あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

徳川将軍家のお墓

2012年02月29日 05時31分46秒 | 墓所巡り
増上寺は上野の東叡山寛永寺(天台宗)と共に徳川将軍家の菩提寺です。
増上寺に埋葬されたのは、二代徳川秀忠・六代徳川家宣・七代徳川家継・九代徳川家重・十二代徳川家慶・十四代徳川家茂の六人の将軍と、崇源院(二代秀忠の奥さん、つーか去年のNHKの大河ドラマ『江』)、皇女和宮(十四代家茂の奥さん)ら五人の正室、三代家光の側室桂昌院(五代綱吉の母)を始め5人の側室、及び三代家光の第三子甲府宰相綱重ほか歴代将軍の子女計38名です。
壮麗な霊廟の数々はご霊廟とよばれて増上寺に立ち並んでましたが、昭和20年(1945)3月10日に北廟68棟被災、5月25日に南廟28棟被災。二度にわたる空襲で増上寺のほとんどが焼失。わずかにのこった建物も国宝の指定を解除されました。
昭和33年(1958)から詳細な学術調査が行われ、南北に配していた墓所は一カ所にまとめられ現在地に改装されました。
普段徳川将軍家の墓所は限られた日にのみ特別公開されてます。
ですが~??アレレ~??
入れるっ!!何でやっ!?
訪れたのは1月27日だったのですが、実はですね、去年のNHKの大河ドラマ『江』の主人公が徳川二代将軍徳川秀忠の奥さん崇源院だった為に「墓参したい~~」という要望が多くて特別公開されていたのでした。
ラ・ラッキー~~
普段の特別公開は入場無料なのですが、今回は入場料500円でした。
高いと思いますよね?私もそう思った!だから同行のあっこさんと相談したら「せっかくだから」と入場することに。したら~~~っ絵はがきをいただきました。
それが~~~ッ!!かつての壮麗な霊廟の写真をハガキに仕立てたもの。そしてかつて増上寺が壮麗な建物が立ち並んでいた頃の絵が大延ばしに印刷してあったんですよ。
ラ・ラララ超大ラッキーじゃっ!!!
いそいそと入ります。
まずはトップ画像。これはかつて六代将軍徳川家宣の宝塔前の唐門です。かつて国宝だった鋳抜き門でした。日陰での撮影だったので、画像が真っ暗になったので修正しました…。扉の龍の模様はさすが元国宝!でしたが、撮影に失敗しました。無念。
静寛院和宮(青銅製)の墓。
14代将軍家茂の正室。和宮は仁孝天皇第8皇女として弘化3年(1846)に生まれる。
和宮は嘉永4年、6歳の時に有栖川宮と婚約が成立していたが、婚儀間近になって前述した公武合体策によって降嫁。この時和宮は15歳。家茂死後、落飾して静寛院と称した。明治10年(1877)31歳で逝去。
14代徳川家茂の墓(石塔)。
家茂は11代徳川家斉の子、斉順の長子として弘化3年に生まれる。安政5年、将軍家の養子となり13歳で14代将軍となった。
尊王攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂は第一次長州征伐を指揮し、第二次長州征伐中、大阪城で病没。慶長2年(1866)、享年21歳。
…確か、直接の死因って脚気じゃなかったっけ?甘いモノ大好きな人だったとか?どっかで読んだ気がする~。すごく人望のあった人で、家茂の死を持って徳川の世が終わった!と誰ぞが言ったとかなんとか~?…勝海舟だった気がする。なんかのドラマで見た気がする。や。私の記憶は大概漫画かテレビから入ってるんで確実じゃないけど~。
六代徳川家宣公夫妻(青銅製)の墓
家宣は家光の三男綱重の子(家光の孫)として寛文2年(1662)に生まれる。将軍職を継ぎ、間部詮房や新井白石を重用し、生類憐れみの令や酒税を廃止したが、将軍になりわずか3年で病に倒れた。正徳2年(1712)享年51歳。
七代徳川家継の墓(石塔)
家継は6代家宣の第3子として、宝永6年(1709)に生まれる。父家宣逝去の時、わずか3歳。家継は元来病弱で、正徳6年(1716)、8歳で亡くなった。
9代徳川家重の墓(石塔)。
家重は8代暴れん坊将軍吉宗の長子として、正徳元年(1711)に生まれる。
成長するにつれ病がちとなり、将軍となっても政務は重臣にまかせた人。確か大河ドラマ「吉宗」の中では、どもりがある暗い男として描かれていたような~?
49歳で将軍職を譲り、宝暦11年(1761)、51歳で逝去。
12代徳川家慶の墓(石塔)
家慶は11代家斉の第2子として、寛政2年(1793)に生まれる。天保8年(1837)12代将軍となった。
家慶は「天保の改革」に着手するが失敗。嘉永6年(1853)に亡くなった。61歳。

分かりにくいですが、墓所に入場する時にいただいた『増上寺御霊屋』のパンフレットより転載します。
や~、去年MYMAC BOOKがクラッシュして以後、それまで普通に使ってたスキャナー読み込みやfohto shopなども使えなくなり不便です。今回ちらしを携帯電話で撮影したんだけど~。
も、読めればいいや。   
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芝増上寺

2012年02月28日 05時42分52秒 | 神社・仏閣
泉岳寺を堪能した後、都営地下鉄で移動したのは大門駅です。
増上寺の周辺には、芝公園・御成門・大門と駅は3つもあるのですが、大門をチョイスしたのには理由があります。
ここでトップ画像を見て下さい。道にまたがって建つのが大門。です。
道にまたがる門、珍しくないですか?実はかつてここは既に増上寺の境内だったんですよ。だから、大門をくぐる所から増上寺参拝が始まるんです。
増上寺の堂宇の配置には仕掛けがあって、大門から大殿本堂に至る道のりは、穢土(えど)…我々の世界のこと…から極楽浄土に至る世界を表しています。
門の奥に三門が見えてます。
大門から三門 約108間。三門をくぐり108の煩悩から解脱(げだつ)する。
大門。
道にまたがる大門。
まさか~~っ!!徳川の葵の御紋がかかっています。しかも、この幕、布製ですよね?道路交通法的にOKなのか???や。そもそもここに道があるのが間違いだよね??だからこれは特別措置なのか~!!そうなのかぁああああ~~っ!!
増上寺のホームページによると、『大門は総門・表門にあたり、地名の由来になってる門です。現在のものは国道の通行整備のため、昭和12年(1937)に原型より大きく、コンクリート製に作り直されたものですが、旧大門は慶長3年(1598)に江戸城の拡張・造営にあたり、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康公より寺の表門として譲られたものでした。その旧大門は大正12年(1923)の関東大震災により倒壊の恐れが生じたため、両国・回向院に移築されましたが、昭和20年の空襲により焼失しています。』だそうで。(なぜに両国・回向院が青字なのか?と言うと、この後訪問したからです。後日記事のしますので期待して待ってて~)
そうなんだよね。江戸・東京の歴史的建物は、関東大震災と第二次世界大戦時の空襲で大概焼失もしくは倒壊してて現存してないんだよね。京都・奈良を観光した後東京歴史観光したならば、どれだけの神社・仏閣が鉄筋コンクリート製か。驚くよっ。東京の神社・仏閣は、形こそ京都・奈良のものとあんまり変わりませんが、鉄筋コンクリート製ばっかだよ~。
大門から三門
画像右手に木が見えますか?これもかつての増上寺の名残じゃないかな~?でもここで目立つのは木じゃなくて、三門の向こうに見えてる東京タワーですよね。やっぱ東京タワーが見えるとワクワクする~~~。東京タワーも実はかつては増上寺の境内でした。
ちなみに、東京タワーのてっぺんは、去年の3月11日の東日本大震災の揺れでアンテナが曲がってしまったんですってよ?う~ん??最近目が悪くなってるのか、見えない~。分からない~~。
三門(三解脱門)。
三門に『ブラタモリ』で上がってましたね。いいなぁ~~っ!!と思った人が多かったようで、去年期間限定で三門に上がれたんですよ。行けばよかったぜ。あ。現在ーーつーか、普段は立ち入り禁止です。
三門(三解脱門) 増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、増上寺の中門にあたり、正式名称を三解脱門といいます。
徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。元和8年(1622)に再建されました。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建物で、国の重要文化財に指定されています。
三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり・怒り・愚かさ」を解脱する門のこと。
建築様式は三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗り。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄が加味され、美しい。二階内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置してある。
この門ってば江戸の初期から建っているオリジナルなのですね。へえへえへえ~~!!
三門から大殿へ。距離にして約48間。阿弥陀仏の48願。

参道から大殿前に至る階段。 18段。阿弥陀仏の本願。第18願。
ここで大殿へ至る階段の画像をお見せしたいのですが、撮影し忘れました!!上の画像で遠くに見えてるのがソレかと?
大殿に上る階段。 25菩薩をあらわし、25の階段となっています。
大殿 戦災に遭い焼失。昭和49年(1974)に再建。ご本尊は阿弥陀如来様(室町期制作)。両脇壇に善導大師と法然上人の像が祀られている。
ってことは、増上寺は浄土宗なんですね。
調べました!
増上寺は三縁山広度院 増上寺が正式名称。
浄土宗 大本山(浄土宗七大本山の一つ)
徳川家康公の帰依を受け、大伽藍が造営された。以後徳川将軍家の菩提寺となりました。
戦災により徳川将軍家霊廟は焼失。
焼失を逃れたのは三門・経蔵・黒門など境内のわずかな建物で、再建にあたり近代的に整備された。

まずは何はともあれ参拝。
と大殿に入ったのですが…。なんかねえ。法要中?や、これは門徒による読経大会かな?
外国人の男性が一心にガン見してました。わかるう~~。
あれ??写真を撮ってる人がいる。いいの??

一応携帯電話のシャッターを切りましたが、法要中は撮影禁止です。(出る時に『法要中は撮影禁止』と書いてあるのを見つけました。申し訳ない)
大殿も大きくて、中にこんな太鼓を見つけました。

これって、以前春に増上寺を訪問した時に僧侶が舞楽を奉納してたのですが、あれに使う奴ですかね?
安国殿内部
大殿の右手にある。恵心僧都の作と伝えられる秘仏黒本尊(阿弥陀如来)が祀られている。(御開帳は正月・五月・9月の15日)黒本尊は家康公が深く信仰した阿弥陀如来像で、勝運・厄除の仏様として、江戸以来広く人びとの信仰を集めている。
安国殿の外見は真新しく落成したばかりに見えました。ので萌えが発動せず画像がありません。
お守りには葵の御紋が入ってました。これはなかなかに萌えっ!!買おうかだいぶん迷ったんですが、うかつにお守りを買うと、返す時に大変なのでぐっと我慢です。や。更に買おうかどうか真剣に迷った品があった!それは線香立て用の砂!!これが~~っ!!金色でっ。何度も洗えて、しかも線香の灰があっという間に流れていく!という優れものっ。欲しいっ!でも今買ったら、今日一日砂を持ち運ばんとイカン。それは嫌~~~っ!!
ってなことで、明日は徳川将軍家霊廟の紹介です。   歴史 ブログランキングへ
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赤穂浪士のお墓

2012年02月27日 05時55分48秒 | 墓所巡り
赤穂浪士は吉良上野介の首を取った足で、泉岳寺にある殿・浅野内匠頭の墓前に供えたのです。
んな訳で、今日は泉岳寺の赤穂浪士のお墓を紹介しますね。
まずトップ画像は、四十七士の墓所遠景です。全景と行きたかったのですが、フレームに納まりませんでした。
配置図もありました。

並べ方は、討ち入り後、赤穂浪士は複数の藩にお預かりとなって、後に切腹を言いつけられ預かりの藩邸で最後を遂げたのです。んで、そのお預けの藩毎に墓はまとまって配置してあるんですよ。
んで、有名は赤穂浪士事件ですが、実は詳しくは知らないんだよね~。なので、現場で探した墓はこれ。

画像右端が堀部安兵衛の墓です。高田の馬場であった仇討ちに助っ人として活躍。それを見込んだのが赤穂の堀部さん。安兵衛は請われて堀部家の養子になりました。
こっちが安兵衛の義父のお墓です。
墓に戒名と生前の名前。そして享年が彫ってあります。みんな戒名が「刃」の文字を冠してあるのが萌え。
大石主税吉金の墓
大石主税は大石内蔵助の息子です。切腹したのは16才。最年少の浪士でした。堀部安兵衛と同じく、伊代松山藩のお預けでした。
大石内蔵助良雄の墓
この画像ではわかりませんが、墓石の手前に石の大きな線香立てがあります。線香立てには大石家の右二ツ巴の家紋が彫り込んであります。みんな絶対見た事あるよ。
最後にこちらのお墓は?
浅野内匠頭長矩の墓
播磨赤穂藩の第三代藩主。『忠臣蔵』の大本となった江戸城松の廊下で吉良上野介に切り掛かった人。時の将軍は第五代徳川綱吉。生類憐みの令を出してる人だから、殿中刃傷は許せないこと。時のお側用人柳沢吉保は綱吉に取り次ぐこともせず、浅野内匠頭は当日切腹(元禄14年3月14日)を命じられております。享年24。短慮ですよね。赤穂藩は改易になってしまうし~。
画像右手には、浅野家の人びとの墓も並んでます。内匠頭の正室阿久里(瑤泉院)のお墓もありました。
ちなみに、『忠臣蔵』の赤穂浪士と言えば四十七士ですが、泉岳寺の赤穂浪士の墓は全部で48基あります。
さて、泉岳寺を満喫した後、門前のお土産屋さんを冷やかす。

これこれ!大石家の家紋二ツ巴紋の入った太鼓です。記念にケヤキに二ツ巴を彫った太鼓のキーポルダーを購入。
限定キューピーの大石内蔵助もありますよ。

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泉岳寺

2012年02月26日 05時34分27秒 | 歴史散歩
訪問日は2011年1月27日。待ち合わせは泉岳寺駅A2出口地上に10時でした。
私の最寄り交通は小田急です。小田急と連繋して東京メトロのお得きっぷがあるので、都営地下鉄はほとんど利用したことがない。ですが、この日同行のあっこさんは京急利用なので、連繋するのは都営地下鉄なのだ。ということで、都営地下鉄の1日きっぷ700円を利用して、都営地下鉄線で巡る江戸の旅第1回を始めます。
まずは泉岳寺赤穂浪士を知ってる人なら泉岳寺を知らない人はいない。
トップ画像は泉岳寺の中門です。総ケヤキ造りで天保7年(1836)に再建。昭和7年に大修理。正面扁額には「萬松山」とあります。
泉岳寺は慶長17年(1612)徳川家康公の創立で、曹洞宗江戸三ケ寺の一つです。開山は門庵宗禅師(今川義元の孫)です。
山門
中門を抜けると山門がある。山門建立は天保3年(1831)に34世大道貞釣和尚が再建。二階部分には十六羅漢が安置されてるそうですが、観光客は階上に上がることは出来ません。1階天井部分に「江戸三龍」の一つ銅彫大蟠龍がはめ込まれている。日本の彫金の元祖関義則の作です。撮影しましたが、失敗しました。ぶれぶれです。

門を裏から見ると、松の木がいい感じにありました。さすが「萬松山」(泉岳寺の山号)
本堂
旧本堂は第二次世界大戦の空襲で焼失。現本堂は昭和28年12月14日に落成。大石内蔵助の守り本尊摩利支天(秘仏)などが納められている。正面に掲げられている「獅子吼」(ししく)とはお釈迦様の説法のこと。
なんてまともに寺院の紹介をしてますが、泉岳寺に訪れる参拝客の9割の人の目的は赤穂浪士事件の面々のお墓でしょう。よってここからは泉岳寺に残る赤穂浪士の所縁のものを紹介します。
大石内蔵助良雄の像
浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願で鋳造。大正10年12月14日に寄進除幕。
銅像は手に連判状を持ち東の空(江戸方向)を睨んでいる姿だそうです。
血染めの梅・血染めの石
浅野内匠頭が田村右京太夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられる梅と石です。
田村右京太夫邸は後日の記事で登場するので、ちょいと記憶に留めて置いて下さい。
 
赤穂浪士の面々が、吉良上野介の首級を洗った井戸。主君・浅野内匠頭の墓前に供え報告をしたので「首洗い井戸」と呼ばれている。
画像に「川上音二郎」の名前が見える。これってアノ人ですかね?明治期の日清戦争の頃にオッペケペー節を歌った人。つーかパリ万博で奥さんの貞奴と公演した人。なぜに川上音二郎が泉岳寺でしかも吉良上野介の首洗い井戸なのか??わからん。

この門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築されたものです。
門をくぐると浅野家の墓所があります。そして赤穂浪士の墓も整然と並んでおります。
泉岳寺は元々外神田に徳川家康が創建したのでですが、寛永の大火(1641年)で焼失後、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹波・水谷の5大名により、現在の高輪の地に再建さてたのです。浅野家との付き合いはこの時より。
明日は赤穂浪士のお墓を紹介するね。   歴史 ブログランキングへ


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日蓮の臨終の場所

2012年02月25日 05時35分35秒 | 歴史散歩
池上本門寺の西側の斜面を降りた所に大坊本行寺がある。
本行寺は、日蓮宗の宗祖である日蓮大聖人が入滅、すなわちご臨終された地(ご霊場)です。

日蓮は今から700余年前の弘安5年(1282)9月8日、常陸の国での湯治療養のため、9年間にわたり住み慣れた身延山久遠寺/現在の山梨県巨摩郡身延町)を後にされ、同月18日、武蔵の国池上郷の鎌倉幕府の作事奉行であった池上宗仲公の館に落ち着きました。
日蓮は宗仲の館で療養しつつ弟子や信者に「立正安国論」の講義などをしてましたが、病が重くなり10月8日に6人の弟子に後を託し、10日に形見分け。13日に弟子や信者が法華経を読経する中亡くなりました。享年61歳。
それが現在の大坊本行寺です。

日蓮が入滅した池上家の仏間後に建てられたお堂。
「ご臨終の間」で正座して参拝。現在の建物は当時のものと違うのでしょうが、日蓮は寄りかかって「立正安国論」を講義していた「お寄りかかりの柱」があります。これに触れることが出来ます。
撮影はしてません。感動はぜひその場で味わって下さい。
ちなみに、「ご臨終の間」は昭和11年3月に東京都の史跡指定されているので、記事のカテゴリーは「歴史散歩」に分類してます。

ご臨終の間の裏側でお庭を眺めました。なんか疲れてます~。
お堂を出ると、本堂の前にお会式桜があります。訪問日は2011年11月22日。現在植えてあるのは四季咲き桜か冬桜か?ともあれ、桜の花がちらほら咲いてました。これはね。日蓮が亡くなった旧暦の10月13日(今の11-12月)にもかかわらず、時ならぬ庭先の桜が花を咲かせたと伝えられており、その故事に由来して秋に花をつける桜を植えてあるんでしょね。
御灰骨堂
日蓮入滅後、遺体を荼毘にふした際の遺灰を集め安置。現在のお堂は昭和54年3月、本門寺より大聖人旧御廟所の建物を移築したものです。
ちなみに御灰骨堂の右に見えるのは萬霊供養塔。
さて、散歩はこれにて終了です。池上駅へ向かう道には次から次へ小さなお寺が現れます。これって、本門寺の塔頭なんですかねえ?

道々、雰囲気のいい山門があったので写してみた。撮影時間を確認すると、16時でした。つ、疲れた~。確か、待ち合わせは小田急線豪徳寺駅に9時だったよね。私ら頑張ったよ…。
帰り道、連れは門前の商店街でくず餅を購入~。ふっふっふっ。関東のくず餅は、京阪神でいうくず餅とは別モノなのだよ。おうちに帰って驚いてくれたまへ。
人気ブログランキングへ ちなみに、以前池上本門寺を訪問した時いただいたくず餅の画像はこちら。池上本門寺でグルメ(2009年10月8日)の記事
NHKの朝ドラ「カーネーション」うっかり見出したら面白い。久々に見てます。ヒロインの糸子とほっしゃんの演じる北村の掛け合いが私的にツボにはまってしまいました。
んでね。最近気になるのがすっかり髪をアップにしてる糸子の左のおでこにあるホクロだったりして…。や~、女優さんってホクロ取るよね?や。ドラマ的には加齢した糸子を表すいい味出してるんだけどね。なんつーか、目が糸子のホクロに吸い寄せられてしまうんです。って、コレ私だけ??
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本門寺の墓所続き

2012年02月24日 05時31分28秒 | 墓所巡り
池上本門寺に訪れた目的は、墓巡りではなく秘密のお庭だったハズ…。でも墓巡りに持てる限りのエネルギーを注ぎ込み、更には1日に覚えられる限りの記憶力を費やしてしまったらしい…。どんなに墓巡りが楽しかろうと、ボチボチタイムリミットが迫って来ました。や。この段階で既に最終目的地の川崎大師は諦めてますが。
そんなこんなで、本門寺のお墓と歴史に詳しいご隠居とお別れし、まず向かった先はお休み処です。何はともあれ、お腹に何か入れないともう動けん…。ええ。わしらはお昼を食べるのも忘れて墓巡りに夢中になっていたのですよ。
もういい年なんだからさ~。落ち着こうよ。自分…。どっかから、友人・妹弟のツッコミが聞こえてきます。

昼食メニューはおそば。あっちゅー間にかっ込んで、スタンプ集め再開です。
ええ、そうなんですよ。秘密のお庭に入るには本門寺を巡って5つのスタンプをコンプリートしないと入れないんです。どこのRPGゲームじゃっ!!時間がないんじゃっ!
などとぼやく時間も惜しんでコンプリートして駆けつけた秘密のお庭という名前の松濤園。
でも…。時既に遅く、太陽がお山の向こうに入ってしまい、採光加減がよろしくない。あまつさえ、本来の紅葉散歩の目的だった松濤園のモミジ群はまだ色づいてないというダブルコンボ!!うう…。気力が尽きそうよ。
そんなこんななお庭の画像はこちらの記事豪徳寺から池上本門寺紅葉散歩(2011年11月24日)の記事で確認していただくことにして、一つだけ。トップ画像の説明を。
設置してあるっ説明板には「西郷隆盛・勝海舟会見の碑慶応4年(1868)3月、倒幕軍の江戸城総攻撃を前に倒幕軍の首席参謀であった西郷隆盛と、幕府軍の勝海舟がこの地で会見をし、江戸城無血開城の交渉を行った。会見は松濤園内の四阿で行われているが、建物は現存しない。この石碑は昭和16年に建てられたもので、西郷隆盛の甥にあたる西郷従徳の揮毫になる。なお、本門寺には倒幕軍の本陣が置かれていた
確かね、池上本門寺は空襲に合って殆どの建物を焼失してるから、会談した建物も大概その位でなくなってると思うんだよね。
ちなみに、日本史とか歴史の本では、西郷と勝海舟の会見は、品川の薩摩藩邸って書かれてると思うのね。あれは本門寺の会見の後の出来事です。ンでもって、西郷と勝海舟の本門寺の会見前にある程度道筋をつけてたのって、勝海舟じゃなくて、もう一人の舟の人の方じゃないかと…。名前名前…。鉄舟?
んな訳で早回しで秘密のお庭を見物。次に目指したのは本門寺の西側の斜面にある墓所です。
多宝塔
こちらは以前訪れた時に修復工事をしていた場所です。
天保2年(1831)の日蓮聖人550遠忌を記念して、日蓮聖人御荼毘所跡(火葬に付された所)に建立された。屋外に建つ宝塔形式の木造塔としては日本唯一の遺構。
なかなかに色鮮やかです。多宝塔に向かい降りて行く階段もこうワクワク感が盛り上がりいい感じなんですが、多宝塔の背後にある紀州徳川家墓所も凄いです。

この墓所は家康の側室お万の方をはじめ紀州徳川家奥方の墓塔が立ち並ぶ。…あれ?昨日もこの文章書いたような~?本門寺の墓域のあちこちに紀州徳川家のお墓ってあるのね。
実は紀州徳川家墓所の背後の崖の上にもお墓があります。そこは歴代聖人様の墓所。歴代貫首のお墓です。撮影し忘れましたよ…。も、ダメダメ。
狩野探幽の墓。
狩野探幽は狩野永徳の孫。幕府の御用絵師として活躍し、狩野派を大きく育てた人。延宝2年(1674)10月没。
墓の形は瓢箪型で、墨壷をかたどっている。総高2、95メートル。碑高2、8メートル。
その上部に「妙法」と刻む。傍らに一代記を刻んだ供養碑が、狩野探信によって建立されている。
付近に妻や一門の墓もある。

お、終わった~。お墓巡りの記事を今まで放置してた理由をブログを書き始めて分かったよ。大変なんだね。まあ、歴史を検索しつつ記事を書くのは楽しいと言えなくもないが…。せめて当日と言わず、翌日には書いておくべきでしたよ。溜めてちゃあイカンのですね。次から気をつけよう。つーか、墓地巡りはやり過ぎると危険なんだね。歴史の波に弄ばれてしまう。一つ賢くなったよ。
んなこと言ってますが、明日もまだ池上本門寺です。明日はねえ、日蓮のご臨終地の紹介です。   人気ブログランキングへ
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万両塚

2012年02月23日 05時29分10秒 | 墓所巡り
トップ画像は余芳心院墓所です。別名万両塚。
万両塚に埋葬されているのは「芳心院殿妙英日春大姉」。彼女は徳川家康と側室お万の方の孫にあたり、紀州徳川家藩主頼宣の娘。鳥取池田家初代藩主池田光仲の正室です。確か生前は茶々姫と呼ばれていた人。
宝塔背面の銘文には、芳心院の家系・人となり・信仰の深さと「逆修七分全得(生前に墓をつくるなどの善行を積めば、七の功徳全てを得ることができる)のために生前に建てた自分のお墓であったことが記されています。
宝塔内部からは、法華経巻子本八巻と火葬骨の収められた青銅製の骨蔵器が発見されました。自身の法華経信仰を三百年後の私たちに伝えてくれる貴重なお墓です。(説明文より)
ご隠居の言うには、とても美人だったそうで。そして蛇が嫌いだったそうで。だからお墓の廻りに濠が巡らせてあるんだって。かつては濠に水を貼り、蛇が渡ってこれないようにしてあったと言い伝えられて来ましたが、ちょうさの結果、濠はもとから空堀だったんだって。ちなみに、万両塚の名前は、このお墓を作るのに一万両のお金がかかったそいう俗説からだそうで。

今は墓の周りに四季折々に咲く植物が植えられています。

ちなみに、万両塚の側にあるこの古いお墓は、彼女に仕えていた侍女のものですって。
さて、万両塚があるならば、千両塚だってあるんじゃあ?と思われた方はいます?
スルドイっ。
実は池上本門寺の墓所には千両塚の別名を持つ墓もあるんですよ。それがコレ。

こちらも鳥取池田家のお墓です。確かねえ、ご隠居が元禄年間に作られたお墓だって言ってたような…。殿様の生母だったって言ってたような~?因幡氏の娘って言ってたような~?メモが残ってるんですが、あやふやですので確信が持てません。
ちなみに、上の画像の背景に映り込んでいる五重塔、見覚えありませんか?

これってTBSドラマで「南極大陸」の作中で、木村拓哉がちょいちょい墓参りする場面があったんですが、キムタクくんの後ろにあったのコレだと思うんだよね。
都内って以外と五重塔が残ってなくて、後は上野の寛永寺ともう1個確か3つくらいしかないハズなので、当たりだと思う。ちなみに、五重塔は2代将軍徳川秀忠の乳母・岡部局の発願により、秀忠が慶長13年(1608)に寄進建立しました。五重塔の側に幸田露伴の墓もあります。幸田露伴の著書に『五重塔』って言うのがあるんで、だから五重塔の側に墓を作ったんだとしたらそれも面白い。ちなみに、両雄の尾崎紅葉の墓は青山霊園にあります。乃木希典の墓を探してたら近くにあったんだよ~。ええ。最近妙にあちこちで墓を探してます。でも流行りの墓マイラーではない~~~んで。
細川家清高院の墓。
彼女は肥後熊本藩第三代藩主細川綱利の母です。実は彼は赤穂浪士事件後に大石内蔵助始め計17名を預かった人でした。ちなみに、大石内蔵助ら預かった赤穂浪士達が切腹を命じられた後、彼らの葬儀代・お布施を泉岳寺の送ったそうですよ。あ。逸れた。
細川家の墓所は区画が広いです。清高院の墓の隣にはこんな墓もある。
更にこんなのも。
更に更にこんな墓も。
河上彦斎(げんさい)の墓。
これは以前記事にしたから覚えてる人もいるかも?
河上彦斎は幕末期に人斬り彦斎と呼ばれた人で、佐久間象山を斬った人。それがなぜにこんな所にお墓があるのかというと、彦斎は熊本藩士だったから。ちなみに彼は斬首されてます。
画像の墓は実は後の世の彦斎ファンが建てたもので、本物の墓はその背後にある小さな墓がソレ。
で~も~。『銀魂』ファンなら鬼兵隊の河上万斉の名前のモデルと言ったほうがピンとくるかも?
さて肥後熊本藩細川家。
肥後細川家の墓。
同じ様な古い時代のお墓が当たりにいくつもある中で目当ての墓を特定するポイントをご隠居に教えてもらいました。
「墓にはね、家紋が彫ってあるんだよ。肥後熊本藩細川家の家紋は細川九曜紋。この墓にも九曜紋があるだろう?」
九曜紋。とっても分かり易い家紋です。
「NHKの大河ドラマを見てたらね。九曜紋が映ったんだよ。何故だ?と思ったら、細川ガラシャだったんだ」
細川ガラシャは明智光秀の三女で細川忠興の正室なので、家紋が九曜紋だったのは納得出来ます。
そういや、『坂の上の雲』で秋山真之と結婚した季子さん。花嫁衣装には家紋が染められてます。彼女の家紋が分からなくて、あの広い青山霊園を駆け巡ったとか逸話があります。ドラマのぼ~っと見てちゃイカンという話。歴史の萌えは思わぬ所に転がってるんですよ。

最後にコレ。もうねえ。気力の尽きた時にまわった墓なんで記憶がグダグダなんですが、どっかの大名の重臣のお墓だったハズ。隣に奥さんの墓もありました。誰だっけなあ~??…徳川家斉の懐刀?や。もう思い出せんすみません。歴史 ブログランキングへ
すみません。今日の記事は文章もぐだぐだですね。何がこの記事書いてた時、いっぱい一杯だった。
今朝、起きたらくしゃみを連発。水のような鼻水が垂れてきた。
今年も遂にやって来ました。花粉の季節。や。昨日は暖かかったからね。今日は朝から雨だけど、止んだら花粉が本格的に飛び出すのか?
って!!
今年の梅!まだ満開になってません。例年に比べ1カ月遅れですよ。開花情報待ちのお散歩になかなか出かけられない~。あっこさんと御徒町で待ち合わせー旧岩崎邸庭園ー梅の湯島天神ー神田明神ー湯島聖堂ーニコライ堂巡りとか予定してるんだけどね。いつになるんだ~。

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有名人が一杯な池上本門寺の墓所

2012年02月22日 05時40分26秒 | 墓所巡り
歴史上の有名人も多いけど、芸能人や今でも有名人の墓も多いんだな。
トップ画像と左の墓は狩野常信(父)・周信(子)・養信のお墓です。
江戸幕府に仕えた御用絵師ですね。時代的には常信は徳川家光・家綱の御用を務めました。水戸黄門さまもごひいき筋だったらしい。
さて、この墓の名前を見て欲しい。

これ、誰が書いた字を彫ったのかわかるんですよ。
記名部分を拡大してみましょう~。ハイ、ポン!

読めます~??「中曽根康弘」とあるんです。ええ、ロナルド=レーガンと「ロン!」「ヤス!」と互いに呼び交していたかつての日本の首相です。まだまだ元気に政治に携わってらっしゃいます。
よく神社仏閣を巡っていると、扁額を揮毫した方は今でも名を知られる有名人の場合があります。かつての交流に思いを馳せて感動しますが、これも長く残るんだろうなあ。だって石に刻んであるんだもん。
…私も大概悪筆なんですが、中曽根さんには勝てるかもしれん…。

これもご隠居さんが教えてくれました。墓の主の名前は存じ上げなかったんですが、朱色のついたてにあったのはビッグネームでした。高倉健さんの控えめな性格を現すように、名前はついたての裏に小さく記されてました。
また、携帯電話の電池の残量が怪しくなってきて撮影してませんが、以前紹介した石の虎の彫刻があったお墓の持ち主もご隠居さんが教えて下さいました。
本門寺にある有名人のお墓(2009年10月7日)の記事こちらの記事で石の虎の画像を確認出来ます。
墓の主は政治家だった(確かかつての自民党大物議員)んですが、墓所内に2つあった墓石に刻んだ名前が凄かった。私がわかったのは2人だけ。一人は巨人軍になにかあるとニュースになる渡辺恒雄さんで、もう一方は昭和のフィクサーと呼ばれた児玉誉士夫でした。
また五重塔の近くにあった横澤家のお墓は、フジテレビの伝説のお笑い番組「ひょうきん族」の初代プロデューサーの横様さんのお墓でした。
そして五重塔の北側にあった細川家の墓所に隣接していたのは、歌舞伎の松本幸四郎さんちのお墓でした。側面に「松本白鸚」と刻まれてたから間違いない。
さて、ボチボチいっぱいいっぱいです。携帯電話の電池残量も怪しいんですが、仮覚え出来る記憶の残量も残りわずかとなってしまったのだ!
この散歩は2011年11月22日だったので、既に3ケ月前の出来事を思い出しつつ書いてるんですけど、大概当日もこの辺りで記憶の限界を迎えてたんですね。どうがんばっても由来の思い出せん画像がまだまだ残ってるんですよ。どうすんだよコレっ。
あ~れ~~??せっかく幸運な出会いによりご隠居さんに色々レクチャーしてもらったのに…。このザマかよっ!!がっかりじゃ~~~っ
以後、だいぶん曖昧な記憶でお届けします。ええ。明日もまだまだ墓地巡りです。ついてこれてる??つーか、当日の同行者のあっこさん、チェックしてくれ~~~。私もう限界ですよ。   
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力道山のお墓

2012年02月21日 05時42分52秒 | 墓所巡り
どのお墓が誰のものか?おびただしい墓石に諦めそうになりますが、中に誰でも見れば分かるお墓があります。
それが力道山の墓です。
力道山を知ってますか?伝説のプロレスラーです。私は彼のファイトは見たことないんですが、白黒映画で見た事あります。映画のタイトルは思い出せないんですが。
分かり易い目印の銅像です。
 
銅像の台座に彫られた名前です。ビッグネームが目白押し。ちなみに、左手の画像、プロレス・ノアの右手に上がる名前百田光雄氏は力道山息子さんですね。
トップ画像の銅像と石碑の間の奥に墓があります。
左の画像で女性が手を合わせてる墓がソレ。
ちなみに、力道山のお墓の背後には、肥後藩…大村藩だっかかもしれん。の古い墓地に隣接してまして、ご隠居曰く、力道山の墓が作られたのは彼が長崎県大村市出身となってるからかもしれない…。と。それはうがち過ぎな見解じゃないかな~?と私は思ったけどね。

さて、力道山のお墓の近くに、紀州徳川家の墓所があります。

徳川家康の側室で御三家紀州藩祖徳川頼宣公の生母であった養珠院妙紹日心大姉(お万の方)をはじめ、頼宣公正室の瑤林院(加藤清正の娘)、2代光貞公正室の天真院、8代将軍となった吉宗公正室の寛徳院以下、江戸藩邸で逝去した夫人達の墓所です。
前回もここだけはわかったのですが、入れませんでした。
 
でも今回はご隠居さんが入れてくれました。いいのか?と躊躇したのですが、この機会を逃すと二度と近くで見えないっ!!入る~。
墓の個々の形状は、大型&中型の宝塔、少しの宝筺印塔。
亀。これって、中国の墓にあっては亀の背に石碑が置いてあることは多いんですが…。これは壊れちゃったかな~?
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池上本門寺で墓所巡り

2012年02月20日 05時26分21秒 | 墓所巡り
池上本門寺の墓所は少し変わっている。大概のお寺で墓所は仏殿の裏とか裏山とか「裏手」に隠すように固まってあるのが普通なんだけど、ここは墓所が主役!といわんばかりにあっちにもこっちにも墓石が立ち並ぶ。そして墓石が古いのは江戸の初期のもの。新しいのだと昨日作ったんだよね?とピカピカの墓石が混在しているのだ。ちょっとナイ感じだよ。
さて、まずはトップ画像のお墓より紹介。
前田利家室の層塔
うまい具合に説明板がある。「この塔は、前田利家の側室、寿福院が、元和8年(1622)に、自身の逆修供養のために建てた11層の層塔である。このことは当寺15世日樹の銘文でわかる。
寿福院は、三代加賀藩主、利常の生母で、秀吉没後、徳川家との微妙な臣従関係を解決するために、江戸に差し出され、人質となった。(徳川秀忠の御代ですね。時代から察するに幕藩体制を固めようとする頃ですから、ありがちなことです。もう少し突っ込んで調べたら、寿福院の湖、前田利常の奥さんは、徳川秀忠とお江の次女珠姫(天徳院)でした。ということは、徳川と近い縁戚にあったんですね。ならもう徳川の世にあって勝ち組じゃん。だって、秀忠の娘に「お義母上」と呼ばれていたハズですから。ちなみに寿福院は寛永8年(1631)死去。)
現在、相輪と上部の数層を失って、わずか五重を残すのみである。屋蓋のそり具合からみて様式的に古い形を示し、注目される。
なお天保4年(1833)の修復銘もある。『大田区教育委員会』」
左の墓は、前出の前田利家の室の層塔の左手にあったもの。
仔細は分かりませんが、同時期のものじゃないかな~?もしかしたら、前田利常が建てたやつか?

こちらの墓所は、墓所の前にあった木の根が、石を持ち上げてしまったのですね。この場合修復するとしたら誰…どこだろうか?東京都?大田区?それとも本門寺か??墓石の形から推察するに、このお墓は随分古そうです。普通なら墓の修復は子孫の役目です。でもこのお墓はどうみても江戸時代の古さは充分の風格。もし子孫が絶えてしまってたら、放置?それとも取り壊し?青山霊園なんかは更地に戻して再び販売してますが。何げに考えさせられるなあ~。

………。この画像がどこの誰の墓を写した奴だかわからない。確かぁ~?前田家浩妙院の墓を探しててこれじゃないかな~?と写したんだけどな。それっぽいお墓が多すぎて、名札がないととてもじゃないけど特定出来ない。しかもっ!!墓地の隙間を埋めるように墓がどんどん建ててあるから、古い墓には近づくのも大変。どっからどう行けば目的の墓石に近づけるんだろう~。
んで、墓地をぐるぐる回る回ってたら、足下の確認がおろそかになってしまい、階段を踏み外して転けてしまいました。なぜに墓地の中に石段があるのかっ!!ほんの数段だったんだけどね。同行のあっこさんを驚かせちゃったよ。
そんなこんなでお墓の前でうなっていると、年配のご隠居が声をかけて来た。
「あんたら、お墓を探してるんかね?」
「ハイ(即答)。地図に書いてあるお墓がどれがどれだか特定出来なくて~」
「そりゃあ、知ってる人と行かないと無理だよ。来なさい」
と。この方、すんごく物知りで、絶対お墓の観光ガイドやってたでしょう!!という。
もうね、墓の特定からお墓に葬られた人の特定はもちろん、その人がどこの誰で、誰の奥さんとなって誰を生んだ人かスラスラと教えて下さりました。
大概女性が多かった。つまり江戸期、藩主の妻や側室は江戸で没するのが普通だったんですね。だから墓も江戸に作った。生地はそれぞれであっても、死地は江戸。気軽に里帰りなんか出来なかったんですね。徳川の人質ですから。でもこれはたとえ将軍の生母であっても同じこと。

これは紀州家の本徳院のお墓。生前はおこんさんと呼ばれてた方。

んでこっちは紀州家深徳院の墓。生前はおすまさん。
確かね、二人は姉妹で、どっちかが徳川9代将軍家重の母だったと…。(WIKIで調べた。深徳院が家重の母でした。ちなみに徳川家重の墓は増上寺にあります)ってことは暴れん坊将軍の側室ってこと?
今では宝塔造りの墓部分しか現存してませんが、かつては周囲を塀で囲った廟があったようです。基礎の石組みは現存してます。かつては入り口に観音開きの木扉があったようです。その痕跡が地面に残る石に刻まれてました。
讃岐松平家の永昌院の墓。
そう紀伊徳川家の二人の墓もかつては周囲にこういうのあったのかも?ここは子孫が手入れしてるようですね。だって画像に真新しく<松平家>と刻まれた石塔があるものね。お墓に石碑が建ってます。

読んでみる。
『永昌院殿妙壽日量大禅尼 天明5年10月26日没(西暦1785)
四国讃岐守六代高松藩主 松平頼真卿正室 紀州大納言徳川宗直卿息女薫姫』
石碑に西暦が刻まれてるので、これを建てたのは近年かも?
明日もまだ墓所巡り   歴史 ブログランキングへ
3月18日に同人誌即売会、HARU・C・CITYに参加します。
会場:東京ビッグサイト東1-6ホール・西1-4ホールの全館開催
サークル名:竹里館出版局(ちくりかんしゅっぱんきょく)
配置:西3ホール ふ-35a 
開催時間:10:00-15:00 です。
申し込みが遅く、受付番号は9000番台だったから、てっきり「満了に付きごめんなさい」かと思ってたらスペース取れてました。おそらく参加サークルの総数は10000サークルを上回ってるんじゃないかな~??
でも~~。よりによって創作サークルは西ホール2階に配置。こんなん人来ないぜっ。と既にぼやいてます。
でも当日は楽しく過ごしたいですね。イベント会場でしか会えない方もいますしね。
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池上本門寺へ

2012年02月19日 05時57分07秒 | 神社・仏閣
訪問日は2011年11月22日。去年ダイエット目的で紅葉散歩をしたその一つ。
豪徳寺から池上本門寺紅葉散歩(2011年11月24日)の記事その時は紅葉紹介だったのでサラリと流して以後放置。ところがですね。いつまでも放置していたら、今年の1月にこんな記事を見つけてしまいました。『池上本門寺で仏像盗難』
ぬわんやてっ!???
記事によりますと、盗難されたのは本門寺の経蔵に納められていた一塔両尊式と呼ばれる如来像2体と宝塔で、金箔をほどこされて木造のもの。如来像は2体ともに高さ68センチ、幅40センチメートル。宝塔は高さ85センチ、幅18センチ。
結構な大きさです。どうやって盗んだのか??
これ、私らが訪問した時に見てるハズなんだよね。今回記事を書くにあたり画像を探したんですが、仏像はおろか経蔵の画像すら撮影してませんでした…。何やってんだ~~。
つらつらと池上本門寺訪問の日を思い出してみる。
あの日の目的は、池上本門寺にある秘密のお庭を見に行く!でした。秘密のお庭とは松濤園と名前がついてる庭で、歴史好きにはハズせない萌えポイントなんです。だって、西郷隆盛と勝海舟による幕末の江戸城開城の第一回会見はここであったんですから。
ですが~…。松濤園は基本非公開なんです。見たければ、本門寺の境内を巡ってスタンプを5つ集めなくてはなりません。コンプリートしたご褒美にお庭に入ることが出来るんですよ。ここへかつて訪れた時は夏の暑い盛りでした。その時庭にたくさんのモミジの木が植わっていたのを思い出し、紅葉と歴史散歩のコースを組んだ時に池上本門寺もチョイスしたんです。あ、ちなみに紅葉と歴史散歩コースは、豪徳寺ー松陰神社ー目青不動ー池上本門寺ー川崎大師&大師公園でした。
ところがところが。池上本門寺でついうっかりディープな墓所巡りをやってしまったのですよ。
だって秘密のお庭に入るための必須スタンプ集めのシートには境内マップと共に本門寺に眠る歴史の登場人物の墓所マップもあったんだもん…。そりゃあ、歴史好きならばハズせませんっ!!
ってなことで前置きが長くなりましたが、本日より池上本門寺のご紹介。既に本門寺は紹介済みですが、前回の記事と見比べつつ話をすすめたいと思います。
ちなみに過去記事はこちら。
池上本門寺訪問2009年10月5日)の記事
秘密の名園で散歩(2009年10月6日)の記事
本門寺にある有名人のお墓(2009年10月7日)の記事
池上本門寺でグルメ(2009年10月8日)の記事
…。これ、面白いよね。これを上回る記事になるんだろうか??
ま。気負わずに書いてこう。うん。

早速トップ画像です。これは一体なんでしょうか?
答え。江戸の御代より長く人びとが参拝したことによりツルッツルにすり減った階段。あまつさえ石段には切り貼りがなされてます。
なぜにこない古い階段を取り替えないんでしょうか?それはね。この石段が加藤清正により慶長年間(1596-1615)に造られたものだから。96段び石段は、此経難持坂と呼ばれています。由来は法華経法塔品・此経難持の文の字数(96字)による。
仁王門(山門)
昭和52年に再建された重層門。左右の仁王像は、仏師原田佳美の作で、平成13年10月に開眼法要された。

山門の手前に長栄堂があります。訪問した11月22日には読経が聞こえてました。何かの記念日だったようです。
ここの提灯に描かれた紋は何気に珍しいかも? *後日、浅野内匠頭の家紋の名称を調べてたら、神社・仏閣の家紋もあったのでついでに見てたら、上の画像の提灯に描かれた家紋は、稲荷系の神社のスタンダードでした。稲荷系は「稲穂」がモチーフなんです。そういや、画像の提灯の奥に狐の狛犬が写ってました。
日蓮上人説法像。
これ、どこか不自然ですよね。それもそのハズ。石の台座はこの像の為に造られたものじゃないんですよ。リサイクル品なんです。でもでも石像はなかなかの迫力でいい出来です。
調べました。
制作:北村西望 これって長崎の原爆の平和の像を造った人だよ~。こんな所でビッグネームにご対面!池上本門寺あなどれん。ちなみに、北村西望の作品を関東で見たければ、吉祥寺の井の頭公園へ行きましょう。そこの彫刻館(休館日:月曜。入館料400円 開館時間9:30-17:00)に多く展示されています。
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明治生命館の化石

2012年02月18日 05時50分52秒 | レトロ建築
明治生命館の見学コースはまだまだ続きます。
執務室
南側に執務室が5つ並ぶ。(見学可能なのは1室のみ)全てパーケットフロア、木製パネルによる内装が施されている。
2階と1階を結ぶ階段。

応接室。

見学可能な応接室は3部屋。
 

 

健康相談室。
生命保険会社だからでしょうか?健康相談室が応接室に隣接しているとはっ!!
1階店頭営業室(お客様相談センター)柱が林立する大空間。
立派過ぎて、庶民は恐縮しまくりです。

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トップ画像は1階店頭営業室の床の大理石。アンモナイトの化石があります。分かります~?? 
石材はイタリア北部の産出で、中生代ジュラ紀(2億年ー1、35億)。となれば、この大理石はかつて海の底だったんですねえ。

おとといの「明治生命館」の記事ですが、カテゴリーをレトロ建物から歴史散歩へ変更しました。やっぱマッカーサーにGHQとなれば、そこは建物より歴史優先じゃんねえ?  人気ブログランキングへ
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明治生命館内観

2012年02月17日 05時17分59秒 | レトロ建築
引き続き明治生命館の紹介です。
建物概要
構造:鉄筋鉄骨コンクリート造り。地上8階。地下2階(昭和の始めには既に鉄筋鉄骨造りがあったんですね)
創建年:昭和9年(1934)3月
設計者:岡田信一郎(既に何度も記事にしている岡田信一郎の作品にして最後の作品)*起工まもなく死去。後を岡田の実弟が引き継ぎ完成させた。
建物の設計は、明治末から昭和初期にかけて活躍した建築家で、東京美術学校(現東京芸術大学)教授の岡田信一郎。建物全体の構成や設備の充実度から、昭和におけるオフィスビルの最高峰を示すものといわれています。
戦争中の金属回収・東京大空襲、そして終戦後にはアメリカ極東空軍司令官(FEAF)として使用するためにGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収され、米・英・中・ソの4カ国代表による対日理事会(ACJ)の会場として使用されるなど、昭和の激動を乗り越えてきた明治生命館は、そのすみずみにまで時代の記憶が封印されています。
平成9年(1997)、昭和の建造物としては初めて国の重要文化財に指定されました。
トップ画像は2階回廊です。
回廊は1階と同様、壁・柱。柱型に大理石を用いている。
  
1階店頭営業室廻りと一体となった吹き抜け空間を構成しています。
2階控え室

2階食堂
現在は会議室のようです。でも食堂時代の名残も残ってました。
ほらね。ここから料理を出し入れしていたのでしょうか?
天井や梁にはぶどうち蔦の石膏レリーフも。


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明治生命館見学

2012年02月16日 05時39分16秒 | 歴史散歩
2011年12月11日。小石川後楽園から外苑お掘沿いに靖国神社。北の丸公園を抜けて東御苑へ。そこから日比谷公園まで歩きました。
その時の紅葉散歩の記事はこちら。
小石川後楽園の紅葉(2011年12月15日)の記事
小石川後楽園のモミジは500本(2011年12月16日)の記事
靖国神社の紅葉(2011年12月17日)の記事
靖国神社のイチョウ並木(2011年12月18日)の記事
北の丸公園の紅葉(2011年12月19日)の記事
皇居北の丸公園の紅葉(2011年12月20日)の記事
皇居東御苑の紅葉(2011年12月21日)の記事
皇居外苑&日比谷公園の紅葉(2011年12月22日)の記事
途中で明治安田生命館へ立ち寄りました。明治安田生命館は今は(安田)の名前を挟んでますが、少し前までは明治生命館と言いました。こちらは土日に一般公開されています。
公開日時:土日11時ー17時*ただし12月31日、1月1・2・3日およびビル電気設備定期点検日は休館
入館料:無料
こりゃあもう行くしかないね。ってなことで紅葉散歩の途中に挟んだのです。実はここ、歴史の現場でもあります。何しろ明治生命館はかつてGHQに接収され、太平洋戦争後の日本の行方を決める会議をここで連日開いていたのです。
では中をご案内。

日比谷通り側西玄関から中へ。
まずはラウンジを見学。

吹き抜けのラウンジ。ここでもうヤラレてしまう訪問したのがもう日暮れ間近だったのでガラス屋根のトップライトの外光が分かりにくいんですが、本来は天井からは柔らかな光が降り注いでるハズ。
わくわく気分でエレベーターで2階へ。
階数ボタンがレトロ。こう階数ボタンがね、でっぱってるボタンなのだ。海外のホテルなんかには時々見かけますが、日本じゃあめっきり見なくなったなあ~。あ!思い出した。神奈川県庁のエレベーターは更にレトロだった!!
そんなこんなで2階へ上がると、見学受付があります。「見学希望です」と述べると、見学者用の名札のようなものを貸与されるので、服に取り付けると、「明治生命館ご案内」のしをりをいただけます。
では見学開始!
まず目を奪われるのはコレ。店頭営業室の吹き抜け~。凄~い
天井に丸い花形飾り(ロゼット)があしらってあります。2階の回廊を進み、いただいたしをりの見学順路に従って進むと、まず資料展示室に入ります。
画像撮影に失敗したんですが、上の画像はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)がアメリカ極東空軍司令部(FEAF)として明治生命館を接収。ここで最高司令官の諮問機関として米・英・中・ソの4カ国代表による対日理事会(ACJ)が設置。昭和21年(1946)4月5日、第一回会議が行われた2階会議室の様子です。
現在はこんな感じ。
ここで連合国軍最高司令官D.マッカーサーが演説を行いました。
画像左奥でマッカーサーは演説したんだつて。会議は何回も行われました。サンフランシスコ講和条約が発効され、GHQが廃止された昭和27年(1952)まで164回も会議は開かれたそうですよ。……日本の未来がここで動いたんです。そう思うとここは歴史の現場なんですね。

会議室は内装もレトロです。   歴史 ブログランキングへ
いつまで冬が続くんじゃ~~~。
…いつだかも似たような事を叫んでますが、寒いものは寒いです。だってねえ、今日なんか雪が舞ってたんですよ。し~か~も~っ!!降水確率0%だったのに、雪っ!!ツー事で、現在進行形で洗濯物は部屋干です。も。やんなっちゃうねえ~。
明日は明日で、最高気温予報が7度なのに、風速10メートルですってよっ!!それって、体感気温が氷点下ってこと??あ~り~え~ん~っ!!明日は3ヶ月に一度の診察日なんだよ。しかもっ!!予約時間は9時なんだよ~。そうでなくともこの所血圧&脈拍が間違ってんじゃないのっ!?って感じに悪いのに~~。
早く春が来て欲しいなあ。だって、今年ってまだ梅が咲いてないんだよ??例年なら既に見頃…。や。品種によったら見頃過ぎな時期なのに。やはり今年は旧暦を採用してた頃、時々あった閏月があるんだわ…。あ~、ぼやきが止まらない~~。
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総持寺の境内には

2012年02月15日 05時25分50秒 | 神社・仏閣
引き続き総持寺の建物の紹介です。
総持寺。知ってはいたものの、こんなに広いとは…。しかも建物が多いし。驚きを越して疲れて来たよ。
トップ画像は総持寺の大僧堂です。たぶんこれ、伊東忠太の作品だと思うんだがどうだろう?WIKIで伊東忠太を検索したら制作した作品の中に「総持寺大僧堂」とあったんですが…。ホームページに書いてないからわからない。
中を見学していた人がいたので、入れるハズなんですが…。もしや、拝観ツアーに参加しないとダメなのか??
「鐘鼓楼」
鐘鼓楼は放光堂から衆寮に通じる回廊の中にあります。禅門の行・坐・臥、日常生活の合図は、すべて言葉ではなく梵鐘、木版、雲版、太鼓などの打楽器の合奏によぅって、全山に休ます有時を刻み、報知されます。(ホームページより)
………。敷地がこんだけ広かったら、合図が鐘や太鼓になるのもうなずける。いや~、中国のさ、広西チワン族自治区を旅した時に、少数民族が山に入った人への合図に太鼓を使ってたのを思い出したよ。
「衆寮」
当初は僧堂でしたが、現在は坐禅堂として一般参禅者に開放されています。江戸期に尾張徳川家から寄進された観音様が祀られてます。ホームページを見ると素敵な彩色観音像なので、一辺見てみたい。
「宝物殿」
休館:木曜・金曜。
開館:土日・祝日。 平日(月・火・水曜)は完全予約制にて。
拝観料:一般300円
3ケ月に一度展示替え。約50点を常時転じしてます。(ホームページより)
私たちが訪問した1月6日は金曜日で休館となってました。
「雲水群像」
昭和49年(1974)宝物殿前に建立。
何げに気になる群像です。特に右の人~。これ、ファンシイダンスの作中で見た!

これも宝物殿の前にあったんですけど「汝等鬼神衆」と刻まれてまして、鬼神の文字にひかれて写しました。

総持寺の右手(東側)を上がり、大祖堂で左折れ。左手(西側)を降りて来ましたら、何やらグラウンドがありました。これ、おそらく普段は駐車場だと思うんだが、大量の消防車が止まってました。おそらく時節柄消防出初め式があったのかな??既に出初め式のパフォーマンスは終了したようで、まったりとした雰囲気でした。
最後に南側の台地へ。
登った先に大梵鐘。
三門の隣に小高い丘陵があり、そこに大梵鐘がある。
でかいです。
大正2年(1913)に鋳造され、関東一の大きさだとか。大晦日には一般参詣者もこれをつくことが出来るんだって。へえ~へえ~へえ~~!!こんだけ大きな鐘の音ってどんなんでしょうね。
「穴熊稲荷」
大梵鐘の近くにお稲荷さんがあった。これが穴熊稲荷大明神。
ホームページによると、「稲荷信仰は仏教と習合して、人びとの心のよりどころであり、また狐に跨がり剣と宝珠を持つ姿で五穀豊穣をもたらし、福の神として、ひろく信仰されています。」とありました。
…なんか正月に実家へ挨拶に言った時、「うちの庭で穴熊」を見た。と弟が言ってたのを思い出した。そうなんだよね。あの庭って色んなのが遊びに来るんだよ。私なんかかつて野うさぎが跳ねてるのを見たんだが、誰も信じてくれなかった。穴熊を見た!と主張する弟には今回わかってもらえそうだ。って、話がそれた。総持寺だ。

あんまり境内が広くていいかげん疲れてしまった。時刻は既に14時40分。向唐門を正面から写して三松閣の売店へ立寄り帰宅です。
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