あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

高松城の天守閣

2022年08月20日 14時56分50秒 | お城&御所
今はもうない。
生駒氏時代の天守閣は、絵図が古文書によると三重だったとされている。
松平氏時代の寛文10年(1670)に改築された天守は三重5階(三重4階+地下1階)の南蛮作りで四国最大の規模を誇っていましたが、明治17年(1884)老朽化を理由に取り壊されました。
平成17年から天守台修復工事が行われ、発掘調査の結果地下1階部分から58個の礎石が当時のまま現れました。」チラシより
では早速向かうとしよう。高松城の天守へは二の丸から鞘橋で繋がってます。トップ画像です。江戸時代中期末ごろに屋根付きになったとか。現在の橋は明治17年の天守解体の時に架け替えられたもの。大正時代に橋脚が木製から石製に変えられたことが古写真から判明しています。
鞘橋を渡ってると?何か来た!
和船です。内堀を和船に乗って行けるのね。
菅笠だっけ?と葵の御門のはっぴもいいね。
反対側も見所があった。
分かります?画像右手が二の丸跡。画像左手が天守のあるところ。注目して欲しいのは内堀の奥です。これ、何だ?
答え:琴電高松築港駅。琴電の始発駅なので、電車が長めに止まります。お城のお堀と石垣と電車のコラボ画像ゲットです。
せっかくなのでお堀の石垣と電車を切り出してみた。
いよいよ天守閣跡が見えてきた。正面の石段を登る。
何か記憶の景色と違うんだよね?
理由は説明板を見て判明。そうよ。かつての高松城の天守跡にはお社があったんだ。(上の画像の右。上から2枚目の画像)
そして明治に取り壊された天守閣はこのような姿だったらしい。天守の写る古写真復元計画もあるのだけれど、内部がどうなってたかわからないらしい。見取り図とかあれば話は早いんだけどな〜。
鞘橋を見下ろす。
黒鯛の餌やりポイント&水門の奥には瀬戸内海が見える。大きな船も浮かんでてシュールだ。船のせいで現在と江戸が混じってる風景。何気にレア。何度も書いてるけどお城から海がここまで近い場所はそうないからね。さて暑すぎてへばってきたので帰ります。
おや?何かしら〜?
松ぼっくり収集ぼっくす。ナイスアイデア。来場者に松を集めてもらえるとお掃除が楽ですね。
ここは桜の馬場です。往時はこの倍の広さだったとか。この場所が私の記憶を刺激するのは、今より半世紀ほど昔、銀行員の叔父一家が高松に住まいしてたのですが、ここで従兄の幼稚園の運動会があったからだと思う。
艮櫓(旧太鼓櫓跡)。元は現在の県民ホールの敷地内にあった櫓。完成は延宝5年(1677)。月見櫓と同時期に作られた。昭和40年、当時の所有者の国鉄より高松市が譲り受けて2年かけて移築された。(チラシより)
時刻は10時半。本来ならば復元されたばかりの桜の御門の2階の展示室の公開時間になってたのですが、コロリと忘れて帰っちゃいました〜。私のアホ〜!
何やってたんだろう?暑すぎたんや。当然のようにこの日も猛暑日だったのよ。(おしまい)
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高松城の海の大手門

2022年08月18日 10時21分13秒 | お城&御所
海の大手門?なんじゃソレ?ですよね。
高松城は日本三大水城の一つです。そもそも徳川将軍家より中四国を監視すべく松平高松藩として水戸藩より入府した松平頼重が藩主になったお城です。瀬戸内の船の運行を監視する櫓がトップ画像の月見櫓です。なので、お殿様が江戸より戻る際は船で。上の画像の海の大手門の水手御門より帰城してた。現在は海側に道路が出来ており、海からお城には入れません。
月見櫓を近くで見るべく石段を上がる。と?眺めはこんな感じ。
あ。女木島が見える。
小学生の時の遠足が女木島でした。ここは鬼ヶ島のモデルの島とも言われ、大きな洞穴がありました。今は観光開発されてるのかな?私が小学生の時はショボかったけども。
うん。月見櫓に入れない。

がっくりしてベンチで休憩。まだ10時前ですが、真夏の太陽は凶悪で体力がガリガリ削られていきますね。
ちなみに月見櫓は日曜の午前9時から午後3時の間内覧できる模様。私は平日に訪問したので入れなかったです。
かつての武櫓ですかね?外なのでわかりませんが。
何かテントが立ってます。そのそばにガチャポン?見ればガチャポンには魚の餌が入ってる模様。
そう。高松城のお堀には海の魚のクロダイ(チヌ)がいまして、まるで鯉の餌やりのごとくタイに餌やりができるのですよ。
凄いよね?人が来ればクロダイが集まって来るのよ。野生はどうした??
実はクロダイは野生なのだ。野良タイです。んでもって観光客から餌をもらってるという日本全国でも珍しいと思う。城のお堀に海の魚がいる理由はこれ。
水門です。堀は海と繋がっていて、潮の干潮による水位調節のため水門が設けられてるのだ。ちなみに、有料ですが上の黒鯛に餌やり出来る場所からお堀に和船で遊覧することも出来ます。誰のアイデアなんだろか?ナイスアイデアだ。(続く)
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高松城の重要文化財披雲閣

2022年08月17日 10時35分30秒 | お城&御所
説明板発見:披雲閣 平成24年重要文化財指定
松平藩時代にも、この地に披雲閣と呼ばれる広大な建物(現在の披雲閣の約2倍)があり、藩の政庁及び藩主の住居として使われていましたが、明治時代に老朽化のために取り壊されました。その後、松平家第12代当主で貴族院議長も勤められた松平頼なが氏により、3年の歳月と当時のお金で15万余円の巨費を投じて現在の披雲閣が大正6年(1917)に完成しました。この豪壮な和風建物には142畳敷の大書院を初め、槙の間・蘇轍の間などの雅趣を生かした各部屋があり、波の間には昭和天皇・皇后両陛下がご宿泊になられたこともあります。
昭和29年(1954)に城跡とともに高松市に譲渡されて、現在は会議・茶会・生花展などの会場として利用されています。」
時刻はまだ10時前だからかな?入口が閉まってます。
中は見れそうにないので、周囲を迂回するように進む。
古いロマンガラス。
お、蘇轍です。ということは奥のがソテツの間かもしれないね。
何かある。説明板発見:銀閣寺型手水鉢 幅と奥行きは約1、5メートル。高さが2メートル。水穴の直径は約90センチで、深さは約40センチ。重さは約11トン。
相模原在住時代、明治の邸宅を見物し回りましたが、明治のお庭は巨岩がポイントです。どこからどれだけ大きな石を運んできて庭に設置したか、どこもさりげにいやこれみよがしに設置した庭も多いんだよね。ここの石は敷石かな?大きいです。
あ。2階もあるんだ。そんでガラス窓も大きくて一杯です。巨額を投入して建てたというだけありますね。
さてと?大正6年に建築された披雲閣は庭園もありまして、同じく大正6年ごろに作庭された枯山水の庭です。

けど庭は今回はチラ見で済ませました。
次の目的地は月見櫓です。昨日の記事で紹介したように高松城は日本三大水城の一つ。月見櫓は藩を出入りする船の監視や江戸から船で戻ってくる藩主を望み見たので「着見櫓」とも言われています。(続く)
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高松城の陳列館

2022年08月16日 15時02分24秒 | お城&御所
高松城や歴代藩主の文化財や史料が展示されています。
朝から難しいことは読んでられない〜。
まずは江戸城における高松松平家の位置。上の画像の一番上。譜代・家門。臣下最高の座席になってます。
で、高松藩はなぜに生駒家から松平家にお殿様が変更になったか?
生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、寛永17年(1640)に生駒騒動と言われる御家騒動により、讃岐一国を召し上げられ、出羽国(秋田県)矢島1万石に移されました。
この後、寛永19年(1642)に当時常陸国(茨城県)下館藩主だった松平頼重が東讃岐12万石の領主として入城しました。
頼重は徳川家康の孫で、徳川光圀(水戸黄門)の兄にあたります。将軍家と近親の関係にあった頼重は中国・四国の監察役を命じられていたと言われています。
頼重以降、松平氏の治世は11代228年間に亘り、高松は松平氏の城下町として栄えました。
系譜です。右側をよく見ると、家康の息子の徳川頼房が水戸藩主。頼房の長男が頼重で弟が徳川光圀です。東京の後楽園は光圀がこだわって作った庭園で。兄を差し置いて弟の自分が水戸藩の藩主になったことの悩みが滲み出た場所がありましたが。上の系譜を見ると、光圀は息子の頼常を2代高松藩主に据えてます。で、高松藩主となった兄頼重の息子の綱方を水戸藩にもらっています。この辺りはTBSドラマ「水戸黄門」で何度も黄門様が高松目指して旅してた理由ですね。
ちなみに系譜を見れば、高松松平家に水戸藩の家系の殿様が何人もいるのがわかります。黄門様の未練が後の世まで影響してるのね。
トップ画像はありし日の高松藩の見取り図。城の際まで海が迫ってます。日本三大水城の一つです。
こういう立地なので現在のお堀に海の魚の黒鯛が泳いでる訳だ。
ちなみに高松城に天守閣は現存してません。
復元計画はあるようです。復元するとこんな感じらしい。お城は明治3年に廃城許可が降り、一時政府の所管となりました。この時代に高松城の中心部は陸軍の所有となり、天守を始めとする多くの建物が取り壊され、外堀は埋め立てられ市街化が進みました。
明治23年(1890)に再び松平家に払い下げになり三の丸に国の重要文化財に指定ている披雲閣が建設されました。
さてと?外に出たらまたも盆栽がありまして。
販売してる商品だった。一鉢2000円から。
勤めてた頃、最寄駅はJR鬼無駅でして。そこここの田んぼに松が植えられてるのを眺めつつ自転車を漕いでました。全国的には珍しい光景だったのか。

お盆が終わりようやくパソコンに触れる時間が出来た。大変だった。
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高松城の桜御門復元

2022年08月13日 15時15分55秒 | お城&御所
復元公開は2022年7月16日。つい先日のことです。
説明板発見:桜御門
桜御門は、御殿である披雲閣の正門の当たる櫓門です。節句や行事の際に桜の幔幕が架けられました。
築城当初から数回の建て替えを経て、明治維新以降も残存した城郭建造物で、昭和191944)年には国宝に指定されることが内定していましたが、翌昭和20(1945)年の高松空襲で焼失してしまいました。
市は復元を目指し、2014年度から石垣を積み直し復元工事に着手。
復元された門は、幅約12メートル。奥行き約5メートル、高さ約9メートル。鯱鉾がついた瓦屋根には漆喰が塗られ、巨大な梁や柱で櫓を支えている。
何しろ時刻は平日のまだ9時を過ぎたところなので観光客の姿はほとんどなく。
こんな画像もゲット出来ました。
あれ?
桜御門の2階に展示室があるんだ。けど時刻がまだですねえ。
待てないので先に他を見学です。
この先は陳列館か〜。楽しみ〜。♪じ〜んせい、楽ありゃ苦もあるさ〜。
行ってみよう!
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深大寺城へ

2017年10月14日 06時14分46秒 | お城&御所
2017.10.1訪問。10月1日は東京都民の日で、都が管理してる公園や動物園・水族館などの施設入園料が無料になります。ってなことで、神代植物園へ行こう!と京王線布田駅から徒歩で向かいました。旧甲州街道からおよそ1キロちょいで、深大寺の参道につくはず。実は今まで深大寺や神代植物園に行く時は、調布駅からバスを利用してました。でも乗車時間が短かった気がして地図を確認したら近い近い〜。こんなの、バス待ちの時間で着くんじゃないの〜??ってなモノで国領神社さんで10月の千年の藤の様子を確認したら出発です。トップ画像は国領神社さんの境内の外の旧甲州街道の様子。街路樹が素敵でしょ?上の画像に写る下布田信号を右折。三鷹通りを道なりに北上します。

野川を越えます。確か、野川の水源池は国分寺市の日立研究所の池で、池から流れ出す最初の流れを見たことあるし、野川沿いは散策にもってこい!とか聞いたことあるので、いつか川を追いかけて散歩してみたいなあ〜。

道路沿いの民家の花壇の黄花コスモスに蝶々。なぜかシャッターを数枚切っても全く逃げなかったので、ガラパゴス携帯での撮影でもピントのあった画像をゲットできた!ラッキ〜!!

道路から、茅葺屋根が見えた。茅葺も素晴らしいが、屋敷守りの大木の存在感がすごいっ!あれは??保存公開されてる古民家かしら〜??

んん??
もしや、ここ、現役のお家なの?なんか、住んでる人がいらっしゃるみたいだ!!現役の民家だったことに大分驚いた。あ。個人宅だと勝手に敷地内に立ち入りできないから遠目で見物しましたが、茅葺屋根に鳩が数羽休んでます。茅葺屋根と鳩をアップに、屋敷守りの大木を背景に撮影してみたかったなあ〜。

道の向こうに、絵になるお家を見つけました。この先、中央フリーウエイをくぐります。この辺りで上り坂。バスに乗ってた時には上り坂がるとは知らなかったのに〜〜。
さて?実は道路の左手奥に、チラチラと神代植物園の水生植物園が見えてます。お米が実り、重そうに頭の垂れた稲穂も見えます。道路からどうにか行けないか?と。脇道を探したのですが、見つからないまま深大寺小学校が見えてきました。バスで調布駅から深大寺を訪問する際の最寄りバス停になります。深大寺小学校前の信号を左へ。

信号の側に満開のソバの花。

深大寺小学校の石垣はとても素敵でしょ?石垣ファンなら一見の価値ありでしょ?

深大寺そばのお店が見えてきた。店の庭木がほんのり色づいてます。今年は寒かったり暑かったりと日替わりだからさ。気の早い植物が早くも紅葉の準備に入った模様です。

神代植物園の水生植物園に到着。
あれ?ここにソバ畑がある!私のブログを日々チェックしてくださってる方はご存知ですね。9月29日に、町田市の七国山で大きなソバ畑で満開の白い花を見たばかりです。だから私的にはもうソバ畑は今年はもう十分なのですが、旦那はソバの花を見たことないんじゃないか?と思い、寄り道しました。

町田のソバ畑に比べて随分小さな畑ですが、タイミングはバッチリ!

吸蜜に夢中の蝶々が、こちらを全く気にする様子なく、寄りで撮影できました。
ところで、ソバ畑のある場所は、かつての深大寺城の跡。天文6年(1537)に廃城になった城です。鉄砲伝来以前の城に天守閣も頑丈な漆喰塀も必要なく、おそらく木製の屋敷があっただけじゃないかと?ソバ畑の画像の左手に、2棟の建物の遺構が復元されています。
見た目は芝生広場なのですが、よく観察すると、奥にかつての城を防御してた土塁が周辺に復元してあったり、広場の南に空堀と土塁が復元してありました。

実は、空堀を撮影する時に、携帯のフォト画像の設定を変更してしまったようで、画像取り込みできません。

唯一、空堀と土塁の画像は普通のサイズで撮影してあったけど、やっちゃいました〜〜!!
画像がないので、深大寺城の詳しい記事を書くのを諦めた〜。現存・復元・公開されてるのは、主郭の東西が50メートル、南北が90メートルほどです。南側に一郭・三郭もありますが、こちらは雑木が多くてかつての面影はほとんどありません。でも一郭のかつての虎口付近に「深大寺城」の城址の石碑が建っています。かつてここがお城だったことを想像させるそれらしいものはこれくらい。
歴史的には、この城はかつては北条氏が相模から武蔵へ進出するのを防ぐために、扇谷上杉氏が築いた城だった模様です。しかしご存知のとおり北条が覇権争いに勝利して、扇谷上杉氏の城は不要になり廃城。小田原城の防衛ライン構想からも外れたため、逆に遺構が戦いで壊れることなく残ったんだって。縄張りとか好きな人にはおススメの城かもしれん。扇谷上杉氏ってさ、確か太田道灌の仕えてた家じゃなかったかな?太田道灌の優秀さに嫉妬した家臣らにそそのかされて、道灌を暗殺しちゃったせいでその後すぐ北条氏に滅ぼされた気がする。
さて?先を急ぎたいので、深大寺城の一郭から腰郭へ降り、南奥から神代植物園の水生植物園へ降りましょう。
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世田谷城跡

2015年12月29日 06時17分55秒 | お城&御所
2015年11月19日に世田谷の豪徳寺へ紅葉を見に行きました。ところが、ご存知のように11月が暖かかったので期待のように紅葉は楽しめず、がっかり。そこで世田谷の歴史散歩をする事にしました。
まずは
世田谷八幡宮です。
天文15年(1546)、吉良頼康によって創建された神社で、吉良氏領内第一の格式を誇っています。また、世田谷城西方の守りを固めるための「出城」としての機能を合わせもっていたともいわれています。
世田谷八幡の参拝は何度目だったかな?小田急線豪徳寺駅から豪徳寺を訪問する途中にあるのでその都度立ち寄っています。記事も別建てで既出なのでサラリと。
その後豪徳寺へ立ち寄り。がっかり~。
一応歴史散歩なので軽く解説すると「豪徳寺の前進は弘徳院と称し、万治2年(1659)に没した彦根藩主井伊直孝の菩提を弔うため建てられたもので、寺名は直孝の法号にちなんでいます。
井伊直孝の墓所
その一角にある井伊家墓所は、広大な敷地に大型の墓石が並ぶ都内でも屈指の大名墓所で、2代藩主直孝をはじめとして、13代藩主直弼など6人の藩主に加え、江戸で暮らした正室や側室、子息、子女らが埋葬されています。
井伊直弼の墓所
北側の一角にある藩士の墓石も含め、総数は303機を数えます。
井伊家の墓所所在図

豪徳寺に隣接するようにあるのが世田谷城跡です。
説明板発見:世田谷城跡 都指定旧跡
世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に貼り出した舌状台地の先端部に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入る。14世紀後半に吉良治家が居住したのに始まると伝える。
吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。はじめ鎌倉公方に仕え、15世紀後半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰・太田道灌に与力し、16世紀には北条氏と結んだ。
北条氏と上杉氏との勢力争いで、享禄3年(1530)には世田谷城は攻略されたと伝えるが、のち吉良氏の手に復した。
この間、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、この庇護下にあったが、天正18年(1590)、豊臣氏の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。
世田谷城の濠・土塁の構造は天文6年(1537)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており、16世紀前半に防御の為、大改革がなされたことがうかがえる」
う~む。ビッグネームが一杯。
せっかくなので土塁の上を歩いてみる。あれ?

じ~~~~っ!!
これさ。確かに石の削り出しはタガネを使った昔っぽいけどさ。石垣組んだの最近じゃないの?隙間がほとんどない。上の木の根が石垣の向こうの土の中にあるならさ。この石垣の隙間のなさは不自然だしさ。
だいたい戦国期の城なら戦う為の城だから、濠(空堀・水堀どっちもあり)石垣を築いて防御までは普通。でも眺望を確保すると考えたら植物は邪魔。現状あちこちに雑木がある。ならさ。石垣もそれなりに時代を帯びてるはず。表面にコケがない。しかも谷積みって…??なんか、変だよね。まあ、専門家じゃないから詳しくは分からないけどさ。

そんな世田谷城跡は、実は住宅街にあります。しかも豪徳寺ーー。
不思議な空間に身を置いてる感じが凄くしました。
ちなみに今日の記事の中の歴史由来の文章は、世田谷城跡に立ててあった説明文のまま引用しました。

今gooのアクセス解析がお試しで出来まして、私のブログのどの記事が読まれてるか?とか検索キーワードが分かるのです。
興味をひかれ検索キーワードのページをクリックしたところ…。
12月28日の検索キーワード 1位から5位が【満鐵 (特急)あじあ号 現存】10PV
6位降圧剤 風邪薬 2PV 8位葛根湯 高血圧 2PV 9ツムラ葛根湯 血圧の薬2PV
といった具合です。特急あじあ号は中国の大連市で見たあれです。なんだろうか?鉄の人が検索かけたのかな?ありがたいことですね。随分前の記事なのに。
もう一つのポイントは「高血圧の人が風邪を引いた場合、気軽に飲める市販の風邪薬がない」って事です。これさ、風邪ひきでヘロヘロな時に薬局の棚に並ぶ風邪薬から、高血圧患者が飲んでいい風邪薬を探すのがどれだけ苦痛か~~!!実感されている人が多いのですね。
私的解決策は、薬剤師の常駐してる薬局だったら自分の症状と服用してる薬を言ってお勧めの風邪薬を購入すればいいかと。
や、実はもう決めていて、風邪の引き始めなら葛根湯。しかも即効力のあるドリンクボトルタイプ。ここで風邪の症状が納まったらもうけもの。
しかし風邪の引き始めで症状が納まらなかったら小青龍湯と決めてるんだけどね。これで大概いけるから。
しかししかし、そんなの専門家でもない私の事は信じられない~!と思うよな。
解決策になるかどうかは分かりませんが、NHKの「きょうの健康」のご意見・ご要望欄に投稿してみました。
「高血圧患者が飲んで良い市販の風邪薬」について放送して下さい。みたいな感じで。
私の風邪薬を飲んで陥った体験談も書き込んでます。
NHKなので市販薬の製品名を放送出来ないかもしれませんが、きょうの健康はちょくちょく高血圧の特集してるからいけるかも?放送してくれたら嬉しいのですが。
番組は健康な人がこういう話題なら視聴率が取れるかも?と作ってると思う。でもさ、実際の患者さんが切実に求めてる事と放送内容は乖離してるように思います。だいたい解説してる先生もお話を聞く司会者も患者じゃないから求めてる事が分からないんだよ。実際の患者さんが求めてる事を教えてくれよ~。
さて?取り上げてくれるといいな。
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江戸城の石垣

2014年10月30日 12時13分41秒 | お城&御所
宮内庁の雅楽演奏会は、東御苑の楽部で開催されました。終了時刻は午後4時を回ったところ。
来た時は既に行列が出来ていたので、御苑の中は見てなかった。東御苑の閉園時刻は午後4時半。あまり時間がないけれど、馬場先濠でうっかり目撃した石垣の清掃風景に、石垣スキーの萌えが刺激されてしまいました。かる~く石垣見物をします。
まずはトップ画像。これが旧江戸城の天守の土台の石垣です。うまい具合に人物が入ったので、石の大きさも測れるというもの。

続きましては汐見坂から白鳥濠の石垣を撮影。
これね、見たらわかるように石垣の組み方が違うのです。

彫り跡の残る石。

こんなんでよく崩れないよね。日本の石垣って凄いわ~。
一方汐見坂の北側の石垣は?

きっきり隙間無しに組んであります。でも石垣の形は揃えてないんだな。どうやって石垣作ったのだろうか?

秋の日暮れは早くて。既に画像が暗くなっていたので明るさ補正かけました。美しい石垣でしょ?

白鳥濠の高い石垣を横目に出口へ急ぎます。外国人観光客の一家が、二の丸庭園に向かおうとして、「NO.クローズ」と止められてました。

百人番所が近づいてきました。そばの石垣の隙間から、植物が生えてます。馬場先濠の植木屋さんが取り除いていたのはこういう奴ですね。これ、放置すると石垣を壊してしまうのだ。
東御苑の受付が近づいてきました。ところが~~、行列が出来てます。
御苑は入る折りに入園票を受け取り、出るときに入園票を返却する仕組みなのですが、窓口が一つなので込み合うのですよ。
そんなこんなで閉園時刻を回って追手門を出てみると、夕空が広がってました。

これは~、もしかして巽櫓のとこ、いい撮影ポイントなんじゃ??
急いで移動したのですが…。

ゴラァアアアアッ!!お濠の水草が邪魔っ!!
せっかくいい感じに夕空が水面に映り込んでるのに、台無しです。…まあ、水草が雲に見えないことも…。イヤ!!自分に嘘ついちゃいけないわ。やっぱり水草がなければもっといい写真になったハズです。残念。
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皇居蓮池濠全景&乾濠

2014年04月22日 05時19分03秒 | お城&御所
今日で4月4日-8日まで特別公開された皇居・乾通りの通り抜けイベントの紹介はおしまいです。
まずトップ画像は、蓮池濠の全景です。乾通りの通り抜けは、ゴールが乾門へ抜けるコースと、途中で東御苑の本丸広場へ抜けるコースに別れます。トップ画像は本丸へ向かう西桔橋の上から撮影しました。

もう一枚同じ場所から。

この画像の左奥に人が写ってますね。ここから蓮池に向けて撮影しました。見所はもちろん蓮池の石垣です。

道灌濠を乾門へ進むと、すぐあったのがこの交番。皇居内にはこういう簡易交番があちこちに設置されています。皇居参観コースに申込みますと、参観者が交番の前を通り過ぎると、無線で報告してるのを見ることもある~。

こちらはトップ画像を撮影した同じ橋の上から、反対側の乾濠を撮影しました。簡単な石垣だけど、綺麗だよな~。

乾通りへ戻ります。

ゴールが近づいて、乾通りはますます混雑しています。

もう大変っ!自力でスピードアップは無理~。流れに身を任せるんだっ!

振り向いて、本丸広場へ続く橋を撮影。このアングルも石垣綺麗でしょ?

あ。乾濠の奥に見えるのは、乾濠と平川濠を分ける北桔橋門からの橋です。このアングル、桜が見頃だったら綺麗だっただろうねえ~。
さて、乾門が見えてきました。こっからアレを抜けるまで何分かかるのか…。

乾通りを抜けたのは、11時50分!…もうね、数百メートルを抜けるのに、どんだけかかったかは気付かないふり!でいきますっ。



実は、乾門を抜けたら、まだ見頃の続くしだれ桜が迎えてくれて、せっかくなので記念撮影をやってみた!
さ~て。乾通り通り抜けにどれだけ時間がかかるか分からなかったから、この後どうすっかな~?
「取りあえず、見頃は過ぎてるらしいけど、千鳥ヶ淵を散策してJR市ヶ谷駅へ向かう?」と。相談して、西へはけました。
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皇居・蓮池濠と道灌濠

2014年04月21日 05時22分26秒 | お城&御所
4月8日、公開最終日に友人を誘い皇居の乾通り通り抜けの一般公開を見に行きました。
昨日は入城するまでの行列中心で記事を書きましたが、坂下門の石垣が見事だったので、石垣好キーの萌えが目覚めてしまいましたっ!私の石垣好きは、寺院やレトロ建物を巡った時に、石垣に見とれる事も多いので同行者の苦笑を誘う事も多いのです。
しかし、乾通りに隣接する蓮池濠の向こうに続く石垣は凄いなあ~。高さが凄い!長さが凄いっ!!あの石垣の上には、かつて江戸城本丸がありました。かつての大奥もあったのです。乾通りは石垣好キーには見とれる程素晴らしい~~っ!!
しか~しっ!!立ち止まってうっとり石垣を愛でてわれる程乾通りの一般公開は甘くないんだな。だって、通りはこれだもの…。

まあ、石垣に萌え萌えやってる人はまずいないので、石垣撮影には問題ないんだけどね。つー事で、今日は石垣中心で画像を選んでみました。



石垣の向こうに富士見多聞が見えます。江戸城を偲ばせる建造物は殆ど現存してないのです。本丸では富士見多聞と富士見櫓。あと天守台の石垣しか名残りがないんだよな~。

山下通り。皇居一般参観コースでは、宮殿沿いに進み、上の画像の山下通りの奥から手前に参観者は進みます。

乾通り脇には、所々警官が配置されています。と?ン~?
老親を連れたオバさんが、警官にSOSしてます。「すみませ~ん。親が調子を崩してしまってぇ~」その声に気付いた(オバさんは警官に何度も声をかけていたのですが、何しろ人が多過ぎてなかなか気付いてもらえなかった様子)警官は、ハッ!!となり「このままお待ち下さい」と言いおいて猛スピードで走り去って行きました。何がどうなぅったのか?気にはなりますが、もう振り向くのも嫌になる程に人並みです。流れに身を任せ前に進むのが一番スムーズなのね。

この人の多さだから、歩みはノロノロのままです。あまり進まないうちに、前方からパイプ椅子を持った警官が走りーー抜けていきました。先ほどのオバさんにSOSを求められた警官だったのね。ちなみに、宮内庁の庁舎があった広い場所に気分が悪くなった人用にテントが設置されていますが、最早戻るのは困難です。っという訳で、通りの側の芝生で、パイプ椅子に座ってる体調を悪くした高齢者や妊婦の姿がチラホラありました!この機会に皇居に入って見たい!という欲望もわかりますが、この状況に耐えうる自信がないならば、きっぱり諦めて通常の平日に開催されてる皇居一般参観で満足する事をおススメします。あっちは平日の午前・午後に開催してて、1回の定員は確か300名だから体力に自信がなくとも楽勝です。

あまりのノロノロペースにじれたのか?外国人の若いお嬢さんが、芝生の入って「(母国語)こっちはすいてるわよ!アナタもこっちへ来なさいよ!」みたいな事を彼氏に勧めてます。呼びかけられた彼氏は「(母国語)何やってんだっ!戻って来い!」みたいな感じで彼女の暴挙を咎めてます。おそらくスペイン語だと思うんだが、意味はわからない。けれど状況と声の調子から予想はつく。やり取りを数回繰り返した後、彼女は芝生から行列に戻りました。やっぱ、大人しく行列する大勢の日本人の視線には耐えられなかった模様…。日本人は無言てプレッシャーかけるからな。若いお嬢さんにはそう耐えられまい。
やがてもう一つの江戸城の遺構、道灌濠に近づいて来ました…。

だ・大丈夫かしら~?行列の進むスピードが、更に遅くなったんだが…。
午前11時25分撮影
上の画像の札には、道灌濠と書かれています。道灌は、太田道灌に由来しています。

この辺りはまだ桜が綺麗だったので、桜の乾通り通り抜けを楽しみたくて行列に並んだ人はぜひとも撮影したいよな?つー事で、私も混じってみた。
警官が「立ち止まらないで下さ~い!撮影したら、素早くその場を後ろの方に譲って下さ~い」と注意しています。そうだよな。携帯だけ人並みの間に突っ込んで、真っ黒な携帯画面に構わずシャッターを切ったのがこれ。

や。何て事はない枝垂れ桜の画像なんだよ。ンでも、そこは思い出が欲しいじゃない…。
ちなみに、頭の上はこんな感じです。

アハハ~。人並みも写り込んじゃった…。もう携帯の画面を見ないでシャッター切ってるからな。
つー事で、桜はほっといて、私の萌えに戻って道灌濠の撮影を。

そっちを主眼に撮影してる人はまずいないので、結構らくに撮影出来ました!

撮影が済んだらば、次は乾濠ですっ!!(誰も喜ばない石垣好キーが再発動!)だって、道灌濠に石垣はなかったんだもん…。(色々楽しみ方を間違ってる私…)
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太閤の一夜城

2014年01月04日 06時00分31秒 | お城&御所
太閤、つまり豊臣秀吉の天下統一の関東攻めのキモとなったのが小田原北条氏の本拠小田原城攻めです。
天正18年(1590)4月、関白豊臣秀吉は率いる諸大名水陸合わせて22万で包囲します。
って、以前から疑問だったんだよね。石垣山一夜城は、中々ギブアップしない小田原方をして「もうダメだ!」と心を折る決め手になった戦略の要だった訳です。小田原を散策していて、一夜城ってどこにあるの?見えないじゃん!と。
今回一夜城を初訪問。本丸の物見台から小田原城が見えました。それがトップ画像です。
今では大きなビル等に埋もれるように小田原城天守閣が見えます。
トップ画像の矢印の先に天守があるのですが分かりますか?
これでも携帯電話で目一杯拡大して撮影した後、IPhotoでトリミングしてます。小田原城と一夜城は直線距離で3キロあります。
3キロ離れてたって、一目見てギブアップするものなの~?とはなはだ疑問だったのですが…。ガイドさんが見せてくれた往時の一夜城の姿を見て納得しました。

これが一夜城の姿です。
対する小田原城は今の天守閣や漆喰と瓦屋根の乗った櫓で出来た姿ではなく…。しいていうのなら『隠し砦の三悪人』にでも出てきそうな木製。平屋の室町の屋敷でしかありませんでした。
こんにちの私たちが想像するお城が一夜にして現れたら、そりゃあ魂消るよな。つまり当時の北条一族からすると、トップ画像の小田原城が敵方の本陣がある視線の先の山の上に突然出現したに等しい。
ギブアップもするわ~~~。
戦いを劇的に展開する素晴らしい演出家でもあった秀吉は、豊富な財力・兵力をつぎ込んで城を作りました。ンでも完成するまで建築現場を悟らせなかった。小田原城側は目隠しの木があったのです。さあ!という時になり夜の暗さを利用して目隠しの木を一斉に切り倒し…。翌朝バーンっ!と最新式の城を出現させる。

それに攻め手の豊臣方の軍勢には、兵糧もふんだんに用意されて、小田原方を包囲してる…。
しかも包囲してる面々は、徳川家康らが東海道を豊臣秀吉と共に進み、前田利家・上杉景勝率いる北国勢が上野国(群馬県)から北条の領地に侵入。長宗我部元親・九鬼嘉隆らの率いる水軍が兵員・物資を搬送し、海上を封鎖。これがゲームなら、「詰み」ですわ。
それでも北条方は6万人が中世最大規模を誇る小田原城に籠もり、3ケ月に渡り攻防戦を繰り広げました。

本丸(本城曲輪)から太平洋を望む。

画像はかつての本丸跡。奥に見えるのがかつての天守台。今はなにもない。
さて、巻き巻きでガイドさんは歴史ロマンに浸る私たちを先をせかします。何しろ小田原宿観光周遊バスは30分に一度しかやってきません。1時間で一夜城を案内しないといけないんです。
本丸の跡は下り坂。またまた酷い道を降りて行くと、

西曲輪が現れました。かつて淀君を始めとした武将達の側室が一時暮らした場所です。
ガイドさん「秀吉は筆まめな男でした。秀吉は奥方・北政所に手紙を送っています。曰く「配下の大名達に一夜城の側室を連れて来るように言った。ついては自分も淀君をよこしてくれ」と。確かに位置からしても安全に守られた場所ですね。
さて、もう少し下ると
南曲輪がありました。
ガイドさん「この石に落書きが残っています」

ガイドさん「加藤ーーと刻まれています。加藤清盛は小田原攻めには参戦してませんが、一門の誰かが刻んだらしいですね」

アップで撮影してみた。判読出来なかった…。
さて、一夜城巡りもそろそろおしまい。にしてもガイドさんはさっさか降りて行きます。とてもじゃないがあのスピードではついてかれない。
私「ガイドさん、何歳なんですか?元気過ぎですっ!」(青息吐息)
ガイドさん「70歳を超えました。定年してから歴史を勉強し始めました」
と。すぐさままたさっさかさかと。
70歳っ!!
我が身の体たらく…。ま・待って~。

そして説明板の立っていた場所に戻りました!説明を聞いた時、まさかこれをあのスピードで降りるとは思いもよらず…。
ガイドさん「もう少し頑張って。最後にバス停横に置いてある大石を紹介します」
大石?

ガイドさん「一夜城を築くにあたり切り出した石です。大きな石にたがねを打ち込み、夜水を掛けて放置。すると石が収縮して翌日には割れているという仕組みです。どこで石を切り出したか分からなかったのですが、発掘場所が見つかり、そこから移動させてここに設置しました」

へえ~へえ~へえ~。
鎌倉を散策していると、古い時代には細工し易い鎌倉石が使われているのですが、時代が下がると石が不足するようになります。だから、日本初の築港の施設ともいわれる和賀江島の石は関東大震災で崩れたのを契機に再利用されて、ずいぶん破壊されてしまったとか。山道を上りながらガイドさんに「石垣山の石はどこから持って来たのか?」と質問しましたら、「周りにいくらでも石はあるから」との回答。
あ。そうだった…。江戸に入ると伊豆は石の一大採掘地になったんだった。忘れてた~~。

12時50分、小田原宿観光回遊バスがやってきました。
ラッキーにも座席確保出来ました。

石垣山から小田原城下へ戻ります。途中車窓にみかん畑が広がっています。
ガイドさん「調度露地ものの収穫期です。みかん狩りの出来る所もありますよ~」
さて既に午後1時。お腹がすいたので、小田原漁港バス停で下車します。
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田舎から戻って来ました!
ええ。昨日…。
お察しの通り、新幹線がもう大変っっ。
なんつーか、かんつーか。もう岡山出発時点で1時間遅れだったのですが。
駅と駅の間に新幹線が数珠つなぎになってまして、新横浜到着するまでなんと!3時間遅れになってしまった~~。
ま。
3時間遅れなんで、どうやら特急料金が戻ってくるらしいんだけどね。
「1年以内にみどりの窓口で手続きして下さい」とか。
ンでも町田駅に到着したら、既にみどりの窓口はシャッター降りてた…。
疲れた。
ま。帰りの小田急OXの総菜売り場は50%オフだったしな。小市民は3時間遅れで得したからそれなりに幸せよ~~。
なんつーか、狂想曲的な実況記事をそのうち書きますわ。
母の愛でパンやらお茶やらもたせてくれてたので、飢えずに済みました!
時間つぶしに持ち込んだ「中国歴史人物史」の本も片道9時間もかかったらば、そりゃあ完読出来ますわ…。3冊持ち込んでてよかったぜ。夜の分の降圧剤のお薬もなぜか余分に盛ってたからねっ。備えあれば憂いなし!って本当だよな。幸いあの大混雑の岡山駅の新幹線待合で椅子をゲットして読書にふける事が出来たし、今年はなんかついてるかも~~。
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石垣山一夜城の二の丸周辺

2014年01月03日 06時14分43秒 | お城&御所
説明板発見:国指定史跡:石垣山一夜城
所在地 小田原市早川字梅ケ窪1383-11
指定 昭和34年5月13日
史跡石垣山は、JR早川駅の西方約2、5キロ、国道1号線から東へ約1キロのところにあります。
また小田原城までわずか3キロのところにあり、標高257メートルの本丸からは小田原城や城下の様子が一望できます。
石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を水陸15万の大軍を率いて包囲したとき、その本営として総石垣の城を築いてから石垣山と呼ばれるようになりました。この城を秀吉が一夜にして築いたようにみせかけたという伝承から、石垣山一夜城とか太閤一夜城などとも言われています
秀吉は、この城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、猿学師等を呼び寄せました。また自ら淀君などの側室も予備、参陣の諸大名にもこれにならうよう勧めたと言われています。
この城は単に小田原攻めの本営であるというだけでなく、太閤秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えであったといえます。
この城は関東で最初につくられた石垣の城です。
石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太衆による野面積みといわれるもので、小田原藩の管理下におかれていた江戸時代にも、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影を大変よく残している貴重な城跡です。
この石垣山は、土地所有者の松岡氏を始め地元関係者のご厚意により昭和62年に公有地化することができ、現在歴史公園として一般に公開しています。(小田原市)
細い山道を上っていく。途中に対岸にも石積みがあるのを望む。
っと!携帯電話の撮影機能の限界です。遠目の石積みが判別出来ない~。一応画像奥には石垣が左右に伸びてるのが見えるんですが。
登っていた細い道が、やがて緩やかになり普通の山道ハイキングみたいになった!道の先にあったのがトップ画像の広場です。かつての馬屋曲輪跡(二の丸)です。
ハイキング気分でお弁当を広げている観光客もちらほらほら。
画像の右の石柱には櫓台跡と刻まれてます。
訪問は2013年11月23日だったのですが、既に赤く色づいているモミジがありました。

モミジの下に石のひょうたんのオブジェがありますね。やっぱ秀吉だからひょうたんの選択だったのかな?ひょうたんの石柱は石垣山一夜城の行き先案内になっています。城の縄張りを散策していたら、あちこちに設置してありました。
二の丸の平坦な広場の端っこにガイドさんが案内。

ガイド「あれが近年パワースポットとして人気の井戸曲輪です」
ひょえっ!!
上の画像で確認出来ますかねえ?右手の二本の木の間に人がいるんですが。こ・高低差…。
ハイ!見なかった!
ガイドさんが次に向かったのは展望台です。

入生田の長興山紹太寺が一望出来ます。紹太寺といえば、春日局の息子、稲葉一族の墓所や、有名なしだれ桜があります。

眼下を箱根登山鉄道の赤い電車がゆっくりと駆け抜けて行きます。山は秋色に染まりつつあり今日は散歩にはぴったりですね。

ガイドさん「秀吉はこの場から集まった兵士に向かって演説をしました」ってな事で、秀吉目線で画像を撮影。

ガイドさん「二の丸の下に道があるのが見えますか?」
ん?
あ。確かに左右に伸びる細道がある。
ガイドさん「かつてはあそこに兵士が並んで物見をしていました」
ここから先、本丸に登る道はまた軽い山登りの自然道。う”。落ち葉が滑る…。
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石垣山一夜城歴史公園

2014年01月02日 06時15分20秒 | お城&御所
今日から去年の12月11日に中断した小田原散策の記事を再開します。訪問は2013年11月23日。
1日何度乗っても200円ポッキリの小田原宿観光回遊バスを利用して、石垣山一夜城歴史公園にやって来た。

現地ではNPO法人の小田原ガイド協会の無料案内があります。

ところが!ガイドに着いて行く客は、バスを降りた観光客のうち一部でした。
何で~~??何しに一夜城に来たの??
彼等が向かう先は、一夜城ヨロイヅカ・ファームです。シェフ鎧塚さんのお店が一夜城にはあるのです。広い駐車場は満車に近い。流行ってるのねえ~。
でも私の目的は一夜城です。ガイドさんにくっついて散策開始!

石垣山一夜城は、天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原城攻めの際に陣を構えた、日本史でおなじみの場所です。
秀吉は密かに築城をすすめ、完成後周囲の林を切り倒したため、小田原城から見るとあたかも一夜にして城が出来たかのようだったので「一夜城」と呼ばれるようになりました。
最近は風水などのパワースポットとして話題を呼んでいる「井戸曲輪」と呼ばれている遺構も見学する事が出来ます。(以上、小田原宿観光周遊バスの小冊子より)
ガイドさん「一夜城は既に城の上物部分は現存してません。残っている石垣が在りし日の姿を想像させるだけです。でも石垣は強固。崩れずに現在まで残ってます」
(上の画像の石垣が崩れてる部分を拡大しました)
ガイドさん「あの部分のぽこっと崩れてる石は先年の地震の折りに飛び出しました」
って?そのまま放置したらマズいんじゃないかな~?
こういう遺跡ってどこまで修復するのか?復原するか?判断が悩ましい所ですね。
さて、順路へ戻ります。
と。石垣の残骸ま見えてきました。
 
二の丸(馬屋曲輪)と南曲輪の分岐の所に説明板発見!

や。ガイドさんはちゃんと解説してくれたんですね。でも私のポンコツ頭がねっ。思い出そうとしても記憶の彼方へと…。
最近とみに記憶力が落ちてるんだよなあ~。やっぱ脳外科の先生にお墨付きをもらってる既に80歳超えの脳みそがイカンのではないかと…。(寝言は寝て言えっ!)
とはいえ、記憶力の落ちてる自覚があったのでメモを取りつつ一夜城を回ったのですが、我ながら自分の文字が酷過ぎて判別不可能…です。更に途中で山登りの様相となってしまいガイドさんについてくだけで一杯いっぱいとなりました。そっからはメモすらないという…。
いや~ん。せっかく楽しみにしていた一夜城なのにぃ~~。
なので、一夜城の残存遺構のあれこれをサクッと紹介します。

あ。上部は南曲輪へ続く上り坂。一夜城観光の最後にこの坂を降りてきました。ええ。これが標準。足元注意です。
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東御苑 平川門

2013年02月28日 05時38分17秒 | お城&御所
梅林坂を右手の進むと平川門があります。
説明板発見:「平川門は、竹橋門より侵入した敵を撃退できるよう平川濠に伸びた細長い城郭(帯曲輪)を持つのが特徴です。
また城内で罪人や死人が出るとこの門から出されたので、不浄門とも呼ばれました」だって。
なんかね。昨日紹介した松の廊下で刃傷の及んだ浅野内匠頭は、その日のうちに平川門から退出したんだって。
退出といっても既に詮議も終わり当面の身の預け先も芝愛宕下の田村邸って決まってましたので、既に罪人扱いです。しかも浅野内匠頭の処分は護送中に決定されてます。
ま~な。時の将軍が生類憐れみの令を出した五代綱吉だからさもあらん…。
ちなみに、浅野内匠頭は預け先の田村邸の到着した当日に赤穂藩の改易・切腹を命じられています。
ええそうなのです。赤穂藩の殿は、松の廊下で刃傷に及んだ当日には切腹してるのね。大石内蔵助を始めとした四十七士が仇討ちに成功してなかったら、現代まで語り継がれる事もなく、単なるバカ殿で片付けられただろうな。だって、生類憐れみの令を発令する将軍と重鎮ならば、浅野内匠頭の事件は「なかった事」として削除対象にすることだろうし。
他に平川門といえば、確か大奥の側室や女中の通用門でもあります。
確かね、門限がとても厳しくて、あの春日局であっても門限に遅れた時は、門前で一夜を明かしたと云われています。まあ一説には、春日局閉め出し事件は、門限厳守のデモンストレーションだったのでは?という説もあるようです。まああの春日の局でさえ門限厳守でないと閉め出されるとあっては、遊びたい盛りの大奥の女性であっても、歌舞伎見物を切り上げてでも城へ戻るよな。
ちなみに不浄門を生きてくぐったのは、浅野内匠頭と絵島の2人だけだとか。や。不名誉な記録だな。

さて、平川門の先には大手濠にかかる橋がかかっています。
上の画像がそれ。
わざわざあっこさんをここへ案内したのは、平川橋の欄干をみて欲しかったから。



う~む。判読出来るでしょうか?欄干には慶長年間・寛永年間の銘が刻まれているのです。
現存する平川橋は、『昭和37年2月に千代田区が建立。昭和57年3月再建。平成20年3月補修』の説明碑が橋の袂にありました。
ん?
橋の補修ってもしかしてこれのこと?
 
大工の技が光りますね。
うなってたらあっこさんが「池上本門寺の石段の補修を思い出すわ」って。
確かに。池上本門寺へ(2012年2月19日)の記事 この記事で切り貼りの石段の画像を確認出来ます。
さて平川門。
トップ画像を解説すると、画像手前の左右にあるのが高麗門。奥に見えるのが渡櫓門の構造。
ちなみに不浄門はどこにあるか?というと。

上の画像の右奥にある。でも近づけません。これ竹橋の方に行く帯曲輪の…。え~と下の上空からの画像を見て欲しい。大手濠と平川濠を分けるように伸びてるの。ここが不浄門なのだね。
平川門の構造は結構複雑です。

上空からだとこんなに複雑。何が変って、平川橋を渡った先にある高麗門が、橋に対し90度回転して門があるんだよね。しかも、トップ画像をもう一度確認して欲しい。華奢な高麗門に鉄板をバッチリ巻き付けてあります。あ。ちなみに、トップ画像の方の高麗門は御三家の登城口でもあります。
ウ~ム。混乱する書き方になってしまった!それもこれも平川門が複雑なのがイカン。しかも奥へいかれないなんて。
あ。違いますね。私の記述力が未熟なのもイカンな。
さて、次は二の丸庭園でお昼ご飯~。
や。思いの外東御苑の散策に時間がかかってしまい、葛西臨海公園で水仙の花畑と見ながらお昼ご飯~が出来なくなっちゃった!あっこさん、ごめ~ん。計画の見通しが甘かったよ…。
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今朝は昨日までの寒さが嘘のように気温が上昇してます。これはもう杉花粉サマが暴れ放題になってしまうな。と。
部屋の中の対策を始めました。
つまり。居間のこたつを片付け、こたつ布団も洗濯して押し入れに収納。床のラグは撤去はまだ早いが、極力小さく折り畳みました。それもこれも花粉がくっつかない為の対策です。
空は青空。お出かけ日和ですが、急に上昇する天気というのがイカンな。
環境省の花粉観測の数値を日に何度も確認してしまうこのごろ。既に数度お出かけ取りやめちゃったよ~。
あ。
花粉対策ですがね、結構帽子は有効ですよ。髪は静電気を帯び、浮遊する花粉を引き寄せちゃうので、それを防止する為にもツルツル素材の帽子に花粉防止スプレーアレルクリンをシュシュと振りかけて出かけるのがおススメ。特にまだ花粉症発生してないお子さんの発症時期を数年でも遅らせるために有効です。
花粉症患者の嘆きはな~。花粉症は発症してからじゃ遅いんや。発症しないことが肝心なんや。
花粉症程後の祭り感たっぷりの残念な病もあんまりないと思う。発症してない人には分からない嘆きや…。
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皇居東御苑歴史散歩

2013年02月26日 05時02分02秒 | お城&御所
大手門をくぐったら、年配のご婦人がある木の周りに集まってました。
何かしら??

冬桜でした。十月桜って札が下がってます。何気に花の少ない時期はつい花数が少なくとも眺めてしまう花だよな。
冬桜の向こうで間もなく見頃を向かえそうなのは紅梅です。トップ画像がそれ。トップ画像の背景にある建物は、三の丸尚蔵館です。現在公開中なのは「明治12年 明治天皇御下命『人物写真帖』」です。これは明治天皇が明治12年に大号令をかけ、時の皇族・軍人・明治政府成立で奔走した人々の4500名の写真を納めた写真帖です。
撮影時期が明治12年のピンポイントなので、私たちが見知ってる有名人の写真とパッと見同一人物と思えない若々しい姿の方もちらほらほら。
若かりし日の東郷平八郎とか、髪の毛ふさふさの乃木希典とか、イケメンの勝海舟とか。板垣退助や伊藤博文などの肖像写真は共にお札に印刷されてる人と同一人物とは思えない~。何気に楽しい催しでした。
今年のNHK大河ドラマ『八重の桜』で最近毎週苦悩してる会津藩の殿・松平容保の肖像もありました。
松平容保の肖像はピンでの展示でなく、高須4兄弟の一人という形で紹介されてました。つーか、幕末から維新にかけて激動の人生を、兄弟4人とも生き抜いてたのですね。いつか、NHK大河で高須4兄弟を主人公にした話が出来るといいな。の前に、誰か原作書いてくれないかしら?
今、NHKBSプレミアムで『篤姫』。NHK総合で『八重の桜』。幕末から維新を駆け抜けた女性の人生ドラマを放送中です。ま。ボチボチ『篤姫』の方は最終回が近いのですが、徳川慶喜の扱いがどっちも酷くて笑える~。や、話が逸れた。

さて。
2月21日に皇居東御苑を訪問した目的はぼちぼち見頃を迎える梅林坂の梅ですが、同行のあっこさんが東御苑初見参とあっては、ぜひとも松の廊下跡と天守台を見物しとかないと!
せっかくなら私も楽しもう!と、まだ回った事のない道順で本丸へ上がることにしました。まずは南西へ向かいます。何度も紹介してる建築物は今回はスルーして、まだ紹介してなかったのがこれ。
大番所
そんで大番所の左手にある坂を上がると。
なんか綺麗な色が目に飛び込んで来た。
シナマンサクの黄色い花色でした。
今年は寒い冬。梅の花もなかなか咲いてくれない。そんな折りに飛び込んできた黄色はたちまちテンションアップです。

背後にある石垣は、中雀門跡を構成する石垣の一部。
振り返るとこんな感じ。

道なりに上って行くと、かつての中雀門跡が。

どうにも太陽の位置が悪く、逆光での撮影になってしまいました。
さすがに日本一の江戸城。何もかもが大きいな。
本丸の南西隅に富士見櫓があります。

皇居に現存する江戸時代の構造物では富士見櫓が一番大きいかな?
実は、皇居=旧江戸城には天守閣がありません。や、かつて、江戸時代初期にはあったんですよ。でも江戸初期の大火、明暦の大火のもらい火で焼け落ちてしまいました。
なんか気になるのでいつものWIKIで検索かけた。
江戸城の天守閣は、慶長年間(1607)・元和年間(1623)・寛永年間(1638)の3度築かれています。
最後の寛永につくられた天守閣は、寛永13年(1636)から翌年にかけ作られ、わずか20年後の1657年に焼失しています。
再建話も出てましたが、徳川三代将軍家光の異母兄弟保科正之が「江戸市街の復興を優先する」と天守の再建を中止。以降、富士見櫓が江戸城の天守の代用となりました。時の将軍様は、富士見櫓に上って、隅田川の花火を楽しんでたそうです。
ちなみに、富士見櫓が一番美しい姿は下から見上げた場所からの撮影ですが、この角度から撮影するには皇居参観の申し込む必要があります
ちなみにその画像はこちらの記事で確認出来ます。
富士見櫓(2009年6月16日)の記事
さて次のポイントは、松の廊下跡です。
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