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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

本田哲郎『釜ヶ崎と福音』(1)

2007年06月21日 | 

知人から本田哲郎神父のことを聞き、『釜ヶ崎と福音』を読む。
本田神父は1942年生、ローマ教皇庁立聖書研究所を卒業し、フランシスコ会の日本管区長もつとめた人で、聖書の翻訳、著作も多い。
管区長を退任後は釜ヶ崎に住んで16年。

本田神父は自分をよい子症候群だと言う。
顔色を上手に見て、意識せずによい子を演じてしまう。
だけど、どう期待に応えようかと、自分がどこかへいなくなってしまう子供だった。
フランシスコ会の日本における責任者になり、よく思われようとしている自分から解放されたくて努力したが、変わらなかった。

宗教者が、祈りによっても、宗教のいろいろな儀式によっても、自分を変えることができなかったのです。(略)
福音の喜びや解放感を味わったことがなかったのです。


管区長として釜ヶ崎を訪れた時、「正直いって、こわいという、そのひとことでした。ひたすらこわかった」そうだ。

よい子症候群のもう一つの特徴は線引きがうまいということです。こういうところの人たちと関わるには向き不向きがある。自分は向いていないんだ。人は、それぞれなんだ。わたしは専門の聖書学で自分の役割を果たしたらいいのだ、と。一度線を引くともう安心する。釜ヶ崎の人たちは自分とは関係ないと開きなおったのです。


しかし本田神父は、研究室に籠もって社会に目を向けない生活に戻ることなく、釜ヶ崎で労働者と共に生活することを選ぶ。
なぜなのか。

わたしはそれまで、当然、信仰をもってるわたしが神さまの力を分けてあげるものだと思いこんでいた。教会でもそんなふうなことしか教えていなかった。


上にいる者(聖職者)が下の者(信者)に教えを伝えるというふうに思いがちである。
しかし、本田神父は「わたしには分けてあげる力なんか、なかった」と言う。

福音の実践ということにおいて、この労働者の足元にもおよばないことを、つくづく思い知らされました。痛みを知る人たちこそ、クリスチャンであろうとなかろうと、福音を実践しているのだと確信するようになりました。


「痛みを知る人」とは小さくされた貧しい人のことで、具体的には釜ヶ崎の労働者であり、野宿者である。

生きていく中でほんとうにつらい思いを日常的にしいられている人たちこそが人を解放する力、元気づける力を持っているのかもしれない。(略)
ほんとうは、あの人を通して神さまがわたしを解放してくれたのではないのか。


しかし、まだ納得がいかない。
ひょっとすると聖書の読み違いではと考え、聖書の原文にこだわり、辞書を引き引き読み直した。

イエスや弟子たちはどういう人だったのか。
それまでは、「イエスさまはふつうに暮らせる人だった。だけど英雄的に、貧しい人たちの仲間になられた方、あ、すごいなあ」と思っていた。

ところが、イエスの母は律法に背いて妊娠するような罪人と見なされていて、私生児の父となったヨセフも同類とされた。
ヨセフは大工だが、当時大工は石切の仕事である。
日常的に石の粉を吸う作業だから、塵肺で早死にすることが多く、奴隷、寄留者、罪人あつかいされていた貧困層に割り当てられていた。
私生児のイエスは「食い意地の張った酒飲み」と言われ、底辺をはいずりまわるようにして生きてきた。
(このあたり、本田神父の誤読だと指摘する意見もあります)

イエス誕生にお祝いにかけつけた東方の三博士(マタイ福音書)は異教の占い師で、占い師はユダヤ社会では異端視され、罪人とみなされた。
ルカ福音書では祝いの訪問者は羊飼いたちだが、当時、羊飼いは賤業で、卑しい罪人の職業とみなされた。

12人の弟子たちも社会の底辺に立つ人たちである。
7人は漁師(穢れた仕事をする卑しい身分の人と見なされていた)で、徴税人、過激派などもいた。

復活後のイエスはどんな姿で弟子たちに現れたか。
マグダラのマリアは最初墓守だと思った。
墓守は穢れた職業で、社会的に罪人と見なされた者しか就かない仕事であり、死体に触れることは穢れの最たるものと考えられていた。

2人の弟子には1人の旅の男として現れる。
当時、夜に1人で旅する人はうさんくさい、怪しげな印象をもたれた。

ペトロたちの前には野宿しているみすぼらしい男として。
野宿の一人暮らしをしいられるということは、村共同体でもてあました、手に負えない人ということである。
復活したイエスはそういう姿で弟子たちの前に現われたのである。

その時代の社会にあっていちばん小さくされた者の姿で、しかもあれほど親しかった弟子たちにも見覚えのない人として自分を現しているというのです。

つまり、イエスや弟子たちは下層民、被差別者だという。

悪人として虐げられ、差別されている人たちこそが救われる。
さらに言うと、私たちは彼らを通して救われる。

(神は)必ず貧しく小さくされた者たち、いちばん「貧弱な」人たちをとおして、その人たちとの関わりをとおして、救いの力を与えるというのです。(略)
貧しく小さくされた仲間をとおして、神がまわりのすべての人にはたらきかけている。


「貧しく小さくされている人」とは、卑しめられている人、軽蔑されている人、罪人とされている人のことである。

わたしたちのまわりにいる、近くにいる、わたしたちの手助けをほんとうに必要としている、そういう人たちにイエス・キリストを見て、すすんで隣人になっていく。それこそがキリスト者ではないでしょうか。(略)
貧しく小さくされた人たちのいつわらざる願いを真剣に受けとめ、その願いの実現に協力を惜しまないとき、人は共に救いを得、解放していただける。それが神さまの力だということです。


本田神父は釜ヶ崎の労働者や野宿者と出会うことによって、初めて神の救いを実感したんだと思う。

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57 コメント

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降りていく生き方 (万次)
2007-06-24 15:14:40
 べてるの家を描いたほんのひとつに『降りていく生き方』というのがあります。

 降りて行く。。。というと自分はそのまんまで何だか貧しい人々の中に降りて行く。。。というイメージですが。逆に昇っていく生き方は人を孤立に導くのかな?おのおの無上心をおこせども生死は、はなはだ厭い難く。

 降りて行くと意外と広い場所に出たりして。で、真宗で成仏と往生という言い方がありますが。成仏はオーソドックな仏教の道。やはり、それは孤高の歩みかも知れません。陸地を徒歩で行く旅。

 船に乗れば、風を受けてスイスイと進む旅。もちろん、嵐が吹いて波の高い日もあるでしょうけど。共に金剛の志しをおこし、アミダの海に飛び込もう。

 海のたとえ↓

http://web2.incl.ne.jp/fujiba/goma/nenga_shu.htm#1996
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上から見ていたのではわからない ()
2007-06-24 19:18:53
三笠宮寛仁がアルコール依存症で入院したと聞くと、つい上から下を見て非難します。
だけど、AAのミーティングに行って話を聞きますと、自己憐憫、被害者意識、そして怒りや恨みにはすごく共感します。
だけど救われた喜びは私にはない。
アル中の人こそ私の道しるべか、なんて思います。
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菊のカーテン (万次)
2007-06-24 22:02:43
 皇室のやんごとなきおかたでもアルコール依存症になるという、しごく当たり前の事実の報道がなされるとはちょっと驚きです(雅子さんもお気の毒です)。

 釜ヶ崎のひとが全員酔っ払いとシャブ中ではないのですが、従来の階級論で考えてると、たとえばこういった嗜癖問題にはじゅうぶん対処できません。親鸞さんのお弟子さんの中で有力者がいたとのことですが、有力者だって苦悩はありますよね。その人たちが、降りなければならない問題を抱えていたとしたら、その人に学ぶことはおおありだと思います。

 私からすれば、本田神父の考え方にはやや階級論の影響(解放の神学など)が色濃いと思います。エリートが、スティグマを貼られた人に抱く逆コンプレックスのようなものを感じますが。これからは、別にそんなものを持たなくてもいいぐらい、お互いに自由に行き来ができるようになればいいなあと私なんかは思います。その時代がやって来るのは、まだまだ先のことでしょうか?

 ※アミダの海に飛びこもうではなくて、アミダの海に舟を漕ぎ出そうといった感じですかね。
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ネットで勉強 ()
2007-06-25 21:29:21
アル中とはアルコール依存症という病気である、ということをおそらくほとんどの人は知らないでしょう。
なんでも、飲酒人口6000万人として、240万人、25人に1人がアルコール依存症です。
ホームレスについても、そして裁判についてもそうで、光市の事件について、的はずれな意見が圧倒的に多いですね。
こういうブログがありました。
ご参考までに。
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/?ctgy=12

>本田神父の考え方にはやや階級論の影響(解放の神学など)が色濃いと思います。

私もそう思いました。
解放の神学をつぶしたヨハネ・パウロ2世について本田神父はどう考えておられるのでしょうか。
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自己に背く罪 (万次)
2007-06-25 23:23:58
 ○○中毒という言い方があります。それに対して最近は依存症という言い方であります。私が知っているのでその違いが一番わかりやすかったのは信田さんのたとえ↓。
 http://homepage3.nifty.com/kingstone/book/ta/izonsyou.htm

 まあ一般的には↓

 http://www.ieji.org/opinion/alcoholism.html

 下の方に依存症は、否認の病気とあります。これ面白いですね。安田理深師の本のタイトルに『自己に背く罪』というのがありますが。安田師はおそらくハイデガーの「本来性」という考え方にインスパイアされて付けたのでしょうが、読んでも実はよくわからない(笑)。

 まあ、人間死ぬことは100%間違いないのに、そのことを生きることに繰り込まない。知ってはいても自分にはまだまだ先のことと、他人事にしてしまっている。自己を見つめる視線が欠けているという意味なら、自己に背く罪=否認の病気。。。というのはまんざら間違いでもないですかね。

 >解放の神学をつぶしたヨハネ・パウロ2世について本田神父はどう考えておられるのでしょうか。

 ヨハネ・パウロ2世がお亡くなりになったその週のミサに出ましたが(汗 遺影のひとつも祭壇(?)に飾っていなかったので、参列者の労働者が「カトリックやから飾らなあかんのちゃいまっか」と言ったところ、「二日前に沖縄出身の○○さんのお葬式をしたばかり。どの信者も神の前には平等だから、法皇の写真を飾るなら、この教会にとって大切な○○さんも飾らないとね」

 と言ってはりましたね。またヨハネ・パウロ二世は影響力の強い人だったんだからブッシュ大統領のアフガニスタンやイラクへの侵攻をやめさせるようにもっと世界にアピールすべきだったんですよというようなものすごい話しをしておられましたね。
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親鸞の背いているか ()
2007-06-27 17:28:21
「飢え、怒り、孤独、疲労、この4つが飲酒欲求をかき立てるということなのだ」
うーん、わかります。
私も予備軍かも。

AAのみなさんの話は真宗と似ていると思います。
否認もそうです。
煩悩具足とか、罪悪熾盛とかホンネではそんなこと思っていない。
そして他人と比べ、あいつよりマシだ。

>法皇の写真を飾るなら、この教会にとって大切な○○さんも飾らないとね

うーん、だったら親鸞さんや門首さんの絵像を下げるべきでしょうか。
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よい子依存症 (万次)
2007-06-29 13:52:01
 本田神父は、「よい子症候群」といわれるのですが、私は「よい子依存症」と言った方がわかりやすいかなと思います。

 よい子を演じ、よい子であろうと努力する。まあ昇っていく生き方なのでしょう。けれどほめられても評価されても、自分に喜びは無く解放感もない。

 また、ご縁あって出会ったにもかかわらず、釜ヶ崎の労働者のような人たちとの生活なんて自分には無縁だと一線を引く。否認ですね。

 よい子に依存する。それで誰が困るのか。本田神父はご自身が行き詰ったのでしょう。よい子である自分と付き合うのがしんどくなった。いわゆる底つきですね。

 「わかっちゃいるけどやめられない」。信田さんのお話では、「禁断の木の実のほうが甘美なのだ」とあります。自責の念というのは、悩んでいる自分自身への自己陶酔みたいなものでしょうか。

 ここで行者はパラドックスにさらされるわけですね。で、えええい。どっちも進めないなら、飛び込んじゃえ。

 >自力のこころをすつというは、ようよう、さまざまの、大小聖人、善悪凡夫の、みずからがみをよしとおもうこころをすて、みをたのまず、あしきこころをかえりみず

 自らの身を良しと思うこころを捨てる。同時に悪しき心をも省みずと親鸞聖人の言葉にはあります。
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行き詰まりの道にドアがあるか ()
2007-06-29 20:38:16
>私は「よい子依存症」と言った方がわかりやすいかなと思います。

よい子であることに依存するというのはしっくりこない気がします。
それはともかく、倉田めばさんもよい子だったそうですね。
本田神父の場合、よい子でずうっと生きていくことはできたんでしょう。
それなのにどうして、とやはり不思議です。

>自責の念というのは、悩んでいる自分自身への自己陶酔みたいなものでしょうか。

それはありますね。
でも、自己陶酔や自己憐憫だけの甘いものでもありません。
人生、失敗と後悔の連続です。
やれやれ。
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Unknown (万次)
2007-06-29 21:41:47
 >よい子であることに依存するというのはしっくりこない気がします。

 信田さんは依存症と嗜癖とをほぼ同じ意味で使っておられました。そして、嗜癖には①物質(酒、タバコ、覚せい剤)などばかりでなくギャンブル行為や浪費行為、暴力行為、性的逸脱行為などの②プロセス嗜癖もありますし、③関係嗜癖として、人との関係にも依存があります。(人の問題に過度に関わる共依存というのもありますね)

 人の顔色ばかり伺い、よい子であるという評価を得るということは、人間関係嗜癖と考えられますが。

>本田神父の場合、よい子でずうっと生きていくことはできたんでしょう。

 よい子(という仮面を被ること)で孤独に陥り、よい子である自分に怒りを感じ、よい子であることから解放されたいという精神的飢餓を抱え、よい子であることに疲れたのでしょうね。

 また依存症は、否認の病とありましたが、コントロール不能に陥った状態であるという定義もあります。つまり、よい子であるという自分の行為がコントロール不能におちいって、コントロール回復の援助を(神・ハイヤーパワー?)に求めていたけど。そこに釜ヶ崎のゆるーいおっちゃんたちとの出会いがあった。

 去勢を張り、ミエを張り、かっこをつけるというおっちゃんがいないわけではないのですが、まあ表現が何かにつけストレートですね。ですから、優しさもストレート。

 夜回りをしていて野宿のおっちゃんからかけられた「にいちゃん、おおきにありがとう。にいちゃんも身体に気ぃつけや」という飾らない言葉に、本田さんは癒されたのでしょうね。
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石橋を叩いて川に落ちる ()
2007-06-30 19:17:21
>釜ヶ崎のゆるーいおっちゃんたちとの出会いがあった。

ある人と破滅願望について話していて、破滅型の人間(太宰治とかいるでしょう)に憧れる部分はあるけど自分にはできない、安全型の人生しか選べない、という話になりました。
おっちゃんに癒されたといっても、だからといって釜ヶ崎に住むというのは安全型人間の発想にはありません。
時々釜ヶ崎へ行って支援活動をして、という程度で気持ちよくします。
本田神父は破滅型人生を選んだ、というふうに解釈したら怒られるでしょうね。(笑)
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