Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

スペインと日本-ファシズム復活か?

2015年08月12日 | 国際・政治

さて、日本とスペインの共通点について書いてきましたが、実はスペインでは先月、「デモ禁止法」が発効しました。 

ニューズウィーク(2015年8月6日)
スペイン「言論統制法」のゴリ押し
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/08/post-3817.php 

スペインで先週、新たな公安法が発効した。デモを行う権利を規制する内容であるため、反対派は「言論統制法」と強く非難。発効前日には、国内30都市以上で抗議デモが展開された。 

 新たな法律の下では、交通の要所や原子力発電所など重要施設の近くで無許可のデモを行った者は、1人最大60万ユーロの罰金が科せられる可能性がある。議会周辺での無許可集会も禁止となり、住宅街でデモを行うなどして公共の秩序を乱した場合には最高3万ユーロの罰金が命じられることになる。 

 無断で警察画像を配信したジャーナリストや報道機関、警察官を侮辱した者などは罰金600ユーロの可能性がある。公安法はさらに、アフリカ北部にあるスペインの飛び地領、セウタとメリリャにやって来た移民を国外退去させる権限を当局に与えている。 

 マドリード報道協会はこの新法について、ジャーナリズム活動における「自由を損ねる」ものだと批判。スペインの主な警察組合も声明を出し、「今は最適な時期ではない。スペインは社会、政治、経済における変革の時代を迎えており、必要な政治的・社会的総意のないまま法律が施行されれば、変革はより困難になる」とした。 

 野党第1党の社会労働党は、今年11月の総選挙で自分たちが勝利すればこの公安法を撤回する、と明言している。 

 国際人権団体アムネスティ・インターナショナルのガウリ・バングリ副部長(欧州担当)は本誌に対して、「多くの人がやりたいこと、やる権利があることを実行するのを恐れる......この法律の恐ろしい影響を懸念する」と語った。 

 それでもスペイン政府は、新法を繰り返し擁護している。フェルナンデス内相は「困るのは暴力的な人だけだ」と発言。ラホイ首相も、基本的人権を制限するのではなく、「より自由な行使を実現する」ためのものだと語っている。 

[2015年7月14日号掲載] 

何か、本当に日本とリンクしませんか? 

この法が発効する前に、スマドリード市民は、世界で初となる、映像によるバーチャルデモを行いましたが・・・。 

Gigazine (2015年4月15日)
デモ禁止法案に抗議する市民が考案した驚きの新しいでも実施方法とは?http://gigazine.net/news/20150415-hologram-protest/ 

先日、ちらりと「マドリードと東京の直行便が年内に再開される予定」という話を耳にしました。 (※「2016年春に再開」決定。イベリア航空・JAL

昨年は、日本スペイン交流400周年でもあり、日本とスペインの関係はますます深まっていくでしょう。 

しかし、こんな、「民主主義の衰退」という点で、お互いの政府が励まし合うようになるのは、ごめん被りたいです。 

参考: 

スペインと日本の戦後-フランコ政権と長州閥の共通点
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/1f4a01779f995e50d39f5ac79ac63db9

長州を憎んだ森有正・カナダ人外交官E.H.ノーマンとチャールズ・ウィロビーhttp://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/710f602c952b9d9e397a2eee91d630f5

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チャールズ・ウィロビー出自の謎

2015年08月11日 | 人物

昨日書いた記事で、GHQのチャールズ・ウィロビーの経歴についての疑問を書きましたが、Mae Brussell というところが、ニューヨークジャーナルに載った、Frank Kluckhohn記者の記事を転載しています。 

Heidelberg to Madrid —
The Story of General Willoughby
by FRANK KLUCKHOHN
The Reporter (New York Journal) August 19, 1952
http://www.maebrussell.com/Articles%20and%20Notes/Charles%20Willoughby.html 

この記事の中には、こう書かれています。 

抜粋: 

General Willoughby has been described by an exceptionally candid Japanese who once worked with him in Tokyo as "a stout, obdurate German-American officer like a bull. He has sharp brains and nerves which bring about once in a while a sudden burst of temper. But, on the other hand, he is also a diplomatic person . . ." Willoughby has been more succinctly described by a fellow as "our own Junker general." 

    In the biographies Willoughby has provided to the Army and to Who's Who in America, he is described as having been born in Heidelberg, Germany, on March 8, 1892, the son of Fricher (Baron) T. von Tscheppe-Weidenbach and of Emma von Tscheppe-Weidenbach, nee Emma Willoughby, of Baltimore, Maryland. 

    The mystery which has so often surrounded Willoughby apparently goes back as far as the moment of his birth. Last year a German news magazine, Der Spiegel, which had become interested in tracing the General's noble ancestry, came up with the following item: 

    "In Who's Who in America, 1950-1951 edition, Willoughby is given as the son of Freiherr T. von Tscheppe und Weidenbach and of Emma von Tscheppe und Weidenbach, nee Willoughby; born in Heidelberg on March 8, 1892. However, in the Heidelberg registry under the date March 8, 1892, only the birth of one Adolf August Weidenbach is entered, with ropemaker August Weidenbach as father and Emma, nee Langhauser, as mother . . ." 

    The Gothaisches Genealogisches Taschenbuch der Briefadeligen, a standard catalogue of the German gentry, does nothing to help clear up the confusion about Willoughby's origin. According to it, General Franz Erich Theodor Tulff von Tschepe (with one "p") und Weidenbach not only lacked the title "Freiherr" but did not receive letters patent from Wilhelm II entitling him to use the surname "von Tschepe und Weidenbach" until 1913. He had five children, none of them born in 1892.

    One of Willoughby's friends from his early days in the U.S. has stated that both the General's parents were German and that the name Willoughby was a rough translation of Weidenbach, which means "willow brook."

    When queried by the writer of this article about his birth, Willoughby said he was and orphan and had never known his father, and finally said the Who's Who version of his biography was correct as far as he was concerned. 

ウィロビーの父はドイツ人男爵とし、その苗字(つまり、チャールズ・ウィロビーが米国に帰化する前の苗字)Weidenbach は、英語に訳すとwillow brook。つまり、Weidenbachも母親の苗字Willoughbyも、偶然にも「柳」が入ります。 

そして、ハイデルベルクの記録はウィロビーの申告したこととは食い違っています。また、父親が「男爵」というのも、紳士録では確認できていません。 

この出生についてをシュピーゲルの記者に問われたウィロビーは、「自分は孤児で、父親のことは知らない」と言いつつも、名鑑に載っている事柄は変更しなかったようです。

追記:

白洲次郎の関係の本を読むと、ウィロビーと対抗していたホイットニーとケーディスが悪者のように書かれていていて、吉田茂もホイットニーを嫌っていたような記述があります。
彼ら2人が実際どうであったのか、私にはわかりません。(ホイットニーは確かに傲慢なところがあったと思います。)

しかし、フランコ将軍を尊敬し、全体主義にも幻想を抱いていたようなウィロビーは、「民主化を進めようとしている」ということでホイットニーとケーディスを「共産主義者」呼ばわりしてきました。(先のブログに書いたノーマンは彼の餌食になりました。)私には、「悪者」は彼の方だったのではないか、と思ってしまいます。(「当時は赤狩りの時代」と割り引いて考えても。おまけに彼は出自をごまかしているんですから。)

日本人の多くは、敗戦後から現代まで、「共産化」を望まないばかりか、興味がない(イデオロギーがない)というのが、実体だと思います。普通の感覚の人は「独裁」「全体主義」を嫌う、それだけのことではないでしょうか。

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長州を憎んだ森有正・カナダ人外交官E.H.ノーマンとチャールズ・ウィロビー

2015年08月10日 | 歴史の教科書に載らない偉人

私の愛読書は、加藤周一の『羊の歌』と『続羊の歌』(第三部もあり)です。 

この後者の『続羊の歌』は、加藤周一が1950年代にパリに留学を決めたところから始まり、その中には、同じくパリに留学した森有正(哲学者。森有礼の孫)、朝吹登水子(フランソワーズ・サガンの本の訳者として有名)、そして彼女の兄のお嫁さんの妹の石井好子さん(シャンソン歌手)が出てきますが、これには、ロナルド・ドーア氏も出てきます。 

ちょうど昨日、ドーア氏の2013年1月1日のジャパンタイムズの記事を読むきっかけがあり、このなかに、当時、ドーア氏が森有正氏と食事をした話が書いてありました。 

Japan Times (2013.1.1)
Japan’s steely resolve suggests nationalism based on fear
By Ronald Dore
http://www.japantimes.co.jp/opinion/2013/01/01/commentary/world-commentary/japans-steely-resolve-suggests-nationalism-based-on-fear/#.VcdANv8VjIW 

More than half a century ago I had dinner in Paris with Arimasa Mori, the grandson of the Meiji Era education minister Arinori Mori, who had set the prewar pattern for a Westernized but intensely patriotic education. The Mori family hailed from Kagoshima, and the part that Arinori had played in the Meiji Restoration, as a 20-year-old, was not insignificant. 

Grandson Arimasa had, by the time I met him, given up his job at the University of Tokyo and settled in Paris for the life of an émigré philosopher, a noted expert on Descartes and Pascal. I was staying in a scruffy hotel, the top floor of which was his Bohemian garret.

One thing I remember clearly from that fascinating conversation was his remark about the centuries-old enmity between Satsuma and Choshu. They had cooperated to bring about the Meiji Restoration. 

“I see a lot of Japanese visiting Paris,” he said. “But still, when somebody tells me he’s from Choshu, I want to put a knife in his guts.” 

1950年代後半、哲学者である森有正が、「日本人がたくさんパリを訪れている」「でも、今でさえ、誰かが自分が長州出身だといったとしたら、腹をナイフで突き刺してやりたい」とドーア氏に語ったといいます。 

これは、森家が薩摩藩出身だったということもある前に、祖父の有礼が長州出身の国粋主義者の若者に暗殺されたということが関係していたのか、それとも、この頃もまだ、有正の中に「長州藩」「薩摩藩」という意識が残っていたのかと思って、ドーア氏にこの件を問い合わせたところ、 

ドーア氏から、
「もちろん冗談半分。
(中略)
九州の二大外様大名としてその間のいざこざ は家康時代からじゃなかったですか。
倒幕の可能性がはじめて見えてきたときに否応なしに協力(したけど)。」
という回答をもらいました。 

「冗談半分」ということは、有正は半分は本気(つまり、「実際に刀で切りつけるつもりはないにしても、長州に対しての憎悪はまだ残っていたのだろうか」という意味)だったということですが、明治維新以降、第二次世界大戦終結後12年たっても、このような気持ちを、フランスで哲学を学ぶ有正にあったということは、興味深いことでした。 

さて、ついでにこの『続羊の歌』の、ドーア氏がかかわるエピソードから思い出した話を- 

『続羊の歌』でのドーア氏の登場場面は非常に短く、彼の名前が出てくる場面は、作者の加藤周一とドーア氏が、(尊敬する)知人である、カナダの外交官エドガートン・ハーバート・ノーマンの自殺を知り、衝撃を受けているところだけです。 

このエドガートン・ハーバート・ノーマンはカナダの外交官であると同時に、日本史の研究者でもありました。 

ウィキペディア
エドガートン・ハーバートン・ノーマン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3 

生方卓
ノーマンの命日に
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~ubukata/oriori/ori_files/2000/0404_1.html  

ノーマンは、GHQの日本統治時代はマッカーサーの右腕となり、日本の民主化政策を推進してきました。しかし途中から彼は米国からソ連のスパイの嫌疑をかけられてしまいます。
米国の圧力により、駐日カナダ代表首席を退任させられた彼は、こののち、国連カナダ代表、ニュージーランド高等弁務官を務め、1956年エジプト大使としてカイロに赴任します。 

しかし、米国のスパイ嫌疑はずっと収まりません。 

そして1957年の4月、カイロで日本映画を観た翌日、無実を訴えたノーマンはカイロにあるビルから投身自殺をしてしまったのです。 

GHQ時代、ノーマンを直接的に陥れたのは、GHQのチャールズ・ウィロビー准将と考える人もいるようです。 

ウィロビーは、ドイツ人の父と米国人の母を持ち、ドイツ育ち。彼が米国に帰化したのは1910年で彼が18歳のとき。
(日本語のウィキペディアでは彼は「ハイデルベルク大学卒業後米国に帰化」 となっています。しかし、英語版ウィキぺディアには「彼は1910年に米国に移住、米国陸軍の入隊、1913年除隊」となっていて、ハイデルベルグ大とソルボンヌで3年間学び(1910年以前)、1913年に米国のゲティスバーグカレッジに入学したと書いてあります。そうすると彼は15歳で二つの欧州の名門大学で学んだということになります。まあ、英語版ウィキぺディアには、彼の旧姓等、彼の申告を疑う人もいるので、何が本当かわかりません。)

彼は、スペインの独裁者フランコの崇拝者で、ファシストであることを自他共に認める存在で、もちろんこっちこちの反共。 

ウィキペディア
チャールズ・ウィロビー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AD%E3%83%93%E3%83%BC 

上のウィキペディアからGHQ時代の話を抜粋して貼り付けさせてもらうと、 

GHQでは参謀第2部 (G2) 部長として諜報・保安・検閲を管轄した。政治犯として投獄されていた日本共産党幹部の釈放や、労働組合活動を奨励し、日本の民主化を推進する民政局長のコートニー・ホイットニー准将や次長のチャールズ・ケーディス大佐を敵視し、縄張り争いを繰り広げた。右翼の三浦義一、旧軍の河辺虎四郎らも使って反共工作を進めた。 

1945年10月4日、GHQより日本政府に対して人権指令が出され、治安維持法の廃止や特高警察の廃止、共産主義者などの政治犯の釈放が行われることになったが、日本の警察力の弱体化と、共産主義勢力の増長を危惧するウィロビーはこれらに強く反対していた。そのため、特高警察の機能を温存するために、内務官僚と共謀して「大衆的集団的不法行為の取締り」を名目に、内務省警保局に公安課を、各都道府県警察部に公安課と警備課を設置することを後押しした(公安警察)。 

(中略) 

極東国際軍事裁判の折、A級戦犯の容疑者は第一次裁判で裁かれた東條英機ら28名の他に22名ほどいたが、この裁判をよく思っていなかったウィロビーの釈放要求(ただし、笹川良一の釈放については慎重だったという)が通り、22名の容疑者に対する二次・三次の裁判は行われなかった。背景として、まずジャパン・ロビーが反共工作を取り仕切ったことと、加えて一次裁判で時間がかかりすぎてイギリスが裁判続行に消極的になったことも影響している。 

判決後、ウィロビーは帰国の挨拶にやってきたオランダ代表のベルト・レーリンク判事に「この裁判は史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、息子には軍人になることを禁止するつもりだ。なぜ不信をもったかと言うと、日本がおかれていた状況と同じ状況に置かれたのなら、アメリカも日本と同様に戦争に出たに違いないと思うからだ」と、語っている。 

ということ。 

このウィロビーは、岸信介はじめ戦争を利用した人達の延命するのを助け、日本の戦争を正当化さえした人物。(ドイツ人の血が入り、ファシストの彼がどうしてここまで力があったのかが、不思議です。)

日本の極右と呼ばれる人にとっては、彼は神のように見えたことでしょう。 

ところで、このウィロビー、のちにスペインのフランコの非公式アドバイザーを務めたということです。 

先日、『スペインと日本の戦後-フランコ政権と長州閥の共通点』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/1f4a01779f995e50d39f5ac79ac63db9
を書きましたが、思わぬところで、この両国に関わった人間を発見しました。 

なお、先に述べた、ノーマンですが、彼の無実が確定したのは、1990年代。
(カナダ政府はずっとノーマンの無実を信じていました。) 

2001年、カナダ大使館の図書館は、「エドガートン・ハーバート・ノーマン図書館」と命名されました。

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実話を映画化した『ホテル・ルワンダ』

2015年08月08日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

昨年、フランス人元ペンフレンドとルワンダ大虐殺について書きました。 

『ルワンダの悲劇はルワンダに終わらず』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/27f926adcba6b111a72e26858805b648 

ルワンダ大虐殺を映画化したものでは、『ルワンダの涙』(2007年、英独)などがありますが
今、Gyaoで『ホテル・ルワンダ』を配信しています。(8月30日まで) 

『ホテル・ルワンダ』
http://gyao.yahoo.co.jp/p/00837/v09931/ 

1994年、ルワンダ。この国では長年、フツ族とツチ族が敵対しあっていたが、大統領の暗殺を機に、フツ族民兵によるツチ族の虐殺が始まった。高級ホテル、ミル・コリンの支配人ポールはフツ族だが妻のタチアナはツチ族だった。自分の家族と隣人たちを救うため兵士たちと取引をしたポールはどうにか事なきを得たが、全員ミル・コリンに閉じ込められてしまう。しかし、国連兵士がガードしている海外資本のミル・コリンにはさすがの民兵たちも手が出せなかったため、しだいに助けを求める人々が集まり、難民キャンプのような様相を見せ始めていた。やがてこの状況を収めるはずの国連軍が到着するが、ルワンダ人を助けるのではなく、外国人を国外避難させるのが目的でしかなかった。世界から見捨てられたことを知ったポールは、自ら人々を守ることを決意し、長年ホテルマンとして培った人脈、情報、話術を武器に奮闘しはじめる―。 

なお、これは実話を元に作られたものです。
(こちらは『ルワンダの涙』ほど暴力的描写が激しくないので、お子さんが観ても大丈夫です。) 

主人公ポール、インタビュー動画:

Paul Rusesabagina: The Man Behind Don Cheadle's Character in Hotel Rwanda
https://www.youtube.com/watch?v=LchWLP-XsVw 

ウィキペディア
ポール・ルセサバギナ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%82%B5%E3%83%90%E3%82%AE%E3%83%8A 

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"Cantankerous Essays: Musings of a Disillusioned Japanophile" by Ronald Dore

2015年08月08日 | R.Dore

D氏こと、ロナルド・ドーア氏の新著〈洋書)の紹介です。 

Cantankerous Essays: Musings of a Disillusioned Japanophile
(Rnessance Books)
http://www.amazon.co.jp/Cantankerous-Essays-Musings-Disillusioned-Japanophile/dp/1898823197 

レビュー:
http://www.uhpress.hawaii.edu/p-9388-9781898823193.aspx

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「政治家は戦地に行くべきではない」と言う武藤議員

2015年08月07日 | 国際・政治

現在、海外の友人達と武藤発言と戦争についての意見交換中です。

武藤発言には呆れ、第二次世界大戦後の戦争はプロパガンダ・商業的戦争が多いと認識している友人達のなかで、旧ユーゴスラビアの戦争を体験している友人が皆と意見が違います。

「武藤議員の発言が、その背景を知らないので何もコメントはできないが、もし自分の息子が「戦争に行きたくない」と言ったら、子供っぽく感じると思う」と、彼は言います。
(ただし彼は、プロパガンダや商業的戦争に命をささげるのには反対)

その彼さえも、これには呆れるでしょうね。 

東洋経済オンライン(2015年8月7日)
自民・武藤議員に直撃! 「利己的発言の真意」
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150807-00079722-toyo-bus_all 

(抜粋) 

――「戦争になったら、武藤さん自身が最前線で戦う覚悟はあるのか」とネットでいわれています。 

 武藤 そもそも権利行使を限定容認するというと、なぜお前が戦場に行けというように論理が飛躍するのかわかりません。 

 ――自民党の政治家である武藤さんが率先垂範して「利己的ではない日本人の姿」を示してほしい、ということでは? 

 武藤 私個人のことを申し上げれば、他国が侵略してきたら、愛する家族や故郷を守るために戦います。しかし政治家が戦争に行くことは、国家としての意思決定が出来なくなりますし、政治家は軍事技術を持っていないので、実際戦地に行くべきではないと考えますが。 

 ――「政治家は口だけ、高みの見物で、実際に戦争に行くのは庶民」という感情があります。 

 武藤 実際、自衛の際でも戦地に行くのは「庶民」ではなく「服務の宣誓」をした「自衛隊」です。だからこそ自衛隊には最高の名誉が与えられるべきだと思います。 

 ――米国は大量破壊兵器を口実にして戦争を仕掛けました。多くの無実のイラク人が死んだわけです。これについてはどう思いますか。 

 武藤 「大量破壊兵器がある」と言って実際はなかったわけですからイラク戦争は誤りです。そもそもアラブ社会にはアラブのルール、伝統、文化があり、政治も異なります。米国の民主主義、個人主義の押しつけ、イラク領土への侵犯は受け入れられるものではないと思っています。 

 ――ところで、武藤さんはなぜ政治家になったのでしょうか、政治信条は? 

 武藤 日本を守るためです。日本の伝統的な価値観を取り戻したいと考えたからです。 

とんでもない政治家を国民が辞めさせる手段って、ないのでしょうか。
議員は、言ってみれば国民が雇っているようなもの。 

国民に食べさせてもらっている議員こそ率先して前線に行くことを名言できて初めて、「日本が同盟国の起こす(!)戦争に加担するようにできるようにすることを、国民に説得する」と発言するのが筋ではないでしょうか。

現在はまだ一般人が戦闘地に送られることはないとはいえ、自衛隊の人たちは、こんな人達の決定で命が脅かされる人もいるわけです。

そもそもの「戦争に行きたくないと言うのは我が儘」と言う発言、武藤氏が自衛隊員であればまだ、説得力がある言葉でした。

こんな議員を自民党は野放しにしているのが怖いです。 

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広島原爆投下70年に思うこと

2015年08月06日 | 戦争・紛争

今日は広島原爆投下されてから70年。 

私が住んでいるところは、朝から晴れ渡っていますが、70年前の広島も、晴れ渡っていたといいます。

戦時下とはいえ、いつもと同じ朝を迎えて、同じように終わるだろうと思っていた普通の人々-赤ん坊から高齢者まで-が、虫けらのような殺され方をしました。 

この原爆を落とす決定をした人達に正当性は微塵も感じません。もちろん、長崎も、そして多くの無差別で行われた空襲を決定した人達についても。 

だからこそ、中国、韓国、他のアジアの国の一般人の命を奪うことを命じた当時の日本の軍部についても、私は許せないのですが、日本ではこう発言をする人を、「左翼」「国賊」という人達がいます。

さて、原爆を落としたことを批判、反省する米国人(当時の人も、現在の人も)がいて、以前書いた
『ピーター・カズニック氏の論文』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/5c95fa6aa19ad037d60b8f534459f9b0 

『東京大空襲を語り継いでくれるアメリカ人男性、歴史を学ばない一部の日本人』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/7decb558b82de5c2b0c83b6dc4a68e11

で紹介したアメリカ人たち、彼らを本国では「(米国の)国賊」「左翼」とののしる人は、米国にはいても、ほとんどの日本人(および米国人でない人)なら、「彼らは自国が嫌いだから、母国の悪い点を研究したり、発言したりしているわけではない」という感想を持つと思います。 

今日はJapan Todayでも、広島原爆投下70周年の記事が載っていました。 

Japan Today (2015年8月6日)
Japan marks 70th anniversary of Hiroshima atomic bombing
http://www.japantoday.com/category/national/view/japan-to-mark-70th-anniversary-of-hiroshima-atomic-bombing 

この記事にコメントを寄せている人は、「原爆投下をしたから、日本人は戦争を終わらせ、民主化できたのだ」という人もいますが、ほとんどが批判者。 

参考に、批判している人のものを一つ貼り付けます。 (リンク部分は削除。気になる方は記事の方からどうぞ。)

The nuking of H&N was the most disgusting and cowardly war crime ever committed. It was little more than a brutal and cynical live human experiment on women and children. The depravity and racism of the US government and military is apparent from Harry Truman`s demented giggling prior to his announcement of the mass murders at Hiroshima:

(中略)

As Brig. Gen. Carter W. Clarke, the officer in charge of preparing MAGIC intercepted cable summaries in 1945, stated: 

"….we brought them [the Japanese] down to an abject surrender through the accelerated sinking of their merchant marine and hunger alone, and when we didn't need to do it, and we knew we didn't need to do it, and they knew that we knew we didn't need to do it, we used them as an experiment for two atomic bombs." 

As the historical record shows, six of the seven US WWII five star officers concluded that the nuking of hundreds of thousands of civilians was unnecessary. In fact, the nuking was one of the most brutal and cynical atrocities ever committed. As Admiral Chester W. Nimitz stated: 

"The atomic bomb played no decisive part, from a purely military standpoint, in the defeat of Japan. The Japanese had, in fact, already sued for peace before the destruction of Hiroshima and before the Russian entry into the war…." 

Truman`s own diaries show that he prolonged hostilities until the nukes were ready. We also know that he lied to the US public when he stated that Hiroshima was a "military target". 

Prior to nuking Hiroshima, the U.S. military had already obliterated over 60 Japanese cities with napalm and white phosphorous. This conclusively proves that Hiroshima and Nagasaki had little value other than as an opportunity for the US military to conduct nuke testing on human subjects. 

In this connection, Paul Tibbets is on record as stating that Hiroshima was set aside as a "virgin" test city. Additionally, the primary targets at Hiroshima were residential in nature with the overwhelming majority of casualties being civilian. In fact, Hosokawa Elementary school was mere meters from the epicenter of the Hiroshima nuke strike. The fire-bombings and nuclear attacks on Japan were war crimes on par with the holocaust suffered by the Jews. 

これは長いので訳しませんが(翻訳ソフトでも書いてあるおおよそのことはわかります。)、このコメントの評価は現時点で-4ポイント。 

彼or 彼女が米国人か米国人でないのかはわかりませんが、おそらく少なくない米国人や連合国の国の人達には、彼or彼女も「左翼」「反米」と映ることでしょう。 

こうした戦争を解明したり、客観的な意見を持つ人に向けられる侮蔑や批判、それは戦争で死んだり苦しみ続けた人達-日本人も他の国の人にも-にとって、なんともとも利己的で無慈悲に思えます。 

人類がいる限り、戦争はなくならないかもしれません。

しかし、文明国においては、「もはや戦争は野蛮で(ほとんどの人にとって)無益」というのが常識にならないものでしょうか。

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「経験を活かして身を守る」という本能

2015年08月05日 | 雑感

前回の再アップしたブログに、“予知云々”を書きましたが、これは多くは「経験に基づいた予測」なのだと思います。 

たとえば、311以前の2011年3月9日のブログ、
『長周期地震動』の被害が増える可能性
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/d1869185868d5b07b4d837cb6f5ce1dd 

に私は、 

「今日のお昼頃、横浜のビルの16階で働いている夫から「地震大丈夫だった?」というメールが入りました。 

このメールを受ける前からずっと家にいた私-まったく揺れを感じることもなく、「鈍感になりすぎて地震を感じなくなってしまったのか?」と半分不安になりながら、「こちらは揺れなかったと思うけど、どうして?」と返信すると、主人から「宮城で地震があったみたいだけど、こっちは案外揺れた」という返信。 

それで思い出したのが、1983年にあった男鹿半島の地震(この地震では、男鹿半島に遠足に来ていた多くの児童が津波で亡くなりました。その悲劇からも何時までも印象に残っています。)。

この地震があったのも丁度お昼時で、社員の多くが9階にある食堂にいました。急にゆっくり大きく揺れだしたビルに皆声をあげながら、「震度はおおきそうだ」と喫茶室にあったテレビに群がりましたが、そこで観た臨時ニュースでは東京の震度は発表されませんでした。

後に、テレビ局か気象庁に問い合わせがはいったのか、TVのニュースで「東京では震度が観測されていないこと」「高層ビルの中層部分もしくは構想部分は、遠方の地震でも影響を受けること(地盤により揺れ方が違う?)」を説明していました。」

と書いています。 

この2日前の地震が起こった時、私以外にも、この男鹿半島の津波を思い出した人は他にもいたと思います。 

こうした経験を元に身を守る、というのは人間、いや、動物の本能だと思うのです。
人間はいくら動物とは違うと言っても、この点は大切にすべきではないのでしょうか。

(自然災害に限らず、未来に関わる全般について。)

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Mさんにとっての731部隊

2015年08月05日 | 戦争・紛争

前回再アップしたのと同様、2011年8月5日の記事『福島とセラフィールドと731部隊』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/0393fe7a5e9781a9af9b664177b8d9a4
も、引っ越しの時におかしくなった一つです。 

これは幸いブログを見る分には影響がでてないのですが、編集画面がおかしくて手直しをするとスペースが入らなくなってしまったりします。 

タイムリーでもあるので、戦争に関わる分だけのコピーを貼り付けます。 

5,6年前、何かの本で731部隊のことを読んだ直後、新聞記事で731部隊について神奈川大学の常石教授の調査の記事を読み、妙にこれが頭にひっかかっていた時期がありました。

そしてこの時、731部隊が駐屯していただろうと思われる場所の鮮明な夢を見ました。 

白衣を着た人たちが歩きまわる昔の(木造?)校舎を思わせる建物、コンクリートの煙突、病院のような暗い廊下、芝生の中庭、カラスの鳴き声、青いトラックの荷台に載せられた着の身着のままの人たち-そしてそれを見つめる、やぶ睨みの10代と思われるお下げの女の子- 

中学生の頃から子供を産む前まで、数回、正夢や不思議な夢を見ることがあった私(私は超常現象はあまり興味がありませんが、それでも正夢を見たり、自分がいなかった現場の夢をみること、そういったことから第6感のようなものまで、理解できない能力は人間には備わっているのではないか、と思っています。)は、気になってこの夢の話を当時の同僚にしたところ、

「実は、あなたとも仲が良いMさんは、731部隊で保健婦をしていたことがあるのよ。あまり大っぴらには話さないけど、あなたなら、話してくれるんじゃないかしら。」
とMさんのことを教えてくれました。 

この時の私は、妙に気になった夢の場面が「果たして731部隊が駐屯していた場所であるかどうか」を確認したくてMさんにこの部隊の話を聞いてみたに過ぎなかったのですが、彼女の731部隊にいたときの話、引揚げの話は大変興味深いものでした。

Mさんは人体実験には携わっていませんが、それでも人体実験の話は関係者以外にも知られていたとのことです。森村誠一の小説の中の話は、ほとんどが真実のようだと思えました。また、この部隊の中は食料もたくさんあり、娯楽施設もあり、運動会のようなこともしたそうです。 

そして既婚であったとはいえ(後に離婚)、若い女性で美人の彼女は皆のアイドルでもあり、このコミュニティの中での生活は楽しい面もあったということ言うことを、彼女は話してくれました。  

「終戦間際だって、そんな世界にいたのだから、まさか内地があんなことになっていたとは想像すらできなかった」
「引揚げてきたときに、列車で東京に向かう途中、広島の付近を通過したら、ぽっかり何もなくなっているところがあって、その時初めて、『原子爆弾』というものが落とされたことを知った」 。 

彼女は帰国後、結婚前に内地の保健所でお世話になった与謝野光さん(与謝野鉄幹、晶子の長男で、公衆衛生学の権威。)の紹介状を携えて、現在住んでいる町で働くようになりました。  

Mさんの話-これを自分だけに残しておくことはもったいないので、偶々知り合った中国近代史の研究者に彼女を紹介したり、2007年の夏には新聞記者さんに取材もしてもらいました。  

取材後、記者さんは下記のようなメールをくれました。 

「Mさんのお話は本当に楽しく、あっという間に時間が過ぎてしまいました。機転の良さと明るさで、つらい時代を乗り切ってこられたのだと思いました。 731部隊にいたことよりも、ご主人が無責任でお祭り騒ぎ好きだったことのほうが、Mさんにとっては災難だったのだと思いました。歴史を織りなすのは生身の人間なのだとあらためて感じました。」 

そう、Mさんは、  

「戦争中、自分達の部隊で行われていることを薄々感づいてはいたけれど、それでも戦争の為には仕方がないと思った。でも、日本に帰ってきていろいろなことを知って、『人間がいつでも鬼になりえること』を知ったわ。」 

「今でも731部隊の記事が新聞に載ると、切り抜いているの。731部隊の石井隊長他、幹部が人体実験のデータをアメリカに渡して、自分達はのうのうと生き残り、要職についたりしているなんて許せない。しかも、ミドリ十字の薬害エイズ事件まで関係してたり・・・。」  

と、731時代のことを振り返ったり、憤ったりしますが、それでも彼女と話していて感じるのは、彼女が731部隊で暮らした数年間は今でも特別でもなくて、自分の身に起こった個人的なことの方が大きなポーションを占めるということ。  

これは、Mさんが、731部隊にいたとしても、直接人体実験に関わったわけでもなかったからでもありますが、「被害者の側でならなければ、残酷で理不尽な事実も背景に過ぎない」ということであり、記者さんがいうように、「歴史を織り成すのは生身の人間」という証でもあるのでしょう。 

(後略) 

参考:

731部隊元隊員証言記録
http://www3.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm 

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ABCCと福島(※2011年8月25日の記事。ブログ引っ越しの際変形していたため再投稿)

2015年08月05日 | 原発・核・311

※2011年8月25日に書いた記事ですが、これもOCNブログ人からGooブログに引っ越しした際でしょうか、変形していましたので、再投稿します。偶然でしょうが、何かこういう類の記事ばかりが変形しているようです。
→以前にも再アップは行っていますが、特に731、他のカテゴリー「武器輸出、原発・核」のなかのものに変形しているものが見つかっています。

今年、8月12日の東京新聞朝刊に、足立区にお住いの三浦進さんという77歳の男性からの投書が載っていました。 

“今年も原爆忌がやってきた。7日付の「筆洗」で、広島と長崎に設置された米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)に触れていたが、当時子どもだった私もこのABCCについては嫌な体験をしたので、投稿するつもりになった。 

「筆洗」にもABCCは治療は一切せず、被爆者をモルモット扱いしたとあったが、まさにその通り。検査を希望する被爆者の送迎には格好いい大型のステーションワゴンを使い、子どもたちには食べきれないほどのお菓子が提供された。叔父は自分も被爆していて健康は不安があったようだが、長女を原爆で失っているのでABCCには行かなかった。 

私には3つ上の兄がいたが、あの日(8月6日)、広島に行った友人が戻らないので、疎開先の村から毎日歩いて探しに行ったのを覚えている。友人は見つからず兄は数日で捜索を打ち切ったが、結論から言うと、放射能は成人して高校の英語教師をしていた兄を13年後に襲った。 

兄は教師を目指すくらいだから生真面目で、何の躊躇もなくABCCの検査を受けたと思われる。当時29歳になっていた兄が白血病で亡くなって暫くして、ABCCから少量でいいからお骨を分けて欲しいと言われ、愕然としたことを覚えている。死者の臓器は米国で放射線障害の研究材料にもなったというが、お骨まで請求する米国の態度に怒りを超えて寒気を感じた。 

「平和利用」のまやかしを思い知らされた今、「筆洗」文末のこの言葉をかみしめたい。「核と人類は共存できない」”

ABCCについては、三浦さんが語るものより、もっと酷い証言もあり、詩人の橋爪文さんは以下のように述べられています。
http://www.h3.dion.ne.jp/~sitar/profile/swaraj/file1/hasizume.htm

“・・・またあとひとつ触れたいことは「ABCC」についてです。これは日本でも殆ど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に原爆傷害調査委員会(通称 ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行いました。その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害しいっさいの原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。 

 しかもそれは戦争が終わった後で行われた事実です。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。 

 あれから五十年、「ABCC」は現在、日米共同の放射線影響研究所(通称 放影研)となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。・・・” 

他、Mittyさんという方のブログにも、
http://blogs.yahoo.co.jp/mitokosei/10261999.html 

“2.岡村ヒサさんの証言 

 私は昭和20年当時、尾長町で産院を開業していました。41歳でした。その頃はまだ家庭分娩が多うございましたが、だんだん少なくなりまして、昭和30年頃には、皆産院に吸収されました。 

 何も記録は持っていませんが、奇形がたくさん出ました。当時はABCCへ、みな報告しなくてはいけないシステムになっていました。奇形が出ましても、報告するのを嫌う人もございましたので、しなかったこともあります。 

3.講談師、久保浩之さんの証言

 妻は的場の電停にいましたが満員で次の電車を待っていて原爆に遭いました。前の電車に乗っていたら助からなかった。その後ABCCが何度も呼びに来て、最後は憲兵(MP)と一緒に来て、強制的に比治山の施設に連れて行かれた。抵抗すると軍法会議にかけると脅され、泣きながら採血され、脊髄液も取られた。また、ABCCは死産した奇形児などの胎児を渡すと、内緒で報酬がもらえた。 

4.知人の女性の証言

 ABCCで脳を取られて、返された子どもの様子を今でも鮮明に覚えている。頭部は目だけが見えるが、他の部分はすべて包帯でグルグル巻きにされて、悲惨な状態だった。 

5.当時の女学生の証言 

2年後、ABCCが市内の学校を回って、ケロイドのある生徒を教室の外に連れ出して写真を撮っていた。私の学校にもやって来たというので、私はまだ戸が付いていない出口から走って逃げた。” 

という証言が紹介されていました。 

-と、ここまでABCCのことを今日ブログに書きましたが、私は「米国は被爆者に酷いことをした」というのをここで論じたくて書いたわけではありません。

私が言いたいのは、「このABCCは現在の放射線影響研究所であり、そして現在、福島の人たちも、当時の被爆者のようにモルモットにされていると感じる」ということです。 

(もちろん、当時とは大違いでしょう。しかし、以下に書いたようなことと関連付けて考えるに、どうしても重なってしまうのです。

『福島原発-技師、被災者に対する更なる暴挙』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20110422

『『福島原発事故のデータ』が『資産』にしか見えない人たち』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20110530) 

また、先日、知人から、

「ドイツその他で採用されている原発作業員の年間被曝限度量20ミリシーベルト、というのは広島・長崎からのデータで導きだされた数値なのですね。それが福島の子ども達に適用されている現実は、本当に皮肉だと感じます。」

という話を聞きましたが、「この広島・長崎からのデータ」こそが、ABCCのデータ。 

これが本当に生かされたのであればまだ救いがありますが、これらは政治的意図で捻じ曲げられてきたということもあるようです。

福島のデータも、政治的に捻じ曲げられる可能性もあるような気がします。

参照:『原爆と原発事故-その後の共通点』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20110817

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戦争を肯定する人たちの戯言

2015年08月04日 | 国際・政治

「イスラム国」を撲滅しようとするクルドに西側は武器を供給しています。

西側と同じく、対「イスラム国」として戦い、空爆までしているトルコですが、トルコにとってはクルド人も敵。クルド人に対しても空爆しだしました。

それについて、米国は「トルコはテロリストから自国を守る権利がある」と言う立場。 

ニューズウィーク(2015年7月29日)
アメリカがトルコのクルド人空爆を容認
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/07/is-6.php 

安倍政権は、「こんな米国」に主導された戦争に日本を巻き込むことです。 

その戦争に参加させられるかもしれない若者が、「戦争に行きたくない」というのは当然ではないでしょうか? 

こんな若者に対し自民党の武藤貴也議員が「戦争に行きたくないというのは、我がまま」とツイッターでつぶやいたとか。 

(記事のリンクを載せようと思いましたが、探すのが面倒なので、海外の友人達に送った記事のリンクを貼り付けます。彼らには、「こうした声」が自分達の国でもあるか、それがあるとしたら問題になるかならないか、客観的な観点で述べてほしいと依頼中。) 

Japan Times(2015.8.4)
LDP member under fire for belittling student protesters
http://www.japantimes.co.jp/news/2015/08/03/national/politics-diplomacy/ldp-member-fire-belittling-student-protesters/#.VcA4sf8VjIX 

彼は自民党のなかで「国民を戦争に行かせること」が先にありき、ということを暴露しているようなものですし、彼を窘めさえしない自民党も、これを肯定しているようです。

それにしても、自分は戦争に行かない人間が「戦争を憎んで戦争を拒否する人達を我が儘」と言う-これは「我が儘」を通り越して、人間性が崩壊しているのではないでしょうか?

昔紹介した『塹壕のクリスマス』を、思い出したので、再び貼り付けます。 

Christmas In The Trenches
Song by John McCutcheon
http://www.youtube.com/watch?v=s9coPzDx6tA 

翻訳は以下にあります。 

1914年のクリスマス~「撃て」と命じる者たちは 死にもしないし傷つきもしないhttp://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/1f80972918cce19c43bad56b44fb1807 

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スウェーデン〜サーミの歌を歌うJon Henrik Fjällgren

2015年08月03日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

スウェーデンのM君が、スウェーデン版Xファクター、Talang2014年冬の優勝者、Jon Henrik Fjällgrenのビデオを送ってきてくれました。 

Jon Henrik - Daniels Jojk | Talang Sverige 2014
https://www.youtube.com/watch?v=woEcdqqbEVg 

短縮版:

Jon Henrik Fjällgren - Talang Sverige 2014
https://www.youtube.com/watch?v=EzPn8C5BT3o  

サーミの歌、彼の歌声、魂に響くようです。 

(なお、彼は生粋のサーミ人ではなく、子供のころコロンビアのインディオの村からスウェーデンのサーミの夫婦の養子になり、サーミとして生活をしてきた若者です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Jon_Henrik_Fj%C3%A4llgren ) 

現在はすっかりアイドルになってしまったようではありますが、彼はサーミの歌を歌い続けることでしょう。 

Jon Henrik Fjällgren - Jag är fri (Manne Leam Frijje) ( LIVE Melodifestivalen 2015 Finalen )https://www.youtube.com/watch?v=JZhQ_L9iXNY

Jon Henrik Fjällgren - Jag är fri (Manne Leam Frijje)
https://www.youtube.com/watch?v=ij9R2mxigWY 

サーミについて:

フィンランド政府観光局
サーミの世界へ
http://www.visitfinland.com/ja/kiji/sami-no-hitotachi-to-nonbiri-sugosu/ 

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『レッドクロス〜女たちの赤紙〜』を観て「日本軍の描き方がひどい」という人達の根拠は?

2015年08月02日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

昨夜、TBSドラマの『レッドクロス〜女たちの赤紙〜』を途中まで観ていました。

「途中まで」というのは、もともとドラマを観ない私、更に主演と主演の相手役を務める俳優の演技、演出のまずさ(リアリティがない)についていけずに挫折した、ということなのです。 

しかし、戦時中、「赤紙が来ない家が肩身が狭い」と思う人達がいたこと(これは戦時中、国民すべてがそうだったというわけではないですし、特に農村部では赤紙が来ることを歓迎しない村もあったと聞いたこともあります。ただし、私は知り合いから、「うちの母親は、召集令状が届かないと言って役所に文句を言いに行った」と聞いたこともありますので、そういう空気が蔓延していたのは事実だと思います。)、女性への赤紙があったという事、戦時下の満洲の様子を描き、軍部のお偉方の横暴、当時の日本人が中国や朝鮮の人に対する侮蔑的行為をすることが普通だった(もちろん、それをおかしいと思う日本人もいたことも)ことを描いたという点だけでも、このドラマは、多くの若い世代に観てもらいたいな、と思いました。

(そういう意味で、若者に人気がある、話題性がある俳優を使った点は良かったと思います。) 

さて、ところでこのドラマの反響はどうであったのかとyahooの感想掲示板「みんなの感想」を観てみました。 

そのなかにはドラマを評価する人、意見を書く人がほとんどですが、中には、「TBSのプロパガンダドラマ」という非難の声もちらほら。 

「ドラマなので多少の誇張は仕方ないと思いますが、日本陸軍の描き方が酷すぎます。
まるで某国作成の反日ドラマのように感じます。先が思いやられ見る意欲をなくしました。」 

「日本の軍隊を悪として描くのはやめてほしい。中国人が作った番組か?」 

「うそばかり。
フィクションにしても、取材とか、なにもしていないんでしょうね。」 

という感じです。 

このドラマに「反日ドラマ」「捏造ドラマ」という人は、「日本帝国軍人はヒーローであり、横暴な態度をとることもなかった」と信じ、昔から日本人は中国、朝鮮の人を差別し、支配したこと」は良い事だと思っている様子です。 

「日本軍、軍人の悪事」を描くと「捏造」「調べてもいないくせに」という彼ら、もし戦争を経験していないのであれば、彼らの意見が何を根拠にしているのかを、是非聞いてみたいです。 
(彼らは、事実などには興味がなく、「僕(私)の理想の日本軍じゃない」という理由でごねている気がします。)

以前、 

大きい事実と小さい事実
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/b6df2c9a5aeaf997a19f51e35dcf6c3a
に、 

「「日本は戦争中満州で、中国人の為になることをやってやった。」と堂々と言い張る高齢者がいます。日本が中国にしてきたことを思えば、こういう人の主張は胡散臭く思っていたのですが、今回調べるにつけその言葉に誇張はあったとしても嘘ではなく、一つの事実だったのではないかと思えます。
そして「戦争をしていた」という意識が希薄な新京で戦時中過ごした彼らのこういう言葉が時として利用され、話をこじれさせるのではないかとも思えます。」 

と書きましたが、私は戦争中の外地にいた人が、自分達のやったことを正当化することは、ある程度理解できます。

が、戦争も知らず、専門家でもないのに、「自分達の考えが正しい」という日本軍美化する人達の自信が、どこからでてくるのかと、とても不思議です。

追記:

このドラマは、中国残留孤児のことにもふれるようですが、中国残留孤児のドラマといえば、山埼豊子原作の『大地の子』をNHKが20年くらい前にドラマ化しています。(これは、上川隆也の出世作となったものです。)
『大地の子、Youtube』と検索すると動画が見つかります。

追記2:

第一部は挫折しましたが、第二部は観ることにしました。ドラマに向けられる反発が強いのを承知で作ったTBS、俳優、スタッフ、そしてスポンサーに敬意を表します。
(第一部の途中までと第二部を見ている限り、これは客観的な立場の脚本に仕上がっていると、私は思いますが、人によってはそうは見えないでしょう。)
これは中国でも放映されるのでしょうか。このドラマの視点で、日中共同で歴史を学べるようにすることが大切なのだと思います。

コメント (10)
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プロパガンダの7つの手法・声優上坂すみれさんの提案

2015年08月01日 | 国際・政治

米国の宣伝分析研究所が分析したプロパガンダの7つの手法です: 

①    ネーム・コーリング: レッテル貼り。攻撃対象をネガティブなイメージと結びつける(恐怖に訴える論証)。 

②    カードスタッキング: 自らの主張に都合のいい事柄を強調し、都合の悪い事柄を隠蔽、または捏造だと強調する。本来はトランプの「イカサマ」の意。情報操作が典型的例。マスコミ統制。 

③    バンドワゴン: その事柄が世の中の趨勢であるように宣伝する。人間は本能的に集団から疎外されることを恐れる性質があり、自らの主張が世の中の趨勢であると錯覚させることで引きつけることが出来る。(衆人に訴える論証) 

④    証言利用 : 「信憑性がある」とされる人に語らせることで、自らの主張に説得性を高めようとする(権威に訴える論証)。 

⑤    平凡化 : その考えのメリットを、民衆のメリットと結びつける。 

⑥    転移: 何かの威信や非難を別のものに持ち込む。たとえば愛国心を表彰する感情的な転移として国旗を掲げる。 

⑦    華麗な言葉による普遍化: 対象となるものを、普遍的や道徳的と考えられている言葉と結びつける。 

ウィキペディア
プロパガンダ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%91%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80
より) 

プロパガンダで有名なのはナチスドイツですが、(信者の方には失礼ではありますが、個人的な意見として、)一神教の宗教、宗教界もそういう面があると思います。
(たとえば、15世紀のローマ教皇アレキサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)など、真っ先に浮かびます。そもそも『プロパガンダ』というのが、17世紀前半のカトリック教会の布教聖省の名称だったようですね。) 

もちろん現代もこのプロパガンダで世界は溢れていますが、今の世の中はやり方がスマート。 

安倍政権の場合は、あまりに露骨すぎるゆえ、多くの国民には通じず、そして世界からもひんしゅくを買ったりしています。

先日、『ヒットラー、最後の12日間のパロディ』の動画を紹介しましたが、この動画の終わりは、ヒトラー(安倍首相と重ねている)が、「小泉首相」をうらやんでいるところ。

(もう一度紹介:
総統閣下は、「安保法制」審議にお怒りのようです
https://www.youtube.com/watch?v=WSroOlr3KyQ  ) 

小泉政権の場合は、側近が賢かったのか、「プロパガンダの手法」をそのまま実践するようなことはありませんでした。(小泉首相は私は安倍首相の次に危険人物だと思っています。)

しかし、安倍政権はこの7項目をそのまま実践しているよう。
(④は、先日当てにしていた学者に裏切られてしまいましたけどね。)

本人も、側近も、あまり賢くないのでしょうかね。

(先日彼がTVで、紙の模型と生の肉の塊を使っての説明を計画した人、これも自民党の内部者でありながら、「安倍政権の転覆」狙っているレジスタンスが仕掛けたことじゃないか、って思ったりします。)

ま、プロパガンダに流される人間が一番問題かもしれません。

政治に興味がある人もない人も、柔らかい心と頭を持ちましょう! 

リテラから、頭が柔らかい若者の声を。 

Litera (2015年7月12日)
上坂すみれ、小島慶子、黒柳徹子…安保法制論議の中で彼女達が語った「平和」のための提案とはhttp://lite-ra.com/2015/07/post-1273_2.html 

十分な説明や議論もなされないまま、拙速に国会運営が進み、いよいよ厳しさを増してきた安保法制。そんななか、芸能人や文化人、学者、ジャーナリスト等、さまざまなジャンルの人たちが「平和」について語った本が出版された。『世界を平和にするためのささやかな提案』(河出書房新社)だ。 

 じつはこの本には、普段、こういうテーマで発言をすることがあまりない、意外な芸能人も参加していた。 

 たとえば、そのひとりが『艦隊これくしょん―艦これ―』や『中二病でも恋がしたい!』などへの出演で知られる、声優の上坂すみれ。彼女は、他の国を、世界を、もっと身近なものに感じることが平和のための手段だと語る。 

〈私が提案したいのは、世界に、国家に、オマージュを捧げて遊んでみることです。思想を発信して世界に影響を与えるとか革命を起こすとか、大それたことをやるんじゃなくて、もうちょっとまろやかに、思想を刺激せずに、遊ぶという感覚で他の国を見てみませんか? きっと、他の国が、世界が、全然違って見えるようになります〉 

 実際に彼女は、“ソビエト連邦”に着目し、ソ連を「物騒なものじゃなくて、過去に存在して今にはない面白いもの、刺激的なものという風にファッション的に眺める」といった遊びに夢中になった。 

 そうして、共産主義の構造や、ソ連の軍歌・大仰なプロパガンダの方法などを調べるうちに、「何事もやりすぎる感じ」が面白く、その“アバンギャルド”な魅力にはまっていく。

 しかし、声優を始めてから、実際にモスクワで行なわれているイベントを訪れてみると、そこには、これまでインターネットを通じて受けてきた、ロシア・ソ連とはまったく違う印象の光景が広がっていた。 

 世間でステレオタイプに描かれる「暗くて寒くて怖い」というイメージとはまったく異なり、会場には、日本や日本のアニメが好きな人たちがいっぱいいたのである。手作りのコスプレを楽しんだり、ロリータファッションをしている人がいて彼女は衝撃を受ける。そして、その経験が大事なことに気づかせた。 

〈今まで思い込んでいたところがあったんだな、と分かったんです。興味を持ったものは現地で見るべきなんです。インターネットで知ったことはちゃんと確かめる。インターネットで満足して、頭で分かった気持ちになってしまって実際に行かなくなるのは、おそろしいことと思います。それに行った方が新しい面も見えて楽しいですし、どんどん世界が広がります〉 

 こうやって肌で感じつつ、楽しみながら広げた“世界”を、人は壊す気にはならない。実際に現地に行ってみたら、そこで友だちができることもあるだろう。友だちが住んでいる国と戦争なんて絶対にしたくならない。上坂はそう言いたいのだろう。 

(後略)

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