あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

偕行社カフェでランチ

2024年05月03日 05時31分54秒 | 歴史散歩
3月28日訪問。丸亀市の丸亀藩京極家の大名庭園、中津万象園を見学後移動して善通寺市の偕行社カフェに到着。

時刻は既に午後1時を回ってます。日替わりランチを注文。

ライスとパンを選択出来る。見ればライスはダイシモチ麦いりと書いてあるのでライスを選択。飲み物に熱い紅茶。豚肉が美味しい。
さて、当初の計画ではランチの時に共通の友人に絵葉書を書くつもりだったのですが、万象園に絵葉書はなかった!もしかしたら偕行社カフェに絵葉書があるかも?と探しに行ってみたけどなかった。けど、隣接する偕行社を見学できるって。

偕行社カフェの入り口近くに展示してあった模型です。中央にあるのが旧偕行社。
せっかくなので見学することに。

いただいたパンフレットによりますと?
偕行社:明治10年(1877)に創立された陸軍将校の親睦及び学術研究を目的とする団体の名称です。
偕行社という名の建物は師団が開設された場所全てに存在していましたが、現存するものは少なくなりました。
明治29年(1896)善通寺町に開設された第11師団は、日清戦争後の陸軍拡張期に増設された6師団のうちの一つで、「旧善通寺偕行社」は第11師団の将校たちによって明治36年(1903)5月10日に竣工しました」

貴賓室



照明が素敵だったので撮影。

小会議室。現在も会議室として使用中。だからかテーブルとイスは変えた模様。
偕行社カフェに戻る。外に出たらメニューがランチからデザートメニューに変更されてました。

時刻は既に午後2時を回っており、ランチタイムから変更ってことですね。

最後に正面の玄関を撮影。中央の陸軍の星が目立ってます。
実はポツポツと雨が落ちてきました。もう少し散策してもいいのですが。雨が本格的になる前に善通寺さんにお参りに行きたい。

善通寺に到着。雨が本格的に降ってきて、傘を出す。
あれ?左奥に見えるは桜ではなかろうか??
時は3月28日です。あの桜は??ソメイヨシノではないと思う。

はい、違う〜。しかも既に見頃を過ぎている。
調べましたらこの桜は「涅槃桜」という、ソメイヨシノより一足先に見頃を迎えるのだそう。
ではお参りを。

どれにしようかな?
病気平癒の蝋燭を購入して火を灯します。
善通寺は少し変わってまして。駐車場に使いのは空海さんが生まれた西院の誕生院。東院には金堂があり、両方に参拝するのが習わしです。
ちなみに、善通寺さんの境内にある売店でも「絵葉書ありませんか?」をしたのですが「昔は置いてたんだけどねえ」でした。
今時のお遍路さんも絵葉書を出さなくなったのね。かつては旅先からハガキを出すのも旅の楽しみだったんだけどね。私は自分宛に旅先から出してました。旅の思い出ファイル。

さて、お参りも終わったし。雨はまだ降ってるし。これからどこかへ行くのではなく、久々に再会した友人達と友人の家に寄ってお茶とお話に花を咲かせて楽しく過ごしました。(おしまい)
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柿本人麻呂の歌碑

2024年05月02日 05時20分55秒 | 歴史散歩
丸亀京極藩の大名庭園、中津万象園に柿本人麻呂の歌碑があるというので探してみれば?
よ、読めない〜!!
今、NHKの大河ドラマは紫式部が主人公ですね。時折まひろちゃんが書く手紙も出て来ますが、あれ、ひらがなですよね?
え〜と?ひらがなっていつ出来たのか?
webによりますと、ひらがなは、中国から伝来した漢字から日本で派生したものです。西暦900年ごろの平安時代に、その前の奈良時代を中心に使われていた万葉仮名に代わるものとして、ひらがなが広がったと言われています。古来、漢字で表されていた文章は、画数が多く面倒だったため、日本人は省略して書くようになります」だそうです。ということは漢字だらけの歌碑は、飛鳥時代に生きた柿本人麻呂の使っていた「万葉仮名」で書いてあるのだな。
wikiによりますと、紫式部の生没年ははっきりしてませんが、大体西暦970年?から1031年?くらいの人らしい。
ついでに藤原道長は生没年がはっきりしていて、966年生まれ〜1028年死去。
おまけ:柿本人麻呂は660年生まれ〜724年死去。飛鳥時代の歌人。
一応説明版もあったので、歌碑を解説、いや、現代語訳してみます。
冒頭より「玉藻吉(たまもよし)」「讃岐國者(讃岐の国は)」「國柄加(国からか)」「雖見不飽(見れども飽かぬ)」
「神柄加(かむからか)」「幾許貴寸(ここだ貴き)」「天地(あめつち)」「日月与共(ひつきと共に)」
「満将行(足り行かむ)」「神乃御面跡(神のみおもと)」「次来(継ぎきたる)」中乃水門(中の湊ゆ)」
「従」「舟浮而(舟浮けて)」「吾傍来者(我が漕ぎ来れば)」「時風(時つ風)」ここまでが歌です。

続いて説明板によりますと、歌に出てくる「中乃水門」がここ中津万象園付近のことなのだとか。
1300年前に柿本人麻呂が香川県の現在金倉川と呼ばれている河口の中乃水門より船出して、現在の坂出市の沙弥島に渡りこの句を詠んだそうです。
飛鳥時代に何故都から香川県まで来たのだろう??ともあれ、平安時代のひらがなも書き文字だと読めない自信があるけども。万葉仮名は更に難しい。漢文とも違う〜。
ついでなので「短歌の歴史」もwebで検索かけたらば、今から1300年前に作られた5・7・5・7・7からできている詩のこととある。ということは、柿本人麻呂の歌碑は短歌だったのね。分かるか〜!!だって漢字の数が5・7・5ではないではないか!訳がわからない。私には高度過ぎです。

ところで、実はこの日ちょっとした計画があった。
大学時代の3人で中津万象園を訪れたのだが、先月学科は違うけど大学時代の友人から引っ越しハガキが届いた。共通の友人だったので、ぜひ引っ越しお疲れハガキを3人の連名で出したいと思い、新しい住所と切手とボールペンを持参していた。観光地なので絵葉書を買えばいいと思つてたのですが。
なんと!
今時の観光地には絵葉書を置いてなかったのです。
マジでっ!?
まさか!そんなっ!
で、デデデでも大丈夫。次のとこに絵葉書があると思うのだ。凹みかけた気持ちを立て直し。

さて、中津万象園を訪れる目的の一つにお食事処の懐風亭さんでランチが食べたいというのが会った。
けど予約が満席につき断られた。そんなことある??と思いつつ駐車場に到着した時に謎は解けた。
観光バスが数台停まってたのだ。見れば愛媛の伊予鉄系や徳島の徳急系。おそらく3月に入りお遍路の本格シーズンに入って観光客が増えてる模様。懐風亭さんも観光客向けの懐石が人気なのだろう。
ってなことで、友人の提案で善通寺さんの偕行社カフェのランチへ予定変更です。(続く)
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法然上人逆修塔と足利尊氏利生塔

2023年07月01日 06時25分57秒 | 歴史散歩
先程(6月29日投稿済)、親鸞堂の説明文に「讃岐善通寺は弘法大師生誕の霊地にて我が師法然承認は彼の地に詣でて自ら逆修の塔を建て給えり」とありました。その塔が見たい。
こちらは2019年9月、上野の博物館でたまたま展示されてた法然上人絵伝の絵巻の一部です。下に解説がありまして、「空海生誕の地である讃岐国善通寺にしばらく止まり松を詠む」と書いてるのを見つけ、「へ〜、法然さんって香川に来たことあったんだ」と。何気に撮影しました。当時はおそらく善通寺さんの背後の香色山に登ってそこで絵を描いたんだな。程度の認識でした。
が、法然さんが実際に善通寺に来た証拠の「逆修塔」があるなら見たい!
親鸞堂の説明文にも出てきたならば、探せばある!ってなことで、いただいた弘法大師空海御誕生1250年記念祭の裏面の境内図を確認すれば、伽藍(東院)の東下あたりにあるではないか!ってなことで、特別公開中の五重塔に優先して法然上人逆修塔を探す。
あった!見つけたのが本日のトップ画像です。
では早速塔を見よう。
思ったより小さい。
逆修塔とは、死後の往生を願って生前に自らが建立するものです。
高さ4尺(約130センチ)の石造の五輪塔です。
室町時代〜戦国時代の制作年代の異なる部材により構成されてます。(善通寺のホームページより)
ん?
え〜と、wikiによりますと、法然は75歳の時に讃岐国に配流され10ヶ月滞在。承元元年(1207)12月に赦免され讃岐国から京に戻り、摂津国豊島郡(現箕面市)に承元4年まで滞在とありました。
法然さんは当時既に浄土宗の開宗で会ったので、それなりに名が通っており、法然さんが建てた逆修塔は残ったと推察。けど、元はもっと小さかったのでは無いかな?それを後年、つまり戦国の世に塔を盛った人がいたと思う。それで室町と戦国の二つの年代が異なる部材で構成されたと推理。ま、当たりかどうかはわからないけども。私の生家って浄土宗がか浄土真宗でして。嫁に入ったら真言宗で。どちらにせよ善通寺さんには参拝する縁があるなあと思いました。うん。
で?満足して法然上人逆修塔を出たら、隣に何やら由緒ありげな塔がもう一つある。
何かしら〜?
ん?足利だと?
まさかのビッグネームの登場です。
善通寺さんのホームページによりますと「足利尊氏利生塔、足利尊氏・直義が暦応元年(1338)、南北朝の戦乱犠牲者の菩提を弔い、国家安泰を祈念し、国ごとに一寺・一塔の建立を命じたことに由来する多層塔。制作は鎌倉時代前期〜中期ごろとされる」とあります。つまり、足利尊氏本人は善通寺に来てないパターン。為政者のパフォーマンス的に作られたものと思われ。
ちなみに南北朝時代とは、鎌倉時代の後、室町時代の最初期の1337年ー1392年です。そもそも塔を立てるように命じた「暦応元年」というのが、北朝の年号で、南朝だと延元3年となります。日本史ですんごく面倒な時代だよね。


塔の位置関係はこんな感じ。上の画像右手の塀は東院と町の境です。さて、引き返そうか?と思ったら、ステージから大きなマイクの声が聞こえているのでステージと客席を迂回すべく、塀にそって北上することに。
赤門に着いた。
赤門は東門が本来の名称ですが、赤いので赤門と呼ばれます。上の画像奥に続くのは赤門商店街。かつては丸亀・多度津方面からの参拝者で賑わった道ですが、自動車で参拝するようになった現在はあまり人影がありません。ダンナが50年前に祖母に連れられて瞬目大師像を参拝した折にはこの道を歩いて参拝したハズ。ダンナは祖母にこの道にあった餅屋で和菓子を購入して食べた思い出があるとかで、その餅屋を探して目を凝らしてる。
あるかなあ〜?50年前だよ??「ばあちゃんが、甘いもんを食べよう」と買ってくれた。同じ餅が食べたい。と未練たっぷりで探してますが、探しに商店街を奥までゆく体力も気力も私にはない。
それよりさ。
なんか、でっかい切り株が赤門のそばにあるんだよ?
巨木な模様。けど随分前に切った模様。
別角度から。中央に大きな空洞が見れます。で、枯死したのかな?何の木だろう?多分松みたい。違うかも?
巨木は減ることはあってもそうそう増えない。枯れたら終わりなのだ。これも諸行無常ということか。
今度は私が感慨に耽ってると、餅屋探しを断念したダンナが追い抜いて行った。
待て!人が多いんだから、逸れると探すの大変だ!(続く)
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小石川後楽園の見所後半

2020年05月22日 04時54分44秒 | 歴史散歩
2020年3月21日訪問。
大泉水の淵を通ろうと思ったら工事中で迂回。円月橋を渡り大泉水へ戻ろうとして松原に出た。梅林と稲田に隣接する場所だ。奥に何か小さな小屋がある。九八屋です。
九八屋:江戸時代の風流な酒亭の様子を具した。この名の由来は『酒を飲むには、昼は九分、夜は八分にすべし』と酒飲みならず、万事控えるを良しとする。との教訓による」と説明板。
けども最近巨木巡りにハマってる私は、松原にある松の木に目が止まる。
なぜにこんなに斜めってるのだろう??
そもそも小石川後楽園は、水戸徳川家の祖頼房と2代光圀が作った大名庭園です。確か隣にある稲田は、光圀がわざわざ作ったのではなかったかな?となると、松原の松はそもそも斜めに伸びるように植えたハズだ。
ふと、松原の向こうの大泉水に浮かぶ蓬莱島が目に入った。
分かりづらいけども。大泉水が池で上の画像中央が蓬莱島。亀の形に整えてある。中国の神仙思想で、蓬莱には仙人は住む山のこと。霊亀の背中の上に存在すると言われている。それを模して作ってる。手前に石灯篭が見えますね。かつては船を浮かべて上陸してたのかな?
む!?大泉水を進み船着場のそばにあった大きなケヤキ。これまた斜めってます。巨木です。画像では分かり難いけど、胸高周囲3メートル以上あると巨木に認定されます。この木は回遊路から外れて立ってるので、計測出来ませんが。
別角度から。たぶんこの木も大泉水を作った時に、育つと斜めに池に突き出すように植えたと思う。姿が鏡面になるし。訪問したのは3月21日だから葉がないけども、夏には緑の葉が。秋には紅葉は美しいのがケヤキなのだ。
大泉水の東。竹生島と名付けた岩が水面の奥に見えてます。で、手前が鳴門という程。そこに斜めに突き出たのはカヤの木です。巨木です。
カヤは直立するのが普通。斜めなのはそもそも斜めになるように植えたとしか思えない。意図はわからんなあ。けどカヤは常緑樹なんだよね。もしかしたら、大泉水内庭の庭の境に立っていた唐門が大泉水側から見ていい感じに見えるように斜めにしたのかも?わからんが。
ハイこちら。実は写真です。説明パネルを撮影しました。
実は内庭前にあった唐門を復元する模様。工事は着々と進んでいて、完成は今年7月31日(予定)となってます。おそらくオリンピックに間に合うように工事を進めてたんじゃないかしら?オリンピックの観戦の合間に日本庭園を観光する来日客へのおもてなしの一環として。コロナ感染症でオリンピックが延期になったからね。工事も予定通り進んでるかわからんけどね。完成したら見物したいね。


内庭の南の高台に藤田東湖先生遺蹟がある。
藤田東湖は水戸藩士。天保年間には側用人として藩政改革にあたり、藩主斉昭らの絶大な信用を得た。弘化元年 (1844)斉昭が隠居謹慎処分をうけると失脚。小石川後楽園のある水戸藩邸上屋敷に幽閉された。幽閉中に多くの著作を書き、幕末の志士たちに深い影響を与えた。嘉永5年 (1852)に蟄居処分を解かれる。よく嘉永6年(1853)にペリーが浦賀に来航し、東湖も江戸藩邸に召し出され、安政元年(1854)には再び斉昭の側用人に復帰。しかし安政2年10月2日(1855)に発生した安政の大地震に遭い死去。藩邸跡に建立された記念碑は道路拡張の際に小石川後楽園へと移されている。(記念碑は後楽園の北側の梅林にある)
さて、内庭から大泉水へ戻る。一部通行止めにつき迂回。この辺りは大名の憧れの日本の名所に見立てた木曽川の寝覚めの滝やらがあるけど唐門工事で本来の園路が通れなくなっていた。
大泉水を1周し小石川後楽園を後に。この日はさくら見物で忙しかったのだ。
現在の出入り口は西門のみ。奥がサービスセンター(切符売り場)です。向かう道に立つのも根元から分岐するケヤキの巨木だった。
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小石川後楽園の見所前半

2020年05月21日 16時28分56秒 | 歴史散歩
2020年3月21日、小石川後楽園のしだれ桜見物に行きました。
この時は六義園のしだれ桜→小石川後楽園のしだれ桜→汐入公園の陽光桜→乃木神社のしだれ桜と、1日で多くのしだれ桜を見物したので、投稿記事も増えてしまい、後楽園のさくら以外の紹介をパスしました。や、まさかその後の染井吉野のお花見散歩が出来なくなるとはこの時は予想もしてなかったんだよね。
で、先日、座間・さくら百華の道の早咲き桜の画像をさがして写真を検索したら小石川後楽園の見所の紹介をパスしたのも思い出しました。今日は小石川後楽園を紹介します。
まずは小石川後楽園についてから。
大前提が大名庭園ということ。
大名庭園とは、江戸幕府の政権下で、大名が江戸や地元に築造した庭園のことです。
大名は参勤交代で藩主は2年ごとに江戸に参勤し、1年経ったら自分の領地へ交代します。つまり、大名は江戸と地元を行き来せねばなりません。ぶっちゃけ江戸に来て滞在し、お金を使って経済を回すのがお仕事です。となると、大名は江戸にある藩邸の庭をいじりたくなるわけで。他の大名に自慢すべく造園技術を注ぎ込み、庭の工夫を凝らすわけですよ。ってな事で、小石川後楽園も大名の夢が目一杯注ぎ込まれてます。
wikiによりますと、江戸自体初期、寛永6年(1629)に水戸徳川家の祖頼房が、水戸藩中屋敷(後に上屋敷となる)の庭として造ったもの。2代藩主の光圀の代に完成した築山泉水回遊式日本庭園です。後楽園の名前も光圀が命名。
ふまえて、桜は投稿済みの記事をご覧いただくとして紹介しますね。
まずはこちら。説明版によりますと「西湖の堤:この石堤は中国の名勝地西湖を模して造られたもので、後楽園以後の大名庭園の「西湖の堤」の先駆けとなった」とある。
光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見を取り入れ、中国の文人たちが好んで歌った西湖や廬山を庭に取り入れたとか。
つまりだね。上の画像の石の堤を見た大名は羨ましく思い、自分の庭にも取り入れたのですよ。
「大堰川(おおいがわ):京都の嵐山の下を流れる大堰川にちなんだもので、3代将軍家光がしばしば来園し、大泉水の設計と共に様々助言を与えたものと言われている。西岸には蛇篭を伏せ、神田上水の水を暗渠により引き入れた。江戸時代には清き流れで園景を引き立てていた」
西岸は上の画像に左側です。
屏風岩:屏風のようにまっすぐに屹立していることから屏風岩と呼ばれる。3代将軍家光がしばしば訪れた際に、この近くの松の枝に手ぬぐいを掛け、河原の石に腰をおろしたといわれる」
坂道を上がる。かつて清水観音堂が立っていた高台から、しだれ桜を見物。
清水観音堂は現存してません。基礎礎石だけがあります。
回遊式庭園なので、本来この先へ進むには通天橋と沢渡りの2つがあります。
けども現在通天橋は補修工事中でした。
これね。なので、沢渡りの道をゆくべく高台から降りる。
石が楽しい。詳しい人は面白いかも?
で、一旦降りて石を渡ったらまた登り。そこに廬山に見立てた展望台がある。庭を一望出来ます。訪れた時はしだれ桜を見下ろせて素敵でした。
得仁堂(とくじんどう):2代藩主光圀が建てた園内で最古の建物で、光圀が感銘を受けた「伯夷・叔斉」の木像を安置した。堂の名は論語の「仁を求めて仁を得たり」による。」
伯夷と叔斉について解説版がありました。
わかりづらいなあ。なぜに光圀が「伯夷・叔斉」に心を寄せたかと言いますと、自分に重ね合う部分があるからです。
光圀は水戸徳川家藩主頼房の3男として寛永5年(1628)生まれます。頼房はこの時まだ正室を迎えておらず、正式な側室でもありませんでした。更に母を同じくする兄もある状態。けども寛永10年(1633)に世子に決定。寛永13(1636)に元服し、将軍家光から偏諱を与えられ光圀となる。
兄は頼重といい、讃岐国高松藩初代藩主となった。ちなみに、頼重・光圀共に父頼房に堕胎を命じられてたが、二人とも秘密裏に出産し、頼房に隠したまま京で育てられ、寛永14(1637)まで、父頼房に会ってない。
つまりですね。頼房は頼重の存在を知らなかったので光圀に後継を決めてたのですよ。
あ。ちなみに、頼房の次男は頼重・光圀兄弟と母の違う側室の子として生まれていますが、3歳、光圀が生まれた年に死去してます。
で、儒教を厚く信仰する光圀としては心のしこりができる訳だ。その象徴が得仁堂ですね。
ちなみに、光圀はやがて兄頼重の子を養子とし水戸徳川家の家督を継がせています。そして頼重は光圀の実子頼常を養子に迎え、高松松平家の家督を譲っています。
頼重と光圀の心は平穏になったかもしれんが、子供らの心は大荒れになったかも?知らんが。TBSの時代劇『水戸黄門』でしばしば黄門様の旅先が高松だったり、金毘羅さんだったりする訳はここにあります。
得仁堂正面。
得仁堂の高台を降りる。大泉水沿いを進むつもりが、工事中だったので、迂回。
円月橋:水面に映る形が満月のように見えることからつけられた名称。明の儒学者朱舜水による設計といわれており、得仁堂とともに当時の姿を留める貴重な建造物です」
この角度からだと円形に見えるかな?
ってな事で今日はここまで。明日の後半に続きます。
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流行りの歴史トリップの楽しみかた

2019年09月19日 08時55分43秒 | 歴史散歩
WEB小説を知ってますか?誰でも小説を書いて投稿でき、読者はパコソンやスマフォでいつでもどこでも読めるので、私もよく利用してます。雑多なジャンルの小説から、自分が好きなものを探すためにキーワードがありまして、そこにタイムスリップ・歴史・戦国時代・内政といった好みのものを打ち込んでいきますと検索できます。中には商業誌として出版される作品もでできます。けど、基本作者は素人が本業の合間に書いてるので、「お仕事が繁忙期に入りましたので、しばらく更新を休みます」というコメントが出ます。となると、読者は待つしかないのですが、歴史・戦国時代が舞台ならば、参考文献が存在するのですよ。
この作品はお気に入りでしたが、WEB更新が途絶え、待っても待っても新しい話が投稿されない!となるとだな。
図書館を利用します!
こちらは織田信長の家臣だった人の日記です。だから「現代語訳版」なのですよ。
さて、トップ画像です。登場人物は北から安東茂季・最上義光・北条氏規・今川氏真・竹中半兵衛・小早川繁平・一条兼定・伊藤義益。この8人が現代日本から、戦国日本の戦国武将に転生(憑依)して、みんなで頑張って生き抜くお話です。2019/9/19現在3巻まで出版済です。主人公は竹中半兵衛。3巻現在では、強敵織田信長を南尾張に押し込んで、北から里見氏など関東の反北条と連携すべく関東に攻め寄せる軍神長尾景虎を北条を中心にどう対抗するか?という場面です。3巻では戦いの前にまだ方針を話し合っている所。今後が楽しみです。

去る2019年7月6日、うちの隣の相模台公民館で歴史講座が開催されました。題して相模原の戦国史〜北条氏・武田氏の三増合戦〜です。「時は1569年(永禄12)10月、小田原の北条軍と甲斐の武田軍が激突した「三増峠の戦い」。北条早雲没後500年を迎え、この合戦に至るまでの北条氏・武田氏たち戦国武将が繰り広げた駆け引きを紐解き、合戦にまつわる相模原の史跡などを紹介します」
これが面白かったんですよ。
実は武田信玄の小田原攻めの際、この場所を通り、戦勝のさい先を祝って植えたとつたえられる相模原市南区下溝にあるさいかちの木を記事投稿済みです。
で、講義では北条氏康と武田信玄の同盟期(天文23年1554)の三国同盟(北条・武田・今川)が登場します。武田と今川は対上杉(長尾景虎)共闘対策ですね。戦国時代は違いに婚姻でもって同盟を結びます。人質でありスパイです。ラノベに登場する北条氏規は、今川氏真の義理の弟で、父親の北条氏康に亡くなった兄の奥さん(武田信玄の娘)をおしつけられそうになり、回避しようと奮闘中。ちなみに、今川氏真は、織田信長に桶狭間で討たれた今川義元の息子です。戦国時代の結びつきは複雑です。
まさかの自分が楽しく読んでたラノベ小説『転生!竹中半兵衛 マイナー武将に転生した仲間たちと戦国乱世を生き抜く』が自分が住んでる場所の歴史と突然かぶりましてびっくりしました!もうへえ〜へえ〜へえ〜〜!!と。で、巨木ブームの私は、講座資料の片隅に登場したさいかちの木にくいつきまして、講座の先生に所在地を詳しく聞き出し、講座の翌々日には木を見上げていたという〜〜。
歴史講座は相模原市立博物館の学芸員さんが講師をされてましたが、会場入りした時に鎧兜をまとった人が出迎えてくれたのです。
何で?と思ったら、年に一度の公民館の歴史講座を盛り上げるため、小田原でよろい作りをしてるグループと鎧制作の講師の方をお呼びしたとか。で、パフォーマンスで鎧。講座が終わってから、鎧制作の先生に突撃しました。
私「よろいの兜ですが前たて見たことないんですけど?」と質問です。
突撃されてこんなことを聞かれた先生はめんくらってました。実はこの先生は知る人ゾ知る有名人で、もううろ覚えなんですが、確か「180両の鎧を手作りしてます」とおっしゃってました。ちなみに質問の答えは「私が指導してるのは胴丸です。(鎧には馬に乗って戦う上級武士の大鎧。歩いて戦う武士の胴丸・胴丸とにてるけど、胴の作りが違う腹巻・当世具足(安土桃山時代になり全身を隙間なく守るもの、腕や足にも籠手やすね当てがつく)と種類がある。)。デザインは作る人の好みです。既存の胴丸ではありません。あなたも胴丸作りに参加しませんか?」と斜め上の心踊る勧誘をされました。
うわ〜〜!!悪魔の囁きか〜!!けども私は自重した。賃貸マンション暮らしなんである。断捨離を常にやりつつも、なんでも収集癖のある私はものが全く減らないんである。自分が着れる鎧を作ってどこに置く場所が!!
さて、長くなりましたが、実はここまでは前置きです。敬老の日(2019年9月16日)は、上野の国立博物館の常設展の入場料が無料でした。ダンナを誘って前回の常設展無料の日5月の国際博物館の日)に疲れて見れなかった本館2階を見るために行ったらば、日本のよろい(2019年7月17日ー9月23日)をやってたのだ!
やっちゃいました!私がこの兜はおそらく客寄せ用だと思いますが、私がかぶって博物館の人に撮影をお願いしたら、それが目立ってたようですぐに行列できてたよ。そりゃあおばさんが笑顔で兜かぶればそうなるよな〜。
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箱根関所後編

2019年08月23日 05時35分48秒 | 歴史散歩
2019/8/3訪問。前回に続き箱根関所の紹介です。トップ画像は遠見番所そばの展望広場から撮影した、関所と芦ノ湖です。この日は芦ノ湖の向こう側の山に低い雲がかかってまして、視界がイマイチ悪かったけど、遠望が効く日ならば、ここから富士山が見えます。残念無念。
説明板発見:遠見番所
遠見番所という建物です。1階は土間です。2階は、足軽が関所破りに備えて街道や周辺、また芦ノ湖を見張っていました」
実は画像からはわかりませんが、足軽のぼやきを常時放送してます。足軽は単身赴任だったんだって。
展望広場で休憩。この日も暑い。けどさ、元箱根は標高720メートルあるんだよね。気温は100メートル上がると0、8度下がるので、標高720メートルだと大磯のアオバトを見物してた照ケ崎海岸より5、6度は気温が低いハズなんだけど、暑いことは暑い。まあ歩けない程ではないので、休憩後お散歩再開。
あ。説明板発見:
いい説明板だったので、そのまま貼り付けよう!
そして地図。見えるかな?旧東海道の杉並木は2箇所あるんだよ。今回は1箇所だけ歩きます。なにしろ入生田駅そばの生命の星・地球博物館の「アオバトのふしぎ」展を観に行かねばならんのです。
けどこの説明板のキモはそこではないですね。箱根ジオパークって知ってますか?
「箱根ジオパークは、地域の自然と歴史・文化の多様な資源を地質的な観点という新しい視点を加えて見直し、地域住民が自らの地域を再認識し関心を深めるとともに、観光客にさらなる感動を与えることを目指しています」
つまりタモリさんが大好きな地質です。
資料館でいただいたジオサイトマップによりますと「箱根はフィリピン海プレートの伊豆・小笠原弧が北米プレートの本州弧に衝突したプレートの境界域に位置することと、その中心である箱根火山が、南北にのびる天然障壁をなしていることです。箱根火山は、その北に連なる足柄山地・丹沢山地をはじめとするフォッサマグナ地域と、その南に連なる伊豆半島から・伊豆・小笠原諸島の自然をつなぐみちに位置します。」とあります。いや〜、中学生の頃、私科学部だったんですよ。んで、讃岐の田舎の山の中に残る地層を自転車で巡らされたのを思い出しました。今思い返すとあの山道をよくぞ自転車で上り下り出来たものだと思いますが。褶曲地層なんか見るとついワクワクしちゃうんですよね。目の前に広がる芦ノ湖を巡る山が、箱根外輪山だと改めて見る。
遠見番所から降りてきました。上の画像は足軽番所の雪隠(トイレ)です。
足軽番所に戻ってきました。まだ見てない江戸口御門の方へ移動。
説明板発見:極屋(ごくや)
足軽番所に付属する獄屋です。関所破りなどの罪人を留め置く所で、とても頑丈に造られていました。」
御制札場:関所の役割が記載された、高札が掲げられてました。とパンフレットには書いてありますが、正徳元年発行のお奉行からのお触れ書きです。頭巾を取れといった関所での作法を書いてあります。
大番所・上番休憩所に戻る。まだ見てない区画があったのね。
脇に回る。

なんか、時代劇で捕り方が持ってた江戸時代の懐中電灯を見つけました。
ロウソク1本でどれだけ明るいか?と思うのは現代人だから。江戸時代の灯だ。他に光源がなければそこそこ使えたのかな?これがすごいのは、振り回しても消えないところです。
説明板発見:土間
大番所・上番休憩所の建物の中で土間と呼ばれる場所です。ここには、かまどが据えられていたほか、ほうきや提灯、みの・笠などさまざまなものが置かれていました。また、この土間が建物と外との主な出入りの場所でした。」
こちら見取り図。

土間の奥には勝手板の間があります。
説明板発見:勝手板の間
大番所・上番休憩所の建物の中で、勝手番の間と呼ばれる部屋です。この部屋には囲炉裏が置かれ、関所役人の食事や休息に使われていました。」
見取り図。
見学してるのは勝手板の間の手前にある台所土間からです。台所土間では、関所役人の食事が作られていました。また、主にここから各部屋に上がりました。」
台所土間の見取り図
台所土間の隣は湯殿です。
説明板発見:湯殿には風呂桶が置かれていたわけではなく、たらいに湯を汲んで、湯浴みをしていました。」
台所土間から外に出れる。上の画像の左側が湯殿です。ちなみに、建物の左手は芦ノ湖になってます。そばに上番所の下雪隠もありました。
石垣の説明板発見:ひかりづけ
建物の基礎となる礎石や石垣の上に乗せる土台を、すべて手作業で石面に合わせて凹凸をつける技術。ここでは間近にその職人技をご覧いただけます」
さてと、江戸口御門を抜ける。すぐそばに茶屋が設置してあり、観光土産やお団子を売っていた。

せっかくなので、江戸口御門側から箱根関所に向けて撮影。ちなみに手前の広場は矢場です。
さて上の画像を撮影した場所ですが、御番所茶屋というお茶屋兼土産物屋です。
こんな感じで、関所のすぐそばにあります。
江戸の旅人気分で団子とお茶をセレクトするのも素敵ですが、ぜひ裏手に回ってください。
顔出し看板好きには外せないスポットです。この日は芦ノ湖の向こう側の山に低い雲がかかって見えないけど、晴れてたら奥に富士山が見えてたハズ。
少しだけ茶屋を覗いてみた。
え〜と?萌え看板がある。
出ようとして、すいか団子の立体看板があった。確かに1本270円。インスタ映えになるのかな?
茶屋からすぐ、箱根関所資料館があります。
ここは箱根の関所と入場券が同じです。関所の券を見せれば入れますが、中は撮影禁止。なのでご注意を。

箱根関所は1619年に設置されたので、今年は設置され400年の記念イヤーなんだって。歴史の勉強にはいい場所です。実際関所破りをした娘の話とかも紹介されてる。
さて、時刻は11時37分。え〜と?10時30分に関所跡バス停に到着したから、ゆっくり見て回って所要1時間でした。歴史好きな方は観光の参考にして下さい。資料館からすぐ、箱根恩賜公園へ。

2019年8月25日に上の画像を追加貼り付けしました。
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箱根関所見学前編

2019年08月22日 05時27分52秒 | 歴史散歩
2019/8/3。朝一で大磯でアオバト飛来を見物。東海道線で小田原へ移動。小田急の切符売り場で箱根旧街道1号線切符(1750円)を購入。箱根登山鉄道で箱根湯本駅へ。ラッキーにも2番のりばにバスがいる!9時35分発に間に合うかも?と急いでのりばに駆けつけたものの、あれ?バス停に行列がある!?
すぐわかった〜。乗車出来るのは、座席に着席出来る人数分だけ〜。ということで、行列の最後尾に並んで9時45分発のバスに乗車しました。なぜに立ち客を乗せなかったかといえば、路線バスなので道々乗車してくる客がいるからです。箱根湯元駅から元箱根を結ぶバスはいつだって満員なのだ。箱根のお山が噴火しそうだから立ち入り制限してるから観光客が減ってるかも?と思うのは間違いだったよ。
そんなこんなで箱根神社あたりまで満員でした。ちなみに、トップ画像は道中バスの窓から精進池越しに駒ケ岳を見上げて撮影。この辺りは石仏が点在してるゾーンなんだよね。
10時20分、箱根関所跡バス停に到着。
1号線を渡ったところで撮影。ちなみに、左奥の建物はトイレです。
券売所まで食べ物屋さんや土産屋が並んでます。

箱根寄木細工の店もある。店の前に顔出し看板があった。入場料500円のところ、旧街道1号線切符があるので400円で入場。
箱根関所は昔訪問したことありますが、『ブラタモリ』で放映されたのを見て、復元したんや〜とワクワクで訪問です。
説明板発見:箱根関所 国指定史跡
箱根関所が、江戸幕府によって、山と湖に挟まれた交通の要衝であるこの地に設置されたのは、元和5年(1619)のことと伝えられています。箱根関所は、江戸幕府が江戸防衛のために、全国に設置した53ケ所の関所のうち、東海道の新居(静岡県)、中山道の碓氷(群馬県)、木曽福島(長野県)と並んで規模も大きく、特に重要な関所と考えられていたようです。
この関所の配置は、箱根山中の東海道の中で、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区画し、江戸口・京口両御門を構え、大番所と足軽番所が向き合うものとなっています。
一般的に関所では、「入り鉄砲に出女」を取り調べたと言われていますが、この箱根席ょでは、江戸方面からの「出女」に対する厳しい取り調べを行っていました。
江戸時代を通じて機能を果たしてきた関所ですが、設置から250年後の明治2年(1869)、新政府により関所制度が廃止され、その役割を終えました。
箱根関所の跡地は、大正11年(1869)、「箱根関所」として国の史跡に指定されました。昭和40年(1965)には番所の建物が建設され、その後、昭和58年(1983)、江川文庫(静岡県伊豆の国市)から、慶応元年(1865)に完成した箱根関所の大規模修理についての克明な資料『相州箱根御関所御修復出来形帳』が発見され、資料の解析や跡地の発掘調査を経て、平成19年(2007)春、国土交通省、文化庁、神奈川県の補助を受けた復元整備を終え、箱根の関所は往時の姿によみがえりました」
京口御門より関所へ。門をくぐり画像左奥のおじさんに入場券を見せる。京口門手前に広場がある。これは京口千人溜(旅人たちが関所改めを待つ待機所だった広場)です。券売所のすぐ先が大きな広場でして、入場に切符が必要だと気づかなかった観光客が切符を持たずにやってきた場合のチェックなのかも?
です。説明板発見:箱根関所の厩
江戸時代、箱根関所に建てられていた厩には5頭の馬をつなぐことができるようになっていました。
しかし、実際には、2頭しかおらず、空いた場所には、関所の廻りに廻らした木柵の予備や外掃除の道具。火を消す道具などが納められていました。
厩は、納屋と兼用だったようです。」
大番所・上番休息所
関所の建物はすべて黒い。説明版発見:渋墨
関所の建物は渋墨で黒く塗っています。
この渋墨とは、柿渋と松を焼いた「すす」を混ぜたもので防腐効果とあわせ建物の化粧として用いたものです。
この黒い部分に触れますと黒い「すす」が付着しますのでご注意ください。
*特に濡れていますと付着しやすいので注意してください」
へえ〜。そこまで忠実に再現してあるのか〜。
では大番所を見学。
建物前に人見女(ひとみおんな)人形が再現してある。
説明板には「定番人の母親などで、小田原藩から雇われ、女性の旅人が箱根関所を通過する際、髪を解いたりして、取り調べをしていました」
出女のチェックみたいです。
面番所(めんばんしょ):大番所の建物の中で、面番所と呼ばれる部屋です。「次の間」「番士詰所」などとも呼ばれ、関所役人のうち番士や定番人などが詰めていました。」
隣へ。
上の間(かみのま):大番所の建物の中で、上の間と呼ばれる部屋です。この部屋は、箱根関所の中でも最も格が高く、通常は伴頭、横目付けが座り。大名や家老などの接待の間としても使われました。
また、鉄砲や弓も置かれ、旅人を威嚇していました。」
向かい合わせの足軽番所へ。
右手に建物に入れそうなところが。
台所だった。かまどでご飯を炊いている。
台所に置いてあるのは、これ、味噌樽かな?壁に草鞋と菅笠とミノがかけてある。
台所に向かい合うのは休息所。足軽が昼間控えてたり、夜は寝床としていた場所です。
台所を抜けて建物の反対側へ。
井戸があった。説明板には復活した井戸
平成13年度遺構調査で、この場所に井戸の木枠が発掘されました。
木枠を復元した所、平成19年に井戸が復活。その後、水が涸れることなく一定水位を保っています。箱根関所スタップの間では「復活の井戸」と呼んでいます。」
遠見番所への石段。石は江戸時代から使用されていたものとか。
おお!絶景〜!!箱根関所の全景と芦ノ湖が見える。訪問は2019年8月3日ですが、あちこちでヤマユリが咲いてました。NHKの『ブラタモリ』で見たこの景色が見たかったんや〜。(続く)

2019/8/25に上の画像を追加貼り付けしました。
関所に家紋があるの??
調べた。箱根関所は小田原藩の管轄なんです。で、紋は小田原藩主大久保家の家紋でした。
あれ?小田原藩って、春日局の稲葉家じゃないの?と思ったかた。wikiによりますと、
大久保家は1590(天正18)年ー1614年(慶長19)小田原藩の藩主。1614年に改易。
1619(元和5)年阿部家が小田原藩主(阿部正勝の長男)。5年で転封。
1632(寛永9)年稲葉正勝が入封。稲葉正勝は春日局の子。1685年に転封。
1686(貞享3)年に、下総佐倉藩主・大久保家が入封。初代大久保家藩主から5代目にあたり、幕末・明治初頭まで大久保家が藩主。
というふうに藩主が変わってます。ので、大久保家の家紋で正解なのだ。
2019/9/5画像追加。上の画像は小田原城の広場です。注目していただきたいのは地面に置かれた北条のミツウロコと大久保家の家紋です。関所の家紋と同じでしょ?
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東村山市の野火止用水

2019年07月25日 05時56分43秒 | 歴史散歩
2019.6.16散歩。東村山散策も今日で最終回です。トップ画像は野火止用水をまたいで延びる万年橋のケヤキ。推定樹齢500年。この木は野火止用水を作った時に既に大木でした。用水をまたいで根が伸びてる有様は、巨木好きにお勧めの木です。
さて東村山市の南端に流れる野火止用水。正福寺の国宝・千体地蔵堂の歴史ガイドさんは「子供の頃には用水に水がなくて、底を歩いていた」と語っていた。今はせせらぎが流れていて、用水沿いはいい散歩道です。
あ!アサギマダラ!!なぜ6月にここにいる!?急いで写そうと携帯を構えましたが、見失ってしまった〜。やっちゃったぁ〜。
ところで、野火止用水とは?ご存知ですか?私は以前新座の平林寺さんの紅葉を見物に行った時、敷地に沿って流れてたのを思い出した。
wikiによりますと、「野火止用水は、東京都立川市の玉川用水から埼玉県新座市を通り新河岸川(志木市)に続く用水路である。川越藩主松平信綱は、多摩川の水を羽村から武蔵野台地を通す玉川上水を開削した。その後、玉川上水から領内の野火止(新座市)への分水が許され、承応4年(1655)に主に飲料水や生活用水として利用され、後に田用水としても利用される野火止用水を作らせた。」とあります。これが出来たので新田開発が出来たんですね。
東村山市を流れる野火止用水は、結構大きな木があります。開削当時から立ってる木も幾つか残ってるのですかね?
恩多野野火止水車苑。説明板発見:ここには、1782年(天明2)頃より1951年(昭和26)まで直径7、5メートル、幅0、9メートルの大きな水車(ヤマニ水車と呼ばれていた)があったが、当時は現在ある水車と異なり上流で堰を止め、回し堀で導水し水車を周り、精米、精麦と製粉の動力源として利用してきた。
この水車は東京都の「ふるさと、ふれあい振興事業資金」を活用し農業。生活及び動力源として用水を利用した生活を理解するために設置したものであり、かつてあった水車を再現したものではなく、公園的要素を盛り込んだ庭苑とした。」
公園内にあった東屋でおやつ休憩後、お散歩再開。
大岱稲荷神社に14:51到着。大岱稲荷神社は、京都の伏見稲荷から神霊を勧請されました。
ふむふむふむ。賽銭箱はあれだね。
これが万年橋のケヤキの折れた枝で作った賽銭箱か。
参拝して社殿の飾りを見上げる。
隣は公園で、ここで休憩してもよかったなあ。さっき水車苑で休憩したばかりなのでここは眺めるだけだけど。
説明板発見:神社名:稲荷神社
御祭神:宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
由緒:寛延年間当麻喜重氏の祖先名主当麻喜太郎氏が京都伏見稲荷を勧請し、当村の鎮守に祀せっれた。毎年四月十四日例祭日となっている。
稲荷神社のいわれ:「いなり」の神は五穀成就の神として秋稲穂が立派に稔ると、これを刈り取り束ねて肩に荷って神に捧げたところから、「稲を荷う(になう)」という文字を使った。
宇迦之御魂命を主神としウカとは「清浄或いは立派な食物」の事でこの清浄な食物の根本は稲である。この稲は「生き根」のことで人々の生命を養い育てる力を持っているための名で、すべてのものを生かす力を魂と名付ける。神名は「人々の生命を養い育てる根源の力」を称えたもの。この生命の祖神から御神徳は、
1)人々の生命を守り育ててくれる祖神
2)五穀食物の守り神
3)商売繁昌、商取引の守り神
4)一年中の幸福守護の神
5)人々の不浄、穢れを祓いこれをお守り下さる神等、私達を生かし下さる神と云える。
(参考資料北多摩神社誌)」
野火止用水の岸に残る大きな切株。中央が空洞の跡がある木です。枯死したのかな?
訪問は2019年6月16日で、野火止用水にもあじさいがあった。
わかるかなあ?用水を川魚が群れを作っていた。何かしら?モロコかな?
15時4分新青梅街道に出た。信号待ちをしてると、道の向かいに大きな緑の塊に気づく。あれは小平霊園です。道を渡ると用水が消えた。野火止用水は新青梅街道の向こう側で暗渠になったようだ。西武新宿線久米川駅に到着。さすがに猛暑日とあっては体力が削られてしまい、東村山駅に戻るのをやめてここで散歩を終えた。
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掩体壕1号・2号

2019年05月04日 06時18分50秒 | 歴史散歩
2019年4月6日の散歩です。近藤勇のお墓と生家跡を見学後、調布飛行場方面へ。目的は掩体壕です。
トップ画像が正面から見た掩体壕。何かよくわからないと思うので、横から撮影する。
説明板発見:掩体壕大沢2号
調布飛行場は、昭和13年(1938)に、東京府北多摩郡調布町・三鷹村・多摩村(現在の府中市)にまたがる約50万坪の土地に計画され、畑・家屋・寺・墓地などを半強制的に買収して造られました。工事は、昭和14年(1939)に東京府と逓信省航空局・陸軍省の予算で着工しました。基礎工事には府中刑務所の受刑者や中学生が動員されました。16年4月には、南北方向に1000メートルと東西方向に700メートルの2本の滑走路と格納庫が完成しました。初め、呼び国際飛行場と航空試験飛行場・陸軍訓練飛行場として使用するはずでしたが、陸軍が全面的に利用することになり、首都防衛のため、戦闘機『飛燕』を中心とした陸軍飛行部隊が配置されました。太平洋戦争の戦況が悪化する昭和20年(1945)頃には、日本本土空襲のため飛来する米軍のB29爆撃機や艦載機の空襲で、飛行場近くの高射砲陣地が爆撃され死傷者が出ました。またこのころには、特別攻撃隊(特攻隊)の訓練と九州知覧基地への中継地にもなりました。戦後、飛行場の西側の一部には「進駐軍』(アメリカ占領軍)が消費する野菜を栽培する(水耕農場)が建設されました。
現在では、伊豆大島・新島・神津島への空の玄関口として小型機が運行されています。調布府工場の周辺には、戦時中に利用していた門柱・掩体壕・高射砲台座などが、市民団体の努力で残されています。」
興味深い地図があった。
戦時中と現在の地図が二重写しになっている。ちなみに、地図中央下の赤い三角が現在地です。
掩体壕のそばにあった物見櫓?かな?たぶん足元の石は当時のものだと思う。疲れてて登らなかったけど、登れば滑走路が一望出来るハズ。
実は残存する掩体壕は2個あった。
裏手はフェンスがあるので向こう側に行ってみる。
ふおおおおお〜〜!!飛燕が描かれてる!これやった人よく分かってる。
分かってる人は他にもいたようだ。
掩体壕に格納された飛燕戦闘機のミニチュアがあった。
こんな風に掩体壕一つにつき1機収められていたようだ。
残存する掩体壕の断面を確認。なんか質の悪いコンクリートに見えるんだけども。
想像を掻き立てられる絵だよな〜。
2つめの掩体壕にも説明板がある。
掩体壕大沢1号:掩体壕とは、軍用機を敵の空襲から守るための格納庫で、目的は「本土決戦」に備えて、残り少なく貴重な飛行機を温存するためでした。
太平洋戦争における戦況が悪化する昭和19年(1944)頃から、コンクリート製掩体壕約30基(有蓋)と土塁で造ったコの字型の掩体壕(無蓋)約30基の約60基が短期間に造られました。建設は主に陸軍と建設会社があたり、地元の植木組合や中学生も大勢動員されました。
掩体壕と飛行場は誘導路で結ばれ、飛行機にロープを結びつけて人力で運びました。調布飛行場周辺には、武蔵野の森公園内の2基と府中市に2基の掩体壕が残っています。武蔵野の森公園の掩体壕は戦争の記憶を残す証拠とし、「平和の語り部」として保存しています。」
何気に昔の飛行機が好きなダンナに聞いて見る。「飛燕て知ってる?」と。無茶苦茶専門的なことを語り出した。イカン!押してはいけないボタンだった模様。
説明板にも軽く説明がなされていた。
掩体壕に格納されていた戦闘機「飛燕」
「飛燕」は川崎航空機製で、ドイツのダイムラーベンツの技術をもとに、国産化した液冷エンジンを搭載した戦闘機です。
エンジン出力は1100馬力で、最高時速590km/hで飛行でき、高空能力に優れ昭和18年(1943)に陸軍の主力戦闘機として正式採用されました。調布飛行場には、首都防衛のため「飛行第244戦隊」に「飛燕」が配備されました。昭和20年(1945)、B29爆撃機による本土空襲が激しくなるなか果敢に迎撃しましたが、物量に勝る圧倒的なB29爆撃機の攻撃で戦死者が出て、あまり戦果を挙げることができませんでした。最後は「体当たり」戦術で抵抗しました。戦況がますます悪化するなか、「本土決戦」のため貴重な飛行機を温存するため「掩体壕」に格納されるようになりました。
また、鹿児島県知覧町の「特攻平和記念館」には、当時の飛燕が保存されています。」とある。当時の掩体壕の前で、飛燕の絵が描かれたものを見ながら説明文を読むと、WIKIで読むのとは違った感慨がありますね。
時刻は14時35分。この後だけども。当初は国際基督教大学の正門前の桜並木を見物するか、もしくは国立天文台を見物するか?状況次第だと思い計画してたのですが、野川公園の出口を間違えプラス1kmほど余計に歩いてまして、だいぶん足にきてるんだ。国際基督教大学は諦めて、国立天文台へ行くとしよう。
あ。また野川に出た。やはり綺麗な桜が視界の奥(下流)まで続いてる。こんなに綺麗なのに、散策してる人が少ないのが好印象。来年は野川を追いかけるんだ〜。
時刻は14時41分、この後は登りです。
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近藤勇生家跡

2019年05月03日 05時38分27秒 | 歴史散歩
2019.4.6訪問。野川公園正門前にあります。
説明板発見:近藤勇生家跡 市史跡 指定:昭和52年4月25日
この地は新撰組局長近藤勇の生家跡である。
近藤勇は、天保5年(1834)宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)としてこの地に生まれ育った。
15歳の時天然理心流近藤周助に入門、翌年理心流の目録を得て周助の養子となり近藤姓を名乗った。
当時、宮川家の屋敷は面積約7000メートルの広さがあり、建物は母屋のほか蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋等があり、周囲はケヤキ、カシそのほか大木や竹林が茂っていた。
現在の跡地は、屋敷の東南部に位置し、昭和18年に家が取り壊されるまで使用していた井戸を残すのみである 平成12年12月1日 調布市教育委員会」
あれ?こっちは調布市なんだ。龍源寺さんは三鷹市だったよな。
近藤勇産湯の井戸
宮川家(近藤勇の生家)の見取図と写真。
この説明板には近藤勇の少し詳しい生涯が書かれていた。最後のあたりを抜粋する。
「近藤勇、板橋で死す。
慶応4年3月、甲陽鎮撫隊が甲州街道を甲府へ向かう途中大久保剛と名を変えた勇は、上石原村の鎮守である上石原若宮八幡宮を遥拝して戦勝祈願、西光寺向かいの名主中村勘六家で歓待を受けたと伝えられている。甲州柏尾山で官軍に敗れ、その後、新たに隊士を募集して下総流山に陣をしいた。しかし、そこで官軍に包囲されて出頭、慶応4年4月25日に板橋において刑死した。勇の甥宮川勇五郎は、板橋の刑場で肩の鉄砲傷(慶応3年12月伏見墨染付近で負傷)を目印に首のない勇の遺体を掘り起こし、上石原村の生家近くにある龍源寺へ埋葬した。勇の無言の帰還を一族の人々は野川にかかる相曽浦橋で迎えたと伝えられている。
龍源寺の近藤家墓所には、勇の一人娘瓊(たま)と結婚して近藤家を継いだ勇五郎やその息子の久太郎も眠っている。また、近くには勇のいとこで新撰組隊士だった宮川信吉(勇の父久次郎の妹の子)の墓もある。」
YHAOO!の地図には、近藤勇生家跡には近藤神社と書かれている。ちっさいです。敷地も現在では小さい。14時21分、次へ向かう。
前回、大國魂神社→東京競馬場→東郷寺さんのしだれ桜→多摩霊園で坂の上の雲の登場人物の墓所巡り→武蔵野森公園の桜と桜並木を追いかけて飛田給駅という桜散歩をしました。その時探しきれず見れなかったものがあるのだ。まずは探さねばっ!
丘の上でのんびりしてる人。あの丘の向こう側は調布飛行場になっている。この近くにあるハズなんだけども?
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赤穂浪士ゆかりの寺の楠

2019年03月11日 05時47分37秒 | 歴史散歩
2019年2月24日の散歩。日暮里の朝倉彫塑館に50分滞在し、16時に出発。再び上野方面へ。この日鑑賞予定の目的の巨木は残り4本。さすがに全部見るのは無理そうだけど、行けるとこまで行くよっ。

いくらも行かないうちに次の目的地に着いた。トップ画像は赤穂浪士ゆかりの寺、観音寺さんです。説明板発見:赤穂浪士の吉良邸討ち入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られている。
47士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のちに当寺第6世となった朝山大和尚のことである。
寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内ではしばしば彼らの会合が開かれたという。
明治末の福本日南の著作「元禄快挙録」には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されている。当寺はもと長福寺と称し、享保元年(1716)観音寺と改称した。
本堂に向かって右側にある宝篋印塔は、47士慰霊塔として古くから伝えられ、現在でも霊を弔う人が訪れている。上部に四方仏を表す種子(梵字)、下部に宝筐院陀羅尼教、宝永4年(1707)3月吉日、長福寺6世朝山の名を刻む。 台東区教育委員会」
次いで寄りです。どこかの巨木WEBで見たので寄ってみた。目的の木はこのクスの木。

そこそこの大きさなのに、説明板がない。樹齢・サイズともにわからない。

根元が盛り土の上にあるので、根っこが鑑賞のポイントかも?

さて、参拝して撮影のお礼をする。

実は、観光客にとってのこのお寺の一押しはクスの木でも赤穂浪士の宝篋印塔でもない。山門を出て道路を上の方面へ。お寺の塀に向かう。
観音寺の築地塀として谷中の観光スポットになってます。
時刻はすでに16時6分。もはや予定の木が全部見えるかどうかでなく、日没と散策終了のどっちが早いか?の競争になってきた。

通りで見かけたレトロ建物。なんか文化財指定の緑のプレートがありますね。

こちらは横の壁に神社仏閣の絵馬を飾ってました。何のお店だろう?実はまだ午後4時ではありますが、「閉店しました」の札を出してる店が多いんです。観光客が来すぎたもよう。食べ物の店は「材料がもうありません」だの「コーヒーのみご提供できます」だの。無残です。谷根千といえばぶらぶら散歩で人気の場所ですが、ちょっと休憩出来る公園は極端に少ない。歩き疲れて飲食店へ。というコースを選ぶ人多いんだろうなあ。お寺はあきれる程多いけど、お寺で休憩はできませんものね。普通。

こちらは営業中。お酒も出すお店な模様。
なぜか、ベトナムのプラかごのお店。小さな雑貨屋さんも多い。
こっちは骨董屋さんな気配。変わった柵の間からちらっと窓の奥をみたらそんな感じでした。
さて、細い通りを抜けて火除け地も兼ねてるのかな?車の通る広めの道路に出た。

信号を渡り、小さいけど手入れの行き届いてそうな佇まいの総持院さんを過ぎると、次の目的地妙雲寺さんに到着。しかし!!まさかの事態がっ!!か、歓迎してくれるのは嬉しいんだよ?でもさ、君、その図体でよくそこまでジャンプ出来るよね。
でっかいワンコが柵の向こうで大歓迎ジャンプを続けてる。は、はははは、入れるかぁ〜〜!!

2019年3月9日に東京メトロでいく巨木探訪にまた行きました。
で、気になっていた既出記事に今朝、画像を追加しました。

1本目は麻布の樹齢750年超の善福寺(2017年12月16日)の記事 こちらの記事に紹介の大イチョウは今年のお正月に放送された「神様の木に会う〜にっぽん巨樹の旅〜」と先週3月8日にNHKプレミアムの番組『巨樹」と「美の壺」(巨樹)で紹介された木です。放送後、アクセスが増えました。しかし、訪問時天候が悪く、ポツポツと雨が落ちかかってました。で、うっかり巨樹の裏側の観察をしてなかったんです。この木は750年超の樹齢もすごいけど、第二次大戦時に被災して焼けました。反対側から見れば、焼け具合も確認できたのですが、裏側を見なかったのは大失敗。せっかくアクセスも多いのに、片手落ち記事になってるので気になってたのだ。で、3月9日に確認してきた画像を追加しました。裏側の画像を見たい方はリンクしてますのでどうぞ。
今連載してる2月24日の東京メトロでいく巨木探訪の記事の連載が終わったら、別記事立てします。

2本目は山王日枝神社の大イチョウ??(2017年12月14日)の記事 こちらの記事は赤坂山王日枝神社さんの大イチョウの紹介記事です。
YAHOO!で【赤坂山王日枝神社 大イチョウ】を検索ワードにすると、私のこの記事が1番目にきます。しかし!この記事では山王日枝神社さんの大イチョウにたどり着いてない!知ったからには、そんな記事が検索トップにくるなんて嫌だ〜〜!!
と、2019年3月9日に東京メトロ1日券でいく巨木探訪の最初に立ち寄り、今度こそ山王日枝神社さんの大イチョウを確認してきました。3月11日の朝一で記事に大イチョウの画像を貼り付けました。
ちなみに、探してた大イチョウは所在は山王日枝神社さんの参道の男坂にある山王鳥居のそばにあったんです。前回訪問時(2017.11.24)は楽してエスカレーターで訪問したので、参道下にある大イチョウに気づけなかったんです。樹齢約300年・樹高20メートル、幹周囲4、7メートルの巨樹。そんなん昔ながらの場所にあるのが当たり前!なぜに文明の利器なエスカレーターを使ったんだろうか?自分のアホさに絶望した。しかも、そんな大イチョウに辿りつてない記事が、YHAOO!検索順位1位ですよ?あり得ないっ!こちらも後日3月9日の巨木探訪連載時に新規記事立てします。

もひとつおまけに、ハチ公は上野の科学博物館にいる(2013年1月31日)の記事 こちらの記事もアクセスが多い。実はハチ公の命日って先週の金曜の3月8日だからか?それとも先日、犬&狛犬シリーズのジャンルに新規記事を投稿したからか?理由はわかりませんが、アクセスの多い記事です。
で、3月9日の巨木探訪の途中に、東京メトロ南北線東大前駅で下車、東京農大正門入って左に展示されてるハチ公のご主人とハチ公の像を見学に行きました。ので、これも今日画像追加しました。ワンコ好きなら必見の像だと思う。幸せな気持ちになれるよ。像からわずか50メートルほど離れた資料館には、ハチの内臓が展示されてます。幸せな気持ちのままいたい方はこちらはパスした方がいいかもな。ハチ公も後日、新規記事追加します。

2019.3.20:記事リンクを追加します。
麻布・善福寺の大イチョウ(2019年3月18日)の記事

山王日枝神社さんの大イチョウ!(2019年3月15日)の記事

ハチ公が幸せだった頃(2019年3月20日)の記事
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なぜに西日暮里に道灌の名前が?

2019年03月06日 05時51分12秒 | 歴史散歩
2019.2.24訪問。小田急東京メトロパスを使って巨木散歩。東京メトロ千代田線西日暮里駅で下車。目指すのは延命院さんの大シイの木です。JR線沿いの坂を道なりに登る。角で曲がったら立派な石垣があった。これ、切り込みハギだよな。江戸城とか、あ、さっき浜離宮庭園の大手門でも見たタイプ。ここってどこなの?
取り出したのは根津権現かいわい浪漫ちっくマップです。去年根津神社のつつじまつりで配布してたの。このマップって谷根千界隈の歴史散歩に便利だよな〜。
あれ!?
素敵な石垣だからとワクワクして入り口を探したら、普通の公園だった。その名も西日暮里公園。ダンナが「トイレ」というので待ってたら、なんか見つけた〜。

道灌山。安藤広重作の浮世絵付き。
道灌って特徴的な名前って太田道灌しかいないじゃん!連想ゲームなら「正解」だよね?
先月伊勢原で太田道灌のお墓に参拝してきたばっかりな私。興味深々です。
七人塚と太田道灌の墓(2019年2月11日)の記事 大田道灌は伊勢原の上粕屋神社裏にあった上杉館で主君の裏切りにあい暗殺された。
説明板発見:道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置します。安政3年(1856)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里4丁目付近にその名があります。この公園を腹部台地上にひろがる寺町あたりは、ひぐらし(日暮し)の里と呼ばれていました。
道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関潼関が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったなどの伝承があります。(中略)
道灌山・ひぐらしの里は、江戸時代の中頃になると、人々の憩いの場として親しまれるようになりました。道灌山の大半は秋田藩主佐竹氏の抱屋敷になりますが、東の崖ぎわは人々の行楽地で、筑波・日光の山々などを展望
できたといいます。」
なんか古い絵も展示してあった。

絵の右上に「船つなぎの松」というのが見えますか?松についての解説文もありました。
道灌船繋松
道灌船繋松のことは、『江戸名所図絵』天保7年(1836)、斎藤幸雄、幸孝、幸成(月岑)の三代三人が文章を書き、長谷川雪旦が絵を描く)にくわしく書かれています。
「青雲寺の境内、涯に臨みうっそうとしてそびえたり。往古は二株ありしが、一株は往んじ安永元年の秋大風に吹き折れて、今は一木のみ残れり。(中略)
或る人いわく、昔このふもとは豊島川に続きし入江にで、道灌の城砦ありし頃は、米穀その外すべて運送の船より、この松を目当てにせしものにて、つなぐというもあながき繋ぎとどむるの義にはあらず、これは舟人のことばにして、つなぐといふは目的にするなどいえるに同じ心とぞ。よってその後道灌山の船繋ぎの松と称して、はるかにこの所の松を目当てにせしを誤りて、道灌船繋ぎの松と唱ふるとぞ」
今は公園となったこの地を見回す。説明板の横に背の高い黒松が1本そびえている。過日の松をなぞらえて植栽したものか?
さて、ダンナも戻ったので出発。時刻はもう14時9分になった。マズい〜〜。急がないと!訪問予定を回りきれない。
スピードを上げて日暮里駅方面へ。過ぎ去る神社。
待て!今なんか変なのがいた〜〜〜っ!
過ぎ去れない〜〜。入り口は??参道はどこだぁ〜〜!!

な。これは過ぎ去れんでしょう?これは神社仏閣でなく、久々に狛犬カテゴリー物件です。
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徳川将軍家の浜離宮

2019年02月28日 05時48分17秒 | 歴史散歩
2019.2.24の散歩は巨木探訪ですが、せっかく浜離宮恩賜庭園にいるのだから、ちょっと脱線して歴史散歩をしたいな〜。で、潮入の池の岸に並ぶ5本のトウカエデを鑑賞した後、4つの御茶屋を見学へ。
トップ画像は燕の御茶屋です。燕の御茶屋は平成27年(2015)に史料に基づき復元されました。外からそっと中を見ました。中には入れません。
説明板発見:『燕の御茶屋」は11代将軍家斉の時代の天保5年(1834)までに建てられたもので、室内には将軍が座るための上段が構えられ、将軍自身が接客・利用するための建物であったと思われます。「燕」の由来は燕型の釘隠金具が使われていたことや燕子花(かきつばた)が由来とも言われていますが詳細は不明です』

次は鷹の御茶屋です。いただいたチラシによりますと「11代将軍家斉の時代に建てられた鷹の御茶屋は、平成30年(2018)に復元。こちらは内部の見学が出来ます。「鷹」の御茶屋は寛政7年(1795)頃に建設され、将軍が鷹狩りを行う際の、待合や休憩所として利用されていたと考えられます。
他の御茶屋とは異なり、茅葺屋根や、内部の土間叩き(将軍が鷹狩りの合間に野間支度のまま立ち寄れるように広い土間があった)が特徴の、農家風の佇まいの建物です。」とあります。
画像の右を回り込むと鷹部屋がありました。

初見で足が止まったけど、じっくり見ると等身大の鷹人形でした。鷹部屋の表面に貼られてるガラスに庭が反射して分かりにくいのですが、架木(鷹が留まる木)と餌棚、架垂(鷹が暴れてもつかまりやすいようにゴザをかける。再現してあるのは畳表を使ってる。
鷹部屋は珍しいなあ。
鷹部屋の説明です。

江戸時代の鷹狩りのやり方が図解してあります。基本囮のアヒルで鴨を引き掘りにおびき寄せ、土手から鷹や網で捕る猟です。

ちなみに、鷹の御茶屋の建設の様子を10分間のテレビ番組にしてエンドレス放映してました。史料に基づき忠実に復元してるので、昔の建物の建て方が興味深かったです。
ちなみにいただいたパンフレットによりますと、「歴代の将軍たちは『御茶屋』で賓客と共に景色を楽しみながら食事をしたり、調度品を鑑賞したりするなどして過ごす他、鷹狩りの際は休憩場所としても使用していました。

こちらは将軍が休憩や暖を取る際に腰を掛けるための畳敷きの上段です。

次は松の御茶屋です。手前に船着場がありますね。潮入の池は海水を引き入れており、潮の干満のよって池の趣きがかわる趣向です。江戸の庭園では唯一現存する海水の池だとパンフレットには書いてありましたが、どこかで池が満ち引きする池を見た気がするのだけど、思い出せない〜。どこでだっけ?ちなみに、いただいたパンフレットによりますと、浜離宮恩賜公園は北を築地川・南を汐留川・東を東京湾・西は濠です。

画像は大手門を入ってすぐ、三百年の松の先、内堀と築地川を繋ぐ場所。舟で出入りできたんですね。

松の御茶屋も11代将軍家斉の時代に建てられたものを平成22年(2010)の復元されました。実は2009年9月に浜離宮を訪問してまして、その頃には現在ある4つの御茶屋のうち中島の御茶屋しかなかったのね。

画像を見るとデッキに人影がありますね。中島の御茶屋では抹茶と和菓子のセット(有料)を楽しめる茶店です。
散策を再開。安永7年(1778)に築造された庚申堂鴨場へ向かいます。実は庭園見取り図には庚申堂鴨場は大きな池が描かれてますが、潮入の池の横堀沿いに歩いても鴨場は見えません。ただ小覗と引堀が何個か並んでました。

画像の中央の台形が小覗。画像の左手地面に伸びてるのは引掘です。

小覗は読んで字のごとく、中央に開けた小さな隙間を覗くのです。覗いた先は引掘。囮のアヒルが獲物の鴨をおびき寄せる仕組み。

こちらが猟の手順を図解したもの。
さて、ここで浜離宮恩賜庭園の歴史を紹介。いただいたパンフレットによりますと「徳川将軍家の庭園:海水を引き入れた潮入の池と、二つの鴨場を伝え、江戸時代には江戸城の『出城』としての機能を果たしていた徳川将軍家の庭園です。
承応3年(1654)、徳川将軍家の鷹狩り場に、4代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重が、海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てました。
その後、綱重の子、綱豊(家宣)が6代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり「浜御殿」と呼ばれるようになりました。以来、歴代将軍によって幾度かの造園と改修工事が行われ、11代家斉の時代にほぼ現代の姿の庭園が完成しました」
ここまでが浜離宮恩賜庭園が江戸の徳川将軍家のお庭だった時代です。明治に入ると浜離宮は皇室の離宮となります。
「『浜離宮』と名を変え、関東大震災や戦災によって、御茶屋などの数々の建造物や樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、昭和20年(1945)11月3日、東京都に下賜され、整備ののちに昭和21年(1946)4月から「浜離宮恩賜庭園」として公開されました。その後、昭和27年(1952)11月22日に「旧浜離宮庭園」として国の特別名勝および特別史跡に指定されました」とあります。
浜離宮には明治の面影も残ってます。

説明板発見:可美真手命(うましまでのみこと)
饒速日命(にぎはやひのみこと)の皇子で、神武天皇の東方遠征に従い、手柄をたてたと言われる軍神の銅像です。
明治27年(1894)明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った懸賞募集に当選した作品であります。台座には、佐野昭政策、すぐき長吉鋳と記されています」とありました。

銅像の側に芳梅亭という古民家が。ここさ、有料で貸し出しの建物でした。来歴はわからないけども、玄関口から建物を覗くとガラス窓があったので徳川のものじゃないかと。まあ浜離宮にあった徳川時代の建物は焼失し現存してないから〜。
うっかり浜離宮の歴史を楽しんでしまい、散策予定時間を大幅にオーバーしてしまった!時計がすでに11時なんだけど〜??と言っている!まずい〜〜。

今更だけど足早に大手門へ戻る。うっとりする石組みにまた足が止まってしまった〜。
おまけ:

江戸の鴨猟の方がシステマちっくに思える。ちなみに、ラクロスっぽい網も実物大で展示されてます。
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史跡相模国分寺跡地

2019年02月03日 06時02分02秒 | 歴史散歩
2019.1.27海老名巨木と歴史散歩のゴールは国分寺跡地です。10時10分に本郷の巨木・有馬のハルニレの最寄りバス停変電所北を出発で、今が12時51分到着。3時間のウォーキングでした。
で?去年の秋から治療してる腰痛と右足痛の回復具合はどうかな?
触ってみる。行けそう〜。いつもウォーキングするとお尻と足のジョイント部分からじんわり痛くなってたのだけども、痛くないっ!おお〜、回復してるう〜。
あ。説明板発見:史跡相模国分寺跡地
相模国分寺は、741年(天平13)の「国分寺建立の詔」によって全国に建立された寺院の一つです。
819年(弘仁10)と878年(元慶2)に相模国分寺が被災したという記録が残っていますが、940年(天慶3)には相模国分寺の仏像が汗をかいたという記録があることや発掘調査の結果等から、平安時代中期ごろまでは修理や再建が行われていたようです。
しかし、平安時代後期には荒れ果て、やがて現在の国分寺の場所に移転したと言われています。
相模国分寺跡は、江戸時代に書かれた「新編相模国風土記稿」の挿絵にも遺跡が描かれているほど古くから知られていました。
明治後半から大正にかけて尋常高等海老名小学校(現市立海老名小学校)の校長であった中山毎吉が相模国分寺跡や国分尼寺跡などの遺跡を調査して、矢後駒吉とともに「相模国分寺志」という研究書にまとめました。
こうした中山毎吉等の調査研究や保存運動により1921年(大正10)3月3日に相模国分寺跡は「国指定史跡」となりました。」
説明板に相模国分寺跡の整備予想図が描かれてます。

む〜ん?整備予想図にある築地塀跡の復元部分はないなあ〜。

こんなんありました!説明板発見:塔跡
ここは741年(天平13)の「国分寺建立の詔」をうけて建てられた七重塔の跡です。
1966年(昭和41)と1992年(平成4)に行った発掘調査で基壇(建物の基礎となる土盛)は、一辺の長さが20.6メートル、高さは1.3メートルの規模であったことが確認されました。残存する礎石から、塔の初重の広さは、10・8メートル四方で、塔の高さは約65メートルあったと推定されています。
塔跡のまわりからは屋根瓦(布目瓦)や水煙等の遺跡が出土しています。
また、基壇周辺で発掘された石敷きや盛り土から2回の修理もしくは建て替えが行われたこともわかりました。(後略)
塔の高さが65メートルって凄いわ〜。
せっかくなので塔跡の階段に座っておやつ〜。

あれ?あそこにあるレトロ建物って何?まだ足痛くないし疲れもないから行ってみようかな〜?
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