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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

2011年キネマ旬報ベストテン大予想

2011年12月31日 | 映画

今年も残り少なくなりました。
恒例の
ベストテンの季節です。
ヨコハマ映画祭のベストテンは今年もむむむで、参考にすべきかどうか困ってしまいます。
はてさてと悩みつつ、まずは邦画から。

『八日目の蝉』
『大鹿村騒動記』
『アントキノイノチ』(『おくりびと』よりはるかにいい)
『マイ・バック・ページ』
『冷たい熱帯魚』
『エンディングノート』
『奇跡』
『一枚のハガキ』
『まほろ駅前多田便利軒』
『あぜ道のダンディ』
主演男優賞はダントツで原田芳雄、主演女優賞は永作博美。
助演男優賞は『マイ・バック・ページ』の人たらし松山ケンイチ、助演女優賞は神楽坂恵か。

『ふゆの獣』(東京フィルメックス最優秀作品賞だから入れたいけど)
『サウダーヂ』(ナント三大陸映画祭グランプリ受賞だし)
『ダンシング・チャップリン』(周防正行監督の作品だからに入れたい)
『東京公園』(青山真治監督だし)
ということで、この4作がベストテンに入ってもおかしくない。
となると、6本が当たればいいとしましょう。
あとは
『恋の罪』
『がんばっぺ フラガール!~フクシマに生きる。彼女たちのいま』
『ツレがウツになりまして』
『モテキ』
『監督失格』
『一命』
が20位までの予想です。

私の好みだと、次の4作が上位に来ます。
『僕たちは世界を変えることができない。』
『スマグラー』
『歓待』
『劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴りやまないっ』

洋画です。
『英国王のスピーチ』(やっぱりアカデミー作品賞だし)
『トゥルー・グリット』
『ブラック・スワン』
『ツリー・オブ・ライフ』(カンヌ映画祭パルムドールということで)
『ヒア・アフター』
『猿の惑星:創世記』
『ウィンターズ・ボーン』
『未来を生きる君たちへ』(アカデミー外国語映画賞なので)
『ザ・ファイター』
『ソーシャル・ネットワーク』
半分も当たらない気がします。

20位までとなると
『BIUTIFUL ビューティフル』
『わたしを離さないで』
『127時間』
『アリス・クリードの失踪』
『ブンミおじさんの森』(カンヌのパルムドールといってもね)
『神々と男たち』(『ブンミおじさんの森』よりよほどいい)
『バビロンの陽光』
『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』
『サラの鍵』(年末公開は有利か不利か)
『灼熱の魂』(これも同じ)
それと『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』が最終作だということで、ご祝儀で上位に入るかも。
ほかにも上位に来るであろう候補は山ほどあるのですが。

私の1位は『キック・アス』ですが、去年の作品なので、ベストテンは次の10作。
『台北の朝、僕は恋をする』(アンバー・クォがだんだんとかわいくなってくる)
『ミスター・ノーバディ』(わけのわからなさがいい)
『アレクサンドリア』(キリスト教徒はすごく残虐な殺し方をしたそうだ)
『ラビット・ホール』(信仰で楽になることをきっぱりと否定する)
『シリアスマン』
『スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団』(『うる星やつら』のラムちゃん)
『エンジェル ウォーズ』(こちらは『美少女戦士セーラームーン』)
『アンストッパブル』
『木洩れ日の家で』
『インサイド・ジョブ 世界不況の知られざる真実』

コメント (4)
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森類『鴎外の子供たち』

2011年12月28日 | 

森鷗外の三男である森類は『鷗外の子供たち』を書いたために、姉の森茉莉、小堀杏奴から絶縁された。
どういうことが書かれているのか、この手のことは好きなので気になり、図書館で借りた。

序章の「「鷗外の子供たち」が本になるまで」はそこらの事情が書かれている。
「森家の兄弟」という随筆をI書店の雑誌に発表し、そのつづきを発表しようとしたが、杏奴から「すぐ来てくれ」と電話があり、行ってみると茉莉がいた。
「茉莉さんがひどく書かれているのがお気の毒だと言って、I書店の人が原稿を持って相談に来た」という。
「実の姉をここまで悪く書くのは不道徳だ」と非難され、原稿の書き直しやらでもめ、杏奴は「今後書かない約束をしてくれ」と言うが断る。
そしたら、I書店のK専務から電話がかかり、一緒に食事をすると、
「兄や姉に愛情をもたない文章だ、アブノーマルだ」とK専務は言いだす。
50枚の原稿のうち、最後の1枚分を保留にして残りを載せてもらいたいと頼むと、K専務は「よおーしッ、そんなことを言うなら、ぜったいに載せない。I書店の一重役として雑誌の編集部へ抗議する。もし、他から出すなら出してみろっ。ぶっつぶしてやる!」とどなった。
そして「鷗外が偉いんで、君が偉いんじゃない。いばるな」とまで言われる。
結局「鷗外の子供たち」は『群像』に発表された。
「二人の姉から毛虫のように忌みきらわれ、今は会うことも許されなくなっている」

カッパブックスから出した『鷗外の子供たち』(昭和31年刊)は新しく書いた文章に「森家の兄弟」などを加えたものである。
50年以上が経った今となっては、兄弟たちも歴史上の人物になり、スキャンダラスなことが書かれてあるとは感じない。
砂田麻美『エンディングノート』は父親のガン宣告から葬式までの約半年間を娘が記録したドキュメンタリー。
1993年の夫婦ゲンカの場面があって、砂田監督がたぶん15歳の時にこっそり写したものを保存していたんだと思う。
両親が別居して週末だけ一緒に住んでいたとか、そういうこともナレーションで語っている。
最後の最後、病室で母親が「二人だけにして」と言って、子どもたちは部屋から出る。
だけどカメラはそのままにしているので、両親の会話をちゃんと撮っている。
きれい事で終わってはいないからこそ、『エンディングノート』が優れた作品になっているわけではあるが。
家族に小説家や映像作家がいたら、プライバシーなど存在しないと考えるべきかもしれない。

姉の森茉莉はかなりの変人らしい。
結婚して子どもが生まれたが、家事も子育てもできないというか、する気がない。
母や妹弟が遊びに行っても、催促しなければお茶を出すこともしない。
子どもの健康状態に無頓着で、
「子どもの腹具合なぞに気をつけることはない」
外出すると、帰宅するのは「出たら最後いつになるか分からない」
芝居に行くと帰りは11時、
「そのあいだ夫と子どものことを忘れている」
離婚した理由が夫の芸者遊びと、
「夜の夫が十分健康でなかった」で、何だか矛盾しているように思う。
「茉莉は人と共同生活ができない人」なのに再婚するが、半年で離婚。

「僕の家には人に知られたら一大事という秘密はないが、どこの家にもある程度の知らせたくない事柄はある。茉莉はそういうことを話してしまうのであった」
人のことは言えないと思うのだが。

森類は勉強できなくて、
「三年の時にはどうにもならなくなっていた」
小学校の先生から「頭に病気がある子が二人いますが、病気のない子では類さんが一番できません」と母親は言われ、病気でありますようにと念じながら医者に連れいったが、二つの病院で病気ではないと言われた。
母親は「死なないかなあ、苦しまずに死なないかなあ」と言ったそうだ。
何とか入った中学も中退してしまう。
暗算ができないとあるので、学習障害だったのかもしれない。

悪妻と言われている母親について、
「母はあまり人に好かれない人間とみえて」と書いている。
森類は「自分の体の一部をこっそり摩擦するその遊戯」に悩み、母親に相談する。
母子の会話。
「つまり女が欲しいんだね。それじゃあ、女のいる所へ行っておいで。パッパの言った病気の恐ろしさを忘れないように、さ、お金はここにある、カフェにするかい」
「カフェは刺激が強いばかりで、かえって悪いと思うけど」
「それじゃあ、吉原へおいで」
そして、
「吉原へは母自身、下見に行って、病気を予防する品物を買ってきてくれた」
さすが『ヰタ・セクスアリス 』作者の妻と息子である。

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コーエン兄弟『シリアスマン』とマラマッド

2011年12月25日 | 映画

今年はコーエン兄弟の映画が二本上映された。
『トゥルー・グリット 』はキネマ旬報ベストテンの上位に入るだろうが、私は『シリアスマン』のユダヤ的なところが面白かった。
『ブラック・スワン』も、監督のダーレン・アロノフスキー、主役のナタリー・ポートマンをはじめ、バーバラ・ハーシー、ミラ・キュニス、ウィノナ・ライダーとユダヤ系女優がそろっているが、別に日本の話であってもかまわない。
だけど『シリアスマン』は、いかにもユダヤ人という顔立ちの俳優をそろえていて、ユダヤ映画と言えるのではないかと思う。

主人公は中年の大学教員、妻から主人公の友人と結婚するので離婚してくれと宣告される。
おまけに大学に主人公を中傷する匿名の手紙が届くなどなど、最後の最後まで「何でこんなことに」の理不尽釣瓶打ち。
にもかかわらず、なぜかおかしい。
こういう自虐的ユーモアは好きです。

妻が信頼していた男と、という話はバーナード・マラマッドの小説『もうひとつの生活』もそうで、こちらは大学の教師になったばかりの主人公が上司の妻と浮気して、という話。
マラマッドも悲劇を喜劇的に語るユダヤ人作家。
そういえば、アジア人留学生が主人公を困らせるとこも、『シリアスマン』と『もうひとつの生活』は共通している。
そして、『もうひとつの生活』の主人公は思いもかけずセックスできることになるが、邪魔が入ってしまう。
『シリアスマン』でも隣家の妻に迫られるが、そこで目が覚めてしまう。

マラマッドの『修理屋』は帝政ロシア末期、子どもを殺したという無実の罪で刑務所に何年も幽閉される貧しいユダヤ人が主人公で、ユダヤ人への迫害が描かれている。
となると、『シリアスマン』は個人の悲劇ではなく、ユダヤ民族の苦難の歴史を表しているのかもしれない。

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ジョナサン・レヴィン『50/50 フィフティ・フィフティ』

2011年12月22日 | 映画

サロンシネマで、難病や死をテーマにした映画が続けて上映されている。
重い話はみんないやがるものだが、なぜか映画やテレビドラマにはこの手の話が多い。
娘に言わせると「ケイタイ小説は必ず死ぬ」そうだし。

ジョナサン・レヴィン『50/50』は、27歳の主人公が五年生存率50%のガンになるというお話。
評価が高いので見に行ったが、どうもイマイチでした。
なぜかというと、セラピーの部分が気に入らないので。

主人公が担当医からセラピーを勧められ、女セラピストに会う最初のシーンで、二人が恋人になることがすぐにわかる。
先の展開が読めるのは白ける。

で、このセラピストがちょっとなあ、という女。
新米で、主人公が3人目ということもあるのだが、マニュアルどおりの応対をする。
ガン患者の気持ちはこうなんだという先入観見え見えの、「あなたの気持ち、わかりますよ。なんでも話してくださいね」みたいな言い方、接し方をして、ズケズケと心の中に入ってくる。
ガンの宣告を受けてすぐなのに、そんな応対をされると、私ならもう二度と行くもんかと腹を立てる。
そして、何回目かのセラピーの時に主人公が怒りの感情を話すと、「あなたは怒りの時期に入ったんだ。問題ない」というようなことを言う。
自分の気持ちを、「それはこういうことなんですよ」と、さも知ったらしく解釈されて喜ぶ人間がいるんだろうか。



さらには、セラピストが主人公を家まで送ってくれるのだが、車の中はゴミだらけで、夕食(たぶんピザ)がゴミの中に埋もれているというお粗末。
これじゃカレにふられたばかりというのもわかる。
主人公は几帳面な性格だから、こんな自堕落女との相性はゼロとしか思えない。

セラピスト役のアナ・ケンドリックという女優さん、『マイレージ、マイライフ 』でもドジだけれども憎めないキャラを演じていた。
アメリカ人はこういう女が好みなのだろうか。

日本とは違うなと思ったこと。
主人公は抗ガン剤では効果がなかったので、「手術しかない」と担当医が説明し、そして「木曜日なら手術ができます」と言う。
えらく急な話ではある。
手術の前日は自宅で過ごすのにも驚いた。
そして手術が終わると、すぐに家族や友だちと話をする。
日本なら手術の前日は入院しているし、私の場合、全身麻酔で手術した当日はずっと寝てて、人と話をする気にもなれなかった。
ま、映画だから、アメリカの手術事情が実際のところどうなのかはわからないが。

それと気になったのが、治療費のこと。
主人公は公共ラジオ局に勤めていて、火山のドキュメンタリーを作っている。(ラジオでですよ)
保険に入っているにしても、治療費やセラピー代を保健で全額まかなえたのか。
そこらがちょっと気になりました。

私としてはジョン・キャメロン・ミッチェル『ラビット・ホール』がおススメ。

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西河克己『スパルタの海』

2011年12月19日 | 映画

見ようかどうしようかと悩んだ衝撃の問題作『スパルタの海』、ついに見ました。
おバカ映画として楽しむのが正しい鑑賞法だと思う。

チラシがけばけばしい。
プロデューサーは東映で石井輝男監督「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」など数々の傑作エログロ映画を量産した奇才天尾完次。
とのことで、妙に納得。
おまけにチラシにはなんと、
東京都知事石原慎太郎推薦!!
とあって、石原都知事のニッコリ笑顔の写真まで!

映画を見てて、ちょっとなあと思ったところをご紹介。
早朝からコーチは訓練生を煙草を吸いながらびしばし殴ったり蹴ったりしている。
『スパルタの海』が制作された1983年では、くわえタバコでの体罰が変だとは思わなかったんだろうけど。

家庭内暴力、ひきこもりの2はヨットスクールでも反抗し、ウルフというあだ名がつく。
ウルフが東大卒の父親(平田昭彦)、母親(小山明子)と旅館で面会し、食事をするのだが、父親は2の息子にビールをつごうとするんですよ。
小山明子はいかにもという教育ママを怪演しているし。
事実を基にしたとのことだから、こういう親が実際にいるんだと言われたらそれまでではあるが。
ウルフと同じころに入った長崎の女の子は、家に帰るときは高校の制服姿である。

知恵遅れと精神病は断るタテマエだが、戸塚校長は結局は断り切れずにいつも引き受ける。
20歳の、明らかに精神的に病んでいる男性が訓練生になったが、手加減せずに他の訓練生と同じようにびしばししごく。
そうして死んでしまう。
看護婦もいるのに、なんでもっと早く病院に連れて行かなかったのか。
風呂を使わせてもらっている近所の旅館主は親が悪いように言うし。
わかっていて引き受けた側の責任もあるはずなのに。
映画の企画がスタートした時点で死亡事故が起きているそうで、実際にあった死亡事故は親のせいだと言いたいのだと思う。

死亡事故でマスコミは騒ぐし、嫌がらせ電話が次々とかかってくる。
応対する戸塚校長の妻に、帰ってきたコーチは「電話は私が出ます」と言いながら、電話が鳴ってもコーチは出ない。
れれれと思ってると、妻が電話に出る。
そして、妻は耐えきれず、戸塚校長に「ヨットスクールをやめてくれ」と訴える。
だけども、戸塚校長が自分の理念を話したら、妻はなぜか急に「続けてください」と励ます。
この唐突な態度の変化に説得力はないと思う。

ラストは、ウルフが「校長のようになりたい」と戸塚校長に話し、二人の爽やかな笑いでおしまい。
『スパルタの海』公式ホームページの表紙に
※注意・不覚にも感動されるお客様が続出しております。
とある。
不覚にも笑ってしまった。

コメント (3)
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『ダーティハリー』2

2011年12月15日 | 映画

佐藤忠男の映画評論によって私はものの見方、考え方を教えられた。
しかし、普通、映画館までわざわざ足を運ぶのは、映画を見ている間だけでも現実を忘れて楽しみたい
からで、難しいことを考えるためではない。

たとえばドン・シーゲルが監督した『燃える平原児』(エルビス・プレスリー主演で、プレスリーの役はインディアンとの混血)という映画である。
佐藤忠男『現代世界映画』によると、『燃える平原児』は悪役であるインティアンにも言い分はあるという話らしい。
「このドラマで悪いのは白人の側なのである。しかし、白人たちがいろいろインデアンに意地悪をするからといって、インデアンが蜂起して白人を皆殺しにするのはもっと大きな悪である、という論法なのである。どっちも悪いのだから、仕方ない、ひとまず秩序を回復するために、より大暴れするほうをやっつける、というのである。この論法は、後進国における革命を抑圧するアメリカのタカ派の論法とそっくり重なり合う。アメリカのタカ派といえども、一九六〇年ともなればもう、後進国の革命は一方的にアカのせいだ、とも言えない。革命派が革命を起こすには、支配者の側にも非はあるだろう、ぐらいのことは言う。しかし、支配者の一部に非があるにしても、それを武力でくつがえすのは断固おさえなければならぬ。彼らは民主的な方法でそれを主張すべきであったというのである」

主役=善玉ではなく、悪玉に同情すべき点があるとしたら、見ててスカッとしない。
「この種の爽快さは、強い者が弱い者をがっちり支配することが正義だという大前提のもとに成り立っており、正義の名のもとに強い者が弱い者をとことんやっつけてゆくことぐらい痛快なことはないという感覚のうえに成り立っている。こういう感覚の下にあっては、弱い者は、とことんやっつけられるにふさわしいほど邪悪であってくれなければ困るのである。弱い者の反抗のほうが正義かもしれない、などという『燃える平原児』のような疑問がちょっとでも出てくると困るのである。タカ派心情というもののエッセンスがそこにある」

そういえば、イラクやリビアが欧米に攻撃された際、新聞はフセイン大統領やカダフィ大佐を人権弾圧する「邪悪」な独裁者としか書いていなかったように思う。
彼らがいいとは言わないが、それでも言い分があるはずだし、欧米が人民の解放者だとは信じていないのではないか。
欧米は「正義」よりも、石油ほしさにやってるだけだし、国民のことは考えているとは思えないのだけど。

宇田川幸洋は『アメリカ映画200』で、ドン・シーゲル『ダーティハリー』について「シーゲルは〝さそり座〟にパラシュート隊の編み上げ靴をはかせ、ヴェトナム帰りを暗示した」と指摘している。
ケネディ大統領を狙撃したオズワルドは海兵隊出身。
犯人の〝さそり座〟も狙撃の名手である。
視点を変えて犯人の立場から描いたら、ベトナム帰還兵が戦争後遺症でおかしくなり、次々と犯罪を繰り返すという悲劇になる。
あるいは、ベトナム帰りのハリーは、犯人もベトナム帰還兵だということを知り、共感を覚えてしまうとか。
もちろん『ダーティハリー』はそういう作りにはなっていない。

『ダーティハリー』とベトナム戦争について、佐藤忠男はこのように深読みする。
「この『ダーティー・ハリー』のヒーローの考え方は、そのまま、ベトナム戦争におけるアメリカのタカ派の論理や心情に重なることは言うまでもない。ベトコンや北ベトナムは卑劣で悪智恵に富んでいる殺人者であり、どこかに身をかくしてはテロ活動をする。こんな連中はひねりつぶしてしまうべきなのだが、アメリカとしてはさまざまな国際的な制約があって積極的に行動できない。その制約のほうが間違っていると思うが、民主主義というタテマエもあって、その制約を簡単にどうこうするというわけにもゆかない。まあそのことは仕方ない。しかし、それなら、誰か、ダーティ・ハリーのような勇敢な奴がいて、少しぐらい違法をしてもいいから、独断専行して早いとこ征伐してしまってくれないか。それが人間性の自然な発露であるかぎり、少々の違法はかまやしないよ」
見えないところから狙撃しては逃げる犯人はベトコンを暗示しているわけである。
現在の観客にはイスラムテロを想起させるかもしれない。

ダーティハリー的人物待望論は日本でもあると思う。
小泉政権や民主党が衆議院で圧勝し、橋下維新が急成長したのは、現代社会の閉塞感を「少しぐらい違法をしてもいいから、独断専行して早いとこ征伐してしまってくれないか」という期待からだとしたら、ちょっと恐い。

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『ダーティハリー』1

2011年12月12日 | 映画

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「午前十時の映画祭」でドン・シーゲル『ダーティハリー』(1971年)を見る。
1972年度キネマ旬報ベストテンの11位。
1位 杉山平一、中原弓彦
2位 深澤哲也、山田宏一
3位 津村秀夫、双葉十三郎、南俊子、森卓也
4位 石上三登志、河原畑寧、渡辺武信
5位 嶋池孝磨、白井佳夫、竹中労
6位 大黒東洋士、河野基比古
7位 飯島正、小菅春生
9位 岡本博
中原弓彦、山田宏一、石上三登志といった若手ばかりでなく、意外にも津村秀夫、双葉十三郎、飯島正といった戦前からのベテラン評論家も選んでいる。
双葉十三郎は『ぼくの採点表』で、☆☆☆☆。
なぜか?

『アメリカ映画200』で、宇田川幸洋は「法律の枠を踏み越え、憎悪を燃料にして犯人を追って行くハリー・キャラハン刑事のキャラクターは、ハンフリー・ボウガート以来のハード・ボイルド探偵の系譜に連なる、と言うよりも、ウエインが自ら“villain”(悪漢、敵役)と呼んでいた「赤い河」「捜索者」、そして「勇気ある追跡」系列の西部劇ヒーローを現代の都会に持ち込んだものと言える」と書いている。
ジョン・ウエインは『ダーティハリー』の主演を蹴ったことを後悔していたそうだ。
そうか、新しい刑事物というよりも、ハリーは伝統的なヒーローだったわけだ。
話は単純明快で、善と悪がはっきりしていて、卑劣としか言いようがない犯人を、身の危険を顧みずに追いつめる主人公は法律を破ることも厭わない。

もっとも、宇田川幸洋によると「アメリカの批評家たちの多くは、この映画が刺激に満ちた、このジャンルの作品として優れた出来のものであることは認めながらも、反動的、右翼的、ファシスト的な映画であると言って批判したのである」
刑事(権力)は自分が正義だと信じることのためには何をしてもいいという内容だから、そうした批判も当然ではある。
佐藤忠男も『現代世界映画』の「ドン・シーゲル論」で『ダーティーハリー』を「傑作は傑作であるが、恐るべき反動的な作品である」と切り捨てる。

佐藤忠男の論は権力という暴力批判である。
「この映画は、警察の行動に制限があることに公然と不服をとなえ、その一面をいやがうえにも誇張し、拡大してみせる」
市長や検事は人気取りに汲々とするあまり、ハリーの行動を非難し、悪を擁護するエセヒューマニストとして描かれている。
「ことさら、常識的な民主主義やヒューマニズムの原則の線で行動する人間を、どうしようもない俗物として描くところに、この映画の、民主主義やヒューマニズムに対する根深い悪意がある。この悪意は、民主主義やヒューマニズムではぜったいに悪には勝てない、という考え方と結びついている」
秩序を乱す奴はさっさと殺してしまうのが社会のためなんだ、というわけである。

また、自警団はアメリカ的だとも佐藤忠男は言う。
「あらゆる法的な制約など無視して、力には力で敵をうち倒し、武器を持って自分個人を自衛し、そのかわり、権力に護衛を求めることも期待しないという、こういう人間像こそは、アメリカの建国以来の理想的人間像であったからである」
佐藤忠男のこういう深読みは私好みです。

そういえばウィリアム・ワイラー『大いなる西部』は、東部からテキサスにやってきた一見やさ男(グレゴリー・ペック)が主人公。
主人公はバカにされても怒らないので、暴力には暴力でという考えを否定している非暴力主義がテーマかと最初は思うが、見ていくうちにそうではないことがわかってくる。
男らしい男、佐藤忠男の言う「理想的人間像」を描いている。
主人公は決して腰抜けではない。
荒馬を乗りこなし、牧童頭とさしの殴り合いをする。
人に見せびらかすことをしないだけである。
このように、軟弱だったり、小心者であっても、いざとなれば家族や名誉を守るために命をかけるというお話はアメリカ映画にはおなじみのものである。
すぐにマグナムをぶっぱなすダーティハリーもその伝統の中にあるわけでした。

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竹中労『聞書・庶民烈伝 牧口常三郎とその時代』3

2011年12月08日 | 問題のある考え

竹中労『聞書・庶民烈伝』を読むと、創価学会へ入信の動機は病気が多いようだ。

金子さん「入信のきっかけは、行商して雨宿りをした家で、名古屋さんというんですが、声をかけられたんです。『大白蓮華』を見せてくれたり、病気が治るの一点張りなんです」

山口さん「昭和二十八年に島に帰ってきてみたら、女房が入信しとった。これが四人目の産後の肥立ちが悪かったので、ひどい病気持ちなんです。夏でも足袋をはいて、えりまき巻かなきゃ寒気がして寝られない。
……ポッと入信したら、ポッとそれが治っちゃったと言うんですな、鼻唄まじりで働いている」

永野さんも。
「退官してから親父は、日蓮宗に凝りまして、朝から晩までドンツクドンとやっておりました。ハイ、身延です。戦時中はとりわけて狂信的で、私もその影響をうけていましたが、真剣に考えたことはなかった。だが、身延に何の功徳もない、と言う事実は私の一家の運命がまさに証明しているわけで、いわゆる〝日蓮宗〟、これと大聖人の教えがひとかけらの関係もないことは、教えられずとも判っていました。そんなニセ信仰で、不幸が救えると思いこんでいた父が哀れでしてねえ、信仰の動機になったのです」
入信すると、永野さんの給料は倍になる。
竹中「功徳がありました、ね」
永野「ええ、たちどころにでした」
竹中「人生、楽しくなったでしょう」
ところが、そう簡単にはいかない。
永野「何をやっても、楽しくてしょうがない。これで、宿業は切れた、と思いましたがまだ終わらなかった……」
入信して一年目に妻が病気になり、医者に見放される。
必死で題目をあげ、ご本尊にお願いすると、奇跡的に奥さんは助かり、もとのように元気になる。
「宿業が切れた」という教え、オウム真理教で言う「カルマの浄化」と同じではなかろうか。

あるいは伊藤夫妻。
キヨ子「うちは真言宗で、肉親の縁がとても薄いのね。父親が亡くなったのが三十二、女きょうだい二人なんですが、姉のつれあいは二十三のとき、やっぱり父親を亡くして、自分も三十二の若さで死にました。三代持たない、と言われました。私の前のつれあいはもっと若くって二十九でしょ、お葬式を出したお寺の坊さんが、そのときの二つの娘を見て、「同じ運命をたどらなければいいけど」って。もう弱虫ですからね、気になって気になって、脱殻(ぬけがら)みたいになって。
私自身、胸もやられてましたし。ただ娘だけは、そんな運命をたどらせちゃいけないって。でも、考えてみると、変えられないから運命と言うんですよね」
竹中「いや、変えられるでしょう?」
キヨ子「ええそれが、信心してやっと判ったんです」
キヨ子さんのご主人のお話。
良雄「下男坊をしておった家へ、ご恩返しに折伏に行ったらこれがお光様でね、
まずどうにもならなかった。ともかく正法に反対する人は・滅びていくわけで、折伏しきらなかったことを私は反省しておるわけですが、ほんまに死に絶えてしまった」
斉藤「そうなんだ、このへんは真言が多いんですよ。不景気の最中に、一消えてなくなったのもある。まあ明るくないんだわね、命の根本が」

たしかに会員の方はみなさん明るく他宗派の非難をされている。
だけど、宿業と脅し、病気治しのアメを与えているにすぎない。
邪教を信じたから死んだんだとバカにする人の感性を疑う。
でも、竹中労氏は「いいお話を有難う、小木がしみじみと好きになりました」と言って、座談は終わる。

あるいは、勤め先の小学校校長を折伏しようしたら転任された辻武寿さん。
「相手は、死んじゃいましたからね」
竹中「はあ!?」
小泉「校長ですよ,小田倉さん。辻さんと原島さんが参議院議員になった直後に,電話ボックスの中でね、電話をかけてて脳溢血かなんかで倒れたと聞いた。気の毒だけど,宿業には勝てなかったんだなやはり」
左遷されても、辻さんたちは転任先の学校でどんどん折伏している。

もっとも、原島宏治氏も自宅で急性心筋梗塞を起こして、1964年に55歳で死去している。
辻武寿氏が入信して小田倉校長とぶつかったのが1940年、参議院議員になったのが1956年だから、小田倉校長が死んだのは16年後である。
小田倉氏はたぶん原島氏より長生きしたと思う。
おまけに原島宏治氏の息子が、創価学会の教学部長を勤めたが、池田大作批判をして除名された原島嵩氏なのだが。

宮城師は「仏教においては、信心があろうと信じまいと、その人の死に方も、死んでからどうなるのかということも変わりはないのです」と話している。
死に方によって信心があるとかないとか言う宗教はアヤシイと考えていいと思う。

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竹中労『聞書・庶民烈伝 牧口常三郎とその時代』2

2011年12月05日 | 問題のある考え

竹中労『聞書・庶民烈伝』は学会員の聞書だけでなく、明治4年生まれの牧口常三郎が育った明治、そして生まれた新潟について(北前船、北一輝、坂口安吾など)書いている。
竹中労氏は河井継之助には「戦争犯罪人、と言おう」と厳しい。
家を焼かれ、殺される庶民の立場からの批判である。
明治という時代は「庶民を限りなく収奪して、困苦のどん底に突き落とすこと」によって、西洋列強と伍すようになったと、やはり庶民の視点から見ている。
明治18年、農民の負債総額は1億円に達した、ということを竹中労氏は記している。

そして、田中角栄。
「こう言わねばなるまい、知識や教養のあるなしで田中を見くだすことは庶民=学会員自身を嗤うことに他ならぬのだ、と」
創価学会員は庶民というわけである。
そして創価学会会員は反逆者。
「この街(長岡市)に真摯に生きる庶民の命があるかぎり、究極・その命は支配に対立して、人間なべてを彼岸に解放するのだと信ずる理由が、私にはある。学会の人々に即して言うなら、それは初代・牧口常三郎が種蒔き、二代、戸田城聖が花咲かせ、いま一人一人の胸底に確乎として根を下ろしている、「日蓮正宗」の信仰なのである」
創価学会は庶民の味方というわけである。

創価学会会員は被差別者。
「たとえば、こう考えてほしい。「学会無用」とレッテルをはり、私をおとしめ孤立させる。それは、民・朝鮮人に対するのと等しく,創価学会員なべてを〝特殊な〟集団人として、恒民社会の外に隔離する差別の構造ではないのか、と」
だけど、創価学会の会員を「民・朝鮮人」と同列に扱うのはどうかと思う。

なぜ差別され、迫害されるのか。
「学会員絶対多数は、まぎれもない恒民である。しかるに差別され・蔑視され,理不尽に迫害されるのはなぜか?
信仰のゆえに、である。あなたがたの信仰に,世の多くの人々が無知・無縁だからである。〝反創価学会キャンペーン〟に私が立ち向かったのは,その無知を扇動し増幅する,出版資本と背後の謀略機関・JCIAを撃つためであった」
反創価学会キャンペーンは謀略というわけである。
だけど、創価学会だけが弾圧を受けたわけではないし、創価学会が嫌われたのは、他の宗教を邪教と非難し、あまりにも攻撃的、強引な折伏をしたことによって、社会との軋轢を作ったからだし、政党を作って権力を握ろうとしているからであり、それなりの理由があると思う。
山田八重さん「そうそう、折伏ほど楽しいものはないから」
頼みもしないのに折伏されるほうは迷惑な話である。

聞書を読むと、一人ひとりの信者はいい人だと思う。
暴力団組員や統一教会信者も個人的には悪い人ではないらしい。
だけど、組織となると、人間は変わる。
そこが困ったところである。

コメント (4)
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大阪ダブル選:維新圧勝

2011年12月01日 | 日記

大阪府知事選と市長選で、松井一郎氏と橋下徹氏が圧勝した。
庶民の支持である。
だが、橋下徹氏は独裁を肯定しているわけで、つまりは庶民をバカにしている。
小泉改革や石原都知事も同類で、やったことと言えば、弱者切り捨てと格差拡大なのに、いまだに人気があるのはなぜか。
彼らは庶民の味方ではないことに気づかず、彼らを支持し、そうして自分で自分の首を絞めることをどうして多くの人がするのか不思議である。

毎日新聞の「大阪ダブル選 私はこう見る」は、もっともとうなずく感想が述べられていた。
まず、片山善博氏の談話から。
「小泉純一郎首相が仕掛けた郵政選挙と同じ構図だ。都構想も郵政民営化も「敵と味方という構図で沸かせたが、どちらもさしあたって住民生活に根差した問題とは言えない。「実現すればあらゆる問題が解決する」というのは幻想だ。格差是正や生活保護の増加、貧困ビジネスなど大阪が地道に取り組まねばならない問題が置き去りにされた印象を受ける」
問題を一挙に解消する万能薬を求めがちだが、そんな万能薬などない。
政治や社会は地道な活動の積み重ねで変えていくしかない。
何かしてくれそうという夢を上手に与えてくれる政治家は用心したほうがいい。

それと「大阪都構想」ということだが、東京が首都だから東京都なんだと私は思っていた。
「大阪都構想」とは大阪も都にしようということなのだろうか。
橋下徹氏に投票した人にそこらを説明してもらえないだろうか。

次に高村薫氏の談話から。
「確かに大阪経済の地盤沈下は深刻だ。一方で生活保護率は突出して高い。大阪の病は深く、暮らしている一人としてつらい。しかし府と市の二重行政を解消したところで投資を呼び込めるとも思えないし、意味もない。
 では大阪の希望を託すのは何か。それは子どもしかいない。貧困の連鎖を断ち切り、納税できる中間層に育てていかねば、お金は生活保護に回ってしまう。エリート教育は私学に任せておけば良い。そうではなく、義務教育にお金をかけなければいけない。貧しくても学校に行けば大事にされる経験が子どもには必要だ。大事にされた経験のある子どもは人を大事にできる。
 だが、維新が提案する教育基本法条例は生活者にとってほとんど関係なく、そこから見えてくるのは非民主的で強権的な政治手法だけだ。これではいじめが隠蔽され、成績の悪い子どもが切り捨てられないか。これから何が起きるのか、有権者は今度こそしっかり見なければいけない」
アメリカの公教育は競争原理を導入して、荒れた学校には予算が少なくてますます荒れるという悪循環、そのため公立小学校が激減している地区もあるそうだ。
公教育が破綻しているアメリカの教育政策をまねていると、大阪もそうなりかねない。

教育だけではなく、文化、福祉も切り捨てるだろう。
そして木津川計氏の談話から。
「私が懸念するのは、大阪が橋下氏の独裁による専制政治になることだ。
 橋下氏は芸術文化に対する理解を全く持ち合わせておらず、知事時代には文化団体の補助金をどんどんカットした。市長になってもその方針を続けるだろう。(略)
 橋下氏を選んだ民意に、政治への監視を期待することはできない。行き着くところまでいって、自分たちが確信を持ったポーズやフレーズに幻惑されていたと気付く時が来る。高い授業料を払うことになるだろう」

大阪の政治だけの問題ではない。
民主党や自民党が橋下徹氏に媚び始めた。
「対立候補を支援したはずの民主、自民両党からは一転、橋下徹新市長、松井一郎新知事を評価する発言が相次いだ」
みんなの党や亀井静香もなびいている。
節操がない。
維新の会が国政に参加したら、三氏の危惧は大阪だけでなく、日本全体に波及するように思う。

『原田実の日本霊能史講座』を読んでいるが、橋下徹ファンはノストラダムスの予言を信じる人と共通する部分があるように思った。
以下、いつものこじつけ。
ノストラダムスの詩は何が書いてあるかわからない曖昧な文だから、どうとでも解釈できるとか、五島勉の訳はデタラメだとか、そういうことをいくら指摘しても、ノストラダムス信者は耳を貸さない。
同じように、マスコミの橋下批判をしたから、かえって同情票が増えたかもしれないし、橋下ファンは『橋下主義(ハシズム)を許すな!』という本など読まない。
なぜなら、ノストラダムス信者や橋下支持者は理屈で納得して信じているわけではなく、感覚的、感情的なものだからである。
批判が効果ないどころか、逆に批判者である知識人に反発するだけだと思う。
感情論に対して、どのように相手に届く言葉を発信していくか。
これは至難の業である。
あれっ、おかしい、と思ってもらうにはどうしたらいいのだろうかと思う。

コメント (5)
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