三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(12)

2024年03月27日 | 死刑
⑭ 死刑は誰のためにあるのか
「死刑囚表現展」のアンートに「死刑は誰のためにあるのか」と問題提起するものがありました。
被害者や遺族のためというより、復讐が善だと考える第三者のためにあるように思います。

宮下洋一さんの死刑についての考えが『死刑のある国で生きる』に書かれています。
欧米人が死刑を廃止できたのは、人権という理想が、「赦し」という宗教的価値観に支えられているからではないのか。日本人の大半は、凶悪殺人犯を「赦す」ための信仰心は、備えていないように思える。
加害者をゆるすキリスト教文化圏の欧米とは日本は文化が違うということでしょうか。

バド・ウェルチさんとジョニー・カーターさんが加害者をゆるし、死刑に反対するのはキリスト教の影響が大きいと思います。
だからといって、恨みや憎しみを忘れずに敵討ちをすることが日本の文化ではありません。
菊池寛『恩讐の彼方に』に感動するわけですから。

イスラム教国の多くは死刑制度があります。
しかし、マレーシア(イスラム教が64%、キリスト教が9%)では2018年以来、死刑を執行されていません。
しかも2023年には、マレーシアの下院は殺人やテロを含む11の犯罪に必ず死刑を適用してきた強制死刑制度を撤廃する法案を可決しました。
死刑の存廃は文化、宗教で決まるわけではありません。

また、加害者に怒りや憎しみを持つことと、死刑を望まないことは矛盾しません。
平野啓一郎『死刑について』にこうあります。
もし僕の家族が犯罪によって殺されるようなことがあったら、僕は犯人を一生ゆるさないかもしれない。でも、僕は死刑を求めません。これらは両立可能なのです。

犯罪被害者が死刑を求めないからといって、犯人をゆるしたと考えるのは短絡的。
逆に、犯人をゆるせないなら、死刑を求めて当然だと考えるのも同じ。
どちらも被害者に勝手な思い込みを押し付けている。
怒りや恨みという感情と、死刑制度の是非は分けて考えるべきだと思います。

ところが、被害者が怒り、恨み、憎しみを持つのは当然だと考える人がいます。
平野啓一郎さんもこう語っています。
私たちは、被害者の感情を、ただ犯人への憎しみという一点だけに単純化して、憎しみを通じてだけ、被害者と連帯しようとしているのではないでしょうか?。

社会は、被害者は加害者を憎んで当然であり、憎まなければならないと思い込んでいる。
だから、被害者遺族が死刑を望んでいないと話すと、「身内が殺されたのに相手が憎くないのか」「愛する人が殺されたのに、死刑を望まないなんておかしい」「あなたは亡くなった人に対する思いが薄いんじゃないか」などと非難する人がいる。
そのため、ゆるすという形で苦しみを終わらせたいと思っている人が、苦しみを終わらせることができなくなってしまう。

犯人をゆるすなんて信じられないという人は、憎しみは理解できるから共感するが、ゆるしはわからないと突き放すのか。
偽善であり、本心じゃないはずだと批判するのか。

死刑に反対する被害者遺族の原田正治さんは非難されたことがあるそうです。
「良い被害者」と「悪い被害者」とがあるんです。仏壇に手を合わせ、冥福を祈り、黙って悲しみに耐えていく犯罪被害者が「良い被害者」なんです。「悪い被害者」というのは、表に出て、声を出し、国に文句を言い、自分の主張していく人です。さしずめ僕なんか悪い被害者なんでしょうね。僕みたいに声を出す被害者は異常なんです。直接面と向かって言われたこともありました。

平野啓一郎さんはこう問います。
もし、皆さんが殺されて、あの世から残された家族を見守っているとします。その時、家族の周りにただ、犯人への憎しみにだけ共感する人たちが集まり寄っている様が見えたとして、それは本当に喜ばしいことでしょうか?

「被害者の気持ちを考えたことがあるのか」と言う人は、「憎しみ」の部分にしか興味がなく、それ以外の部分で被害者の悲しみをどう癒やすかにはコミットしようとしない。

社会が被害者の抱えている憎しみ以外の複雑で繊細な思いを無視して被害者とかかわろうとするのなら、被害者と社会との接点は憎しみの一点だけになってしまう。
被害者は憎しみだけに拘束されるとしたら、それはあまりに残酷なことではないか。
手助けをしてくれる人たちが気づかってくれるなら、それは憎しみの連帯よりも望ましい。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(11)

2024年03月23日 | 死刑
⑬ 遺族の恨み、怒り、憎しみ

光市事件の遺族である本村洋さんはこう書いています。
犯人に対する怒り、憎しみを抱き続けて生きていくことを改めて心に誓ったのです。(「週刊新潮」1999年9月)

しかし、怒り、憎しみ、恨みを抱え続けることはしんどいものです。
怒ってもすっきりしないどころか、逆に後悔の念にかられることもあります。
それはわかっていても、怒りや恨みを手放すことが困難だからこそ、恨みや怒りを手放すための支援が必要だと思います。

平野啓一郎さんも『死刑について』にそのことを語っています。
復讐心を抱いて、相手を憎み続けるというのは、際限もなく生のエネルギーを消耗させます。被害者を、その人生の喜びから遠ざけてしまうことになります。

連邦ビル爆破事件で娘を失ったバド・ウェルチさんはこのように語っています。
怒りや憎しみ、復讐の気持ちを持ったままでは、癒しのプロセスには入れません。癒しに入るためには、それを越えなければいけないのです。なぜそう言えるのか。私もその道を通ってきたからです。ですから、まだ数家族の人たちが怒りや憎しみ、復讐の気持ちにとらわれていることは、とても悲しいことです。(「死刑を止めよう」宗教者ネットワーク第10回死刑廃止セミナー講義録)

娘の死によって死刑賛成に気持ちが傾いたバド・ウェルチさんがが、再び死刑に反対するようになったのは、主犯のティモシー・マクヴェイが犯行に至った動機を考えたからだと、布施勇如「米国の犯罪被害者支援―新聞記者の視点から」にあります。
湾岸戦争に出征したティモシー・マクヴェイは心に深い傷を受け、政府を恨んだことが連邦ビル爆破事件の大きな動機になっている。

バド・ウェルチさんは最終的にこういう考えに至ります。
マクヴェイを死刑に追いやることは、彼が娘のジュリーら168人を殺した理由と同じ、復讐と憎しみから死刑に追いやることになる。つまり、因果応報と怒りというのは、人を悪の行動に駆り立てるだけだ。

もう一つ大きな契機はティモシー・マクヴェイの父と妹に会ったことです。
テレビに映った父親の陰鬱な表情を見て、「彼も同じ犠牲者の一人なんだ。息子の犯行によって、心の傷を受けている」と感じた。
「マクヴェイのお父さんは毎朝起きると、自分の息子だけでなく、ジュリーと167人の犠牲者のことがまず頭に浮かぶに違いない。とすれば、一人の娘を失った自分以上の被害者じゃないか」と考えるに至った。

爆破事件の3年半後、バド・ウェルチさんはマクヴェイの父と妹を訪ね、3人で肩を寄せて泣きじゃくった。
そして、「僕ら3人は同じ気持ちだよ。君のお兄さんを死なせたくはない。そのためにできることは何でもするから」と言った。
バド・ウェルチさんは「この時ほど自分が神のそばに引き寄せられたと感じた瞬間はない」と思った。

1990年、ジョニー・カーターさんの孫娘キャサリン(7歳)は性的暴行を受けた後に刺殺されました。
犯人のフロイド・メドロック(19歳)を「この手であの男を絞め殺してやりたい」と思った。

ところが、その年の暮れから2ヵ月間、放射線治療のため入院生活を送る中で命について深く考え、そのうち変化が起き始めた。
そして、足が遠のいていた教会に再び通い、孫娘の命を奪った男への「ゆるし」ということについて、牧師と対話を重ねた。
あらためて気づいたのは、「物事には全て両面がある」ということ。

フロイド・メドロックは幼少時代、性的・精神的に家族らの虐待を受け、高校を中退し、友だちもほとんどいなかった。
家庭環境とか教育環境はフロイド・メドロックが自分の意思で選んだものじゃない。

ジョニーさんは「彼に対する怒りにさいなまれて生きていくよりは、彼をゆるして、多くの人が知らない彼の内面を理解しよう」と思うようになりました。死刑よりは仮出所なしの終身刑を望むようになり、地元の死刑反対グループに参加し、メドロックと文通を始めました。

入江杏さんは中谷加代子さんにゆるしについて質問しています。(「刑事司法と被害者遺族」)
『ゆるし』は加害者のためというより、『被害者』のためにある、と私は思うのです。もし私が、更生教育の一端を担えるなら、加害者の中の被害性に呼びかけるしか、できない気がします。

中谷加代子さんの返事。
被害者から加害者に対しての『赦し』は、こだわりを持っている被害者がそれを手放すことが出来れば、救われるのは『被害者』。また、同じことが加害者にも言えると思います。加害者が、事件を起こしてしまった自分を赦せるかどうか。これを赦すことができる最後の一人は、きっと加害者本人だと。被害者からの赦しは、加害者の力にはなるけれど、それが全てではないと思っています。
https://www.crimeinfo.jp/wp-content/uploads/2018/09/07.pdf

平野啓一郎さんは、憎しみにのみ共感を示すのではなく、それ以外の部分で被害者をサポートしていくことで、被害者の気持ちに寄り添っていくことが可能なのではないかと言います。
子どもたちが父親を殺された恨みを抱えながら、人生の大半の時間を費やして生きていく姿を見たとしたら、僕は彼らに「一度しかない人生だし、もっとほかのことに時間を使ったほうがいいよ」と声をかけてあげたいと思います。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(10)

2024年03月18日 | 死刑
⑪ 死刑執行と気持ちの区切り

死刑執行が遺族にとっての慰めや癒やし、あるいは気持ちの区切りになるでしょうか。

平野啓一郎『死刑について』は否定します。
社会は勝手に、遺族は死刑にならないことには収まりがつかないし、死刑になったらそれで一つ区切りがつくと考えて、犯人が死刑宣告を受けて死刑にされたら、途端に遺族のことはすっかり忘れてしまいます。しかし、実はその時にこそ、遺族は社会の中で最も孤独を感じているかもしれない。加害者を憎むということにおいてのみ被害者の側に立った人たちは、加害者に死刑が執行された途端に、被害者への興味を一切失ってしまいます。

加害者が死亡すれば、恨みや怒り、悲しみが消えるのかというと、そうは思えません。
大山友之さん(坂本都子さんの父親)は「殺してやりたいと自分の中で何度も言ってきた。死刑執行は当たり前と本当は言いたいけれど、良かったという思いはない」と語り、強盗殺人で妻を失った方は「死刑になったら、そこで相手の苦しみはなくなるし、我々も空虚になるだけですよね」と話しています。

布施勇如「米国の犯罪被害者支援―新聞記者の視点から」に、孫娘を殺されたジョニー・カーターさんへのインタビューが書かれています。
ジョニー・カーターさんにメドロックの死刑執行によって区切りがついたのかどうかと尋ねますと、「たしかに私はメドロックをゆるしはした。だけれども、事件や悲しみを決して忘れることはできない。死刑によって区切りがつくなんて、私には想像できない」と言っています。

名古屋の闇サイト殺人事件では、1人が死刑(すでに執行)、2人が無期懲役となり、無期の1人は他の事件で死刑になりました。
娘さんを殺された磯谷富美子さんはこのように語っています。
事件は忘れたくても、大切な娘を失った悲しみは、時間の経過に関係なく、薄れる事も無くなることもありません。深い悲しみに形を変えるだけです。一日たりとも、涙を流さぬ日はありません。だからといって、泣いてばかりでも、憎しみに満ちた生活を送っている訳でもありません。表向きは、ここにいらっしゃる皆様と同じように過ごしています。でも、二度と幸せを感じる事はありません。(入江杏「刑事司法と被害者遺族」)
この喪失感を死刑執行で埋めることはできないと思います。

⑫ 遺族へのケア

弟さんを殺された原田正治さんは被害者への支援を訴えています。
被害者は平穏な生活の中から、加害者やその家族と一緒にがけの下に突き落とされる。で、「助けてくれ」と、がけの上に向かって声をあげる。ところが、「死刑は当たり前なんだ。なくちゃいけない」と言う人たちは、誰一人として下にいる我々に手を差し伸べてくれない。手を差し伸べようとする感覚さえない。そして、加害者を死刑にして、これで終わったと思っている。我々はがけの下に放り出されたまま。

日本では被害者に対するケアが不十分だと、平野啓一郎さんは『死刑について』で批判しています。
被害者がほとんど社会からケアされていない状況では、「死刑制度は反対」とか「加害者にも人権がある」という声に、社会は非常に強く反発します。「被害に遭った人たちはあんなにかわいそうな目に遭っているのに、なんで加害者の人権が守られなきゃいけないんだ」と。僕はこの反応は、ある意味では一理あると思います。しかし、よく考えてください。被害者のケアを怠っているのは、国だけじゃありません。「準当事者」である僕たちですよ。僕たちは、ニュースで見た犯罪被害者のために、一体、何をしているのでしょうか?。
犯罪被害者は犯罪に巻き込まれたうえ、社会からも置き去りにされている現実がある。
傷ついた人たちを受け入れていくという意思を社会が明確に示し、生きていく上で困らない金銭的、精神的、現実的な支援をすべき。
ところが被害者の気持ちを考えろという世間は、被害者への支援制度改革の要望には無関心である。

金銭面についてですが、家計を支えていた家族が死亡すれば収入がなくなります。
被害者が損害賠償を求めても、加害者が支払った賠償金の割合は、傷害致死で16%、殺人で13.3%、強盗殺人で1.2%。
犯罪被害者給付金の額は320万円~2964万5000円で、年齢や被害者の収入額などから算定され、家族の生計を支えている場合はその人数に応じて加算されるそうです。

青木理さんの話だと、日本は予算が少なくて遺族給付金の平均額は約600万円だが、欧米では数百億円規模の予算を組んでいて、日本とは桁が違うとのことです。
死刑を声高に主張するより、生活面の心配を共有し手助けしてくれる人の存在が重要だと思います。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(9)

2024年03月13日 | 死刑
⑨ 被害者遺族の気持ち

被害者や遺族の思いは複雑で、時間の経過とともに気持ちが変わることがあれば、いつまで経っても変わらない部分もあり、一人ひとりが違うそうです。

絶対に死刑、すぐに処刑してほしい人。
死刑とは言い切れない人。
死刑に反対の人。
死刑を望まない理由もさまざまです。
罪に向き合ってほしいと考える人。
執行で区切りがついた人。
執行で区切りがつかない人。
執行されても許せない人。

家族の中でも考えが違います。
オウム真理教の死刑囚が死刑執行された時の、坂本堤弁護士の家族のコメントです。
坂本ちよさん(坂本堤さんの母親)
私も麻原は死刑になるべき人だとは思うけれど、他方では、たとえ死刑ということであっても、人の命を奪うことは嫌だなあという気持ちもあります。

大山友之さん(坂本都子さんの父親)
殺してやりたいと自分の中で何度も言ってきた。死刑執行は当たり前と本当は言いたいけれど、良かったという思いはない。

大山やいさん(坂本都子さんの母親)
私は死刑を喜ぶ人間ではない。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/574b14ef16537139c29feaf54c6519f0

妹一家4人が殺された入江杏さんは「亡夫もそうでしたが、息子も応報・厳罰派です」と書き、さらに「私は揺れています」とも記しています。
入江杏「刑事司法と被害者遺族」にこうあります。
世間の「被害者遺族はこうあるべき」という「べき論」には違和感を抱いてきた。被害者遺族の中に、憎しみが生きる糧になっている人がいてもいいし、加害者やその家族に寄り添うという考えの人がいてもいい、というのが私の立ち位置だ。刑罰・司法に関して、「厳罰か、修復か」、死刑に関して、「存続か、廃止か」、という二項対立ではなく、柔軟で豊かな論議を望む。
https://www.crimeinfo.jp/wp-content/uploads/2018/09/07.pdf

⑩ 死刑と終身刑

死刑に反対の遺族がおられます。
中谷加代子さんの娘さんは同級生に殺され、加害者は自殺しました。
死刑制度について、私は、「死刑は国家による合法的な殺人」だと考えています。罪を犯してしまった人に必要なのは、向き合い、反省、謝罪、更生、そして本来の自分を生きることであり、そのための時間です。「死刑」は、その贖罪の機会を奪ってしまうことになります。
死刑ではなく、加害者の更生を望んでいるのです。
https://www.crimeinfo.jp/wp-content/uploads/2018/09/07.pdf

終身刑を望む遺族もいます。
仮釈放中の強盗殺人事件のもう一人の被害者遺族への宮下洋一さんのインタビューです。
宮下「もし、遺族の心に平安が訪れないとなると、死刑は何のためにあるのでしょうか」
息子「僕の中では、何も解決しません。西口が死のうが生きようが、母親は帰ってこないわけですからね」
宮下「ならば、死刑でなくとも、仮釈放のない終身刑という考え方もあると思うのですが」
夫「それやったら、まだ分からなくないです。その代わり恩赦がなく、死ぬまで監獄生活。(略)悪い環境の中で一生暮らすなら、いいんやないですか。一瞬にして死刑を受けるよりも、きっと苦しくて、それが死ぬまで続くことを考えればですね」
宮下「酷い殺され方なら、遺族は、何が何でも犯人の死を求めていると思っていたのですが、それは……」
息子「その思いは変わらないですよ。要は犯人が、死ぬ死なんよりも、苦しみを受けろと。それが死刑(の執行)がいつ来るのか分からんという恐怖に慄くのか、一生普通の生活ができないか、どっちのほうが苦しいのかということです」
宮下「苦しむならどんな手段であれ、それを肯定したいということですか」
夫「そうですね。むしろそうですね」
宮下「死んでしまえば、もう相手を苦しませることはできないですよね」
夫「死刑になったら、そこで相手の苦しみはなくなるし、我々も空虚になるだけですよね。(略)死刑をなくすけれど終身刑に置き替える。それやったら考えられんことはないですね」(『死刑のある国で生きる』) 

テキサス大学元教授マリリン・ピーターソンと、ミネソタ大学教授マーク・ウンブライトは、極刑が遺族の感情にどう影響を及ぼすかの研究を行なった。
死刑があるテキサス州と、仮釈放のない終身刑を最高刑とするミネソタ州の遺族を比較している。
調査結果によると、ミネソタ州の遺族のほうが体力的、心理的、行動的に健康であることが分かった。
死刑がある州では、裁判が長引いたり、死刑判決が覆ったりするなどの影響もあり、遺族のストレスが継続する特徴があることを証明した。

日本とアメリカは事情が違いますが、死刑が遺族の負担になることもあるようです。

内閣府による死刑制度に対する世論調査(2019年)によると、仮釈放のない「終身刑」が新たに導入されるならば、死刑を廃止する方がよいと答えた者の割合が35.1%です。
https://survey.gov-online.go.jp/h26/h26-houseido/2-2.html
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(8)

2024年03月06日 | 日記
⑧ 被害者感情と死刑

「死刑囚表現展」のアンケートに「被害者の方のことを考えると廃止とは言い切れません」と書いている人がいます。
死刑制度に反対できない一番の理由は被害者感情だと思います。

自分の家族が殺されても死刑反対と言えるのかと問う人は多いです。
宮下洋一さんがインタビューした川上賢正弁護士はこう言っています。
死刑はよくないとおっしゃるお坊さんには、私は、「もしあなたのご家族が殺害されたとしても、死刑はよくないと言い切れますか」と意地悪な質問をします。すると、大抵のお坊さんは黙ってしまうのです。(『死刑のある国で生きる』)
;
家族が殺されても死刑反対と言えるのかと問われたことがあり、もし自分や家族が加害者になったらと想像してほしいと、私は答えました。
人間は縁によっては何をするかわからないからです。

平野啓一郎さんも同じことを聞かれるそうです。
死刑廃止の立場に立って話をすると、「自分の家族を殺されても犯人をゆるすことができるのか」とよく聞かれます。僕はこれに対しては自信がありません。犯人をゆるすことができないかもしれません。(『死刑について』)
しかし、死刑を求めないということと、犯人をゆるしということは切り離して考えるべき。
犯人をゆるせないなら死刑を求めて当然だということにはならない。

「調和を目指す殺人被害者遺族の会」(事件に巻き込まれて家族を失いながらも、死刑に反対する家族の会)の中心メンバーとして活躍されているバッド・ウェルチさんはこのように語っています。(「死刑を止めよう」宗教者ネットワーク第10回死刑廃止セミナー講義録)

1995年、ティモシー・マクベイがオクラホマシティにある連邦ビルを爆破し、168人が亡くなった。
バド・ウェルチさんはこの事件で娘のジュリーさんを失った。
娘を失った後、酒を飲み過ぎて二日酔い、頭痛という生活が30日間続いた。
私はジュリーが殺されるまで、ずっと死刑反対の信念を持っていました。でも、娘が殺されてから1年間、私は死刑賛成になりました。1年かかってやっと、「このままじゃいけない」という気持ちになったのです。どうしてそう思ったのかというと、処刑の日、二人の犯人を自分の手で処刑台に送ることを想像してみたら、それは自分にとって決して癒しのプロセスにはならない、ということに気がついたのです。犯人を葬りたいという気持ちは、私にとって復讐以外の何ものでもない。この復讐という気持ちこそ、犯人が犯行に及んだ原因だったのです。

事件の6ヵ月後のアンケートでは、被害者家族の85%が死刑に賛成だった。
事件から6年2ヵ月後にマクベイの処刑が行われた時点で、2000人以上の犠牲者家族の50%は死刑反対になった。
ですから、被害者家族として一番大切なのは時間なんです。ある人は2年かかった。他の人は、3年、4年、5年かけて死刑反対になった。6ヵ月の時点ですでに死刑反対だった人も15%いたんです。

当初は死刑を望みながら、次第に悩む人もいます。
小学1年の娘さんを殺された木下建一さんも同じことを言われています。
加害者は無期懲役が確定し、
極刑を主張し続けた建一さんは「あいりのことを思うと、『許せない』という気持ちは強い。しかし、人の命を奪う主張をすることは非常に苦しかった」と、複雑な胸中を明かした。

あいりちゃんの「敵討ち」だと信じていたが、その言葉を口にするたびに重圧を感じていた。
「極刑を主張することは殺すことと同じ。それではヤギ受刑者と同じことになるのではないか」との思いがぬぐえなかった。

差し戻し控訴審の判決後、「あいりに申し訳ない。死刑判決が必ず出されるものと思っていた」と語っている。
それから3カ月余り。「人の命を左右するようなことにかかわらなくなり、非常にほっとしている」との思いが正直な気持ちという」(毎日新聞2010年11月16日)
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/42fad59584941d42c1fcb1209651ff7f

2011年、仮釈放中の男が2件の強盗殺人事件を起こした。
被害男性の姪は裁判で「被告に極刑を望みます」と断言したが、本音は違った。
宮下洋一さんのインタビューです。
姪「心の中では、(加害者が)死ぬからといって何が変わるの、という気持ちでした。でも、その時にはそれしか選べないじゃないですか。償って出てきなさい、なんて言えないじゃないですか」
宮下「望むのは終身刑ですか」
姪「そうですね。でも、今までに悪事を働いて出所してきた人って、実際はどうなんでしょうね。そりゃあ、ちゃんと善人になって帰ってきてほしいですけど。また同じことをするなら、終身刑で全うしてほしいという思いがあります」

加害者を「奴」と呼ぶ。
姪「今日、死ぬのだろうか、毎日、奴が考えていると思うと辛いですよ。たとえ叔父が殺されたとしてもです。どんな殺され方であったとしても、私が極刑と言ったことによって奴が殺されたとしても、私は嬉しくないよね。(略)
極刑と言ったけど、私はそれを望みませんわ。人が人を殺せるなんて、いくら悪いことをした人に対してもできないじゃないですか」

遺族の気持ちは揺らぐものですし、時間の経過とともに変化が生じるようです。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(7)

2024年03月02日 | 死刑
⑦ 加害者の更生

被害者は加害者の更生への努力をどう考えるでしょうか。
加害者が更生するということも、被害者の側にとって本当によいことなのかは、単純には言えないことだと思います。
このように平野啓一郎さんは『死刑について』で語っていますが、加害者の更生を考える遺族もいます。

入江杏「刑事司法と被害者遺族」に、犯罪を犯した人に被害者の経験を伝える人権の翼のメンバーである小森美登里さんと中谷加代子さんの言葉が引用されています。
中谷さんは「(加害者も)幸せになっていい」、小森さんは加害者を「責める」ことなく、常に「寄り添う」、と言う。どうしてそんなことができるのか、なぜ、そんな道を選んだのか、と思う人も多いだろう。

小森美登里さんの長女は高校1年生の時にいじめを受けて自ら命を絶ちました。
死を選ぶ4日前の香澄さんの言葉は、「優しい心が一番大切だよ。その心を持っていない(いじめている)あの子たちの方がかわいそうなんだ。

中谷加代子さんは刑務所や少年院で話をしています。
入江杏さんは中谷加代子さんの話を聞いた感想を書いています。
私は、中谷さんが受刑者の人に語りかける言葉を聞く機会を得た。中谷さんの真摯な姿に感銘を受けた。「事件はなぜ起きたのか。環境や生い立ちがあなたを追い詰めたのかもしれません。」、「苦しかったですね。」、「皆、弱いんだから」。中谷さんが声をかけると、俯き、涙ぐむ受刑者もいた。更生を願わずにはいられなくなるのだ。

中谷加代子さん。
初めて美祢社会復帰促進センターに行ったときは、お話しすることで精一杯でした。現在ほど加害者寄りの感情を持っていたわけではありません。実際に行ってみると、目の前の受刑者は、『どこにでもいそうな』、『普通の人』でした。
矯正教育の末端に参加させてもらって、幸せに蓋をして、それでも生きなくてはならない人がいることを知って、やっぱり、この人たちにきちんと生きてほしいと思いました。(略)
目の前の受刑者に、生き直してほしい。幸せを感じてほしい。100%加害者、100%被害者はいない。人間ってみんな弱いものだし、加害者・被害者と今の立場は違うけど、いつ反対になるかわからない。違わないとこもいっぱいある、と思っています。

中谷加代子さんへの入江杏さんの質問
厳罰・応報、死刑存置へと向かう御遺族がおいでなのに、なぜ、かよちゃんが、『自己肯定感を持ち、自分の人生を主体的に生きることが、本物の反省・心からの謝罪に繋がっていく。』と思い至っていくのか?お聞かせください。

中谷加代子さんの返事
もし、私が加害者だったら、『どうしたら反省や謝罪に至れるか』。私なら、温かい言葉をかけてもらったとき、ゆるしてもらったとき、初めて、相手のことを考える余裕が生まれると思いました。反省する気があっても、強要されたり、責め続けられていたら、心は反省から遠のいて、ひいては自暴自棄になるかも。逆効果だと思う。
私なら、反省できるような状態においてほしいし、教育も受けたいです。『自分が加害者なら』と考えられたら、きっと理解してもらえると思うけど、相手を憎んでいるときは、『自分なら』と考えるのが難しいんでしょうね。

アンケートに「処刑されたら罪をつぐなえなくなる」という感想がありました。
償いについて中谷加代子さんはこう書いています。
奪ってしまった命を償うことは、自分の命を犠牲にしてもできません。償うことができるとしたら、それは、加害者がその後の人生をどう生きるのか、加害者の人生の中にこそ「償い」があると、私は思います。罪を償いたいと思う加害者には、残りの人生を無駄に生きるのではなく、充実して生きてほしいと思います。
https://www.crimeinfo.jp/wp-content/uploads/2018/09/07.pdf
加害者の更生は償いにつながるように思いました。

宮下洋一さんは欧米の人と日本人との違いを言います。
結局、日本人は、欧米人のそれとは異なる正義や道徳の中で暮らしていることになる。だからこそ、西側先進国の流れに合わせて、死刑を廃止することは、たとえ政治的に実現不可能ではなくとも、日本人にとっての正義を根底から揺るがすことになりかねない。
人を殺した人間を死刑にすることが日本人にとっての正義だということでしょうか。

過ちを犯した人間は死をもって償うべきだという価値観について、平野啓一郎さんは反論します。
この価値観においては、死なずに生き続けていることは無責任であり、罪を自覚していない、社会に対して本気で謝罪していないことと受け止められます。

死んでお詫びをするという言葉がありますが、中谷加代子さんの娘さんを殺した加害者は自殺しています。
自殺することがお詫びになるでしょうか。
遺族はそれで気が休まるのでしょうか。
死をもって償うのではなく、どう生きるかが償いにつながるという中谷加代子さんの考えはもっともだと思います。
反省は更生につながらないと意味がありません。
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