ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

可能性

2015年02月13日 | ノンジャンル
このタイトルの記事はこれまで何度か書いてきたと
思うが、常に可能性というものに限りがない事を
結論付けてきたと思う。

人の遺伝子情報のうち、具体的に機能・反映されて
いるのが数パーセントだという。

遺伝子情報には限りがあり、その意味では無限では
ないが、90パーセント以上の眠れる情報が
あるのなら、既知の人間の特質は、まだまだ無限の
可能性を秘めていると言って過言ではない。

私たちは、この可能性という言葉を前向きで
建設的な意味で使うことが常だが、
それを後ろ向き、破壊的な意味で見れば、
残念ながらその負の面も無限ということになる。

善と悪を立て分けて、対立的に見て、悪を滅ぼす
というのは、本然的には不可能である。
表裏一体の一方を否定し、滅ぼすなら、
他方も滅びる。

本来、善と悪は一体であり、本然的に具わって
いるのであり、悪を制して、善の行動を起こそうと
するのが人として生きる意義深さでもあるかと思う。

他人に対する慈悲深さも無限であり、残虐性も
無限であるということだ。

テロリストが人質を殺害した残虐性について
喧しいが、この視点で見れば、その無限の残虐性の
一面であるかもしれない。

善良な人が、いくら上品にステーキを食べていようが
その裏側には、牛が首をはねられ、体内の血液を
出し切った後にバラバラに解体されたという事実がある。

自身の内に無限の残虐さと、善があることを認識した
上で、どんな人にもその両面が一体としてあり、
だからこそ善の方向へと向かう可能性があると
信じるということが、最も難しい事なのかもしれない。



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