あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

高野邸と古我邸

2012年04月30日 05時10分43秒 | レトロ建築
ホテルニューカマクラから線路沿いに大船方面へ。行き当たった所に踏み切りがある。右折すれば段葛に出るけど、ここは左折です。また未訪問のレトロ建築があるんです。
古我邸
古我邸は、今も住人がいるので非公開。
鎌倉に残るレトロ建築のリストは色々出てるんですが、古我邸は住人の意向でリストから外されてることも多い建物です。いつか近くから見てみたいなあ…。入り口から覗いてるだけでも素晴らしいもの。なにげに東京の駒込駅近くにある旧古河邸に建物の外壁の石の色が似てるな。

私の目的は古我邸だったんですけど、古我邸の向かいにある建物に説明板がありました。
高野邸


「高野邸は、昭和8年(1933)頃に建築された住宅で、ベイ・ウインドウ(出窓)やよろい戸付きの上げ下げ窓といった洋風の意匠が特徴の建築です。かつては、現在の建物の西側に和館があり、その対比も印象的でした。ひときわ背の高い外観を持つ高野邸は、周辺に点在する洋館とともに、鎌倉独特の質の高い住宅地の雰囲気をほうふつとさせる大変貴重な存在です。
建設年 昭和8年(1933)頃
設計&施工者 不詳
鎌倉市景観重要建築物等 第17号 平成10年4月1日指定」
古我邸&高野邸滞在時間13:51-13:56 
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ホテル ニユーカマクラ

2012年04月29日 05時40分06秒 | レトロ建築
旧安保小児科医院から江の電鎌倉駅へ。そこからJR横須賀線の線路沿いに大船方面へ。1分もすると見えてくるレモンイエローの洋館がホテル ニューカマクラです。
説明板発見!「ホテル ニューカマクラは、大正13年(1924)に建てられたもので、木製の上げ下げ窓が整然と並ぶ外観が特徴の建物です。

内部も当初の意匠を良く残しており、戦前のホテル建築として大変貴重な存在です。震災前この地には、文人たちがしばしば滞在した料亭・貸別荘(平野屋)があったと伝えられており、岡本かの子の小説「鶴は病みき」にも綴られてます。
鎌倉市景観重要建築物等 第27号 平成16年3月31日指定」

こちらはJR鎌倉駅のホームの正面に見えるんだよね。電車が来るのを待ってると、必ず目にする建物なので、見覚えある方も多いハズ。
でもこのホテルにたった4500円で泊まれるって知ってました?

上の画像の右上に看板があるんですが、個室・バストイレ付き 受付は駐車場へ素泊り4500円よりって書いてあります。
こんなレトロな建物にそんな安価な価格で泊まれるなんて~!!

滞在時間は13:44-13:47でした。
お次もレトロ建築です。   
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旧安保小児科医院

2012年04月28日 05時10分24秒 | レトロ建築
若宮大路をJR横須賀線が横切ってる手前で西へ折れると、江の電の踏み切りがある。踏み切りを渡ると見えて来たレトロな建物。これが旧安保小児科医院です。
入り口で中を覗き込んでると、かつては受付があっただろう場所から人が出て来た。
「どうぞ、中へ入ってご覧下さい」
どうやら内観も出来るらしい。
「かつての待合室と診察室が、そのままに残ってるんですよ」
へえ~へえ~へえ~。
「撮影してもいいですか?」
「どうぞ。ご自由に」
とのこと。ラッキー
いそいそと携帯電話を取り出して撮影開始。

なんか、レトロというより、ノスタルジック。
私が幼い頃に行かされた病院テイストです。

膿盆もガラスの薬品入れも脱脂綿の入ったシャーレもレトロな聴診器も。具合の悪い時に見たな。これ。
ああ。茶色のガラス瓶が懐かしい。

診察室を出るとさっきは素通りした待合室です。
 
イラストが子どもの興味を引くように工夫されている。これを書いた人が、順番を待つ子どもにも楽しいように考えたのかな?まるで童話の本のイラストのようです。

照明もレトロ。んでもって、天井のしっくい模様が大根!!こんな所にも遊び心が。そういや、さっき診察室の天井には鶴が舞ってたよね。

何が驚きって、旧安保小児科医院は、平成7年(1995)まで医院として使用されていたってことです。

この建物は大正13年(1924)頃建てられました。延べ床面積115.22平方メートル。設計・施工は長谷の三橋直吉氏。

三方に設けられた切妻屋根とハーフ・ティンバー・スタイルの妻壁。現在は鎌倉風致保存会が平成9年(1997)より事務所として借用し、保存に協力しています。

滞在時間13:25-13:32 
旧安保小児科医院の向かいに素敵な洋菓子屋さん発見!
鎌倉小川軒
悩んで購入したのがコレ
レーズンウィッチ1個115円
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元八幡(由比若宮)

2012年04月27日 05時26分41秒 | 鎌倉
源頼義が前9年の役で奥州を平定した帰り鎌倉に立ち寄り康平6年(1063)源氏の守り神の岩清水八幡宮の祭神を移してまつったといわれている。
治承4年(1180)源頼朝が鎌倉に入った最初の場所で、現在の鶴岡八幡宮がある場所に社殿を移してから元八幡と呼ばれるようになった。
源義家 旗立の松
こんなふうに残される木を見たのは、伊勢原市にある太田道灌の首塚以来です。

元八幡基本情報
祭神:応神天皇 比売神 神功皇后
エピソード:
東側のバス通りから、この元八幡に来る道の北側の一画は、大正時代には小山別荘と呼ばれ、敷地内には別棟の広い家があり、横須賀の海軍学校の嘱託英語教官となった芥川龍之介がここを借りて住んだ。小説『或る阿呆の一生』の中でこの住宅が登場している。
滞在時間12:59-13:01
さて、北上してた道を逸れたので、このまま若宮大路を目指す。
ん?
古建築物発見!

いつぐらいの建物かしら?
あれ?ここってギャラリーじゃん。

見学無料なので入ってみた。
古えの鎌倉の写真が飾ってあった。今と違って、あまりに何も無い田舎だから驚きました。また思いがけず写真を撮影した方の息子さんに写真の解説をしていただきまして、楽しく過ごせました。
滞在時間13:06-13:17
えんま橋
名前が素敵!橋がかかっている川に菜の花が咲いてて思わずパチリ。
ん~と?
…サクサク先を急いでいたら、まだ時間が余ってる。体力も余ってる。ので、前からそのうちやろうと思った古建築散歩をやってみることに。
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材木座を北上

2012年04月26日 05時38分48秒 | 鎌倉
材木座海岸から富士山は見えなかった。あまつさえ江の島すら見えない。
なのでお昼は年中いるサーファーと和賀江島をながめつつ超特急でいただきました。なぜに急いで食べるのかと言えば、空にハンターがいるのです。ピーヒョロロ鳴いてる恐るべき狩人です。3月の観梅散歩に鎌倉へ訪れた時、私はお昼のアンパンを1個狩られてしまったのだ!
お昼の後、南下した道とは別の道を北上。バスも走る大きめの道です。この道もまた神社仏閣が散在してます。
ど~れ~に~入ろう~かな~。
一つ目に選んだのは、九品寺さん。立ち寄った動機は綺麗な花が見えたから!
ハイ。
今日は花見散歩ですから、歴史より花見が優先なのです。
九品寺
ところが~。
歴史散歩を期待してなかったのですが、九品寺さんはなかなかの歴史ポイントでした。なにしろ、九品寺さんは元弘3年(1333)の鎌倉幕府を倒した新田義貞の本陣跡地だったのです。
後に本陣を建てた場所は戦死者を弔うために寺となりました。それが九品寺さんです。
九品寺の名前の由来は、上品、中品、下品のそれぞれに上生、中生、下生があり、合わせて九品とされています。山号は新田義貞の自筆です。
九品寺さん基本情報
山号:内裏山霊嶽院九品寺
宗派:浄土宗
本尊:阿弥陀如来立像(鎌倉市重文)
創建:建武3年(1336)
開基:新田義貞

更に北上してていると、石碑があった。乱橋だそうで。光明寺さんへ向かう途中立ち寄った五所神社さん。こちらは辺りの5つの神社や祠を明治時代にまとめて出来た神社でした。そのうちの一つは乱橋の近くにありました。
更に北上。綺麗な桜と赤い屋根のコントラストが素敵です。
向福寺
時代劇『丹下左膳』の作者は新婚時代に向福寺さんの一室で暮らしていたそうです。
向福寺(こうふくじ)
宗派:時宗
山号寺号:円龍山向福寺
創建:弘安5年(1282)
本尊:阿弥陀三尊
鎌倉33観音霊場めぐり第15番札所。画像奥にいる人びとは、霊場めぐりの方のようで、御朱印をいただいてました。邪魔しちゃ悪いので、画像1枚撮影して、退散です。
さて、実は一つ立ち寄って見たい場所がありました。
北上していた道を外れて…。え~と?入り口は…。
道案内の碑があった!
つーか、これ、民家の生活路じゃん。本当にこの先にあるの??
疑いつつ進みますと…。
本当にあった。
元八幡(由比若宮)
元八幡は源氏と鎌倉の起源の場所です。

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桜の光明寺

2012年04月25日 05時21分29秒 | 鎌倉
光明寺には12時に到着。
境内には桜が植えられており、桜の季節にはいい撮影ポイントです。






 


私の目的は桜!
たくさん花見に来てる人がいるんだろうなぁと思ったのに、花見客は殆どいません。
なんでやーーーっ
だってこんなに綺麗なんだよ?鎌倉駅に降りた時、一杯人がいたじゃんっ!!なのに~~。
やっぱ、鎌倉の桜の花見といえば、若宮大路の段葛です。光明寺さんとは方向が違うからでしょうか?それにしたって…。
ここを訪問ポイントに選んだ私、えらいっ!!ここは自画自賛しちゃいます。
でも桜のポイントは鎌倉★情報館さんのサイトで予め確認してから出かけたんですけど。まあ、普通は自動車かバスで訪れるんでしょうね。私みたいに歩いて訪れる人は少ないのかも?タイミングが良かったのよ~。だって、こんなに綺麗なのに、花見客が少な過ぎるでしょう~~。

光明寺さん基本情報
山号:天照山蓮華院光明寺
創建:寛元元年(1243)
開基:北条経時
エピソード:材木座に所在する光明寺は、江戸時代には浄土宗関東十八檀林の第一位として格付けされた格式の高い寺院です。開山は記主禅師然阿良忠、開基は鎌倉幕府の第4代執権北条経時で、仁治元年(1240)鎌倉に入った良忠のために、経時が佐助ガ谷に寺を建てて蓮華寺と名付け、それが寛元元年(1243)に現在地に移り光明寺と改められたと伝えます。
元禄11年(1698)建立の本堂は、国指定の重要文化財。また、弘化4年(1847)建立の山門は、県指定の重要文化財。ことに本堂は、鎌倉で現存する近世仏堂のうちでも最大規模を誇ります。当寺は今なお、建長寺、円覚寺と並ぶ壮大な伽藍を構成しています。
 
本堂の脇には、三尊五祖の石庭があります。
実はここに内藤家の墓地もあるハズなんだよね~。目星もつけてあるんだよ。
と、いそいそと行ってみたらそこにあったのは幼稚園だった。
む~ん。ならば、北条経時のお墓は?と、本堂の裏手の道を行きましたらば、なんと、あったのは上り坂!
もしや~??北条経時のお墓は裏山の上にあるのかっ!?
パスっ!!
今日は桜散歩なのだ。先へ進むのが宜しかろう~。
どっかから、諭す声が聞こえてきた。
ってな訳で、光明寺さんを後に。
光明寺さんの滞在時間は、12:01-12:23まで
丁度良い時間となったので、本日のお昼は材木座海岸で。

う~ん。やっぱり今日は富士山が見えないな。つーか、江の島さえ見えない。
春霞ってやつですかね?
あ!!
海の中に石組みが見える。
上の画像で言いますと、左の方に横長く頭を出してる部分がそう。これ、実は和賀江島です。
和賀江島は、貞永元年(1232)に築造の日本に現存する最古の築港遺跡です。引き潮になると見えるんだよ。
ここでいつもならパン越しの画像を撮影するんですが、頭の上でビィ~~ビョロロロ!!と私のお昼を狙っている奴がいますので、パンをカバンから出すことさえせずに、超特急でいただきました!!
ピィーヒョロロ…というのがなぜにヤバいかと言いますと。トビに襲われた…(2012年3月28日)の記事この記事に顛末が書いてあります。江の島・鎌倉の観光地には『トビに注意』の看板があちこちに設置してありますが、アレ、ダテに置いてあるんじゃないんですよ。マジ、奴らは襲撃して来るんで、小さな子に食べ物持たして歩かせないようにしてね。下手したら一生のトラウマになるよ。
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補陀落寺

2012年04月24日 05時11分29秒 | 鎌倉
五所神社から更に南下。この道は狭いんだけど、寺社が点在してる。鎌倉の路地って面白いなあ…。
道を南下したら行き止まりだった。そこにも小さな祠が鎮座してる。さすが鎌倉といった所か?
さて、左か右か?地図を広げると、近くに「補陀落寺」というのがある。
補陀落…。なにげに浪漫を感じる字面です。
行くべし。立ち寄るべし。
でも期待は裏切られ、小さなお寺さんでした。つーか、一見民家と見紛ったぜ~。
民家と違うのはこれらがあったから。
   
補陀落寺の基本情報
山号:南向山帰命院
宗派:真言宗大覚寺派
創建:養和元年(1181)あ。鎌倉時代より前だ。
本尊:十一面観世音菩薩
寺宝:平家の赤旗(平家滅亡の大将平宗盛が最後まで持っていたと言われている)
日光・月光菩薩像(運慶作)、釈迦如来像(行基作)、頼朝像(42歳の自作)。頼朝の位牌

寺宝がすげえっ!!
な、なななな、なんでこんなちっこい寺にお宝の数々があるんじゃあ~~~~。
調べました!
補陀落寺は頼朝の祈願所として建立されたお寺です。
頼朝は観音信仰が強い人で、1180年に鎌倉に入府の時に南に位置するこの地に観世音菩薩を祀ったらしい。かつては七堂伽藍をもつ大きな寺院でした。
寺名の「補陀落」はサンスクリット語でポータラカ(観音の浄土を意味する言葉で、日本語に翻訳されたとき「補陀洛迦」の字をあてた。
やっぱダテに「補陀落」の名前がつけてないんだね。ぶったまげました!いや。鎌倉も奥が深いわ。
補陀落寺滞在時間11:54-11:55。
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なんだろうなぁ~?今日はやたらと戦闘機が飛んでいる。戦闘機というのは、米軍厚木基地の戦闘機です。
昨今、あんまり夜間訓練はしなくなったんですけど…。大概横須賀の空母が出港する前だけ盛んに飛んでるんですけど。
でも、GWは3月に出港済みのハズなんですが…。なんか、ヤバい事があったんだろうか??
米軍は日本の法律に従ってないので、夜間でも飛びます。んでもって、うちの空は米軍の管制なんで、アメリカの戦闘機は普通に飛びます。出来れば、もう少し高度を上げて欲しいんだが…。低空飛行だと音が響くんだよねえ~。

ちっ。
空が時折光ってた間だけ戦闘機が飛んでなかったのにっ。(天気予報がハズれて雨です!しかも雷つき)
戦闘機は落雷が嫌みたいで、以前航空ショーを見に行った時、雷雲発生で戦闘機のショーが途中で中止になったから間違いない。
戦闘機の音、嫌いじゃないんだけどね。でも夜はイカン。音が拡声してるもの。
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五所神社

2012年04月23日 05時43分37秒 | 鎌倉
長勝寺を11時31分に出た。次の目的地は光明寺さん。
ああっ。来迎寺さんのミモザの木が、なくなってるぅ~~。
鎌倉の海へ(2010年4月12日)の記事 こちらにありし日の来迎寺さんのミモザの画像があります。綺麗だったのに、台風か大風で倒れたんですかねえ…。残念無念です。
途中で、桜並木を見つけて立ち寄ったのが五所神社さんです。到着時刻は11時41分

五所神社さんの名前は、5つの神社を一つにしたことに由来。
境内は小さいのですが、何かいっぱいあったので紹介しますね。
不動種子板碑
この板碑は弘長2年(1262)の銘がある。昭和16年(1941)に国の重要美術品に指定。昔は感応寺の境内に建っていたが、同寺が廃寺となり五所神社創建(明治41)の際にここへ移された。
石質は黒色泥板岩。
疱瘡老婆の石
説明板がなかったから言われは分かりません。

疱瘡老婆の石の裏に、小さなお社がありました。奥に石碑とかもあったけど、足元が抜かるんでたので近づいて確認するのはパスしました。
境内内の石神社
他に、庚申塔が複数まとめられてました。
彫刻が派手なのをピックアップして撮影。
 
庚申塔は長い時間を経る中で、彫刻が摩耗してるのが多い。思いっきり晴れてて、太陽の光が強過ぎて、摩耗した塔の撮影には不向き。寂れた感じが出ない~。
五所神社滞在時間11:41-11:47。
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桜の長勝寺

2012年04月22日 05時55分35秒 | 桜散歩
安国論寺から徒歩で約5分ちょっと。長勝寺さんに到着です。
長勝寺さんは本日の桜散歩の楽しみにしていた場所でもあります。
テンション上げ上げでやって来たのですが…。
す、既に見頃の最盛期が終わってました…。
今年の鎌倉の桜の見頃の最盛期は4月7日・8日の土・日曜だったようですねダンナが歯を抜いたんで、お出かけを見送ったんでした。ま。仕方ないです。また来年にでも。
気を取り直し、一番見たかった四天王像越しの桜を見に行きました。それがトップ画像です。
な、なんとか、頭の中で構成してあった感じに撮影出来ました。既に桜が前日の雨ですいぶんと散っているので、ピンク色のボリュームが足りないのはカバー出来ませんでしたが…。

四天王という位なので、像も4体いらっしゃるのですが、桜の花が背景に写るのは右手の2体だけです。ただ、トップ画像みたいな画面と写すには、望遠機能が必要です。トップ画像は普通に写してトリミングしました。なにしろマイカメラは携帯電話なので。

や。一応コンパクトカメラも持ってたんですけどね。私のコンパクトカメラはもう半分壊れてるので、望遠機能を使うと高確率で「Hマーク」が点灯してしまうのだ!Hマークが出ると、シャッターが切れなくなってしまう。となると、電池を引き抜いて初期化してリカバリーしなきゃなりません。
それって、写せるんだから壊れてないんじゃ…。というご意見があるやもしれませんが、そうは言ってもシャッターを1回切っただけでいちいち初期化作業をするのは面倒臭いのだ。初期化すると、日時から設定やり直さなきゃだし。

あ~、ぼやき入っちゃった~。4月なのに暑いし…。今日は20度くらいじゃなかったんかいっ。
ちなみに、長勝寺さんの過去記事はこちら。
桜の隠れた名所長勝寺(2010年4月10日)の記事
以前、アジサイの季節に長勝寺さんを訪問したことがあるんですけど、タイサンボクがとても綺麗でした。タイサンボクの隣に石段があって、木を上から見下ろせるのが素敵でした。
せっかくなので長勝寺さんの基本情報
宗派:日蓮宗
創建:弘長3年(1263)
エピソード:日蓮が始めて草庵を結んだ所の一つ。
県重文の法華三昧堂は鎌倉時代特有の五間堂という貴重な建築様式(室町時代の建築)



長勝寺さんの滞在時間は11時19分-11時31分でした。
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桜の妙本寺

2012年04月21日 05時58分47秒 | 鎌倉
今日から4月12日の鎌倉桜散歩を紹介します。
前日、4月11日は雨でした。風もそこそこ強かったので、今年の桜散策は、小石川後楽園から外濠公園を南下して、靖国神社・千鳥ヶ淵桜散歩で終了か?と思ったんですけど、うちの窓から見える幼稚園の桜の木がまだ桜色だったんですよ。もしてかて、桜のアップ画像はもうダメかもしれないけど、遠景で楽しむぶんにはまだいけるかもしれん…。思い立ったが吉日。用意して出かけました。
さすがに出だしが遅かったので、鎌倉駅到着が既に10時25分!
実は、紅葉シーズンに鎌倉は何度も訪れてるのですが、桜の季節に来たのは久々です。つーか以前いつ桜を見に鎌倉へ来たか思い出せん!
なので、頼りにしてる鎌倉★情報館さんのWEBを参考に、訪問先を長勝寺・光明寺さんは絶対!体力に余裕があれば、若宮大路の段葛・建長寺さんと道中の小田急線で決めて鎌倉駅に降り立ったのですが…。
長勝寺さん最寄りのバス(鎌倉駅3番乗り場・鎌30&31)が、待ち時間が20分もあったんですよっ!!
20分もあったら1キロ以上歩けるわっ!!
待つのが大嫌いは私は、キレて長勝寺まで歩くことにしました(オイオイオイオイ)ああ、どこからかツッコミが聞こえて来ます。
さて、最初に向かったのが本覚寺さん。こちらにも桜はあるのですが、しだれ桜は既に葉桜で、八重桜には早くなにも見るべきものがなく通り抜けるだけでした。
次に向かったのが妙本寺さんです。
こちらは12月、しかもクリスマス明けに紅葉の最盛期を迎える鎌倉でも最も遅い紅葉が見られる所です。なので、紅葉シーズンには数回訪れているのですが…。

クリスマスに色づいたカエデが既に芽吹いてました。つーか、新緑の若葉目にまぶしい程。
驚くわっ!!

妙法寺さんの境内に、ソメイヨシノもあるのですが、目立っていたのは海棠です。
奥の濃いピンク色の花が海棠です。

繊細な花色を撮影するのは不向きな強烈な日差しなのが残念。携帯電話の画像はあまり花色が再現出来てません。ついでに日蓮さんの像も撮影してみた。

本当はもう少しアップで撮影したい所ですが。携帯電話だと拡大はこのへんが限界ですわ。
妙本寺さんの滞在時間は10:41-10:50でした。
出だしが遅れたから、サクサク行かないと!!
ちなみに過去記事はこちら。
まさかの見頃の妙本寺(2012年1月19日)の記事
え柄天神から妙本寺へ(2011年12月28日)の記事
秋の妙本寺(2010年1月11日)の記事
道々、常栄寺(ぼたもち寺) ぼたもち寺って?(2010年4月7日)の記事と八雲神社  八雲神社(2010年4月8日)の記事を覗いたけど、こちらに桜はなかったので、道から一礼して次へ向かう。
癌封じの上行寺さんも桜は見えないからパス。上行寺へ行ったなら(2010年4月9日)の記事
迷ったのは安養院さん。桜が垣根の向こうから頭が出てます。こちらはつつじが綺麗なのでどうせならその時期がいいな。とパス。や。入っておくべきだったか!!
んでついうっかり入場したのが安国論寺さんでした。
こちらには以前3月のお彼岸に日蓮さんの所縁の地巡りで訪れた時、もうすぐ見頃を迎えそうなしだれ桜があったんですよ。「もうすぐ見頃だわ」と。それが頭に残っていたものだから、立ち寄ったのですが…。
肝心のしだれ桜は既に葉桜になってました。
ここの枝垂桜は彼岸桜だったのかしら??
つーか、安国論寺さんは早くも新緑の季節を迎えてました。
 
安国論寺さんの滞在時間は11時8分ー11時13分でした…。
ちなみに、安国論寺さんの拝観料は100円以上支払い。(入り口の箱に自分で投入する)
ちなみに過去記事はこちら。 安国論寺(2010年4月11日)の記事 安国論寺は、日蓮さんが「立正安国論」を書いた場所で、この為鎌倉幕府から松葉が谷の焼き討ちがあった場所です。それに元々は、北条政子の父北条時政の屋敷があった場所でもありました。歴史好きにはおススメの場所です。
さて、次は本日の目的地、長勝寺さんです!  神社・お寺巡り ブログランキングへ
今年も桜のアルバムを作成しました。
桜めぐり2012
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たい焼き わかば

2012年04月20日 05時04分37秒 | 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】
服部半蔵のお墓と徳川家康の長男・信康の慰霊塔がある西念寺を跡に。
四ッ谷駅方向へ歩く。散歩の最後にお土産屋さんとしてチョイスしたのはたい焼きわかばさん。
や。お土産は私もあっこさんも新宿御苑で既に購入済みなんだけどね。当初に予定してた訪問先なので、計画通りに立ち寄ることに…。
って…。何故に四ッ谷の街はこんなに道が狭くて入り組んでいるのか~
出来る限り近道で行きたかったのですが、結局大通りに出て分かり易い道を行くとこに…。も。疲れてるのに~~。
そんなこんなで到着したたい焼きわかばさんですが、行列が出来てました…。

や。人気店だってことは事前に分かっていたんですよ。でもさぁ~。既に桜の季節だよ?もうたい焼きの季節は終わってるんだから、行列はなくなってるかと思ったんだよねえ。
って、愚痴ってても変えないので、おとなしく行列に参加する。
待つ事しばし…。
ふと、どこでいただくか?が気になる…。近くに公園とかあったっけ??
ブツブツぼやいていたら、私たちの前に並んでいた女性が「わかばさんは店内でもいただけます」
マジでえ~?ラ・ラッキー

わかばさんは、今どき絶滅目前の一丁焼きです。
上の画像を見ていただけるとわかるのですが、たい焼きを1匹1匹別々に焼いてるんですよ。
普通は鉄板に数匹づつ焼くものなんですが…。
焼いてる所を見てるうちに列は短くなって行きます。途中で「アンコ」のビニール袋がありました。
そうなのね。わかばさんはたい焼きのあんこも売ってるんです。300グラム420円。600グラム840円。1キログラム1365円。
私はあんこは自分で小豆まめを買って来て自分好みの甘さと柔らかさに煮て作る人なので、わかばさんのあんこが安いか高いかわかりませんが、よく売れてました。
そしてようやく私の順番が来た。
おやじさん「何個ですか?」
私「2個お願いします。んで、1個は店内で。1個は持ち帰りでお願いします」
と申しましたらば、おやじさんはおもむろにお皿にたい焼きを1個のせてくれました。客はたい焼きを持って奥の店内へ。お茶はセルフですが、ちゃんと緑茶もあってうれしい~~。

客が列をなして来るので、あんまり長居は出来ませんが、散歩のお休み所にはぴったりでした。
たい焼きわかばさんのたい焼きは、あんこの1種類のみ!確かねえ、1匹140円だったかと。お持ち帰りのたい焼きはダンナのデザートに。冷えてても美味しかったらしい。
たい焼きわかばさんからJR四ッ谷駅は徒歩数分。
近くに迎賓館があるんだけど、今日はここまで。

え~と?JR四ッ谷駅って少し変わってるよね?いつかの「ブラタモリ」でJR中央線が甲武鉄道と呼ばれていた時代の散歩をやってた時に見たような~?ん~?ここじゃなかったっけ??でも四ッ谷駅のそばの信号標識って「四ッ谷見付」って書いてあるから、かつては江戸の見附跡を駅にした時の痕跡だと思うんだが…。もう、疲れて頭が回らない。っと。今日の散歩は15時30分!JR四ッ谷駅で終了です。
本日のコース
1)新宿御苑
2)鳩森八幡神社
3)明治の名残外苑散策(樺太国境画定標石・絵画館・御観兵榎)
4)お岩稲荷田宮神社・須賀神社
5)服部半蔵の墓&西念寺
おまけ:お土産処 たい焼きわかば
 以上
これ位のゆっくり散策がいいな。   人気ブログランキングへ
今年の杉花粉の飛散は特殊で、3月7日にとても暖かい日があって、ドカーンと花粉が飛散した。が、その後はピタリと治まり、大雨&大風が到来し、杉花粉も彼方へ吹き飛ばしてくれた。…ハズ。っと思って、一昨日の夜から病院のアレルギー科でもらってきた薬を飲むのを止めた。ところがところがっ!!薬を飲み止めて1日半も経つと、くしゃみ&鼻水が頻発してます。
杉は終わったハズなのに…。犯人はハンノキ類?でもンなハズは…。近所に雑木林はないんだもん。
犯人探しは横に置いておいて、本日朝から再びアレルギー薬の服用を再開しました。効能が現れるまで、どんくらいかかるのか…。憂鬱です。(はあ~)
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服部半蔵と西念寺

2012年04月19日 05時35分07秒 | 墓所巡り
須賀神社さんの次は今度こそ西念寺さん。でも…。どう行くべきか?というのも、須賀神社さんの前にある道は片方が下り階段なんである。しかも大分長い。
四ッ谷の中は細い道が多い。行き止まりも多いし、坂道も多い。散策には天敵とも言える迷子になれと言わんばかりの地図です。でまあ…、高低差は無視して、地図で見て近道を選んで階段を降りる。
と。地図で西念寺さんを検索してみると分かるんですけど、この辺りはいくつも寺があるんですよ。もう~~~っ!!一体どれが西念寺さんなんだ~~。
坂を登っていちいち確かめるのは嫌だ。そこで頼りにしたのは坂の名前です。「東福院坂」にあるのは東福院さん。「観音坂」は…。忘れた。とにかく、西念寺さんに到着!
と。入り口に説明板発見「服部半蔵は、徳川家康の旧臣で、槍の名手として、また伊賀ものの指導者として知られている。
主君、家康の長男信康が切腹のおり、半蔵は介錯することを命ぜられたが、ついに果たせずが出来ず、後に半蔵は信康の冥福を祈るため仏門に入った。
天正18年(1590)家康に従い江戸に入国し、麹町清水谷に庵居を設け、信康の遺髪をここに埋め、霊を弔った。文禄2年(1593)家康より寺院を建立するように内命を受けたがこれを果たせず、慶長元年(1596)11月14日、55歳で死去した。
その後、同所に寺院の建立が成り、山号、寺号は半蔵の法名から「専称山安養院西念寺」となった。
寛永11年(1634)江戸城外郭拡張に伴う外濠新設のため西念寺は現在地に移転した。
う~ん。やっぱなあ。なんか四ッ谷に西念寺があるのって変だと思ったんだよね。
江戸城跡の皇居、千鳥ヶ淵の南に半蔵濠ってあるじゃないですか。半蔵濠と桜田濠と分ける所に半蔵門があるんですよ。半蔵門の由来が、服部半蔵の屋敷が近くにあったから。だったと思うんですが、四ッ谷では半蔵門から遠いと思うんだよね。伊賀ものの指導者だから近所に伊賀ものの家もあれこれあったんだろうけど、その場合お頭の半蔵の屋敷より外側にあると思うの。調べてないけど、「半蔵門」の名前が出来たのって、移転する前じゃないのかな?四ッ谷と半蔵門駅の間に麹町駅があるから、元々はそっちにあったんだろうし…。あ。ちょっとすっきりした。
西念寺さんの本堂です。
西念寺さんには「槍の半蔵」の異名を持つ半蔵が徳川家康より拝領したと伝えられる槍が残っています。ただし、穂先と柄の一部が欠けてしまい、全長258センチ分しか現存していません。それでも戦国時代の槍ですから貴重な歴史標本です。ただし、建物の中にあるから見れませんでした~。残念。
でもいいの。ここへ来た目的は服部半蔵の墓ですから。
またまた墓探しか!?と及び腰だったんですが、思いのほかあっさり見つかりました。

感慨深いです。服部半蔵って業績云々じゃなく、テレビや映画に出て来る有名人だもの。やっぱ、伊賀忍者の頭領というのが今どきの私のイメージだったからね。
たとえ本当は家康の三河以来の旧臣で、家康16将の一人に数えられていても、三方原の戦い(1572)や小田原攻(1590)で戦ってても、そんなん『伊賀もの』の頭領って方がインパクトあるものね。
ってことでなにはともあれ手を合わす。
さて…。
ん??
奥にある墓石もなんか古いぞ?
あれはなんだ~?
と、行ってみたらこれがっ!!
岡崎三郎信康供養塔
殿~~っ!!っていうか、殿家康の息子だから若殿ですね。半蔵の主人です。信康の遺髪を埋めた麹町清水谷の庵は半蔵の死後寺となり、その後の江戸城の外濠建設の為移転したから供養塔の下に遺髪は埋まってないんでしょうが、供養塔は作ってあってこれも移転したんですね。
なんか、感無量です。半蔵の心の主人は信康だったんだろうなあ…。その殿の切腹を回避出来ず、あまつさえ介錯を命じられた半蔵の心中やいかにっ!!ってなもんだ。

あ、説明板発見「西念寺を開山した服部半蔵が、徳川家康の長男信康(岡崎三郎信康)の菩提を弔うため、文禄2年(1593)に建立した五輪塔形の供養塔で、高さは269、7センチ。
信康は、永禄3年(1559)に生まれ、幼少時は今川氏の人質として駿府で過ごした。
永禄10年(1567)岡崎に帰り、織田信長の娘をめとり、元亀元年(1570)岡崎城主となったが、天正7年(1579)武田勝頼と内通したとの嫌疑により家康から切腹を命じられた。」だそうです。
wikiによりますと、岡崎信康は天成7年(1579)10月5日、享年21歳。う~ん、若いのう。
信康くんの初陣は17歳で長篠の戦い。勇猛果敢のいくつも軍功を挙げてます。
で、切腹の経緯ですが、これ…。酷いなあ。つーか、嫁姑問題のとばっちりじゃん。
嫁、つまり織田信長の娘ね。んで姑は今川の血を引く築山殿。つーか家康の正室です。この二人の仲が悪かったんだね。んで、嫁が「義母築山殿は武田と内通している」とか織田へ手紙を出してるんだね。まあ、戦国時代、女性はスパイも仕事のうちですが…。だからってダンナの母親が嫌いだからって「夫の信康とも不仲です」とか書くってあんた…。そんで織田信長が存命(織田信長の死亡は1582年6月)してる時に、徳川家康がたとえ長男であってもかばえるハズねえじやん!!
んで、具体的に嫁姑問題ってどんなんだ?
更に調べましたよ。
岡崎信康の嫁、織田信長の娘徳姫は永禄2年(1559)に生まれ、8歳の永禄10年(1567)に嫁ぎ天正4年(1576)と翌5年(1577)に娘を出産。しかしいつまでも嫡子が生まれないのを心配した姑の築山殿が側室を迎えさせた。
これが原因か~
つーか、昨年のNHKの大河ドラマ『江』でも主人公が苦しんでいた問題ですね。
や。真相はわからないよ?でも徳姫って8歳で嫁がされてます。遠くからどんどん偉大になっていく父信長を見てたんだろうなあ。そんで徳姫の側にいた女性があれこれ吹き込んでたら~。ケッケッケッとか、ついつい下世話な昼メロドラマな展開を想像しちゃうぜ…。
史実では、家康も信長も息子・娘の夫婦仲が悪いのを心配して見に来てるという史料が残ってるんだって。
でもなあ、徳姫と信康って同じ年だったんです。だから信康が切腹を命じられた時は共に20歳。勇猛果敢な信康に、嫁姑問題が解決出来るハズがないぜ。なんか、夫婦仲云々だけでなく裏にいろんな人のいろんな思惑があったんだろうけど、なんか信康くんはハメられたんだろうなあ。御愁傷様です
ちなみに、信康くんの母、築山殿も信康くんが切腹する数日前に死去してます。彼女は家康の家臣に切られてます。
築山殿は今川義元の姪でした。既に織田に倒された今川の出です。利用価値はないものね。この辺にも何やらきな臭い真実が歴史の闇に隠されてそうだ。
でも歴史では結局徳川家康が覇王だからね。真実は今更分からないよね。都合の悪い真実なんか消してますって!
ああ、諸行無常なり。(最近こればっか)

西念寺にしだれ桜が見頃でした。
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須賀神社

2012年04月18日 05時39分22秒 | 神社・仏閣
お岩稲荷田村神社を参拝した後、次の目的地西念寺に向かっていたのですが、ちと気になる名前が地図にあるんだよね。それは「天白稲荷神社」さんです。なにげに心引かれる名前です。そしてもう一つ、左門町の信号でお岩稲荷神社の所在地を教えて下さったご夫婦が「須賀神社さんの場所か?」っておっしゃっていたのよね。
須賀神社~??そんな名前地図に載っていない。
そうなんですよ。YHAOO!の地図を検索しても須賀神社なる名前は出て来ません。でも一体の住所は「須賀町」ってあるんですよ。どんなマジックじゃ。
ともあれ、気になるので行ってみた天白稲荷神社さんです。
思ったより小さい。しかも新しい社殿。…萌えがない。
しかしですね。天白稲荷神社さんの隣に大きな社殿があったんです。それこそ須賀神社さんでした。
説明板発見「須賀神社について 四ッ谷の産土神で、祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)と字か能御魂命(うかのみたまのみこと)の二柱です。
かつては牛頭天王社と稲荷社の二つの神社であったもので江戸時代は稲荷天王合社と呼ばれ、明治にはいり須賀神社と改められました。」
話は逸れますが、私の嫁入り先の近所にも須賀神社さんがあるんですよ。義母が信仰してるんですが、須賀神社ってあちこちにあるのね。って思っていたら。御祭神が共通なんですね。スサノオの命を祭神にしてる祇園信仰の神社さんが須賀神社なんですね。へえ~へえ~へえ~~っ!!

須賀神社さんから祝詞が聞こえてくる、どなたか昇殿してるのかしら?と思っていたら、今どきの恋人達が出て来た。それは考えてなかったから驚きました。
境内にある建物はどれも新しいものばかりです。上の画像の中に社殿で唐破風屋根の部分には、大きな大黒様がいらっしゃいました。
 なぜにか、火消しのオブジェ。この左隣には、なんか、日本刀を祀ってる祠があったり、大きな御神輿を納める建物があったり。それよりなにより、参拝者が多いのが途切れなく現れるのが驚きでした。ここの神社は地元で信仰する人が今も多いのでしょうか?久々に生きた神社を見た気分。
さて、次は西念寺さん。
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実はですね。四ッ谷の記事を書くにあたりWEBの海を彷徨ってまして、お岩稲荷田村神社・須賀神社さんと西念寺さんの道の途中に長谷川平蔵の供養碑のあるお寺があったのを知りました。
くう~~~。散歩の時に知っていれば、絶対立ち寄ったのに~~。少し調べてみたら、古には長谷川平蔵の親子3代のお墓があったそうです。でも現存していない。それではあんまりだと思った「鬼平犯科帳」ファンが近年墓碑を建てたんだって!ファンの萌えって凄いよね。つーか、鬼平の子孫は現存してないのか?
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お岩稲荷と田宮神社

2012年04月17日 05時43分20秒 | 漫画【赤坂迎賓館界隈楽々散歩】
ある日、新宿区の観光サイトを見ていたら、西念寺に服部半蔵のお墓があると出ていた。
へえ~?
んで、西念寺ってどこにあるの?
地図を検索してますと、近所にお岩稲荷と田宮神社を発見した。
んん?お岩ってもしや~?
地図を眺めていると、近所にある地下鉄駅が、四ッ谷3丁目駅だった。
ん~?四ッ谷でお岩ならば、四谷怪談だったりして?
お岩稲荷の隣に書いてある田宮神社って、もしかせんでもお岩さんに毒を盛ったダンナの名前から来てるの??
気になったので、外苑明治散策を後に北上しました。目印は「左門町」信号…ってナイじゃん!道はどこだっ!!
あ~れ~??
首をかしげてましたらば、近所の親切なご夫婦がたまたま遭遇し教えていただけました。
ラッキー。

狭い場所にぎゅぎゅ~っと詰め込んだ、都会の稲荷。
あっこさんは「ここでは写真を撮らないでおこう」と言ってますが、それでは紹介にならないんで私は写して後、参拝して「ありがとう」とお礼を言っておいた。
あ。説明板発見「江戸時代、文政8年7月歌舞伎戯作者4世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」が世に喧伝され、お岩様庶民の畏敬を受け当山その由緒の所として現在に至ったが、戦災に遭い協議の上本堂を栃木下野から薬師堂を移築再建した。棟礼には宝暦7年とある。
お岩様の戒名は「得詮院妙念日正大姉」。墓は元鮫ケ橋にあったが、現在は移転し巣鴨新庚申塚にある。当堂内にはお岩様御尊○○○され参拝者祈願の対象となる。境内には所縁の井戸、再建記念碑等がある。」
この説明板、平成5年と近い年代に出来てるのに、すんごく読みにくく、一部判読出来ませんでした。説明板なんだから、形とか素材より文章の読み易さを優先して欲しいです。私、あちこちで説明板を呼んでますけど、ここのはランクつけるなら最低よっ。
お岩稲荷の絵馬
 
叶玉叶玉を投入する場所。
お岩稲荷を出たら、路地の向かいにも「お岩稲荷」の旗を見つけた!
なぜに~~?
近づいたらそれが田宮稲荷神社だった。
都旧跡 田宮稲荷神社跡
説明板発見「文化文政期に江戸文化は爛熟期に達し、いわゆる化政時代を出現させた。歌舞伎は民衆娯楽の中心になった。「東海道四谷怪談」の作者として有名な四代目鶴屋南北も化政時代の著名人である。「東海道四谷怪談」の主人公田宮伊右衛門(南北の芝居では、民谷伊右衛門)の妻お岩を祭ったお岩稲荷神社の旧跡である。物語は文政10年(1827)十月名主茂八郎が町の伝説を集録して、町奉行に提出した「文政町方書上」にある伝説を脚色したものである。明治5年ごろお岩稲荷を田宮稲荷と改称し、火災で一時移転したが、昭和27年再びここに移転したものである」
こっちの説明文のが古いけど分かり易いよ。

説明書が置いてあった。希望者は10円支払いとのことだったので、そのようにして頂いて来たのですが、これが楽しく興味深いコピーでした。
寛永13年(1636)田宮岩没。お岩さまが信仰していた屋敷社が「お岩稲荷」と呼ばれるよになり、庶民の人気を集める。
文政8年(1825)お岩さまが主人公の東海道四谷怪談が上演される。
これって、お岩さんが死んで200年経ってから怪談が出来たって事!?
今年が2012年ならば、200年前は江戸時代ですよっ!まさか死後200年経って自分が怪談の主人公になるって…。お岩さん、かわいそう過ぎる。いや、更に迷惑を被ったのは田宮家の人びとじゃなかったのか?
コピーを読み進める。
「お岩というのは、江戸の初期、江戸の四ッ谷左門町で健気は一生を送った女性のこと。その女性の美徳を祀っているのが、お岩稲荷田宮神社である。
お岩稲荷は福を招き、商売繁昌のご利益があり、芸能の成功・興行の成功にはことさら霊験あらたか。さらに最近では交通安全、入学試験にも功徳があるという。」
うわ~、マジかぁ~。私ってばお岩稲荷に参拝する時に「写真を撮らせていただいてありがとう&安らかにお眠り下さい」って手を合わせちゃったよ~。もうっ!!『東海道四谷怪談』のせいじゃっ!!
コピーには「お岩と夫、田宮伊右衛門とは人もうらやむいい夫婦だった。貧乏武家の田宮家の家系は火の車。お岩夫婦は家計を支えるため商家に奉公に出る。お岩は田宮家の屋敷社を日頃から信仰していたおかげで、蓄えも増え田宮家も豊かになった。
信仰のおかげで田宮家は復活したと評判になり、近隣の人びとはお岩の幸運にあやかろうと屋敷社を「お岩稲荷」と呼んで信仰するようになった。評判が高くなり、屋敷社のかたわらに小さな祠をつくり、「お岩稲荷」と名付けた。

時は江戸後期。歌舞伎の戯作者鶴屋南北はかねてからお岩稲荷のことを聞いていた。お岩が死んでもう200年。それなのに未だ町人の間で人気がある。人気のある「お岩」の名前を使って歌舞伎にすれば大当たりするに違いない。」
ゴラァ~~っ!!既に神格化してる女性になんてことをっ!!
でも鶴屋南北は更に酷いです。
お岩があんな善人では面白くない。江戸の人が好む話にするには脚色が必要だ。そして密通事件とか主人殺しで処刑された話などあれこれ利用しつつ怪談話を書き上げたんです。
つまり、東海道四谷怪談は、鶴屋南北の空想で書き上げた脚本なんですね。今なら間違いなく名誉毀損で上映廃止確実です。

時は文政8年(1825)幽霊ものが大流行りになっていた。つまり、歌舞伎の「東海道四谷怪談」は大当たりしたんです。お岩は三代目尾上菊五郎が、伊右衛門は7代目市川団十郎が演じて江戸中で話題をさらいます。
ところで、四谷怪談を上演すると怪我や事故が多いというの、聞いたことありませんか?実はですね。
東海道四谷怪談の歌舞伎は怪談もの。トリックや仕掛けに凝って、道具は複雑。しかも夜の場面だから照明も暗い。江戸時代ならロウソクか行灯でしょうしね。おまけに天井から吊るしものも多い。役者はそんな中で演技するんです。しかも長時間。怪我して当たり前じゃっ!!なのに、役者の怪我さえ演目の怪談にからめて「祟り」として宣伝したんですよ。酷過ぎる~~っ!!

時は明治。江戸の世が終わっても東海道四谷怪談の話は庶民の人気を集めてました。歌舞伎役者は思います。
「四ッ谷まで毎度出かけていくのは遠い。芝居小屋の近くにお岩稲荷を移転してくれ」
これまた強引な…。人間というのは手前勝手なんですねえ。仮にも神様を遠いから近くに引っ越せって言うんですから。ま。日本全国に同じ名前の神社の分社や末社が散在してるのは、似たような理由でしょうが…。
ところが明治12年(1879)に四ッ谷左門町で火事があり、お岩稲荷の社が焼失。これを機に隅田川の畔に本当にお岩稲荷が移転しちゃったんですよ。現在の中央区新川にあるお岩稲荷神社がこれ。ま。隅田川のお岩稲荷の社殿も昭和20年(1945)の戦災で焼失してしまいましたが。戦後、2つのお岩稲荷神社が復活して、結果現在は2つのお岩稲荷神社があるんだそうです。
…役者が今でも四谷怪談を演じる時に参拝するって話を聞きますが、どっちのお岩稲荷に参拝してるんですかねえ。
思いがけず長い記事になりました。さて、次は…。
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外苑の明治時代

2012年04月16日 05時46分10秒 | 歴史散歩
鳩森八幡神社から東へ。坂道を降りると国立競技場が見えてきた。
この信号の向こうは「明治公園」。何げに明治が早くも登場しました。
でっかい国立競技場の円周に沿って、青山門へ移動。

お鷹の松
まず見つけたのはお鷹の松、「大正7年(1918)明治神宮外苑競技場(現・国立霞ヶ丘競技場)造成のために買い上げた霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。昔、徳川家光がお鷹狩りの途中この寺で休憩していたところ、江戸城から「遊女」という愛鷹が飛んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大変喜び、この松をその鷹の名前をとって「遊女の松」と名付けたと伝えられる。後の世の人びとが、「お鷹の松」或は地名をとって「霞の松」とも呼んだ。碑文にある二代目の松(樹齢200年 高さ4メートル)は昭和39年、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。」
だそうで。…え~と?もしかせんでも、この松はお鷹の松とは全然関係ない松だよね?二代目の松ですらねえっ!!つーか、二代目は東京オリンピックの時に取り去った!ってソレ、抜いて捨てたんかいっ!!
つ、次だ。次、行ってみよう。
絵画館が見えてきた。(トップ画像)。ブラタモリで言ってたけど、絵画館で窓のない国会議事堂の外観してるよな。
さて、この辺りに樺太国境画定標石があるはずなんだが…。
どこだろう~?
あんまり一心に探しすぎて、あっこさんとはぐれてしまった。
ああっ!!発見です。
 
樺太国境画定標石 明治37.38年に日露戦役の講和条約で樺太の北緯50度以南は、日本の領土になりました。
その境界を標示するため、日露両国委員は、明治40年9月4基の天測標と17基小標石を建てて境界を確定しました。
この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の一つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。当時苑内北方隅の樹間に在りましたが、この度、全国樺太連盟よりの、これが顕彰周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。
日本側の菊の紋章の背面には露国の鷲の紋章が刻んであります。
又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が境界標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されております」
う~~ん。石の裏側は立ち入り禁止で確認出来ない~。

ブラタモリでは絵画館の屋上に上がって撮影してましたが、上の画像の中央奥にあるのが有名な外苑の銀杏並木です。
ちなみに、手前の池はかつてプールだったことがあるんだって。ってブラタモリで言ってました。かっぱ天国とかなんとか~。
実はトップ画像の絵画館の画像を選んだのは、絵画館の建物でなくアスファルトを見ていただきたかったから。
明治神宮外苑の舗装
工期:1924年5月ー1926年1月
明治神宮外苑の道路の舗装は、東京市(当時)でも大規模で本格的な加熱アスファルト混合物を用いた舗装であり、1926年(大正15年)1月に完成しました。
この工事は、我が国においてワービット工法を採用した最初の工事であったばかりでなく、アスファルトは国産品(秋田県豊川産)を使用し、当時の最新鋭機による機会化施行が行われました。
この舗装は長い年月の使用に耐え、66年間(1992年改良)にわたって車道として使われてきたことは、驚嘆に値します。また、この案内板の前の舗装は当時のまま現存しており、日本における車道用アスファルト舗装としては最古のものです。
ということで、トップ画像のアスファルトは、1926年に作られたオリジナルの車道です。
凄いよね。
ところで、またまた疑問を拾ってしまった…。
それは、国産のアスファルトを使用し…の部分です。
アスファルトって、道路の舗装で使ってるアレだよね?
あれって、石油製品でしょう?違うの?つーか、日本産のアスファルトが存在してるのかぁ~~!!
さっそくWIKIで検索。
「アスファルト=土瀝青。原油に含まれる炭化水素類の中で最も重質のものである。減圧蒸留装置で作られた減圧残油はそのまま製品アスファルトとなり、ストレート・アスファルトと呼ばれる。」
わ~か~ら~な~い~。説明文が既に専門用語。
でも瀝青というのには見覚えが…。
アスファルトの歴史…古代から使用されてきた。日本では縄文時代後期から北海道から日本海側で産出した天然アスファルトを熱して石鏃(石の矢じり)や骨銛(骨のモリ)など漁具の接着、破損した土器や土偶の修復、漆器の下塗りなどに利用された。<wikiより>
そうだったのか。私が物知らずなだけというオチでした。

もう一つ、明治の名残は御観兵榎です。
かつて、この辺りには陸軍の青山練兵場があって、明治天皇の御台臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治23年(1890)2月11日の憲法発布観兵式や、明治39年(1906)4月30日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でした。
明治天皇が御観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎を、「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成7年(1995)9月17日老令(樹齢200余年)の為台風12号の余波の強風により倒木しました。
平成8年(1996)1月、初代御観兵榎の自然実生忌推定樹齢60年)を苑内より移植し、「二代目御観兵榎」として植え継ぎました。

見つけました。これは由緒は正しいけど、明治天皇の御観兵榎じゃないんですが、脇にある石に注目。
題字 東郷平八郎書
明治38年日本海海戦においてロシアバルチック艦隊を壊滅させた、当時の連合艦隊司令長官 東郷神社の祭神
かつての明治神宮の外苑施設、青山練兵場、昭和の東京オリンピックの名残りが外苑には探せばのこっています。
私が発見したのはこれ。

石で組んだ入り口です。ここを徒歩で北へ歩いたのですが、古いタイプの石柱と鉄棒の柵とか、北にも石の入り口が残ってました。   幕末・明治(日本史) ブログランキングへ
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