Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

「経験を活かして身を守る」という本能

2015年08月05日 | 雑感

前回の再アップしたブログに、“予知云々”を書きましたが、これは多くは「経験に基づいた予測」なのだと思います。 

たとえば、311以前の2011年3月9日のブログ、
『長周期地震動』の被害が増える可能性
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/d1869185868d5b07b4d837cb6f5ce1dd 

に私は、 

「今日のお昼頃、横浜のビルの16階で働いている夫から「地震大丈夫だった?」というメールが入りました。 

このメールを受ける前からずっと家にいた私-まったく揺れを感じることもなく、「鈍感になりすぎて地震を感じなくなってしまったのか?」と半分不安になりながら、「こちらは揺れなかったと思うけど、どうして?」と返信すると、主人から「宮城で地震があったみたいだけど、こっちは案外揺れた」という返信。 

それで思い出したのが、1983年にあった男鹿半島の地震(この地震では、男鹿半島に遠足に来ていた多くの児童が津波で亡くなりました。その悲劇からも何時までも印象に残っています。)。

この地震があったのも丁度お昼時で、社員の多くが9階にある食堂にいました。急にゆっくり大きく揺れだしたビルに皆声をあげながら、「震度はおおきそうだ」と喫茶室にあったテレビに群がりましたが、そこで観た臨時ニュースでは東京の震度は発表されませんでした。

後に、テレビ局か気象庁に問い合わせがはいったのか、TVのニュースで「東京では震度が観測されていないこと」「高層ビルの中層部分もしくは構想部分は、遠方の地震でも影響を受けること(地盤により揺れ方が違う?)」を説明していました。」

と書いています。 

この2日前の地震が起こった時、私以外にも、この男鹿半島の津波を思い出した人は他にもいたと思います。 

こうした経験を元に身を守る、というのは人間、いや、動物の本能だと思うのです。
人間はいくら動物とは違うと言っても、この点は大切にすべきではないのでしょうか。

(自然災害に限らず、未来に関わる全般について。)

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Mさんにとっての731部隊

2015年08月05日 | 戦争・紛争

前回再アップしたのと同様、2011年8月5日の記事『福島とセラフィールドと731部隊』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/0393fe7a5e9781a9af9b664177b8d9a4
も、引っ越しの時におかしくなった一つです。 

これは幸いブログを見る分には影響がでてないのですが、編集画面がおかしくて手直しをするとスペースが入らなくなってしまったりします。 

タイムリーでもあるので、戦争に関わる分だけのコピーを貼り付けます。 

5,6年前、何かの本で731部隊のことを読んだ直後、新聞記事で731部隊について神奈川大学の常石教授の調査の記事を読み、妙にこれが頭にひっかかっていた時期がありました。

そしてこの時、731部隊が駐屯していただろうと思われる場所の鮮明な夢を見ました。 

白衣を着た人たちが歩きまわる昔の(木造?)校舎を思わせる建物、コンクリートの煙突、病院のような暗い廊下、芝生の中庭、カラスの鳴き声、青いトラックの荷台に載せられた着の身着のままの人たち-そしてそれを見つめる、やぶ睨みの10代と思われるお下げの女の子- 

中学生の頃から子供を産む前まで、数回、正夢や不思議な夢を見ることがあった私(私は超常現象はあまり興味がありませんが、それでも正夢を見たり、自分がいなかった現場の夢をみること、そういったことから第6感のようなものまで、理解できない能力は人間には備わっているのではないか、と思っています。)は、気になってこの夢の話を当時の同僚にしたところ、

「実は、あなたとも仲が良いMさんは、731部隊で保健婦をしていたことがあるのよ。あまり大っぴらには話さないけど、あなたなら、話してくれるんじゃないかしら。」
とMさんのことを教えてくれました。 

この時の私は、妙に気になった夢の場面が「果たして731部隊が駐屯していた場所であるかどうか」を確認したくてMさんにこの部隊の話を聞いてみたに過ぎなかったのですが、彼女の731部隊にいたときの話、引揚げの話は大変興味深いものでした。

Mさんは人体実験には携わっていませんが、それでも人体実験の話は関係者以外にも知られていたとのことです。森村誠一の小説の中の話は、ほとんどが真実のようだと思えました。また、この部隊の中は食料もたくさんあり、娯楽施設もあり、運動会のようなこともしたそうです。 

そして既婚であったとはいえ(後に離婚)、若い女性で美人の彼女は皆のアイドルでもあり、このコミュニティの中での生活は楽しい面もあったということ言うことを、彼女は話してくれました。  

「終戦間際だって、そんな世界にいたのだから、まさか内地があんなことになっていたとは想像すらできなかった」
「引揚げてきたときに、列車で東京に向かう途中、広島の付近を通過したら、ぽっかり何もなくなっているところがあって、その時初めて、『原子爆弾』というものが落とされたことを知った」 。 

彼女は帰国後、結婚前に内地の保健所でお世話になった与謝野光さん(与謝野鉄幹、晶子の長男で、公衆衛生学の権威。)の紹介状を携えて、現在住んでいる町で働くようになりました。  

Mさんの話-これを自分だけに残しておくことはもったいないので、偶々知り合った中国近代史の研究者に彼女を紹介したり、2007年の夏には新聞記者さんに取材もしてもらいました。  

取材後、記者さんは下記のようなメールをくれました。 

「Mさんのお話は本当に楽しく、あっという間に時間が過ぎてしまいました。機転の良さと明るさで、つらい時代を乗り切ってこられたのだと思いました。 731部隊にいたことよりも、ご主人が無責任でお祭り騒ぎ好きだったことのほうが、Mさんにとっては災難だったのだと思いました。歴史を織りなすのは生身の人間なのだとあらためて感じました。」 

そう、Mさんは、  

「戦争中、自分達の部隊で行われていることを薄々感づいてはいたけれど、それでも戦争の為には仕方がないと思った。でも、日本に帰ってきていろいろなことを知って、『人間がいつでも鬼になりえること』を知ったわ。」 

「今でも731部隊の記事が新聞に載ると、切り抜いているの。731部隊の石井隊長他、幹部が人体実験のデータをアメリカに渡して、自分達はのうのうと生き残り、要職についたりしているなんて許せない。しかも、ミドリ十字の薬害エイズ事件まで関係してたり・・・。」  

と、731時代のことを振り返ったり、憤ったりしますが、それでも彼女と話していて感じるのは、彼女が731部隊で暮らした数年間は今でも特別でもなくて、自分の身に起こった個人的なことの方が大きなポーションを占めるということ。  

これは、Mさんが、731部隊にいたとしても、直接人体実験に関わったわけでもなかったからでもありますが、「被害者の側でならなければ、残酷で理不尽な事実も背景に過ぎない」ということであり、記者さんがいうように、「歴史を織り成すのは生身の人間」という証でもあるのでしょう。 

(後略) 

参考:

731部隊元隊員証言記録
http://www3.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm 

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ABCCと福島(※2011年8月25日の記事。ブログ引っ越しの際変形していたため再投稿)

2015年08月05日 | 原発・核・311

※2011年8月25日に書いた記事ですが、これもOCNブログ人からGooブログに引っ越しした際でしょうか、変形していましたので、再投稿します。偶然でしょうが、何かこういう類の記事ばかりが変形しているようです。
→以前にも再アップは行っていますが、特に731、他のカテゴリー「武器輸出、原発・核」のなかのものに変形しているものが見つかっています。

今年、8月12日の東京新聞朝刊に、足立区にお住いの三浦進さんという77歳の男性からの投書が載っていました。 

“今年も原爆忌がやってきた。7日付の「筆洗」で、広島と長崎に設置された米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)に触れていたが、当時子どもだった私もこのABCCについては嫌な体験をしたので、投稿するつもりになった。 

「筆洗」にもABCCは治療は一切せず、被爆者をモルモット扱いしたとあったが、まさにその通り。検査を希望する被爆者の送迎には格好いい大型のステーションワゴンを使い、子どもたちには食べきれないほどのお菓子が提供された。叔父は自分も被爆していて健康は不安があったようだが、長女を原爆で失っているのでABCCには行かなかった。 

私には3つ上の兄がいたが、あの日(8月6日)、広島に行った友人が戻らないので、疎開先の村から毎日歩いて探しに行ったのを覚えている。友人は見つからず兄は数日で捜索を打ち切ったが、結論から言うと、放射能は成人して高校の英語教師をしていた兄を13年後に襲った。 

兄は教師を目指すくらいだから生真面目で、何の躊躇もなくABCCの検査を受けたと思われる。当時29歳になっていた兄が白血病で亡くなって暫くして、ABCCから少量でいいからお骨を分けて欲しいと言われ、愕然としたことを覚えている。死者の臓器は米国で放射線障害の研究材料にもなったというが、お骨まで請求する米国の態度に怒りを超えて寒気を感じた。 

「平和利用」のまやかしを思い知らされた今、「筆洗」文末のこの言葉をかみしめたい。「核と人類は共存できない」”

ABCCについては、三浦さんが語るものより、もっと酷い証言もあり、詩人の橋爪文さんは以下のように述べられています。
http://www.h3.dion.ne.jp/~sitar/profile/swaraj/file1/hasizume.htm

“・・・またあとひとつ触れたいことは「ABCC」についてです。これは日本でも殆ど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に原爆傷害調査委員会(通称 ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行いました。その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害しいっさいの原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。 

 しかもそれは戦争が終わった後で行われた事実です。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。 

 あれから五十年、「ABCC」は現在、日米共同の放射線影響研究所(通称 放影研)となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。・・・” 

他、Mittyさんという方のブログにも、
http://blogs.yahoo.co.jp/mitokosei/10261999.html 

“2.岡村ヒサさんの証言 

 私は昭和20年当時、尾長町で産院を開業していました。41歳でした。その頃はまだ家庭分娩が多うございましたが、だんだん少なくなりまして、昭和30年頃には、皆産院に吸収されました。 

 何も記録は持っていませんが、奇形がたくさん出ました。当時はABCCへ、みな報告しなくてはいけないシステムになっていました。奇形が出ましても、報告するのを嫌う人もございましたので、しなかったこともあります。 

3.講談師、久保浩之さんの証言

 妻は的場の電停にいましたが満員で次の電車を待っていて原爆に遭いました。前の電車に乗っていたら助からなかった。その後ABCCが何度も呼びに来て、最後は憲兵(MP)と一緒に来て、強制的に比治山の施設に連れて行かれた。抵抗すると軍法会議にかけると脅され、泣きながら採血され、脊髄液も取られた。また、ABCCは死産した奇形児などの胎児を渡すと、内緒で報酬がもらえた。 

4.知人の女性の証言

 ABCCで脳を取られて、返された子どもの様子を今でも鮮明に覚えている。頭部は目だけが見えるが、他の部分はすべて包帯でグルグル巻きにされて、悲惨な状態だった。 

5.当時の女学生の証言 

2年後、ABCCが市内の学校を回って、ケロイドのある生徒を教室の外に連れ出して写真を撮っていた。私の学校にもやって来たというので、私はまだ戸が付いていない出口から走って逃げた。” 

という証言が紹介されていました。 

-と、ここまでABCCのことを今日ブログに書きましたが、私は「米国は被爆者に酷いことをした」というのをここで論じたくて書いたわけではありません。

私が言いたいのは、「このABCCは現在の放射線影響研究所であり、そして現在、福島の人たちも、当時の被爆者のようにモルモットにされていると感じる」ということです。 

(もちろん、当時とは大違いでしょう。しかし、以下に書いたようなことと関連付けて考えるに、どうしても重なってしまうのです。

『福島原発-技師、被災者に対する更なる暴挙』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20110422

『『福島原発事故のデータ』が『資産』にしか見えない人たち』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20110530) 

また、先日、知人から、

「ドイツその他で採用されている原発作業員の年間被曝限度量20ミリシーベルト、というのは広島・長崎からのデータで導きだされた数値なのですね。それが福島の子ども達に適用されている現実は、本当に皮肉だと感じます。」

という話を聞きましたが、「この広島・長崎からのデータ」こそが、ABCCのデータ。 

これが本当に生かされたのであればまだ救いがありますが、これらは政治的意図で捻じ曲げられてきたということもあるようです。

福島のデータも、政治的に捻じ曲げられる可能性もあるような気がします。

参照:『原爆と原発事故-その後の共通点』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20110817

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