三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

2013年キネマ旬報ベストテン予想

2013年12月31日 | 映画

恒例のキネマ旬報ベストテン予想です。
あれこれと悩んだけど、エイヤッとこんな予想をしてみました。

まずは邦画のベスト10。
『舟を編む』(こんな人と結婚したら疲れると思う)
『ペコロスの母に会いに行く』
『そして父になる』(そんな悪い父親ではないと思う)
『凶悪』(もっとヤクザっぽい俳優だったらと思う)
『共喰い』
『さよなら渓谷』
『はじまりのみち』
『地獄でなぜ悪い』(映画は祭りだと思った)
『リアル』
『フラッシュバックメモリーズ 3D』
上位の6作は間違いないと思います。

ベスト20です。
『フィギュアなあなた』
『甘い鞭』
『かぐや姫の物語』
『風立ちぬ』
『千年の愉楽』(若松孝二監督の遺作なので)
『もらとりあむタマ子』(尾藤イサオかと思った)
『許されざる者』
『恋の渦』
『ばしゃ馬さんとビッグマウス』
『チチを撮りに』(ヨコハマ映画祭10位なので)

はみ出たのは

『日本の悲劇』
『横道世之介』
『戦争と一人の女』
『永遠の0』
『ゼンタイ』
『清須会議』
『箱入り息子の恋』
『ジ・エクストリーム・スキヤキ』
『夏の終り』
『夢と狂気の王国』
といったところで、これがベストテンだとしてもそんな悪くはない。
ひょっとして『HK 変態仮面』が上位にくるかも。

私のベスト5は『地獄でなぜ悪い』『恋の渦』『遺体』『舟を編む』『フィギュアなあなた』(順不同)。

主演男優賞は松田龍平、主演女優賞は真木よう子、助演男優賞はリリーフランキー、助演女優賞は田中裕子。

洋画です。

『ゼロ・グラビティ』
『愛、アムール』
『ゼロ・ダーク・サーティ』
『ジャンゴ』
『リンカーン』
『グランド・マスター』
『嘆きのピエタ』
『わたしはロランス』
『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』
『もうひとりの息子』

ベスト20です。

『キャプテン・フィリップス』
『熱波』
『ライフ・オブ・パイ』
『ザ・マスター』
『ハンナ・アーレント』
『少女は自転車にのって』
『きっと、うまくいく』
『ムーンライズ・キングダム』
『偽りなき者』(これは怖い)
『シュガーマン 奇跡に愛された男』
今日の私のベスト5は『クラウド アトラス』『ハンナ・アーレント』『偽りなき者』『クロニクル』『声をかくす人』です。

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昭和天皇の戦争責任

2013年12月29日 | 戦争

赤坂真理『東京プリズン』を読みながら、小説を書くということは過去の自分を受け入れるための一種のセラピーなのかもしれないと思った。
というのも、赤坂真理氏は15歳の時に渡米しているそうだ。
母と「私」(作者)との関係の修復。
そして、天皇と国民との関係の修復。
赤坂真理氏の天皇観と思われる汎神論的天皇、円の中心にある虚無としての天皇は、現実の歴史的な存在としての天皇とは違うと思う。

『東京プリズン』は天皇の戦争責任についてのディベート小説かと思っていたら、441ページある中の342ページからディベートが始まる。
の最後、主人公の高校生はディベートの場で聴いた天皇の声を伝える。

『彼らの過ちの非はすべてこの私にある。子供たちの非道を詫びるように、私は詫びねばならない。(略)前線で極限状態のものは狂気に襲われうる。彼らが狂気のほうへと身をゆだねてしまったときの拠り所が、私であり、私の名であったことを、私は恥じ、悔い、私の名においてそれを止められなかったことを罪だと感じるのだ。私はその罰を負いたい。(略)
積極的に責任を引き受けようとしなかったことが、私の罪である望んでトップにまつりあげられたわけではなかった。担ぎ上げられたとも言える。が、それは私がこの魂を持ちこの位置に生まれついたのと同じ、運命であり、責任であったのだ。巡りあわせであり、縁あって演じることになった役割だ。それには私の全責任があるはずであった。戦争前に、戦争中に、そう思い至らなかったことを悔いている』。

二重カギになっているのは、天皇の声だということなのか、それともタネ本があるということか。

赤坂真理氏は「彼ら(兵士)の罪は、私(天皇)の罪である」と書いているが、実際はどうなのか。
昭和天皇はマッカーサーとの会見「自分が全責任を負う」「自分はどうなってもいい」と語ったとされているが、実際は違うらしい。
昭和天皇にとって一番大切なのは国体護持なんだと思う。

梯久美子『百年の手紙』に、昭和天皇、皇后が皇太子に出した手紙が紹介されている。
昭和天皇の手紙(昭和20年9月9日)

戦争をつづければ 三種の神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである。

「三種の神器を守る」=国体護持である。

マッカーサーには「戦争に関する一切の責任はこの私にあります」と言ったとされるが、息子には敗因を軍人のせいにしている。

敗因について一言いわしてくれ(略)軍人がバツコして大局を考えず 進むを知つて 退くことを知らなかったからです。

前にも書いたが、昭和天皇は知らされていたわけではないし、軍人の言いなりになっていたわけでもない。

梯久美子『昭和の遺書』に、2.26事件で死刑になった磯部浅一についてこのように書かれている。

磯部の遺書を読むと、天皇への罵詈雑言といってもいい言葉の向こうに、ある種の甘えが見え隠れしているのがわかる。若く清廉な天皇のことを本当に理解できるのは、醜く老いて重臣たちではなく、同じように若く清廉な自分たちであるとの自負が、磯部にはあったに違いない。

昭和天皇34歳、磯部30歳。
天皇なら自分たちの気持ちをわかってくれると信じ込んでいた磯部浅一たちにとって、反乱軍とされることは天皇の裏切りだと感じたのだろう。

ごく若いうちから孤独と重責のなかで思慮を働かせ、経験を積んできた天皇は、青年将校らよりもはるかに現実的な判断力にすぐれ、また老練であった。事が起きたとき、天皇は経済に悪影響が出ること、特に海外為替が停止になることを危惧し、それを避けるためにも早期の解決が必要だと考えたという。一国の君主としてのこうした深慮は、磯部には想像もつかなかったに違いない。

現実主義者の昭和天皇と、理想主義に殉じた磯部たち。

そして、香淳皇后の手紙(昭和20年8月30日)

残念なことでしたが これで 日本は 永遠に救われたのです。

「救われた」とはどういう意味だろうか。

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吉野秀雄と妻と息子 2

2013年12月25日 | 

私は見ていないが、中村登『わが恋わが歌』(昭和44年)は吉野秀雄『やわらかな心』、山口瞳『小説・吉野秀雄先生』、吉野壮児(吉野秀雄の次男)『歌びとの家』を原作にした映画である。
吉野登美子『わが胸の底ひに』には「映画として作られるので、本当のことと違う場面が多少あっても仕方ないことと納得した」とある。
父親である吉野秀雄の人間性を描いた吉野壮児『歌びとの家』に吉野登美子が触れているのはここだけで、読んでいないのか、『歌びとの家』の感想は書いていない。

こんなエピソード吉野壮児は書かれている。

父親がいらだった声で呼ぶので行ってみると、「ラジオのスイッチを入れてくれ」と言う。
「それだけですか」とたずねると、「それだけだ。考えごとをしているから、うるさくしないでくれ」と答える。(略)
純人(壮児)の新しい母の場合はもっとすさまじかった。呼びたてられては、やれ障子をしめろ、茶をいれろ、雨戸をしめろ、隣の家のラジオがやかましいから交渉して消してもらってこい、ときりきり舞いをさせられた。
純人の生母に、これほど荒あらしくふるまう父の姿は、純人の記憶にはなかった。

あるいは、純人がデンマーク生まれの女性とつき合うと、父は「夷狄の女と一緒になって、子を生すつもりか!」と叱責する。
吉野壮児はその女性に「水月(吉野)家のあなたたち家族は、非常に固い感じがします」とか、「詩人の心は、ふつう柔軟なはずです」と言わせている。
明らかに「やわらかな心」を念頭に置いている。

胼胝のようにかたい心の持ち主だった。われわれ家族のものは、父という金剛砂の回転研磨機に心を磨り減らされ、振り廻されてきたのだ。そのかたい心の壁に一箇所やわらかいはけ口があった。そこからほとばしり出たのが、父の歌の作品だと思う。

兄が狂う原因となった人妻との会話。
人妻は、夫が「大酒飲みで、家庭をかえりみません」と言うと、純人は「ご主人は、こどもさんのミルク代まで飲んでしまうようなことをしましたか」と尋ねる。
そして「比喩的にいえば、水月秀人(吉野秀雄)はこどものミルク代まで平然として飲むような男ですよ」と言う。
比喩であるにしも、すごい表現である。

吉野秀雄は23回も心臓発作を起こして何度も危篤になるが、入院を拒む。
純人「もっと徹底的に治療する方法を考えたらどうでしょうか」
秀人「徹底的にとは、どういうことだ」
純人「入院して治療するとか……」
秀人「うるさい! わしは、この家で死ぬのだ!」
純人「看病疲れで、母さんに倒れられたら、どうします」
秀人「その時は、ともに死ぬのもよい」
別の医者に診てもらうことも拒む。
なぜなら今かかっている医者の心証を害したら困るから。
秀人「バカモノ! わしが夜中に発作を起した時、来てくれずに、そのまま苦しみ抜いて死んでもよいというのか!」

なんと自分勝手なのかと思うが、しかし吉野登美子は「夫と共にする苦労は何とも思わなかった」と述懐している。
吉野秀雄も「歌をつくるためにしばし、旅行をするわたしに、苦心してえた金を渡し、酒ずきのわたしに一度も文句をいわなかった」と書いている。

『やわらなか心』に、歌は一首につき、無料のこともあり、百円、二百円のこともあり、千五百円、二千円のこともまれにはある、一年の家計費をかりに百万円とし、一首の平均を五百円とすれば、一年二千首詠まなくてはならない、と書かれてある。
だけど、新聞や雑誌などの歌壇選、歌稿添削などの礼金もあるから、そんなに貧しかったわけではないと思うのだが、吉野秀雄が旅に出て歌を詠もうとすれば、登美子が質屋に駆けこむことになったという。

吉野秀雄「借金に出かけ、質屋にかよったとみ子をおもうと、わたしは恥ずかしい」
吉野登美子「私は旅費は少しでも多く持たせてやりたかったので、ありったけの金をそっくり渡してしまい、駅まで送っていって送り出したあと質屋へゆき、稿料の入るまでをつないでいた」
吉野秀雄は登美子のことを「一生意地悪ということのできぬ性分だ」と書いているが、その言葉が愛想ではないと感じさせる。
こういう人と結婚したかったと思います。


山口瞳『小説・吉野秀雄先生』(昭和44年5月刊)は、吉野秀雄だけでなく、川端康成、山本周五郎、高見順、木山捷平の思い出も語られている。
「小説・吉野秀雄先生」は昭和43年に発表されているので、吉野壮児『歌びとの家』(昭和43年3月刊)を読み、筆を執ったのだろう。
もっとも、山口瞳にしたって、父親が川端康成に詐欺を働いたことを書いていて、身内の恥をさらけ出すのは小説家の業なのかと思う。
山口瞳はとにかく吉野秀雄を絶賛する。

私は、先生という人間は、なにからなにまで、まるごとすっぽり大好きだ。

山口瞳は鎌倉アカデミアで吉野秀雄の教えを受ける。
昭和22年1月『創元』に妻の死の前後を歌った「短歌百余章」を発表するまで、吉野秀雄は無名に等しかった。
鎌倉アカデミアの文学部には西郷信綱、林達夫、中村光夫、高見順、吉田健一、服部之総、演劇科に千田是也、村山知義、久板栄二郎といった錚々たる顔ぶれの中で、吉野秀雄は人気教授だった。

無名の吉野先生の人気が第一等である。教員室でも人気があった。それは先生の人柄によるものであった。まったく、あんなに正直で、真を貫く人を見たことがない。誰にでもすぐわかることだった。誰からも敬愛されるようになる。

鎌倉文士では、小林秀雄、里見惇、川端康成、久米正雄、大佛次郎、今日出海たちからも愛されていたという。
吉野登美子『わが胸の底ひに』にも、吉野秀雄が多くの人に愛され、慕われていたことが書かれている。

家の中のことは他人にはわからないが、イギリスのことわざに「主人をほめる執事はいない」というのがあるそうだし、金子大栄師は「父親と息子、嫁と姑のいざこざは人類永遠の問題だ」と言われている。
吉野家でも我が家と同じだということでしょうか。

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吉野秀雄と妻と息子 1

2013年12月22日 | 

山口瞳が息子の山口正介氏に「こんなことをするなよ」と言ったと、『江分利満家の崩壊』にある。

父が私淑していた鎌倉アカデミア時代の吉野秀雄先生のご子息・吉野壮児さんが、先生の死後、父親への反発を描いた『歌びとの家』を発表なさったことだ。吉野先生の名著に『やわらかな心』がある。それに対して壮児さんが書かれたのは「硬い心」とでもいえるようなものであった。

こんなのを読むと、『歌びとの家』にどういうことが書かれてあるのか読みたくなるのが人情です。

吉野秀雄『やわらかな心』に、妻が死ぬ前夜(?)のやりとりが書かれていて、感動した。

昭和19年8月29日に妻はつ子が胃ガンで死ぬ。

さて、はつ子はかの夜わたしにどんなことを告げたか。まず「自分には死後の世界は信じられない。人間はこの世だけで終わるに違いない。そしてこの世に関するかぎり、自分は幸福であったとあなたに感謝する」といい、つぎに「黙っていてもあなたは子らの面倒をみてくれるに違いないから、いまさら改めて四人の子らをよろしくたのむなどとはおかしくていえない」といい、それからわたしが後に、
生きのこるわれをいとしみわが髪を撫でて最後(いまは)の息に耐へにき
と詠んだように、「これから戦争がはげしくなる一方の、この世に生きていかねばならぬあなたや子らは、死んでいく自分よりもはるかにつらいだろう、どうかしっかりやってください」といった。
はつ子は死にぎわに、「あの世はないものだ」と冷静にいいきったが、その点についてわたしはどう反応したかというと、あの世がないならば、わたしがあの世をこしらえよう、そこで再び彼女に会うめあてがないとしたら、とてもこの世を生きていけるはずがない。――と、わたしはそうおもった。(「前の妻・今の妻」『婦人画報』昭和40年5月)

夫婦の深い愛情が伝わってくる名文だと思う。

そして、昭和40年5月19日、
「長男がその日わたしの目の前で、いきなり発狂した」とある。
その後、吉野家はどうなったのか気になるという下世話な興味もあります。

そこで『歌びとの家』(昭和43年3月刊)だけでなく、山口瞳『小説・吉野秀雄先生』(昭和44年5月刊)、吉野登美子『わが胸の底ひに』(昭和53年10月刊)を読みました。
『歌びとの家』は父親の吉野秀雄(水月秀人という名前になっている)のことをボロクソに書いている。
もっとも『歌びとの家』は小説なので、どこまで事実なのかはわからないが。

何が書いてあるかを紹介する前に、吉野秀雄の再婚について説明しておきます。
吉野秀雄の後妻とみ子は八木重吉の妻である。(とみ子と登美子のどちらが正しいのだろうか)
とみ子は17歳で結婚するが、昭和2年に八木重吉が30歳(かぞえ)で死ぬ。
子供が2人いたが、どちらも十代で死亡。

『わが胸の底ひに』によると、登美子の姪が吉野秀雄の兄の家で世話になっていた関係で、子供の面倒を見てもらえないかと頼まれる。
吉野秀雄からの手紙は9月19日付が最初で、はつ子が死んで間もない。
手紙のやりとりを読むと、たんに子供の教育係としてではなく、後妻に来てほしい気持ちが感じられる。

吉野秀雄の印象をとみ子はこのように書いている。

何という純粋な人だろうと、同情したりだんだん尊敬するようになっていた。八木重吉と死別してから十八年になるが、八木のあと、これほどに純粋、純潔な人を見たことがなかった。

昭和21年秋に求婚され、昭和22年10月26日に結婚。
では、吉野秀雄は再婚することをどう考えたのか、『やわらかな心』(あとがきは昭和41年9月18日付)を読み直しました。

わたしの一家はとみ子の出現によって救われた。わたしは敗戦の前後いくたびか喀血病臥したが、もしもとみ子がいなかったら、わが家はどうなっていたろうか、おもいみるだけで慄然とする。(略)
「これの世に二人の妻と婚(あ)ひつれどふたりは我に一人なるのみ」
わたしの再婚についての覚悟をいえば、この者を一途に愛そうということであった。そうすれば、新しい妻は生(な)さぬ子らをいっそういつくしむだろう。そうすれば、遺す子らを気にかけて死んでいった前の妻へ、これこそなんにもまさる供養となるであろう。わたしは理屈なんかいってるのではない。そのとき一つの悟りを開いたのである。

別のところではこのように書いている。

とみ子をめとるについては、この者を愛することによって、亡き妻も成仏できるのであることを悟った。これはわたしの変心か、少なくともわたしのわがままか。否、けっしてそうではない。わたしがとみ子をいつくしめば、とみ子は三人の子らにいっそうやさしくなろう。子らがしあわせであることは、亡き妻の第一の願望にきまっている。こう感得して「ふたりは我に一人なるのみ」といったのだ。(「宗教詩人八木重吉のこと」『日本』昭和40年1月号)

私には「理屈」というより「ヘリクツ」としか思えない。

そして、死後についてこのように書いている。

病床の暇つぶしに、いったい死後はどうなるかなどと、ふと想像することもなくはない。ベルグソンの説のように、意識は頭脳をはみ出し、頭脳は滅びても意識のある部分は生き残るかもしれず、かんたんに決められるものではあるまいが、わたし自身にはただ空としてしか感じられない。(「病床独語」『東京新聞』昭和37年9月9日)

前妻が死ぬ時に「あの世がないならば、わたしがあの世をこしらえよう」とまで言ったのに、そりゃないでしょう、と言いたくなりました。

『やわらかな心』によると、実家は大谷派の門徒で、母親は『正信偈』のお勤めをかかさなかった。
吉野秀雄自身も『歎異抄』に親しんでいた。

戦争中の四十三の年に、わたしは前の家内に死なれ、四人の子どもをかかえて、意気地なくも途方にくれていた。この際歌よみのわたしは、短歌を作ることによって救われたかのごとくであったが、その根本を内から支えた力は、やはり歎異鈔であったといってさしつかえなさそうである。(「歎異抄とわたし」『浅草本願寺報』昭和37年6月5日)


そのわりに、最初の妻の死や再婚について書かれた文章にある「供養」や「成仏」という言葉の使い方がおかしい。
また、吉野登美子『わが胸の底ひに』にこんなことが書かれてある。

精神病院で、手相に興味をもっていた吉野が患者の手を見ると、ちゃんとその筋が出ていたといっていた。

手相を信じていたわけですからね、親鸞をどの程度理解していたのかと思う。
戒名は「艸心洞是観秀雄居士」で、親しくしていた瑞泉寺(臨済宗)と本瑞寺(曹洞宗)の住職がつけたという。
 

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山崎行太郎『保守論壇亡国論』

2013年12月17日 | 

山崎行太郎『保守論壇亡国論』によると、以前は「保守」という言葉は否定的なイメージしかなかったが、現在、保守や右翼が多数派を形成しているそうだ。
たしかに、衆参両院で自民党が圧勝し、秘密保護法は成立、次は国家安全保障基本法らしくて、憲法改正も視野に入ってきたように思う。
一億総保守化の流れは止まりそうもない。

それなのに、保守反動を自称する山崎行太郎氏が保守論壇や保守思想家をわざわざ批判するのはなぜか。

私が批判したいのは、保守化や右翼化を背後で支えている保守論壇の「思想的劣化」と「思想的退廃」である。

保守論壇の何が変わったのか、山崎行太郎氏の主張を私なりにまとめてみました。

山崎行太郎氏は小林秀雄、福田恆存、田中美知太郎、三島由紀夫、江藤淳たちを高く評価している。

彼らは保守論壇で孤軍奮闘する一方で、左翼も含めて、誰もが認めざるを得ないような、専門的な仕事=業績を残していた。
ところが、昨今の保守論壇で活躍する保守思想家たちには、政治的雑文や情勢論的雑文はあるが、作品はない。
そこに、昨今の保守思想家たちの思想的劣化という病理現象がある。
それはそのまま現在の日本の政治や政治家たちの劣化にもつながっている。
保守論壇が劣化しているからこそ、その影響を受けた保守政治家たちも同じように劣化してしまう。

なぜ保守論壇や保守思想家たちが劣化し、作品がないのか。
それは、彼らが虚無や深淵を覗き見たことがないからである。
かつて保守論壇で活躍した保守思想家たちは、「深く考える人」だった。
福田恆存や江藤淳らにとって、保守とは生き方や考え方のスタイルである。
ところが最近の保守思想家たちは、「保守思想はこうであらねばならない」というイデオロギーに囚われることによって、考えることがなくなった。
その結果、保守は通俗化し、大衆化し、多数派を形成するのと反比例するように、思考停止状態に陥ってしまった。

保守や保守思想が定義されると、それらをお題目のように唱和するだけで保守思想家になれると錯覚する人も増えてくる。
極端な場合には、朝日新聞を批判したり、中国や韓国、北朝鮮を批判すること、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦強制連行はなかった」、「拉致問題の解決なくして日朝国交正常化はない」と主張すること、あるいはまた、「歴史観」や「国家観」、「愛国心」などの言葉を語り続けることなど、いくつかのわかりやすいお題目を集団で唱和することが、保守の存在根拠になってしまう。

「深く考えること」や「粘り強く考えること」を嫌い、「わかりやすさ」と「単純明快な答え」を求めて、「思考停止」と「思考の空洞化」に陥り、その当然の結果として、思想的に地盤沈下している。
言い換えれば、わかりやすさと単純素朴な答を拒否し、「虚無」と「深淵」に耐え、暗中模索と試行錯誤を繰り返すことから、「作品」は生まれるのである。

保守のイデオロギー化を進めたのは、左翼から保守への転向組である。
西部邁が保守思想を体系化、理論化し、小林よしのりが保守思想を漫画化し、極めてわかりやすい単純化、図式化、映像化、二元論化を施して、多くの読者を獲得した。
西部邁や小林よしのりが主導した一連の「一億総白痴化」の動きには、保守や保守思想の劣化と退廃がともなっていた。
保守論壇の『愚者の楽園』化の真犯人は、理論的には西部邁であり、実行部隊の中心人物が小林よしのり、櫻井よしこだと言っていい。
そして、山崎行太郎氏は西部邁、櫻井よしこ、小林よしのり、中西輝政、渡部昇一、西尾幹二、孫崎享を取り上げて批判している。

櫻井よしこ「その発言は過激さだけが取り柄で、傾聴すべきものはほとんどない」
「櫻井は保守論壇の多数意見、「偏狭なナショナリズム」を代弁しているだけにすぎない」
「他人の尻馬に乗って繰り広げたものばかりで、櫻井自身が自らの頭を使って考えたものとは到底思えない」
中西輝政「政府やマスコミが垂れ流す常識だけを鵜呑みにする」
西部邁「時代状況の変化を鋭く読み取りながら、実に要領よく生きてきた」
渡部昇一「基本的な文献や資料を、ほとんど読んでいない」
西尾幹二「自分の頭で考えることをしなくなる」

これらの批判は個人に対してなされたものではなく、他の人にも当てはまることである。
私の嫌いな人物の批判(悪口)を読むのは楽しい。
だけど、保守化の悪しき流れはとまらない気がする。

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青草民人の宗教遍歴 4

2013年12月13日 | 青草民人のコラム


年度が変わり、受け持ちのクラスが変わって、気持ちにゆとりが出てきたころ、パソコンを買い替えました。そして、初めてインターネットを始めました。

その当時、「同朋新聞」を真宗会館でもらって読んでいましたが、あるお寺の総代さんが「お寺を開く」という題で文章をのせていました。その中にお寺でホームページを開いていると書いてあったので、呼び出してみたところ、すぐ出てきたのが今の所属寺です。しかもアットホームな感じが伝わってきました。

すぐにメールを送ってみたら、返事がきたのです。「一度お寺に来ませんか」というお誘いでした。地獄に仏ではありませんが、早速、聞法会にお邪魔しました。どこの馬の骨かもわからない私に、とても親切に対応してくださいました。住職もスタッフの人たちも気さくな人たちで、ほっとしたのを覚えています。

光が差したというのでしょうか。行き場を失っていた自分に新しい居場所ができた。少しでも肩の荷をおろして、自分と向き合え
る場所ができたと安心しました。


お寺に通うようになると、連れ合いさんをなくされた方とかお子さんをなくされた方がいらして、そんな方の話を聞いているうちに、私も自分自身を見つめる機会を得ました。まだまだ私は、自分の現実から逃れようとしていただけなんだと、そう思うようになりました。そしたら、現実が少しずつ冷静に見られるようになってきたのです。


いろいろな教えを聞いていくうちに、真宗の教えが自然法爾の教えだと受け止めるようになりましたね。ありのままの自分をどう受け止めて、川が流れるように生きていけるか。流れに逆らって生きている自分との往還。根本的にものの見方が変わりました。ものを裏側から見るというのでしょうか。


私を苦しめていた子どもたちは、子どもたちが私を苦しめていたのではなく、私の子どもを見る目によって、自分の都合に合わない子どもたちと決めつけていたのだと思えるようになりました。

そうこうしている間に、再び転勤し、学校の仕事も安定してきました。いろいろな方と出会い、聞法していく間に、再び自分も僧侶の道を目指したいと思うようになりました。昔から僧侶の生き方にあこがれてきたこと、自分の苦しい体験を通して、仏教の教えに対する見方が変わったことなど、所属寺の住職に何度も聞いていただきました。

もちろん得度することが、そう簡単なことではないことは、私も強く感じていました。寺族でないものが簡単に、得度を認められるものでもないし、また、御同行、御同朋と僧俗の別なく信心に生きよという教えに導かれているものが、僧侶を望むこと自体、名利を求める行為であり、教えの道に背くことではないかとも思いました。


しかし、一生を通して、自分自身が救われた教えを、少しでもいろいろな方に伝えたいと思い、得度をその決意表明にしたいことを住職に話しました。住職は深く考えておられましたが、私の思いに真摯に向き合ってくださいました。なかなか承知できることではなかったと思いますが、私の得度を認めてくださいました。本当に感謝しています。


2007年の夏。住職の後見により、真宗本廟にて剃髪し、法名釋導行として、得度式を受けました。直綴、墨袈裟姿の自分の姿を見たときの感激は、言葉にできませんでした。

しかし、同時にその出で立ちを見て、責任の重さをひしひしと感じました。他人様に仏法を説くなどという当初の考えは、打ち砕かれました。自分自身が仏法に耳を傾け、ひたすら御同行・御同朋と、門徒の方々とともに浄土の道を求めていかなければと思いました。

所属寺の住職は、常日頃、門徒の方々からご住職とかしずかれても、常に門徒さんと同じ位置に立ち、「開かれたお寺」をめざして、人々と共に仏法を歩むという姿勢を崩しません。最近になって、親鸞聖人の生き方を住職の生き方に重ねて見るようになりました。


門徒の一人から抜きん出て、衣を着ることにあこがれていた私でしたが、衣を脱いで門徒の一人として生きようとした親鸞聖人や所属寺の住職の姿を見て、はずかしい思いがしました。

衣を着ることは、仏にお仕えする身となったこと、また、門徒の皆様にお仕えする身となったことを象徴するものだと思うようになりました。まだまだ、宗教に対する遍歴は続きましょうが、とりあえずこの辺で。
合掌

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青草民人の宗教遍歴 3

2013年12月10日 | 青草民人のコラム

古寺を巡るようになって、何度か京都に行くようになりました。お東さん(東本願寺)は両親の御先祖様が納骨されているところという感覚でした。両親の故郷には何年も帰っていませんでしたから、墓参りのつもりで寄るようにしていました。まあ、京都の観光をかねて回っていたのは事実です。

ただ、あちこちのお寺を歩いているうちに、次第に自分にもっとも縁のあるのは真宗大谷派の東本願寺というお寺なんだということが感じられるようになってきました。これは神秘的な感覚なので言葉でうまく言えませんが、死んだ祖母が「なまんだぶなまんだぶ」と称えていたことを思い出しながら、阿弥陀堂の阿弥陀様の前に座っていると、なにか心が落ち着きました。我が家に帰ってきたような感覚。

それまで阿弥陀様は知っていましたが、どんな教えなのかも知りませんでした。そういえば、おじさんの葬式でもお大師さんのお札は戻ってきたけれど、浄土真宗の教えってどういうことなんだろうと思うようになりました。こんなに大きなお堂のまん中にいる親鸞聖人ってどんな人だろうって。いろいろ興味が出てきました。


今までの自分の感覚で考えていた仏教とは何か違ったものを御本山で感じました。広いお堂に民衆を包み込むような包容力というのでしょうか。そこに結集する人々の力というのをあの毛綱やお堂の広さから感じました。自分が求めていた教えはこれかもしれないと直感しました。


帰り際、参拝接待所のところに「真宗門徒は帰敬式を受けましょう」という看板がありました。いろいろ聞いたりして、3回目に京都へ行く前に、真宗には帰敬式というのがあって、お剃刀を受けると法名をもらって門徒になれるということを知りました。

法名=仏弟子=お坊さん。そんな感覚で平成10年の1月28日(旧暦では11月でしょうか)、ちょうど親鸞聖人の御命日の日に帰敬式を受けました。

参拝接待所では変なのが来たと思ったでしょうね。所属寺はないし、「どうして受けるのか」と問われて、「とりあえず先祖供養のため」なんて答えるんですから。でも、真宗の門徒になりたいということをなんとか聞いてもらえて、その日の帰敬式を受けることができました。


真宗の門徒になったという自己満足は持てました。真宗の教義もわからずに、なんとなく真宗の門徒になったという時期でした。そして、私の本当の意味での回心体験となる転勤が4月に待っていたのです。

帰敬式を受けたあとですが、根無し草の浮き草門徒である私は、練馬に真宗会館があることを知り、早速日曜礼拝に通いました。帰敬式が1月、転勤が4月。楽しい真宗lifeが本当の浄土真宗として自分のどん底を救う教えになるなんて、新参門徒の知る由もありませんでした。

親鸞聖人は、35歳で越後に流されましたが、私は35歳で過酷な転勤を強いられました。不遜ですが、親鸞聖人の人生と私の年令が重なるのは、偶然でしょうが、不思議な気持ちがします。


転勤してしばらくは、仏教どころではありませんでした。教員として自信に満ちていた有頂天から、学級崩壊のクラスを担任するという地獄にたたき落とされたのですから。毎日、クラスでいろいろな事件が起きました。自分の無力さとどうしようもない現実にウツになりました。何も考えられない状態というか、次に何が起きるのか、そればかりが頭の中にあって、整理がつかない状態でした。真宗の本を読む気力さえなかったです。ただ、自分で描いた阿弥陀様に手を合わせるだけでした。


朝が来るのが恐い。眠りについても、学校の夢を見て夜中に起きる。不眠と疲労で限界までいきました。そしてあの日。小田急線のホームでのこと。向かってくる電車に近づいた寸前に足が止まりました。今思えば、恐くて死ぬことなんかできなかったのでしょうが、電車に向かう自分は自分でなかったような気がします。ふと我に返った瞬間でした。


真宗が本当に自分の求めていたものだと思ったのは、やはり転勤して、つらい思いの中で現実を受け止められるようになったときだと思っています。それまでは真宗の教義も、学問としてとか、雰囲気の問題であって、自分との関わりはなかったように思います。そこで踏み止まってからです。お寺に行ってみようと思いました。
 

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青草民人の宗教遍歴 2

2013年12月07日 | 青草民人のコラム

中学、高校はいろいろとそれなりに楽しいことに追われて過ごしましたが、信仰という面ではやはりお大師様を信じていました。
ちょうど弘法大師のご遠忌があって、北大路欣也主演の『空海』という映画を見たのがきっかけだったでしょうか、空海を歴史的に研究するようになりました。また、丹波哲朗の『大霊界 死んだらどうなる』という映画にもはまって、神秘的なものへのあこがれから、学問的に仏教を学ぼうと思い始めました。

将来の仕事も僧侶になりたいと考えることがありました。それは世の中のためになる仕事として歴史上の僧侶の生き方にあこがれたからです。しかし、そんなある日、決定的な出来事がありました。

いつものように川崎大師にお参りに行ったときのことです。いつになくお経が簡単になったなあと思いました。その日は、たくさんの人出で、お経もこころなしか短かったように感じました。そして、参詣している私達の前に警備会社の人がきて、賽銭箱のお金をジャラジャラと取り出して持って行ったのです。寺院関係者には別に日常の出来事かもしれませんが、参詣に来た信者にはいかにも味気ないというか、馬鹿にされたような行為でした。


そのとき、これが自分の追い求めていた仏教なのかと思い始めたのです。もちろん弘法大師が求められた現世利益は自分の利益だけを求めるためのものとは無縁だと思います。空海は朝廷に仕えた高僧ではありましたが、民衆の力にもなろうとした人です。


この賽銭事件は仏教に対する熱意をさましたというよりも、現代の仏教の在り方に対して幻滅した出来事です。歴史上の弘法大師と現実に目の前にいるお坊さんとのギャップというのでしょうか。お坊様はみんな偉い人だという観念が崩れていく。憧れの彼女が化粧をへらで落とすのを見てしまったようなものです。


そんなことから仏教の原点にかえりたいと思うようになりました。あこがれの仕事も僧侶になることを諦め、現代で僧侶の役目をするなら教育者であろうと、教師への道を選びました。


大学生になると、空海のことを学術的に調べるようになり、また他の仏教についても学ぶようになりました。私の大好きだった女の子が鎌倉の出身だったということもあって、よく鎌倉の寺を一人で散策しました。


ただ彼女に会いたかっただけかもしれませんが、彼女には結局想いを伝えきれず、一緒になれませんでした。切ない心を紛らわせるために、という気持ちもあったのかもしれません。煩悩を抱えながら、どうすることもできない自分に悩み、いろいろな宗派の寺を巡り、仏教の世界に救いをもとめていたのかもしれません。

小学校の教員に就職してからは、教育のことが中心だったので、宗教はあまり意識しなくなりました。青春まっただ中なので、遊ぶことぐらいしか考えていなかったのでしょう。そのころから釣りを趣味にしていまして、家内と結婚してからも二人で釣りに行ったりしていました。

ちょうど29歳のときに長男が生まれて、好きな釣りにも行けず、本を読む機会が増えました。そして仏教関係の本を読み直したりしました。

絵を描くことにも興味を持つようになりました。最初は風景を描いていましたが、私は墨彩画を描くので、仏画に興味をもち、写仏を始めました。そのうち写経もするようになり、『般若経』や『浄土三部経』を書写しました。

またお寺めぐりを始めました。朱印帳を持っていろいろな所に行きました。ちょうど仏教ブームが始まるころで、仏教に再び興味を持ち出したのはそのころだと思います。


きっかけといえば、息子が生まれたことでしょうが、お釈迦様のような深い悩みからというわけではないので、お恥ずかしい限りです。ただ、なかなか子宝に恵まれなかったので、いのちをいただいたという感慨はあったと思います。釣りをすることを殺生だと感じるようにもなりました。


今思うと、仏教に深く関わるようになったのが29歳、お釈迦様が出家されたのと同じ歳でした。親鸞聖人が法然聖人の門にはいられた歳と同じです。ただの偶然ですが。


実はお寺めぐりをするようになったり、写経をするようになったのには、きっかけがありました。平成9年の3月に教え子を亡くしたのです。あのときのショックが原因で、いろいろと思うところがあって、お寺をまわろうとか、写経をしようとか、仏画を描こうとかと思いました。


あの子の死に接していなかったら、お寺に興味を持つこともなかったかもしれません。子供の死を目の当たりにしたのは初めてでしたし、その子の数奇な運命を考えると、死は受け入れられるものではありませんでした。


あの子は3年生の終わりに交通事故に遭い、車にひかれながらも一命を取りとめ、奇跡的に生還しました。しかし引っ越した先の学校でひどいいじめに遭い、ふたたび越境して私の小学校に戻ってきました。ところが、2週間ほどで卒業という矢先、風邪をこじらせて再入院した病院で、呼吸器に異常をきたして、あっという間の死でした。

大きな事故を乗り越え、つらい目に耐えてきたのに、彼女に与えられたものは死だったのです。そんな無常な死に様を目の当たりにしたことは、教師として、人間として、とてもショックでした。いのちのはかなさを深く感じたのです。

古寺巡礼も写経も写仏も仏教へのとば口を求めていたにすぎないのでしょう。宗派にとらわれずに、仏教そのものに触れていきたいと考えなおしました。今風にいうと仏教による癒しです。

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青草民人の宗教遍歴 1

2013年12月03日 | 青草民人のコラム

以前、管理人のメル友である青草民人さんに「青草民人の宗教遍歴」を書いてもらい、このブログに掲載していました。
加筆訂正したいという青草民人さんからの要望があり、旧「青草民人の宗教遍歴」は削除し、新「青草民人の宗教遍歴」を載せることになりました。

青草民人は小さいころ、『地獄と極楽』というマンガを好んで読んでいました。これは、毎年初詣に行っていた川崎大師の夜店で買ったもので、宗教マンガとでもいうのでしょうか。『おしゃかさま』とか『かんのんさま』といった本もあり、何回も楽しんで読んでいました。ほかにもオカルトの本だとか、お化けの話なんかもよく読んでいました。
6年生の時、よく友だちとコックりさんをやっていました。あのころ、ツノダジロウの『恐怖新聞』だとか『うしろの百太郎』を読んだ記憶があります。オカルトに興味があったのでしょうね。そういう不思議なものに惹かれました。

だけど、地獄には恐怖は感じていなかったです。行きたいとは思いませんでしたが。心の中で、仏様を信じている自分には無縁なところだという気持ちがあったのでしょう。自分は信心しているから大丈夫、仏様が守ってくれるんだから、という感覚でしょうか。

選ばれた人間というか、信じる者は救われるという自負がありました。オカルトについてはかなりのあいだ信じていましたね。霊というものに対する怖れは大人になってからもありました。

ただ、今は霊の否定ということではなく、怖れがなくなりました。
我々自身が生としての存在だけでなく、「死もまたわれらなり」(清沢満之)という存在であることを認識すれば、おのずと霊というものの存在を否定もしませんが、肯定する必要もなくなるのだと思います。

父が個人タクシーをしていた関係で、川崎大師に車のお祓いに毎年行っていました。そして護摩をあげる僧侶の加持祈祷に強く心を引かれました。『般若心経』の書いてあるお守を大事にもち、ときどき自分で読み上げていました。
自己暗示というのでしょうか、「南無大師遍照金剛」とお大師様のご法号を唱えると、力が沸き出すように感じました。自分は法力を授かったんだと、今考えると吹き出しそうなことを思っていました。

不可能を可能にしてくれる真言。
「おんあぼけやべいろしやのまかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやうん」
真言宗の修法には、法力があると強く信じていました。真言には不可能を可能にする法力が宿っていて、そのことに集中すれば自分にも力が与えられるんだと。

不思議な真言と護摩の火や太鼓の音に憧れ、お大師様に惹かれていきました。そのうち、真言密教に憧れるようになり、加持祈祷で不思議な霊力を身につけたいと思うようになりました。 

しかし、不可能を可能にする法力というのはないですね。不可能を可能にしようとする気持ちにさせる修法はあるかもしれませんが。

私は、ひたすら真言を唱えるということぐらいしかしていませんでしたが、唱えていると何だか願いがかなうような気がしました。

神秘体験といったことはありませんでしたが、何かをしようとするときに、おつげのようなものを感じるというのでしょうか、お大師様のおつげを自分で聴いていたような気がしていたかもしれません。
多分、勝手に思い込んでいたんだと思います。それでいい思いをしたことはないですね。法力を身につけて超能力を得るということは凡夫の私にはできません。

中学生になると歴史に興味をもつようになり、空海を歴史上の人物として捉えるようになりました。弘法大師から空海という人物として見るようになったわけです。

それと初めて、真言宗が宗派仏教として私の信仰の対象になったのがこの時期だと思います。空海の教えは宇宙との一体化、梵我一如に近い発想ですね。やはり密教はバラモン教に影響を受けているのでしょうか。
如来の加持とは、阿弥陀の他力とは違うように思いますね。祈祷によって加持を得るのが真言の秘法でしょうから、呪術的なものでしょうね。思い通りにはたらかせようとする。やはり自力です。


真言宗の教義の根本は即身成仏、生きたまま仏になること。仏との縁を結び、真言を唱えることにより仏と一体になる。現世利益は即身成仏に近い考え方ですが、本当は同じことではないと思います。
ただ、大師の即身成仏の信仰がこの現世利益と結びついたのは庶民の信仰だからでしょう。私が真言宗に惹かれた理由は、やはり即身成仏=現世利益という部分に神秘的な要素が加わったからだと思います。真言宗の本当の意味の教義ではありませんが。


そのころ大好きだったおじが白血病で急逝しました。病気平癒の護摩札を送りましたが、おじの家は真宗王国の北陸です。「気持ちだけは有り難くいただく」と言われ、護摩札を母が持ち帰ってきました。

浄土真宗という宗派が自分の一族の宗派だと初めて認識したのと、護摩札をお棺に入れてもらえなかったことを悲しく思ったことを覚えています。

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