三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

自己評価の低い人たち

2010年02月26日 | 

『誇大自己症候群』や『他人を見下す若者たち』を読んでひっかかったのは、誇大自己症候群や仮想的有能感によって、「最近の若者は」とか「凶悪犯罪の要因はこれだ」とかいったふうにあらゆる事象を説明しているところである。
これでは疑似科学になりかねない。
どういうことかというと、カール・ポパーは、アドラーが劣等感という言葉によってすべての事例を説明することに疑問を持ったことから、フロイトの精神分析やマルクス主義のように、何でも説明できる理論(反証不可能)を疑似科学とした。
どういうことでも解釈することができる理論はあやしいと思ったほうがいい。

で、私も疑似科学の真似をすると、人を見下してバカにし、つまらない自慢をするのは、自分の中に何もなくて、だけどそれを認めるのがいやだからだと思う。
そして、自分には何か特別な能力があると思い込むことで自分を支える。
これは依存の仕組みと同じだと思う。(いつもの風が吹けば桶屋がという話です)
依存症とは、自分の中に何もない(自己評価が低い)ので、その空虚を依存対象物によって埋めて自分を支えることじゃないかと最近考えている。
アルコールや薬物がとまると、また元のように自分の中が空っぽになり、孤独、空虚感に耐えられず、スリップしてしまう。
依存症がとまると別の依存対象物が出てくるそうだし、新興宗教のはしごをする人は珍しくないのも同じ。

雨宮処凛、萱野稔人『「生きづらさ」について』の中で、雨宮処凛氏が右翼団体に入ったことについて、
「それしか拠り所がなくて、探しに探してやっと見つけたもの、みたいな感覚が私にはあった」「そこを否定されちゃうと「死んじゃうしかない」という気持ちがすごくわかる」と語っている。
「右翼にいったのは、いまから分析すると、「誰にもどこにも必要とされてない」という心情とすごく関係があったと思います」
オウムのサリン事件から二年後ぐらいのころで、その右翼団体には元オウム信者が二人ぐらいいたそうだ。
「オウムを脱会して日本の社会で生きようと思ったけれど、こんな日常には何の意味もない、という感じでうまく着地できない。(略)それまで「世界を救う」という大きな物語のなかにいた彼らは、結局、戻ってきて単純作業なんかしても、それで満たされるはずもない。(略)とはいえ、またオウムに戻るわけにはいかず、私たちのいた団体に入ってきたわけです」

つまりは、自己評価の低さを、薬物で全能感を持ったり、宗教で救われたように思ったり、人を見下して優越感を抱いたりして補おうとするわけである。
私の場合はアクセス数で自己評価を高めたいのだが、そうはいかずに落ち込むわけです。

で、ここで疑問が生まれてくる。
町山智浩『キャプテン・アメリカはなぜ死んだか』に、チャーリー・ブラウンの苦悩は作者のチャールズ・シュルツの実体験だとある。
「シュルツはチャーリーと同じく貧しい理髪店の息子に生まれた。父も母も愛情表現が苦手で決して息子を誉めなかった。シュルツは「両親から求められていない」と感じ、自分に自信が持てず、シャイで内向的な人間になった」
シュルツは赤毛の女性にふられ、代わりに自分から積極的に迫ってきたバツイチで子連れのジョイスと結婚する。
「ジョイスはエネルギッシュでおしゃべりで自己中心的で、両親と同じく彼の仕事を評価せず、愛情を示すより「もっと稼いで」とガミガミ怒ってる時のほうが多かった」
シュルツは48歳で浮気をして離婚。
その後、浮気相手とも別れ、「明るく元気で、何よりもシュルツの才能を絶賛してやまない女性と出会って再婚。彼は50代にして生涯初めて安らぎを覚えた。
ところが、『ピーナッツ』ではチャーリーの自己嫌悪もルーシーの毒舌もパワーダウンしてしまった」

幸せになったら優れた芸術が作れなくなるとは人生の皮肉です。

速水敏彦氏はルーシーがまさに仮想的有能感の典型だと言う。
両親から認めてもらえなかったシュルツは、ルーシー(最初の妻のジョイスのようなタイプ)ではなく、チャーリー・ブラウン(自信の持てない、自己評価の低い人間)となった。

疑問というのは次の三点。
1,なぜ自己評価が低いのか。
2,自己評価が低い人間でも、劣等感が強くて自信が持てない人がいれば、誇大自己、仮想的有能感を持つ人がいるのはなぜか。
3,どうしたら自己評価を高めることができるか。

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『ライズ』と『8Mile』

2010年02月23日 | 映画

自己愛パーソナリティ障害、誇大自己症候群、仮想的有能感、これらの概念のどこがどう異なっているのか私にはわからないし、この手のことは若者に限らず誰にでも当てはまるじゃないかとも思う。
人は誰でも、大なり小なり自分に大した能力や実績がないのに、根拠のない万能感、有能感を持ち、他者をバカにするところがある。
仏教で言う慢(七慢)ですね。

慢・自分より劣った者に対してすぐれたと自負し、同等な者には同等であると高ぶる。
過慢・同等の者に対してはすぐれていると、すぐれた者には同等であるとする。
慢過慢・すぐれた者に対し、逆に自分がすぐれているとする。
我慢・自分の身心を永遠不変の我であるとたのむ。
増上慢・さとりを得ないのに得たとする。
卑慢・多くすぐれた者より少し劣っているにすぎぬとする。
邪慢・徳がないのにあるとする。(中村元『仏教語大辞典』)
他人事じゃないわけです。

で、話は飛ぶのだが、デヴィッド・ラシャベル『ライズ』というドキュメンタリー映画のこと。
L.A.サウスセントラル地区という暴動が絶えず起こり、暴力と犯罪が日常にある地域で、自分たちが創り出したダンスを競う若者たちを取りあげている。

『ライズ』に出てくる若者たちはとにかく「俺は最高なんだ」と言い、ライバルをボロカスにけなす。
だけど、彼らにあるのはダンスだけなのに、どうしてそこまで自信たっぷりなのか、不思議に思った。

カーティス・ハンソン『8Mile』もそう。
主人公はラップで成功して貧困地区から抜け出そうとしてMCバトルで戦う。
『8Mile』を見るかぎり、MCバトルというのは悪口歌合戦みたいな感じで、彼らの歌詞は「お前は馬鹿だ、俺は最高」というようなもので、「お前の母ちゃんでべそ」と変わらない。

アメリカ映画を見てると、相手の母親や妻をからかうジョークを言い合うシーンがけっこうある。
町山智宏『キャプテン・アメリカはなぜ死んだか』によると、
「黒人の子どもたちの母親罵倒はほとんど芸術の域に達している」そうだ。
勝ち抜き悪口合戦のテレビ番組もあって、
「あんたの母ちゃん、すげえデブだから、体の右と左で時差があるわね!」とかわいい女の子に言われて、全身タトゥーの兄ちゃんが半ベソ顔になったりするという。
しかし、『ライズ』や『8Mile』はそういう仲間内の冗談とは違うように思う。
『誇大自己症候群』と『他人を見下す若者たち』を読んで、この二つの映画を思い出したわけです。
これらの映画に出てくる若者たちはダンスやラップで勝ち続けないといけないわけで、自己肯定するのも大変である。

中村うさぎ『私という病』に、
「我々は、他人を差別せずにはいられない生き物なのだ。問題は、その差別意識を自覚しており、それが不当であることを知っており、そんな己を恥じる気持を持つかどうか、だ。無意識の差別、無意識の偽善ほど、醜いものはないのである」とある。
慢はなくならないけど、偽善や傲慢さの自覚はあるほうがいい。
でないと善意の押しつけになったり、えらそうにお説教してしまうから。

(追記)
以下の記事の続きで書きました。
自己愛パーソナリティ障害
誇大自己症候群
仮想的有能感
以下の記事に続きます。
自己評価の低い人たち
自己評価が低いとどうなるか
なぜ自己評価が低いのか




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仮想的有能感

2010年02月20日 | 

次に速水敏彦『他人を見下す若者たち』です。
速水敏彦氏は仮想的有能感という概念を提起する。
「他者軽視をする行動や認知に伴って、瞬時に本人が感じる「自分は他人に比べてエライ、有能だ」という習慣的な感覚である。
現代人は自分の体面を保つために、周囲の見知らぬ他者の能力や実力を、いとも簡単に否定する。世間の連中はつまらない奴らだ、とるに足らぬ奴らだという感覚をいつのまにか自分の身に染み込ませているように思われる。そのような他者軽視をすることで、彼らは自分への肯定感を獲得することが可能になる。一時的にせよ、自分に対する誇りを味わうことができる。
このように若者を中心として、現代人の多くが他者を見下したり軽視することで、無意識的に自分の価値や能力に対する評価を保持したり、高めようとしているように思われる」

つまりは、自分自身に過去に大した実績がなく、経験も乏しいのに、他者の能力を低く見て、人をバカにした態度や行動をとることで、自分は有能だと思い込み、そうして自己肯定するわけである。
具体的には、他人に攻撃的、批判してけなす、自己を正当化する、自分の失敗を認めない、人のせいにする、他人の気持ちを理解しない、自分への批判を聞き入れない、などなど。
たぶん、自分には何もないから、他者をバカにすることで自分を支えようと無意識にしているのだと思う。
「現在の若者は一般に、内心自信を喪失しており、一種の防衛機制として他者を軽視することで自信を取り戻そうとしているのである」

仮想的有能感を持つ人の特徴
1,共感性が乏しい
2,友人関係の狭さ
3,家族、友人関係に不満

高校を中退した子が「自分には、他の人と違った才能があると思う」と言っている例を速水敏彦氏は紹介している。
自己認識、社会認識が甘いわけで、
「とにかく自分には何人にもない特殊な才能があるはずだ、という根拠のない自己肯定をしているのである」
どうしてそんなに楽観的というか、己に甘くなれるのか不思議だが、速水敏彦氏によると「自分を外側から眺める視点が著しく劣っているのかもしれない」ということです。

自尊感情と仮想的有能感とはどう違うのだろうか。
「自尊感情は自分への満足感や自信を意味するものである」
他者と比較して自分はすぐれていると判断するのではなくて、自己の基準に基づいて、自分をよい、満足できるとする場合に自尊感情が生じるんだそうだ。
「自分を価値あるものと感じ、ありのままの自分を尊敬できる場合は、自尊感情が高い」
心理学者のローゼンバーグの「自分を「非常によい」と感じることでなく、「これでよい」と感じることだ」という言葉は自尊感情をわかりやすく説明している。

それに対して仮想的有能感は、
「勝手な判断で、他者を見下げることで、自分のプライドの維持、上昇を図ろうとするものである」
他者と比較しての有能感だから、他者の能力を低く見るほど自己評価を上げることになる。
「自分よりも下位にある者との比較によって、自分の幸福感を増大させようとするのである」
「しかし、これは自分の過去経験にはまったく左右されない思い込みの自己評価と言える」

だから、自分より下の存在がいなければ困る。
「人は自分よりも優れた人物について知りたがっているというよりも、自分よりも劣っている者に関する情報を求めたがっている」

仮想的有能感の持ち主は、
「自分は特別と考え、周りが特別扱いしてくれなかったような場合、「どうしてなのか」と思ったり、怒りやいらだちを感じたり、傷ついたり、劣等感に苛まれているようにも見える。あるいは「いまの生活は本当じゃない」と思い、どこかに本当のすばらしい自分があると考え、それを探し求める」
この傷つきやすさと怒りという特徴は誇大自己症候群と通じるし、スピリチュアル、ニューエイジ(本当の自分探し)を求める心理的根拠はこれなのかと納得しました。

面白いと思ったのが、インターネットと仮想的有能感の関係について。
「インターネットは、匿名性が確保されているので、それだけ自分の実績に関係なく、他者を気軽に批判できると言える」

宮川純氏がインターネット利用頻度と仮想的有能感の高さとの関係を調べた結果を速水敏彦氏は引用している。
結果はインターネット利用頻度が高いほど、また「2ちゃんねる」を閲覧する人のほうが、しない人よりも、仮想的有能感が高いことがわかった。
さらには、仮想有能感とニュース番組の閲覧頻度とは正の、ドラマ番組のそれとは負の関係が示された。
「すなわち、仮想的有能感が高い人ほど、ニュース番組を見やすく、ドラマ番組を見ないと言える」
私はニュースのような現実よりもドラマというフィクションを好む人のほうが仮想的有能感が高いと思ったが、ニュース番組は自分と切り離して批判することが容易なんだそうです。

「他者軽視を通して自分は他者に比べて有能だと感じていると、常に怒りやすく、それを表現しやすく、さらには、心の中にも怒りの気持ちを多く蓄積させている、と考えることができる」
ネットでの攻撃性はこういうことなんですね。

(追記)
以下の記事も合わせてご覧下さい。
自己愛パーソナリティ障害
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/08f0c3432a10b0699f79b9726f4d62f8
誇大自己症候群
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/ee86f6abedc53dfb62fc375bf62c57f4
『ライズ』と『8Mile』
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/960c3449dc5471c38097d4b7ab8bee2b



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誇大自己症候群

2010年02月17日 | 

「現実に不適応を引き起こす程に肥大した万能感と他者に対する驕りを特徴とする、この一連の症候群を、「誇大自己症候群」と呼ぶことにする」と、岡田尊司『誇大自己症候群』ではまず定義する。
コフートによると、
「誇大自己とは、自分を神のように万能だと思い、母親らによって、すべての願望が満たされるのを当然のごとく期待する心のありようである」

誇大自己の特徴
1,万能感
2,自己顕示性 絶えず注目と賞賛を欲しがる
3,唯一性 この自分こそが世界の中心であり、唯一無二の特別な存在であるという思い、それゆえに気に入らないものを破壊してもかまわないという驕り
4,他者に対する真の共感性が未発達
5,傷つきやすさ

「誇大自己症候群の人は、人から指図されたり、偉そうに言われるのが許せない」
こういう人にかぎって、人に指図したり偉そうに言ったりするのが好きなんですよね。
そして、現実の満たされなさを他者への攻撃、蔑視によってごまかそうとする。
「自分の不遇を無関係な他人に転嫁して、もっとも弱い存在を破壊することで、自分の万能感を示す」
ネット上にはこんな人がたくさんいそうです。

傷つきやすさということだが、万能川柳「人はみな傷つくほうは敏感だ」という句がある。
「自分の独善性や強引さには目が向かず、むしろ、思い通りにならないことに対してプライドを傷つけられ、辱めを受けたように感じ、激しい怒りや憎しみを覚える」
「些細な傷つきであろうと、膨らんだ思い上がりゆえに、「許せないほどの侮辱」と受け止めてしまうのである」

10年ぐらい前か、最近の人は他人には無神経なくせに妙に傷つきやすい、ということをどこかで読んだが、これは誇大自己のことを言ってたわけで、こういう人は珍しくないわけだ。

どうして傷つきやすいのか。
「誇大自己は自らの万能感が傷つけられたことが許せないのだ。なぜなら、誇大自己そのものが、本当の強さや裏付けのある自信から生まれたものではなく、虐げられたり主体性を奪われたり、挫折や卑屈さを味わった者が、劣等感や弱さや小心をごまかすためにまとった「強がりの仮面」だからである。些細な軽視や非難さえ、彼の劣等感や卑屈さを刺激し、傷つけられ脅かされたと感じ、一層傲慢で、尊大で、権柄づくの反応を引き起こすのである。その瞬間、誇大自己は自分こそが「被害者」だと感じている。被害者だから、不当な攻撃を行った相手に反撃することは正当であり、それをしないことの方が沽券にかかわると思うのである」
岡田尊司氏の身近にこういう人がいるのではと思わせる、具体的な描写です。
もっとも、私の切れやすさもこれなのかもと思うと、いささか不安ではありますが。

まわりの人はどういう応対をするか。
「誇大自己症候群を抱えた人に対して、大抵の場合は、逆らうと面倒だからという理由で、反対意見を控えて相手の言うがままになるか、それをよしとしない者は、袂を分かって、関わりを止めるのが普通である」
たしかに、面倒くさくなって、勝手にしてくれと思ったりする。
納得しているわけではないし、私は執念深い性格だから、あのヤローといつまでも根に持ちますが。
だけど、誇大自己症候群だと思われる人だって、人間関係がまるっきり壊れているというわけではなく、そこそこうまくやってるように思う。
心の広い人が多いなと思う。

(追記)
これらの記事とセットです。
自己愛パーソナリティ障害
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/08f0c3432a10b0699f79b9726f4d62f8
仮想的有能感
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/891f4c2d7029662379fcdcd0048b2650
『ライズ』と『8Mile』
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/960c3449dc5471c38097d4b7ab8bee2b

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自己愛パーソナリティ障害

2010年02月14日 | 

何ヵ月か前の「週刊文春」に載っていた中村うさぎ「さすらいの女王」にこんなことが書いてあった。
「幼少の頃よりキリスト教的世界観のもとで育った女王様は、「嘘」や「ごまかし」や「偽善」を憎むべきものとして教えられてきた。おかげで今でも女王様は嘘や隠し事が苦手だし、他者のそれも激しく憎む傾向にある。
いや、ホント、他人に対して心の狭い女なんだよ。こんな自分が嫌になるけど、骨の髄まで「断罪」癖が染み付いてて、まるで中世の魔女審問官みたいだと、我ながら思う。
そう。潔癖すぎる倫理観は「独善」や「断罪」といった傲慢の罪を犯しがちなのである。だからこそキリスト教は、他方で「愛」や「赦し」や「奉仕」といった利他的精神を強調するのであるが、これもまた前回申し上げたように、他者を弱者とみなす「差別意識」や「偽善」を背後に抱えており、要するにどっちに転んでも傲慢の罪からは逃れられないのであった」

「ついつい他人の嘘や欺瞞を糾弾してしまっては「この独善者!」と心の声に罵られ、珍しく人に優しくすれば「偽善者めが!」という内部告発の声に鞭打たれて、たびたび進退窮まってしまうのである」

いやはや、独善、偽善、傲慢、そうそう、わかるわかる、です。
私は人をほめるよりも、アラ探しをしてはけなすほうが好きである。
もっとも、筒井康隆が細川元『戦後日本をダメにした学者・文化人』の書評に「悪口は面白い。なぜこんなに面白いのだろう。四ページで一人、計六十七人の学者・文化人をやっつけているが、いずれも麻薬的に面白い。読み出すとやめられぬ」と書いているように、断罪や悪口好きは私だけではないのだ。

人をけなす時は自分のことは棚に上げているわけだが、結局のところ自惚れと嫉妬だと思う。
「真宗」に西田真因先生の話が載っていて、その中でこんなことを話されている。
「自分だけが正しく尊い、自分以外はみな馬鹿と他者を見下す全能感をもった誇大自己、そういう青少年が増えていると精神医学や精神療法にたずさわる先生方が言われています。これはフロイトによれば、赤ん坊のままで身体だけ大人になっているということです」
世界で自分が一番えらいと思って他人を見下す人間は結構いるもので、鼻にかける材料がなくてもかまわない。
森岡利行『女の子ものがたり』という映画で、「知り合いにヤクザがいることを自慢する男」というようなセリフがあり、笑ってしまった。
でもまあ、そういう悪口や自慢話で酒席が盛り上がったりしますからね、聞いてるほうも似たり寄ったりなわけです。

で、西田真因先生が紹介していた岡田尊司『誇大自己症候群』速水敏彦『他人を見下す若者たち』を読む。
両氏の論は精神分析家コフートの自己愛障害に基づいているようなので、まずはこれから。

和田秀樹『〈自己愛〉と〈依存〉の精神分析 コフート心理学入門』には、
「自己愛とは、要するに自分がかわいい、自分を大事にしたいという心理全般のことです」とある。
「自己愛を傷つけられると、人間は激しい怒りの感情や攻撃性をもつ」
つまりは自己中心的ということだが、コフートはそれがいけないことだとは言わない。
「人間には多かれ少なかれジコチュー的なところがあり、それを認めてあげていいんだというところがコフートの人間観のおもしろいところだと私は思っています」

自己愛も程度が過ぎると問題で、それが自己愛パーソナリティ障害である。
1 他人に厳しい、他人の気持ちがわからない(共感の欠如)
2 ほめられたり評価されないと、怒ったりスネったりする(賞賛欲求の異常な強さ)
3 自分がものすごく偉いと思っている(誇大性)
「この三つがそろった場合は、精神医学の世界では病的だと考えるのです」(和田秀樹『今日から「イライラ」がなくなる本』)
この三つがそろうと自己愛が病的ということになるそうだ。

バランスのとれた自己愛とは、人からほめられる、評価されるということがポイントらしい。
成長の過程で周囲の反応がよくないと、「自分だけが偉いと思ったり周りのだれにも相手にされないような人間に育っていき、非常にいびつな形で自己イメージだけを肥大させるというようなことになる」
「何か立派なことをしたつもりでも、人にほめてもらえなければ自分で自分のことを天才だと信じ込むしかなく、尊大な行動を取ったり、逆にがっくりと力を失い、まったく自分に自信がなくなってしまうということになってしまう可能性もあります」

共感の欠如ということだが、共感能力が乏しくて人の心が読めない人がいる。

「なぜ人の心が読めないかというと、最近の精神分析の理論では、他人に主観があることがわかっていないからだと考えられています。つまり、一方的にしゃべりまくるだけで相手が何を思っているか考えておらず、相手がこちらのしゃべりの受け手であり、こちらの憎しみなり愛情の対象であるとしか見ていないのです」
「自分だけが一方的に愛してもらいたいというのも、さすがに人間関係の中では未成熟な自己愛といわれてもしょうがない」

この自己愛パーソナリティ障害が誇大自己症候群、仮想的有能感と関係があるというのである。

(追記)
以下の記事が続きです。
誇大自己症候群
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/ee86f6abedc53dfb62fc375bf62c57f4
仮想的有能感
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/891f4c2d7029662379fcdcd0048b2650
『ライズ』と『8Mile』
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/960c3449dc5471c38097d4b7ab8bee2b

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「キネマ旬報」2009年ベスト・テン特集号

2010年02月11日 | 映画

2009年のベスト・テン採点表には、邦画が127本(選考委員は55名)、洋画は130本(選考委員は65名)の映画があげられている。
ここ数年のベスト・テンを調べると、
2005年 邦画(51名)95本  洋画(61名)156本
2006年 邦画(60名)106本 洋画(63名)145本
2007年 邦画(56名)116本  洋画(61名)162本
2008年 邦画(62名)119本 洋画(63名)158本
邦画は選ばれる作品が年々増えているのに対し、今年の洋画はなぜか減少している。
1位の『グラン・トリノ』が412点(2位『母なる証明』は197点)と、
多くの票を集めた影響かもしれない。

どんな作品があるのかと見ていくと、『マンマ・ミーアー』は評判がよくなかったのにもかかららず34位。
どうしてかと思ったら、3人だけが投票していて、いずれの1位のため、それで30点。
こんなこともあるんですね。
この3人は女性である。
女性が高評価の映画とか、男が好む映画とかがあるのかもしれない。
得点の男女比を調べてみるのもおもしろそうだが、面倒なのでやめ。

『ダイアナの選択』をベスト・テンに選んだ人がいないのにはがっかり。
ちなみに封切り本数は邦画448本、洋画314本なので、誰も選ばない作品はしょうもないのがほとんどである。
『アバター』もない。
『アバター』は12月26日公開なので2010年まわしということだろうか。

毎年、ええっ、こんなのが、というのがベスト・テンに入る。
2007年1位の『長江哀歌』はただ眠たかったし、2008年だと『エグザイル絆』なんてどこがいいのかと思った。
2009年は『アンナと過ごした4日間』、主人公がいくら悪い人間じゃないとわかっても、あれじゃ嫌われても仕方ない。

2010年のベスト1は早くも『インビクタス』で決まりです。
ニュージーランド戦は力が入りました。
クリント・イーストウッドは「キネマ旬報」ベスト・テン史上、最高の映画監督である。

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増田美智子『福田君を殺して何になる』

2010年02月08日 | 

増田美智子『福田君を殺して何になる』は光市事件の被告や関係者に取材した本。
被告の名前を実名にした理由を増田美智子氏はこう説明する。
「私が実名を書く理由は、匿名報道が彼の人格を理解することを妨げていると思うからだ。名前や顔写真が出ないことで、ひとりの人間とは違う、いわばモンスターのようなイメージがふくらみ、それが死刑を望む世論を形成しているのではないか」
そりゃないなと思う。
実名にしたらイメージが変わるわけではない。
ネットで被告を実名で書いている人たちは「あんな奴、さっさと死刑にしろ」という人ばかりだから。
大久保清や宅間守という実名がモンスターのようなイメージになっている。
実名を題名に入れることによって話題になり、本が売れたらいいなという発想だと思う。

増田美智子氏「正直なところ、私は「実名を売り物にしている」という批判の意味がよくわからないんです。本文で実名を書くのはOKだけど、タイトルにするのはけしからん、というのは筋が通らないし、タイトルに実名を入れたからと言って、どうしてそれが「売り物」になっちゃうんでしょうか」と語っているが、本文だろうとタイトルだろうと同じことである。

たぶん増田美智子氏は被告と面会し、マスコミを通して作られた残忍、凶悪、狡猾、図太い、知能犯といったイメージとはまるっきり違う被告、幼く、愛情を求め、罪を悔い、時には剽軽なことを言う被告にショックを受け、被告の実像はこうなんだと一人でも多くの人に伝いえたいという気持ちからこの本を書いたのだろうと思う。
被告の幼児性ということが認められれば、甘えたくて抱きついたという被告の主張にも納得できるし、ドラえもんが何とかしてくれるということにも違和感を感じなくなる。
そこまで増田美智子氏が考えているかどうかは本を読んだ限りではわからないが、そういう理屈になる。
しかし、ネットの反応を見る限り、被告の幼さは認めても、被告を好意的に感じるようになった人はあまりないように思うし、まして被告の主張はひょっとしたら正しいのかもと思った人もほとんどいないのではないか。

それと、この本を読んで感じるのは、取材に応じてくれない人、被告の父親や被告の弁護人たちにやたら厳しい。
被告の父親や弁護人にアポなし取材をし、突然の電話でのやりとりをそのまま文章化して本に載せている。
ちゃんと承諾を得ているのだろうか。
そんなものを本に載せられたら誰だって気を悪くする。
なのに取材に応じない相手を非難する。
そこらはすごく自分勝手だと感じた。
被告の死刑回避を願うのなら、弁護団への非難はほどほどにすべきではないかと思う。

私がこの本を読もうと思ったのは、「不謹慎な手紙」の相手であるA君へのインタビューが載っているからである。
「不謹慎な手紙」の中には反省の言葉がつづられているし、二人のやりとりの多くはテレビゲームやマンガ、家族のことや下ネタなど他愛もない話題だそうだ。
ところが、この「不謹慎な手紙」の不謹慎な部分だけをマスコミによって何度も取り上げられ、被告は世間から罵倒され、その結果として死刑判決が出たと言ってもいい。

A君が被告と知り合ったのは山口刑務所の拘置監である。
窓越しに会話をして名前を教えてもらい、A君が手紙を出したことから文通が始まる。
ところがA君は手紙を検察に提出する。
なぜか。
「出所してしばらく経ったころ、自宅に僕が起こした傷害事件の担当刑事と、光市母子殺害事件を担当する刑事が訪ねてきました。『最近どうだ』『ちゃんと仕事しているのか』というひととおりの挨拶が終わったところで、本題が切り出されました。『ところでお前、光市の事件の犯人と文通しとるのう。検察側から要望がきとる。1点の真実でいいから、判断材料がほしい。本当に公正な裁判が行なわれるために、出してくれ』と。
刑事は『犯人を死刑にするために』なんて言いません。僕は子どものことから警察と折衝してきましたから、警察のもの言いはだいたいわかっています。『建前だな』と思いました。刑事たちは福田君からの手紙を絶対に持って帰るという感じでした。僕は当時、まだ執行猶予中で、断ればどんな微罪をふっかけられて逮捕されるかわからない。逮捕されれば執行猶予は取り消され、刑務所送りです。断れませんでした」

脅されて手紙を提出したものの、それが被告にとって不利な証拠になるとは予想していなかったという。

では、「週刊新潮」に手紙を売ったのはなぜか。
「『週刊新潮』の取材に応じた当時、僕はいちばんの親友を交通事故で亡くしたばかりでした。事故のとき、親友と僕は同じクルマに乗っていました。そういう状況に遭遇して、精神的にかなり不安定になり、『なんの罪もないオレの親友が死んで、なぜ福田君は生きているのか。2人も殺しているのに。こんなヤツはもうマスコミに売っちまえ』と思ったんです」

検察に手紙を提出したあとのA君の手紙は事件に関する記述がエスカレートする。
「A君自身が福田君から不利になる言質をとるために福田君をあおりたて、返ってきた手紙を嬉々として検察に提出していたのではないかとも思えるほどだ」と増田美智子氏は言う。
それに対してA君は「決してあおりたてたつもりはありません。僕が手紙に書く内容を、警察や検察に指示されたわけでもありません」と答えているが、増田美智子氏はこの答えに納得ができない。
そんなふうに友人を試すものだろうか、被告は他人の影響を受けやすい、他人に媚びるところがある、と考える。
それで、「Aさんが、無意識のうちに検察が求めているような手紙を書いてしまったことはありませんか? 何度も同じ検察官に会うわけですから、親近感もわいてくるでしょうし、検察官の言外の意図をくみ取るということもありそうに思うのですが、いかがでしょうか」と手紙を書くが、返事は返ってこなかった。
怪しいなと思う。

今枝仁弁護士が『福田君を殺して何になる』の解説を書いている。
その中で、最高裁が差し戻し審理を求めた意味を考えるべきであると今枝仁弁護士は言う。
「(最高裁の差し戻し判決は)重罰化の流れとひとくくりにはできない。最高裁は「事件後の事情」を重視して判断しており、特殊な事案と見るべきだ」
「事件後の事情」とは、
①「不謹慎な手紙」に代表されるF君の反省や謝罪の姿勢の欠如
②被害者遺族の本村洋さんが峻烈な処罰感情を訴え続けたこと
が挙げられる。
「F君の現在の言葉から反省や謝罪の度合いをはかり、それを聞いた本村さんら遺族言葉から処罰感情の変化を見る、という展開を最高裁は想定していたと思う」
ところが、差し戻し控訴審で弁護団は被告の強姦目的や殺意を否認することに全力をあげた。
「つまり、F君の言葉や態度しだいで、死刑回避はありえたということだ」
被告がいくら反省し、謝罪しても、最高裁が差し戻しした時点で死刑回避なんてことがあり得ないこと素人の私でもわかる。
増田美智子氏も「マスコミも世論も、福田君に「真の反省」を求める。しかし、「真の反省」とはいったい何なのか。福田君に、人間的な感情を持つことを許さず、ひたすら謝罪の言葉を述べさせることだとしたら、それはだいぶ違うと思う」と書いている。
どういう反省をすれば死刑が回避されたと今枝仁弁護士は思っているのだろうか。

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キリスト教はどうしてローマ帝国の国教となったのか

2010年02月05日 | キリスト教

キリスト教やイスラム教がどうして世界宗教になったのか、不思議に思う。
タイムマシンに乗って教父を何人か殺したとしても、キリスト教はやはりヨーロッパ全体に広まっただろうか。

ローマ帝国はキリスト教を弾圧したと思われがちだが、多神教のローマ人は宗教に極めて寛容であり、不寛容なのはキリスト教のほうだということは、J・B・ビュアリ『思想の自由の歴史』に詳しく書かれてある。
キリスト教は自らの不寛容さのために弾圧されるようになったのだが、それにもかかわらずローマ帝国のキリスト教勢力が強大になった要因は何か。

塩野七生『ローマ人の物語ⅩⅡ 迷走する帝国』にその要因が紹介されている。
まず『ローマ帝国衰亡史』のギボンである。
1,断固として、一神教で通したこと。
2,魂の不滅に象徴される、未来の生を保証する教理を打ち立てたこと。
3,初期キリスト教会の指導者たちが行ったとされている奇跡の数々。
4,すでにキリスト教に帰依していた人々の、純粋で禁欲的な生き方。
5,規律と団結が特色のキリスト教徒のコミュニティが、時代が進むにつれて独立した社会を構成するようになり、そのキリスト教徒の社会がローマ帝国の内部で、国家の中の国家になっていったこと。

そしてドッズ教授の説。
1,キリスト教そのものがもつ、絶対的な排他性。
2,キリスト教は、誰に対しても開かれていたこと。
3,人々に希望を与えるのに、成功したこと。
4,キリスト教に帰依することが、現実の生活でも利益をもたらしていたこと。

両者の説の詳しい説明は省きます。

塩野七生説です。
ローマ人は現世的であったのに、ローマ帝国の衰退とともに希望を失ってしまった。
「ローマ帝国も三世紀後半になると、帝国内に住む人々に対して、「平和」を与えることができなくなったがゆえに、「希望」も与えられなくなってしまったのだ」
「(五賢帝までの時代の)ローマ人には、アイデンティティ・クライシスは存在しなかったのである。なぜわれわれは生きているのか、という問いには、自信をもって答えることができたのであった。それが、三世紀には、答えられなくなってしまったのだ。(略)一般の人々が直面していたのは、死後や将来への不安よりもまず先に、知的で生活にも恵まれた人ならば味わう必要のない、現に眼の前にある欠乏と不安であった」

外敵の来襲、たび重なる課税、経済の停滞、社会福祉の弱体などなどの結果として、ローマ人は希望を喪失したのである。
「キリスト教の勝利の原因は、実はただ単に、ローマ側の弱体化と疲弊化にあったのである」

ローマ帝国とキリスト教の抗争にとってのとどめの一撃が、ローマの神々とキリスト教の神の性質のちがいだと、塩野七生氏は言う。
「キリスト教の神は人間に、生きる道を指し示す神である。一方、ローマの神々は、生きる道を自分で見つける人間を、かたわらにあって助ける神々である。絶対神と守護神のちがいとしてもよい。しかし、このちがいが、自分の生き方への確たる自信を失いつつある時代に生まれてしまった人々にとっては、大きな意味をもってくることになったのだ」
「他者の信ずる神まで認めることが信仰の真の姿だるとする考えに慣れていたローマ人にさえも、キリストの教えが魅力的に映るようになったのは、ローマの神々の立場が弱くなり、神々も疲れ、それゆえ自分たちを守ってくれる力がなくなったと人々が感じたからだと思う」

希望を失った人にとっては、自分の行動を自分の責任で選ぶよりも、超越的存在の命令に従うことを好むということなのかもしれない。
「キリスト教がその後も長きにわたって勢力をもちつづけているのは、いつまでたっても人間世界から悲惨と絶望を追放することができないからである」
だからローマ帝国全盛期のローマ人にはキリストの教えは必要なかった、と塩野七生氏は書く。

塩野説に従うなら、先行き不透明の現代において、アメリカではキリスト教福音派の信者が増えていること、イスラム国家で原理主義が大きな勢力となっていることは、ローマ帝国でキリスト教が国教となったことと無関係ではないかもしれない。
上坂昇『神の国アメリカの論理』によると、リベラルなプロテスタント主流派教会の多くは所属教会員数が減っている。
その一方で福音派は信者を増やし、
「毎週の礼拝参加者が一万人を超える教会をギガ・チャーチとしている。従来のメガ・チャーチは2000人以上とされる。アメリカの教会トップ100のうち、ギガ・チャーチに入るのは35もある」そうだ。
聖書の神話的記述を現代に生かすためにどう解釈するかなんて面倒なことよりも、原理主義者となってすべて文字通りの真実だと信じこむほうが楽なことはたしかだ。
といっても、自分の都合よくということだが。

たとえばイスラエルとアラブとの争いだが、アブラハムは神との契約で「カナンのすべての土地を、あなたとあなたの子孫に、永久の所有地として与える」(「創世記」)と言われた。
アブラハムには子供がなかったので召使との間に生まれたのがイシュマエル。その後、妻はイサクを生む。イサクの子孫がユダヤ人であり、イシュマエルの子孫がアラブ人である。
どちらも神から与えられた土地だとして自己の正統性を主張する。

地球温暖化についても、上坂昇氏によると、地球の平均気温が上昇していることを示す明確な証拠があるとアメリカ人の8割が認め、地球温暖化が深刻な問題だと考える人も8割。
しかし、白人エバンジェリカル(福音派)は「温暖化のたしかな証拠がある」は70%だが、「温暖化は人間活動の結果」と考える人は37%にすぎない。
聖書は不謬だと言いながら、自分の都合のいいように解釈しているにすぎないと異教徒の私は感じる。

で、イスラム教だが、どうして連戦連勝して、あっという間に世界帝国になったのか、そしてマレーシアやインドネシアといった中近東とはまったく異なる風土でも受け入れられたのか、そこらも不思議です。

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もしも子どもがカルトに入ったなら

2010年02月02日 | 問題のある考え

子どもがカルトに入信したらどうすればいいのか。
ダルク家族会の方の話を聞いて、カルトと薬物依存は対処の仕方が同じかもしれないと思った。
子どもが覚醒剤をやっていると知ったら、親としてはとにかくやめさせようとするだろう。
しかし家族会の方が、親子夫婦でも他人だ、他人は変えられない、子どもは子ども、私は私、と言われたのにはいささか驚いた。
子どもの回復ではなく、自分自身の回復なんだ。
自分が回復したからといって子どもが薬物をやめるかどうかはわからない。
そして、尻ぬぐいはしないのが基本で、本人がサラ金で借金をして請求されても代わりに払うことはしないし、交通事故を起こしたり窃盗で逮捕されても後始末を肩代わりしない。
そういった話を聞いて、そりゃ薄情じゃないかとまず思った。
親としての責任はどうなのか、子どもの不始末を処理するのは親のつとめじゃないかと。
だけど、話を聞く中で、人をコントロールすることはできないことに気づかされた。

自助グループ(薬物依存に限らない)ではラインホルド・ニーバー「平安の祈り」を大切にする。
神様 私にお与えください
自分に変えられないものを 受け入れる落ち着きを
変えられるものは 変えてゆく勇気を
そして二つのものを 見分ける賢さを

他人は変えられないが、自分の考えや物事の受け止め方、対応の仕方は変えることができる。

そして、フレデリック・パールズの「ゲシュタルトの祈り」
(訳は二種類あるらしい)。
私は私 あなたはあなた
私は私のことをする
あなたはあなたのことをする
私はあなたの期待にこたえるために
この世に生きているわけではない
あなたは私の期待にこたえるために
この世に生きているわけでない
あなたはあなた 私は私
偶然ふたりが出会えば それはすばらしいこと
出会わなければ仕方のないこと
どの自助グループでもこの「平安の祈り」と「ゲシュタルトの祈り」を勉強していくんだそうだ。

人を救うことができるのかということは『歎異抄』第4章、第5章の、そして他者を私物化するということは『歎異抄』第6章の問題である。
「私はあなたの期待にこたえるためにこの世に生きているわけではない」という一節は子どもから言われたようできつい。

じゃあ、何もせずにほっておくのかというと、そうではない。
「愛情をもって手を放す」という言葉がある。
愛情はなくならないし、絆は切れない。
だけども境界を引く。
それが尻ぬぐいは一切しないということである。
「本人が気づくために家族のできることがあるかというと、モノとお金を与えない、相談には必ずのる、それぐらいですかね」
「そんなことを言いますと、親御さんたちは「悪くなるまでただ見守っているだけですか」と言われます。現実はそれに近いですね。それほどこの病気は簡単じゃない。ほんと簡単じゃないんですよ。1年2年じゃない、10年単位のレベルですから、腹くくってかからないと」

カルトへの入信でも同じだと思う。
無理矢理やめさせようとするのは逆効果(イネイブラー)であり、「愛情をもって手を放す」ことだけが家族にできることだろうと思う。
そういえばホームレス支援をしている人の話だと、本人の気持ちを尊重することが大切だという。
たとえば、アパートを借りて生活保護を受けることが多いのだが、それはいやだと言う人には決して無理強いしない。
私だったら、せっかく親切に言ってるのにと気を悪くするにちがいない。
私は今まで妻や子どもをコントロールしてきたし、今もコントロールしようとしている。
ところが、子どもが小さいうちはともかく、大きくなればコントロールされることをいやがる。
そこでケンカになるわけである。
子どもが洗礼を受けたいと言い出したら、私は烈火の如く怒り、いつまでもぐだぐだと言い続けるだろう。
いやはや。

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