三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

大竹晋『「悟り体験」を読む』(2)

2025年02月09日 | 仏教
大竹晋『「悟り体験」を読む』に、血盟団事件の井上日召(1886年~1967年)の悟り体験が詳しく書かれています。

井上日召は大正元年から参禅し、大正13年に開悟した。
東に向つてお題目を唱へてゐると、アサヒがズン/\上つて、将に山の端を離れた瞬間、私は思はず、
「ニツシヨウ」
と叫んだ。「ニツシヨウ」が何の意味だかも知らぬ。
そのあと、井上日召は悟境を深めるため山本玄峰に参禅したが、玄峰は日召の悟境を認めなかった。

麻原彰晃も似た体験をしています。
広瀬健一『悔悟』によると、麻原彰晃が立位の姿勢から五体を大地に投げ出しての礼拝を繰り返じていると、「アビラケツノミコトになれ」という声を聞きました。
アビラケツノミコトは「神軍を率いる光の命(みこと)」という意味で、シャンバラの実現のためにアビラケツノミコトとして戦うように命じられた、というのです。

見性したかどうかは師が判断します。
しかし、井上日召も麻原彰晃も無師独悟です。
血盟団事件とオウム真理教事件は似ていると思います。

井上日召は門下の若者たちとテロリズムに傾倒し、昭和7年に血盟団事件の首謀者として入獄した。
昭和8年、収監先で悟り体験を得た。
この時はじめて山本玄峰から悟境を認められた。

井上日召がなぜテロリズムを肯定するようになったか、大竹晋さんはこう書いています。
悟り体験によって叡智を獲得したはずの日召がなぜテロリズムを肯定するような短慮に走ったのかは、誰もが不審に思うことである。これについては日召自身が述べているように、日召の叡智がいまだ不十分であったせいと考えることもできる。玄峰も、それゆえに、当初、日召の悟境を認めなかったのであろう。
叡智が不十分なのに悟り体験だと言えるのでしょうか。

悟り体験者の中には戦時中に好戦的な発言を行なった人が複数いる。
叡智と道徳性との間に本質的な結びつきがないことを示唆するように思われる。

宗教と道徳は違います。
悟った人が殺生を肯定することはあり得ないし、人に殺生させないはずです。
見性した人の中には超能力を持つようになった人がいるそうです。

絶大な叡智獲得体験において、超能力のレベルに達するほどの叡智がしばしば獲得される。
経典に覚醒体験に伴って六神通を獲得することが説かれる。

盤珪永琢(1622年~1693年)は、濃尾にいながら大坂のことを言い当て、播磨にいながら大洲のことを言い当てた。
これは天眼通です。

エマヌエル・スエーデンボルグも遠方を透視する能力があると考えられています。
1759年、スエーデンボルグはストックホルムから約500キロ離れたイェーテボリで、「今、ストックホルムで大火災になっている」と友人たちに告げた。

大竹晋さんは田中木叉「日本の光 弁栄上人伝」に書かれた山崎弁栄(1859年~1920年)のこんなエピソードを紹介しています。
(渡辺信孝氏が)織田得能師法華経講義の本が新聞広告に出てゐるのがよさそうなので、読みたくてたまらないが、金はないし、上人に申し上げても御喜びにならないのはわかつてゐるので、黙つてゐた。すると「拙堂、法華経講義は読みたいか」と聞かれたので、驚いて「ハイ」と申し上げると「それでは買ひなさい」と云つて金をくださつた。すると本屋で割引値段で売つてくれて六十銭手に残つたのを、之は割引の金だから頂戴しやうと、勝手な考へをして、つひ鰻飯と焼鳥を食べてしまひ、寺に帰つてかくす為に口を塩で嗽ぎ、次ぎの間から「只今帰りました」と挨拶すると、「鰻飯は甘いか」と問はれた。ハッと思つたがそしらぬ振をして、氏「もう一年もそんなものは食べませんから」上人「イヤ今日のは一ぱいでは足るまい。焼き鳥は甘かつたか」氏「上人、どうしてわかりますか」上人「お前のお腹の中にある」。

中川智正は麻原彰晃に言いつけられた用事をすませ、買い食いをして戻ると、麻原彰晃から買い食いをしたなと言われています。
井上日召も悟り体験によって超能力を獲得したそうです。

日召が超能力を獲得し、悪魔の誘惑を退け、超能力を封印して人間界に戻り、病苦に苦しむ人々の治療のためにやむなく超能力を用い、若者たちの尊敬を得て血盟団を組織していく。

悟り体験者は相手の声や動作の音を聞いただけで、悟り体験をしたかを知るそうです。
白水敬山「老師は障子の内側から「自恭か、やったネ」と声をかけられた」

絶大な悟り体験者には、その人に接した誰もが「この人は確かに悟っている」とわかり、悪念を捨てて浄化されるらしい。
四元義隆「玄峰老師は自分にとって親以上の存在とも云える。傍についているだけで自分の人格が良くなるようなそんな人物だった」

これまた広瀬健一『悔悟』に麻原彰晃の浄化能力が語られています。
(麻原の)このエネルギーこそが私にとって、麻原が神格を有することの証明でした。それが私の身体に注がれると、私の心が〝聖なる〟状態になったからです。心の汚濁は浄化され、意識はどこまでも透明になり、冴えわたりました。

田中木叉は山崎弁栄のこんなエピソードを書いています。
或日日蓮宗国柱会の猛々しい壮漢二三名上人を訪ねて来て、非常なけんまくで、上人が念仏を弘むるのは国家の為めに不都合であると、切(しき)りに詰め寄る勢凄ましかったが、上人は之に一言の答辞もなく、「えゝなんで、如来の光明は神聖正義恩寵の云々」と如来光明のゆわればかり静かに説き立てゝ間を切らず、説き行く内に、其の壮漢等のいかめしい様子は次第に和らぎ、今にも掴みかからんかと思はれた人達が、一同感服した様子で恭しく礼をして帰り去った。

これは親鸞と弁円の話と似通っています。
弁円は親鸞を殺そうと思って親鸞と会いますが、なぜか弟子になりました。
実際にあったことかもしれません。
国柱会の壮漢や弁円は悟り体験者ではないでしょうけど。

悟り体験によって得られるこうした超能力をどう考えたらいいのでしょうか。
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大竹晋『「悟り体験」を読む』(1)

2025年02月01日 | 仏教
悟ったことのないので、悟りとはどういうふうになることなのか興味があります。
大竹晋『「悟り体験」を読む』は多くの悟り体験が紹介されています。

悟りという日本語は大乗仏教の覚醒体験を意味し、おもに禅宗で用いられた。
インドでは悟り体験記はない。
なぜなら、大妄語戒(悟っていないのに悟ったと嘘をつくこと)になるから。

しかし、聖者の知見を得た比丘も大勢います。
『テーラガーター』『テーリーガーター』には、何人もの比丘や比丘尼が悟ったと語っています。
ヴァーセッティーが「師(ブッダ)のことばにいそしみましたので、こよなくめでたい境地を現にさとりました。あらゆる悲しみは、すべて断たれ、捨てられ、ここで終わったのです」と話しています。
ヴァーセッティーの話を聞いたスジャータは、「その場で、正しい教えを理解して、出家することを喜んだ。かれは三夜を過ぎてのちに、三種の明知を体得した」とあります。
三種の明知とは宿命明・天眼明・漏尽明の三明、つまり超能力を得たわけです。
もっとも、その悟りとはどのような体験だったかは述べられていません。

出家者が覚醒体験を語り、悟り体験記を公表することは北宋の禅宗から始まった。
大乗仏教の覚醒体験は真如(空性)の実見である。
歓喜地において真如を実見する。
真如は有情に内在しており、自身に内在する真如は仏性(心の本性)と呼ばれる。

中国仏教では、仏性を初めて実見することを見性と呼ばれるようになった。
悟り体験は一度きりかと思ってたら、何度も見性することで深まっていくそうです。
在家者の見性も紹介されています。

釈尊は在家者の悟りを説いていないので、在家者は天に生まれることを期待するしかありませんでした。
大乗は衆生済度を強調します。
どうすることが衆生を救済することになるのかと不審に思っていましたが、在家者を悟りに導くことかもしれません。

麻原彰晃やオウム真理教の信者は厳しい修行で神秘体験をしています。
オウム真理教の悟りは見性はどう違うのかと思います。

大竹晋さんによると、悟り体験は五段階あります。
オウム真理教での神秘体験は、五段階から構成される悟り体験と正確に符合しないそうです。
神秘体験(大竹晋さんの言葉だと異常体験)と見性はどう違うのかわかりません。
脳のはたらきで悟り体験を説明するできると思うのですがどんなもんでしょう。

辻雙明(1903年~1991年)は円覚僧堂の接心に参加し、予定の三日間は終わったが、見性はできなかった。
「ところが、電車の中で変化が起きた。車中のすべての人の額が光明を放っているように感ぜられた。見るものがすべて光を放っていた。自宅に帰ると、歓喜が沸き起こり、「手の舞い、足の踏む処を知らず」というふうに家の中を踊りまわった。老師の古川堯道にこのことを話すと、「歓喜のある間は、まだ駄目だ」と言われた」

光体験や踊躍歓喜体験は悟り体験ではないわけです。
「車中のすべての人の額が光明を放っているように感ぜられた」ということですが、高見順「電車の窓の外は」に、こんな光体験が描かれています。

電車の窓の外は
光りにみち
喜びにみち
いきいきといきづいている
この世ともうお別れかと思うと
見なれた景色が
急に新鮮に見えてきた
この世が
人間も自然も
幸福にみちみちている

青木新門『納棺夫日記』も「ひかり」について述べられています。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/2116cf54cb26c1d8ab3c7bb67300be79
光体験は悟り体験だと思ってました。

歓喜についてですが、法然『和語灯録』にこういうことが書かれています。
「信心の様を、人の意(こころ)えわかぬとおぼゆる也。心のぞみぞみと身のけもいよだち、なみだもおつるをのみ、信のおこると申すはひが事にてある也。それは歓喜・随喜・悲喜と申べき。信といは、うたがひに対する心(にて、)うたがひをのぞくを信とは申すべき也。

信心とは心がぞみぞみ(ワクワク)し、身の毛もいよだち、涙も落ちることだというのは間違いだ、疑いを除くことだと、法然は言っています。

『歎異抄』に唯円が「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろう」と親鸞に問うています。
天に踊り、地に踊る気持ちが起こらなくても問題ないわけです。

近現代の曹洞宗において悟り体験批判がなされました。
大竹晋さんは、肉食妻帯に代表される世俗化とともに始まっており、悟り体験を批判した宗学者たちのうちには肉食妻帯を許す者が少なくなかったと指摘します。
悟り体験者はそれぞれのレベルにおいてだんだん煩悩を断ちきっていく。

このように大竹晋さんは書いていますが、在家者も悟り体験をしているし、臨済宗の僧侶で肉食妻帯している人は珍しくありません。
臨済宗の僧侶はみんな見性しているのでしょうか。
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龍樹『宝行王正論』

2025年01月20日 | 仏教
『宝行王正論』は龍樹がシャータヴァーハナ王朝の王に説いたものです。
まず十善、中道、業報、無我、輪廻、涅槃、縁起といった仏教入門的な話から、だんだんと空についてなどの難解になり、そして政治論も語っています。

大乗仏教は自己の開悟より衆生済度を重視します。
とはいえ、法を説く以外に在家のために何をすることが救済になるのかと思います。

『宝行王正論』には福祉、教育、貧困対策、寛刑化などが説かれており、救済とは心の問題だけではないことがわかります。
龍樹の教えが政治に生かされたかどうかわかりませんが、弱者に対する優しさを感じます。

・社会福祉
老人、幼少者、病人をはじめとする生きとし生けるものの苦を除くために、地方に医者、理髪師などを置き、田地の報酬を定めなさい。
庵、園林、堤、宿舎、小亭などをつくり、寝具、食物、草、木を、知恵すぐれたる者(王)よ、備えつけてください。
すべての町に、家屋、僧院、宿舎を作り、水の乏しい道路すべてに、飲物を支給する小亭を作ってください。
病人、孤児、苦に悩む者、賤しい者、貧しい者などを、慈愛をもってつねに救済し、彼らを養護するように心を用いてください。
時節に応じた飲食物、穀物、果実などの食物を乞う人に、施与しないことがあってはなりません。
靴、傘、濾過器、抜刺具、針、糸、扇を房舎や僧院に備えつけてください。
三種の果実、三種の辛薬、バター、糖蜜、眼薬、除毒剤を房舎に備えつけ、処方の薬や呪文も書いてください。
身体や足や首につける塗油、毛氈、椅子、粥、銅瓶(水瓶)、斧などを、房舎に用意してください。
胡麻、米、穀物、食物、薬、油などの備えつけている小亭を、涼しい木陰につくり、浄らかな水で器を満たすようにしてください。
蟻の穴の入口などに、食物、水、粗糖、穀類を、心が堅固な人びとをして、つねに散布させなさい。
食事の前後に、餓鬼、犬、蟻、鳥などに、好むままつねに食物を施与してください。
災厄、凶作、災害、流行病などで荒廃した国にあっては、世の人びとを救済するのに寛大であってください。

餓鬼、犬、蟻、鳥などに人間と同じように食事を与えなさいとと言っています。
衆生とは人間だけでなく、動物のことです。
衆生の救済とは動物をも救うことだとわかります。

・租税の減免
田地を失った人びとに対しては、種子や食物をもって救済し、努めて租税を免じ、また少しでも租税を減らしてください。
食欲の病患からよく守り、税を免じ、または税を減らし、それらについてまつわる煩悩から離れるようにしてください。

・資産の平等
また、自国や他国の盗賊たちを鎮圧してください。資産を平等に、価格を適正にするようにしてください。
長官が忠告することは、それぞれ何であっても自らよく知り、また世の人びとに役立つことは、何事であろうとすべてつねに行なってください。
自らの利益は何事であれ、どのようにしようか、とあなたは心をもちいますが、それと同じように、他人の利益も何事であれ、どのようにしようか、とあなたは心を用いてください。

女性を差別した文言もあります。
・女性のからだの不浄さとそれに対する執着
女性に対する執着はほとんどの場合、女性の体を美しいと思うことから生じる。しかし、女性のからだには、清浄さは少しも存在していない。

ただし不浄観が説かれており、女性だけが不浄だということを否定しています。
・自分のからだも不浄である
自分や他者の不浄物が嫌われるように、自分や他者の不浄なからだは、なぜ嫌われないのか。
女性のからだが不浄なものであるように、あなた自身のからだも同様〔に不浄〕である。ゆえに、内と外のものに対する貪欲を離れることが、どうして正しくないと言えるのか。

仏教は政治には関わらないし、社会の問題には無関心だと思ってました。
なので、龍樹が社会の諸問題について国王に説いているとは驚きでした。
仏教の立場から政治に発言をすることは問題ないわけです。
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戦前の法話

2024年11月07日 | 仏教
戦前、浄土真宗の僧侶はどんな法話をしていたのでしょうか。
1935年、熊本県須恵村に一年間滞在した人類学者ジョン・エンブリーは『須恵村 日本の村』を書いています。
その中に、「溺死した少年の四十九日法要での真宗僧侶による講話」が載っています。

僧侶はまず経を上げ、次いで講話を聞かせた。
この機会に少し話をさせてください。このご一家のお子さんは、溺れて亡くなったとうかがいました。そのような災難に遭ったとき、悲しみを癒やすことはとても難しいことを私はよく知っています。しかし、死は前世で運命付けられていました。経文は、刀剣による死、火による死などたくさんの死に方があることを教えていますが、人は前世で運命を決められているからです。私たちは感情を持った人間ですから、そんなとき悲しみに投げ込まれるのは自然なことです。たくさんの人が、痛みを伴う深い悲しみから自分を救うにはどうしたらいいか、私に教えてくれと聞きました。こんなときに行うべき最も重要なことは、どうしたら死を意味あるものにできるかです。

鹿児島にいたとき、かわいい子を亡くしたご夫婦に会いました。最初の一週間、二人は悲しみのためにほとんど何も喉を通りませんでした。でも、そのうち夫婦は食欲が回復するのを感じ、いつものように食べたり飲んだりしました。この事例をよく考えてください! よく考える価値があります。最初は何も食べないほど落胆しました。彼らは「かわいいかわいいわが子が奪われた」と叫びました。その後どうなったか? 夫婦はその後すぐにいつものように食べたり飲んだりするようになりました。これは、彼らが本当に心から望んでいることの証しではないのではないでしょうか? 本当に子どもを愛していたなら、子どもと一緒に死ぬか、少なくともあの世で子どもがどうなるのかをちゃんと知る努力をすべきでした。そうしなかったことからして、彼らが口に出した愛情は偽りで、結局利己的だったのです。子どもの死は、こうしてまったく無意味になりました。その代わり、もし彼らがこの出来事に驚いて前世の宿命を意識するようになり、阿弥陀に出会ったとしたら、子どもだけでなく彼ら自身がとても幸せになるでしょう。逆境に直面して、前世を知り最後に悟りを得ることができることはとても幸運です。(略)

私たちは、周囲や仏様のお陰で生きているのです。みなさんはほかの誰かと偶然一緒にバスに乗るという事実でさえ、前世の仏様に運命付けられています。私たちは仏様のご加護を考えずに自分自身のことを考えることはできません。この事実に気付いて、私たちはほかの人を決して傷つけることなく、全てのことに感謝すべきです。(略)

如来(阿弥陀)の声を聞くのは、自分の中の全ての思い上がりを捨てて、本当に頼りになるものを探すとしだけです。如来は本気で助けを求める人を決して見捨てません。如来は自分の中に住んでいます。唯一のその存在は、私たちの世俗的な考え、つまりお金や評判、あるいは恨みによって隠されています。しかし、いったん困難に直面し、自分の力がいかに弱いか、周りの全ての事がいかに無常であるか、いかに罪を犯してばかりいるかを意識すると、孤独の悲しみの中に投げ込まれます。如来の声を聞くことができるのはこのときです。そして、如来を中心とした生活が始まります。それは、自我を中心とした以前の生活とはまったく異なるでしょう。私たちの人生観は完全に変わります。でも、いいですか、みなさんがその信仰によって達したのは自分だと思っている間は、本当の信仰を得てはいないのです.真宗にはこれまでたくさんの偉大な僧侶がいました。しかし、彼らは自分を偉いと思ったことはありません。本当の信仰は、全てを如来の手に委ねることです。「私はあなたの全てを知っています。私の全てを信じなさい」。それを信じれば、世界のために自分を犠牲にし、如来に感謝するようになります。ですから、死が重要になるのです。みなさんは、子どもがもはや幸せな浄土にいることを知って、心の安らぎを得るでしょう。力と笑顔と光に満ちた生活を送るでしょう。そのとき、みなさんは極楽にいるのです。極楽は来世にあるのではなく、今の生活の中にあるのです。

この法話の問題は、業報論と死別の悲嘆の無理解です。
通訳が英訳したものをジョン・エンブリーが書き泊め、それをさらに日本語訳しているので、僧侶が実際にどういう言葉を使ったかはわかりませんが、「前世で運命を決められている」とありますが、運命とは業報だと思います。
前世での業(行い)の報いとして子供が溺死したと話したのでしょう。

宗教とは、何でこんなことになったんだろうという理不尽な出来事を物語によって受け入れさせます。
仏教では三世の因果という物語を説きます。
現在の状況は前世の業報であり、現世で何をするかによって来世が決まる。

たとえば、ハンセン病の患者さんに僧侶が「病気になったのは前世に悪いことをしたからその祟りだ」とか、「あなたたちはこういう病気になったのだからあきらめなさい」というような話をしています。
死刑囚だった免田栄さんは教誨師が「前世において死刑囚になる因を持っていたから現世において死刑囚になっている、故にそのままの姿で処刑されねば救われない」(『免田栄 獄中ノート』)と語ったと書いています。

前世の悪業の報いだからあきらめろ、おとなしくしたらよりよいところに生まれ変われるというわけです。

そして、子供を亡くした親の気持ちをわかっていないことに驚きます。
子供が死んで食事も喉を通らなかったのに、一週間もしたら食べるようになったことを非難し、「本当に子どもを愛していたなら、子どもと一緒に死ぬか、少なくともあの世で子どもがどうなるのかをちゃんと知る努力をすべき」であり、「彼らが口に出した愛情は偽りで、結局利己的だった」と語っています。

「子どもの死は、こうしてまったく無意味になりました」とは、子供の死を縁として仏法聴聞したら仏のお慈悲を喜ぶようになり、浄土で再会できるのに、せっかくの機会を逸してしまったということでしょう。

溺死したのは5歳の少年で。7歳の兄が土手から川に突き落としたのです。
遺体は4日目に発見されました。
二重、三重の理不尽な事件です。
49日程度で子供の死を受け入れるのは不可能です。

子供を亡くした親の会では、病院や医師、そして僧侶への批判がすごいと聞いたことがあります。
こんな法話をする人が今もいるのかもしれません。
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『玉耶経』

2023年07月23日 | 仏教

『仏典説話全集』(昭和3年)を読んでいたら、『玉耶経』の話がありました(井上恵宏訳)。

給孤独長者が息子の嫁に玉耶という貴族(長者か)の娘を迎えた。
玉耶は容姿端麗で天女のような美人だったが、自分の美貌を恃んで驕豪傲慢で、舅姑や夫に仕えることをしなかった。
給孤独は玉耶の慢心を正さなければと、釈尊に来てもらう。
釈尊は玉耶に「婦人は自分の顔形の端正婉麗なことを鼻にかけてはいけない。容姿の美しいことが真の美人とはいえない。心がけが正しく、人に愛され敬われる人を真の美人という。顔形の美しいことを自慢にして好き勝手な行いをするなら、後世には卑賎の家に生まれて婢となるから、心をつちかうようにしなければならない」と語った。
そして、三障十悪、五等、五善三悪を説いた。

ネットで『玉耶経』の翻訳を調べると、住岡夜晃「女性の幸福」がありました。
http://tannisho.a.la9.jp/YakoSnsyu/Josei(4)/4_3_4.html
三障十悪、五等、五善三悪について、井上恵宏訳を住岡夜晃訳で補って紹介します。

三障
① 女性は幼少の時には父母に障えられる。
② 嫁に行ったら夫に障えられる。
③ 年老いたら子に障えられる。

住岡夜晃訳には三障はありません。
三障とは三従のことだと思います。
三従は『マヌ法典』と『儀礼』にあって、「婦人は幼にしてはその父に、若き時はその夫に、夫の死したる時は子に従う」というものです。
「障える」は「さまたげる」「邪魔をする」という意味なので、女性は父、夫、子供に邪魔されながら生きなければいけないという意味だとしたら、ちょっと面白いです。

十悪
① 女の子が生まれると父母が喜ばないこと。
② 娘は父母が一生懸命に養育しても、その育て甲斐がないこと。
③ 娘の嫁入りについて、父母は心配せねばならないこと。
④ 女性はその心が常に人を畏れるということ。
⑤ 生みの父母と生別せねばならないこと。
⑥ 成長の後は、その身を他家に嫁がせねばならないこと。
⑦ 妊娠せねばならないこと。
⑧ 子を出産せねばならないこと。
⑨ 常に夫に気がねしなければならないこと。
⑩ 常に婦人は自由を与えられないこと。
この十のことは、どんな婦人でも本来もっている特性である。

結婚、妊娠、出産が悪だとされています。
自由が与えられないということは、父、夫、子供に束縛されるという三障に通じます。
十悪とは、女であることの悪ではなく、社会の習慣が生み出している悪に女性が苦しむという意味だと解釈しておきましょう。

五等 婦人の践むべき道
① 母婦
夫を愛することが母が赤子を愛護するようにするのをいう。
② 臣婦
臣下が君主に仕えるように夫に仕えるのをいう。
③ 妹婦
兄のように夫に仕えるのをいう。
④ 婢婦
婢のように夫の奉仕するのをいう。
⑤ 夫婦
永く父母を離れて、形は異なっていても、心を同じくして、夫を尊敬して、決して驕慢の情を起こさず、家の内外をよく治め、賓客に応接し、家産を殷盛にして、夫の名を揚げる。

住岡夜晃訳は、七婦の説をさとした、とあります。
七種の婦(おんな)
① 母のごとし
母婦 夫を愛念すること慈母のごとく、昼夜そのそばに侍べって離れず、食物や衣服にも心をこめて供養し、外で夫があなどられることのないように、うまず厭わず、夫をあわれむこと母のごとくする。
② 妹のごとし
妹婦 夫につかえること、妹の兄におけるがごとく、誠をつくし、敬い尊び、異体同心、みじんの隔てがない婦のことである。
③ 善知識のごとし
善知識婦(師婦) 愛念、ねんごろにして、恋々としてあい捨てることあたわず、何事も打ち明けてその間に秘密のことなからしめ、もし夫に過失があれば、教え呵めて、これを繰返すことのないようにし、よいことがあれば、それをほめ敬って、さらに善事にむかわせ、相愛してゆくこと、善知識が人を導くような態度をもって夫に侍じするのが、善知識婦である。
④ 婦のごとし
婦婦 親には誠をもって供養し、夫につかえて、へりくだってその命に従い、早く起きおそくねて身口意の三業をつつしみ、なおざりでなく、よいことはほめ、あやまちは自分の身にきて、人たるの道を歩み、心ただしく婦としての節操を持って欠くところなく、礼を守り、和を尊ぶのが婦婦である。
⑤ 婢のごとし
婢婦 常に自ら慎んでたかぶらず、まごころあり、言葉柔らかに、そまつでなく、性はやわらかく、横着でなく、心を正しく、礼をもって夫につかえ、それを受け入れられても、たかぶることなく、たとえ受け入れられなくても恨みもせず、むち打たれても、ののしられても、甘んじて受けて恨まず、夫の好むところは勧めてやらせ、嫉妬せず、冷たくされてもその非を口にせず、貞操を守り、夜食の善悪を言わず、ただ自分の足らないことを恐れて夫につくすこと、下婢が主人にするようなのが婢婦である。
⑥ 怨家のごとし
怨家婦 夫が喜ばなければ、これを恨みいかり、昼夜に夫とわかれようと考え、夫婦の心のないこと一時の客のごとく、犬のほえるようにけんかしておそれず、頭を乱して臥て、つかわれない。家を治め、子を養育する心なく、他に対してみだらな心をおこして恥とせず、自分の親里すらそしって犬畜生のように言う。いっさいがかたきの家にいるような生活態度だから怨家樹というのである。
⑦ 奪命のごとし
奪命婦 夫に対していかりの心をもって昼も夜もこれに向かい、なんらかの手段で夫から離れようとし、毒薬を与えたら人に知られはしないかと恐れ、親里にゆけば、あちこちに立ち寄り、夫を賊することをなし、夫が財宝をもっておれば人を雇ってこれを奪いとり、あるいは情夫を頼んで殺そうとする。夫の命をうらみ、しいたげ奪うから、奪命婦というのである。
①~⑤が五善、⑥⑦が三悪になるわけです。

五善
① 婦人は、夜は遅くに眠りにつき、朝は早く起きて、衣髪を整え、家事をし、おいしいものはまず舅姑や夫に勧めるようにする。
② 家の品物や家財をよく管理し、失わないようにする。
③ 自分の言葉を慎んで怒ったり恨まないようにする。
④ 常に自分を戒め、及ばないのを恐れるようにする。
⑤ 一心に舅姑や夫に仕え、家名を高くし、親族を喜ばせ、人にほめられるように心がける。

三悪
① 日が暮れないのに早く寝て、日が高く上がっても起床せず、夫に怒られると、かえってその叱責を嫌悪することがあれば、婦道にもとった悪事である。
② 美味は自分が先に食べ、悪い味のものを舅姑や夫に勧め、夫以外の男に心を向けて、妖邪の念を抱くのも悪事である。
③ 生活経済を念頭に置かず、遊蕩にふけると同時に、人の長所短所を探したり、好醜を言って、言葉を慎むということをせす、争いを好み、ついには親族から憎まれ、人々から賎しまれるのも婦道に背いたことである。

住岡夜晃訳の五善三悪は少し違います。
五善
① 妻たる者は、晩おそく臥し、早く起きて、髪かたちを整え、食事するにも目上の者を先にして、心からこれに従い、もしうまいものがあったら、目上にまず供えよ。
② 夫にしかられても恨みをいだいてはならない。
③ ただわが夫のみを守って、みだらな念を抱かぬこと。
④ 常に夫の長生きを願い、夫が外に出た時は、家中を整頓すべきである。
⑤ 夫の善を思って、悪を思わぬこと。

三悪
① 親や夫に礼を守らず、おいしいものを早く食べたがり、早く寝ておそく起き、夫が教えしかると、夫をにらみつけ、これをののしる。
② 夫のみを思わないで、他の男のことを思う。
③ 早く夫を死なせて、さらに他に嫁かそうと考える。以上が三悪である。」
http://tannisho.a.la9.jp/YakoSnsyu/Josei(4)/4_3_4.html

齊藤隆信「女性徳育と『玉耶女経』の韻文」によると、5本ある『玉耶経』の一つは『増一阿含経』のものです。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/59/1/59_KJ00007115332/_pdf/-char/ja

原始経典の時代から女性のあるべき姿が説かれていたわけです。
では、舅や姑、夫はどうあるべきかを説いた経典があるのかと思いました。
仏教と道徳との関係もどうなんでしょうか。

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西田幾多郎と念仏

2023年03月28日 | 仏教

西元宗助『宿業の大地にたちて』を読んで、西田幾多郎が務台理作宛ての書簡に浄土宗や念仏について書いていることを知り、『西田幾多郎全集』を図書館で借りました。
務台理作は西田幾多郎の門下生です。

昭和19年12月21日

ミダの呼声といふものの出で来ない浄土宗的世界観は浄土宗的世界観にはならないと思ひます そんな世界では何処から仏の救済といふものが出てくるのでせう あの人は宗教といふものを事実とせないで唯頭で考へて居るので少しも体験的に沈潜して見ないのです ザンゲばかりの世界は道徳の世界で宗教の世界ではありませぬ 宗教心といふものそのものが自分からのものでなく 向かうのものでなければなりませぬ(略)
私は浄土宗の世界は煩悩無尽の衆生ありて仏の誓願あり 仏の誓願ありて衆生ある世界と思つて居ります キリスト教では此世界は正邪をさばく世界 神の意志実現の世界とすれば 浄土宗では仏の慈悲救済の世界 無限誓願の世界だと考へてゐます 唯凡夫と仏と不対応な世界には何処から我々が仏を求め何処から仏の呼声が出て来るか 場所の自己限定は我々の個に対し偉大なる仏の表現 切なる救の呼声です 君が「自己表現」について云はれた様に場所論理にては内在的即超越的なものからその自己表現として仏の御名といふものが出てくるのです 故に我々は仏を信じその御名を唱ふることによつて救われるのです 仏を観ずるなど云ふのではありませぬ 観ずることのできないものだから唯の名号を唱へるのである

「あの人」とは田辺元のことです。

12月22日

田辺の様な立場からは信によって救はれると云ふことが出て来ない つまり回心といふことの世界だ これが宗教的世界か 罪悪重々の凡夫が仏の呼声を聞き信に入る そこに転換の立場がなければならない これまで独りで煩悶してゐたが実は仏のほどころにあつた 仏の光の圏内に入つて仏に手を引かれて居ることとなる そこにはどうしても包まれるといふとこがなければならない


12月23日

場所の自己限定として我々が弥陀の光明に摂取せられる否せられて居る所に場所的論理こそ真に浄土宗教的世界観を基礎附けるものとおもひます 唯対立の立場からは入信といふことは考へられない 何処から歓喜の念が出てくるのでせう 唯 意志的努力的によつて仏に近づくと云ふなら それこそ唯 行の聖道門的宗教だ 否単に道徳ではないか


昭和20年1月6日

大拙の名号の論理 あれはとてもよいです 浄土真宗はあれで立てられねばならぬ あれは即ち私のいふ表現するものと表現せられるものとの矛盾的自己同一の立場から考へられねばならない そこが天地の根源 宗教の根源です 絶対現在の自己限定の底から仏の名号を聞くのです


1月8日

唯人間の迷だけから出立せねばならぬと(田辺ハ何処ニカウ云フコトヲ云ツテ居ルカ御存知ナラ知ラセヲ乞フ)田辺が云ふと云はれるが 唯の人間の迷から宗教があるのではない 相場師でも迷ふ 神があるから人間の迷があるのだ 凡夫との自覚は神の呼声ではないか 日本精神に論理がないといふがそれは西洋論理がないといふ事だ 生命のある所そこに論理ありだ

西田幾多郎は昭和20年〉6月7日に75歳で亡くなります。

西元宗助はこのように書いています。

西田幾多郎先生は、禅体験を基盤とした希有の哲人として周知の如く高く評価されている。しかし前述の書簡の一端にうかがわれるように、すくなくとも晩年の先生は、いわゆる禅とはいいがたいものがある。そこには心境の転換が看取されるようである。


「宗教心といふものそのものが自分からのものでなく 向かうのものでなければなりませぬ」
「観ずることのできないものだから唯の名号を唱へるのである」
「意志的努力的によつて仏に近づくと云ふなら それこそ唯 行の聖道門的宗教だ 否単に道徳ではないか」
「凡夫との自覚は神の呼声ではないか」
念仏によりどころを求めていたように思います。

西田幾多郎は明治44年に真宗大谷大学の講師をしているし、鈴木大拙は親友です。
務台理作も大正12年に大谷大学教授に迎えられています。

それにしても、西田幾多郎は手紙やハガキを毎日のように何通も出しています。
すごく筆まめです。

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滅罪とカルマの浄化(5)

2022年11月22日 | 仏教

 4 苦行(つづき)
統一協会に1億円以上の献金をしたり、借金をしてまで献金する人がいることが明らかになっています。
しかし、京都仏教会HPによると、献金の強要は非難されるべきではありません。

物欲を捨て、執着を離れ、あるが儘にすべてを受け入れ、生を神にゆだねて生きるということを知性で理解することはできても、現実にそのように生きることは容易ではない。したがって、宗教によっては献金の指導通してこれを実践的に体得せしめようとする教団もあるのである。そして物欲を離れる体験を得させるためには、しばしば当人が無理だと感じるほどの金額であることが必要になる場合がある。もちろん、それは対象者の信仰の状態を見極め、慎重に指導を進めなければならないわけで、指導に失敗すればトラブルに発展することもありえる。しかし、このような指導は一概に批難されるべきものではなく、実際このような体験を通して信仰に生きる喜びを獲得する者もいるのである。

http://www.kbo.gr.jp/books/kenkai-02.htm

加藤基樹「苦行と滅罪」(『日本の宗教と文化』)にこうあります。

「御布施」とか「香典」というものには苦行とか滅罪という意味があります。(略)「身銭を切る」ということで苦行性というふうにいえます。

「無理だと感じるほど」の献金を強いられて、無理をしてまで工面するのは苦行でしょう。

 5 罪とケガレ
肉体は不浄であり、苦行によって肉体を浄化すべきだと考えられました。
断食、断穀、断塩は肉体を清浄にするためです。
アップル荒井しのぶ「法華経と苦行と滅罪─東アジア仏教のパースペクティブ1」にこうあります。

身体の不浄性は煩悩という内的存在の不浄性と関連付けられている。したがって、このような不浄観念が「(罪を重ねてゆく身体を、良い服や食べ物で)更に覆い養はず」というように、断穀断塩、蔬食という、生体に対する抑圧的行為に結びついていると考えられよう。すなわち、断食行という苦行は、罪をつくる主体である自己の内的存在の不浄性に対峙し、浄化するため、すなわち滅罪のために、その内的存在の「仮舎」であるところの身体を極限まで制限し抑圧すること、また捨身行者にとっては身体それ自体の損壊をすら目的とした宗教行動と考えられる。


また、世間も不浄だと考えられています。

浄穢の観念が罪の有無に基づく形で発達したことで、それはとりわけ空間的認知の点から、仏道修行者が苦行を行う山林/山岳と在俗の人々の属する里、都市である「人間(じんかん)」を、それぞれ浄穢を軸にして観念する思考法として展開した。


山林や山岳は清浄であり、人間の住む世界が不浄=罪というわけです。

深山について「清浄善根の境界」とし、欲愛などの煩悩を持つ者達が住む地を「人間」としており、その浄穢の違いは「罪が滅しているかどうか」によって決定されている。

https://www.totetu.org/assets/media/paper/k024_266.pdf

オウム真理教でも世俗=罪だと説いていました。
広瀬健一『悔悟』です。

当時私は、会話をするなどして非信徒の方と接したり、街中を歩いたりすると、カルマ(悪業)が自身に移ってくるのを感じました。これは、気体のようなものが振動(ヴァイブレーション)を伴いながら身体に入ってくるような感覚でした。また同時に、表現し難い不快な感覚も誘起されました。まるで、自身の生命活動を維持している源が、蝕まれるような。そして、この感覚の後に私は、自分が気味悪い暗い世界にいるヴィジョンや、奇妙な生物になったヴィジョン――カンガルーのような頭部で、鼻の先に目がある――などを見ました。


罪とケガレ、滅罪と鎮魂(ケガレを祓う)は関係があるそうです。
滅罪は奥の深いテーマです。

 6 滅罪の得益
①死後に三悪道に堕ちない
②死後に人・天に生まれる
③死後に仏国土に往生する
④来世の安楽
⑤除災招福

オウム真理教では、カルマの浄化は三悪道に堕ちない手段です。
滅罪も本来は解脱が目的ですが、実際には現世における災いを防ぎ、利益を得ることが求められていました。

アップル荒井しのぶさんはこう指摘しています。

『霊異記』当時の人々の滅罪の捉え方は、煩悩などの執着を断ち切って解脱するとか、罪空思想など仏教教理の上からの理解の仕方ではなく、大祓の儀式によって全ての罪が悉く無くなるように、災いや苦しみとしてあらわれる罪を祓い、贖い、免れることという理解だったと考えられる。

https://www.totetu.org/assets/media/paper/k022_222.pdf

滅罪に期待した庶民の信仰の目的が現世利益です。
加藤基樹さんによると、お百度参りも苦行です。
お百度参り(裸足、お茶断ちなど)という苦行で病気の原因である罪を滅することで、病気平癒が叶うと信じられました。
これは代受苦という考えです。

カルマの浄化を求める気持ちは日本人にとってごく自然な感情なのかもしれません。

河口慧海『チベット旅行記』に、カムの人は泥棒が多く、聖地を巡礼して今まで作った罪を消すと同時に、これからも泥棒をするので、これから作る罪も消してもらうよう祈るといったことが書かれています。
滅罪行は過去の業だけでなく、未来の業をも消すと信じられているわけです。

 7 滅罪批判
『歎異抄』に滅罪の利益を批判しています。

一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしということ。この条は、十悪五逆の罪人、日ごろ念仏をもうさずして、命終のとき、はじめて善知識のおしえにて、一念もうせば八十億劫のつみを滅し、十念もうせば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといえり。これは、十悪五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といえるか、滅罪の利益なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。


中村元『仏教語大辞典』の「懺悔」の項にこうあります。

大乗仏教では、自己の罪を認めた者は諸仏の前に懺悔し、帰投し、摂受されて罪の恐れから解放されるという形のものになった。


私たちは罪報を恐れるわけですが、本当の滅罪は罪をなくすのではなく、罪の報いを恐れる必要がなくなったということではないかと思います。

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滅罪とカルマの浄化(4)

2022年11月11日 | 仏教

 4 苦行による滅罪
釈尊は苦行を否定していますが、多くの宗派では苦行を行なっています。
滅罪のための苦行には、
・過去世から現在までの悪業を清算する。
・肉体と精神を浄化する。
・自分の悪業によって来世で受ける苦しみを軽くする・なくす。
・浄土往生する。
・他者の罪を消す(回向)。
・他者の業苦を自分が代わって受ける(代受苦)。
といった意味があるようです。

アップル荒井しのぶ「法華経と苦行と滅罪─東アジア仏教のパースペクティブ1」に、こうあります。

実践の過程で身体上に「苦痛を受ける」ことこそが、自己の滅罪、浄化を、身体感覚の上に確認する行為となりうる。


熊野では断食行・断穀・断塩、火断、捨身行、焼身行、山林修行、水行・滝行といった苦行による滅罪が行われていました。
平安時代から吉野の金峰山や熊野へ多くの人が参っていますが、一般の人にとって巡礼は苦行であり、滅罪行という意味もありました。

多くの苦行僧が仏や菩薩、天、神などを見ています。

我宿罪の故に仏身を見ず。(略)罪滅するを以ての故に、現に諸仏を見る。(『観仏三昧海経』)

清浄化の証しとして見仏という神秘体験をしうると考えられていた。
https://www.totetu.org/assets/media/paper/k024_266.pdf

アップル荒井しのぶさんは『観普賢菩薩行法経』の色を見る神秘体験を紹介します。

釈迦牟尼仏及び分身の諸仏を見たてまつらんと楽わん者、六根清浄を得んと楽わん者は当に是の観を学すべし。此の観の功徳は諸の障碍を除いて上妙の色を見る。


広瀬健一『悔悟』にも、オウム真理教の極厳修行で色を見たとあります。

極厳修行において、麻原とシヴァ神を24時間にわたって礼拝――立位の姿勢から五体を床に投げ出しての礼拝を繰り返す――したときのことです。(略)私は赤・白・青の三色の光をそれぞれ見て、ヨガの第一段階目の解脱・悟りを麻原から認められました。特に青い光はみごとで、自身が宇宙空間に投げ出され、周囲一面に広がる星を見ているようでした。

このように、教えの正しさと苦行の得益を神秘体験によって実感するわけです。

統一協会でも苦行による滅罪が説かれます。
櫻井義秀、中西尋子『統一教会』に罪と罪の清算についてこう書かれています。

罪とは何か。それは原罪、遺伝罪、連帯罪、自犯罪という四つである。「堕落論」によれば、原罪はアダム、エバの堕落によって人類全てが受け継いだ罪、遺伝罪は先祖が犯した罪、連帯罪は国家や民俗などが犯した罪、自犯罪は自分が犯した罪である。このうち原罪は祝福を受けることによって清算される。残りの三つ、遺伝罪、連帯罪、自犯罪は善行の積み重ねによって清算しなければならない。日本人女性信者達の韓国での生活はこの三つの罪の清算のためにある。


罪の清算は統一教会の言葉でいえば「蕩減」です。
蕩減の本来の意味は、借金を全部帳消しにすることです。

祝福(合同結婚式)では、アダムとエバが性の罪を犯したので、自らも罪を償う意味で新郎新婦が蕩減棒でお互いに尻を3回叩きます。
「オヤヂの呟き」という統一協会脱会者のブログに「蕩減棒の思い出」があります。

祝福の行事の一つ蕩減棒の儀式がやって来た。バットよりも一回り細い棒(何の木かは不明)で、新郎新婦がお互いのお尻を力一杯に叩く。最初は男性が女性のお尻を三回、続いて女性が男性のお尻を三回、六千年の蕩減を清算する為に、力一杯。先輩家庭から『総ての罪の清算だから、決して加減をしない様に』と言われていたから、やりましたよ。(彼女の六千年の罪が清算出来ます様にと念じながら)一発目ジャストミート! 奥方様は3メートル位飛んで行きました。顔面蒼白。すると、そこの宿舎のアベル(責任者)が小声で、『もう少し緩くしてあげて…』。

https://plaza.rakuten.co.jp/norihiro5/diary/200806120000/

統一協会では日本人が作った罪を清算しないといけないと説かれます。
合同結婚式で韓国人と結婚した日本人妻は、離婚や脱会は蕩減が重くなって地獄で永遠に苦しむと教えられている。
夫が仕事をせず酒を飲んでは妻を殴ることは日本人が韓国に対して作った罪の報いだから、それに甘んじることが罪の清算になると、肉体的苦痛によって実感する。
これも苦行による滅罪だと思います。

『ミリンダ王の問い』に、如来が暴力や殺人によって利益を与えると説かれています。

大王よ、如来は人々の利益のために〈かれらを〉打ち、人々の利益のために〈かれらを〉落とし、人々の利益のために〈かれらを〉を殺すこともするのです。大王よ、如来は人々を打ったのちにかれらに利益を付与し、落としたのちにも人々に利益を付与し、殺したのちにも人々に利益を付与するのです。


苦しみを与えて導くことを、オウム真理教ではカルマ落としと言います。

麻原は、竹刀で信徒を叩くことがありました。竹刀が折れるほど強く。また、様ざまな〝働きかけ〟をして、信徒を精神的に苦しめることもありました。よく聞いたのは、信徒の苦手とする課業を故意に指示し、信徒が強いストレスにさらされる状況を形成することです。このような方法で対象のカルマを浄化することを、「カルマ落とし」といいました。(広瀬健一『悔悟』)

https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/cd331bfbd4debe96de283f7a614bbd39

日本人妻は、自分が作った罪ではないのに罪の報いを受けると信じ込まされているわけです。
業報思想の問題の一つは、自分が現世で作った罪だけでなく、過去世で作った罪、あるいは先祖が作った罪の報いまでもが説かれていることです。
ですから、過去世や他人の罪も消さなければいけないことになります。
そんなことはほぼ不可能です。

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滅罪とカルマの浄化(3)

2022年11月03日 | 仏教

 3 罪、罪報、滅罪の方法(つづき)
③十悪
積善、すなわち善業を積むことで、マイナス(罪)をなくし、プラス(得益)を得る。
十善戒を守るだけでなく、供養や布施をする、読経や写経をするなども善業。

とはいえ、西村玲「不殺生と放生会」に引用されている『金光明経』によると、殺生の滅罪は困難です。
屠殺は畜生が来世に人として生まれることを阻む罪であるから、殺された畜生は冥府で屠殺者を怨む者となる。
あらゆる罪は懺悔すれば滅するが、殺生の罪だけは懺悔してもなくならない、
なぜならば、怨む者がひたすら訴えるからである。

『梵網経』にある戒、肉食を禁止し放生を勧める次の文言を根拠とする。

なんじ佛子、故さらに肉を食せんか。一切の肉は食することを得ざれ。それ肉を食するものは、大慈悲の仏性の種子を断つ。(梵網経・三食肉戒)

 

なんじ佛子、慈心を以ての故に、放生の業を行ぜよ。まさにこの念を作すべし、一切の男子はこれ我が父、一切の女人はこれ我が母なり。我れ生生にこれに従って生を受けずということ無し。故に六道の衆生は、皆これ我が父母なり。しかも殺し、しかも食せば、即ち我が父母を殺し、亦た我が故身を殺すなり。一切の地水はこれ我が先身、一切の火風はこれ我が本體なり。故に常に放生の業を行ずべし。生生に受生する常住の法なり、人を教えても放生せしめよ。(梵網経・二十不行放救戒)

眼前の動物は、六道を輪廻する衆生であり、かつて代々の父母であり我が身である。
動物や虫魚を殺して食べるのは父母を殺して食べることと同じ。
file:///C:/Users/enkoj/Downloads/eco-philosophy6_047-053.pdf

波逸提法では、虫や植物の殺生も罪になります。
・掘地戒 大地に生命があると世間では信じられているので、自分の手で大地を掘ったり、他の人に指示して大地を掘らせてはならない。
・伐草木戒 植物に生命がやどるので、自分で草木、樹木を伐ったり、他の人に伐らせてはならない。
・用虫水戒 虫が死ぬから、水の中に虫があるのを知りながらその水を用いたり、泥や草の上にその水をそそいではならない。
・奪畜生命戒 殺そうという意志をもって動物を殺してはならない。
・飲虫水戒 水の中に虫があるのを知りながらその水を飲んではならない。
http://www.suijoji.sakura.ne.jp/asia/kairitu.html

④仏法を誹る
アップル荒井しのぶ「日本古代の法華経滅罪信仰の形成と民間への浸透について(1)」によると、『法華経』は、「滅罪の呪力を持つ経典であるが、誹るならば厳罰がある」と、『霊異記』では理解されていました。

『法華経』誦経者等を誹謗する者への護法神による刑罰としての悪報。
・乞食の僧を迫害したために呪縛された男が、その僧の観音品読誦で助かる。
・法華経持経者を誹ったために、口が歪む。
・法華経誦持の人を嘲ったために、口が歪み悪死する。
・法華経書写の経師が淫行の為に、女とともに悪死する。
・猿聖と呼ばれる法華経読誦の尼をあざけり笑った人が、空から降りた神人によって悪死する。
・法華経書写の人を悪口したために、口が歪む。
・子供の作った塔を壊したために、悪死する。
https://www.totetu.org/assets/media/paper/k022_222.pdf

日蓮『佐渡御書』に「法華経の行者を過去に軽易せし故に」とあります。
岡田榮照「日蓮に於ける滅罪」はこのように説明しています

日蓮にとつて受難こそ、体験的滅罪であり、流刑を通じて自己に於ける過去の罪障の苦果と甘受し、自己自身に対する折伏を随件していたと考えることは、従来忽諸に附せられていたかに思われる。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/13/1/13_1_170/_pdf/-char/ja

日蓮は過去世で『法華経』の行者を侮り軽んじた業報によって佐渡に流罪になるなどしたと受け取ったわけです。

⑤生死の罪
生死とは輪廻のことですから、何度も輪廻しないといけない罪が生死の罪です。
『観無量寿経』は称名による滅罪を説きます。

悪業をもってのゆえに地獄に堕すべし。命終わらんと欲る時に、地獄の衆火、一時に倶に至る。(略)
十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。命終の時、金蓮華を見る。猶し日輪のごとくしてその人の前に住す。一念の頃のごとくに、すなわち極楽世界に往生することを得ん。
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滅罪とカルマの浄化(2)

2022年10月22日 | 仏教

 3 罪、罪報、滅罪の方法
罪と悪とは同じなのか、それとも違うのか、気になったので、中村元『仏教語大辞典』を調べてみました。

①悪いこと。人をそこなう事がら。理法に背いて現在と将来に苦を招く力のある性質。
②悪の行為。悪業のこと。


①つみ。悪。
②人としての道に反すること。


罪悪

悪とみなされる罪。

となると、悪とみなされない罪があるのかと思います。
たぶん罪と悪は同じようなものと考えていいのでしょう。

小笠原亜矢里「『観無量寿経』における滅罪について」に、『観無量寿経』で滅罪の対象とされるのは主に①罪、②業障、③悪業だとあります。
『仏教語大辞典』を調べました。

業障

①悪業のみをなす障り。
②悪の行為によって生じた障害。
③成仏をさまたげる悪業。


悪業

悪い行ない。好ましくない果を招く、身・口・意一切の動作をいう。すなわち十悪。人は自身の業(行為)にひかれて六道に行く。修羅道以下は悪業によってつれていかれる悪道である。

これまた似たような意味です。

滅罪

懺悔・念仏・陀羅尼などによって罪を滅すること。こうした滅罪を目的に儀式化されものが悔過・懺法などである。


滅罪の対象となる罪、滅罪の方法、滅罪によって得られる得益は経典によってさまざまです。
滅罪の方法としては懺悔、悔過、積善、供養などがあり、具体的には布施、読経、写経、造像、斎会、観仏、称名、祈禱、沐浴、苦行、斎戒、不殺生、放生、出家といったことです。

①破戒
戒律を破れば罰則があります。
波羅夷はサンガからの追放。
僧残は一定期間、比丘としての資格が剥奪され、その後に懺悔する。
不定、捨堕、波逸提、提舎尼、衆学、滅諍は懺悔する。
http://www.horakuji.com/lecture/vinaya/construction.htm

懺悔とは何か、『仏教語大辞典』です。

人に罪のゆるしを請うこと。犯した罪を仏の前に告白すること。悔い改めること。


具体的には布薩と自恣です。
布薩

半月ごとに同一地域の僧が集まって自己反省し、罪を告白懺悔する集まり。


自恣

安居が終わった最終日に修行僧が互いに自己の犯した罪を告白し、懺悔して許しを乞うこと。


懺悔と同じような言葉が悔過です。

①過ちを悔いること。懺悔すること。
②仏前に懺悔して、罪報を免れることを求める儀式。古くは「悔過」と訳されていたが、その後「懺悔」と訳されるようになった。

奈良時代に吉祥悔過や薬師悔過などが行われていましたが、密教の流通とともに廃れていきます。

②破和合僧
出家の功徳が『ミリンダ王の問い』に説かれています。
デーヴァダッタがサンガを破壊したことで、一劫の間、地獄で苦しみを受けることを釈尊は知っていたのに、なぜ出家を許したのかというミリンダ王の問いにナーガセーナが答えます。

かれの無限の業は、わが教えの下で出家したならば終りをつげるであろう。前生〈につくった業〉に基づく苦しみは、終りをつげるであろう。だが、出家したとしても、この愚かな人間は一劫の間、〈苦しみをうける〉業をなすであろう」と知って、デーヴァダッタを出家させたのです。
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