※2011年8月25日に書いた記事ですが、これもOCNブログ人からGooブログに引っ越しした際でしょうか、変形していましたので、再投稿します。偶然でしょうが、何かこういう類の記事ばかりが変形しているようです。
→以前にも再アップは行っていますが、特に731、他のカテゴリー「武器輸出、原発・核」のなかのものに変形しているものが見つかっています。
今年、8月12日の東京新聞朝刊に、足立区にお住いの三浦進さんという77歳の男性からの投書が載っていました。
“今年も原爆忌がやってきた。7日付の「筆洗」で、広島と長崎に設置された米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)に触れていたが、当時子どもだった私もこのABCCについては嫌な体験をしたので、投稿するつもりになった。
「筆洗」にもABCCは治療は一切せず、被爆者をモルモット扱いしたとあったが、まさにその通り。検査を希望する被爆者の送迎には格好いい大型のステーションワゴンを使い、子どもたちには食べきれないほどのお菓子が提供された。叔父は自分も被爆していて健康は不安があったようだが、長女を原爆で失っているのでABCCには行かなかった。
私には3つ上の兄がいたが、あの日(8月6日)、広島に行った友人が戻らないので、疎開先の村から毎日歩いて探しに行ったのを覚えている。友人は見つからず兄は数日で捜索を打ち切ったが、結論から言うと、放射能は成人して高校の英語教師をしていた兄を13年後に襲った。
兄は教師を目指すくらいだから生真面目で、何の躊躇もなくABCCの検査を受けたと思われる。当時29歳になっていた兄が白血病で亡くなって暫くして、ABCCから少量でいいからお骨を分けて欲しいと言われ、愕然としたことを覚えている。死者の臓器は米国で放射線障害の研究材料にもなったというが、お骨まで請求する米国の態度に怒りを超えて寒気を感じた。
「平和利用」のまやかしを思い知らされた今、「筆洗」文末のこの言葉をかみしめたい。「核と人類は共存できない」”
ABCCについては、三浦さんが語るものより、もっと酷い証言もあり、詩人の橋爪文さんは以下のように述べられています。
http://www.h3.dion.ne.jp/~sitar/profile/swaraj/file1/hasizume.htm
“・・・またあとひとつ触れたいことは「ABCC」についてです。これは日本でも殆ど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に原爆傷害調査委員会(通称 ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行いました。その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害しいっさいの原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。
しかもそれは戦争が終わった後で行われた事実です。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。
あれから五十年、「ABCC」は現在、日米共同の放射線影響研究所(通称 放影研)となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。・・・”
他、Mittyさんという方のブログにも、
http://blogs.yahoo.co.jp/mitokosei/10261999.html
“2.岡村ヒサさんの証言
私は昭和20年当時、尾長町で産院を開業していました。41歳でした。その頃はまだ家庭分娩が多うございましたが、だんだん少なくなりまして、昭和30年頃には、皆産院に吸収されました。
何も記録は持っていませんが、奇形がたくさん出ました。当時はABCCへ、みな報告しなくてはいけないシステムになっていました。奇形が出ましても、報告するのを嫌う人もございましたので、しなかったこともあります。
3.講談師、久保浩之さんの証言
妻は的場の電停にいましたが満員で次の電車を待っていて原爆に遭いました。前の電車に乗っていたら助からなかった。その後ABCCが何度も呼びに来て、最後は憲兵(MP)と一緒に来て、強制的に比治山の施設に連れて行かれた。抵抗すると軍法会議にかけると脅され、泣きながら採血され、脊髄液も取られた。また、ABCCは死産した奇形児などの胎児を渡すと、内緒で報酬がもらえた。
4.知人の女性の証言
ABCCで脳を取られて、返された子どもの様子を今でも鮮明に覚えている。頭部は目だけが見えるが、他の部分はすべて包帯でグルグル巻きにされて、悲惨な状態だった。
5.当時の女学生の証言
2年後、ABCCが市内の学校を回って、ケロイドのある生徒を教室の外に連れ出して写真を撮っていた。私の学校にもやって来たというので、私はまだ戸が付いていない出口から走って逃げた。”
という証言が紹介されていました。
-と、ここまでABCCのことを今日ブログに書きましたが、私は「米国は被爆者に酷いことをした」というのをここで論じたくて書いたわけではありません。
私が言いたいのは、「このABCCは現在の放射線影響研究所であり、そして現在、福島の人たちも、当時の被爆者のようにモルモットにされていると感じる」ということです。
(もちろん、当時とは大違いでしょう。しかし、以下に書いたようなことと関連付けて考えるに、どうしても重なってしまうのです。
『福島原発-技師、被災者に対する更なる暴挙』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20110422
『『福島原発事故のデータ』が『資産』にしか見えない人たち』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20110530)
また、先日、知人から、
「ドイツその他で採用されている原発作業員の年間被曝限度量20ミリシーベルト、というのは広島・長崎からのデータで導きだされた数値なのですね。それが福島の子ども達に適用されている現実は、本当に皮肉だと感じます。」
という話を聞きましたが、「この広島・長崎からのデータ」こそが、ABCCのデータ。
これが本当に生かされたのであればまだ救いがありますが、これらは政治的意図で捻じ曲げられてきたということもあるようです。
福島のデータも、政治的に捻じ曲げられる可能性もあるような気がします。
参照:『原爆と原発事故-その後の共通点』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20110817