敗戦後、ブラジルでは日本が勝ったと信じる勝組(信念派)と負組(認識派)に分かれて争った、ということは知っていたが、高木俊朗『狂信』を読むと、まことに奇々怪々な出来事である。
高木俊朗は昭和27年に映画製作のためにブラジルに行き、日本の敗戦を信じない勝組の存在は笑い話ではないことを知る。
ブラジルでは、勝組が負組を襲い、殺された者17名、巻き添えで死んだ者が1名、重軽傷は11名、暗殺者側は1名死亡、負傷2名、そしてブラジル人の死亡者は2名である。
事件は襲撃や暗殺だけではない。
愛国運動を偽装した詐欺事件も同時にあった。
詐欺の主犯(勝組の指導者)が逮捕されて一応の落着を見せたのは昭和30年、その後も形を変えた騒乱や詐欺が昭和40年ごろまで連続していたそうだ。
敗戦後のブラジルで、日本の敗戦を認めない勝組の行動で混乱が生じたのは、「勝った負けたの思想の対立だけ」ではない。
どうして勝組ができたのか、負組(認識派)の新聞記者はこう言う。
どういう犯罪か。
日本戦勝論をとなえて多額の献金を持ち帰った日本の代議士。
南方、スマトラ、ジャワ、ボルネオの日本占領地(もちろんウソ)を売りだす詐欺。
紙くず同然の旧円や軍票を日本が勝ったことにして売りつける。
ニセ宮様、ニセ特務機関、ニセ将校なんかもいる。
まことにあくどい。
記者はさらに続ける。
このあたり、狂信者と彼らを利用して金もうけする悪人、という構図はインチキ宗教と似ている。
高木俊朗もこう言う。
勝組による騒乱は敗戦後の一時的な現象ではない。
今にも通じる問題である。
ブラジルの日本人の大部分は、どうして日本が負けたことを認めることができなかったのか。
高木俊朗は負組の指導者に「そこまで、たくさんの日本人が、日本の戦勝を信じ、その上、長い間、その信念を変えなかったというのは、原因はなんでしょうか」と尋ねると、このような返事が返ってきた。
忠君愛国の教育、そして教育によって植えつけられた神州不敗の信念、ということである。
『狂信』の初版は昭和45年、角川文庫版が昭和52年発行である。
角川文庫版のあとがきには、昭和48年に勝組の三家族14人が日本に帰ってきたことが書かれている。
彼らは、やはり日本は負けていないと断言する。
どうしてか。
この言葉を昭和天皇はどのように聞くか。
暗殺者との対話。
「山岸隊長(暗殺隊の隊長)が殺せと命令したからです」
「それでは、あなた自身が殺さねばならないと考えたわけではないのですか」
「そうです。自分はなんとも思いません」
「そんなことで、人を殺してもいいのですか」
「山岸隊長が殺せといったから、やっただけです。それは天皇陛下が殺せといわれたのと同じです」
暗殺者の言葉はオウム真理教を思わせる。
ということは、日本軍はカルト的思考だということである。
高木俊朗はこのように言う。
国民主権、基本的人権、平和主義を否定し、憲法を改悪しようとする人たちは「勝組と同じ狂信者」ということだ。