しばし…。
ふと、どこでいただくか?が気になる…。近くに公園とかあったっけ??
ブツブツぼやいていたら、私たちの前に並んでいた女性が「わかばさんは店内でもいただけます」
マジでえ~?ラ・ラッキー

わかばさんは、今どき絶滅目前の一丁焼きです。
上の画像を見ていただけるとわかるのですが、たい焼きを1匹1匹別々に焼いてるんですよ。
普通は鉄板に数匹づつ焼くものなんですが…。
焼いてる所を見てるうちに列は短くなって行きます。途中で「アンコ」のビニール袋がありました。
そうなのね。わかばさんはたい焼きのあんこも売ってるんです。300グラム420円。600グラム840円。1キログラム1365円。
私はあんこは自分で小豆まめを買って来て自分好みの甘さと柔らかさに煮て作る人なので、わかばさんのあんこが安いか高いかわかりませんが、よく売れてました。
そしてようやく私の順番が来た。
おやじさん「何個ですか?」
私「2個お願いします。んで、1個は店内で。1個は持ち帰りでお願いします」
と申しましたらば、おやじさんはおもむろにお皿にたい焼きを1個のせてくれました。客はたい焼きを持って奥の店内へ。お茶はセルフですが、ちゃんと緑茶もあってうれしい~~。

客が列をなして来るので、あんまり長居は出来ませんが、散歩のお休み所にはぴったりでした。
たい焼きわかばさんのたい焼きは、あんこの1種類のみ!確かねえ、1匹140円だったかと。お持ち帰りのたい焼きはダンナのデザートに。冷えてても美味しかったらしい。
たい焼きわかばさんからJR四ッ谷駅は徒歩数分。
近くに迎賓館があるんだけど、今日はここまで。

え~と?JR四ッ谷駅って少し変わってるよね?いつかの「ブラタモリ」でJR中央線が甲武鉄道と呼ばれていた時代の散歩をやってた時に見たような~?ん~?ここじゃなかったっけ??でも四ッ谷駅のそばの信号標識って「四ッ谷見付」って書いてあるから、かつては江戸の見附跡を駅にした時の痕跡だと思うんだが…。もう、疲れて頭が回らない。っと。今日の散歩は15時30分!JR四ッ谷駅で終了です。
本日のコース
1)新宿御苑
2)鳩森八幡神社
3)明治の名残外苑散策(樺太国境画定標石・絵画館・御観兵榎)
4)お岩稲荷田宮神社・須賀神社
5)服部半蔵の墓&西念寺
おまけ:お土産処 たい焼きわかば
 以上
これ位のゆっくり散策がいいな。   人気ブログランキングへ
今年の杉花粉の飛散は特殊で、3月7日にとても暖かい日があって、ドカーンと花粉が飛散した。が、その後はピタリと治まり、大雨&大風が到来し、杉花粉も彼方へ吹き飛ばしてくれた。…ハズ。っと思って、一昨日の夜から病院のアレルギー科でもらってきた薬を飲むのを止めた。ところがところがっ!!薬を飲み止めて1日半も経つと、くしゃみ&鼻水が頻発してます。
杉は終わったハズなのに…。犯人はハンノキ類?でもンなハズは…。近所に雑木林はないんだもん。
犯人探しは横に置いておいて、本日朝から再びアレルギー薬の服用を再開しました。効能が現れるまで、どんくらいかかるのか…。憂鬱です。(はあ~)
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お岩稲荷と田宮神社

2012年04月17日 05時43分20秒 | 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】
ある日、新宿区の観光サイトを見ていたら、西念寺に服部半蔵のお墓があると出ていた。
へえ~?
んで、西念寺ってどこにあるの?
地図を検索してますと、近所にお岩稲荷と田宮神社を発見した。
んん?お岩ってもしや~?
地図を眺めていると、近所にある地下鉄駅が、四ッ谷3丁目駅だった。
ん~?四ッ谷でお岩ならば、四谷怪談だったりして?
お岩稲荷の隣に書いてある田宮神社って、もしかせんでもお岩さんに毒を盛ったダンナの名前から来てるの??
気になったので、外苑明治散策を後に北上しました。目印は「左門町」信号…ってナイじゃん!道はどこだっ!!
あ~れ~??
首をかしげてましたらば、近所の親切なご夫婦がたまたま遭遇し教えていただけました。
ラッキー。

狭い場所にぎゅぎゅ~っと詰め込んだ、都会の稲荷。
あっこさんは「ここでは写真を撮らないでおこう」と言ってますが、それでは紹介にならないんで私は写して後、参拝して「ありがとう」とお礼を言っておいた。
あ。説明板発見「江戸時代、文政8年7月歌舞伎戯作者4世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」が世に喧伝され、お岩様庶民の畏敬を受け当山その由緒の所として現在に至ったが、戦災に遭い協議の上本堂を栃木下野から薬師堂を移築再建した。棟礼には宝暦7年とある。
お岩様の戒名は「得詮院妙念日正大姉」。墓は元鮫ケ橋にあったが、現在は移転し巣鴨新庚申塚にある。当堂内にはお岩様御尊○○○され参拝者祈願の対象となる。境内には所縁の井戸、再建記念碑等がある。」
この説明板、平成5年と近い年代に出来てるのに、すんごく読みにくく、一部判読出来ませんでした。説明板なんだから、形とか素材より文章の読み易さを優先して欲しいです。私、あちこちで説明板を呼んでますけど、ここのはランクつけるなら最低よっ。
お岩稲荷の絵馬
 
叶玉叶玉を投入する場所。
お岩稲荷を出たら、路地の向かいにも「お岩稲荷」の旗を見つけた!
なぜに~~?
近づいたらそれが田宮稲荷神社だった。
都旧跡 田宮稲荷神社跡
説明板発見「文化文政期に江戸文化は爛熟期に達し、いわゆる化政時代を出現させた。歌舞伎は民衆娯楽の中心になった。「東海道四谷怪談」の作者として有名な四代目鶴屋南北も化政時代の著名人である。「東海道四谷怪談」の主人公田宮伊右衛門(南北の芝居では、民谷伊右衛門)の妻お岩を祭ったお岩稲荷神社の旧跡である。物語は文政10年(1827)十月名主茂八郎が町の伝説を集録して、町奉行に提出した「文政町方書上」にある伝説を脚色したものである。明治5年ごろお岩稲荷を田宮稲荷と改称し、火災で一時移転したが、昭和27年再びここに移転したものである」
こっちの説明文のが古いけど分かり易いよ。

説明書が置いてあった。希望者は10円支払いとのことだったので、そのようにして頂いて来たのですが、これが楽しく興味深いコピーでした。
寛永13年(1636)田宮岩没。お岩さまが信仰していた屋敷社が「お岩稲荷」と呼ばれるよになり、庶民の人気を集める。
文政8年(1825)お岩さまが主人公の東海道四谷怪談が上演される。
これって、お岩さんが死んで200年経ってから怪談が出来たって事!?
今年が2012年ならば、200年前は江戸時代ですよっ!まさか死後200年経って自分が怪談の主人公になるって…。お岩さん、かわいそう過ぎる。いや、更に迷惑を被ったのは田宮家の人びとじゃなかったのか?
コピーを読み進める。
「お岩というのは、江戸の初期、江戸の四ッ谷左門町で健気は一生を送った女性のこと。その女性の美徳を祀っているのが、お岩稲荷田宮神社である。
お岩稲荷は福を招き、商売繁昌のご利益があり、芸能の成功・興行の成功にはことさら霊験あらたか。さらに最近では交通安全、入学試験にも功徳があるという。」
うわ~、マジかぁ~。私ってばお岩稲荷に参拝する時に「写真を撮らせていただいてありがとう&安らかにお眠り下さい」って手を合わせちゃったよ~。もうっ!!『東海道四谷怪談』のせいじゃっ!!
コピーには「お岩と夫、田宮伊右衛門とは人もうらやむいい夫婦だった。貧乏武家の田宮家の家系は火の車。お岩夫婦は家計を支えるため商家に奉公に出る。お岩は田宮家の屋敷社を日頃から信仰していたおかげで、蓄えも増え田宮家も豊かになった。
信仰のおかげで田宮家は復活したと評判になり、近隣の人びとはお岩の幸運にあやかろうと屋敷社を「お岩稲荷」と呼んで信仰するようになった。評判が高くなり、屋敷社のかたわらに小さな祠をつくり、「お岩稲荷」と名付けた。

時は江戸後期。歌舞伎の戯作者鶴屋南北はかねてからお岩稲荷のことを聞いていた。お岩が死んでもう200年。それなのに未だ町人の間で人気がある。人気のある「お岩」の名前を使って歌舞伎にすれば大当たりするに違いない。」
ゴラァ~~っ!!既に神格化してる女性になんてことをっ!!
でも鶴屋南北は更に酷いです。
お岩があんな善人では面白くない。江戸の人が好む話にするには脚色が必要だ。そして密通事件とか主人殺しで処刑された話などあれこれ利用しつつ怪談話を書き上げたんです。
つまり、東海道四谷怪談は、鶴屋南北の空想で書き上げた脚本なんですね。今なら間違いなく名誉毀損で上映廃止確実です。

時は文政8年(1825)幽霊ものが大流行りになっていた。つまり、歌舞伎の「東海道四谷怪談」は大当たりしたんです。お岩は三代目尾上菊五郎が、伊右衛門は7代目市川団十郎が演じて江戸中で話題をさらいます。
ところで、四谷怪談を上演すると怪我や事故が多いというの、聞いたことありませんか?実はですね。
東海道四谷怪談の歌舞伎は怪談もの。トリックや仕掛けに凝って、道具は複雑。しかも夜の場面だから照明も暗い。江戸時代ならロウソクか行灯でしょうしね。おまけに天井から吊るしものも多い。役者はそんな中で演技するんです。しかも長時間。怪我して当たり前じゃっ!!なのに、役者の怪我さえ演目の怪談にからめて「祟り」として宣伝したんですよ。酷過ぎる~~っ!!

時は明治。江戸の世が終わっても東海道四谷怪談の話は庶民の人気を集めてました。歌舞伎役者は思います。
「四ッ谷まで毎度出かけていくのは遠い。芝居小屋の近くにお岩稲荷を移転してくれ」
これまた強引な…。人間というのは手前勝手なんですねえ。仮にも神様を遠いから近くに引っ越せって言うんですから。ま。日本全国に同じ名前の神社の分社や末社が散在してるのは、似たような理由でしょうが…。
ところが明治12年(1879)に四ッ谷左門町で火事があり、お岩稲荷の社が焼失。これを機に隅田川の畔に本当にお岩稲荷が移転しちゃったんですよ。現在の中央区新川にあるお岩稲荷神社がこれ。ま。隅田川のお岩稲荷の社殿も昭和20年(1945)の戦災で焼失してしまいましたが。戦後、2つのお岩稲荷神社が復活して、結果現在は2つのお岩稲荷神社があるんだそうです。
…役者が今でも四谷怪談を演じる時に参拝するって話を聞きますが、どっちのお岩稲荷に参拝してるんですかねえ。
思いがけず長い記事になりました。さて、次は…。
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