Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

シャネルを中心に眺めれば-3(シャネルとミシア・セールとナチス)

2023年08月26日 | 人物

数年前、海外の友人たちと、ロシア革命について意見交換をしました。

「もしロシア革命が成功していなかったら」-歴史を学ぶ意味は-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「もしロシア革命が成功していなかったら」-歴史を学ぶ意味は-2 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

これを読み返すと、その後の知識のおかげで、自分の「単純さ」がわかってちょっと恥ずかしくなるのですが、これを読み返したからわかったことがありました。

スタヴィスキー事件-6(シャネルと亡命ロシア人とビアリッツ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

シャネルの亡命ロシア人の愛人や友人の中に「ミシア・セール」と言うピアニストがいますが、ミシアはシャネルとハリウッドまで一緒に行くほどの仲良し。

ミシアの日本語版wikipediaには、こう書かれています。

ミシア・セール - Wikipedia

抜粋:

セール家の交友範囲にはボヘミアンのエリートや社会の上層階級を含んでいた。道徳的に自由な人々の集まりであり、感情的・性的な密通がはびこっていた。それはさらに薬物の使用や乱用によって火をそそがれた[11]。ミシア・セールは女優セシル・ソレル(英語版)の家でファッションデザイナーのココ・シャネルと会い、永続的な関係を結んだ。1919年12月22日にシャネルの愛人であるアーサー・カペルが自動車事故で死亡した時、残されたシャネルに感情的支援を提供した。ミシア・セールとシャネルの関係は似た魂をもつ者どうしの絆であり、セールは「シャネルの天才、致命的な機知、皮肉、狂気の破壊性がすべての人々の興味をそそり、驚かせる」点に魅かれていた。ともに修道院で育てられた2人は友人としての関係を維持し、興味、信頼、薬物使用を共有した[3][12][13]。

 

このミシアは、レティンガーの英文wikipediaにも出てきますが、レティンガーにとっては、マルセル・プルーストら作家、音楽家たちとつなぐだけの女性ではなく、彼の従姉だったようです。

Józef Retinger - Wikipedia

抜粋:

While in the French capital, armed with introductions from Zamoyski and his own relative, the salonnière and pianist Misia Sert, he moved in intellectual circles and was befriended by among others, André Gide, François Mauriac, Bernard Grasset [fr], Jean Giraudoux, Erik Satie and Maurice Ravel.

ビルダーバーク会議のジョセフ・レティンガーの指導者ヴワディスワフ・ザモイスキ伯爵 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ポーランドのジョセフ・レティンガーがビルダーバーグ会議設立にかかわるようになるまで - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

日露戦争の工作活動として、日本がニコライ2世を憎んだフィンランドなどナショナリストたちを支援、ロシアの反対分子に武器を送る工作をしたように※、「ロシアと敵対するナチスドイツ(ファシスト)支援」のための連合国側の支援は、陰ながらやっていたように思います。

(「ロシア人」も、ポーランドやバルト三国、ウクライナも「ロシア国籍」になっていた時もあるので、ややこしいです。)

 

ココ・シャネルが「工作を行う側」「スパイ」であったかはわかりませんが、彼女の周りは工作員が多かったことでしょう。
レティンガーと協同執筆していたボーイ・カペルは、殺害された可能性もあるのではないでしょうか。

 

明石元二郎 - Wikipedia

抜粋:

明治37年(1904年)、日露戦争が開戦すると駐ロシア公使館は中立国スウェーデンのストックホルムに移り、明石(当時の階級は大佐)は以後この地を本拠として活動する。

開戦直前の1月、参謀本部次長児玉源太郎は開戦後もロシア国内の情況を把握するため、明石に対し「ペテルブルク、モスクワ、オデッサに非ロシア人の外国人を情報提供者として2名ずつ配置」するよう指令電報を発した。さらに明石は日露開戦と同時に参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀という臨時職に就き、ストックホルムに移った際にも児玉から、「お前を信じているぞ」という趣旨の激励の電報が届いた[9]。

明石はロシア支配下にある国や地域の反ロシア運動を支援し、またロシア国内の反政府勢力と連絡を取ってロシアを内側から揺さぶる為、様々な人物と接触した。例を挙げると、フィンランドの反ロシア抵抗運動指導者カストレーン、シリヤクス、スウェーデン陸軍将校アミノフ、ポーランド国民同盟ドモフスキ、バリツキ、社会革命党チャイコフスキー、グルジア党デカノージ、ポーランド社会党左右両派、他ロシア国内の社会主義政党指導者、民族独立運動指導者などである。特に、当時革命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス (Konni Zilliacus)率いる フィンランド革命党などを通じ、様々な抵抗運動組織と連絡を取り、資金や銃火器を渡し、デモやストライキ、鉄道破壊工作などのサボタージュが展開されていった。内、鉄道破壊工作などは失敗するものの、デモ・ストライキは先鋭化し、ロシア軍はその鎮圧のために一定の兵力を割かねばならず、極東へ派遣しにくい状況が作られた[10]。

明石の工作の目的は、ロシア国内の反乱分子の糾合や、革命政党エスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどへの資金援助を通じ、ロシア国内の反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたものであり、満州軍においては、欧州の明石工作をロシア将兵に檄文等で知らせて戦意を喪失させようと計ったり、また欧州情勢を受けてロシア軍の後方攪乱活動を盛んに行ったりした(満州義軍)。

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