あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

掩体壕1号・2号

2019年05月04日 06時18分50秒 | 歴史散歩
2019年4月6日の散歩です。近藤勇のお墓と生家跡を見学後、調布飛行場方面へ。目的は掩体壕です。
トップ画像が正面から見た掩体壕。何かよくわからないと思うので、横から撮影する。
説明板発見:掩体壕大沢2号
調布飛行場は、昭和13年(1938)に、東京府北多摩郡調布町・三鷹村・多摩村(現在の府中市)にまたがる約50万坪の土地に計画され、畑・家屋・寺・墓地などを半強制的に買収して造られました。工事は、昭和14年(1939)に東京府と逓信省航空局・陸軍省の予算で着工しました。基礎工事には府中刑務所の受刑者や中学生が動員されました。16年4月には、南北方向に1000メートルと東西方向に700メートルの2本の滑走路と格納庫が完成しました。初め、呼び国際飛行場と航空試験飛行場・陸軍訓練飛行場として使用するはずでしたが、陸軍が全面的に利用することになり、首都防衛のため、戦闘機『飛燕』を中心とした陸軍飛行部隊が配置されました。太平洋戦争の戦況が悪化する昭和20年(1945)頃には、日本本土空襲のため飛来する米軍のB29爆撃機や艦載機の空襲で、飛行場近くの高射砲陣地が爆撃され死傷者が出ました。またこのころには、特別攻撃隊(特攻隊)の訓練と九州知覧基地への中継地にもなりました。戦後、飛行場の西側の一部には「進駐軍』(アメリカ占領軍)が消費する野菜を栽培する(水耕農場)が建設されました。
現在では、伊豆大島・新島・神津島への空の玄関口として小型機が運行されています。調布府工場の周辺には、戦時中に利用していた門柱・掩体壕・高射砲台座などが、市民団体の努力で残されています。」
興味深い地図があった。
戦時中と現在の地図が二重写しになっている。ちなみに、地図中央下の赤い三角が現在地です。
掩体壕のそばにあった物見櫓?かな?たぶん足元の石は当時のものだと思う。疲れてて登らなかったけど、登れば滑走路が一望出来るハズ。
実は残存する掩体壕は2個あった。
裏手はフェンスがあるので向こう側に行ってみる。
ふおおおおお〜〜!!飛燕が描かれてる!これやった人よく分かってる。
分かってる人は他にもいたようだ。
掩体壕に格納された飛燕戦闘機のミニチュアがあった。
こんな風に掩体壕一つにつき1機収められていたようだ。
残存する掩体壕の断面を確認。なんか質の悪いコンクリートに見えるんだけども。
想像を掻き立てられる絵だよな〜。
2つめの掩体壕にも説明板がある。
掩体壕大沢1号:掩体壕とは、軍用機を敵の空襲から守るための格納庫で、目的は「本土決戦」に備えて、残り少なく貴重な飛行機を温存するためでした。
太平洋戦争における戦況が悪化する昭和19年(1944)頃から、コンクリート製掩体壕約30基(有蓋)と土塁で造ったコの字型の掩体壕(無蓋)約30基の約60基が短期間に造られました。建設は主に陸軍と建設会社があたり、地元の植木組合や中学生も大勢動員されました。
掩体壕と飛行場は誘導路で結ばれ、飛行機にロープを結びつけて人力で運びました。調布飛行場周辺には、武蔵野の森公園内の2基と府中市に2基の掩体壕が残っています。武蔵野の森公園の掩体壕は戦争の記憶を残す証拠とし、「平和の語り部」として保存しています。」
何気に昔の飛行機が好きなダンナに聞いて見る。「飛燕て知ってる?」と。無茶苦茶専門的なことを語り出した。イカン!押してはいけないボタンだった模様。
説明板にも軽く説明がなされていた。
掩体壕に格納されていた戦闘機「飛燕」
「飛燕」は川崎航空機製で、ドイツのダイムラーベンツの技術をもとに、国産化した液冷エンジンを搭載した戦闘機です。
エンジン出力は1100馬力で、最高時速590km/hで飛行でき、高空能力に優れ昭和18年(1943)に陸軍の主力戦闘機として正式採用されました。調布飛行場には、首都防衛のため「飛行第244戦隊」に「飛燕」が配備されました。昭和20年(1945)、B29爆撃機による本土空襲が激しくなるなか果敢に迎撃しましたが、物量に勝る圧倒的なB29爆撃機の攻撃で戦死者が出て、あまり戦果を挙げることができませんでした。最後は「体当たり」戦術で抵抗しました。戦況がますます悪化するなか、「本土決戦」のため貴重な飛行機を温存するため「掩体壕」に格納されるようになりました。
また、鹿児島県知覧町の「特攻平和記念館」には、当時の飛燕が保存されています。」とある。当時の掩体壕の前で、飛燕の絵が描かれたものを見ながら説明文を読むと、WIKIで読むのとは違った感慨がありますね。
時刻は14時35分。この後だけども。当初は国際基督教大学の正門前の桜並木を見物するか、もしくは国立天文台を見物するか?状況次第だと思い計画してたのですが、野川公園の出口を間違えプラス1kmほど余計に歩いてまして、だいぶん足にきてるんだ。国際基督教大学は諦めて、国立天文台へ行くとしよう。
あ。また野川に出た。やはり綺麗な桜が視界の奥(下流)まで続いてる。こんなに綺麗なのに、散策してる人が少ないのが好印象。来年は野川を追いかけるんだ〜。
時刻は14時41分、この後は登りです。
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近藤勇生家跡

2019年05月03日 05時38分27秒 | 歴史散歩
2019.4.6訪問。野川公園正門前にあります。
説明板発見:近藤勇生家跡 市史跡 指定:昭和52年4月25日
この地は新撰組局長近藤勇の生家跡である。
近藤勇は、天保5年(1834)宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)としてこの地に生まれ育った。
15歳の時天然理心流近藤周助に入門、翌年理心流の目録を得て周助の養子となり近藤姓を名乗った。
当時、宮川家の屋敷は面積約7000メートルの広さがあり、建物は母屋のほか蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋等があり、周囲はケヤキ、カシそのほか大木や竹林が茂っていた。
現在の跡地は、屋敷の東南部に位置し、昭和18年に家が取り壊されるまで使用していた井戸を残すのみである 平成12年12月1日 調布市教育委員会」
あれ?こっちは調布市なんだ。龍源寺さんは三鷹市だったよな。
近藤勇産湯の井戸
宮川家(近藤勇の生家)の見取図と写真。
この説明板には近藤勇の少し詳しい生涯が書かれていた。最後のあたりを抜粋する。
「近藤勇、板橋で死す。
慶応4年3月、甲陽鎮撫隊が甲州街道を甲府へ向かう途中大久保剛と名を変えた勇は、上石原村の鎮守である上石原若宮八幡宮を遥拝して戦勝祈願、西光寺向かいの名主中村勘六家で歓待を受けたと伝えられている。甲州柏尾山で官軍に敗れ、その後、新たに隊士を募集して下総流山に陣をしいた。しかし、そこで官軍に包囲されて出頭、慶応4年4月25日に板橋において刑死した。勇の甥宮川勇五郎は、板橋の刑場で肩の鉄砲傷(慶応3年12月伏見墨染付近で負傷)を目印に首のない勇の遺体を掘り起こし、上石原村の生家近くにある龍源寺へ埋葬した。勇の無言の帰還を一族の人々は野川にかかる相曽浦橋で迎えたと伝えられている。
龍源寺の近藤家墓所には、勇の一人娘瓊(たま)と結婚して近藤家を継いだ勇五郎やその息子の久太郎も眠っている。また、近くには勇のいとこで新撰組隊士だった宮川信吉(勇の父久次郎の妹の子)の墓もある。」
YHAOO!の地図には、近藤勇生家跡には近藤神社と書かれている。ちっさいです。敷地も現在では小さい。14時21分、次へ向かう。
前回、大國魂神社→東京競馬場→東郷寺さんのしだれ桜→多摩霊園で坂の上の雲の登場人物の墓所巡り→武蔵野森公園の桜と桜並木を追いかけて飛田給駅という桜散歩をしました。その時探しきれず見れなかったものがあるのだ。まずは探さねばっ!
丘の上でのんびりしてる人。あの丘の向こう側は調布飛行場になっている。この近くにあるハズなんだけども?
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赤穂浪士ゆかりの寺の楠

2019年03月11日 05時47分37秒 | 歴史散歩
2019年2月24日の散歩。日暮里の朝倉彫塑館に50分滞在し、16時に出発。再び上野方面へ。この日鑑賞予定の目的の巨木は残り4本。さすがに全部見るのは無理そうだけど、行けるとこまで行くよっ。

いくらも行かないうちに次の目的地に着いた。トップ画像は赤穂浪士ゆかりの寺、観音寺さんです。説明板発見:赤穂浪士の吉良邸討ち入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られている。
47士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のちに当寺第6世となった朝山大和尚のことである。
寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内ではしばしば彼らの会合が開かれたという。
明治末の福本日南の著作「元禄快挙録」には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されている。当寺はもと長福寺と称し、享保元年(1716)観音寺と改称した。
本堂に向かって右側にある宝篋印塔は、47士慰霊塔として古くから伝えられ、現在でも霊を弔う人が訪れている。上部に四方仏を表す種子(梵字)、下部に宝筐院陀羅尼教、宝永4年(1707)3月吉日、長福寺6世朝山の名を刻む。 台東区教育委員会」
次いで寄りです。どこかの巨木WEBで見たので寄ってみた。目的の木はこのクスの木。

そこそこの大きさなのに、説明板がない。樹齢・サイズともにわからない。

根元が盛り土の上にあるので、根っこが鑑賞のポイントかも?

さて、参拝して撮影のお礼をする。

実は、観光客にとってのこのお寺の一押しはクスの木でも赤穂浪士の宝篋印塔でもない。山門を出て道路を上の方面へ。お寺の塀に向かう。
観音寺の築地塀として谷中の観光スポットになってます。
時刻はすでに16時6分。もはや予定の木が全部見えるかどうかでなく、日没と散策終了のどっちが早いか?の競争になってきた。

通りで見かけたレトロ建物。なんか文化財指定の緑のプレートがありますね。

こちらは横の壁に神社仏閣の絵馬を飾ってました。何のお店だろう?実はまだ午後4時ではありますが、「閉店しました」の札を出してる店が多いんです。観光客が来すぎたもよう。食べ物の店は「材料がもうありません」だの「コーヒーのみご提供できます」だの。無残です。谷根千といえばぶらぶら散歩で人気の場所ですが、ちょっと休憩出来る公園は極端に少ない。歩き疲れて飲食店へ。というコースを選ぶ人多いんだろうなあ。お寺はあきれる程多いけど、お寺で休憩はできませんものね。普通。

こちらは営業中。お酒も出すお店な模様。
なぜか、ベトナムのプラかごのお店。小さな雑貨屋さんも多い。
こっちは骨董屋さんな気配。変わった柵の間からちらっと窓の奥をみたらそんな感じでした。
さて、細い通りを抜けて火除け地も兼ねてるのかな?車の通る広めの道路に出た。

信号を渡り、小さいけど手入れの行き届いてそうな佇まいの総持院さんを過ぎると、次の目的地妙雲寺さんに到着。しかし!!まさかの事態がっ!!か、歓迎してくれるのは嬉しいんだよ?でもさ、君、その図体でよくそこまでジャンプ出来るよね。
でっかいワンコが柵の向こうで大歓迎ジャンプを続けてる。は、はははは、入れるかぁ〜〜!!

2019年3月9日に東京メトロでいく巨木探訪にまた行きました。
で、気になっていた既出記事に今朝、画像を追加しました。

1本目は麻布の樹齢750年超の善福寺(2017年12月16日)の記事 こちらの記事に紹介の大イチョウは今年のお正月に放送された「神様の木に会う〜にっぽん巨樹の旅〜」と先週3月8日にNHKプレミアムの番組『巨樹」と「美の壺」(巨樹)で紹介された木です。放送後、アクセスが増えました。しかし、訪問時天候が悪く、ポツポツと雨が落ちかかってました。で、うっかり巨樹の裏側の観察をしてなかったんです。この木は750年超の樹齢もすごいけど、第二次大戦時に被災して焼けました。反対側から見れば、焼け具合も確認できたのですが、裏側を見なかったのは大失敗。せっかくアクセスも多いのに、片手落ち記事になってるので気になってたのだ。で、3月9日に確認してきた画像を追加しました。裏側の画像を見たい方はリンクしてますのでどうぞ。
今連載してる2月24日の東京メトロでいく巨木探訪の記事の連載が終わったら、別記事立てします。

2本目は山王日枝神社の大イチョウ??(2017年12月14日)の記事 こちらの記事は赤坂山王日枝神社さんの大イチョウの紹介記事です。
YAHOO!で【赤坂山王日枝神社 大イチョウ】を検索ワードにすると、私のこの記事が1番目にきます。しかし!この記事では山王日枝神社さんの大イチョウにたどり着いてない!知ったからには、そんな記事が検索トップにくるなんて嫌だ〜〜!!
と、2019年3月9日に東京メトロ1日券でいく巨木探訪の最初に立ち寄り、今度こそ山王日枝神社さんの大イチョウを確認してきました。3月11日の朝一で記事に大イチョウの画像を貼り付けました。
ちなみに、探してた大イチョウは所在は山王日枝神社さんの参道の男坂にある山王鳥居のそばにあったんです。前回訪問時(2017.11.24)は楽してエスカレーターで訪問したので、参道下にある大イチョウに気づけなかったんです。樹齢約300年・樹高20メートル、幹周囲4、7メートルの巨樹。そんなん昔ながらの場所にあるのが当たり前!なぜに文明の利器なエスカレーターを使ったんだろうか?自分のアホさに絶望した。しかも、そんな大イチョウに辿りつてない記事が、YHAOO!検索順位1位ですよ?あり得ないっ!こちらも後日3月9日の巨木探訪連載時に新規記事立てします。

もひとつおまけに、ハチ公は上野の科学博物館にいる(2013年1月31日)の記事 こちらの記事もアクセスが多い。実はハチ公の命日って先週の金曜の3月8日だからか?それとも先日、犬&狛犬シリーズのジャンルに新規記事を投稿したからか?理由はわかりませんが、アクセスの多い記事です。
で、3月9日の巨木探訪の途中に、東京メトロ南北線東大前駅で下車、東京農大正門入って左に展示されてるハチ公のご主人とハチ公の像を見学に行きました。ので、これも今日画像追加しました。ワンコ好きなら必見の像だと思う。幸せな気持ちになれるよ。像からわずか50メートルほど離れた資料館には、ハチの内臓が展示されてます。幸せな気持ちのままいたい方はこちらはパスした方がいいかもな。ハチ公も後日、新規記事追加します。

2019.3.20:記事リンクを追加します。
麻布・善福寺の大イチョウ(2019年3月18日)の記事

山王日枝神社さんの大イチョウ!(2019年3月15日)の記事

ハチ公が幸せだった頃(2019年3月20日)の記事
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なぜに西日暮里に道灌の名前が?

2019年03月06日 05時51分12秒 | 歴史散歩
2019.2.24訪問。小田急東京メトロパスを使って巨木散歩。東京メトロ千代田線西日暮里駅で下車。目指すのは延命院さんの大シイの木です。JR線沿いの坂を道なりに登る。角で曲がったら立派な石垣があった。これ、切り込みハギだよな。江戸城とか、あ、さっき浜離宮庭園の大手門でも見たタイプ。ここってどこなの?
取り出したのは根津権現かいわい浪漫ちっくマップです。去年根津神社のつつじまつりで配布してたの。このマップって谷根千界隈の歴史散歩に便利だよな〜。
あれ!?
素敵な石垣だからとワクワクして入り口を探したら、普通の公園だった。その名も西日暮里公園。ダンナが「トイレ」というので待ってたら、なんか見つけた〜。

道灌山。安藤広重作の浮世絵付き。
道灌って特徴的な名前って太田道灌しかいないじゃん!連想ゲームなら「正解」だよね?
先月伊勢原で太田道灌のお墓に参拝してきたばっかりな私。興味深々です。
七人塚と太田道灌の墓(2019年2月11日)の記事 大田道灌は伊勢原の上粕屋神社裏にあった上杉館で主君の裏切りにあい暗殺された。
説明板発見:道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置します。安政3年(1856)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里4丁目付近にその名があります。この公園を腹部台地上にひろがる寺町あたりは、ひぐらし(日暮し)の里と呼ばれていました。
道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関潼関が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったなどの伝承があります。(中略)
道灌山・ひぐらしの里は、江戸時代の中頃になると、人々の憩いの場として親しまれるようになりました。道灌山の大半は秋田藩主佐竹氏の抱屋敷になりますが、東の崖ぎわは人々の行楽地で、筑波・日光の山々などを展望
できたといいます。」
なんか古い絵も展示してあった。

絵の右上に「船つなぎの松」というのが見えますか?松についての解説文もありました。
道灌船繋松
道灌船繋松のことは、『江戸名所図絵』天保7年(1836)、斎藤幸雄、幸孝、幸成(月岑)の三代三人が文章を書き、長谷川雪旦が絵を描く)にくわしく書かれています。
「青雲寺の境内、涯に臨みうっそうとしてそびえたり。往古は二株ありしが、一株は往んじ安永元年の秋大風に吹き折れて、今は一木のみ残れり。(中略)
或る人いわく、昔このふもとは豊島川に続きし入江にで、道灌の城砦ありし頃は、米穀その外すべて運送の船より、この松を目当てにせしものにて、つなぐというもあながき繋ぎとどむるの義にはあらず、これは舟人のことばにして、つなぐといふは目的にするなどいえるに同じ心とぞ。よってその後道灌山の船繋ぎの松と称して、はるかにこの所の松を目当てにせしを誤りて、道灌船繋ぎの松と唱ふるとぞ」
今は公園となったこの地を見回す。説明板の横に背の高い黒松が1本そびえている。過日の松をなぞらえて植栽したものか?
さて、ダンナも戻ったので出発。時刻はもう14時9分になった。マズい〜〜。急がないと!訪問予定を回りきれない。
スピードを上げて日暮里駅方面へ。過ぎ去る神社。
待て!今なんか変なのがいた〜〜〜っ!
過ぎ去れない〜〜。入り口は??参道はどこだぁ〜〜!!

な。これは過ぎ去れんでしょう?これは神社仏閣でなく、久々に狛犬カテゴリー物件です。
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徳川将軍家の浜離宮

2019年02月28日 05時48分17秒 | 歴史散歩
2019.2.24の散歩は巨木探訪ですが、せっかく浜離宮恩賜庭園にいるのだから、ちょっと脱線して歴史散歩をしたいな〜。で、潮入の池の岸に並ぶ5本のトウカエデを鑑賞した後、4つの御茶屋を見学へ。
トップ画像は燕の御茶屋です。燕の御茶屋は平成27年(2015)に史料に基づき復元されました。外からそっと中を見ました。中には入れません。
説明板発見:『燕の御茶屋」は11代将軍家斉の時代の天保5年(1834)までに建てられたもので、室内には将軍が座るための上段が構えられ、将軍自身が接客・利用するための建物であったと思われます。「燕」の由来は燕型の釘隠金具が使われていたことや燕子花(かきつばた)が由来とも言われていますが詳細は不明です』

次は鷹の御茶屋です。いただいたチラシによりますと「11代将軍家斉の時代に建てられた鷹の御茶屋は、平成30年(2018)に復元。こちらは内部の見学が出来ます。「鷹」の御茶屋は寛政7年(1795)頃に建設され、将軍が鷹狩りを行う際の、待合や休憩所として利用されていたと考えられます。
他の御茶屋とは異なり、茅葺屋根や、内部の土間叩き(将軍が鷹狩りの合間に野間支度のまま立ち寄れるように広い土間があった)が特徴の、農家風の佇まいの建物です。」とあります。
画像の右を回り込むと鷹部屋がありました。

初見で足が止まったけど、じっくり見ると等身大の鷹人形でした。鷹部屋の表面に貼られてるガラスに庭が反射して分かりにくいのですが、架木(鷹が留まる木)と餌棚、架垂(鷹が暴れてもつかまりやすいようにゴザをかける。再現してあるのは畳表を使ってる。
鷹部屋は珍しいなあ。
鷹部屋の説明です。

江戸時代の鷹狩りのやり方が図解してあります。基本囮のアヒルで鴨を引き掘りにおびき寄せ、土手から鷹や網で捕る猟です。

ちなみに、鷹の御茶屋の建設の様子を10分間のテレビ番組にしてエンドレス放映してました。史料に基づき忠実に復元してるので、昔の建物の建て方が興味深かったです。
ちなみにいただいたパンフレットによりますと、「歴代の将軍たちは『御茶屋』で賓客と共に景色を楽しみながら食事をしたり、調度品を鑑賞したりするなどして過ごす他、鷹狩りの際は休憩場所としても使用していました。

こちらは将軍が休憩や暖を取る際に腰を掛けるための畳敷きの上段です。

次は松の御茶屋です。手前に船着場がありますね。潮入の池は海水を引き入れており、潮の干満のよって池の趣きがかわる趣向です。江戸の庭園では唯一現存する海水の池だとパンフレットには書いてありましたが、どこかで池が満ち引きする池を見た気がするのだけど、思い出せない〜。どこでだっけ?ちなみに、いただいたパンフレットによりますと、浜離宮恩賜公園は北を築地川・南を汐留川・東を東京湾・西は濠です。

画像は大手門を入ってすぐ、三百年の松の先、内堀と築地川を繋ぐ場所。舟で出入りできたんですね。

松の御茶屋も11代将軍家斉の時代に建てられたものを平成22年(2010)の復元されました。実は2009年9月に浜離宮を訪問してまして、その頃には現在ある4つの御茶屋のうち中島の御茶屋しかなかったのね。

画像を見るとデッキに人影がありますね。中島の御茶屋では抹茶と和菓子のセット(有料)を楽しめる茶店です。
散策を再開。安永7年(1778)に築造された庚申堂鴨場へ向かいます。実は庭園見取り図には庚申堂鴨場は大きな池が描かれてますが、潮入の池の横堀沿いに歩いても鴨場は見えません。ただ小覗と引堀が何個か並んでました。

画像の中央の台形が小覗。画像の左手地面に伸びてるのは引掘です。

小覗は読んで字のごとく、中央に開けた小さな隙間を覗くのです。覗いた先は引掘。囮のアヒルが獲物の鴨をおびき寄せる仕組み。

こちらが猟の手順を図解したもの。
さて、ここで浜離宮恩賜庭園の歴史を紹介。いただいたパンフレットによりますと「徳川将軍家の庭園:海水を引き入れた潮入の池と、二つの鴨場を伝え、江戸時代には江戸城の『出城』としての機能を果たしていた徳川将軍家の庭園です。
承応3年(1654)、徳川将軍家の鷹狩り場に、4代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重が、海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てました。
その後、綱重の子、綱豊(家宣)が6代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり「浜御殿」と呼ばれるようになりました。以来、歴代将軍によって幾度かの造園と改修工事が行われ、11代家斉の時代にほぼ現代の姿の庭園が完成しました」
ここまでが浜離宮恩賜庭園が江戸の徳川将軍家のお庭だった時代です。明治に入ると浜離宮は皇室の離宮となります。
「『浜離宮』と名を変え、関東大震災や戦災によって、御茶屋などの数々の建造物や樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、昭和20年(1945)11月3日、東京都に下賜され、整備ののちに昭和21年(1946)4月から「浜離宮恩賜庭園」として公開されました。その後、昭和27年(1952)11月22日に「旧浜離宮庭園」として国の特別名勝および特別史跡に指定されました」とあります。
浜離宮には明治の面影も残ってます。

説明板発見:可美真手命(うましまでのみこと)
饒速日命(にぎはやひのみこと)の皇子で、神武天皇の東方遠征に従い、手柄をたてたと言われる軍神の銅像です。
明治27年(1894)明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った懸賞募集に当選した作品であります。台座には、佐野昭政策、すぐき長吉鋳と記されています」とありました。

銅像の側に芳梅亭という古民家が。ここさ、有料で貸し出しの建物でした。来歴はわからないけども、玄関口から建物を覗くとガラス窓があったので徳川のものじゃないかと。まあ浜離宮にあった徳川時代の建物は焼失し現存してないから〜。
うっかり浜離宮の歴史を楽しんでしまい、散策予定時間を大幅にオーバーしてしまった!時計がすでに11時なんだけど〜??と言っている!まずい〜〜。

今更だけど足早に大手門へ戻る。うっとりする石組みにまた足が止まってしまった〜。
おまけ:

江戸の鴨猟の方がシステマちっくに思える。ちなみに、ラクロスっぽい網も実物大で展示されてます。
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史跡相模国分寺跡地

2019年02月03日 06時02分02秒 | 歴史散歩
2019.1.27海老名巨木と歴史散歩のゴールは国分寺跡地です。10時10分に本郷の巨木・有馬のハルニレの最寄りバス停変電所北を出発で、今が12時51分到着。3時間のウォーキングでした。
で?去年の秋から治療してる腰痛と右足痛の回復具合はどうかな?
触ってみる。行けそう〜。いつもウォーキングするとお尻と足のジョイント部分からじんわり痛くなってたのだけども、痛くないっ!おお〜、回復してるう〜。
あ。説明板発見:史跡相模国分寺跡地
相模国分寺は、741年(天平13)の「国分寺建立の詔」によって全国に建立された寺院の一つです。
819年(弘仁10)と878年(元慶2)に相模国分寺が被災したという記録が残っていますが、940年(天慶3)には相模国分寺の仏像が汗をかいたという記録があることや発掘調査の結果等から、平安時代中期ごろまでは修理や再建が行われていたようです。
しかし、平安時代後期には荒れ果て、やがて現在の国分寺の場所に移転したと言われています。
相模国分寺跡は、江戸時代に書かれた「新編相模国風土記稿」の挿絵にも遺跡が描かれているほど古くから知られていました。
明治後半から大正にかけて尋常高等海老名小学校(現市立海老名小学校)の校長であった中山毎吉が相模国分寺跡や国分尼寺跡などの遺跡を調査して、矢後駒吉とともに「相模国分寺志」という研究書にまとめました。
こうした中山毎吉等の調査研究や保存運動により1921年(大正10)3月3日に相模国分寺跡は「国指定史跡」となりました。」
説明板に相模国分寺跡の整備予想図が描かれてます。

む〜ん?整備予想図にある築地塀跡の復元部分はないなあ〜。

こんなんありました!説明板発見:塔跡
ここは741年(天平13)の「国分寺建立の詔」をうけて建てられた七重塔の跡です。
1966年(昭和41)と1992年(平成4)に行った発掘調査で基壇(建物の基礎となる土盛)は、一辺の長さが20.6メートル、高さは1.3メートルの規模であったことが確認されました。残存する礎石から、塔の初重の広さは、10・8メートル四方で、塔の高さは約65メートルあったと推定されています。
塔跡のまわりからは屋根瓦(布目瓦)や水煙等の遺跡が出土しています。
また、基壇周辺で発掘された石敷きや盛り土から2回の修理もしくは建て替えが行われたこともわかりました。(後略)
塔の高さが65メートルって凄いわ〜。
せっかくなので塔跡の階段に座っておやつ〜。

あれ?あそこにあるレトロ建物って何?まだ足痛くないし疲れもないから行ってみようかな〜?
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海老名に外宮・豊受大神がある??

2019年01月30日 09時27分37秒 | 歴史散歩
2019年1月27日、海老名の巨木探訪に出かけました。目的の巨樹は3本。南の本郷にある有馬のハルニレから始め北へウォーキング、海老名の国分寺跡をゴールに設定。
本郷の有馬のハルニレを10時24分に出発。最短コースで歩くべく細い道を選んだら、そこは昔道でした。昔道は地形に沿って凸凹と続いてます。急な驢庵坂の土道を下りると畑のあぜ道を富士山を眺めつつ進む。やがて緩い上り坂に変わる。1月末の畑は寂しい。野菜が植わってる畑はごくわずか。そのわずかな畑に植えられた野菜の若い苗も、雨がほとんど降らない1月のためしおれて元気がない。これは農家さんも大変だなあ〜。道は畑のあぜ道から生活道に変わる。道の左右に建つ大きな家も興味深い。植木も立派。椿を垣根に使ってる家は特に素敵でした。椿の垣根を撮影しようとしたけど、完全逆光で諦める。やがてアスファルトの道が見えてきた。そこで歩いてきた道が途切れたのでアスファルト道を相模川のある西方へ。あれ?何かある?
椿地蔵だって?(トップ画像です)
説明板発見:椿地蔵のツバキ 平成10年8月28日指定:海老名市指定天然記念物
椿地蔵のツバキは、樹高4、5メートル、言い伝えによれば、樹齢約300年。この木は、つぼみがふくらんで色づきますが、遺伝子的な理由からか、つぼみのまま落ちてしまうので「玉椿」と呼ばれています。この木には、次のような話が伝わっています。
今から300年ほど前のこと、さる武家の母親が、娘の長患いを治してもらうため、江戸から当地に滞在する名医半井驢庵を訪ねてきました。しかしその途中、杉久保にあった千躰寺の前を通りかかった時に、娘が苦しみ出し、村人や母の介抱のかいもなく、亡くなってしまいました。不憫に思った村人は、娘を手厚く弔って地蔵堂を建て、椿を供えました。
やがて、そのひと枝が根付いて成長しましたが、不思議な事に、椿はつぼみを持つのに花が咲きません。村人たちは、若くして花咲くこともなく亡くなった椿の霊が乗り移ったのだろう、と話し合いました。
この話は、海老名の昔話として広く市民に親しまれています」
説明板には樹齢300年、樹高4、5メートルとありますが、パッと見には樹齢数年にしか見えないわ〜・ひいき目に頑張ってみても、樹齢10年かな?もしかせんでも指定後に元の木は枯れたかなんかで今あるのは2代目かな?ちなみに、今ある木には訪問した1月20日現在椿の花のつぼみがたくさんついてました。咲いてるのは一つもないけども。このまま咲かずにつぼみが落ちたらば、元の椿地蔵のツバキの正しい次世代と言えるかも?確認した方は来月2月に訪問するのをお勧めします。
さて、時刻は10時46分。有馬のハルニレを出発したのが10時24分だからここまで20分のウォーキングですね。では出発。道は土道からアスファルトに変わったけども、道は変わらず緩い上り坂で、左手には富士山が見えます。
ん??「裏参道??」
道に隣接して林というより最早森がある。参道というからには寺社があると思うけども、大きな木に阻まれえ社屋は見えない。
地図に目を落とす。YHAOO!の地図をプリントアウトして持参してるのですが、空白です。しばし考えた。
立ち寄ってもいけども、今登ってきた坂道が、この先で下り坂なんだよね。地図にも書かれてないならば、小さいしょぼい寺社かもしれん。わざわざ確認に行くには高低差があるのはちょっと回避したい。
と、裏参道を見なかったことにして素通りした。
右手(東)側の林にそって坂道を下る。
と、社号標発見。

何だって?内宮・豊受大神
マジか〜!!
何でここに伊勢神宮があるんだ??
混乱する事態です。ってか、有名な神社と同名なだけかもしれんし、落ち着くんだっ!ってか、この時点で素通りはもうナシです。
あ。説明板発見:外宮・豊受大神(食物・産業の守護神)
御祭神:豊宇気毘売大神(天照皇太神の御饌津神)
御由緒・沿革:聖武天皇の神亀2年(725)勧請、遠馬名神豊受大神と称す。
古来推古天皇の6年豊受大神騎馬の御姿にてご降臨されてより、皇大神御尊行の処としてこの地をその鎮の宮と定められました。
江戸時代幕末の社寺改めのよって恩馬郷4ケ村の鎮守豊受皇大神と尊称、明治元年新政府の社寺分離令により社号を豊受大神と改称した。
始め御陵をご神体と定め拝殿のみであった。のちにこれを改めて内殿の創建が行われたが、幾多の戦乱に類焼し再建を重ねてきた。
現在の御祥殿は昭和60年11月に造営された。続いて御神輿殿、御神輿が奉献された。
境内地:1町5反2畝2歩(15,054平方メートル)
境内社:内宮社(天照皇大神)、末社(寄宮五社)<天満宮・山王宮・琴平宮・三峰宮・厳島大神・秋葉大神)
ちなみに直近の祭事は2月11日の祈年祭(春祭)です。」

私が喪中なので、ご参拝は控えさせていただきまして、遠くから神明造りの社殿を眺めるに止めました。境内をパッと見、大きな木がいくつもありました。1本、石碑持ちの木があったので紹介。

石碑には:樟(くすのき)
明治38年日露戦役記念樹 昭和63年道路拡幅工事のため東側へ3メートル移植。
樹高:15メートル 周囲:2、5メートル 重さ:13トン と刻まれてました。
うん、神社仏閣公園をめぐると、日露戦争にちなんだ石碑ってとても多いんだよね。慰霊碑に限らず。
さて時刻は11時2分、ウォーキング再開。
道なりに坂を下って行くと、分かれ道があった。
道祖神かな?これがあるのは古い昔道の証のようなもの。道なりに左へ進み更に坂を下る。

このあたりから立派な家が散見できた。どこのおうちも玉垣の上に大谷石の塀と、立派の庭木があって、で〜ン!とした日本家屋を構えてます。もうね。「日本家屋」という名前をつけてデイアゴスティーニがミニチュアプラモデルを販売しそうな勢い。
坂を下りきった先に東名高速道路が見えた。高架下に道は東に進むと海老名サービスエリアにいける模様。興味あるけど金はないので、それをくぐり道なりに進む。突き当たりにも素敵な庭木の大きなお家。このあたりは家を眺めるだけで面白い。が、この後しばらく面白みのない建売住宅?いやアパートかな?が続きます。
突き当たると急坂が!また降りるのか〜。憂鬱。歩いて来たのが相模川の河岸段丘の上部だったとわかりましたが、私右足痛と腰痛で去年の秋は散々でね。この日のウォーキングは回復具合の確認もあって、高低差のないコースをチョイスしたつもりでした。でも実際に歩いてみると昔道だった訳で、昔道だから高低差もそこそこある訳で。止めが一気に河岸段丘を下るとか〜凹む〜〜。
ぼやいても坂道はなくなってくれない。ゆるゆると腰と足と相談しつつ注意して降りる。あ〜、もう!下り坂の方が腰痛にも坐骨神経痛にも悪いんじゃ!
救いは良く見える富士山か。とぼとぼと歩いてると、本日2つ目の巨木の地、大谷観音堂が見えてきた。時刻は既に11時36分です。
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史跡 旧相模川橋脚の周りは桜

2019年01月24日 07時13分01秒 | 歴史散歩
茅ヶ崎市巨木探訪、鶴嶺八幡宮の大イチョウは樹齢約1000年!長く生きてるのに樹勢旺盛で樹高29メートルもあり大満足!帰りも800メートルの松並木の参道を通り参道起点の東海道に到着。さて?この後どうする?今回は痛めてる右足の回復状況を確認する意味もあるので、身体の状態をチェックする。
いつも痛みは右の尻っぺたか脚とお尻のジョイント部分が痛み出すけど、そこはまだ痛くない?けど、そもそも接骨院に駆け込むことになった腰椎の方がなんとなくチコンときてるような〜?
実は私は毎朝5種類・毎夜2種類の薬を飲んでる弊害か、痛みを感じるのが遅れるのだ。相当鈍くなってるんだってさ!で、痛い!と感じた時はもう手遅れで、患部が相当悪くなってしまってる状態。これを去年の秋に繰り返してしまい、いまだ接骨院に通いつめるハメになったのですよ。で、痛みを感じる前に散歩をやめること!が大事だそうで。ってなことで、当初計画してた氷室椿庭園とたい焼きの一丁焼きこのはさんへいくのを諦めた。でもこのまま茅ヶ崎駅に引き返すのは悔しい!となると〜?この近所でどこか〜?あ!あった!季節外れだけどもあそこへ行ってみよう!
午後13時15分史跡旧相模川橋脚に到着。ってか、トップ画像の背後に見えるのって、相模川じゃないよね?あれって、小出川じゃん???あれ〜??の前にそばの広場のベンチで橋脚を眺めつつお昼ご飯〜。あたりは20本以上の桜が植栽されてます。ここは桜の季節に訪問したかったけどな。でも当日は小春日和で、お日様が背中を照らしてくれてぽかぽかです。あれ??川の方から何か綿ぼこりみたいなのが次々と飛んでくる?何かしら〜?
気になったので川の堤防まで確認にいけば、ススキやオギの穂がたくさん揺れていて次々と綿毛のような穂を風に乗せて飛ばしてた。初めて見たわ〜。小出川の向こうに園央道かな?(ブログを書くにあたり調べたら、新湘南バイパスが正解でした)高架がなければ富士山が見えるハズなのに、残念〜。さて、旧相模川橋脚だ。道路になんか地図があるんだよね〜。

まずは説明板を読む。

史跡 旧相模川橋脚
関東大震災で出現した鎌倉時代の橋脚 地震で太い柱が水田に出現!
▪️1923(大正12)年の関東大震災の翌年に起きた余震で、当時水田だったこの場所から太い木の柱が出現しました。
▪️鎌倉時代に架けられた橋の跡
出現後まもなく、歴史学者の沼田頼輔により、『吾妻鏡』(鎌倉幕府の記録書)などから鎌倉時代に相模川に架けられた橋の遺構(橋脚)と考証されました。
▪️貴重な遺跡として史跡に指定
1926(大正15)年10月20日に国の史跡に指定されました。また、2001(平成13)年からの整備に伴い実施した発掘調査で、関連する土留め遺構が発見され、2007(平成19)年2月6日に追加指定されました。
▪️この史跡の主な特色
1)中世の橋遺構は全国に例が少なく大変貴重である。
2)地震で地中の遺構が出現したまれな例である。
3)地震の時の様子をそのまま目にすることができる。(後略)」
おおっ!私勝手に「旧相模川橋脚」と地図で見た時に関東大震災で被災した橋脚を保存してあるのだと思ってたけど、まさかの関東大震災で鎌倉時代の橋脚跡が液状化現象で出現したものだったとは!びっくり〜。しかも、ここへくる前に源氏の源頼義と頼家親子が勧請した鶴嶺八幡宮へ参拝したので、訪問先のチョイスはぴったりだった!説明版が他にもいっぱいです。まずは。

周辺の3D地図です。現在地は?右から2枚目、上から3つめのパネルの左上に赤で<現在地>と書かれてる。ちちなみに現在地の下に左右に伸びてる道が東海道です。右に上下に流れる大きな青色が現在の相模川。となると、かつての相模川の流れは今と少し違ってたのでしょうか?

突き出た橋脚は思ったより大きいです。

図解発見! 上の画像の見取り図の右下に、縮尺バーがある。10メートルの目安もある。見取り図の左右が相模川の幅ならば、橋脚の突き出てきた部分で察するに、上の橋は30メートル近いんじゃないの?河口近くだから相模川も川幅が大きかったとは思うけど、鎌倉時代にそんなに大きな橋が必要だったのかな?でも橋脚は綺麗に並んでるんだよね。時代が違う橋脚かな?というのはナシだなあ〜。でもさ、東海道って確か徳川家康が江戸に入って以降整備されたんじゃなかったっけ?となると、もしかして元は鎌倉道だったのか?にしても30メートルも必要だったのか?む〜ン??

あれ?レプリカだと?
つまりだね、今見えてる突き出た橋脚は本物じゃないんだね。まあ野ざらしになった木だとすぐに痛むだろうからレプリカはありです。以前から薄々感じてましたが、茅ヶ崎市って文化財の保護に力入れてるよな〜。駅の南側にある文化財もきっちり説明文とかあって歴史好きにはありがたい場所です。たまたま説明文が破損して読めない場所があったので、問い合わせメールを送ったら、丁寧な返信がきたのを思い出した。さて、短い散歩だったけど満足したので茅ヶ崎駅に戻ります。南湖の左富士を背に土手を歩いてたら、東海道と交わったところで歴史散歩グループと出会う。みんないい笑顔で富士山を撮影してた。富士山見たら日本人は撮影したくなるものです!わかるわ〜。
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七賢堂特別開扉

2018年11月14日 04時51分39秒 | 歴史散歩
明治記念大磯邸園の明治150年記念公開が、10月23日〜12月24日の期間限定で開催中です。会場の旧大隈重信邸や旧陸奥宗光邸などの邸宅と邸園から、大磯城山公園は徒歩20分ほど。合わせて訪問したいと大磯城山公園のホームページを閲覧したら、七賢堂特別開扉日程 開扉日:10月23日(火)及び、10月27日(土曜)〜12月24日(月曜)の間の土日祭日 開扉時間10:00〜16:00とありました。
マジで?
旧吉田茂邸(2015年2月27日)の記事 吉田茂邸は梅の季節の初訪問です。前回訪問時には七賢堂の扉は閉まってて、中がどうなってるか?わからなかったんだよね。
わくわくと見学です。

開いてますっ!

七賢者の写真が掲げられてます。
いただきましたコピーによりますと、七賢堂は、明治の元勲伊藤博文が、大磯町の自宅「滄浪閣」の敷地内に明治36年(1903)に建築した9尺四方(四畳半の板張り)の大きさのお宮風の木造建物「四賢堂」が始まりです。
「四賢堂」は、伊藤博文が日頃から尊敬していた、三条実美・岩倉具視・木戸孝允・大久保利通の4人の写真を道内に掲げ祀られたため「四賢堂」と呼ばれ、「滄浪閣」を幾度か訪れられた皇太子時代の大正天皇の筆による扁額が掲げられていました。
伊藤博文の没後には伊藤博文の写真が掲げられ「五賢堂」と呼ばれていました。
その後、西武鉄道の手を経たのち、昭和35年(1960)に吉田茂が邸内に移築し、自らの筆による「五賢堂」の扁額が掲げられていました。
吉田茂は尊敬している西園寺公望の写真を掲げ合祀しました。
吉田茂の没後には、吉田茂の写真が掲げられ合祀されて「七賢堂」と改称されました。佐藤栄作元首相の筆による扁額が掲げられています。
吉田茂邸に移されてのち、毎年例祭が行われてましたが、吉田茂邸が大磯公園になると、公園内で宗教行事を行う事が出来なくなりました。
上の画像の七賢堂内に掲げられている写真は、左から吉田茂・岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允・伊藤博文・西園寺公望です。
ふと視線を下げると、写真のない古い額が直置きしてある?

見つめていたら公園のガイドさんが「公園内で宗教行事を出来なくなった時に降ろされた古い額です。額には家紋がついてます。今回見つかったので展示してます」ですってよ?
せっかくなので手を合わせてついでに吉田茂邸の庭園を見学する。

吉田茂はサンフランシスコ講和条約に調印した方で、銅像はサンフランシスコを向いて設置してあるとか。
で、トップ画像です。実は旧吉田茂邸は2009年3月に焼失しました。2017年に大磯町郷土資料館の別感として再建されました。
 
中に入るか迷ったけども、ここ有料なんだよね。観覧料一般500円。
〜〜残念だけどもパスです。時間がないんじゃ!本日の私の活動限界も近いんじゃ!
ってな事で、明治記念大磯邸園ガイドツアーでいただいた当日限定庭園入園券を利用すべく戻ります。
通りはかつての東海道で現国道1号線。沿道には古い民家が点在してて面白い。あれ??

見事なサボテンを見つけた!大きさがわかりますか?背景の民家の屋根の高さを比べてみると大きさが推し量れるかと?

つ、疲れた〜。足が痛い〜。お尻も痛い〜。活動限界はここまでか〜。予想以上に普通に動ける時間が短かったので凹む。座って痛みの治るのを期待して待つ。
痛みに鈍い私が痛みを感じたら手遅れで、だいぶん悪い状態になってます。痛くなる前に休憩しないといかんのだとわかっていたのにやっちゃいました〜。とりあえず、国道1号線沿いにあった神社の木陰でおやつ休憩にする。
なんとか痛みが弱くなったので再び歩き、旧伊藤博文の滄浪閣まで戻ってきた。この先の旧大隈重信邸と旧陸奥宗光邸まであと少し。

〜〜〜!!庭園の前にき、休憩を〜。一旦痛みが出ると痛みがすぐにぶり返してきたわ〜。もう堪らんのじゃ!私の場合は腰椎由来ですが、今痛いのは右の太ももと尻たぶあたりでねっ。どないもねっ。はふう〜。
敷地にめぐらしてある見事な石組みを眺めることしばし。
で、痛みが治るのを待って大隈重信&陸奥宗光邸の敷地入り口で庭園入園券を見せて入場。先ほどのガイドツアーでとっても気になってた桜の老木をまず見学。

不思議な形の枝ぶりです。

これ何に見える?
説明板発見:龍頭の大島桜龍頭のかたちをした珍しいオオシマザクラで、一重咲きで白色、3月から4月にかけて満開を迎えます。関東以南の島々の海岸沿いから山地にかけて多く生育し、得に伊豆大島などの伊豆諸島に多く生育することから、和名の由来となっています。上部で潮風にも強いことから庭木に利用されています。
到着したのが午後2時です。逆光になったのが残念だ。
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旧伊藤博文邸外観見学

2018年11月13日 06時13分12秒 | 歴史散歩
2018.10.27訪問。明治記念大磯庭園明治150年記念公開ガイドツアーの3つめは旧伊藤博文邸です。伊藤博文は天保12年(1841)周防国(現山口県)出身。農民の長男として生まれた。家は貧しいかった。14歳の時、父が萩藩の下級武士伊藤家の養子となったことから、伊藤姓を名乗るようになった。
安政4年(1857)相模(神奈川県)での江戸湾警備の仕事を任された時、長州藩士米原良蔵と出会い、吉田松陰の松下村塾で学ぶ。安政6年(1850)には桂小五郎(木戸孝允)に従い、長州藩の江戸屋敷に住む。同年安政の大獄で吉田松陰が処刑されると、尊王攘夷運動に加わる。
文久3年(1863)井上馨らとともに藩主の命令を受けイギリスへ。長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカ連合艦隊の下関戦争の知らせをうけ帰国。和平交渉にあたる。
維新を迎え明治新政府において英語力をかわれ外事局判事などにつく。
明治4年(1871)岩倉使節団など留学を経験し、貨幣の制定や鉄道事業に力を注ぎ、内閣制度の創設や大日本帝國憲法の制定の中心人物となる。
明治18年(1885)、44歳で初代内閣総理大臣に就任。以後第5代、第7代、第10代と4度内閣総理大臣を務める。
日清・日露戦争を経て、明治38年(1905)初代韓国総監となり、朝鮮半島の政治体制を整えようとしていたが、明治42年(1909)ハルピン駅で朝鮮のテロリストの襲撃をうけ暗殺された。享年69歳。『大磯建物語』より(総合案内所で配布の冊子です)
ところで伊藤博文の滄浪閣(そうろうかく)って他にもあったのをご存知ですか?横浜の金沢八景駅から徒歩、八景島シーパラダイスの向かいにひとつ。小田原の海岸にひとつ。以前訪問済みです。
旧伊藤博文別荘(2013年1月4日)の記事 野島公園内にある明治31年(1898)に建てられた茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築の紹介です。茅葺屋根の建物は、大磯の滄浪閣が関東大震災で被災しなければ、こんな感じだっただろうと思える風情です。伊藤博文は農民出身なので、こういう建物の方が馴染みでくつろげたのだろうと想像できるのでオススメです。
伊藤博文別荘跡(2011年11月7日)の記事 御幸浜近くに伊藤博文の滄浪閣はありました。現存するのは入り口の石組みと胸像のみですが。伊藤博文は小田原の滄浪閣で明治29年(1896)まで過ごしました。
明治23年(1890)、大磯を気に入った伊藤は大磯に別荘を建築することにし、完成すると小田原を引き払い大磯の別邸に滄浪閣と名付け本宅とする。東隣に佐賀藩主鍋島直大の別邸、西隣に西園寺公望の別邸が建てられた。和館と洋館があったが、大正12年(1923)に発生した関東大震災で倒壊した。
つまりですね。現存の建物は伊藤時代のものではないのですよ。ならば?
大正10年(1921)に伊藤家が東京に転居。滄浪閣は李王家の李ぎんに譲渡され、李王家別邸として使用されるようになりました。震災後、昭和元年(1926)に使えるものを使い再建。現在ある建物はこの時再建したもののうち一部が現存。トップ画像です。
第二次世界大戦後、旧李王家別邸はGHQに接収され、軍事施設として使用された。のち、政治家楢橋渡へ浄土され、昭和26年(1951)西武鉄道の所有となり、昭和39年(1964)からレストランと結婚式場として活用された。
ガイドさん曰く「内部は手を入れないと公開できませんが、ステンドグラスがどが残っています。

う〜む。なんとか中が見えないか?と窓に張り付いてみたら、中華料理店によくある丸いターンテーブルと椅子が見えたよ。洋館の前は斜面です。

おそらく石畳は変わってないかも?と足元を撮影。と??小さな雑木の1本1本に番号がつけられていた。
「これ、何のためにつけてるの?」と尋ねたら、「西武との売買交渉のためです。雑木の1本1本も資産のうちですから」ですってよ?つまりお金も問題なんだね。西武時代のいらん建物がまだ今は残ってるので、買収交渉が終わっても正式公開にこぎつけるまで、まだまだ先は長そうです。

そういえば、大隈重信邸・陸奥宗光邸・伊藤博文邸の3つにパネルがありましたが、みんな奥さんとの記念撮影写真展示されてました。
これにて90分のガイドツアーはおしまいなのですが、最後に気になってたことを質問してみた。
「明治記念大磯邸園の見取り図には旧西園寺公望邸跡(旧池田成彬邸)って公開しないんですか?」

「この伊藤博文邸より痛んでて公開できないとか?」
するとガイドさんは
「池田成彬邸の内部はとても素晴らしいです」と。

「ならお金の問題ですか?」と突っ込んだらば。
「所有はある銀行が持ってます。なにかがあった時のために、持っておきたいという人がいてですね」
わかりました!そういうことか〜。塩漬け物件なのね。残念です。
ガイドツアーの最後にアンケート用紙に書き込んでたら、ツアー参加特典で伊藤博文と大隈重信が大磯で撮影した写真の絵葉書をいただきました。
え〜と?元になったものはこの写真です。

アンケートを投函したら、売店を発見。

ここでブラタモリで紹介されていた明治の海水浴の絵が絵葉書になってました。迷ったけども、2個250円のアオバトをモチーフにしたクッキーを購入しました。

ここで購入したアオバトクッキーは、11月11日の大山紅葉散歩で大山阿夫利神社下社のベンチでおやつにいただきました。

やわらかクッキーで美味いです。オススメです。(2018.11.14にクッキーの画像を追加しました)
さて、時刻は既に12時を回りました。
せっかくなのでお昼ご飯は城山公園で食べたい!

吉田茂邸前にあるバラ園のベンチでお昼ご飯〜。残念ながらバラの花が少ないのね。

さて、次は七賢堂の公開です。
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旧陸奥宗光邸見学

2018年11月12日 08時07分03秒 | 歴史散歩
2018.10.27に見学。明治記念大磯邸園ガイドツアーは、10時半スタートで、同じ敷地にある旧大隈重信邸からスタート。次はお隣の和館陸奥宗光邸です。
維新後、大磯は幕府の御典医だった松本順が提唱した健康回復目的の海水浴をここでと明治18年(1885)に日本で初めての療養を目的とした海水浴場が開設され人気に。ついで明治20年(1887)に東海道線大磯駅が開業し、別荘地として急速に発展します。明治の政財界の要人が集う場所となりましたが、大正12年(1923)に相模湾を震源に発生した関東大震災で多大な被害をうけ、以後往年の繁栄を取り戻すことなありませんでした。
前置きはこれくらいにして、旧大隈重信邸と旧陸奥宗光邸は同じ敷地に隣接しています。大隈重信が大磯の別邸を使用したのは1897年(明治30)からの4年間のみ。別邸は古河市兵衛に譲渡されます。
さて、陸奥宗光って誰?という方のためにかるく紹介しますね。

陸奥宗光は天保15年(1844)生まれの紀伊の国(和歌山県)出身。
文久3年(1863)に勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応3年(1867)坂本龍馬の「海援隊」に参加。維新後は兵庫・神奈川県知事、大蔵省租税かしら、元老院議官を歴任。
明治11年(1878)土佐立志社事件への関与が発覚し禁固5年の刑を受ける。出獄後、伊藤博文の勧めでヨーロッパへ留学。明治19年(1886)帰国後、外務省に入省。
陸奥宗光の最大の仕事は、幕末期に外国と結んだ不平等条約の改正です。外国に有利に日本に不利だった条約を明治27年(1894)日英通商条約に調印しました。しかし、明治30年(1897)に肺結核のためここ大磯で死去します。
そういえば、NHKで制作された「坂の上の雲」で陸奥宗光役の役者さんがゴホゴホやって意見してたのを「陸奥は療養しろ」とか中尾彬さん役の人に止められてたのをふと思い出したよ。
で、陸奥宗光が大磯に別荘を構えたのは明治27年(1894)です。明治29年(1896)には病気を理由に外務大臣を辞任して大磯で療養生活を送ります。が、翌年に他界する。で、なぜに別荘が現在古河電工の所有になったか?というと、陸奥の次男・潤吉が古河市兵衛(古河財閥創始者)の養子になっていたので古河家に譲渡されました。しかし建物は大正14(1923)に発生した関東大震災で大きく損傷。古河財閥3代目当主虎之助は母のため大正14年(1925)に建て替えます。なので現存の建物は旧陸奥宗光邸といっても、陸奥時代と同じものではありません。ただ、残された資料によると玄関と主な居住部分は復元されているようだとか。前置きが長くなってしまいましたが、建物に入ります。

玄関に掲げられた「あの扁額は何て書いてありますか?」とガイドさん。ンなこと言われても〜??
「一つ目は「游」で2つ目は「漁」ですか?」と私。「惜しい。正解は「聴漁荘」です」と返すガイドさん。もうね。ついつい口から余計なことがポロポロ出てしまう私です。

反省しつつも陸奥時代の面影を復元したという玄関から靴を脱いで上がります。

大きな窓のある和室です。

訪問したのは10月27日なのでわかりにくいのですが、庭木はつつじが多い。5月にぜひこの和室から眺めてみたいものだわ〜。

この和館も大隈邸と同じく広い広縁の廊下があります。畳敷きの外側に廊下がしつらえてあるのは、大隈邸と同じく海水浴で汚れた体をお風呂で洗うために、直接庭から広縁に上がり廊下部分を回って風呂場に向かえるようにしたからとか。これもガイドさん情報です。

ちなみにこれが外からみた上がりの石。玄関周りより手取り早いよね。

和室の床の間には横山大観の滝の図が。ちなみにこの絵は横山大観が滞在し、お礼代わりに庭の滝を描いてったんだって。後で庭園散歩した時の画像で、横山大観が腰かけて描いた石などを紹介します。
さて、海水浴場が近いので、広い浴室は必須だった模様で、脱衣場も浴室ともに広いです。脱衣場はツアー参加者が邪魔(失礼)で撮影断念したけど、浴室はちょっと撮影しました。

現代を生きる私たちからしたら、浴室の壁が木製なのは違和感ありますね。

でもこのレトロなお風呂も古河家時代のもの。天井全体に換気をする工夫があり、

あれ?これ、シャワーじゃないの??

海水浴のあと、体についた砂を洗うには湯船につかるよりシャワーの方が便利かも?まあ、のちに庭を散策しててもひとつ体を洗う理由を見つけちゃいましたが。だって、土俵があったんだもの〜。ご当主の趣味だったみたい。

こちらは浴室・脱衣場に隣接する洗面所。洗面所なのに素敵だったのでパパッと撮影。パパッと撮影したので、ピンボケ画像になっちゃったよ〜。雰囲気が伝わるのを載せますね。
洗面所・脱衣場から廊下を挟んで家族用の和室があります。そこに陸奥宗光の功績紹介資料展示が。ふと、片隅にあった大きな鏡台に目が止まる。ガイドさんに開けていいか?聞いたわ許可が出たので開く。

綺麗な鏡だった。いつの時代のものか?しみじみと見てたからかガイドさんが「皇后が行幸された時に使われた鏡台と伝わってます」と。今回はガイドツアー90分の時間制限付きだからあまり突っ込んで尋ねられないのが残念です。⚫️見さんに聞いたらあれこれ一杯教えてくれそうなのになあ〜。残念ですわ。ということでみ陸奥宗光邸の見学は一旦終了。

玄関前にあった説明板。陸奥宗光の奥さん亮子はとても美人ですね。息子も美男だなあ。
さて、ガイドツアーでは最初に入園券の配布がありまして、お庭は当日限りに自由見学できます。ツアーが終わってから戻ってくるぜ!!ってなことで、次に移動です。伊藤博文の滄浪閣です。
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明治記念大磯庭園明治150年記念公開

2018年11月09日 20時24分43秒 | 歴史散歩
10月のある日、いつものように神奈川新聞のWEBをチェック。するとこんな記事を見つけた。「政界の奥座敷」を公開 大磯邸園、10月23日から
ん?大磯邸園って何だろか?興味を持って記事を読むと「明治改元150年を記念し、かつて「政界の奥座敷」と呼ばれた大磯町に残る伊藤博文や大隈重信らの旧邸宅の一般公開が10月23日に始まる。」とありました。
な、何だってぇ〜〜〜!!更には「事前予約制のガイドツアーで1日最大160人の受け入れ、滄浪閣の外観のほか、大隈邸と陸奥邸の内部を案内する。明治天皇が伊藤に下賜した杉板戸絵も公開される」とある。これは〜〜〜!!申し込むしかないよねっ!と。すぐさまポチっとして、無事に10月27日(土曜日)の10時半開始の見学ガイドツアー参加予約できました。
当日をわくわくと待ってたら、なんと!タモリさんのブラタモリ「湘南」の回で、大隈邸を訪問してるではありませんかっ!事前に大隈邸の内部をチェックポイントが知れて嬉しかったのと、放送前に見学予約を済ませてた私を自画自賛しちゃいました。
では今日から10月27日に参加したガイドツアーを紹介します。
まずはトップ画像。JR大磯駅からガイドツアーの集合場所である旧伊藤博文の邸宅跡、滄浪閣を目指し東海道を西へ。と?ブラタモリ「湘南」で見た建物を見つけた。タモリさんが大きな門に驚いてたお家ですね。

で、かつての東海道を彷彿とさせる松並木に到着。前回は画像に見える歩道橋を渡り旧島崎藤村宅の見学に行ったんだった!
で。あの時も驚いた東海道の松並木の中に、現在もかつての松が現存してるのを感慨をもって見上げる。
 
素晴らしいハニカム構造。惜しむらくは、倒伏しないように松の上の方がパッツンと切られていることです。あ〜、残念だけども。倒れるよりマシなのか?海が近いので台風とか強風が吹くと東海道こと国道1号線に倒れるとヤバいですものね。

あ!ここかな?とプリントアウトしてきたガイドツアー参加の参加証お知らせページを取り出す。あ。私はガイドツアーをwebで申し込みましたが、往復葉書やFAX申し込みも可能です。
しかし、実はここは古河財閥管理物件で、ガイドツアーでいく旧大隈重信邸&旧陸奥宗光邸の入り口でした。お姉さんに尋ねて総合案内所へ向かいます。こちらがガイドツアーの受付場所なのです。

すんごく解りやすい目印があります。

所在地はこちらです。
ガイドツアーは10時に受付開始。早めに受付を済ませたら、隣接のパネルをチェック。

すんごくためになりました。これ、今からガイドツアーに参加する方は、ぜひともツアー参加の前に目を通すのがオススメです。

パネルは多い。ピックアップしたのはガイドツアーで訪問するこのパネルです。
あ!ついでにここでA5版の20Pある「大磯建物語 明治記念大磯邸園 旧伊藤博文邸・旧大隈重信邸・旧陸奥宗光邸」を必ず手に入れてください。ガイドツアーで訪れる情報がぎゅぎゅっと詰まってます。
ちなみに、一般公開は12月24日まで(水曜休園)。午前9時から午後4時半。邸宅内を見学するにはガイドツアー参加が必須ですが、庭園の見学は予約不要です。
ツアーは1日4回の約90分。(個人2回・団体2回の見学です)私はE班で、E班は13名の参加者がいました。
では出発。最初は大隈重信邸から。

おおっ!ブラタモリで見た和館の玄関だ〜〜!!ワクワクです。(続く)
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大磯明治歴史散歩はブラタモリでリターンズ

2018年10月31日 11時29分04秒 | 歴史散歩
今日までgooブログでアクセス解析サービス実施中。と?2015年2月28日に投稿した大磯明治の歴史散歩はブラタモリでの記事の閲覧が多いのです。おそらく今月のブラタモリ「湘南」の回で再びタモリさんが訪れたからかも?ならば!既出の記事に情報追加しちゃいました。内容はこちら。
「2018年10月31日追加情報:今年は明治維新150年です。記念して大磯庭園周遊イベントが開催されてます。

期間:2018年10月23日〜12月24日
会場:明治記念大磯庭園(大磯町西小磯85)
開園時間:9:00−16:30
休園日:水曜日
入園料:無料
主催:国土交通省
ブラタモリリターンズともいうべき「湘南」が10月半ばに放映されました。番組内でタモリさんが訪れた大隈重信邸も公開されてます。WEBページに申し込めば、邸宅内ガイドツアーがありますので、この機会にぜひ訪れてください。私は10月27日にこのガイドツアーに参加。大隈重信邸と陸奥宗光邸は屋内見学、伊藤博文邸は外観見学です。90分でガイドさんが案内。合わせて庭園自由見学のチケットと大隈重信と伊藤博文が大磯で撮影した絵葉書をいただきました。いまだけの特別な体験です。ぜひ参加してみては?

そうなのです!実は先週の土曜日にガイドツアーに参加しちゃいました!
お前、腰と右足どうした!?と日々私のブログをご覧くださってるかたは思われました?
そんなん我慢したに決まってます!もう当たったのだから行くしかないじゃない!で、今痛みに唸ってるのですが…(ドアホと呼んでください)
で。長い時間またまた椅子に座れないのでさわりだけ。

はい!こちらガイドツアーで入った大隈重信邸の玄関です。なんと西側についてます。なぜならば、大隈重信の家は肥後は鍋島藩の家臣でした。西隣は元鍋島藩主の別荘でした。殿に敬意を表し、西に玄関を作ってあるのだ。そういう小ネタはガイドツアーに参加してこその醍醐味ですね。
でガイドツアーでは屋内見学できます。

こちら、ブラタモリでタモリさんが「かつては目の前に海が広がってたんでしょうね」とおっしゃっては大広間前の廊下です。
画像をよく見てほしい。廊下のヘリが畳じきでない部分がありますね。これは海で泳いだら砂がつくので、ヘリの廊下部分をぺたぺたと移動してたとか。その頃の写真も展示してあったり。ガイドさんは割れたら最後の修復不能な鉛ガラスを心配してました。透明度は最高だけど歪む昔のガラスです。大隈重信邸は関東大震災の被害を免れたオリジナルの建物。とはいえ、大隈重信がここを使用したのはわずか4年。以後は隣の陸奥宗光からの古河財閥管理になったとか。ツアーではそちらも屋内見学しました。詳しい記事は後日。だって今ならまだガイドツアーに参加する可能性があるからね。ブラタモリの放送のせいかどうか、すでに11月分の個人枠は埋まってるとかなんとか。土日に訪問したいなら12月が狙い目かも?12月分の申し込みは11月1日からです。興味のある人は急げ〜〜!!
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杉並さんぽ5 荻外荘(近衛文麿旧宅)

2018年06月11日 05時27分07秒 | 歴史散歩
説明板発見:「国指定史跡 荻外荘(てきがいそう)は、昭和前期に総理大臣を3度務めた政治家、近衛文麿の邸宅です。
当初は、昭和2(1927)年に、大正天皇の侍医を務めた医師の入澤達吉が、義弟で建築家の伊東忠太に設計を依頼して建てた邸宅でした。昭和12年(1937)に近衛文麿が入澤から邸宅を譲り受け、その後、西園寺公望が、「荻外荘」と命名しました。近衛は、ここで政治会談や第二次・第三次近衛内閣の組閣を行うなど、荻外荘は、近衛の主要な政治の場となりました。特に、昭和15(1940)年の「荻窪会談」は、第二次近衛内閣の基本方針が確認された会談として有名です。戦後、昭和20(1945)年12月16日に近衛は邸内の書斎で自決しました。
平成28(2016)年3月1日、昭和期の政治の転換点となる重要な会議が行われた場所として、国の史跡に認定されました。
現在、建物部分は非公開ですが、史跡指定の趣旨に基づき、文化財として適切な復原整備と活用に向けた検討を進めています」

建物は非公開。

現在は旧近衛文磨の邸宅を南の芝生公園から見上げるのみ。

公園の真ん中に、手押しポンプつき井戸が残っている。芝生部分はかつては池があった。

南の道路際には大木がある。親子連れが木のそばで休んでいる。木の大きさがわかるかと。

木の樹齢などを示すプレートはない。
wikiで調べたところ「旧近衛文麿の旧宅は戦災を免れたので、近衛の死後、一時近衛家から家を借りてたのが吉田茂だったとある。
1960(昭和35)年に荻窪会談が開かれた応接室を含む木造平屋建ての一部を、豊島区巣鴨の天理教東京教務支庁の敷地へ移転。今年度より復元工事を始めるもよう」
復元後公開されたら再訪したい。 
時刻は14時2分、移動です。まずは善福寺川を渡り対岸に行きたい。ラッキーなことに、角川庭園・幻戯書房訪問時にすぎなみ景観区ある区見マップ(荻窪南)のウォーキングマップを手に入れた。それによりますと、近所には他に与謝野鉄幹・晶子旧居跡など見所盛りだくさんですが、ここは当初計画通り、次は中道寺に向かいましょう。
ウォーキングマップには、松見橋のそばにカルガモと書いてあるけども、松見橋からカルガモは見えない。残念に思ってると橋の反対側からやってきた年配の男性が「この川は善福寺川ですか?」と聞かれた。おおう!そうだとは思うけども、私は観光客。念のためにウォーキングマップを確認。
そこには間違いなく「善福寺川」と書いてあった。この善福寺川は杉並区内を蛇行して流れてまして、この後何回か渡ることになりました。
14時11分、中道寺に到着。
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杉並さんぽ1長屋門と西郊ロッヂング

2018年06月07日 05時44分24秒 | 歴史散歩
2018.5.20代々木公園イベント広場でベトナムフェア→東京メトロ副都心線明治神宮前駅→新宿3丁目で丸ノ内線乗換→荻窪駅に12時到着。代々木のイベント広場を出たのが10時56分だったから、移動で1時間もかかった!びっくり。
さて、この日の散歩の杉並さんぽの目的地は当初、尾崎熊野神社の大クロマツとジョサイア・コンドル設計の妙法寺の鉄門のみでした。杉並区荻窪と阿佐ヶ谷と高円寺はメジャーな地名です。せっかくの初さんぽなので、もう少し肉付けして歩きたい!と調べたら、私が知らないだけで、見どころいっぱいでした。
では、お散歩開始。横浜で豆をこしらえた両足指には、絆創膏を貼って準備も万端です。歩くぞ〜!!
1)長屋門

東京メトロ荻窪駅6b出口から徒歩数分、住宅街に突然時代を経た門が現れます。
門の前に明治天皇荻窪御小休所の石柱が建ってました。
門を見学。

長屋門は門の左右に部屋があります。かつては使用人の部屋になってた長屋門も多かった。

ここは史跡になっていて、長屋門の左右はただの空間になってました。
ちなみに、門ですから門の奥にはかつては名主の家があったのですが、現在はビルが建っています。
WEBの海を探したら、この長屋門は明治天皇が行幸するとき、名主の家の茅葺き屋根の茶屋風の建物に立ち寄ってたとか。複数回。
で、時は流れて戦後、史跡を代々大切に守り継いできた名主の子孫は、敷地を三鷹市に譲渡する際、長屋門と御小休所を現状のまま残して欲しいと条件をつけた。ビル建設の際、長屋門を移転保存したそうです。
あれ?長屋門はともかく、御小休所の建物を見た記憶が〜?あったっけ??

長屋門前の道を東へ数百メートル西郊ロッヂングに到着。

2)西郊ロッヂング
現在は新館を賃貸アパート西郊ロッヂング、本館を割烹旅館・西郊として使用。

元々は1938年(昭和13)に賄い付き高級下宿として建てられた建物です。国の登録重要文化財。
本館の建物は木造2階建て、スレート葺き屋根(一部鉄板使用)、建築面積473平方メートル、1階は玄関・広間・厨房で2階は宿泊室。
新館はL字型、木造2階建て、建築面積145平方メートルで部屋数13の集合住宅。


通りをさらに東へ。次の目的地は黒川紀章設計の図書館です。図書館の西に読書の森公園があるので、そこから入ろうと思う。

通りは駅からすぐだというのに住宅街で、昭和テイストの建物が次々に出てきてあるくのが楽しい。
満開のジャスミンがいい香り。
あ。ここが読書の森公園かな?
公園の入り口に説明板があった。
「井荻村(杉並区清水)へ引っ越してきた当時、川南の善福寺川は綺麗に澄んだ流れであった。整列な感じであった。知らないものは川の水を飲むかも知れなかった。川堤は平で田圃のなかに続く平凡な草堤だが、いつも水量が川幅いっぱいで、昆布のように長っぽそい水草が流れにそよぎ、金魚藻に似た藻草うあ、河骨のような丸葉の水草なども生えていた。
私が不思議に思ったのは、この土地の人はこの綺麗な川に、なぜ鮎を放流したいのだろうということであった。去る大正10年頃、甲州の河口湖、精進湖、本栖湖に、鮎の卵の植え付けが試されて以来、関東各地の河川に鮎の稚魚を放流する行事が行き渡るようになっていた。安達さんという釣り好きの代議士が内務大臣になると、富士川支流の下部川や常葉川に川マスを放流させ、釣り師たちを刺激して画期的な出来事だと喜ばせた。善福寺川のように湧水地から出る水流なら、鮎だけでなく川マスの放流も不可能ではない筈だ
 新潮社 井伏鱒二「荻窪風土記・善福寺川」より。
井伏鱒二は、夏休みの読書感想文御用達の「山椒魚」「屋根の上のサワン」「黒い雨」の作者です。
名前が示す通り、井伏鱒二は釣り付きだったんだって(wiki情報)更に調べたら広島県福山市生まれで奥さんが甲府市出身。戦時中は甲府に疎開。被災して広島県福山市の生家に再疎開。戦後も度々山梨を訪問。
とのことなので、こんな文章を書いたのかも?

緑の公園で一服。東屋のそばの池には睡蓮が咲いてました。
さて、杉並区立中央図書館の建物が一番カッコよく見えるのはどこだ??
探してたら、まさか!!なものが目の前に。

ガンジーさんです。
え??なぜに杉並にガンジーさんがいるの?? 明日につづく
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