三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

犯罪加害者と家族

2009年01月31日 | 厳罰化

被害者参加制度で初の公判 遺族、被告に直接質問
 刑事裁判に被害者や遺族の参加を認める「被害者参加制度」に基づき遺族らが出廷した公判が23日、東京地裁で2件開かれた。裁判の当事者として法廷に入った遺族が被告に実刑を求め、被害者本人が被告に犯行時の状況を直接問いただした。昨年12月にスタートした同制度で、遺族らの公判参加は全国初とみられる。
 1件は、東京都内で昨年8月、トラックを運転中にバイクと衝突し調理師の男性(当時34)を死亡させたとして自動車運転過失致死罪に問われた運転手(66)の初公判。被害者の妻(34)と兄(35)の2人が被害者参加人として検察官の隣席に座った。
 兄が質問に立ち、「なぜ1回しか謝罪に来なかったのか」などと、被告の事故後の対応を追及した。「事故現場で手を合わせたりしたことはありますか」と尋ねると、被告は「仕事で毎日通うので赤信号で止まれば手を合わせる」と供述。この質問の後に裁判官が「車を降りて花を供えたりしたことはあるか」と聞くと、被告は「ないです」と述べた。
(1月23日ニッケイネット)

この事故がどういう状況で起こり、被告がどういう対応をしたのかはわからない。
だが他人事ではない、死亡事故を私も起こすかもしれないのだから。
どういう謝罪をすればいいだろうかと考えたのだが、わからない。
事故現場に花を供えればいいというものでもないと思う。

毎日新聞に、
「男性の兄は被告に「あなたの考える誠意とは何か」と尋ねると、被告は「線香を上げさせていただき謝るしかない」と答えた」
とあり、産経新聞では、
「兄が「あなたが考える誠意とは何ですか」と問いかけると、被告は「ただ謝るしかないと思います」とうつむくだけだった」
とある。
さらに産経新聞は、
「検察側の論告の後、量刑に対する意見を述べるため立ち上がった妻は被告に厳しい視線を向けた。事故後、交通事故の裁判を多く傍聴してきたといい、それらの被告に比べて「あなたのように誠意のない人は初めて」と声を詰まらせた」

誠意とは何か。
人の命を奪ったという事実から目を背けず、ごまかさないということだとは思う。
だけど、それはかなりきついことである。
事故を起こした運転手が腰が抜けて立てなかったとか、事故のあと自殺する人がいると耳にするが、人を死なせたことで頭の中が真っ白になり、自分自身が落ち込んでしまい、被害者のことを考える余裕がなくなる気がする。
遺族に謝るにしても、何を言えばいいか言葉が浮かばない。
「申し訳ございませんでした」と頭を下げるしかないけど、それだけだと「何も言わないのか。誠意がない」と怒られるかもしれない。

これが殺人事件だとどうなるのか。
君塚良一『誰も守ってくれない』は下手なホラー映画よりも怖い。
小学生姉妹殺人事件の容疑者(18歳)の妹(15歳)と、加害者家族をマスコミや世間の中傷から保護する刑事が主人公。
保護といっても、容疑者の家族から供述をとるために自殺させないのが目的である。
突然、警察がやって来て、わからぬままに殺人犯の家族になってしまう怖さ。
このたたみかけるような描写はすごくリアルさを感じる。
妹は刑事に連れられて家から出て行くのだが、マスコミに追われて逃げ、そしてネットでの祭りにさらされる。
記者が「犯罪者の家族が迫害されるのは当然だ」と
東野圭吾『手紙』みたいなことを言う。
じゃ、お前たちに加害者家族を迫害する資格があるのかと言いたくなった。
ラストは何となくほっとするのだが、だけど殺人犯の妹のしんどさはこれからである。

息子を殺されたキース・ケンプさんはこういうことを言っている。
「ある殺害された息子さんの母親が、2~3ヶ月前に私に、「あなたは、殺害された子どもの親と、殺人者の親とではどちらの方がいいですか?」と訊ねました。それは、熟考するのに、実に重たい問いかけです!」(ハワード・ゼア編著『犯罪被害の体験をこえて』)
加害者側も楽ではないと思う。
犯罪者の家族・親族に対する人権侵害を糾弾する」というブログがあった。

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ハワード・ゼア編著『犯罪被害の体験をこえて』

2009年01月28日 | 厳罰化

修復的司法の提唱者として知られるハワード・ゼアが39人の犯罪被害者にインタビューをした『犯罪被害の体験をこえて』は一人でも多くの人に読んでもらいたい本だ、と言いたいところだが、訳が中学生の英文和訳のごとき直訳で、とにかく読みにくい(原文自体がわかりにくいのかもしれないが)。
訳者はあとがきで野谷文昭氏の「良い翻訳では、日本語が原因で引っかかるということはない。逆に日本語で引っかかるところというのは、それが誤訳であるかあるいは、消化されていない」という言葉を紹介している。
ほんと読んでいて引っかかってばかりでした。
たとえば、「あなた」という言葉がよく使われているのだが、これはインタビュアーのハワード・ゼアを指しているのか、不特定多数の人という意味なのかわからない。
58人の終身受刑者が語るという『終身刑を生きる』も読んでみたいのだが、同じ訳者なのでためらってしまう。
それはともかく、本の中身は大変重いが、それだけに教えられることは多い。

第1部は犯罪被害者の写真と語り。
「悲惨な出来事とその心的外傷について語るが、そこで終わらない。彼ら、彼女たちは更に続けて、これらの経験を乗越えて、新たな人生を築き上げるために辿った心の旅路について語り、それぞれの想い、考えを述べる」

いろんな感想があるのだが、「赦し」という言葉について書いてみる。
「赦した」と言っている被害者が何人もいるし、「赦さなければ」と悩んでいる人もいる。
「赦した」とはどういう意味で使っているのか、どうして赦すことができるのか、そのあたりがどうもわからない。
それは神への信仰の中で「赦し」ということが語られるからだと思う。

息子を殺されたドナルド・ヴォーガンさん。
「もし私たちが、私たちの子どもたちに、高潔さの信奉者になり、神を信じ、正しいことをすることを信じて欲しいと願うならば、私たちは、憎しみを断念しなければなりません。私は赦せます、と言えるようにならなければなりません」

母親を殺されたチャールズ・E・ニップさん
「私は献身的なカトリック教徒ですが、神は私に、私は赦さなければならない、と言います。私は、赦すと、頭では決めているのですが、気持ちがついて来ているようには思えません」

赦すことによって怒りや憎悪から離れることができる人がいる。
息子を殺されたコンラット・モアさん。
「神はわたしたちに赦せと命じます。しかし私たちが赦すことについて語り始めると、それは、私たちがその輩を自由の身にしてあげたいからというよりも、主として私たち自身のためでした。私たちは消耗したくありませんでした。そして敵意はとても消耗させます。そこで私たちはこの憎しみと敵意を超えた心の旅路に出ているのです」

赦しは癒しにつながると言う人もいる。
息子が殺されたルイーズ・ウイリアムズさん。
「私が、私は彼ら(加害者)を赦しました、とこだわりなく言えるときに、そのとき私は癒されます。私は、「癒し」という言葉を使うべきかどうかはわかりませんが、彼らがしたことに対して彼らを赦したと私が本当に言えるときには、多分それが、その点からして相応しい言葉なのでしょう」

もちろん「赦せない」と言う人もいる。
妹を殺されたエミー・モクリッキーさん。
「私には、こんなことをした男が赦せません。赦す、赦さないは神の仕事です。私がすることではありません」

「赦し」とはどういうことかわからないと言う人がいる。
レイプされ殺されかけたスーザン・ラッセルさん。
「ときたま私はただ、私が線の上を、それも赦すことと憎悪の間の、じつに微妙な線の上を歩いているように感じます。私には赦すことがどんなものとして想定されているのかまったくわかりません」

いずれにしても、「赦し」ということは神とは無関係ではないらしいのでどうも理解しにくい。
機会があれば神父さんに聞いてみたいと思う。

娘が殺され、犯人が見つかっていないウィルマ・ダークセンさんも「赦しました」と言っている。
娘が殺されるという経験は暗黒の奈落の底に落ちていくようなものだった。
あらゆるものにつかまって踏みとどまろうとしたが、それらの一つが赦しである。
赦しには二段階あるとダークセンさんは言う。
「私の赦しについての考え方は、怒り、苦痛、自己専念、といった事柄から自由になることでした」
生き残り戦略としての赦しである。
2番目の段階は、「赦しという言葉が、被害者と加害者との関係にどのようにあてはまるのかを理解すること」
ダークセンさんは刑務所に行って終身刑者と話をすることを通じて「心の旅路」をたどったという。
「今私は、私には殺人ができるということがわかります。今や私には、その、殺人の願望がどこから来るのかが理解できます。私が私自身の中に見出したものは、人間とはどのようなものなのか、ということについての私の考えを根本的に変えました」

娘を殺されたポーラ・カーランドさんは加害者が死刑になる2週間前に会い、そうして執行に立ち会っている。
1986年に娘が殺され、裁判が終わった瞬間から加害者と会おうと思ったが手がかりがなかった。
1998年に、被害者/加害者調停プログラムに参加しないかと誘われる。そうして加害者と面会するのである。
「わが子を埋葬することに次いで二番目に辛いことでした。それは5時間半続きましたが、人生を変えるような出来事でした。私はすべてを吐き出しました。私は、私が言わなくてはならないと感じたことはすべて言うことができました」
それから、カーランドさんは被害者/加害者プロジェクトに関わるようになる。
刑務所に行き、「私は直ぐに加害者の二人と親密な絆を結びました。彼らは今はどちらも出所しています。そして私は、引き続いて彼らと親しくしています」
「私は去年、刑務所でのこのようなプロジェクトの3つに参加しました。それぞれ開始から終了まで12~14週続きました。そして私は、そこでの加害者のほとんどの人たちと連絡を取っています。それってすごいことではないですか? どうしても言いたいのですが、これらの人たちの間で起きていることは奇跡です。私が現に起きているのを目の当たりにしているのは、これらの加害者に変化をもたらしているということです。それは私にとっては癒しです」

息子を殺されたトーマス・アン・ハインズさんや、レイプされたベニイ・バーンツセンさんたちも刑務所で話をし、受刑者と交流し、そして信仰が深まったと語っている。

第2部でハワード・ゼアが書いていることを私なりにまとめるとこういうことだと思う。
犯罪被害者は世界の秩序が破壊されてしまう。
世界の再生のためには新しい物語が作られる必要がある。
それは回復につながる物語でなければならない。
犯罪被害者は時として自分のせいでこうなったんだと自分を責めることがあるが、これは悪い物語である。
被害者は苦痛を忘れるのではなく、苦痛を表現することが大切。
そのためには、自分の体験を繰り返し何度も語ることで新しい物語が作られていく。
そうして、尊厳を取り戻す。

また、被害者は何が起きたのか、なぜこういうことになったのかを知りたく思っている。
事実を知り、そして正義が行われることを求める。
そのためにも被害者の裁判への参加が必要となる。
「最もよく知られた修復的司法プログラムは、被害者に、彼ら自身の事件の加害者と、あるいは他の類似の犯罪の加害者との、慎重に円滑に進められた出会いを提供している」
あくまでも被害者中心である。
だからといって裁判に被害者が参加して、質問や求刑をするという被害者参加制度に私は賛成できない。
裁判が被害者と加害者の対立、時には敵対の場になるからである。
被害者の心の傷を回復するには裁判とは違った場のほうがいいように思う。

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バーバラ・エーレンライク『捨てられるホワイトカラー』

2009年01月25日 | 

バーバラ・エーレンライクが実際にウエイトレス、清掃婦、ウォルマートの店員として働いた『ニッケル・アンド・ダイムド』を読み、時給7~8ドルで生活する人たちの実態に驚いたものだが、アメリカではホワイトカラーも厳しい状況にあるらしい。
「貧困についてはずいぶん書いてきたから、身動きのとれない苦境に陥った人からの訴えを聞くことはよくある。立ち退き通告が届く。子供が深刻な病気だと診断されたのに、健康保険は期限切れになっている。車が故障して通勤手段がなくなった。こういうのが、慢性的な貧困に陥っている人々を苦しめる、いわば定番の非常事態だ。ところが、驚いたことに、2002年ごろからこの手の話が、かつては中流の立派な地位にいた人々―大学卒業者や中堅のホワイトカラーの職についていた人たち―からもさかんに聞かれるようになったのである」

ホワイトカラーというのは単純労働ではない専門職で、中流以上、年収6万~10万ドルということらしい。
会社は人員削減をすることによって人件費を抑え、利益を上げようとする。
2003年、失業者のうち20%、約160万人がホワイトカラーの専門職にあった人だった。
2004年に行われた管理職を対象とした調査では、95%が今の職場はいつか辞めることになるだろうと予測し、68%は突然に解雇や休業を言い渡されるのではないかと心配していた。
管理職や専門職は生涯に平均で10回から11回仕事を変える。
1995年、非正規就労をしている人は全労働人口の31%。
2004年、次の仕事が決まる前に失業保険を打ち切られた失業者は360万人。
中流から下流へ、まじめに一生懸命働いていた人がウエイター・セールスマン・スーパーの店員など時給7~8ドルの仕事をするはめになる。
中には、不法移民がするような仕事をしている人もいるそうだ。
がんばって働き、高給を取りすぎて経費削減の対象となった人もいる。
「貧窮しているホワイトカラーに、失敗だったと責められるような点は何一つないのだ」
就職活動に一日何時間もとられることはざらなわけで、「低賃金の生き残り仕事の罠にはまったが最後、永久にそこから出られないということも大いにありうる」

会社勤めに代わる仕事としては不動産売買業、フランチャイズによる出店、セールスが主なものらしい。
新参の公認不動産業者は1年目で86%が失敗し、生き残ったとしても、その70%は年収3万ドル以下。
フランチャイズに加盟するには企業名の使用料として1万5千ドルから4万ドルを支払わなければならない。
加盟者の生き残り率は25%、平均年収はおよそ3万ドル。
セールス(委託販売員)のうち年収5万ドルを超えるのは8%、半数以上が1万ドル未満。
実際の収入は新しい販売員を勧誘して初めて生じるという仕組みになっている。

そこで、エーレンライク自身が覆面リポーターとなってホワイトカラーの世界に飛び込み、身をもって問題のありかを探ろうとした。
「計画はしごく単純だ。仕事を見つけること。健康保険に入れて、五万ドルほどの年収が得られて、安定した中流の生活ができるような、最低限ホワイトカラーの職場と言えるいい仕事を見つけること」
「就職活動をするということになれば、当然、ホワイトカラー企業労働者として最も苛酷な状況に置かれてしまった人々、つまり失業者のなかに、自分もその一員として飛び込むことになるわけだ」

ところが、10ヵ月をかけて就職活動を行い、6000ドル以上を使ったにもかかわらず、仕事を見つけることはできなかった。
「私は全力を尽くした。料金を払って複数のコーチを雇い、ネットワーキングと言われる就職情報を交換する交流集会に出席し、エグゼクティブの就職活動研修に参加した。イメージチェンジにも挑戦し」、「長時間コンピュータに取りつき、電話をかけまくる日々を過ごした」
求人広告や求人サイトに応募した会社は200社以上。
ほとんどは不採用の通知も来ない。
面接できたのは2回、保険と化粧品のセールスである。
10ヵ月間就職活動をした間に知り合った就職志願者11人に取材したが、「ほんとう」の仕事を見つけた人は1人もいなかった。
履歴書に空白期間があればダメ。
子育て、病気療養、個人でのコンサルタント業などであれ、いかなる空白も許されない。
というわけで、『捨てられるホワイトカラー』は就職活動報告となってしまった。
もっとも、エーレンライクは1941年生まれ、2003年には62歳なんだから職を見つけることができなくても仕方ないとは思うのだが。

では、エーレンライクはどういう活動をしたのだろうか。
まず就職活動のためのコーチ(3人)につく。
あるコーチは週1回30分の電話によるコーチングで月400ドル。
性格診断テスト(60ドル)を受けたり、履歴書作りに何週間もかけたり。
就職ネットワークのイベント(講師の話、就職志望者の自己紹介、討論やアドバイス、コネ作り、就職情報の交換などをするらしい)やキャンプにも参加する。
まったく仕事にありつけない人たち、仕事はあっても自分が希望するよりはるかにたくさん働かなくてはならない人たち、そして大勢の仲間が解雇されているのだから自分もそろそろクビになるかもしれないと感じている人たちが来ている。

このネットワークやキャンプは就職のきっかけになるというより、自己啓発セミナーというか、集団心理療法みたいなものという感じである。
「あなたの問題はあなた自身だ」
「すべてのことは自分の責任だ」
「前向きな態度は前向きな結果を実現する」

なんてことを言われるのだから。
「不幸のどん底に突き落とされた人に向かって、あなたの問題はすべてあなた自身が作り出したものなんですよ、と言うのは、とてつもなく残酷なことに思える」
「そこから発せられるメッセージは、変わらなければならないのは世間のほうではない、あなたなのだということだ」

そこで、イメージマネジメント(衣装やアクセサリなどの外見をレベルアップしてくれる)は3時間のレッスンで250ドル。
あるセミナーを主催している人から、コネを紹介してほしいなら昨年の年収の4%を前金として払い、なおかつ採用が決まったらその給料の4%も支払わなければならないと言われ、エーレンライクは4000ドル払う。
それから、専門職開発セミナーの受講料800ドル。
アメリカでは職探しが一つの産業となっているわけである。

教会主催の就職セミナーにも参加する。
どうも福音主義の教会らしい。
「一生懸命働いたのにクビになり、次の職場でも同じことを繰り返して、しまいには年齢制限のためにまともな働き口もなくなるというような―努力がたまにしか報われない人生には、これまでより厄介な説明が必要となる。自分の人生をそういう形にしてしまった制度を探してそのせいにするか、でなければ、予測のつかないキャリアの浮き沈みを、絶対的な力を持ち、どこまでも細かいことにこだわる神のせいにするしかないのだ」

よりよいところに就職するためには先立つものがなければだめだということになる。
「就職活動中に出会った人の多くが、一年以上持ちこたえるだけの資金を、就労しているあいだに貯めていた」
ここまでしても結局はダメだったわけである。
「社会の階層を下降するということは、挫折感と、疎外感と、恥辱をもたらすものなのだ」

で思ったのが、困難に直面したり不安になった時に心理療法か教会に足を向けるのが、アメリカ人にとっては当たり前ということなのだろうかということ。
派遣切りどころか正社員切りが言われている日本では、職を失った人、失うのではと不安になっている人はどこに相談をしに行くのか。
神社仏閣を訪れる人はほとんどいないだろう。
精神的危機に対するセイフティーネットも必要なのだが。

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植木雅俊『仏教のなかの男女観』

2009年01月22日 | 仏教

ある席で女性は仏になれないという話になったので、つい知ったかぶりをして、女性が仏になるためには変成男子といって、男に変身してそれから仏になるんだ、それは『法華経』によるとチンポが生えてくることなんだという話をした。
とはいうものの、本当かどうか心配になって植木雅俊訳『法華経』を調べてみた。

文殊菩薩が、8歳になる龍女(龍王の娘)が将来仏になるだろう(「正しく完全な覚りを覚ることができる」)と予言する。
それに対して、智積菩薩は龍王の娘が「正しく完全な覚りを覚ることができるということを、いったい誰が信ずるでしょうか」と疑い、舎利弗はブッダの位に達した女性はいない、
「理由は何か? 女性は、今日まで五つの位に到達したことはないからだ。五つとは何々であるか? 第一はブラフマー神の位、第二はインドラ神の位、第三は大王の位、第四は転輪王の位、第五は不退転の菩薩の位である」と否定する。
すると、「一切世間の人々の眼前において、また長老シャーリプトラの眼前において、女性の性器が消えてなくなり、男性の性器が現われ、そして、サーガラ龍王の娘は、自ら真の菩薩であることをはっきり示した」。
そして龍女は自分が覚った姿や、衆生に説法している姿を示したので、智積菩薩と舎利弗は沈黙してしまった。
というようなことが『法華経』「提婆達多品」に説かれている。

植木雅俊氏は注に
「「女性の性器が消えてなくなり、男性の性器が現われ」という箇所は、「変成男子」と漢訳された。この言葉尻をとらえて、「女性に対する差別」「時代思潮の制約から完全には自由になっていない限界」などといった論評がなされている。ところが、原文の前後を読むと、変成男子は、女性の成仏に必要不可欠な条件として描写されているのではなく、小乗仏教の偏頗な女性観にとらわれた人に、女性の成仏が可能なことを説得するための手段として用いられていることが分かる」
と書いている。

私も仏教は女性差別をしている、その表れが変成男子だと思っていた。
そこで、植木雅俊氏の『仏教のなかの男女観』を読んだみたのだが、これがおもしろい。
フェミニズムからの仏教批判は「仏教という宗教は「女人五障」説のように女性を男性の枠外に「排除」するか、さもなければ「変成男子」のように、女性の性を否定して、男性の性への「一元化」を説いてきたというものである。また、そのような「排除と一元化」の根源は、そもそも「五比丘」から出発した釈尊の原始サンガにあった、との指摘もなされている」
田上太秀博士は「原始仏教には差別はないが、大乗仏教は女性差別の宗教である」と断定している。

しかし、植木雅俊氏は、仏教が女性差別をしているという主張は誤解だと言う。
「女人五障と変成男子について検討してみると、いずれの批判も文章の前後関係や、歴史的背景を無視して一断面のみをとらえた議論というべきものである」
「変成男子という言葉の字面だけから、いとも単純に女性蔑視と決めつけるのは、当時の社会的、思想的時代背景を無視した皮相な見方であり、一面的な偏見と言わざるを得ない」

と言い、多くの経典を引用して
「バラモン教における典型的な女性差別に対して、歴史的人物としての釈尊が女性を全く差別していなかったこと、釈尊滅後になって仏教教団が小乗的(=保守的・権威主義的)になり、在家や女性を差別し始めたこと、そうした情況に対して大乗仏教があらゆる角度から女性の地位向上に向けて奮闘した」
という自説を論証している。

釈尊在世時の教団では、阿羅漢の境地に達した女性の弟子は少なくない。
出家後7日にして覚りに到った女性、在家の女性が釈尊の教えを聞いてその場で不還果に到り、出家後すぐに阿羅漢に到った女性もいる。

ところが、釈尊の滅後、教団は変化する。
1,在家に対する出家の優位
2,女性軽視
3,在家は阿羅漢になれない
4,出家も阿羅漢どまりで仏になれない

釈尊が神格化され、超人化されると、仏になるということがとてつもなく困難なことになっていく。
行はどんどん苦行となっていき、在家が仏になることは不可能になった。
この流れの中で、五障説というバラモン教的なインド社会の差別思想が小乗仏教に導入された。

五障説とは、女性は「帝釈天になれない」「魔王になれない」「梵天王になれない」「転輪王になれない」、そして「仏になれない」ということである。
「五障説は、女性が仏陀になれないということを確定するもので、成仏、智慧の獲得の可能性を全く否定しており、女性の全人格を否定するものであった」

五障のうち、最初の四つはバラモン教で言われていたことで、それに加えて「仏になれない」ということが加えられて仏教に導入されたのは部派分裂後の小乗仏教の時代だという。
「釈尊の平等論も、釈尊の滅後、次第にヒンドゥー社会の女性観が再度浸透し始め、部派仏教の時代、特に小乗仏教と貶称された時代になって女性は仏道修行において能力が劣ったものとされたり、成仏の可能性まで否定されるようになった」

それに対して、異を唱えたのが大乗仏教だった。
「大乗仏教は、その運動の目指すものの一つとして、従来のヒンドゥー教(バラモン教)的な観念の下で形成された女性蔑視の思想―それは小乗仏教の中にも反映されていた―を宗教的にいかに乗り越えるかということに取り組むこととなった。特に、原始仏教のころには存在せず、小乗仏教の時代にヒンドゥー社会の通念を反映して仏教に導入されたこの「三依」と「五障」の両説を克服するために大乗仏教の諸経典は大変な努力を払ったといえよう」

五障説に対する克服の方法は、
1,男女の性差は空にして不二、平等という考え
2,「変成男子説
という二つの観点がある。

空は『首楞厳三昧経』や『維摩経』など、変成男子は『法華経』や『大集経』など大乗経典に説かれている。
男女の区別は本質的なものではないのに執着し、絶対化することが迷いだと空思想は説く。

そして変成男子ということだが、
「変成男子ということに少し疑問が残る人も出てくるのではないだろうか。いったん女性から男性に変じて成仏したということは、最終的に仏に成ると言っているとはいえ、結局、女性を蔑視していることになるのではないだろうか? という疑問である」
と植木雅俊氏は問いを出して、このように答える。

1,妥協的表現
「本来は大乗仏教の中心思想ではない変成男子説によって、小乗仏教の教団も含めて、ヒンドゥー社会からの非難攻撃を避け、その鉾尖をかわそうとしたのではないか」

2,目に見える姿で示した
「女人の成仏を信じようとしないシャーリプトラに対して目に見える形で女人の成仏を見せつけることに、『法華経』の変成男子は意味があったのではないだろうか」
「心理的変化を目に見えるドラマとして視覚的に表現するために、身体的変化という表現方法を用いたものであろう」

初期大乗仏教は、女性を極端に蔑視するインド社会にあって、変成男子という妥協的表現によってであれ、女性が成仏可能であることを主張した。
そして、変成男子は女性が仏に成るための絶対的に必要不可欠の条件とはされていない。
『勝鬘経』では、女性である勝鬘夫人が説者である。
「在家の身で釈尊に代わって法を説き、それを釈尊が承認するという形式を取るにまで至っている。このころには、女性の成仏を主張するのに、女身を男身に転ずることを言う必要がなくなったようである」

『仏教のなかの男女観』の後半では、『法華経』の善男子善女人、一仏乗などについて論じられている。
この部分はそれまでの流れからちょっと脇道になっているように思う。
それと、「大乗仏教の女性の地位回復運動」という傾向の中で「阿弥陀仏の浄土だけはかたくなに女性は一人もいないとされたままだった」と言われると、ちょっと抵抗があります。

植木雅俊氏はジャーナリスト、40歳から東方学院で中村元氏にサンスクリット語を学び、51歳で博士号を取得したという人である。
大したもんだと感心してたら、たまたま読んでいた江原通子氏(大正9年生まれ)の自伝『瓔珞をはずすとき』に、江原氏は40歳をすぎて東洋大学仏教学科に入学、卒業して7年後に修士論文を出したと書かれてあった。
年を取って物忘れがひどくなったと愚痴ってばかりはいられないとは思うけど、そうは言っても…。

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スーザン・A・クランシー『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』4

2009年01月19日 | 問題のある考え

スーザン・A・クランシーは『前世療法』のブライアン・L・ワイスや『アブダクション』のジョン・マックのように、退行催眠で思い出した記憶が実際にあったことだとは考えていない。
しかし、偽の記憶(物語)はその人にとって意味があると評価している。

で、話は飛ぶようだが、池内了『疑似科学入門』では、疑似科学を三種類に分けている。
第一種疑似科学 占い系、超能力・超科学系、「疑似」宗教系
第二種疑似科学 科学の乱用・剽窃・誤用・悪用・盗用に関わる事柄、物品の販売に絡む問題。科学を装う手口、科学用語の濫用(波動、フリーエネルギー、磁気効果、活性酸素、右脳左脳、前頭前野、クラスター水、マイナスイオン、アルカリイオン、ホメオパシーなど)、統計の悪用、確率による騙し
第三種疑似科学 複雑系に関わる問題(地球環境問題、狂牛病、遺伝子組み換え作物など)

宇宙人による誘拐は科学的に実証されているという主張は第一種疑似科学に含まれるだろうし、金儲けのために前世療法をしている某教授や某医師のしていることは第二種疑似科学だし、退行催眠によって失われた記憶がよみがえるということは第三種疑似科学かもしれない。

池内了氏はなぜ疑似科学を批判するのか。
「科学を仕事とする人間として、科学を装った非合理に対して黙ってみておられない場面もある。それによって人生を棒に振ったり、財産を失ったり、果ては命を失ったりする人が多いためだ」
クランシーが「エイリアンに誘拐されたと信じるようになるのかを気にかけなくてはいけない理由」としてあげている二番目の理由「奇妙なことを信じていると、その人にとってよくないかもしれない。なんでも信じるおめでたい人はペテン師に簡単に食い物にされてしまう危険がある」と同じ。
もっともクランシーはスピリチュアルに寛容的なようだが。

そして、池内了氏は
「最も憂えることは、自分の頭で考えるのではなく、ご託宣を何の疑問も持たずに受け入れてしまう体質になることである」
「非合理を安易に許容することで人間の考える力を失わせているのではないか」
「考えることは他人に「お任せ」し、自分はそれを信じ拍手を送るだけの態度が蔓延していると感じられるのだ」

と批判する。

疑似科学を頭から信じてしまう人は自分で考えることをしない。
「疑似科学の売りは、それを信じればすべて解決するということにある。考えてはいけないのだ」
「疑似科学に身を委ねれば考えるという面倒なことをしなくてよく、ただ信じておれば安心できるからいったん嵌るとなかなか立ち直るのが難しい」
「とにかく手っ取り早く答を出してくれる方を選ぶのに何が悪い、それが疑似科学だって構わないではないか、となってしまう」

「疑似科学」を「アブダクション」に置き換えても十分通じる。
83歳の男性はクランシーにこう言っている。
「とにかくおれが言いたいのは、どんなことだってありえるし、みんながおなじことを言っているんだから、なにかが起きているにちがいないってことだ」
これは迷信に従うのと同じ理屈(「昔からそういわれているからそうなんじゃないか」「みんながいけないと言っていることはしないほうがいい」)である。
そこには道理がないし、なぜそうなのかを考えようとしない。
クランシーはこう言う。
「客観的な証拠があるから信じるのではなく、証拠にかかわらず自分が信じるものを信じている。彼らは自分の体験に疑いを抱かない。自分の信じ込みが正しいことを確認しあっているだけなのだ」
なのに、クランシーはアブダクションという疑似科学を肯定するのである。

池内了氏は
「一般に、科学者は疑り深いから直ちに結論を出すことを避ける。明らかな証拠がないと、さまざまな可能性を考えてしまい、歯切れが悪くなるのだ。真実に忠実な科学者であればあるほどその傾向が強い。だから、そのような科学者にはテレビ局から声がかからず、人々に知られることが少ない」
と言うが、クランシーは結論を出すのが早かったのかもしれない。

また話は飛ぶのだが、竹田青嗣『ニーチェ入門』を読んだ。
この手の本を読むと、いつものように最初のあたりはまあまあ理解でき、面白くてためになるのだが、だんだんと難しくなって、最後はちんぷんかんぷん。

で、わからぬながら考えたこと。
「人間は、なぜ自分たちはこれほど苦しみつつ生きるのかとつねに問いつづけるような存在である」
意味のない苦しみには耐えることができないから、人は苦難の意味を求める。
どうしてこんなことになったのか、なぜ苦しみながら生きなければいけないのか、その説明を欲する。

「宗教や哲学はこの問いに対してさまざまな仕方で答えてきたのだが、ニーチェによればその答えは基本的に三つのカテゴリーを持っていた」
と武田青嗣氏は言う。
1、目的 「世界には確固とした目的があるはずだ」
2、統一 「世界には摂理とその全体がある、つまりそれは何者かによって統一されているにちがいない」
3、真理 「この世界は仮象にすぎない。したがって、〈真の世界〉が存在するはずだ」

で、エイリアン教もこの三つのカテゴリーに対する答えを与えていると思う。
常に問いつづけることは楽ではない。
だから、我々は苦しみつづけ、問いを持ちつづけるよりも、目の前の答えに飛びついてかんがえることをやめてしまいがちである。
しかし、苦しみに対して安易に意味づけして答えを出すことをせず、問いつづけることに耐える、これがニーチェの言いたいことかなと。
それにしても、答えがエイリアンではあまりにも安易すぎやしないかとため息が出る。

またまた話は飛ぶが、子どもを亡くした方たち、何人かの話を聞いたことがある。
宗教をかじっていると、「また浄土で会える」とか「私の苦しみを阿弥陀さんはご存じになって本願を起こされた」とかいう定型句で落ち着こうとする。
スピリチュアルに親近感を持っている人なら、「死別の悲しみを学ぶためだ」とか「試練を乗り越えるため」と考えるかもしれない。
本当にそれで苦しみが消えるわけでもないのだが、とにかくそういうことにして楽になりたいと思うのは自然な感情だと思う。
韋提希が無憂悩処を求めたようなものである。
ところが、私が話をお聞きした人たちに「○○というふうに考えたらどうですか」と言ったら、「そういうことはもう考えた。だけど、このつらさはやっぱりどうしようもない」と言われた。
おそらく、死別の苦しみを何とかしたいと思いながらも、ありきたりの物語では納得できない。
どこかで落ち着くことができないから「なぜ」と問いつづけざるを得ない。
だから問いが深まる。
話を聞いてずいぶん教えられた。
悲しみつづける力を与えられること、それが阿弥陀のはたらきかなと、またまた安易に結びつけてしまうのではアブダクションの悪口を言えません。

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スーザン・A・クランシー『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』3

2009年01月16日 | 問題のある考え

宇宙人に誘拐されたという「信じ込みが生まれた根底にあるおそらくもっとも重要な要因」「人生の意味を見つけたいという欲求」だと、スーザン・A・クランシーは言う

宇宙人に誘拐されたという記憶が強烈なのは、本物らしく感じられるだけではなく、衝撃的なことが起こるからである。
被験者は全員、人生でいちばんトラウマになりそうな出来事はエイリアンに関するものだと言っている。
「アブダクティーの生理的な反応は、戦争体験者やレイプ被害者など、心的外傷の被害者として記録されている人のものと似ていただけでなく、それ以上に極端な反応を示したケースさえあった」

にもかかわらず、何人かの被験者は「いままででいちばんよかった体験もエイリアンに関することだ」とも答えているのである。
そして、
「やり直せるとしたらエイリアンに誘拐されないことを選ぶか」と質問すると、被験者は「エイリアンに誘拐されることを選んだのだ」
「わたしは、被験者が全員例外なく、体験によって〝変わった〟と感じ、誘拐されたあとは〝まえよりよい人間になり〟〝生活もよくなった〟と言っている事実に驚いた」

アブダクティーたちはこんなことを言っている。
「いままででいちばんよかった出来事は、コンタクトを体験できたことだ。(略)自分の人生の意味を再評価させてくれた―それまでのすべての苦しみや醜さを心から受け入れて、感謝することを教えてくれた。人生が美しい贈り物だということを教えてくれたのだ」

「もしエイリアンに誘拐されていなかったら、わたしはいまとはまったくちがっていたでしょう。もっと無味乾燥な生活を送っていると思います」

「おかしいと思うでしょうけど、肝心なのはアブダクションの体験が私の人生を変えたということです。わたしたちはひとりではないと教えてくれました。わたしをまえよりいい人間に変えてくれたのです」

「もちろんアブダクションの体験は恐ろしいものでした。でも、ベッドに戻されたあと、わたしは安らかな気持ちになり、さらわれたことをうれしく思ったんです。私は何度も何度も……生まれ変わったのだという思いに打たれました。エイリアンに誘拐されて、とてもありがたいと感じています。いまは、この知恵をだれかと共有したいのです。(略)わたしたちは孤独ではないことを知り、人生における優先順位も変わりました。この世のものにはもう執着していません。人類が進むべき精神的な道のほうが気になります。(略)あの生き物は、ある意味、神の天使です―メッセンジャーのような。彼らは、わたしたちにもっと大きな現実を認識させてくれるために、地球にやってきたのです。わたしたちを助けたいのです。わたしは孤独だったからこそ、宇宙とひとつだと感じることができたのです」
こうした感想は前世療法や臨死体験、瞑想による神秘体験を経験した人と似ている。

「アブダクションの体験にともなうショックや恐怖にもかかわらず、アブダクティーは誘拐されたことを喜んでいた。彼らの生活はよくなった。まえほど孤独ではなくなったし、まえより未来に希望が持てるようになったし、まえよりいい人間になったと感じていた」

これをどう評価するかだが、クランシーは肯定的にとらえている。
「アブダクション信奉のいいところは、頭痛や性機能不全のような特定の問題を解決してくれるだけでなく、世界観をひろげ、人間の存在について説明し、よりよい生活を約束してくれることである」

「アブダクションの信じ込みは、ただの悪しき科学ではない。不幸を説明したり、個人的な問題の責任を回避したりするためだけのものではない。アブダクションを信じることによって、多くの人が精神的な渇望を満たしているのだ。宇宙のなかに自分の居場所があることや、自分は大切な存在であることを教え、安らぎをあたえてくれるものなのである」

さらには、クランシーの説によれば、アブダクションは新しい時代の宗教、エイリアン教とでも言うべきものである。
「アブダクティーの研究から見えてきたいちばんのポイントは、わたしたちの多くは神のような存在とのコンタクトを求めていて、エイリアンは、科学と宗教との矛盾に折り合いをつける方法なのだということだ」

「アブダクションを信じることによって得られるものは、世界じゅうの多くの人たちが宗教から得ているものとおなじであるのは明らかだ。人生の意義、安心、神の啓示、精神性、新しい自分。正直言って、わたしもいくらかほしいと思うものもある。アブダクションの信奉は、事実ではなく、信仰にもとづいた宗教の教義のひとつだと考えることができそうだ。実際、多くの科学的なデータが、ビリーバーは心理的な恩恵を受けていることを示している。彼らは、そういうものを信じていない人やり、幸せで健康で人生に希望を持っている。わたしたちは、科学や技術が幅をきかせ、伝統的な宗教が批判される時代に生きている。天使や神に宇宙服を着せ、エイリアンとして登場させたら納得がいくのではないだろうか?」

クランシーは冗談や皮肉でこんなことを言っているのではないと思う。
ここまでくると、神は死に、神の代わりに宇宙人が新しい神として登場したというわけで、エイリアン教は神なき時代の宗教ということになる。

臨死体験や前世療法による過去世の記憶のように、宇宙人に誘拐されたということは客観的事実ではあり得ないが、神や仏を見たということと同じく主観的事実である。
科学とは客観的普遍的真理であり、宗教とは主観的普遍的真理だ、と岸本鎌一氏の話にあった。
アブダクションを信じる人がかなりの人数いるわけだから、アブダクションは宗教的だと言えるかもしれない。
つまり、アブダクションはスピリチュアルなのである。
何なんだこれは、というのが正直な読後感だった。

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スーザン・A・クランシー『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』2

2009年01月13日 | 問題のある考え

宇宙人に誘拐されたと信じ込むことは私には妄想だとしか思えないのだが、オーラや霊が見えるということや、聖母マリアが現れてお告げをしたということなども、嘘をついているのでなければ妄想だと思う。
考えてみると、神が世界を創造したとか、死後の世界で死んだ人とまた会えるとか、あるいは生まれ変わりがあると信じるのも奇妙な考えである。

スーザン・A・クランシーによると、体験に対するおかしな説明、まちがった解釈が妄想である。
「妄想とは、反証する証拠があるにもかかわらず強く信じていて、まちがっていると証明されてもびくともしない誤った思い込みのことをいう」
「妄想(誤った思い込み)は、奇妙な体験を説明しようとする懸命な試みだ。そして、個人の体験の生々しさや緊迫感は、簡単に反論できるものではない」

ずっと以前、ある人が、妻が何年か前から病気になって調子がわるい、病院に行っても原因が何かよくわからない、妻が病気になったころ墓を建てた、ばからしいとは思うがほかに病気の原因となるようなものは思い当たらない、というようなことを言われ、びっくりしたことがある。
だったら、孫が生まれた、自民党が衆院選に圧勝した、近所の人が引っ越したなどを病気の原因と考えてもいいのに、どうして墓のせいにしたのだろうかと思ったものだ。

でも、原因不明の病気に何らかの説明がほしいと思うのは人情である。
人は意味のない苦しみには耐えられない。
苦悩を抱えている人は不安にさせたり混乱させる体験や感情に対する説明を求め、問題や苦悩が解き明かされたり、苦しみの意味を見つけると安心するものである。
もっとも、墓をこしらえたことが病気の原因だというのは誤った説明(たぶん)ではあるが。

宇宙人に誘拐されたという信じ込みにしても、「ふつうとはちがう奇妙で厄介な体験を説明したいという気持ちを反映しているのだ」とクランシーは言う。
ただし、クランシーによるとその体験というのが、目が覚めたときにどうしてパジャマが床にあったのか、何で鼻血が出たのか、背中のアザ、自分は人とはちがうと感じている、そして睡眠麻痺(どうして金縛りという言葉を訳者は使わないのか)といったことなのである。
そういう体験をしても、多くの人は気にしないし、特別な原因があるとは考えない。
まして宇宙人に誘拐されたのではと思いもしない。
ところが、宇宙人に誘拐されたと信じている被験者はアブダクションの記憶がないにもかからわず、ひょっとして宇宙人に誘拐され、記憶を消されたかもしれないと思うわけである。

考えられる原因はいくらでもあるのに、なぜアブダクションという説明を選ぶのか、どうして宇宙人に誘拐されたということで納得するのだろうか。
「研究の被験者のほとんどが、エイリアンよりもっと合理的でありえそうなほかの説明についても検討したのに、結局は否定していたことが不思議だった。なぜあえて異様な説明を選ぶのだろうか?」

まず言えることは、アメリカでは多くの人が宇宙人による誘拐があるかもしれないと思っているわけだから、アブダクションは日本人が思うほど奇妙な考えとは言えないのかもしれない。

そうして彼らは催眠療法を受けて、記憶をありありとよみがえらせるのである。
「アブダクションの記憶がある人のほとんどは催眠をはじめとする精神療法の技法を使って記憶を獲得していた」
退行催眠によって子どものころの性的虐待を思い出したり、過去世の記憶をよみがえられるように、アブダクションでも催眠療法がからんでいるわけである。

しかし、催眠療法によって思い出した記憶は正確ではないし、自分で作り出した偽の記憶であることが多いそうだ。
多くの人は、体験したことの正確なコピーが頭のなかに保存されていて、催眠が思い出させてくれると信じている。
無意識の奥に隠れていた過去の秘密をしゃべるというわけだ。
この考えはまちがっているとスーザン・A・クランシーは言う。
「実際に起きた出来事の記憶を取り戻そうとしても、たいていは役に立たないばかりでなく、偽りの記憶―現実の出来事ではなく、人から言われたり、自分で想像したりした出来事の記憶―をつくりだしやすくなるのだ」

クランシー自身も大学院生仲間に催眠をかけてもらい、小学校時代にいじめられたことを思い出した。
ところが、クランシーの姉に確認すると、いじめは偽りの記憶だったとわかる。

我々がおぼえているのは体験したことの断片であり、その断片をもとにしてこういう経験をした、自分の人生はこうだったのだと物語を作り出すのである。
にもかかわらず、およそ半数の臨床心理士が、催眠下で現れた記憶は催眠を使わずに現れた記憶より正しいと思っているそうだ。
そこでますます催眠療法が行われ、宇宙人に誘拐されたと信じ込む人が増えるというわけである。

奇妙な信じ込みや偽りの記憶を持った人に共通していること
1、空想したり、ふつうとちがう信じ込みやアイディアを抱いたりする傾向がある
2、心が乱される体験(睡眠麻痺や不安や人間関係の問題)が立てつづけに起こり、その原因を追究している
3、信念体系

信念体系ということだが、自分の苦しみの説明をする物語には、「わたしたちがもともと持っていた信じ込みや先入観や偏見が反映されている」のである。
信念体系は個人的なものだけではなく、文化的社会的でもある。
よくないことと墓とを結びつけることは日本人の信念体系だと言っていいと思う。
高橋紳吾氏によると、憑きものは世界中で見られるが、何が憑くかは国によって違うそうだ。
「ヨーロッパでは悪魔憑きなんてのがあるけれども、先祖の霊が憑くなんてことはないんですね。それから神様が憑くこともないんです」

臨死体験の内容も民族、宗教によって異なっている。
奇妙な体験の説明が妄想かどうかは文化、社会による、つまりその説明を信じる人がどれくらいいるかで決まるのかもしれない。

退行催眠によって前世の記憶を思い出すということにしても、最初から輪廻転生はありえると思っている人が過去世の記憶は真実だと信じ込むそうだ。
「研究者たちは、対照群の被験者に催眠をかけ、過去生で起きた出来事を鮮明に思い描くよう指示する実験を行なってきた。予想どおり、空想傾向がある人は、体験をつくりだした。だが、過去生の体験をつくりだせるからといって、それを実際に信じるとは限らない。はじめから輪廻転生はありえると思っている被験者だけが、想像したことを信じやすかった」
とクランシーは言う。
宇宙人に誘拐されたと主張する人も、宇宙人は存在し地球にやって来ていると、もとから信じている。
選んだ説明が事実かどうかは問題にはならないのである。

そして、クランシーによると「苦しみの原因についての説明を見つけると、その苦しみの責任から解放されることがよくある」そうだ。
たとえば、生きづらさは子ども時代に受けた虐待のせい、宇宙人のせい、墓が原因だなどと考えれば、精神的な苦しみを説明し、責任を回避できる。

ここらあたりまでは私も納得できるのだが、ここからが問題。
クランシーは
1,わたしたちの信じ込みは物語的に見て真実であるのか?
2,その信じ込みは、わたしたちに意味と価値をあたえてくれるのか?
3,エイリアンに誘拐されたと信じることによって、人生の厄介な面を理解できるようになるのか?
と問う。
クランシーの結論としては、催眠療法によって宇宙人に誘拐され、人体実験されたという偽の記憶を作られることはそう悪いことではないと考えているようなのである。

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スーザン・A・クランシー『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』1

2009年01月10日 | 問題のある考え

いつだったか「私は宇宙人に誘拐された」というような題の本の広告を見て、いくらオカルト好きの私でもあほらしいと思ったものだ。
ところが信じられないことに、アメリカでは、自分は宇宙人に誘拐されて人体実験されたとかセックスを強要されたなどと信じている人が数千人はいるそうだ。
そんなことを言う人が詐欺師か頭のおかしい人なのだったら話は簡単だが、彼らは普通の人であり、「ほかの人とちがうのは、特定の奇妙なことを信じているという点だけだ」とスーザン・A・クランシーは言う。

心理学者であるクランシーは、偽りの記憶を作り出すメカニズムの研究のため、催眠療法によって子どものころに受けた性的虐待の記憶を思い出した人の調査をする。
ところが、性的虐待を否定するのかという批判を受けてしまう。
宇宙人に誘拐されたということなら絶対にあり得ないのだからと、次にアブダクションン(誘拐という意味だが、訳者はどうしてアブダクションとかアブダクティーというカタカナを使うのだろうか)の研究をする。

「ふつうの人がなぜエイリアンに誘拐されたと信じるようになるのかを気にかけなくてはいけない理由は、すくなくとも三つある」とクランシーは言う。
1、人間が風変わりな考えを持つようになるメカニズムの解明
2、奇妙なことを信じていると、その人にとってよくないかもしれない
なんでも信じるおめでたい人はペテン師に簡単に食い物にされてしまう危険がある。
3、なぜ人は奇妙な話を信じたがるのかを理解する

この三点は、迷信やインチキ宗教に関する問題と通じており、はなはだ興味深く読んだのだが、最後はスピリチュアルのススメになっていて、何というか困った本なのである。

宇宙人に誘拐されたなどというとんでもないことをどうして思いつくのかということだが、アメリカではアブダクションはそうトンデモな話というわけではないらしい。
アメリカ人は85%がほかの惑星にも生命体が存在するじゅうぶんな証拠があると信じていて、そのうち半数はエイリアンが人間を誘拐することもありえると思っている。
80%は政府が地球外生物の存在を隠していると信じている。
というのが、1947年、ニューメキシコ州のロズウェルの近くで農場経営者が地面に落ちている残骸を見つけた。
米軍は気象観測気球だったと発表したのだが、1978年、残骸は壊れた宇宙船の一部だったという元少佐の証言がタブロイド紙に載り、そして1980年には、その場所で発見されたエイリアンの死体をオハイオの空軍基地で保存しているという内容の本がベストセラーになった。
というわけで、アメリカ人の65%が宇宙船は本当にニューメキシコに墜落し、政府が隠蔽したと思っている。
ロズウェルには年間およそ9万人の観光客が訪れているそうだ。
そして、ハーバード大学教授のジョン・マックは94年に『アブダクション』を出版し、ベストセラーになった。
ジョン・マックは当事者に催眠療法を使い、エイリアンに誘拐されたと言っている人たちは真実を語っていると明言している。

クランシーはこう言っている。
「現在のアメリカでは、エイリアンがどんな姿をしていて、誘拐した人間にどんなことをすると言われているかについて、知らない人はほとんどいない」
「アブダクションは私たちの社会でよく耳にする話であることを考えると、なぜもっと多くの人がエイリアンに誘拐されたと思わないのか不思議でさえある。現代では、こういうことを信じていると公言しても〝頭がおかしい〟とはみなされない」

まずはアメリカがそういう状況なわけである。

「十年後には、エイリアンを信じたり、エイリアンがわたしたちのそばにいると考えたりすることは、おそらく神を信じるのとおなじくらいふつうのことになるだろう」
とクランシーは言っているが、これが冗談とは思えないところが怖い。

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小西聖子『犯罪被害者の心の傷』2

2009年01月07日 | 

『犯罪被害者の心の傷』を読み、犯罪被害者の受けた心の傷は、家族などの身近な人の死別による心の傷と似ているように思った。
「被害者」を「近親者と死別した人」と受け取ってもいいように思われる点が多い。

被害者カウンセリングの目標は、被害者に力を取り戻させることであって、無力な人を依存させて苦しみを解消してあげることではない。
無力でよるべない状態にあるのは、圧倒的な衝撃を受けた人の特徴であるが、そのような状態をなるべく早く解消し、被害者が独力で考え、決定し、実行できるようにするのが被害者カウンセリングの役目である。

たとえば、被害者は事実から目を背けようとする。
子供が性的被害を受けた場合でも、周囲の大人は事件自体をなかったことにしようと思いがちである。しかしそのような態度は、子どもが傷ついた気持ちを表現することを阻んでしまう」

事実を隠すのではなく、まずは事実を認めることが大切だという。
「遺体の確認は、遺族にとってトラウマティックな作業であるが、その後の精神状況から考えると、したほうがいいと言われるのはこのためである。遺体と対面することはつらいことだけれども、心の中でその人の死を確認していく第一歩である」
事実を知ることから精神的な回復の試みが始まるのである。

事実と真向かいになるためには話すことが大切であるし、支援する側にとっては何かをしてあげるのではなくて話を聞くことが基本である。
夫を殺されたAさんは小西聖子氏のカウンセリングを受け、「この前ここで話をしたら、すっと胸が軽くなるような気がした」と言っている。

でも、ただ聞くだけではなく何かをしなければと思う。
小西聖子氏も恩人の葬式のとき、「(亡くなった恩人の)ご主人に言いたい。いたわりたい。感謝したい。ねぎらいたい」というふうに思ったという。
「しかし、実際に遺影の前に進んだとき、喪主のご主人に私はなにも言うことができなかった。(略)なにも言えなかった自分について、最初はプロのくせになんだという責める気持ちがわいてきた。でも、しばらくして、私にはわかってきた。
「聞くこと」なしに、人になにか言うことなんかできないのだ。喪主への挨拶なんかなにを言おうと関係ない。ひとことふたことで人を励ますことばなんてあるわけないのだ。すべてはまず「聞くこと」から始まる。それができないときに、人を力づけられるなんて思わないほうがいい」

被害者は話したいことがあるし、求めていることがある。
その一つが、なぜこういうことが起きたのかという説明、意味である。
「被害者のカウンセリングにおいて「被害の意味」は重要な地位を占めているのである」
「被害者は、つねに被害の意味を求めている。自分の受けたこんなにも重い被害が、なんの意味もなかったということに被害者は耐えられない」

意味を求めるのは被害者だけではなく、どんな人も、なぜ生きているのか、なぜ死ぬのか、なぜ苦しむのか、その意味を我々は求めている。
「子どもが死んだことがほんとうはなんの意味もなくて、ただの偶然だったなんて私には耐えられないんです。いま子どもはいなくなってなにもないだけだなんて。私がこんなに苦しいのに理不尽だとしかいえません。死ぬというのがこういうことだとしたら、あんまり残酷だと思います」

こうした実存的な問いには答えというものはない。
だけど、何か言わなくてはと思って失敗してしまう。
「中途半端なウソの答えは、カウンセリング全体をダメにしてしまう。
「亡くなっても心の中で生きています」
「これから必ずいいことがありますよ」
「お子さんは一生分を充実して、短い間に生きたのですよ」
これらの答えは、実際に遺族の人から、人に言われて傷ついたことばとして聞いたものである」

ほんと話を聞くことは難しい
私の経験だが、家族と死別した方の思いを、最初のうちは「そうだったのか」とただただ聞くだけだったのだが、だんだんとパターン化して聞くようになり、ちょっと話を聞いただけで「こういうことなんだろう」とさもわかった気になってしまい、「こういう気持ちなんでしょう」というようなことを言ってしまうようになった。
「どんなに被害の様相が似ていても、ひとつひとつの被害は同じではない。また被害者は同じ「子どもを亡くした母親」であっても、これまでの生活も性格も家族の状態もみなちがっている。喪失のあり方はそれぞれちがう」
初めての時のように聞くのは難しい。

それに慣れは感性を鈍らせる。
「無力感や自責感をいっさい感じずに、トラウマティックな話を聞ける人がいるとしたら、その人は聞き手にふさわしくない人である」
身近な人を亡くしてつらい思いをしている人は、聞き手のこうしたパターン化や無神経さを敏感に察知するだろうと思う。
「被害者が心を開くことに用心深くなるのは、まわりの人たちが被害者の心情を理解していないし、話してもわからないと思っているからである」

カウンセリングの終わりは悲しめるようになることだと、小西聖子氏は言う。
「もし穏やかに悲しめるようになったら、それはカウンセリングの終結である」
被害者は悲嘆に暮れていると考えがちであるが、「被害者のほんとうの姿はそうではない。トラウマティックに大事なものを奪われた人は、悲しむことさえできないのである。ただ苦しく、自分を責め、怒りをもっている」

「なにかを悲しめるということは、とても健康なことだと私は思うようになった」
うれしいことがあれば喜び、つらいことがあれば悲しき、理不尽なことには怒る。
こうした当たり前のことが当たり前にできるのは当たり前ではないのである。

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小西聖子『犯罪被害者の心の傷』1

2009年01月04日 | 

10年ぐらい前、小西聖子『犯罪被害者の心の傷』(1996年発行)を読んだのだが、あらためて読み直そうと図書館で借りたら、増補新版(2006年発行)だった。
『犯罪被害者の心の傷』は犯罪(殺人や強姦など性暴力)だけではなく、児童虐待、家庭内暴力、自死、災害被害などによる心の傷がどのようなものかについて書かれてある。
また、犯罪被害者援助といっても訴訟支援、経済的な援助、就職の斡旋のような社会的援助、心理的援助などさまざまな援助があるが、心理的援助について述べられている。
この10年間でトラウマとPTSDに関する知識が広がり、2004年には犯罪被害者等基本法が成立した。
しかし、被害者の心の傷の深さは変わらない。

最初に書かれてあるのが夫を殺されたAさん。
「いまの私は、頭から事件のことが離れず、親戚からも『もう忘れなさい』って言われるんだけど、忘れられなくて、具合が悪くて働くこともできない。自分だけ、こんなにいつまでも立ち直れなくて、私はおかしいんじゃないか、ダメな人間なんじゃないかって思えてくる。自分の歳のことを考えても先行きのことなんか考えられないし、子どもがこれから自立していくことを考えると、孤独感が迫ってきて絶望的になります。死にたいなあと思うこともあります」

トラウマやPTSDとはどういう意味なのだろうか。
トラウマとは「個人の対処能力を超えるような大きな打撃を受けたときにできる精神的な傷のこと」である。
「直接自分の生命が脅かされるだけでなく、家族や友人の死に直面することや、死の場面を目撃することもトラウマとなりうる」
ふつうの失恋の場合にはトラウマとは専門家は言わないそうだ。

そしてPTSD(心的外傷後ストレス障害)。
トラウマのあとに起こる反応は驚くほど共通しており、PTSDとして対処する。
戦闘体験や日常での暴力被害や虐待などを含めて、トラウマティックな体験をしたことのある人は、男性の約6割、女性の約5割、1割が4回以上トラウマとなる体験をしている。
PTSDをもつ人の割合は7.8%(女性は10.4%、男性は5%)。
男性の経験の中でPTSDの有病率の高いのは、強姦の体験、戦闘体験、子どものころの虐待体験などで、女性で有病率が高いのは強姦と性暴力被害。
災害後のPTSDの率は1割程度、犯罪や交通事故で家族をなくした遺族は3割から4割に達する。
強姦や性的虐待を含む性暴力被害では8割の人がPTSDの状態。
強姦被害者は9割近い人が状態が悪くなり、約半数の人が一ヵ月後に職業を続けれない状態が続いており、4割の人が仕事をやめ、1年たっても30%近い人が症状を持ってふつうの生活に戻れず、何年たってもよくならない人が少なくとも1割ぐらいいる。
ポルポト政権下の強制収容所体験者のPTSD発症率は7~9割。

PTSDの症状は、記憶が甦る・健忘、不眠・悪夢、イライラや怒り、無気力感・じっとしておれない、いつも緊張しびくびくしている、自分が悪いんだという自責、自分が恥ずかしい、自分はつまらない人間なんだという自己否定、激しすぎる怒りのため周囲の人とうまくやっていけないetc。

そして、解離(感覚や感情の麻痺)の状態。
感情が湧いてこない、何も感じられない、夢を見ているような感じ、部分的に記憶がないetc。
Aさんはこう言っている。
「そのころって、感情がないみたいだったんです。お葬式もまったく悲しくなくて……。なんて冷たい人間なんだろうと、いまになって自分を責める気持ちになります」
「まわりの人に『奥さんって、ずいぶんしっかりしているねえ』って言われたけど、それもよそごとみたいで……」

被害者が警察に話をしようとして事件の大事なことを思い出せなかったり、感情が麻痺して非常に淡々と事件の話をすることがある。
感情の切り離しによって身を守っているわけで、それによって苦痛を感じなくてすむ。
家族が亡くなってもけろっとしているように見える人がいるが、それは解離の状態だったのだと知った。

そして、自責の念、罪の意識。
家族を亡くすと、それがどういう死に方であれ、大なり小なり遺族は自責感を持つ。
特に自殺の場合は、家族を死に追いやった自分、家族が死にたいと思い苦しんでいることに気がつかなかった自分、何もできなかった自分に対して激しい自責感を抱く。
災害による被害でも、「自分だけが助かった、人を助けられなかったという自責の念を抱く。これは、実際にその人がなすべきことをしなかった、なすべきでないことをしてしまった」と自分を責める。

強姦の被害者や親から虐待を受けた子どもも、自分が悪いからこうなったんだと考えるそうだ。
強姦についての誤解はたくさんある。
強姦の被害について話した時、「被害者が悪いのではない」ということが伝わりにくいという。
たとえば、カラオケに行き、そこで知り合ったグループと飲みに行き、酔っぱらい、男のアパートに連れて行かれて強姦される。
「本当は合意だったのでは」、「女から誘ったのでは」、「そういう状況では仕方ない」などと警察や知人からも言われる。
これが男なら、知らない人と飲み屋で意気投合して、その人の行きつけの店へ行き、突然に殴られて金を取られるという場合なら、被害者のせいだと責めたりしないだろう。
強姦の被害者は悪くないということが男性には特に理解してもらえないそうだ。
「こんなふうな話を男性にすると、男性が拒否的になったり、防衛的になったり、怒ったりすることを私はよく経験する。男性はどうも自分のことを責められているように感じるらしい」

子どもが性的な被害に遭った場合、「まず母親に話せたことをほめてやってほしい」と小西聖子氏は言う。
「被害に遭った子どもに「これからは気をつけなさい」と注意することは、今回の子どもの行動がよくないことであり、失敗であることを教えこむようなものである。子どもは被害に遭ったのである。悪いことをしたのは加害者であって被害者ではないのだ。子どもにも大人と同じように「あなたは悪くない」ことをまず伝えなければならない」

そして、児童虐待。
「子どもに対する暴力を「しつけ」であると考えている親は多い。その暴力の原因が親自身の不安にあることを親は気づかない」
虐待を受けた子どもに対しても、「あなたは悪くない」ということを伝えることが大切である。

『犯罪被害者の心の傷』を読むと、被害者への心理的支援の必要性がわかると同時に、支援といっても簡単ではないことを教えられる。
その困難さは被害者の心の傷の深さなのだなと思う。
「一度傷を負ったものはさらに傷を負いやすくなる。「つらい体験をすれば強くなる」という常識は誤っているのである」

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