あられの日記

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明治大学に残る登戸研究所の戦跡

2017年03月26日 05時24分19秒 | 歴史散歩
旧陸軍登戸研究所、現明治大学平和教育登戸研究所資料館の展示室の見学が終了。質疑応答&トイレ休憩の後学内に点在する史跡を館長さんのガイド付きで巡りました。

まずは資料館の建物の前身から。上の画像が資料館の建物です。「陸軍登戸研究所第二科が研究施設として実際に使用していた建物で、航空写真から1937年〜41年に建設されたことが分かります。
この建物は戦後に「36号棟」と命名され、長らく明治大学農学部の教育施設として利用されていました。
資料館の前に井戸がありました。

この井戸も当時からあったもの。登戸研究所は丘の上にあり、水の確保は大変でした。後に研究所内で偽札作りが始まると、井戸では水がまかなくなり、丘の下に浄水場が作られました。これも現存してるそうですが、学外にある為見学会では見学してません。
資料館に隣接し、古い構造物が残っています。

かつての薬品庫です。通称「弾薬庫」と呼ばれる建物です。ただ詳細は不明とのこと。明治大学は丘の上にあります。小田急線がある北側が一番低く南に向って上り坂になっています。資料館は明治大学の南に位置してまして、隣接の薬品庫の上は、今は農学部の畑があるけども、陸軍登戸研究所時代に風船爆弾の実験をしていたとか。ついでのミニ知識で、現在専修大学になっている場所で、かつては電波兵器の実験をしていたんだって。なにしろ登戸研究所は11万坪もあり、明治大学が購入したのは5万坪ですから、周囲の土地に登戸研究所のあれこれの痕跡があって当然かもね。
説明板には「外観は台形ですが内部は奥行き約3、2メートル。間口は約2、7メートルの長方形をしており、天井までの高さは約3メートル。壁面にはスイッチやコンセント跡が見られます。
第一校舎の裏手にも同様の倉庫跡が残っています。」と書いてありました。
見学ツアーは資料館の近くへ移動。

今は空き地ですが、ここにはかつて偽札印刷工場がありました。5号棟と呼ばれていました。「残したいと努力したのですが、築造50年を超える木造の倉庫のような建物は、耐震性もなく保存を諦めました」と残念そうな館長さん。いつだったか取り壊す直前に新聞でそのニュースを読んだ記憶があって、行っておけば良かったなあ〜と後悔しました。
跡地にも説明板があった。
説明板:五号棟跡
「登戸研究所第三科で作っていた偽札の「印刷工場」(5号棟)の跡地。5号棟は、1941年撮影の航空写真からも存在が確認される、登戸研究所時代から使われていた最後の木造建築物でしたが、2011年2月、老朽化と新校舎建設のため惜しまれつつ解体されました」

偽札工場(5号棟跡)と偽札を保管する倉庫跡の26号棟跡(こちらも既に更地になってます)の奥に、倉庫跡があります。上の画像の道の奥にあります。現在は農学部が一帯を使ってるので、見学者の立入りは出来ません。かつての陸軍登戸研究所の航空写真と現在の明治大学キャンパスの航空写真を見比べると、この道も私達見学ツアーがいる道も、登戸研究所時代からあります。

上の画像は学生会館前に残る消火栓です。見学ツアーでは見てません。生田駅から資料館に向う時に撮影しました。
説明板発見:旧陸軍登戸研究所関連史跡 消火栓
登戸研究所時代に設置された消火栓です。明治大学生田キャンパスになった今も、当時と同じ場所に残る貴重なものです。すでに消火栓として機能しませんが、旧陸軍の☆のマーク(五芒星)が確認できます。現在は埋もれていますが、もとは図書館前に残る消火栓と同じ姿をしていました。」
館長さんいわく「研究所時代に設置された消火栓は大学内に2つ残っています。しかし学生会館前の消火栓は学生達が蹴ったり遊んだりした為、地面にめり込んでます。ので、綺麗な図書館横に残る消火栓を案内します」と言う事で図書館横の消火栓に移動します。
ちなみに、説明板に赤字でわざわざ「*貴重な戦争遺跡です。大切に扱って下さい」と書かれてるのが涙が出そうですね。運動部の大学生はあんまり昔の物に思入れなさそうだもんなあ。

図書館横の消火栓に到着。トップ画像がこの消火栓です。こちらの消火栓にも説明板がありましたが、学生会館前の消火栓とほぼ同じ。最後に「現在は埋もれている学食棟前に残る消火栓もこの消火栓同様、以前は同じ姿をしていました」だって。壊してしまったらソレまでなので大事にしてね〜。

こちらは図書館前です。現在は大きなヒマラヤ杉が並んでる場所ですが、登戸研究所時代ここは旧本館前の車寄せだった所です。なんとなく現存する道とカーブに名残りがありますが、そうと説明してもらわないと分かりません。

登戸研究所時代から既に70年が過ぎ、ヒマラヤ杉は大木になってます。
説明板発見:旧陸軍登戸研究所関連史跡 旧登戸研究所本館前一帯
登戸研究所の本館は、ちょうどこのヒマラヤ杉並木と現在の図書館との間に建っていました。
1944年(昭和19)年に撮影された写真でも当時の杉並木の様子が確認出来ます。また、写真背景足元に映る円形に囲われた車寄せへのアプローチも、そのままに近い形で植え込みとして残っており、この一帯は登戸研究所時代の名残りをもっともよく残す場所となっています」
説明板には登戸研究所時代の1944年10月に、三笠宮視察で本館前で撮影した集合写真が載ってまして、館長さんが「皆さんは三笠宮さまをご存知ですか?」との質問に、ツアー参加者が「今朝亡くなりました」と答える。
!!!!!ええ〜〜!!そうなの!?
三笠宮様は大正天皇の第4皇男子崇仁親王さまのことです。戦争の時代は宮様も軍に所属していました。
大学の正門へ移動。登戸研究所時代もここに正門がありました。ちなみに、正門前に向ケ丘遊園行きのバスが停まっていました。
正門近くにある動物慰霊碑へ。

実は上の画像は動物慰霊碑の裏側から撮影してます。正面から撮影した画像を帰宅後再生したら、完全逆光で真っ黒になってしまってて使えなかったの。残念。
説明板発見:旧陸軍登戸研究所関連遺跡動物慰霊碑
1943(昭和18)年、研究で用いられた実験動物の霊を慰めるために登戸研究所が建立しました。台座を含め、高さ約3メートル、幅約95センチ、奥行き約15センチの大kさは動物慰霊碑としては国内最大級です
敗戦後、軍により証拠隠滅を図られた登戸研究所ですが、この裏面に刻まれた「陸軍登戸研究所」の文字は、戦時中より登戸研究所がここに存在した事実を如実に語ります」
館長さんのエピソード紹介がありました。「この石碑を建てた費用は、1943年春、当時の首相兼陸相の東条英機から授与された陸軍技術有功章の副賞である金一封(当時の金額で1万円。現在の1000万円相当)が使われました。登戸研究所の前には日々実験動物が山のように積み上げられていたのを見たと近在方の証言があります。副賞を使い、実験動物の為に動物慰霊碑と実験事故で死亡した職員の為に弥心神社(現生田神社)を作りました」

という事で弥心神社に移動です。

説明板発見:旧陸軍登戸研究所関連史跡弥心神社(現生田神社)
「現在は生田神社といいますが、もとは登戸研究所が1943年(昭和18)に建立した神社で、研究(知恵)の神様である「八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)」を祀る「弥心神社」と呼ばれていました。
境内向って右手、1988(昭和63)年に元所員有志により建てられた「登戸研究所跡碑」裏面には「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」という句が刻まれています。これには、一度胸の奥にしまい込んだ研究所時代の記憶を、戦後数十年を経て再びこの丘に立ち、ようやく話し合う事が許された」という万感の思いが込められています」

こちらが説明板に書かれてあった「登戸研究所跡碑」の表面。

こちらが石碑の裏面。
館長さん「以上で本日の見学会のメニューは全て終了となります」
見学会主催の旅行会社の社員さんからも一言。「皆様おつかれさまでした。以上を持ちまして見学会は終了です。あと、関連書籍が欲しい方は、構内の丸善ブックセンターでお買い求めいただけます」
確か、大学内のブックセンターでは割引購入出来たと記憶。本屋の前にまずは腹ごしらえじゃ〜!!

めり込んだ消火栓のある学生会館の隣に食堂があり、一般の人も利用出来るとのこと。上の画像は本日のおススメ。すんごく安かったのは覚えてるんだけど、いくらだったかは既に思い出せない。300〜400円位だったかな?
学食の他にこんなお食事処もあるようで。



食事をしながら旅行会社のアンケートを記入。当初はお昼に見学会が終わるんだから、この後生田緑地へお散歩しよう!と計画していたのですが、頭を使い過ぎました。身体は元気だけど脳みそはど〜にもぐったり。もう帰宅することに。

見学会は2016年10月27日にありました。あれから5ヶ月。こんなに放置するつもりじゃなかった。でも見学会の記事が書けなかったのよ。ヘタれな自分。反省ですね。
コメント
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