三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

高木俊朗『狂信』

2006年07月28日 | 問題のある考え

敗戦後、ブラジルでは日本が勝ったと信じる勝組(信念派)と負組(認識派)に分かれて争った、ということは知っていたが、高木俊朗『狂信』を読むと、まことに奇々怪々な出来事である。

高木俊朗は昭和27年に映画製作のためにブラジルに行き、日本の敗戦を信じない勝組の存在は笑い話ではないことを知る。
ブラジルでは、勝組が負組を襲い、殺された者17名、巻き添えで死んだ者が1名、重軽傷は11名、暗殺者側は1名死亡、負傷2名、そしてブラジル人の死亡者は2名である。

事件は襲撃や暗殺だけではない。

愛国運動を偽装した詐欺事件も同時にあった。
詐欺の主犯(勝組の指導者)が逮捕されて一応の落着を見せたのは昭和30年、その後も形を変えた騒乱や詐欺が昭和40年ごろまで連続していたそうだ。

敗戦後のブラジルで、日本の敗戦を認めない勝組の行動で混乱が生じたのは、「勝った負けたの思想の対立だけ」ではない。

どうして勝組ができたのか、負組(認識派)の新聞記者はこう言う。

大体、三つの原因があるといえる。一つは、日本は神国だから、負けるはずがない、といった明治教育から作られた信念。第二は、移民という特殊な環境から生れた心理。第三は、それらを利用した犯罪。


どういう犯罪か。
日本戦勝論をとなえて多額の献金を持ち帰った日本の代議士。
南方、スマトラ、ジャワ、ボルネオの日本占領地(もちろんウソ)を売りだす詐欺。
紙くず同然の旧円や軍票を日本が勝ったことにして売りつける。
ニセ宮様、ニセ特務機関、ニセ将校なんかもいる。
まことにあくどい。

記者はさらに続ける。

暗殺事件については、犯人たちは真剣に、それが愛国の行為だと考えていた。だから、暗殺団は特攻隊と称していた。しかし、勝ち組の狂信者を利用して金もうけをした悪人がいた。これが、金もうけのために、日本戦勝を宣伝した。もちろん、本人は敗戦の事実を知っていた。

このあたり、狂信者と彼らを利用して金もうけする悪人、という構図はインチキ宗教と似ている。

高木俊朗もこう言う。

なぜ、この人たち(勝組の人)は、同じことを、同じ調子で話すのか、と考えた。そして、ふと思い当たったのは、新興宗教などに熱中した信者のことである。彼らは自分たちの信仰を絶対と信じ、それを、他人の気持を無視して、押しつける。

勝組による騒乱は敗戦後の一時的な現象ではない。
今にも通じる問題である。

ブラジルの日本人の大部分は、どうして日本が負けたことを認めることができなかったのか。
高木俊朗は負組の指導者に「そこまで、たくさんの日本人が、日本の戦勝を信じ、その上、長い間、その信念を変えなかったというのは、原因はなんでしょうか」と尋ねると、このような返事が返ってきた。

その根本は、天皇崇拝、皇室中心主義のためでしょう。戦争後の天皇陛下の地位が変わったことや、母国民の陛下に対する考え方の変わったことは、勝組の人たちには、まったく理解できなかったのです。神様天皇が人間天皇になられたといっても、本気にできないわけです。これが、日本の実情を理解できない一番大きな障害でしたな。

忠君愛国の教育、そして教育によって植えつけられた神州不敗の信念、ということである。

『狂信』の初版は昭和45年、角川文庫版が昭和52年発行である。

角川文庫版のあとがきには、昭和48年に勝組の三家族14人が日本に帰ってきたことが書かれている。
彼らは、やはり日本は負けていないと断言する。
どうしてか。

天皇がいる限り、日本は負けない、というのだ。敗戦ならば、天皇は責任をとり、生きているはずがない、と信じていた。

この言葉を昭和天皇はどのように聞くか。

暗殺者との対話。

「どうして、殺すつもりになりましたか」
「山岸隊長(暗殺隊の隊長)が殺せと命令したからです」
「それでは、あなた自身が殺さねばならないと考えたわけではないのですか」
「そうです。自分はなんとも思いません」
「そんなことで、人を殺してもいいのですか」
「山岸隊長が殺せといったから、やっただけです。それは天皇陛下が殺せといわれたのと同じです」

暗殺者の言葉はオウム真理教を思わせる。
ということは、日本軍はカルト的思考だということである。

高木俊朗はこのように言う。

かつての軍部の狂信者は、日本を破滅させた。今日、軍国主義や皇国思想の復活をはかる者は、勝組と同じ狂信者であろう。

国民主権、基本的人権、平和主義を否定し、憲法を改悪しようとする人たちは「勝組と同じ狂信者」ということだ。

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フランソワ・オゾン『ぼくを葬る』と高見順『闘病日記』

2006年07月23日 | 映画

フランソワ・オゾン『ぼくを葬る』を見る。

31歳のカメラマン、ガンであと3ヵ月という宣告を受ける。
最後、海水浴場でデジカメでパチパチと写す。
その表情は、高見順がガンになってから書いた詩集『死の淵より』の中にある「電車の窓の外は」という詩を思い出させた。

電車の窓の外は
  光にみち
  喜びにみち
  いきいきといきづいている
  この世ともうお別れかと思うと
  見なれた景色が
  急に新鮮に見えてきた
  この世が
  人間も自然も
  幸福にみちみちている
  だのに私は死なねばならぬ
  だのにこの世は実にしあわせそうだ
  それが私の心を悲しませないで
  かえって私の悲しみを慰めてくれる
  私の胸に感動があふれ
  胸がつまって涙が出そうになる
    (以下略)

昭和38年10月、高見順は食道ガンを宣告され、昭和40年8月17日に58歳で世を去った。
高見順は日記をずっと書き続けていたが、入院中に書いたものが『闘病日記』である。
そこに書かれている言葉は、正岡子規もそうなのだが、宗教臭さがないだけ素直に受け取ることができる。

あらゆることは、すでにほとんど人によって考えつくされている。しかし大事なことは、それを自分で考えてみることである(ゲーテ)。
死については、すでにもう人によって考えつくされている。しかし私なりにやはり考えてみよう。

 

死に対する覚悟とは、いつ死んでも平気だという覚悟というほかに、だから生を投げるというのでなく、むしろ生きられるだけは、生きている間は、生を充実させようという覚悟なのではないか。生の尊重、それがすなわち、死に対する覚悟というものではないか。

自分の死を目の前にして、多くの人は生と死についてさまざまなことを考える。
が、文学者ように表現できる人は少ない。
『闘病日記』には、ほかにもノートに書きとめたくなる言葉があちこちにある。

自分を真に愛することのできない人間に、他人を、大衆を真に愛することはできない。

 

自分をちがう人間にしうると考え、自分の考えている理想像に近づけることが生長であり発展であると考えた。私というものは、けっきょく、私になりえたということにすぎない。すぎないという言い方はどうか。私が私になりえたら大したことではないか。私ははたして私になりえたか。


ちなみに、映画では一発妊娠の法則というのがあるが、『ぼくを葬る』もこの法則が適用されていた。

 

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諸富祥彦『人生に意味はあるか』(3)

2006年07月19日 | 問題のある考え

諸富祥彦『人生に意味はあるか』で説かれている「人生の意味」とは、ニューエイジ・スピリチュアルの答えである。
ニューエイジ・スピリチュアルの主張をまとめてみましょう。
今の私とは違う「もう一つの私」があり、それが「本来の私」である。
そして、今のこの世界は「本当の世界」ではない。
だから、「本当の世界」「本当の自分」に目覚めなければならない。

諸富祥彦氏の考えを見てみましょう。

人生の意味や目的の問題は、「この世界」に主軸を置いて、そこからものごとを見たり感じたりする場合と、ある種の体験を経て、「この世界をその一部として含みつつも、それを超えた世界」に主軸を移し、そこに視座を置いてものごとを見る場合とでは、その答えがまったく異なってくる。

 

立脚点がシフトする、とは、「未知の世界」が「真の世界」であるとリアルにわかり、そこに身を置き、そこから「この世界」を見るようになる、ということです。

このように、諸富祥彦氏の考えはニューエイジそのものです

ニューエイジのもう一つの特徴は、個人が「霊的成長」することによって「人類の進化」が起こる、ということである。
諸富祥彦氏も同じことを言っている。

人生や世界を眺める立脚点のシフト(転換)についてお話ししていますが、これはものすごく重要なことです。個人の自己成長、内的成長、という観点から言っても、これが最大の分かれ目になるでしょう。大げさに言えば、人類が精神的にさらなる進歩を遂げることができるかどうかは、このシフトが人類規模で、同時発生的かつ集合的になされうるかどうかにかかっている、とさえ思います。

これはニューエイジ系の新宗教であるオウム真理教と同じ考えである。

そして、ニューエイジはすべてを心の問題として単純化し、社会の問題に目をつむってしまうのだが、諸富祥彦氏も同じ。

この世界のすべては、あの究極のリアリティ=「いのちのはたらき」そのものの顕現であることが実感されてきます。 あぁ、この世界は、ただこのままで、何と完璧なのでしょうか。 このとき、私たちは「生きる意味」を「味わって」いるのです。

世界では年に約1500万人、一日に約4万人が餓死している。
日本でも、一年間に餓死する人は40人以上、多い年は90人を超える。
虐待で殺される子供は年に数十人だが、その子供たちに「この世界は完璧」だと言えるのか。
こういう「ありがた教」は嫌いです。

諸富祥彦氏が自説を正しいと信じているのは、体験が真実だと思い込んでいるからである。

この「はたらき」は、私一人が発見したものではなく、多くの宗教家がそれに目覚めた人間存在の普遍的真理であったということです。 真理を追い求める行程はいずれどうしようもない行き詰まりにぶちあたります。この苦悩の極限において、自らの安定を図る自我が削り取られ朽ち果てて、「いのちのはたらき」に目覚める。そしてそれこそが真実の主体である、と知る。こうした目覚めの体験、覚醒体験が、洋の東西を問わず、さまざまな宗教の根源にあると思うのです。

体験することを諸富祥彦氏は強調する。

人生のほんとうの意味と目的。それはある状態においてだけ得ることができる「体験的な真理」なのです。

体験していない者は諸富祥彦氏の話を理解できないし、人生の意味が何かの答えに至ることができない。
一種のエリート主義である。

私には神秘主義にしか思えないのだが、諸富祥彦氏は否定する。

これは何も、霊的な体験でもなければ、神秘体験でもありません。七年も同じ状態にとどまり、人生の意味を問い続けたことによって、私の身体が変容を遂げていたのだろうと思います。

「身体が変容」という表現もすごい。

オウム真理教を脱会した元信者はこのように書いている。 y

神秘体験を「幻影」というのは簡単だが、本人にとってきわめてリアルな「体験」であり、現世こそが「幻影」とまで感じている。この「神秘体験」は、現在も残っている信者にとって、脱会しない、脱会できない最大の根拠となっている。(カナリアの会『オウムをやめた私たち』)


体験至上主義に陥ると、自分が体験したんだから間違いない、これこそが真理だと思い込み、聞く耳を持たなくなる。
しかし、体験なんていい加減なものである。
勘違いかもしれないし、夢を見ているにすぎないかもしれない。
それなのに、自分の体験を自分自身で解釈し、「これは真理だ」と断定する。
こういう思い込みや夢(妄想)から目覚めさせるのが仏教のはずである。

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諸富祥彦『人生に意味はあるか』(2)

2006年07月13日 | 問題のある考え

諸富祥彦氏の言う人生の意味とは何か。
『人生に意味はあるか』によると、諸富祥彦氏は中2の時から7年間、死に物狂いで人生の意味と目的を求め、心身はボロボロになり、自殺未遂までしたという。

私は、中学三年生の春から、おおよそ七年もの間、「人生の意味」を求め、いくら求めてもそれが求まらずに苦しんでいました。(略)
そんな思いで生きていたある日のこと、私はついに決意したのです。
もうこのままでは仕方がない。これから三日間、飲まず食わず寝ずで、本気で答えを求めよう。そしてそれでもダメだったら、今度こそきっぱりと死のう、と。
三日後……「答え」は見つかりませんでした。(略)
「もう、どうにでもなれ」。心身の疲労が限界にきていた私は、なかば魔が差したのも手伝って、実際に、その場に倒れこんだのです。うつぶせに。けれど、何かが、いつもと違う……。からだがとても軽いのです。不思議だな、と思って、あおむけになってみると、横たわった私の、おなかのあたりの、ちょうど1メートルほど上の位置でしょうか、そのあたりに、何かとても強烈な「エネルギーのうず」のようなものが見えたのです。
「あああぁぁ……」。言葉に、なりませんでした。
けれども、なぜだか見たとたん、わかったのです。「これが私の本体である」と。
ふだんこれが自分だと思っていた自分は、単なる仮の自分で、むしろその「エネルギーのうず」こそが、自分の本体だ。疑うことなく、そう思えたのです。
「何だ、そうだったのか」。その瞬間、すべてがわかりました。私は何であり、これから私がどうしていけばいいのか、も。(略)
その「エネルギーのうず」は、ときには私と一体化し、ときには私の頭上に場所を移して、今も私を導いてくれています。

なんなんだこれは、という「人生の意味」でした。

「エネルギーのうず」とは何か。

あえて名前を付けるとすれば、「いのちのはたらき」とでも呼ぶほかないような何か、です。いのちという言葉を使うことで加わる、ある種のニュアンスを避けるとすれば、「エネルギー自体」とか「はたらきそのもの」というほかないでしょう。

「エネルギーのうず」が「私の本体」だと言われたらゲゲゲとなる人も、「いのちのはたらき」だったら納得するんじゃなかろうか。
たとえばこれ。

人生の意味とは何か。この問いを極限まで問うていき、ついに問う主体である自我それ自体が破れた時、「いのちのはたらき」に目覚めるのだ。

それとかこれ。

悩みを自分の内面に保持して、投げ出さず、しっかりと悩みぬく。この体験は相当に厳しい体験です。しかし、この悩みぬく体験をやりぬくことによって、いつしかその人の心身のあり方に、根本的で、かつ、持続的な変容が生じてきます。そしてついに、自我が破れて「真理の目覚めの体験」が訪れるのです。

こういった文章だけを引用すれば、「いいこと言っているじゃないか」と思う人は少なくないだろう。

もはや「私が生きている」とは言えません。私が生きている、「私がいのちを持っている」のではない。生きているのは「いのちのはたらき」そのものであって、むしろ逆に「いのちが、私している」。「いのちのはたらき」がまずあって、それがあちらでは「花」という形、こちらでは「草木」という形をとっている。その同じ「いのちのはたらき」が、今・ここでは「この私」という形をとっている。

これなんて御遠忌テーマの説明になっているじゃないですか。

諸富祥彦氏レベルになると、相手に合わせて言葉を選び、そうして自分の考えを伝えることができる。
だから、仏教について今の言葉で語っていると思い込み、安易に飛びつくのはやめたほうがいいと思う。

(追記)
もっともらしいことを言っていても、実はおかしいのは、五木寛之氏や帯津良一氏がそうです。 http://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%B7%F2%B9%AF%CC%E4%C5%FA

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諸富祥彦『人生に意味はあるか』(1)

2006年07月10日 | 問題のある考え

東本願寺の御遠忌テーマが「今、いのちがあなたを生きている」に決められたのは、諸富祥彦明治大学教授の影響が大ではないかと邪推している。
というのも、諸富祥彦氏のHPに「いのちが、私している」とあり、御遠忌テーマそのままである。

そこで諸富祥彦『人生に意味はあるか』を読んでみました。
「人は何のために生まれ、いかに生きていくべきか」、「人生の、ほんとうの意味と目的」という問いに「真正面から」答えた本である。
諸富祥彦氏は断言する。

七年もの間、人生の意味と目的を求め続けた結果、私は「答え」を手に入れることができた。

その答えは何か?

「人生の意味」とは何かに答える前に、諸富祥彦氏は、学生たちの「人生に意味はない」理由、「人生に意味はある」理由の答えを紹介している。
学生たちのさまざまな答えは面白くて、これだけで充分という気がする。
人生の意味について、哲学や宗教の答えも紹介されているのだが、五木寛之、トルストイ、そしてなぜか親鸞会の本『なぜ生きる』が取り上げられている。
奇妙な選択ではあります。

諸富祥彦氏はスピリチュアリティに多くのページが費やしている。

宗教、特に組織宗教に足を運ぶのは、どこか抵抗がある。とにかく、「宗教」はアブナイ。かかわりあいにならないほうがよさそうだ。
現代人は「宗教に代わる新たな何か」を捜し求め続けてきました。私たちに、生きる意味と目的とを納得のいく形で感じさせてくれる、宗教ではない何か。
そこで今、宗教に代わる新たな選択肢として私たちの前に差し出されているのが、スピリチュアリティなのです。


そして、絶賛する。

「生きる意味を実感できる社会」に日本社会が生まれ変わるためには、必ず、スピリチュアリティの智恵が必要とされると思っています。


では、スピリチュアリティとは何か、諸富祥彦氏はどのように考えているのか。
江原啓之氏を次のように好意的に紹介しているのを読むと、カルマの浄化による人類の進化というお話を諸富祥彦氏も信じているようである。

私は、江原さんは、「あやしいけど、有益」なメッセージを発している方だと思います。
江原さんのメッセージは明快です。
「私たちが一番大切にしなければならないことは、『たましいの成長』です。それこそが私たちの『人生の目的』なのです」
さらに、次のような壮大な展望をも語っています。
「私たちは実は人間ばかりでなく、日本、そして地球人類全体の進化・向上をも担っているからです。地球のカルマは日本のカルマでもあり、それはまた私たち個人のカルマなのです。
私たちはこの宇宙を、地球という星を浄化させるために生きているのです。私たちの究極の目的は、この星を浄化させ神の国とし、神の光の粒子となっていくことなのです」
ただの霊能者でないことは、このことばだけでもわかりますね。

私には「ただの霊能者」のたわごととしか思えない。

諸富祥彦氏は日本トランスパーソナル学会会長である。
トランスパーソナル心理学とは何か、諸富祥彦氏の説明。

(トランスパーソナル心理学では)臨死体験などをある特定の意識状態(変性意識状態)におけるリアルな現実と認めていくのです。
変性意識状態とは何か。それはたとえば、夜見る夢や、宗教的な覚醒体験や宇宙や大自然との合一といった日常とは異なる意識体験のことです。神秘体験や臨死体験をはじめ、体外離脱体験、前世の体験、死者とのコミュニケーション体験などもここに含まれます。そして、こうしたさまざまな特殊体験の本質的な意味を理解するには、それぞれ意識状態に応じた科学が必要であると考えるのです。

本人にとって「リアルな現実」であっても、客観的事実とは限らないのだが、諸富祥彦氏は客観的真実だと考えているわけです。
ウィキペディアによると、トランスパーソナル心理学は「宗教やオカルトそのものであるとの批判がある」そうだが、会長さんがこれでは批判ももっともだと言わざるを得ない。

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カール・ロジャーズ『人間尊重の心理学』

2006年07月08日 | 問題のある考え

来談者中心療法の創始者カール・ロジャーズはカウンセリングの基礎を築いた人である。
人間的にも大変優れた人だったそうだ。

そのカール・ロジャーズの晩年の講演をまとめたのが『人間尊重の心理学』である。
正直、がっかりした。

人は自分が真に聞いてもらえたと感じる時、彼の目がうるみます。私は、真の意味において、彼は喜びから泣いているのだと考えます。

 

今日、数えきれない人々が孤独な牢の中で生きています。皆さんがその牢から流れてくるかすかな信号を鋭く聞きとめてやらなければ、外の世界の存在を知らない人々がいるのです。

 

私が他者を素晴らしいと思い、思いやり、愛する時、またその感情を相手にさし出していく時、自分が豊かになったように感じます。

こういった言葉は非常に素晴らしいと思う。

ところが、未来の世界について、ロジャーズ自身が住みたい世界というのがトンデモなのである。

第一は、人間の潜在能力に関する視野を広げるような進歩であります。
○あらゆる形の瞑想、すなわち内的エネルギーの認識と活用に対する強い関心が高まっている。
○テレパシー、予知、透視のような超現象は十分検討され、科学的に認められるようになってきた。さらに、多くの人はそれらの能力を自分の中に見出したり発達させたりできるという証拠もみられる。
○病気の多くは意識あるいは無意識を意図的に活用することで治したり、軽くできることがわかってきた。全体的健康という視点が人間の内的可能性の理解を拡大している。
○進化が進めば現在よりはるかに力を持つ超現象や超精神を持つかもしれない。

 

それらは人々が認識している人間や世界への観念を大きく変革します。隠された能力があるとは考えられなかった人の概念を変えるのです。彼の無意識の知力は、測りがたい力を秘めています。その力は身体機能を統御し、病気を治し、新しい現実を創造することができます。また未来を洞察し、離れたところにある物体を見たり、思想を直接伝達することも可能です。こういう個人は自分の力や可能性を新しく捉え、自分が変化の過程にあると認識します。彼は新しい宇宙に住んでいるのです。そこでは、時間、空間、物体、物質といったおなじみの概念は消え、振動するエネルギーだけが残っています。


ロジャーズは晩年、スピリチュアルに傾倒していたそうだが、超能力がどうのこうの、進化がなんたらかんたらといったことを真面目に信じていたとはね。

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石井光太『物乞う仏陀』

2006年07月06日 | 

石井光太『物乞う仏陀』を読むのは少々しんどくなる作業です。
パキスタンを訪れて障害者の乞食が多いことに驚いた石井光太氏は、なぜ彼らは手足を失い、物を乞うようになったのか、同時に、障害者は各国でどのような状況に置かれているのだろうかと考え、東南アジア・南アジアの乞食や障害者を訪ね歩く。

貧しい地方(農村)では、家族に障害者がいると誰かが世話をしないといけないので、働き手が一人減ることになる。
そこで、家のお荷物になる障害者はほっておかれる。
自立しようとして都会に出る障害者には、物売りか乞食しか仕事はない。

プノンペンの乞食(地雷による障害者)は活き活きとしており、彼らの多くは一日の収入をその日のうちに酒か女かに使ってしまう。
生まれつきの障害者の話を聞きたいと思った著者は、日本語学校の校長に通訳を頼む。
すると校長は、ユートピア建設に邪魔な障害者を抹殺しようとしたポルポト政権下でどうして生き延びたのか、誰を売ったのか、とその障害者を問いつめる。

インドの乞食には身体障害者が多い。
それも先天的な障害ではなく、手足を切断された者が極端に多い。
その謎を探る著者。
すべてはビジネスだったのである。

赤ん坊を誘拐し、5歳までは乞食に貸して金を取る。
そして5歳になると、手足を切って乞食にして、儲けを取り上げる。
こんな話、ウソだと思いたい。
しかし、石井光太氏のHPにはちゃんと写真があるから…。

ミャンマーの障害者と孤児を世話している教会の院長は、石井光太氏の質問にあっさりとこう答える。

キリスト教はね、人に愛を与える宗教なの。特に困っている人には手を差し伸べてあげなければならないの。困った人がいたら助けたいという気持ちは誰にでもあるでしょ。その気持ちを実行に移すことをイエス様に教わったの。

大したもんです。

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