Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

長州を憎んだ森有正・カナダ人外交官E.H.ノーマンとチャールズ・ウィロビー

2015年08月10日 | 歴史の教科書に載らない偉人

私の愛読書は、加藤周一の『羊の歌』と『続羊の歌』(第三部もあり)です。 

この後者の『続羊の歌』は、加藤周一が1950年代にパリに留学を決めたところから始まり、その中には、同じくパリに留学した森有正(哲学者。森有礼の孫)、朝吹登水子(フランソワーズ・サガンの本の訳者として有名)、そして彼女の兄のお嫁さんの妹の石井好子さん(シャンソン歌手)が出てきますが、これには、ロナルド・ドーア氏も出てきます。 

ちょうど昨日、ドーア氏の2013年1月1日のジャパンタイムズの記事を読むきっかけがあり、このなかに、当時、ドーア氏が森有正氏と食事をした話が書いてありました。 

Japan Times (2013.1.1)
Japan’s steely resolve suggests nationalism based on fear
By Ronald Dore
http://www.japantimes.co.jp/opinion/2013/01/01/commentary/world-commentary/japans-steely-resolve-suggests-nationalism-based-on-fear/#.VcdANv8VjIW 

More than half a century ago I had dinner in Paris with Arimasa Mori, the grandson of the Meiji Era education minister Arinori Mori, who had set the prewar pattern for a Westernized but intensely patriotic education. The Mori family hailed from Kagoshima, and the part that Arinori had played in the Meiji Restoration, as a 20-year-old, was not insignificant. 

Grandson Arimasa had, by the time I met him, given up his job at the University of Tokyo and settled in Paris for the life of an émigré philosopher, a noted expert on Descartes and Pascal. I was staying in a scruffy hotel, the top floor of which was his Bohemian garret.

One thing I remember clearly from that fascinating conversation was his remark about the centuries-old enmity between Satsuma and Choshu. They had cooperated to bring about the Meiji Restoration. 

“I see a lot of Japanese visiting Paris,” he said. “But still, when somebody tells me he’s from Choshu, I want to put a knife in his guts.” 

1950年代後半、哲学者である森有正が、「日本人がたくさんパリを訪れている」「でも、今でさえ、誰かが自分が長州出身だといったとしたら、腹をナイフで突き刺してやりたい」とドーア氏に語ったといいます。 

これは、森家が薩摩藩出身だったということもある前に、祖父の有礼が長州出身の国粋主義者の若者に暗殺されたということが関係していたのか、それとも、この頃もまだ、有正の中に「長州藩」「薩摩藩」という意識が残っていたのかと思って、ドーア氏にこの件を問い合わせたところ、 

ドーア氏から、
「もちろん冗談半分。
(中略)
九州の二大外様大名としてその間のいざこざ は家康時代からじゃなかったですか。
倒幕の可能性がはじめて見えてきたときに否応なしに協力(したけど)。」
という回答をもらいました。 

「冗談半分」ということは、有正は半分は本気(つまり、「実際に刀で切りつけるつもりはないにしても、長州に対しての憎悪はまだ残っていたのだろうか」という意味)だったということですが、明治維新以降、第二次世界大戦終結後12年たっても、このような気持ちを、フランスで哲学を学ぶ有正にあったということは、興味深いことでした。 

さて、ついでにこの『続羊の歌』の、ドーア氏がかかわるエピソードから思い出した話を- 

『続羊の歌』でのドーア氏の登場場面は非常に短く、彼の名前が出てくる場面は、作者の加藤周一とドーア氏が、(尊敬する)知人である、カナダの外交官エドガートン・ハーバート・ノーマンの自殺を知り、衝撃を受けているところだけです。 

このエドガートン・ハーバート・ノーマンはカナダの外交官であると同時に、日本史の研究者でもありました。 

ウィキペディア
エドガートン・ハーバートン・ノーマン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3 

生方卓
ノーマンの命日に
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~ubukata/oriori/ori_files/2000/0404_1.html  

ノーマンは、GHQの日本統治時代はマッカーサーの右腕となり、日本の民主化政策を推進してきました。しかし途中から彼は米国からソ連のスパイの嫌疑をかけられてしまいます。
米国の圧力により、駐日カナダ代表首席を退任させられた彼は、こののち、国連カナダ代表、ニュージーランド高等弁務官を務め、1956年エジプト大使としてカイロに赴任します。 

しかし、米国のスパイ嫌疑はずっと収まりません。 

そして1957年の4月、カイロで日本映画を観た翌日、無実を訴えたノーマンはカイロにあるビルから投身自殺をしてしまったのです。 

GHQ時代、ノーマンを直接的に陥れたのは、GHQのチャールズ・ウィロビー准将と考える人もいるようです。 

ウィロビーは、ドイツ人の父と米国人の母を持ち、ドイツ育ち。彼が米国に帰化したのは1910年で彼が18歳のとき。
(日本語のウィキペディアでは彼は「ハイデルベルク大学卒業後米国に帰化」 となっています。しかし、英語版ウィキぺディアには「彼は1910年に米国に移住、米国陸軍の入隊、1913年除隊」となっていて、ハイデルベルグ大とソルボンヌで3年間学び(1910年以前)、1913年に米国のゲティスバーグカレッジに入学したと書いてあります。そうすると彼は15歳で二つの欧州の名門大学で学んだということになります。まあ、英語版ウィキぺディアには、彼の旧姓等、彼の申告を疑う人もいるので、何が本当かわかりません。)

彼は、スペインの独裁者フランコの崇拝者で、ファシストであることを自他共に認める存在で、もちろんこっちこちの反共。 

ウィキペディア
チャールズ・ウィロビー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AD%E3%83%93%E3%83%BC 

上のウィキペディアからGHQ時代の話を抜粋して貼り付けさせてもらうと、 

GHQでは参謀第2部 (G2) 部長として諜報・保安・検閲を管轄した。政治犯として投獄されていた日本共産党幹部の釈放や、労働組合活動を奨励し、日本の民主化を推進する民政局長のコートニー・ホイットニー准将や次長のチャールズ・ケーディス大佐を敵視し、縄張り争いを繰り広げた。右翼の三浦義一、旧軍の河辺虎四郎らも使って反共工作を進めた。 

1945年10月4日、GHQより日本政府に対して人権指令が出され、治安維持法の廃止や特高警察の廃止、共産主義者などの政治犯の釈放が行われることになったが、日本の警察力の弱体化と、共産主義勢力の増長を危惧するウィロビーはこれらに強く反対していた。そのため、特高警察の機能を温存するために、内務官僚と共謀して「大衆的集団的不法行為の取締り」を名目に、内務省警保局に公安課を、各都道府県警察部に公安課と警備課を設置することを後押しした(公安警察)。 

(中略) 

極東国際軍事裁判の折、A級戦犯の容疑者は第一次裁判で裁かれた東條英機ら28名の他に22名ほどいたが、この裁判をよく思っていなかったウィロビーの釈放要求(ただし、笹川良一の釈放については慎重だったという)が通り、22名の容疑者に対する二次・三次の裁判は行われなかった。背景として、まずジャパン・ロビーが反共工作を取り仕切ったことと、加えて一次裁判で時間がかかりすぎてイギリスが裁判続行に消極的になったことも影響している。 

判決後、ウィロビーは帰国の挨拶にやってきたオランダ代表のベルト・レーリンク判事に「この裁判は史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、息子には軍人になることを禁止するつもりだ。なぜ不信をもったかと言うと、日本がおかれていた状況と同じ状況に置かれたのなら、アメリカも日本と同様に戦争に出たに違いないと思うからだ」と、語っている。 

ということ。 

このウィロビーは、岸信介はじめ戦争を利用した人達の延命するのを助け、日本の戦争を正当化さえした人物。(ドイツ人の血が入り、ファシストの彼がどうしてここまで力があったのかが、不思議です。)

日本の極右と呼ばれる人にとっては、彼は神のように見えたことでしょう。 

ところで、このウィロビー、のちにスペインのフランコの非公式アドバイザーを務めたということです。 

先日、『スペインと日本の戦後-フランコ政権と長州閥の共通点』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/1f4a01779f995e50d39f5ac79ac63db9
を書きましたが、思わぬところで、この両国に関わった人間を発見しました。 

なお、先に述べた、ノーマンですが、彼の無実が確定したのは、1990年代。
(カナダ政府はずっとノーマンの無実を信じていました。) 

2001年、カナダ大使館の図書館は、「エドガートン・ハーバート・ノーマン図書館」と命名されました。

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