大船駅から徒歩15分。そこに大船フラワーセンターがある。ほど近い場所に龍宝寺がある。
龍宝寺を訪れたのは、ここが玉縄城の城主が作った場所だから。
ええ…。私の中ではまだお城ブームが地味に続いてるようです。
玉縄城はかつては守りの要にあったのですが、現存していません。城があった場所は現在は女子校となってますので、遺構を見にいくことも出来ん…。また高校を建設する時に残っていた遺構が破壊されてしまい往時の姿を偲ぶものは地名位でほぼない。
『玉縄城は別名甘縄城ともいって、永正9年(1512)に北条早雲によっ築かれ、代々北条一門が小種となりました。城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を繰り出す事が可能だったので水軍などを統括する重要拠点でした。
上杉謙信・武田信玄が相模へ乱入した際も攻略を諦めたほどの堅城でしたが、豊臣秀吉による天正18年(1590)の小田原征伐において徳川家康の攻撃を受け降伏・開城し、以後徳川氏の支配下になりました。』
あれ?徳川家康って、あんまり戦巧者のイメージがない。上杉謙信に落とせなかった城を家康が落とすってあり~?
調べました。
時の城主北条氏勝は徳川家康に説得され降伏。無血開城してました。これならアリだ。つーか、家康らしい戦法だね。
『徳川政権下においても重要視され、家康側近の本多正信の居城となり、その後は一門の長沢松平氏の居城となりましたが、元禄16年、長沢松平氏が上総国大多喜藩へ転封となったのを機に廃城となりました。』以上、WIKIより。
なんとも戦国時代のビッグネームが次々と登場してますね。なかなかの萌え城かもしれん…。(コラコラ)
山門です。これをくぐった右手に玉縄民俗資料館があります。え~、有料だったので入ってません。
参道左には幼稚園があります。幼稚園から奥へ進むと庚申塚が。更に進むと草花の庭がありました。
う~ん、矢車菊と…。全然咲いてませんが、しゃくなげの庭ですね。これ。参道の右にもしゃくなげの庭が、そちらにはシャガも咲き乱れていました。フランス菊も咲いてます。
龍宝寺はお花のお寺なんですね
ちなみに、参道の御影石は廃止された横浜市電の軌道にあったものを転用してるのだそうで。
こんな感じで。
ええ。こんな感じで。
フジもありました
奥に見えるは、幼稚園のこいのぼり~。
新井白石の碑です。
…なんでこんなところに…。新井白石?
実は新井白石はこの付近に家禄を得ていたのです。白石は龍宝寺に200石献上しています。碑は表面の銘文が摩耗してて読めません。そんでもって、これは小さくてわかりにくので、訪れたら注意深く探して下さい。
龍宝寺は曹洞宗のお寺です。
文亀3年(1503)、2代目玉縄城の城主、北条綱也は玉縄城の東北(栄光学園周辺)に開基しました。
天正3年(1575)、4代目城主北条氏勝が3代目城主北条氏繁を弔うため現在の地に移しました。当時玉縄北条氏の菩提寺でしたが、滅亡後寺勢が衰える。