あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

巨木探訪・大谷観音堂のカヤ

2019年01月31日 05時25分00秒 | 巨木・古木・ご神木・盆栽
2019年1月27日、海老名の巨木と歴史散歩をしました。南の本郷にある有馬のハルニレ椿地蔵のツバキ内宮・豊受大神大谷観音堂のカヤ(今ここです)到着は11時36分。相模川の河岸段丘を全部降りてしまいました。

かながわの名木100選の石碑発見:大谷観音堂のカヤ
幹が2本に分かれた珍しい巨木で、樹林の中にあってひときわ堂々とそびえている。「相生のカヤ』とも言われて親しまれている。
樹高:20メートル 胸高周囲:7メートル 樹齢:約400年(推定)
カヤは宮城県から屋久島の山地に生える常緑高木で、幹は直立し、よく分枝し、横枝は水平に出る。
樹高35メートル、胸高周囲8メートル、樹齢約1000年に達するものもあると言われている」
何はともあれまずは参拝。
観察する。本堂になんか掛け軸に良い言葉を書いた書がいくつも下がってます。事前調べでは「大谷観音堂は平安時代の1180年に創建されたと伝えられている。子宝に恵まれる観音堂として地域の人々に親しまれている。近年老朽化が進んでいたが、それまで無人だった観音堂に住職が入ったのをきっかけに修復され、すっかりきれいになった」と、図書館で借りて来た巨木の本に紹介されていた。
なんか生活感のあるお堂は実は珍しいと思う。そこここに生活感が溢れてていい感じだ。

カヤの巨木を観察。観察していると、年配の男性が自転車でやってきた。
あ!違うわ。ご住職が戻ってこられたんだ。ご挨拶すると返事を返して下さった。

ところでカヤの大木は根元付近で二股に分かれてるのが特徴的。一説には1570年(元亀1)に兵火に焼かれて枯れたカヤを伐採したところ、新しい芽が2つ伸びて二股になって生長したと伝えられてるとか。
元亀元年(1570)といえば、小田原北条氏?攻め方はどこだろう?武田か上杉か?おそらくその辺り。いや、御由緒の説明板も撮影したけども、表面をガラスかアクリルでガードがかけてあり、撮影画面は光が反射して読めなかったんだ〜。

あれ?二股の向こうに富士山が見える。ここ、相模川の河岸段丘の下にあるので、普通ならば視界が遮られるのですが、道路の向こうは整地されたまっすぐな田んぼが並んでます。あれだ。土地改良で出来た土地なんだろうなあ〜。
まだ正午前だけど、巨木と富士山を眺めながら観音堂の東屋であんパンと熱いお茶でお昼ご飯をいただく。時刻は11時56分、変電所北バス停に10時10分に到着したから、歩き始めて1時間半か〜。
さて、元気もでたので出発です。最後に観音堂を振り返る。
ン?あれ?あの白いのは何??

一旦道路まで出たのを引き返す。説明板発見:立木観音の由来
義功和尚の知り合いに霊感豊かな女性がいた。ある日のこと、お堂にお参りに来た。そして「境内に有縁無縁の観音さまがあるといいわね」といって立ち去った。
平成18年、境内のえの木を枯らしてしまった。
枝を切り過ぎたのである。「すまないことをした」と和尚は悔やんで、このえの木を見ると「すまん、すまん」と手を合わせて謝っていた。
ある日のこと、夢に立木観音が現れた。
「そうだ観音さまを彫るのがえの木の供養になる」と二年かかって完成させた。その後霊感女性の言葉を思い出した。
「この立木観音はこの境内に必要だったのだ」と。不思議なご縁である。
制作期間:平成18年9月ー平成20年12月 彫刻:小林義功」
へえ〜。ってか、和尚さんの名前が義功で彫刻が小林義功ということは、和尚さんが自ら彫ったのですね。
さてと、改めて3つ目の巨木目指し出発です。
大谷観音堂前を走るバス道とはほんの200メートルで分かれ、再び相模川の段丘を緩い上り坂で上る。
もうね〜〜、痛めてる腰にも右足にも高低差はよくないけども、それが昔道なのです。高低差は諦めようよ。自分。

昔道なので、道路の真ん中に桜の木が残されてても、そういうこともあるんだよ。
ぼやきますが、見晴らしはいいんだ。何しろ富士山が見えてるからね。

ウォーキングしたのは1月27日でした。スカッと晴れてます。
あれ?またまた参道を見つけてしまった。どうすっかな〜?視線の奥に石段が見えた。けどもその手前に白梅があるではないか!もう梅の咲く季節なんだね。ふらふらと観梅するべく参道を進む。時刻は12時11分。
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海老名に外宮・豊受大神がある??

2019年01月30日 09時27分37秒 | 歴史散歩
2019年1月27日、海老名の巨木探訪に出かけました。目的の巨樹は3本。南の本郷にある有馬のハルニレから始め北へウォーキング、海老名の国分寺跡をゴールに設定。
本郷の有馬のハルニレを10時24分に出発。最短コースで歩くべく細い道を選んだら、そこは昔道でした。昔道は地形に沿って凸凹と続いてます。急な驢庵坂の土道を下りると畑のあぜ道を富士山を眺めつつ進む。やがて緩い上り坂に変わる。1月末の畑は寂しい。野菜が植わってる畑はごくわずか。そのわずかな畑に植えられた野菜の若い苗も、雨がほとんど降らない1月のためしおれて元気がない。これは農家さんも大変だなあ〜。道は畑のあぜ道から生活道に変わる。道の左右に建つ大きな家も興味深い。植木も立派。椿を垣根に使ってる家は特に素敵でした。椿の垣根を撮影しようとしたけど、完全逆光で諦める。やがてアスファルトの道が見えてきた。そこで歩いてきた道が途切れたのでアスファルト道を相模川のある西方へ。あれ?何かある?
椿地蔵だって?(トップ画像です)
説明板発見:椿地蔵のツバキ 平成10年8月28日指定:海老名市指定天然記念物
椿地蔵のツバキは、樹高4、5メートル、言い伝えによれば、樹齢約300年。この木は、つぼみがふくらんで色づきますが、遺伝子的な理由からか、つぼみのまま落ちてしまうので「玉椿」と呼ばれています。この木には、次のような話が伝わっています。
今から300年ほど前のこと、さる武家の母親が、娘の長患いを治してもらうため、江戸から当地に滞在する名医半井驢庵を訪ねてきました。しかしその途中、杉久保にあった千躰寺の前を通りかかった時に、娘が苦しみ出し、村人や母の介抱のかいもなく、亡くなってしまいました。不憫に思った村人は、娘を手厚く弔って地蔵堂を建て、椿を供えました。
やがて、そのひと枝が根付いて成長しましたが、不思議な事に、椿はつぼみを持つのに花が咲きません。村人たちは、若くして花咲くこともなく亡くなった椿の霊が乗り移ったのだろう、と話し合いました。
この話は、海老名の昔話として広く市民に親しまれています」
説明板には樹齢300年、樹高4、5メートルとありますが、パッと見には樹齢数年にしか見えないわ〜・ひいき目に頑張ってみても、樹齢10年かな?もしかせんでも指定後に元の木は枯れたかなんかで今あるのは2代目かな?ちなみに、今ある木には訪問した1月20日現在椿の花のつぼみがたくさんついてました。咲いてるのは一つもないけども。このまま咲かずにつぼみが落ちたらば、元の椿地蔵のツバキの正しい次世代と言えるかも?確認した方は来月2月に訪問するのをお勧めします。
さて、時刻は10時46分。有馬のハルニレを出発したのが10時24分だからここまで20分のウォーキングですね。では出発。道は土道からアスファルトに変わったけども、道は変わらず緩い上り坂で、左手には富士山が見えます。
ん??「裏参道??」
道に隣接して林というより最早森がある。参道というからには寺社があると思うけども、大きな木に阻まれえ社屋は見えない。
地図に目を落とす。YHAOO!の地図をプリントアウトして持参してるのですが、空白です。しばし考えた。
立ち寄ってもいけども、今登ってきた坂道が、この先で下り坂なんだよね。地図にも書かれてないならば、小さいしょぼい寺社かもしれん。わざわざ確認に行くには高低差があるのはちょっと回避したい。
と、裏参道を見なかったことにして素通りした。
右手(東)側の林にそって坂道を下る。
と、社号標発見。

何だって?内宮・豊受大神
マジか〜!!
何でここに伊勢神宮があるんだ??
混乱する事態です。ってか、有名な神社と同名なだけかもしれんし、落ち着くんだっ!ってか、この時点で素通りはもうナシです。
あ。説明板発見:外宮・豊受大神(食物・産業の守護神)
御祭神:豊宇気毘売大神(天照皇太神の御饌津神)
御由緒・沿革:聖武天皇の神亀2年(725)勧請、遠馬名神豊受大神と称す。
古来推古天皇の6年豊受大神騎馬の御姿にてご降臨されてより、皇大神御尊行の処としてこの地をその鎮の宮と定められました。
江戸時代幕末の社寺改めのよって恩馬郷4ケ村の鎮守豊受皇大神と尊称、明治元年新政府の社寺分離令により社号を豊受大神と改称した。
始め御陵をご神体と定め拝殿のみであった。のちにこれを改めて内殿の創建が行われたが、幾多の戦乱に類焼し再建を重ねてきた。
現在の御祥殿は昭和60年11月に造営された。続いて御神輿殿、御神輿が奉献された。
境内地:1町5反2畝2歩(15,054平方メートル)
境内社:内宮社(天照皇大神)、末社(寄宮五社)<天満宮・山王宮・琴平宮・三峰宮・厳島大神・秋葉大神)
ちなみに直近の祭事は2月11日の祈年祭(春祭)です。」

私が喪中なので、ご参拝は控えさせていただきまして、遠くから神明造りの社殿を眺めるに止めました。境内をパッと見、大きな木がいくつもありました。1本、石碑持ちの木があったので紹介。

石碑には:樟(くすのき)
明治38年日露戦役記念樹 昭和63年道路拡幅工事のため東側へ3メートル移植。
樹高:15メートル 周囲:2、5メートル 重さ:13トン と刻まれてました。
うん、神社仏閣公園をめぐると、日露戦争にちなんだ石碑ってとても多いんだよね。慰霊碑に限らず。
さて時刻は11時2分、ウォーキング再開。
道なりに坂を下って行くと、分かれ道があった。
道祖神かな?これがあるのは古い昔道の証のようなもの。道なりに左へ進み更に坂を下る。

このあたりから立派な家が散見できた。どこのおうちも玉垣の上に大谷石の塀と、立派の庭木があって、で〜ン!とした日本家屋を構えてます。もうね。「日本家屋」という名前をつけてデイアゴスティーニがミニチュアプラモデルを販売しそうな勢い。
坂を下りきった先に東名高速道路が見えた。高架下に道は東に進むと海老名サービスエリアにいける模様。興味あるけど金はないので、それをくぐり道なりに進む。突き当たりにも素敵な庭木の大きなお家。このあたりは家を眺めるだけで面白い。が、この後しばらく面白みのない建売住宅?いやアパートかな?が続きます。
突き当たると急坂が!また降りるのか〜。憂鬱。歩いて来たのが相模川の河岸段丘の上部だったとわかりましたが、私右足痛と腰痛で去年の秋は散々でね。この日のウォーキングは回復具合の確認もあって、高低差のないコースをチョイスしたつもりでした。でも実際に歩いてみると昔道だった訳で、昔道だから高低差もそこそこある訳で。止めが一気に河岸段丘を下るとか〜凹む〜〜。
ぼやいても坂道はなくなってくれない。ゆるゆると腰と足と相談しつつ注意して降りる。あ〜、もう!下り坂の方が腰痛にも坐骨神経痛にも悪いんじゃ!
救いは良く見える富士山か。とぼとぼと歩いてると、本日2つ目の巨木の地、大谷観音堂が見えてきた。時刻は既に11時36分です。
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巨木探訪・海老名市有馬のハルニレ

2019年01月29日 08時10分55秒 | 巨木・古木・ご神木・盆栽
2019年1月27日、海老名の巨木探訪と歴史散歩をしました。
去年の秋からずっとぼやいてる腰痛と右足痛がどの程度改善してるか?と1月19日に茅ヶ崎の鶴嶺八幡宮の千年の大イチョウを見物に行ってみたら、思いの外歩けたので、次の訪問先を海老名の巨木有馬のハルニレ・大谷観音堂のカヤ・海老名の大ケヤキに定め、地図と睨めっこしました。というのも、カヤとケヤキの所在地はわかったのですが、ハルニレがどこにあるのかもうさっぱり分からん!一応所在地は海老名市本郷3881なのですが、yhaoo!の地図に所在地を入力しても「条件に一致する施設・お店は見つかりませんでした」と出る。もうお手上げ!長い時間WEBの海をさまよってようやく所在地を突き止めたものの、交通の便が悪い。最寄りのバス停は1時間に1本しか止まらない!となると、海老名駅スタートでなく、有馬のハルニレスタートで海老名駅へ向かうことにしました。旦那に時間厳守で!とお願いし、海老名駅前のバス停3番乗り場から10時発の相鉄バス綾22系統ハマキョウレックス行きに乗車。定刻の10時10分に変電所北バス停に到着です。さて、お散歩スタート!
バス停から南へ、キャノン綾瀬事業所を超えてすぐ大きな木が見えてきた。

かながわの名木100選 有馬のハルニレです。
説明板発見:有馬のはるにれ 県指定天然記念物
樹高:15メートル 胸高周囲:8.6メートル 樹齢:約350年以上(推定)
このハルニレは、徳川幕府3代将軍家光の御典医であった半井驢庵が、寛永年間にこの地に構えた下屋敷内にあったと伝えられています。一説には驢庵が朝鮮半島から持ち帰ったハルニレを屋敷の門前に植えたものと言われています。機種がわからなかったので「なんじゃもんじゃ」と呼ばれ、親しまれてきました。
昭和59年12月には「かながわの名木100選」に選出されている。
落葉樹なので訪問した1月27日は完全落葉済みで葉っぱはついてません。おかげで樹形がよくわかります。
わかるけども〜??なんか、木にドアがいっぱいあるんですけど〜??

根元。視線を上げるとさらにこう。

ハルニレは最大約600年の樹齢を持つ木もあると説明板に書かれてますが、この木はそこまで生きられるのかな?

あれ?あの白いのは?ズーム!

あ!富士山っ!ここから富士山見えるのか!富士山見えただけで気持ちが沸き立つとは私って単純です。
せっかくなので木の裏手もみてみる。

なんか、裏にもドアがある。しかも鍵つき!!せっかくなので、木の大きさを感じれるようにダンナにドアの前に立ってもらいました。
なんか、ロールプレイングゲームでさ、鍵を探してこないと開かない場所ってあるよね?そんな雰囲気があるわ〜。青空だから雰囲気が伝わらないかも?これが薄暗い夕暮れだったらおどろおどろしい感じになるのかな?
アホなことを行ってないで出発です。

ついでなので、木の全景と周囲がわかる画像を載せときます。ハルニレの背後に写る建物が中相模変電所です。で、木は公園にある訳じゃないので、検索かけても「条件に一致するお店・施設は見つかりませんでした」となった訳です。画像を見て分かりますよね?なんか、ハルニレは畑か空き地の道路際にあったんです。
で、地図を眺めつつ、次の大谷観音堂のカヤを目指します。
地図に細い道があるのですが、これが、実際歩くとほとんど田んぼのあぜ道!でして、しかも視線の先は林でこれ、本当に道が続いてるのか?不安を覚えながら歩いてると「驢庵坂」の案内板が立っていた。
坂を下りるながら地図に目を落とす。どうもその昔々のままの道を選択したもようです。それもウォーキングするなら面白いし、そのまま進んでみよう。カラカラ天気でスプリングクラーがフル回転の庭や、しおれた若い野菜の苗の畑を眺めつつ進んでると、視線の先に特徴的な山が飛び込んできた。

ふあああ〜〜〜!!富士山っ!
海老名市の南の本郷から北の海老名駅に向かうと、順光で空が青いし富士山が見えるし、このコース正解だったかも!!
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私の指針の桜が〜!!

2019年01月25日 09時37分15秒 | 雑記
昨日、いつもの道で接骨院へ向かってると、魂消る光景に出くわした。
急ブレーキです。
私が毎年桜の開花状況の指針にしてる米軍住宅の桜が無残に切り倒されてました。

切り倒した木の幹はみっちり詰まっていて、空洞ができたから撤去したという訳じゃなさそ〜。

しかも!1本だけでなく倒れてるのは3本もあるわ〜。なぜ切るんだ〜。

すぐ近所なので、毎年ここの桜の咲き具合を見て、桜見物に出かけてたのに〜。
wikiによりますと、そもそも日本全国の桜の名所に今咲き誇るソメイヨシノは、江戸の末期から明治初期にエドヒガンとオオシマザクラを掛け合わせて作られた園芸種です。寿命は今世紀に入り樹勢が衰えてる木が多く、ソメイヨシノの寿命は60年説が唱えられているとか。一方100年を超えても元気な木もあるわけで、寿命60年とは一概には言えない模様です。
で、米軍住宅の桜ですが、広い敷地でのびのびと立ってるので、まだまだ寿命は先だと思ってました。なのに突然の撤去はどうしてなんだ〜??画像を見てわかるように、桜は金網の向こうにあります。金網の向こうは日本ではありません。アメリカです。ならば桜を大事にしないのもしょうがないのか?桜に思入れのある日本人とは違うのだから。にしても、悲しい。私は毎年の指針の木を失ってしまった。
ふと、昨年の秋口の光景を思い出す。

去年は8月下旬から長雨が続き、きのこが多く出現しました。上のきのこも米軍住宅で撮影したもの。やっぱり接骨院に行く途中で撮影したんだった。芝生から突然にょきにょき生える真っ白の大きなきのこを見たアメリカ人はどう思ったのだろうか?もしや、きのこが生えるのは桜のせい!とか思ってないよね?ない!と思いたいけども、これ位しか桜を切る理由が思い浮かばないんだ〜。あ〜、ただの桜の木かもしれないどけも、無残な最期だなあと思う日本人は多いと思うんだ〜。ふうせめて在りし日の桜の姿をトップ画像に貼っておきます。もう見えないのね。
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史跡 旧相模川橋脚の周りは桜

2019年01月24日 07時13分01秒 | 歴史散歩
茅ヶ崎市巨木探訪、鶴嶺八幡宮の大イチョウは樹齢約1000年!長く生きてるのに樹勢旺盛で樹高29メートルもあり大満足!帰りも800メートルの松並木の参道を通り参道起点の東海道に到着。さて?この後どうする?今回は痛めてる右足の回復状況を確認する意味もあるので、身体の状態をチェックする。
いつも痛みは右の尻っぺたか脚とお尻のジョイント部分が痛み出すけど、そこはまだ痛くない?けど、そもそも接骨院に駆け込むことになった腰椎の方がなんとなくチコンときてるような〜?
実は私は毎朝5種類・毎夜2種類の薬を飲んでる弊害か、痛みを感じるのが遅れるのだ。相当鈍くなってるんだってさ!で、痛い!と感じた時はもう手遅れで、患部が相当悪くなってしまってる状態。これを去年の秋に繰り返してしまい、いまだ接骨院に通いつめるハメになったのですよ。で、痛みを感じる前に散歩をやめること!が大事だそうで。ってなことで、当初計画してた氷室椿庭園とたい焼きの一丁焼きこのはさんへいくのを諦めた。でもこのまま茅ヶ崎駅に引き返すのは悔しい!となると〜?この近所でどこか〜?あ!あった!季節外れだけどもあそこへ行ってみよう!
午後13時15分史跡旧相模川橋脚に到着。ってか、トップ画像の背後に見えるのって、相模川じゃないよね?あれって、小出川じゃん???あれ〜??の前にそばの広場のベンチで橋脚を眺めつつお昼ご飯〜。あたりは20本以上の桜が植栽されてます。ここは桜の季節に訪問したかったけどな。でも当日は小春日和で、お日様が背中を照らしてくれてぽかぽかです。あれ??川の方から何か綿ぼこりみたいなのが次々と飛んでくる?何かしら〜?
気になったので川の堤防まで確認にいけば、ススキやオギの穂がたくさん揺れていて次々と綿毛のような穂を風に乗せて飛ばしてた。初めて見たわ〜。小出川の向こうに園央道かな?(ブログを書くにあたり調べたら、新湘南バイパスが正解でした)高架がなければ富士山が見えるハズなのに、残念〜。さて、旧相模川橋脚だ。道路になんか地図があるんだよね〜。

まずは説明板を読む。

史跡 旧相模川橋脚
関東大震災で出現した鎌倉時代の橋脚 地震で太い柱が水田に出現!
▪️1923(大正12)年の関東大震災の翌年に起きた余震で、当時水田だったこの場所から太い木の柱が出現しました。
▪️鎌倉時代に架けられた橋の跡
出現後まもなく、歴史学者の沼田頼輔により、『吾妻鏡』(鎌倉幕府の記録書)などから鎌倉時代に相模川に架けられた橋の遺構(橋脚)と考証されました。
▪️貴重な遺跡として史跡に指定
1926(大正15)年10月20日に国の史跡に指定されました。また、2001(平成13)年からの整備に伴い実施した発掘調査で、関連する土留め遺構が発見され、2007(平成19)年2月6日に追加指定されました。
▪️この史跡の主な特色
1)中世の橋遺構は全国に例が少なく大変貴重である。
2)地震で地中の遺構が出現したまれな例である。
3)地震の時の様子をそのまま目にすることができる。(後略)」
おおっ!私勝手に「旧相模川橋脚」と地図で見た時に関東大震災で被災した橋脚を保存してあるのだと思ってたけど、まさかの関東大震災で鎌倉時代の橋脚跡が液状化現象で出現したものだったとは!びっくり〜。しかも、ここへくる前に源氏の源頼義と頼家親子が勧請した鶴嶺八幡宮へ参拝したので、訪問先のチョイスはぴったりだった!説明版が他にもいっぱいです。まずは。

周辺の3D地図です。現在地は?右から2枚目、上から3つめのパネルの左上に赤で<現在地>と書かれてる。ちちなみに現在地の下に左右に伸びてる道が東海道です。右に上下に流れる大きな青色が現在の相模川。となると、かつての相模川の流れは今と少し違ってたのでしょうか?

突き出た橋脚は思ったより大きいです。

図解発見! 上の画像の見取り図の右下に、縮尺バーがある。10メートルの目安もある。見取り図の左右が相模川の幅ならば、橋脚の突き出てきた部分で察するに、上の橋は30メートル近いんじゃないの?河口近くだから相模川も川幅が大きかったとは思うけど、鎌倉時代にそんなに大きな橋が必要だったのかな?でも橋脚は綺麗に並んでるんだよね。時代が違う橋脚かな?というのはナシだなあ〜。でもさ、東海道って確か徳川家康が江戸に入って以降整備されたんじゃなかったっけ?となると、もしかして元は鎌倉道だったのか?にしても30メートルも必要だったのか?む〜ン??

あれ?レプリカだと?
つまりだね、今見えてる突き出た橋脚は本物じゃないんだね。まあ野ざらしになった木だとすぐに痛むだろうからレプリカはありです。以前から薄々感じてましたが、茅ヶ崎市って文化財の保護に力入れてるよな〜。駅の南側にある文化財もきっちり説明文とかあって歴史好きにはありがたい場所です。たまたま説明文が破損して読めない場所があったので、問い合わせメールを送ったら、丁寧な返信がきたのを思い出した。さて、短い散歩だったけど満足したので茅ヶ崎駅に戻ります。南湖の左富士を背に土手を歩いてたら、東海道と交わったところで歴史散歩グループと出会う。みんないい笑顔で富士山を撮影してた。富士山見たら日本人は撮影したくなるものです!わかるわ〜。
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巨木探訪・鶴嶺八幡宮の大イチョウ

2019年01月21日 05時40分29秒 | 巨木・古木・ご神木・盆栽
去年楽しく巡った巨木探訪を、今年も続けます。ってな事でやってきたのは茅ヶ崎市の鶴嶺八幡宮。
もうガツンとくる大きさです。せっかくの巨木なのに、撮影すると大きさが分からなくなるので、ダンナにハイライト代わりに立ってもらいました。

ガツンとくるでしょ?
説明板発見:鶴嶺八幡宮の大イチョウ昭和37年神奈川県天然記念物指定
根回り:8.5メートル
目通り:9メートル
樹高:29メートル

このイチョウは実生かまたは移植の際に多くの側枝を叢生し、勢いよいものが4・5本くっついて成長を続け、現在の幹を形づくったものとみられている。きわめて珍しい大木である。
なお、次のような伝承がある。
この神社は平安時代後期、源頼義が平忠常の乱を平定の折に、このあたり懐島郷を通り風光明媚の小丘に源氏の守り神、岩清水を勧請したに始まるといわれ、その後、前九年の役で父頼義を応援に奥州へ向かう途中の義家(八幡太郎)がそこに詣で、戦勝を祈願して現在地に遷座したという。このイチョウはその時義家が手植えしたものと言われている。
昭和59年、「かながわの名木100選」に選ばれている」
説明板の隣に、名木100選の石碑があってそこには樹齢:約1000年(伝承)とありました。すげ〜。長い年月を生きていた巨木。1000年を生きてる木を触れるものなら触りたい!ですが、残念ながら鶴嶺八幡宮の大イチョウは周囲を囲ってあって幹に触れません。

訪問は2019年1月19日、完全に落葉してるので、大イチョウの枝ぶりを観察できました。
根元から少しあがった場所で、枝分かれしてるのか?見上げる。

ごちゃごちゃしてる。そして垂乳根が沢山降りてる。これさ、完全に落葉してるから枝の多いのがわかるけど、ぱっぱのある季節だど、ここまで枝が多いのは分からないんじゃないかな?
裏に回ると?うわっ!!こりゃすごい!

かながわの名木100選の石碑の説明文にもありましたが、「多数の側枝が叢生し、その数本が癒着して成長し幹を形づくっているといわれ、ゆ着したと思われる部分が縦の線となって認められる珍しい巨木」が、この角度から撮影するとよくわかりますね。訪問したのは12時過ぎでしたが、この角度は本殿側の裏手になりまして、完全逆光になってしまいましたので、明度を上げる加工をしました。

ちなみに、あまりに巨木で樹高が29メートルもあるので、全長を収まるように撮影しようとすると、かなり離れなきゃならず、そうすると特徴的な幹がほとんど判別つかなくて困りました。
さて、後回しにしちゃいましたが参拝です。本殿の背後にもなんかありそう〜。

読み辛いな〜。何々?「御神木 槇 樹齢900余年 康平年間源頼義公戦勝祈願(前九年の役)のため一対を手植えせしものと伝う」と書いてあるものの、肝心の槇の木はなんか不思議なオブジェ状態。なんか既に枯死してるわ〜。
さて?槇の画像の奥に大きな木の幹が見えたので寄ってみた。

夫婦楠というらしい。なんか、縁結びのパワースポットらしい。
他にも末社があれこれありました。一つ紹介すると、淡島神社があり、御祭神の少彦名神は太古草創の時に大国主神と共に国土を経営し、民生を教導し、医薬禁厭の事を司りたもう。とありました。

本殿の脇にあったのが画像のカン封じの祈願石で、ガンを始め難病を癒す霊石といわれ、多くの人に信仰されている。
石と体の悪い所を交互にさすり「祓え給え、清め給え」と3回念じる。この石の兄弟石が神明大神(市内円蔵2−282)に祀られており、両方の石をさする事により病を癒す力が増すと言われている」だそうですよ?
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鶴嶺八幡宮の参道

2019年01月20日 15時26分45秒 | ぶらぶら散歩
一つ前の投稿で、月・火・木・金と接骨院に通ってる!と書きましたが、今週から頻度を落とし月・木曜に通うことにする。というのも月曜の翌日の火曜、また木曜の翌日の金曜は「具合はどうですか?」と聞かれても、前日の針とお灸で痛いのか?そもそも直したい右足とお尻の痛みなのか?自分で判断が出来ない!と思い頻度を落とすことにしました。
先生が間を詰めて来院してほしいというので、この頻度だったのだけど、判断つかない!のはダメでしょう!と。ついでに、散歩してみて痛みが出るかどうか試したい!と考える。
どこへ行こうか?思いついたのは巨木探訪です。ピックアップしたもののまだ未訪問の場所で、高低差のない場所。そうだ!あそこがある!で、2019年1月19日、ダンナを誘い出かけました。最寄駅から最短コースは相模線北茅ケ崎駅ですが、図書館で借りた巨木の本によりますと『茅ヶ崎の市街地にありながら、樹齢450年とされる松並木に覆われた800メートルの参道が存在し、市の天然記念物に指定されている」と書かれていたので、参道の出発点の東海道から八幡宮を目指すことにしました。ってなことで、JR茅ヶ崎駅に11時ごろ到着。東海道を西へ。小さな川を渡る。そこが参道入り口なのですが、何か碑が立ってます。
南湖の左富士?確かに川の奥にくっきりと美しい富士山がみえる。む?橋の欄干に採用してあるのって??
実はこれ、東海道53次で安藤広重が描いた浮世絵です。東海道が川の手前(江戸側)で、北西に向かいます。なので、この区間だけは東海道の左手に富士がみえるのだ。

トップ画像の橋を渡ると、赤い鳥居があります。これが鶴嶺八幡宮の参道入り口。参道の起点が東海道に接してるわけです。
ではさっそく。樹齢450年とされる松並木が800メートル続くんでしょ?た〜の〜し〜み〜!!

あれ??
樹齢450年??嘘だーー−!!
松並木は古木もあるけど新しい木も。樹齢5年程度にみえるひょろい木も混じってます。
参道を護るのも大切だけど、古い木も守ってほしい。こんなギチギチに根元まで覆っては、松の根は呼吸出来ないよ〜。ってなことで800メートルの参道はがっかりの参道になった。

途中に歴史広場があった。
説明板発見:「鶴嶺参道歴史ひろば
鶴嶺八幡宮は、その創建が平安時代末期にさかのぼると言われる古社です。
その後は幾度にもわたる戦乱によって荒廃しましたが、江戸時代になって、僧朝恵が領主山岡氏の援助を得て再興を果たし、三代将軍家光(1604−1651)から社領7石の御朱印を受けた記念に、南大門馬場の左右に松を植えました。これが現在に残る松並木の参道です。
この辺りは、古墳時代後期(1400年前頃)から村の営みが始まり、奈良・平安時代にかけて発展したことが発掘調査でわかっていますが、鎌倉時代になると「懐島」という地名が記録に現れ、鎌倉幕府とのゆかりが強い地域であることが知られています。
この鶴嶺八幡宮参道は市の史跡に、松並木は市の天然記念物に指定され、地域の中で保護されてきましたが、参道の整備にあわせてこの歴史ひろばが設けされました」

かつての松並木の写真が紹介されていた。
あ〜、450年の松って残ってるのか?次はこれが気になって目を皿のようにして参道の松を1本1本確認しつつ進みます。
参道の終点へ。そこは信号鶴嶺八幡宮入口交差点です。

歩いてきた参道を振り返る。東海道か鶴嶺八幡宮入口交差点の間には、樹齢450年の松は1本も残存してなかった!と思う。樹齢100年程度のものは数本あったように思うけども。
鶴嶺八幡宮前交差点を渡ると目の前にかつての参道にタイムスリップした光景があった。

貼り付けた絵図は「江戸時代末期の万延元年(1860)に皇女和宮が降嫁する際に備えて描かれた辺りの領主山岡家所蔵の絵図の一部で、当時の参道と松並木の様子を見ることができます。絵図には神社本殿より東海道まで長くのびている約764メートルの参道と両脇に松が整然と立ち並んでいる姿を確認することができます。(解説文から抜粋)」とあります。
参道を南から本殿に向かってたどっていくと、丸い橋が描かれてます。これが上の画像に写る丸い橋です。
絵図には丸い橋の向こうに4つ池が並んでいる。

わかりずらいのですが、参道の左右に今も池が4つあります。が、訪問時の1月19日は水が全く入ってませんでした。この辺りの松だけは樹齢が150〜200年くらいはありそうに見えたけど。古そうな木はほとんど真横に伸びてたり、枝が落ちないように支柱で支えてある木もありました。
時代の醍醐味を少しだけ味わうと、ようやく本日の目的が見えてきました。

巨木探訪!!すっげえ〜〜!!上の画像の本殿の右にある落葉してる大きな木が目的の樹齢950年の大イチョウです。
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巨木探訪・座間の大欅

2019年01月18日 09時25分48秒 | 巨木・古木・ご神木・盆栽
お久しぶりです。新年の挨拶は喪中のため失礼させていただきました。
さて、去年の秋口からずっと痛めた腰と右足(大腿と足先)の痛みをなんとかしたいと、月・火・木・金曜とせっせと整体院に通ってます。腰は早めに改善して、痛みも取れたのですが、腰椎から出てる神経から足先に伸びる痛みがなかなか取れなくて、どうやら痛めてる患部が相当深い場所のようなのでと、11月初旬からはハリとお灸も追加してます。患部が深いのでハリも長いものを使用します。大腿裏とかお尻の尻っぺたや足とお尻の付け根に針を打ってるのですが、これが、椅子に座ると針を打った場所に接触していたいんじゃ!まあ、一時痛みを我慢すれば根本的な痛みが取れるならば!患者さんとしてはどうでもいいから痛みを取ってくれ!1時間でいいから痛いと思わずに椅子に座りたいんじゃ〜〜!!(魂の叫び)
そんな状況なので、パソコンに文字を打ち込めない〜。お出かけ出来ない〜。とブログ更新が滞りました。すみません〜。パソコンを読むことはできるけど、椅子に座ってパソコンに文字を打ち込むのは無理なんですわ。
年末年始にどういう動きをすると一番痛いのか?と日常生活を送りつつチェック確認したら、どうやら朝一番の靴下を履くときに右足の足首からふくらはぎ、更に大腿に痛みが駆け抜けます。先生に訴えたら「真犯人は股関節かもしれない?」と、ケアする部分が変化しました。これで痛みが改善すれば万々歳です。期待してるよ〜。
さて、我が家から県道51号線を西に向かうと、相模川の河岸段丘がある。大きな川だからか、段丘は2段構えです。2つめの段丘を降りてると、道路の向かいに大きな木を見つけた。トップ画像です。
気にはなるものの、坂道を自転車で降ってる途中なので、気軽に反対側に行けない。何はともあれ、河岸段丘を降りてる目的地のブックオフへ先に立ち寄る。

活字単行本が2割引なんである。相模川の段丘降りても行く価値ある!と降りてきたけども、正月のウルトラセール直後だからか、ロクな本がなかった!がっかりして引き返す。で、戻るには降りてきた坂道を自転車を押しながら上がる。

巨木発見!大欅です。説明文を読んでみる。
「この大欅は、安産の守護神として昔から近在の人々に信仰されてきた子安護王明神の境内にあります。
護王明神は伝説によると、源義経の側室牛王姫を祀ったものだといいます。牛王姫は兄の源頼朝に追われていった義経の後を追ったが、この地で難産のために死んでしまいました。哀れに思った村人は牛王姫親子を葬ったそばに欅を植えて、墓標の代わりにした。これが現在の大欅です。その後、円教寺の住職日記により円教寺に休息した日蓮上人に牛王姫の墓前で読経を頼み、安産の神 護王姫としてここに祀ったものです」
源義経でWIKI検索してみると、義経の没年は1159年(31歳)とある。とすると、2019−1159=860年!ってことはこの大欅の樹齢は860年もあるの!?確かに幹回りは数メートルありますが。パッツンしてるのでもともとの樹高はもうわからない。見上げる。
画像で大欅の大きさが分かるかな?実は境内が狭いんです。おそらくトップ画像に写る道路を拡張したときに境内を相当に削ったんじゃないかな?だって、ここだけ不自然に歩道が畝ってるんだよね。大欅の根っこを護るための措置と思うけど。畝って根を守ったつもりでもアスファルトで覆ったら、根っこは呼吸出来ないんじゃないかな?

では、大欅の幹に触れてみる。お日様が当たってるからかほんのり暖かい。

見上げるとパッツンと幹が途切れてます。樹勢が衰えてのパッツンなのか?それとも坂道の途中に大きな木があると倒伏したら危険だからその前にパッツンしたのか?幸い怖いくらいのパッツンですが、夏には細い枝が葉を茂らせてるようでこの巨木はまだ生きてるようです。

逆光ですが、東から西に向けて撮影してみた。実はここにこんな巨木があると全く知らなかったんだよね。神奈川の名木100選にも入ってないし。やっぱりパッツンがまずかったのかも?確か名木100選って樹木医さんの選出だったハズ。いつパッツンされたか?にもよりますが、樹木医さんがこんな状態の木を選出しないよな〜。
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