三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

犠牲

2006年02月25日 | 日記

今日は息子の大学受験だが、D判定なので、浪人確実という情勢、奇蹟を期待するしかない。
お茶断ちをして願掛けをするように、何かと引き替えに合格という奇蹟をお願いするとしたら、何をするか、と妻に聞いたら、「うーん」としか答えなかった。
私だったら一週間の禁酒だろうか。

A・タルコフスキー『サクリファイス』では、主人公は核戦争が勃発したとテレビで知り、世界を救うために自らを犠牲にしようと思い、自分の家を焼いてしまう。
そのおかげで核戦争はなかったことになり、世界を救うという奇蹟が起こる。
しかし、みんなはそのことを知らないので、家を焼いてしまった主人公は核戦争の妄想を抱いた狂人と思われる。

もっとも、タルコフスキーは説明を一切しないから、この映画を見て、主人公がどうして家を焼くのかさっぱりわからず、あとから説明を読んで、そういうことかと納得した次第です。


何かを犠牲にすれば願いが叶うと、我々はどこかで信じている。

インチキ宗教にだまされる人は、何かのために自分を犠牲にしているのだろうと思う。
たとえば、子供の難病を治すために、家から何から手放して、インチキ宗教に注ぎ込んだという人は珍しくない。
財産を犠牲にすることによって願いを叶えようとするわけで、『サクリファイス』の主人公と同じである。
三島由紀夫も日本のために自らの命を犠牲にしたのかもしれない。

伊藤桂一『静かなノモンハン』は、ノモンハン事件生き残り3名からの聞き取りである。

戦争はまずは勝つのが目的であるが、形勢が不利になったら退却するのが当然である。
ところが、日本軍は降伏はもちろんのこと、撤退すらもなかなか認めなかった。
ノモンハン事件でも、圧倒的に物量に優勢なソ連軍に立ち向かおうとするが、食料や弾薬すらない。
結局のところ、死に場所を求めて、潔く散ろうとする。

戦争のように、みんなのために命を捨てるという犠牲は美しいが、こういう行為は下手をすると死を美化してしまう。

しかし、自らの犠牲の対価として何かを得るということは、宗教の本来とは違う。

グレアム・グリーン『情事の終り』でも、愛人を生き返るなら二度と会わないと神に約束する。
これは取引である。
『サクリファイス』の美しさは、危ういものを秘めた美しさである。

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茨木のり子「苦しみの日々 哀しみの日々」

2006年02月21日 | 

茨木のり子さんが亡くなった。
合掌

「苦しみの日々 哀しみの日々」 茨木のり子

 苦しみの日々
 哀しみの日々
 それはひとを少しは深くするだろう
 わずか五ミリぐらいではあろうけれど

 さなかには心臓も凍結
 息をするのさえ難しいほどだが
 なんとか通り抜けたとき 初めて気付く
 あれはみずからを養うに足る時間であったと

 少しずつ 少しずつ深くなってゆけば
 やがては解るようになるだろう
 人の痛みも 柘榴のような傷口も
 わかったとてどうなるものでもないけれど
 (わからないよりはいいだろう)

 苦しみに負けて
 哀しみにひしがれて
 とげとげのサボテンと化してしまうのは
 ごめんである

 うけとめるしかない
 折々の小さな刺や 病でさえも
 はしゃぎや 浮かれのなかには
 自己省察の要素は皆無なのだから

もう一つ茨木のり子さんの詩です。

 「笑う能力」

 「よろしい
 お前にはまだ笑う能力が残っている
 乏しい能力のひとつとして
 いまわのきわまで保つように」
 はィ 出来ますれば

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袖井林二郎『拝啓マッカーサー元帥様』

2006年02月20日 | 

敗戦後、マッカーサーとGHQにあてて、推定約50万通の投書が送られた。
当時の人口が8000万人だから、莫大な数である。
その手紙を紹介しながら、日本人について考えたのが、袖井林二郎『拝啓マッカーサー元帥様』である。

なぜそんなに多くの手紙が書かれたのか、柚井林二郎はこう言う。

もともと人間は権威によりかかりたがる動物だが、日本人にはその傾向が民族性といっていいほど強い。

これだけ多くの手紙が書かれたのは、よりかかる権威が天皇からマッカーサーに代わっただけでもない。
手紙を書きたくなる親しみがマッカーサーにあると、日本人が感じたからである。

絶対の権限をもったマッカーサーは、日本人の上に高くそびえ立つ存在でありながら、同時に、手紙を送ればそれを読んでくれるという期待を抱かせる親近感をもただよわせていた。

天皇が戦後しばらく地方巡幸したというのは、そうした親近感を天皇に持たせようという意図があったのだろう。
天皇に対しても手紙が書かれたどうか知りたいものである。

多くの手紙はマッカーサーに対する感謝の真情があふれている。

毎日元気で働けるのも全くあなた様の御親切のおかげと心から御礼申し上げます。

あるいは

閣下は実に生きたる救い主の神であると深く感謝致して居ります。

あるいは

昔は私たちは、朝な夕なに天皇陛下の御真影を神様のようにあがめ奉ったものですが、今はマッカーサー元帥のお姿に向かってそう致して居ります。

などなど。

現在の憲法をアメリカの押しつけだと言う人がいるが、しかし、当時の日本人は喜んで押しつけられたのである。
マッカーサーは「東洋人は勝者にへつらい、敗者をさげすむ習性がある」と常に語っていたそうだが、それだけではないと袖井林二郎は言う。

占領のもたらしたものに素直に感謝していた。それが国民感情の最大公約数であったことは確かである。

自由を与えてくれたことへの感謝の気持ちも大きいのではないか。
なにせ、絶対的権力者であるマッカーサーに自由に手紙が書けるのだから。

マッカーサーへの手紙はいろんなお願いをしたものが多い。

マッカーサーを自分の側にひきつける(あるいは自分が身を寄せる)ことができれば、権力と大義名分は相まって勝利は明らかであった。

この指摘は、まさに天皇論そのものである。
というものの、日本をアメリカの属国にしてくれという手紙もあって、これはいくら何でも沼正三『家畜人ヤプー』的じゃないかと思ってしまう。

そういえば、小林信彦の短編に、アメリカ軍の占領が現在まで続いているという設定のものがありました。
読みながら日本人論をあれこれと考えてしまう、そんな本でした。  

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かわいいのがお好き

2006年02月18日 | 映画

ジョー・ライト『プライドと偏見』は、娘二人が玉の輿に乗るというお話。
母親が「娘が美人でよかった」ともらす。
ほんと美人は得だ。
キーラ・ナイトレイ扮する次女は、思ったことをズケズケと言う女である。
ま、映画だから、それもほほえましく見ているわけだが、こういう一言多い女と結婚したら大変だと思う。



「二人は結婚して幸せに暮らしましたとさ」で終わるおとぎ話、本当に二人は幸せになったのだろうか。
シンデレラがサラ金の借金で首が回らなくなったとか、白雪姫がよその王子と不倫したとか、十分ありうる。
「続・プライドと偏見」がもしあれば、当然のことながら夫婦の危機が中心となることだろう。

ロマン・ポランスキー『オリバー・ツイスト』は、孤児のオリバーが幸せになるというお話。

多くの人がオリバーのためになぜか一生懸命につくす。
オリバーを救おうとして殺される人もいるぐらいだ。
なぜならばオリバーがかわいい顔をしているからである。



どちらもいい映画なのだが、美形であるがゆえに幸せになるという物語なわけで、ブ男は一生不幸に生きなければならないということだろうかと、いささかひがんでしまいました。

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村上宣寛『心理テストはウソでした』

2006年02月16日 | 問題のある考え

YG法、内田クレペリン法、そしてかの有名なロールシャッハといった心理テストは性格診断に広く使われている。
ところが、村上宣寛『心理テストはウソでした』によると、いずれも根拠がなくて当てにならない点では血液型性格診断とどっこいどっこいだという。

20年近く前のことだが、カウンセリングスクールを受講したことがある。
心理テストについての講義があり、エゴグラムという心理テストをした。
質問に○、△、×で答える。
で思ったのは、おのれに厳しい人と甘い人とでは結果がかなり違ってくるんじゃないか、ということである。
たとえば、90%以上の人がイエスと答える質問がある。
これらの質問に△や×が多いと、変わり者ということになる。
たとえば、「人生は苦もあり、楽もある」「他人をうらやましく思ったことがある」という質問なら、誰だって○と答えると思う。
「生まれついての悪人はいないと思う」「自分のしたことに責任をもつ」「人の意見を参考にする」だと、△や×の人が増えると思う。
まして「人の幸福を素直に喜ぶ」には×が当然じゃないかと思う。
ところが信じられないことに、これらの質問には90%以上の人がイエスと答えるんだそうな。
他にも、「スポーツや歌を楽しむことができる」という質問があるが、運動神経が鈍くオンチの私は残念ながら×と答えるしかない。
こんなことで「あなたは変人です」と判断されては困る。

内田クレペリン法は中学校の時にやったことがある。

これは一桁の数字が115字、34行あって、1行目から1番目と2番目の数字を足して、答えの下一桁の数字を書き、その作業を続けていくという検査である。
数学的能力を検査するのかと思って一生懸命やったのだが、性格検査だったんですね。
おまけに意味がないとは、ほんと残念でした。

マーティン・ガードナー『奇妙な論理』に、木を描かせて、その絵によって性格などを診断するバウムテストは当てにならないとある。

占いと似たり寄ったりなのだろうか。

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浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』

2006年02月14日 | 

ベストセラーを辛口批評した岡野宏文、豊崎由美『百年の誤読』は、ほとんどの本をめたくそに切り捨てているのに、なぜかイザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』はほめている。
何となく山本七平氏が嫌いな私としては面白くなく、浅見定雄浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』を読んでみた。

いやはや、メッタ切り。
『百年の誤読』には、「とにかく、教養の広さと深さに仰天。知は力なりとはこういうことなんだね」とか、「山本七平と知ってて読んでみても、逆にそのユダヤ理解の深さにビックリしたんです」などとほめまくっている。
ところが浅見定雄氏によれば、山本七平氏は聖書の知識もなければ、ユダヤ教も知らないそうで、『日本とユダヤ人』はトンデモ本である。

しかし、トンデモ本の愛好者は『トンデモ本の世界』を読まないだろうし、妹尾河童『少年H』に感動した人が山中恒、山中典子『間違いだらけの少年H―銃後生活史の研究と手引き』を知らないだろうように、岡野宏文、豊崎由美の両氏は『にせユダヤ人と日本人』を読んでいないに違いない。


山本七平氏は翻訳もしているのだが、ギリシャ語はもちろん英語すらろくろくわかっていないらしい。

で、思い出したのが、私が大学生の時である。
某国立大学教授が書いた本に、プトンという人のチベット史の日本語訳が付録としてついていた。
ところが、できの悪い我々でもわかるような誤訳だらけで、この程度の語学力でこれだけの本をよく書けたもんだと、みんなで感心したことがあった。
今は昔の物語。

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高橋秀実『トラウマの国』

2006年02月12日 | 

高橋秀実『トラウマの国』は、著者があちこち探訪したルポルタージュ。
絶妙なぼやき加減が面白すぎて、作り話じゃないかと思ってしまうのが欠点である。
その中からいくつかご紹介しましょう。

「トラウマへの道」
本来、トラウマとは、生きるか死ぬかというような恐怖に満ちた体験(戦争、災害、事故、犯罪、虐待など)がもたらす心の傷である。
しかし、何によって苦痛を感じるか、恐怖するかは人によって個人差がある。
同じ出来事でも、トラウマになるか否かはその人次第なのである。
そしていつの間にか、トラウマのインフレ状態になってしまった。

高橋秀実氏の説明に、なるほどと思いました。

ネットを見てたら、「トラウマ即時解消方法をお教えします」というサイトがあるのから、トラウマと言っても楽なもんです。
今の自分の「生きづらさ」や「自己否定」といった状態の原因は何かというと、子供のころの心の傷(親がかまってくれなかった、いい子でいようと必死だった、など)がトラウマとなり、本当の自分を生きることができなくなってしまった。
そこで、自分の存在意義を確かめたい、トラウマが何かを見つければ今の自分を克服できる、ということになる。

ところが、高橋秀実はトラウマを思い出せない。

トラウマを自覚できないのは、それだけ抑え込んでいるわけで、トラウマがないことがトラウマがある証拠になる。
だもんで、「トラウマがないことが、トラウマなのよ」と、高橋秀実氏は言われてしまう。
自分探しが「本当のトラウマ」探しになっているという笑い話。

児童虐待のような場合はともかくとして、子供時代のちょっとしたことがトラウマになっている、そのトラウマが諸悪の根源だと決めつけてしまっては、あまりにも安易すぎる。

思うようにいかないことは何にもかもすべてトラウマのせいだ、自分は哀れな被害者だということにしてしまい、結局自分の姿に目をつむってしまいかねない。
私にしても、どうしてこんなに劣等感が強いのか、自分でも不思議なくらいである。
イヤなこと、傷ついたことはたくさんあったし、今でもふと思い出して、うぎゃーと叫んでしまうこともある。
しかし、仮に何かトラウマがあり、それを思い出して受け入れることができたら、私の劣等感が解消し自信満々な人間になれるかというと、そうはいかないだろうと思う。
なぜなら、私は自虐が好きなんだから仕方ない。

「もっとユーモアを―「話し方」の学校」

私は話が下手である。
まず話題に乏しい。
だから何を話したらいいのかわからない。
何を話そうかとあせって、ますます話せなくなる。
話しかけられたら、気の利いた受け答え、座をわかせる巧みな冗談を言わなくてはとあせる。
それでも無理して何かしゃべるのだが、言語不明瞭、意味不明なもんで、白けてしまう。
おまけに最近耳が遠くなってしまい、話しかけられても聞き返すことが多くなった。

そんな私なもんだから、少しでも上手にしゃべれたらと思って、話し方教室に一年間通ったことがある。

早口にならない、ゆっくりしゃべる、「あのう」「ええと」といった言葉は使わない、「~なんで、~というわけで、~」というように長々とした文にせず、「~です。そして~でした」というふうに短くする、などを習った。
しかし、話の上手な人は早口だろうが、あちこちに話が飛ぼうが、面白い。
この話し方教室に来ている人、皆さん結構話がうまい。
なんでわざわざ話し方を学ばなくてはいけないのかと思った。
世の中には、自分は話が下手だ、ユーモアがない、ということに自信を持っている人が多いのだろうか。

他にも、「ふつうの人になりたい―「子供」の作文」(子供たちは疲れている)、「生きる資格―「能力」の時代(資格を取ってもあまり意味がない)」、「お金の気持ち―「地域通貨」の使い道」(地域通貨とはこんなもんか)、「妻の殺意―「夫婦」の事件」と「愛の技法―「セックス」を読む女」(我が家も危ない)、「せわしないスローライフ―「田舎暮らし」の現実」(老後の夢が壊れた)など、読みながら私もぼやきたくなる話題満載です。 

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キネマ旬報ベストテン特集号

2006年02月09日 | 映画

おまちかねの「2005年度キネマ旬報ベストテン」を買う。
定価1600円だが、ほしいのはベストテンの採点表のみ。
しばし、うっとりと眺める。

で、気になったのが、ベストテンを選ぶ際、最近見た映画のほうが点数が高くなるのではないか、ということである。
私にしたって、1月に見た映画のことはよく覚えていない。
年末に封切られた作品が上位に選ばれやすいのではないだろうか。
そこで、調べてみました。

外国映画採点表には156本の作品名があげられている。
左から、月、上映本数、採点表に名前のある映画、ベストテンに選ばれた映画、11位から20位まで、21位から30位までの本数


1月  16本   8本  0本  0本  3本
2月  29本  13本  1本  0本  1本

3月     32本  11本  0本  3本  0本
4月  49本  21本  3本  0本  1本
5月  35本  14本  1本  0本  1本
6月  28本  11本  0本  1本  0本
7月  38本  13本  2本  2本  0本
8月  20本   6本  0本  0本  0本
9月  25本   9本  1本  1本  1本
10月 36本  22本  0本  2本  2本
11月 26本  13本  0本  1本  0本
12月 35本  18本  2本  0本  1本

計  369本 159本 10本 10本 10本

採点表には156本なのに、159本となっているのは、私のミスである。
どこで間違えたかはわからない。

年末封切りの映画が選ばれやすいということは言えると思う。
しかし、ベストテン、そして1位から30位までを見ると、各月から平均して選ばれている。
決して年末が有利ということはない。

バランスがとれているのではないだろうか。 ま、これも毎年調べてみないとはっきりしたことはわからないが。
なにはともあれ、来年のベストテンが楽しみである。

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林博史『BC級戦犯裁判』

2006年02月05日 | 戦争

私は、BC級戦犯裁判は戦犯にとって厳しい裁判であり、ひどく不公平で、冤罪も多い、戦犯はかわいそうだ、と思っていた。
それは橋本忍『私は貝になりたい』(映画のほう)の影響もある。
主人公の二等兵は、上官の命令で米軍兵士の捕虜を処刑することになるが、臆病だったので銃剣で突き刺すことができなかった。
そもそも捕虜はその前に息絶えていたののに、主人公は死刑に処せられてしまう。

ところが、林博史『BC級戦犯裁判』を読み、『私は貝になりたい』の原作を読むと、ところがどっこいでした。
林博史氏はBC級戦犯裁判の持つ数多くの問題点を指摘している。

具体的には、被告の選定が恣意的であったこと、人違いにより罰せられた者が少なくなかったこと、通訳の不適切さ、検察側の証言が一方的に採用されたこと、弁護の機会が十分に与えられなかったこと、日本軍の捕虜になった者が裁判官や検察になり公平でなかったこと、反対尋問なしに宣誓供述書が証拠として採用され被告に著しく不利になったこと、上官の命令に従っただけの下級兵士まで裁かれたこと、その一方では、部下の犯した犯罪について何も知らない上官が責任を取らされたこと、などが挙げられる。


その上で、林博史氏はこう言っている。

日本での議論は、感情的に戦犯裁判を非難するものが多く、残念ながら、冷静な議論ができていない。(略)そしてしばしば戦犯裁判を否定することによって、日本がおこなった侵略戦争とそのなかでの残虐行為の事実すらも否定し、日本(と自己)を正当化しようとする政治的弁論に利用される傾向がある。


たとえば『私は貝になりたい』で二等兵が死刑になっているが、兵長以下の兵で起訴された者は、軍人の戦犯全体のほぼ一割でしかなく、死刑は3%ほどにすぎない。
二等兵の場合、死刑判決が下されたケースはあるが、すべて後に減刑されており死刑が執行された者はいない。

ということで、『私は貝になりたい』は事実をねじ曲げている。
おまけに、『私は貝になりたい』の原作は、加藤哲太郎という戦犯とされて裁判を受けた人が創作した曹長の遺書である。
実話ではないし、主人公は二等兵ではない。

原作者の加藤哲太郎氏がテレビドラマの『私は貝になりたい』を批判したことをどこかで読んだことがあるが、金の問題がこじれてのことかと思っていた。
ところがそうではなく、加藤哲太郎氏は怒っているのは、「思想的追究が不徹底である」、すなわち戦争への反省が薄められ、戦犯が被害者になっているからである。
林博史氏は、戦犯裁判がもし行われなかったら、日本人に対する大規模な報復が起きていたとしても不思議ではないと言う。
それだけひどいことを日本軍はしてきたのだ。

たとえば、シンガポール華僑粛清事件
シンガポールを占領した日本軍は抗日分子を一掃するため、華僑の男子を一斉に処刑し、日本軍が認めた人数でも約5000人が虐殺されている。
この事件では少将と中佐の二名が絞首刑となっているだけである。
ここでもあの辻政信が処刑の企画立案をし、虐殺を指導しているが、うまく逃げている。
結局は要領の悪い者が割を食う結果となるわけだ。
他にも、マレー半島やフィリピンなどでは、百人単位の住民虐殺があちこちで行われている。

そして、日本軍の捕虜になった者のうち28.5%が死亡している。
しかし、捕虜を殺したことで死刑になった兵士はいない。

インドネシアでは、抑留所に収容されていたオランダ人女性ら約35人が強制的に慰安婦にされている。
現地の女性を慰安婦にした例はもっと数多くあるのだが、ほとんど問題にされていない。
慰安婦問題について、あれは売春婦だと言う人がいるが、強制的に慰安婦にされた人がちゃんといる。

林博史氏は、

戦犯裁判に問題があったことはその通りであるが、それを批判するときに、日本軍の残虐行為の犠牲になった人々、そのために生活やその後の人生を徹底して破壊されてしまった人々の悲しみや怒りを真摯に受け止めなければならないだろう。そうでない裁判批判は、アジアの被害者にとっては加害者の責任逃れとしか受け止められない。

と言うが、まさにその通り。

被害者の痛みを自らの痛みとして想像できるなら、戦争なんだから、あるいは上官に命令されたんだから仕方なかったなどとは言えないはずだ。

戦犯裁判を批判しながらも、加害者であることを忘れないということが林博史氏の立場だろうと思う。
戦犯裁判を考える中で、イラクやアフガニスタンなどで行われていることも新たに見えてくる、そういう視点がこの本にはある。

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青草民人「虚飾」

2006年02月03日 | 青草民人のコラム

マンションやホテルの偽装事件、防衛施設庁の談合事件と、虚飾という文字を絵に書いたような事件が相次いで発覚している。

ライブドアの堀江社長は、華々しく登場し、堀江容疑者となって掃き捨てられるようにテレビの画面から消え去った。
自殺
者三万人時代、勝ち組負け組、フリーターにニート。

不況という暗闇を突破する光のような存在だった堀江氏も、最後はそのブラックホールに飲み込まれてしまった。

高い志と誠意をもって会社を創設し、技術と努力によって信用と利益を得て、国民の平和的、文化的な生活の安定に寄与することが、日本の企業倫理であったと思う。
日本が敗戦後、武器を棄て、経済をもって世界に挑戦し、平和と豊かな暮らしを得てきたことは、一人の国民として誇りに思う。
企業のトップから作業員にいたるまで、はたらく意義と喜びにあふれ、それをはげみに家族を養い、今の日本を作ってきた。

最近のいわゆる郵政民営化からはじまる小泉構造改革路線は、沈滞する不況に風穴をあける核ミサイルだったのだろうが、結果的に放射能をまき散らし、長い間人々を苦しめることとなるやもしれない。

国内の経済が危機に陥ると戦争が起きるという歴史の見方がある。
表面に見える形は違っても、根がつながっているということもある。
日本がどこに向かうのか、危惧する材料が見えたときこそ注意深く世相を見なくてはいけない。

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