三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

林典子『人間の尊厳』

2014年04月27日 | 

イランで、女性の顔に酸をかけて失明させたとして有罪となった加害者に、被害者の女性が硫酸を男の目に垂らして失明させる権利があるという判決が下った。
残酷な判決だと思ったが、林典子『人間の尊厳』を読み、加害者が罰せられるだけでもまだましかと思った。

パキスタンでは、結婚や交際を拒否したり、浮気の疑いをかけられたりした女性が、名誉を傷つけられたとする男や近親者から報復として顔に硫酸をかけられる事件が後を絶たない。何も理由がなくても、家庭内暴力のなかで被害に遭うこともある。

被害者数は年々増加傾向にあり、年間150~300人、その大半が10代の女性である。
これは氷山の一角で、パキスタン北西部や都市遠方の村では、被害を受けても警察に通報することも、治療を受けることもできない女性が多いという。
硫酸による暴力は、パキスタン以外にも、バングラデシュや、アフガニスタン、カンボジア、ウガンダなどでも多く発生しているそうだ。

林典子氏を案内をしてくれた、支援団体でボランティアをしているサラ(16歳)はこう語っている。

被害者のほとんどがすごく保守的な地域の出身で、これまで一度も学校に行ったことがない人が多いの。硫酸をかけられてこの施設で生活するためにイスラマバードに来て、初めて、おしゃれをして一人で町を歩く女性や、働く若い女性たちを目にして驚くんだって。


セイダ(22歳)は夫(45歳)と結婚して4カ月、夫の暴力に耐えきれず、実家に避難した矢先に、実家に侵入してきた夫から硫酸をかけられた。

田舎の村では被害は放置され、加害者に対する処罰が行われないことが多くある。たとえ加害者が逮捕や起訴されても、警察や裁判官が買収されたり、被害者が周囲の圧力に負けて被害申告を取り下げたりすることもあり、加害者が有罪になるケースは滅多にない。賠償を求めて訴えても、女性自身のみならず家族が報復される恐れがあり、そもそも裁判を起こす費用が工面できない場合も多い。


ナイラ(20歳)は13歳の時、学校の先生の友人からの求婚を断った直後、報復として下校途中に硫酸をかけられた。
男は逮捕され、2009年、懲役12年の刑を受けた。

これはパキスタンで初めて硫酸の被害女性側の訴えが認められ、犯人に刑事罰が科せられた判決となった。

被害に遭う2日前に撮影された写真を手に持つナイラ。 



この写真ではわかりにくいが、『人間の尊厳』の写真だと若さに輝くナイラがはっきりわかる。
現在のナイラとのあまりにもの違いに文字通り言葉が絶える。

シャミン(35歳)は娘のハセナ(17歳)と孫(5カ月)と一緒に暮らしている。
15歳の時に父親が120ドルでシャミンを55歳の夫に売って結婚させられた。
硫酸をかけたのは夫の弟らしくて、若い妻と結婚した兄に嫉妬したためだという。
シャミンの息子(12歳)はカラチの工場で働いているのだが、稼ぎは1日2ドル。

私の突然の訪問にも落ち着いて話をするシャミンは、自分の歩んできた壮絶な人生もそういうものなのだと、何かを期待するのでもなく、受け入れているようにさえ見られた。

こうした事件が多発するということは「人間の尊厳」、すなわち人権が守られていないからである。
女性の地位が低いこと、男中心の社会ということがまずある。
また、夫と妻の年がずいぶん離れていることなどを考えると、事件の背景には貧困があり、個人の資質だけでは語れないように思う。
硫酸をかける加害者を罰するだけでなく、社会全体の問題として考えなければいけないのだが、ため息しか出ない。


『人間の尊厳』には、キルギスの誘拐結婚についても書かれてある。
知らない女性を誘拐して結婚を迫ることを、男や男の家族は隠すわけではないし、恥じてもいない。
もしも誘拐結婚が文化・伝統だとしたら、硫酸をかけることも文化・伝統になってしまう。

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児玉真美『死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(4)

2014年04月24日 | 問題のある考え

「安楽死」「尊厳死」「平穏死」、いずれもこれこそが人間らしい死に方だというような、いいイメージを与える言葉である。
でも、なぜこういう死に方を選ぶのかというと、「まわりに迷惑をかけてはいけない」などと洗脳され、自ら命を絶つことを選ばざるを得ないように仕向けられているからではないか。

尊厳死は終末期ということに今のところはなっているが、認知症、植物状態、障害者、さらには死にたい人にまで対象が広がっているのが実情だということが、児玉真美『死の自己決定権のゆくえ』にで紹介されている。
尊厳死の法制化を進める側の狙いは、福祉・医療費の削減(つまりは切り捨て)と移植用の臓器の確保だと思う。
法制化はその後の社会のあり方を方向づけると児玉真美氏は言う。

たとえば、臓器移植法によって、運転免許証と健康保険証の裏面でも臓器提供の意思を表示でき、普及啓発、記入促進のためにパンフレットやポスターが作られ、運転免許センターや薬局なども協力している。
で、結構なことだというので、「移植のために臓器を提供します」に○をつけるようになる。

児玉真美氏は、終末期医療の問題を批判するなら、医療のあり方を変えようと医療の側に提案すべきなのに、なぜか患者や家族に尊厳死・平穏死という死に方を選べと、まわりから圧力がかかると言う。
出生前遺伝子診断によって中絶する人が増えているのも、有形無形の圧力と無関係ではないと思う。

今後さらに遺伝子診断で分かる病気の数が増えていけば、そうした病気や障害に対する支援を社会がこれまでどおりに行うだろうか、遺伝子診断を受けることを選択しなかった親が、無責任だと道徳性を疑われたり非難を受けるようなことは起こらないだろうか。(アーサー・カプラン『障害者がいなくなった世界はベターな場所ではないかもしれない』)。

そこには強者の論理があると児玉真美氏は言う。
管理する側とされる側、科学技術の恩恵にあずかる側と犠牲に供される側。

「死にたい」と望む人に、「死にたいと言うなら死なせてやればいい」「だから安楽死は合法化すべきだ」と結論を急ぐのは安易すぎる。
どんな人であろうとも、死んでいい人などいないのだから。
苦しみや絶望の中にある人に社会で支え、適切な支援の提供をすべきである。

日本弁護士会の会長声明でも、尊厳死法制化の検討の前に、適切な医療を受ける患者の権利やインフォームド・コンセント原則など患者の権利の法制化と、緩和ケア、在宅医療・介護、救急医療などの充実が必要だと訴えている。

児玉真美氏は、議論されるべき問題はいかにすれば終末期を苦しくないものにできるかということであるはずだと言う。
延命治療か尊厳死かの二者択一ではない。
「死にたい」と望む人に安楽死や自殺幇助で応じ、長期の介護者に「これ以上どうにもできないというなら、死なせても殺しても大目に見てあげよう」と目をつぶる社会になろうとするのか、それとも「苦しければ助けを求めてほしい」と呼びかけ、支援する力を蓄えた社会であり続けようとするのか。

もしも「どんな状態になっても、最後まで痛くなく苦しくなく怖くなくする」、「たとえ訴える言葉を失っても、あなたの声なき声を聞こうと耳を傾け続ける」、「あなたに背を向けて無関心へと立ち去ることは絶対にしない」と約束してもらえるなら、その人たちは「生きられるだけ生きてみようか」と思えるのではないだろうか。

母親がスイスで自殺幇助によって死のうとするという話のステファヌ・ブリゼ『母の身終い』のHPを見たら、樹木希林氏が

私はもっとジタバタするし、ジタバタして逝くのを見せることも私の役割だと思ってます。

というコメントを寄せている。
私は断然こちらを選択したい。

元気なときだったら、家族で話し合うと「延命治療はやめよう」という話になる。
しかし、医者から「どうされますか」と聞かれる事態になったとき、「何もしません」と言えるかどうか。
簡単に割り切る人間より、どうしたらいいのかと葛藤する人に私はなりたい。

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児玉真美『死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(3)

2014年04月19日 | 問題のある考え

ジョディ・ピコー『私の中のあなた』は、白血病の姉のドナーになるために生まれてきた女の子が主人公の映画。
マーク・ロマネク『わたしは離さないで』は、ドナーになるためにクローン人間として生まれてきた子供たちの映画。
どちらも臓器を提供する道具として人間を見ているので、後味がすごく悪かった。

児玉真美『死の自己決定権のゆくえ』によると、『私の中のあなた』はSFではなく、「救済者兄弟」といって、臓器移植を必要とする子供のために遺伝子診断技術と体外受精で生まれてきた子供がいて、世界で初めて「救済者兄弟」が生まれたのは2000年だという。

『死の自己決定権のゆくえ』の冒頭に、ニューヨークの葬儀屋が遺体から使用可能な皮膚、骨、腱、心臓の弁などを採っては、元口腔外科医が経営するバイオ企業に流していたり、2006年のパキスタン大地震の際、臓器泥棒が逮捕されているということが紹介されている。
尊厳死(自殺幇助も含む)は臓器移植と関係がある。

一定の条件下で医師による積極的安楽死または自殺幇助を認める法律があるのは、3カ国とアメリカの3つの州である。
スイスには国内に1年以上在住した人を対象とするエグジットなどの自殺幇助機関や、外国人も受け入れるディグニスタスという施設がある。
エグジットなどの自殺幇助機関を利用して自殺したスイス在住者は2009年では300人近く、ディグニスタスで1998年から2011年の間に幇助を受けて自殺した人は1298人。
ラグビーの試合中の事故で四肢マヒになった選手(23歳)、本人は健康でありながら末期がんの妻と一緒に自殺した指揮者(85歳)、「老いて衰えるのがつらいから」という理由で自殺した人(84歳)など、終末期ではない人も含まれている。
実際に自殺幇助を受けるまでの費用の合計は6300ポンド(約100万円)。
チューリッヒ州は自殺ツーリズムを規制しようと住民投票をしたが、4分の3以上が規制に反対した。

オランダでは安楽死が合法化されており、2011年のオランダの安楽死者数は3695人、前年から559人も増加している。
認知症にも積極的安楽死が行われている。
また、安楽死に特化したクリニックが活動を始め、開始10カ月で約600の要請があり、81人が安楽死した。
希望者は主として終末期の病状の人、慢性的な精神障害のある人、初期の認知症の人になると予測されている。
さらには、70歳以上の人は、生きるのが嫌になったから死にたいと自己決定できることを認めるよう、運動が行われている。

日本も見習うべきだと言う人がいそうだが、当然のことだが問題がある。
オランダには25歳以上の重症脳損傷患者専門の治療機関が存在しないし、安楽死合法化によって専門医が国外に去って、緩和ケアが崩壊している。
希望する治療を受けることができず、緩和ケアも存在せず、残された選択肢の中に自殺幇助や安楽死があるのだから、自ら死を選ぶしかない事態になる。

尊厳死法案では、尊厳死の可否には2人以上の医師の判断が必要である。
しかし、高度に専門的で複雑な判断を下すには、どのような専門知識と経験のある医師であればよいのか。
また、医師の世界の上下関係の中で、2人目の医師の判断に独立性が担保できるのか。
自分と同じ考え方の医師を見つけてくればいいだけということにならないか。

アメリカのオレゴン州とワシントン州には「尊厳死法」があるが、ここでいう「尊厳死」とは医師による自殺幇助である。
精神障害のある人に十分なアセスメントなしに致死薬が処方されている、致死薬を飲む場に医療職が同席していない、かぎられた医師が多数の処方箋を書いている、自殺幇助合法化ロビーが関与しているケースが多いなどの問題が明らかになっている。
うつ病など精神障害によって自殺を希望している懸念がある場合、精神科に紹介することが求められているが、オレゴン州の自殺希望者の4人に1人はうつ病や不安症だったとのデータがあるにもかかわらず、精神科に紹介されたケースはほとんどない。
あるいは、致死薬を飲む際に医者が同席しないと、患者が自分の意思で飲んだのか、金銭問題など利害関係にある家族に飲まされたり、飲むようにそそのかされたとしてもわからない。
オレゴン州で活躍中の医師は約1万人で、そのうち致死薬を処方したのは1%の医師。
しかも、2001年から2007年に書かれた処方箋271件のうち、61%は20人の医師が書き、23%は3人の医師によって書かれていた。

『死の自己決定権のゆくえ』を読んで、こういう状況だということを知ると、日本では国が自死対策を行なっているのに、尊厳死という名の自殺・殺人を認めようというのはあまりにもおかしいと思ってしまう。

安楽死について重要な問題が2つ指摘されている。
1、意識のない成人重症者や新生児や子どものケースで、患者本人の意思表示なしに「必要性のケース」というカテゴリーを持ち出して安楽死が正当化され始めている。
2、安楽死が臓器提供とつながる。

『死の自己決定権のゆくえ』によると、ベルギーでは安楽死の要望書には臓器提供承諾書が一緒についており、すでに未成年への積極的安楽死が日常的に行われている。

OPO(臓器獲得組織)職員は、重症脳損傷の患者をどうせ助からない患者とみなし、患者が集中治療を受けている段階からOPO職員が家族に接触し、臓器提供に向けた働きかけ(ハゲタカのような振る舞い)が行われている。

「デッド・ドナー・ルール」といって、ドナーに死亡宣告が行われた後でなければ臓器を摘出してはならないという鉄則がある。
そのため、脳死に至っておらず、治療を続ければ生き続ける人から人工呼吸器を取り外すなどして人為的に心臓死を引き起こし、数分間待ってから臓器を摘出することが行われている。
脳死でなくても、甚大な脳損傷からも臓器摘出を認めるべきだという意見もある。

安楽死・尊厳死による臓器の提供は法律に触れないし、救済者兄弟やクローン人間のように手間がかかるわけでもない。
ただし、それは人間のモノ化につながってくる。

尊厳死をめぐる問題を知れば知るほど、おかしいことをおかしいと感じる感性が欠けつつあるのではないかと思う。

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児玉真美『死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(2)

2014年04月15日 | 問題のある考え

アレハンドロ・アメナーバル『海を飛ぶ夢』は、25歳の時に頸椎を損傷し、首から下を動かせないまま30年近く生き、自殺幇助によって死んだ実在の人物をモデルにした映画。

ジュリアン・シュナーベル『潜水服は蝶の夢を見る』は、脳溢血のためにロックトイン症候群(意識はあるが全身麻痺で体はほとんど動かせない状態)になったジャン=ドミニック・ボービーが左目のまぶたを動かして書いた本が原作。

まぶたしか動かせないわけだから、肉体という牢獄に閉じ込められたようなもので、そんなんだったら死んだほうがましだと思ってしまう。
『海を飛ぶ夢』の主人公のように、尊厳を保つために自分で死を決定する権利が人間にはあるという「死の自己決定権」は当然の主張だという気がする。

しかし、本当に自分で決定しているのかどうか、児玉真美『死の自己決定権のゆくえ』を読むと疑問に思う。
というのが、医療側や行政の意向、圧力がある。
「無益な治療」論といって、患者や家族などが求める治療を、医療サイドが無益と考える場合には、一方的な治療の停止と差し控えができる権限を認められるべきだという主張である。
高齢化で医療や福祉が財政を圧迫しており、納税者の負担が増えているから、「無益な治療」はやめるべきだというのが「コスト論」である。

ただ生きさせるだめの延命措置は患者本人の利益にならず、無駄なのか。

では、何をもって「無益な治療」と判断するのか。

『死の自己決定権のゆくえ』によると、QOL(生命、生活の質)ということが言われているが、フランスの調査では、ロックトイン症候群の患者の72%は幸福だと答えており、死にたいと考えたことはないと答えた人が68%もいた。
カナダの調査では、子供が染色体異常のトリソミー13、18だと医師から聞かされた親は、その時の見通しと、その後の生活での親の実感とに大きなギャップがある。

そういえば、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の折笠美秋氏はまぶたを動かすことで奥さんとやりとりをすることで『君なら蝶に』を書いていて、死にたいという言葉がなかったように思う。
認知症の私の父にしても、父は認知症であることを苦にしていないようだし、家族も慣れるものである。
ジャン=ドミニック・ボービーや折笠美秋氏は「無益な治療」だったのか。

「無益な医療」論の対象者が終末期の患者から植物状態の患者へ、さらには自立生活はできず他者による介護や施設介護を常時必要とするようになる人(障害者、認知症、難病など)へと拡大していく。

脳死や植物状態で「意識がない」ことを生命維持や救命を「無益」として中止したり差し控える正当化の根拠としてきた人たちが、今度は「意識があったとしても、どうせ植物状態のような状態であることに変わりはないのだから」と言い始めているように私には聞こえる。

「自分はそんな姿になってまで生きていたくない」という思いがあり、その気持ちは「この人だって生きていたいとは思わないはずだ」とか「そんなになってまで生きているべきではない」と他者にも向けられる。
そして、「どうせ○○な人だから」と無意識の選別がなされ、意図的に線引きをじわじわと動かしていくことも可能になる。

母親が重症障害者の子どもを殺したという事件がイギリスであった。

終末期で耐え難い苦痛がある人の死の自己決定権が議論されているはずの国で、障害のない人に行われれば違法行為になることが、障害のある人だというだけで親の愛の名のもとに許容され、そればかりか賛美されてしまったのだ。
その背景にあるのは、障害のある人を障害のない人よりも価値の低い存在とみなす価値意識、障害のある生は生きるに値しないほど不幸だと考える価値意識ではないだろうか。


日本でも1970年、横浜で母親が脳性麻痺者の2歳の子供を絞殺した事件があり、減刑や無罪放免運動が起こった。
起訴まで1年半かかり、執行猶予付きの判決だった。
その理由は、重症児を育てる親への「過酷な負担に対する情状酌量」だった。

長い間介護してきたからというので、障害者を殺すことが愛情の表現として許容され、美化されるわけである。
それに対して抗議したのが青い芝の会(日本脳性マヒ者協会)である。

児玉真美氏には重い障害のある娘さんがいる。
娘さんは中学生時代に腸ねん転の手術を受けたのだが、いくら頼み込んでも、手術後の痛み止めはもらえず、点滴もされないので、娘さんは苦痛にあえいだという。

これは特殊例ではなく、多くの障害児者や家族が体験していることなんだそうで、イギリスでは、知的障害者の死亡件数のうち、37%は死を避けることができたものと考えられている。
適切な治療を受けられなかったために死んでいる障害者が少なくないのである。

障害さえなければ当たり前の治療を、障害者であるためにしてもらえないと初めて知りました。
障害のある人は人間扱いしなくてもいい存在だと、医療の現場では思われているわけです。

治療が「無益」かどうかの判断は医療職に全面的にゆだねられているので、医療の側が強い立場にあるから、患者や家族は治療を続けてくれとは言いにくい。
間違った情報が与えられ、患者や家族の選択肢が限られている中で、「死なせてほしい」と考えることが自己決定と言えるのか。
たくさんの選択肢があるべきなのに、患者には「生きる」という自己決定は封じられ、死ぬ権利だけ認めることにならないか。

尊厳死の法制化とは結局のところ、国が社会保障費を削減するために、高齢者、障害者、貧乏な人たちに、自らの意思で医療をあきらめてさっさと死んでください、という意図のものなのだろうか。
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児玉真美『死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(1)

2014年04月11日 | 問題のある考え

マルコ・ベロッキオ『眠れる美女』は、2009年のエルアーナ・エングラーロ事件をめぐる映画。
17年前、21歳で交通事故に遭い、植物状態となったエルアーナ・エングラーロの両親は延命措置の停止を求め、2008年10月に最高裁判所が訴えを認めた。
しかし、カトリックの影響が強いイタリアでは尊厳死反対運動が起きる。

ステファヌ・ブリゼ『母の身終い』は、脳腫瘍の母親が“自分らしい人生の終え方”を望み、スイスにある自殺を幇助する協会と契約するという映画。

こうした映画が作られるのは、延命至上主義、金儲け主義の医者によって胃瘻や人工呼吸器をつけられ、ただ生きているだけの寝たきりでは人間としての尊厳はない、そして対して尊厳死・平穏死は人間的な死だ、というイメージが我々にすり込まれているからだと思う。

かつては私自身も、17年間も植物状態だったら安楽死・尊厳死もやむを得ないと思っていたし、尊厳を持って自分らしく死ぬことを選ぶことに共感していた。
しかし、私は今は尊厳死や脳死臓器移植には賛成できない。
児玉真美『死の自己決定権のゆくえ』を読み、安楽死や尊厳死をめぐる現在の状況をいかに知らないかを教えられた。

『死の自己決定権のゆくえ』は内容が盛りだくさんなので、どのように紹介したらいいのかわからないが、まずは「尊厳死」とは何かの定義が曖昧なまま議論されているという問題について。
安楽死・尊厳死には次の三種類がある。
・消極的安楽死 治療を差し控えたり中止することによって結果的に患者の死を早めたり招く行為
・積極的安楽死 致死薬を注射するなど積極的な行為を行うことによって患者を死に至らしめる行為
・医師による自殺幇助(PAS) 自殺希望のある人が自分で飲んで死に至ることができるよう医師が致死薬を処方するなどの行為

児玉真美氏によると、日本尊厳死協会の理事長である岩尾總一郎は「自殺幇助」を「消極的安楽死」と定義しているが、それは一般的な定義とは異なっている。
本来なら「消極的安楽死」であるはずのものを「尊厳死」という名のもとで法制化しようと活動する日本尊厳死協会の理事長が「消極的安楽死」とは「自殺幇助」だと定義することはおかしい。

2012年、日本で尊厳死を法制化するための法律案が作られた。
終末期を「回復の可能性がなく、かつ、死期が間近」と定義されている。
第1案は許容範囲を延命措置の不開始に限定し、第2案は中止も含めている。
ところが、「終末期」の定義も曖昧だそうだ。

医師は患者の死が「間近」であることを正確に予測できないし、高齢者の場合、医師が何もせず見限ってしまうと、それは「老衰による死の過程」に見えてしまう。
また、「回復の見込みがない」とは、どういう状態までの「回復」を指すのか。

ベン・ゴールドエイカー『デタラメ健康科学』によると、末期がん患者2337人を対象に長期の追跡調査を行なったところ、平均して5か月後に亡くなったが、約1%は5年後にもまだ生きていた。
「奇跡」とは日常的に起きるのである。

脳死や植物状態と診断され、医師からは回復の見込みはないと言われながら、意識があることが発見された人の例を児玉真美氏は紹介している。

・ザック・ダンラップは19歳の時、交通事故に遭い、脳死を宣告され、家族は臓器移植に同意、お別れにベッドサイドに集まった。
看護師をしている従兄がポケットナイフで足の裏を切ってみたら、ザックは激しい反応を見せた。
ザックは48日後に退院、テレビ番組に出演している。
・ごく一般的な睡眠薬の成分であるゾルピデムによって永続的植物状態と診断された人たちが目覚めるという現象が世界各地で起こっている。
2006年の段階で、150人にゾルピデムを使用し、約6割の患者で改善が見られた。
・fMRIという技術を使い、遷延性植物状態と診断された患者の約17%で意識があることが発見された。
障害は「回復」しなくても、医療措置を受けることによって生存できている障害者もたくさんいる。

ザックは自分の身の回りで臓器摘出の準備が着々と進んでいく状況を克明に察知し、事態を理解しただろう。それでいて彼は助けを求めるすべはない。

ぞっとするじゃありませんか。

児玉真美氏はエゼキエル・エマニュエルの言葉を引用している。

安楽死がいったん合法化されるや、医師による自殺幇助も安楽死もルーティンとなる。時間が経つにつれ、医師は生命を終わらせるために注射をすることに抵抗を感じなくなり、アメリカ国民は安楽死という選択肢があることに抵抗を感じなくなる。抵抗を感じなくなれば、私たちはその選択肢を、社会から見て苦しんで無目的な人生を送っているように見える人たちにも広げたくなるだろう。

尊厳死法案は対象を終末期に限定しているが、実際の議論では尊厳死の対象が拡大している。
長尾和宏 『「平穏死」10の条件 胃ろう、抗がん剤、延命治療いつやめますか?』には「不治かつ末期状態に陥り、食べられなくなっても人工的な栄養補給をせずに、自然な死を迎えるのが、平穏死、自然死、尊厳死」と定義されているが、「不治かつ末期」ではなく、「意識があるかどうか」や「意思表示ができるかどうか」にシフトしているそうだ。

尊厳死・平穏死の対象者の範囲がどんどん広がっていく。

「あんなになるくらいなら」と口にするとき、私たち自身もまた「不治かつ末期の人」と言いながら、その「あんな」の中に知らず知らずのうちに「植物状態のようになった人」(それは「植物状態の人」ではない)や「認知症の人」、「意識はしっかりしていても寝たきりで全介護状態の人」をふくめてしまっているのではないだろうか。

「どうせ」の共鳴。
「どうせ植物状態のような人」「どうせ終末期のような人」、さらには「どうせ障害者」「どうせ高齢者」「どうせ生活保護受給者」「どうせ無保険の人」「どうせ医療費を払えない人」「どうせ不法移民」などへ広がっていく可能性はないのか。
「尊厳死」とか「平穏死」というと聞こえがいいが、こんなになったら死んだほうがいいと、本人ではなく、まわりの者が勝手に考えているだけのことだと思う。

(追記)
児玉真美『死の自己決定権のゆくえ』について書きました。
合わせてお読み下さい。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%BB%F9%B6%CC%BF%BF%C8%FE

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地震の活動期と磯田道史『歴史の愉しみ方』

2014年04月07日 | 日記

『武士の家計簿』の磯田道史氏は茨城大学に勤めていたが、東日本大震災を機に、歴史地震研究のために浜松市にある静岡文化芸術大学に移った。
古文書などの調査による地震・津波の被害の検証の一端が『歴史の愉しみ方』に書かれている。
一読してぞっとした。

江戸時代以来、50年か100年ごとに地震の活動期がきている。
一度、活動期に入ると、列島の地下構造の破壊がすすみ、数年から20年は地震・津波が続く。
慶長期(1596年~1615年)は地震活動期だった。
まず霧島山、次いで浅間山が噴火。
畿内で大地震が起き、伏見城が崩壊(1596年)。
5年後、岩木山と伊豆大島が噴火。
4年して東海から西日本で慶長地震が発生。、大津波が千葉から四国・九州を襲った(1605年)。
翌年、関東で大地震。
さらに5年後、会津で大地震が起きたあと、慶長三陸地震が発生、三陸・仙台平野から茨城・千葉まで巨大津波が襲った(1611年)。

マグニチュード9の巨大地震が起きたときは、長いときは20年ちかく地震・火山活動も活発になる可能性があるという。
明応大地震・大津波(1498年)では、鎌倉の大仏の大仏殿を押し流した可能性が高い。
宝永の東南海地震(1707年)では、大阪に6メートルの津波がきて、1774戸が流失した。
浜松付近の海岸なら、100~150年に一回、5~6メートル前後の津波がくるし、500年に一度の強い地震では津波の高さは平野部で15メートル近くになるので、海岸部では5階の屋上でも危ないし、新幹線の架線は5キロ、10キロと水没する可能性がある。

若狭湾の原発密集地域も津波と無関係ではない。
1586年の天正地震では丹後半島から福井県沿岸に大津波がきて、家が押し流され、多くの人が死んだらしい。

南海トラフがかなり正確な周期でもって動き、東海・南海地震をおこす。この周期的地震は、100年に一度は、大地震・大津波をおこし、500年に一度は、大々的に連動して超巨大地震をおこし、超巨大津波をもたらす。

ネットで調べたら、1943年の鳥取地震、1944年の東南海地震、1945年の三河地震、1946年の南海地震(いずれも死者は1000人以上)は南海トラフによって連動しておきたらしいので、これから30年ぐらいは大丈夫かもしれないと甘く考えたい。
だけど、大噴火がいつあってもおかしくないわけで、なんともいやはや。

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ウソとデタラメ

2014年04月03日 | 日記

ベン・ゴールドエイカー『デタラメ健康科学』に、ハリー・フランクファートのこんな言葉が紹介されている。

ウソをつく人は真実を知っていながらわざと誤解させるように仕向ける。デタラメをいう人は真実などどうでもよく、ただ相手を感心させようとする。

前者は政治家、後者は「オオカミが来た」と嘘を言って、みんながあわてるのを見ておもしろがるオオカミ少年だと、ベン・ゴールドエイカーは言う。

正直な人間は、自分が正しいと信じることだけを話す。ウソつきの場合も同様に、自分が話していることが間違っているという自覚が欠かせない。ところがデタラメをいう人間にはこうした図式がいっさい当てはまらない。彼らは真実の側にいるのでもなければ虚偽の側にいるのでもない。そもそも正直者やウソつきと違って事実に目を向けてはいないのだ。

こういうことだと思う。
ウソには、ウソをついていることを自覚している場合と、無知や勘違いの場合がある。
ウソだと自覚しているウソには、意図的に誤解させようと仕向ける場合と、人を感心させたり面白がってつく場合がある。

たとえば、麻生太郎氏の「ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」という発言は、事実がどうなのか知らないが、人を感心させようとして言っただけという気がする。
町山智浩『教科書に載っていないUSA語録』に、ジョージ・W・ブッシュ元大統領(息子のほう)の愛読書は絵本の『はらぺこあおむし』だとある。
『はらぺこあおむし』の初版は1969年、そのころブッシュは23歳だった。
こんな人が大統領になったのかと驚くが、ブッシュさんと麻生太郎氏はなんだか似ている。

では安倍首相が、集団的自衛権が行使できるよう憲法の解釈を変更しようと考え、「最高責任者は私だ。政府の答弁に私が責任を持って、その上で選挙で審判を受ける」と発言したことはどうか。
選挙にさえ勝てば、首相はいくらでも憲法を解釈できると、安倍首相は本気で信じているのだろうか。
憲法とは国民を縛るものではなく、国家を拘束することで権力の乱用を抑え、国民を守るためにある。
ところが、衆議院予算委員会で「憲法の性格をどう考えるか」と質問され、安倍首相は「国家権力を縛るものだという考え方があるが、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的考え方だ」と答えている。
絶対君主制において王の権力を縛る憲法なんてあり得ないのに。
安倍首相が憲法について無知だということがこの発言によってばれてしまったと思う。

あるいは、東京五輪招致演説で福島の状況を「The situation is under control」(状況はコントロール下にある)と発言したこと。

「私が安全を保証します。状況はコントロールされています」
「汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの港湾内に完全にブロックされている」
「健康に対する問題はない。今までも、現在も、これからもない」

汚染水は完全にブロックされているし、健康に対する問題はこれからもないと安倍首相が本当に信じているのだったら、この夏は福島原発の近くで泳いでほしい。
こちらは、真実を知っていながら、誤解させるように仕向けているのだと思う。

籾井勝人NHK会長の就任記者会見での、慰安婦問題について「ドイツやフランスにはなかったと言えるのか。ヨーロッパはどこでもあった。なぜオランダには今も飾り窓があるのか」という発言。
何か意図があったわけではないし、こんなことを言ったらまずいと思いもしなかったんだと思う。
それに対して、NHK経営委員の百田尚樹氏の東京都知事選で田母神俊雄候補の応援演説での、東京裁判批判、南京大虐殺の否定などは、これは意図的な発言で、その意味ではオオカミ少年である。

静岡地裁は袴田事件の再審開始を決定し、袴田巌さんを釈放した。
決定では5点の衣類について「捏造と考えるのが合理的」「捏造をする必要と能力を有するのは警察をおいて他にない」と指摘している。
静岡県警幹部本当に証拠の捏造なんて可能なのか」
検察幹部「証拠が捏造であると指摘されたうえ、再審を認める決定が出たことは衝撃だ」
県警幹部や検察幹部は、味噌工場のタンクで見つかった5点の衣類は有罪の証拠だと、本当に思っているのだろうか。
事件から1年以上たち、公判段階に入ってから発見されたことがまずおかしいし、1年も味噌に漬かっていたのに衣類の色合いや血痕の色が鮮やかなのも変。
ズボンは袴田巌さんには小さすぎてはけないので、袴田巌さんは無罪の証拠だと喜んだぐらいである。
警察や検察の驚きは「真実を知っていながらわざと誤解させる」ウソだと思う。
悪名高い静岡県警の紅林麻雄警部や部下たちが、無実だと分かっているのに拷問や証拠の捏造をしたのは、誰が犯人かという真実などどうでもよかったのだろう。
死刑囚になった人もいるわけで、検察官や裁判官も含めて、彼らのしたことは一種の殺人である。

ある弁護士に「袴田さんや奥西さんの再審請求を棄却した裁判官は、本当に有罪だと信じているのか」と尋ねたら、「たぶんそうだ。裁判官は無罪の人が自白なんかしないと思っている」との答えだった。
裁判官は正直な人間ということか。

もう一つ書くと、
ヘイトスピーチについての書き込みを読むと、気分が悪くなる。
在日の人に「帰れ」「殺せ」とののしる人たちは、自分の言っていることが間違っていないと思っているのか、それとも面白がっているだけなのか、どちらにしろ私には理解できない。

コメント
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