三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

サンガラトナ・法天・マナケ『波瀾万丈! インドの大地に仏教復興』

2018年03月28日 | 仏教

 
サンガラトナ・マナケ「インドと日本の架け橋として 現代インドのアウトカーストへの差別に学ぶ」という講演をYoutubeで見て、こんな人がいるのかと驚嘆し、サンガラトナ・法天・マナケ『波瀾万丈! インドの大地に仏教復興』(2007年発行)を読みました。

サンガラトナ・マナケ師は1962年にインドのナグプールで生まれる。
マハールという不可触賎民の出身。
インドでは不可触賎民が人口の3割だが、差別されている人は7割にもなるという。
住んでいる地域と名字で、だいたいどの階層かを判断できる。
上下の区分だけでなく、横にも区分があり、同じ階層の人間同士で争わせる。

マナケ師は7歳で得度し、1971年、9歳で延暦寺に入る。
3時半に起床、4時から止観(坐禅)を1時間、そして勤行が1時間。
6時から作務(掃除)を1時間し、7時から朝食。
7時半に出て、ケーブルの駅まで30分歩き、8時のケーブルに乗り、麓の駅から20分歩いて坂本小学校に通う。
小学校から帰ると、夕方5時から1時間止観、1時間勤行、夕食をすませて勉強し、就寝は10過ぎ。
ということは、睡眠時間は5時間半しかなくて、小学生にとっては厳しい。
しかし、マナケ師は日本人はみんなこういう生活をしていると思っていたそうです。

中学校と高校に入ったときにインドに帰りますが、ヒンドゥー語を忘れてて、両親と話すときにも師匠の堀澤祖門師が通訳してくれたそうです。

インド仏教の現状に触れることができました。しかし、そこでは、僧侶を聖人として崇める行為が日常的に行われていました。

高貴な客には、低い台を用意し、女性が水瓶から水をかけて足を洗う習慣がある。
僧侶に対しては、水ではなく牛乳で僧侶の足を丹念に洗う。
足を洗った牛乳を、まず家族がお神酒のように一口ずつ飲み、続いて参列者が次々と飲んでいく。
本願寺の法主が地方に巡教したとき、法主が入った風呂の水を人々が競って飲んだという話がありますが、インドでは今もそういうことが行われているようです。

1985年、23歳の時にインドに帰国。
やはり言葉に苦労した。
禅定林という建物をやっと完成させ、次に何をするか、インドでは水がないから井戸を掘ろうとを考えた。
しかし、村長に相談すると、すぐ近くに川があり、水には不自由していないと笑われる。

私が井戸を掘ろうとするその気持ちが、相手も望んでいることだろうと思いこんでいる。相手が必要としている活動をするのではなく、こちらが勝手に決めた活動を押し付ける。ボランティアの現場では、こうしたことが多々起こりがちです。(略)相手には大変迷惑な話です。
作る側の気持ちのなかには、相手にとって不必要なものを作っておきながら、感謝しろという気持ちが芽生えます。

マナケ師はヒンドゥー語を学ぶためもあり、しばらくは高校生までの子供たち5人と共同生活をしながら畑を耕した。
そのうち、日曜日に寺子屋をして、子供を一日預かるようになる。
1年続けるが、日曜学校だけでは何も変えることはできないと思い、親がいない子、親が面倒を見ることができない子供と一緒に生活する子供の家を始める。
現在(2007年)、子供の家に40人前後、学校に約400人いる。
http://www.pmj3.com/

活動の基盤にあるものは、ものを与えるのではなくて、自立できる人を育てることにあります。
パンを与えるのではなくて、パンの作り方を教えるということです。

あんパンを与えようとしても、限られた人数にしか与えることはできない。
そして、あんパンを拒む人がいたら、「お前はなんてひどい人間だ。私はあんパンを与えてやっているだろう。それを食べればよいではないか」と怒る気持ちが発生したり、相手を見下げる気持ちが生まれてくる。
人間にはそれぞれ考え方があり、人間それぞれの生き方があり、それぞれの生き方をと認め合うべきではないか。
「パンを与える」というやり方をとると、すべてを肯定できなくなってしまう。
自分の意見に賛同し、都合のいいものだけを肯定し、自分にたいして都合の悪いものは否定してしまう。

それではどうすればよいか。
自立を促すしかない。
パンの作り方を教える。
みんなはそれを習って自分で作り方を覚える。
パンの作り方を習ってしまえば、自分の好きなようにパンを加工すればよい。

インド仏教は佐々井秀嶺師を中心にして一つの教団としてまとまっているのかと思ってたら、佐々井秀嶺師の名前が出てきません。
上座部系、チベット系などいろんな教団があり、現在のインド仏教は、個人の悟りを最優先する上座部系の仏教が主体になっているそうです。

マナケ師の活動への弾圧があるそうです。
仏教思想に基づいていないと攻撃されたり、建立した寺院を壊すよう政府に訴えた人もいた。

インドに今ある仏教形態のなかにも、私たちが受け入れなければならない考え方もたくさんあります。けれども、どうしても納得できない、私たちの立場から考えておかしなことは、絶対に受け入れることはできないのです。けんかをするのではなく、相手の立場を認めながらも、どれだけ攻撃されても自分たちの信念を貫くことが大切です。


マナケ師のもとに、年間100人前後が弟子にしてほしいとやってくるが、大半は口減らしのため。
上座部系の僧侶の大半は口減らしのために僧侶になった人たちだそうです。

インド上座部仏教の形態は、師弟が一緒に住むということではない。
弟子は一つ、二つのお経を覚えたら師のもとから出て行く。
師匠は得度はさせるけれども、なぜ僧侶になるのか、僧侶は何をすべきなのかは教育しない。
師匠は自分の弟子が50人いるという権力は見せたい。
けれども、責任は持ちたくない。

ナグプールあたりの僧侶たちは、社会のなかで何もできない人たちが僧侶になるというケースが大半。
ほかの何をしても食っていけないけれど、僧侶になることで食事も尊敬も得られる。
ナグプールの一般的な僧侶は、好きなときに寝て、好きなときに起きて、好きなことをして、ご飯は人が食べさせてくれる。
大半がそうだから、世間では僧侶は何もできない怠け者がなっているというレッテルを貼られている。

何はともあれ、大した人がいるもんだと、いつものことですが感心しました。

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中島岳志『親鸞と日本主義』

2018年02月12日 | 仏教

戦前の日本主義とは、天皇を中心とした国体を信奉する国粋的イデオロギーのこと。
中島岳志『親鸞と日本主義』は、大正から昭和初期の親鸞主義者が、親鸞の思想を国体の正当化する論理としたことが論じられています。

この時代、革命やテロ、軍事的陰謀などによって社会を根本的に改造し、理想社会を自らの手で構築することができるという確信を抱いていた日蓮主義者が多く存在した。
自らの力によって世界をよき方向に改造することができるという超国家主義者の発想は、親鸞思想の中からは出てくるはずがないように思われた。
しかし、三井甲之『親鸞研究』を読み、マルキストやリベラリスト、革新派右翼を徹底的に糾弾し、思想弾圧の先兵となった原理日本社の三井甲之が親鸞主義者であったことを知る。
親鸞思想の核心部分に極めて危険な要素が内在しており、親鸞思想が無原則な現実肯定の論理になるなら、絶対他力の論理は権力者の恣意的な全体主義に取り込まれる。

このように中島岳志氏は『親鸞と日本主義』で問題提起しています。

・三井甲之

三井甲之と『原理日本』の同人たちは、日本の存在そのものを礼拝の対象とし、天皇の絶対化を唱えた。

われらの帰命すべき総体意志はなんであるか、それは日本意志である。それが本願力である。此の本願力としての日本意志に帰命し帰依するといふのは「日本は滅びず」と確信することである。現日本の日本人にとつては反復すべき名号は「祖国日本」である。われらの宗教は祖国礼拝である。「日本は滅びず」と信ずるが故にわれらのはかなき現実生活も悠久生命につながらしめらるるのである。それが摂取不捨である。摂取して捨てざるが故に阿弥陀仏といふ。即ち摂取して捨てざるが故祖国といふ。

三井甲之らの行動の原理は、弥陀の本願という他力にすがることが考えの中心にある。
簡単に言ってしまえば、自力はけしからん、ということである。
ちっぽけな理性で世界を改造しようなどという考えは邪悪以外の何ものでもない。
三井における親鸞の教えは、世界そのものを絶対肯定し、人生や現実を無条件で肯定する哲学として受け止められていた。

しかし、どこかで弥陀の本願が天皇の大御心へとすりかわり、「阿弥陀仏の本願力」が「日本意志」や「天皇の大御心」と読み替えられていく。

天皇という超越者のもと、平等の存在として一般化された国民は、総力を結集することによって、唯一かつ無限の自然に溶け込んでいく。

祖国日本の精神に帰命するためには、明治天皇の和歌を「拝誦」すればいい。
そうすることによって明治天皇の大御心に包まれ、無限の自然の中に没入する。

自力を捨て、天皇のもと、大御心のもとに、今まさに何の不自由も隔てもない理想国家がそのままの形で存在している、

それを三井甲之が「中今」と名づけた。
そして、「中今」が、親鸞の「絶対他力」に基づく「自然法爾」だと言う。

ありのままの状態で国体があらわれていれば、それこそが幸せな状態なのだ。
ところが、現実の日本の社会は格差が広がり、苦しんでいる人々がいる。
天皇の大御心が存在する以上、世界はユートピアであるはずなのに、なぜそんなことが起きているか。
天皇の大御心が人々に届かないように邪魔をしている「君側の奸」が存在するからだ。

マルクス主義者や革新右翼の論理の中に「はからい」を見出し、それらを自力の思想として三井甲之たちは攻撃した。


・マルキストの転向と教誨師

多くのマルクス主義者は転向にあたって、共産主義者から仏教者へと転向し、親鸞の信仰に帰依することで、権力に従順な国民としての道を歩んだ。
本願寺教団の僧侶である教誨師たちは親鸞思想の方向へと教化を進めていった。

思想犯は真面目な人間で、社会の矛盾に目を背けず、世界を改善しようと活動するうちに、共産党へと吸い寄せられた純真な学徒であり、熱心な求道者である。

マルクス主義というのは行きすぎた自力の思想であるから、マルクス主義に代わる絶対真理の探究へと熱情を回路づける必要がある。
共産主義は社会悪ばかり重視するが、問題は人間悪の認識であり、そこから絶対的な真理への道が開かれる。
自力への過信と自らの愚かさを直視した時、目の前には自然法爾の世界が広がる。

親鸞の教えは自己の生活の立脚点となったのと同時に、体制批判を無効化する装置としての役割も果たした。


・亀井勝一郎

亀井勝一郎『親鸞』(1944年)は戦後、大幅な削除がされているそうで、がっかり。

「おのづから」とは、わが国においては皇神のひらき給うた道であつて、「神ながら」といふ。この道に微妙に包摂さるるかぎりにおいて、大乗ははじめてだいじょうでありえた。

『原理日本』と亀井勝一郎の論理構造は、阿弥陀仏を天皇と置き換えることによって、国家への絶対的な随順の論理を導き出し、神ながらユートピアの現前を思考し、そこに自然法爾の実現を夢想する。
さらに、戦争などの個別的な罪を、人間不変の罪悪へと回収してしまう。

倉田百三、吉川英治たちは省略。


・暁烏敏

真宗大谷派の暁烏敏は、阿弥陀仏の本願は天皇の大御心と同一視する。

私共は仏の顕現として天皇陛下を仰ぎまつるのであります。

自分の意見を持つことは自力の道であり、そのような計らいは捨てなければならない。
我々は自力や計らいを捨て、天皇の大御心にすべてを委ねなければならない。
天皇への随順こそが他力本願の教えである。
兵士となって天皇の「仰せ」に従って命を捧げることこそが「弥陀の本願」に適うことである。

純一な雑じ気のない率直な魂で、今の生活に大御心を仰ぎ、大御心に順うて、大御心の御用をつとめさしていただくのであります。その素直な心、そこには悩みはないのであります。

日本は阿弥陀仏の真実報土と一つ世界である。
日本人は浄土に生まれた選ばれた民である。

西方の極楽浄土は日本の国に輝いてをるといふことを教へられたのが、平生業成と云はるる親鸞聖人の教であります。

暁烏敏の夢想するそんな日本=世界は、『素晴らしい新世界』みたいなアンチユートピアを連想させます。

・親鸞を信奉する宗教者・文学者・思想家が日本主義へと傾斜したのはなぜか

多くの親鸞主義者たちが、阿弥陀仏の「本願」を天皇の「大御心」に読み替えることで国体論を受容した背景には、浄土教の構造が国学を介して国体論へと継承されたという思想構造の問題があった。

浄土宗の信者だった本居宣長の大和心という観念は、浄土教の思想と構造的に接続しやすい。

すべて神の御所為(みしわざ)であり、人間の賢しら計らいを排除し、ありのままの神に随順することを本居宣長は説いた。
政治体制の是非を論じることは私意を立てる「漢意(からごころ)」であり、どのような政体であろうと、神意のはからいであるかぎり、批判すべきではない。
宣長における「漢意」は、法然・親鸞における「自力」であり、「やまとこころ」は「他力」に随順する精神である。
「本願」こそ「神の御所為」だとされた論理を、阿満利麿氏はこのように説明しているそうです。

国体論は国学を土台にして確立されたため、国学を通じて法然・親鸞の浄土教の思想構造を継承している。

法然・親鸞の浄土教が国体論に影響を受けているのではない。
国体論が浄土教に影響を受けているのである。
そのため、親鸞の思想を探究し、その思想構造を身につけた人間は、国体論へと接続することが容易になる。
浄土教が生み出した国体論が、逆に浄土教を飲み込んでいく現象が起こった。

日本の全体主義は、親鸞思想の影響のもとに加速していったのです。


私は、国家神道での天皇の役割は本願寺の法主をモデルにしたということも、日本主義に飲み込まれた原因の一つではないかと思います。

葦津珍彦氏は、島地黙雷が国家神道を作ったと論じてますし。
それはともかく、『親鸞と日本主義』ははなはだ興味深い論考でした。

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中島岳志、島薗進『愛国と信仰の構造』

2018年02月06日 | 仏教

中島岳志、島薗進『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』と中島岳志『親鸞と日本主義』を読みました。
どちらも刺激的でした。

『愛国と信仰の構造』は島薗進氏と中島岳志氏との日本の全体主義をめぐる対談。
全体主義の定義として想田和弘‏氏のものはどうでしょうか。

僕の定義は簡単です。ファシズムとは全体主義のこと。つまり個人の思想や違い、人権、多様性を犠牲にしてまでも、社会や国全体の利益や一体感を優先させる思想や態度。自民改憲案は完全にこの定義に当てはまるし、秘密保護法や共謀罪など自民党の基幹政策やトップダウンの政治手法も完全にこの傾向。


島薗進氏が最初にこのように指摘しています。
国民的な連帯が弱まっている現代では、「日本固有」の神道、あるいはそれと重なる国体的伝統というものに回帰していきたいという流れが急激に強くなる。
同時に、中国や韓国に対抗しなければならない、という民族主義的な考え方も強くなってきている。
ナショナリズムと宗教が結びつくのが日本の特徴で、靖国参拝問題や日本会議が分かりやすい形だ。

・ナショナリズムについて
ナショナリズムとは「国民主義」と「国家主義」という意味。
国民主権 下からのナショナリズム  「国家は、国民のもの」
国家主義 上からのナショナリズム  「国民は、国家のもの」

・国家神道

島薗「中国や韓国への対抗意識から、広範囲な層にわたってナショナリズムの高揚が見られます。そしてそのナショナリズムを政治的に活用しようという動きが露骨になってきている。そこに、国家神道的な思想が動員の道具とされているわけです」

島薗進氏によると、国家神道は、多分に儒教的である。
明治維新以前には、日本各地にさまざまな神社があり、それぞれ多彩な信仰を培ってきたが、日本中の神社を束ねる統一的な宗教組織は、幕末までは存在しなかった。
それが明治になると、皇室祭祀と連携しながら、伊勢神宮を頂点にした組織を作り上げていく。

明治維新でのスローガンが祭政一致。
政治の中心には祭祀をつかさどる天皇がおり、その祭祀を通じて下々にも天皇崇敬がゆきわたり国民が統合される。
天皇を国家の中心に置いて「上からの」統合をめざす、非常に儒教的な要素の強いものである。

国民の中に国家神道が根づいていったのは、1890年の教育勅語発布のころから。
教育勅語や軍人勅諭などを通して、民衆が自発的に国家神道の価値観を身につけ、日本人は強力な国家神道の規範秩序に組み入れられていった。

・一君万民

一君万民とは、超越的な天皇のもと、すべての国民は平等だという思想。
中島岳志氏によると、超越的な天皇にだけ真の主権を認めることによって、天皇以外の民の間には一切の身分差・階級差を作らない。
みんなの心がつながり合えば、天皇の大御心と溶け合って、ひとつになっていく。
水戸学の人々は、「一君万民ナショナリズム」は武士と農民を同じ「万民」と捉え、封建秩序を決定的に破壊するからと、警戒した。

・自由民権運動

自由民権運動は、身分制や専制的な政府のあり方を批判し、国民主権の原則が主張された。
しかし、自由民権運動に関わった人たちには天皇主義者が多く、「一君万民」に基づいたナショナリストたちだった。

中島「幕末期以来、「一君万民」に基づく国民主権ナショナリズムを求めて、体制批判の急先鋒の役割を担った「右翼の論理」は「体制の論理」と化し、現実政治への批判の契機を根源的に失ってしまいました」


・ユートピア主義

維新は「回復」「復興」という意味。
天皇と人民が神意に従って一体化しているような世界が理想であり、そういったユートピア的な世界は古代日本において成立していたと考える。
天皇の存在を前提とする社会への復帰をめざしたのが明治維新だった。

中島「古代への回帰を理想とする、国学が源流のユートピア主義的な傾向が、日本の右翼思想から消えてしまったわけではありません。(略)
そうした古代への回帰を理想とするユートピア主義的な右翼思想は、自由民権運動を経由した玄洋社のように、「国民主権」と「天皇の大権」の一致をめざすナショナリズムと合流していく。そして、昭和維新と言われる国家改造運動を生み出します」


左翼 人間が理性を使って正しく設計すれば、未来はよい方向に変革できる。つまり、未来にユートピアをつくることができると考える。

右翼 歴史を遡り、過去の社会にユートピアを描いてしまう傾向がある。過去のよき社会を復古させることさえできれば、世の中はユートピアになる。

玄洋社など国民主権的な伝統右翼は、立憲主義に基づいた民主制によって国体が確立され、国民の意思と天皇の意思が一致する社会が成立すると考えていた。
革新右翼は「上からの」設計によってよき社会をつくることができる、革命によって国家を改造することが可能だと思っていた。

日蓮主義(自力のユートピア主義) 革命やテロ、軍事的陰謀などによって社会を根本的に改造し、理想社会を自分たちの手で作っていくことができるという確信を強く抱いていた。


親鸞主義(他力のユートピア主義) 天皇の大御心と自分たちを一体化すれば、ユートピアは現前すると考え、計らいを徹底的に糾弾する。


保守 未来にも過去にもユートピアを求めない。人間の理性だけでは、未来に理想社会が実現できるとは考えない。絶対に人間は誤るから、少しだけでもよりよい社会にするためには漸進的な改革を進めていくしかない。


・日蓮主義

中島岳志氏は、天皇崇敬を掲げる超国家主義的な変革運動の指導者の多くが、日蓮主義の影響を受けていると指摘します。

中島「日蓮主義の教義には、そもそも国家救済のヴィジョンがある。そのために、国体論と融合し、日本が中心となって世界を統一するという「八紘一宇」の理念が日蓮主義の中から生まれました。と同時に、こうした日蓮主義の世界変革的な理念は、北一輝のような革新右翼が生まれる磁場にもなったわけですね」


法華経と国体との一体化を説く国柱会を作った田中智学の考えを、中島岳志氏は次のように説明します。

法華経や日蓮遺文に国体論的なものを読み込んで、末法の世に出現する上行菩薩を天皇だと言ってみたり、法華経の「転輪聖王」や「賢王」といった存在を天皇と同一視していく。
天皇は存在そのものが仏教的真理を具現しているから、「世界を統一すべき国体こそ日蓮仏教のめざす最高の理想である」と考える。

まずは在家信者によって新しいグループが作られ、そしてそれが本体の日蓮教団を大きく揺り動かしていく。
さらにそれによって国民が日蓮思想へと感化され、その延長上に天皇が日蓮主義へと改宗し、国立戒壇(国家によって仏門に入るための戒律を授ける壇)が建立され、日蓮主義国家が誕生する。
この発展段階の最終段階として、天皇を中心としたすべてがひとつのもとに成立するユートピア世界、つまり「八紘一宇」が現前する。

・親鸞主義

革命的な社会変革をめざす日蓮主義者に対して、親鸞主義者は「絶対他力」だから、「自力」「計らい」を否定する。理想に向けて自力で世の中を変革するという理念は出てこない。
次回は中島岳志『親鸞と日本主義』についてご紹介します。

・ネット右翼

ネット右翼の言葉には「レジスタンス」や「本音」という言葉が頻出する。
つまり、既得権に対する強烈な反発が彼らの中に強くあり、特権を享受している人間へのレジスタンスだという感覚があると、中島岳志氏は指摘します。
たとえば在特会は、ある集団の人々が特権を握り、自分たちはそこから除外されている「市民」だという認識を持っている。
その苛立ちはマス・メディアに対しても向けられ、自分たちの主張が大手メディアからは排除されていると主張する。

・立憲主義の危機

天皇の神聖化と、天皇は憲法の規定に従って統治するという立憲主義の原則は、戦前の最終局面で解体された。
そして、現在は安倍政権が引き起こした立憲主義の危機にある。

島薗「新しい歴史教科書を作る会や近年のネット右翼などは、一見、宗教的とは見えない政治的ナショナリズムが前面に出ていますが、それらの下支えしているものは、天皇崇敬と国体論を核とする戦前の国家神道という枠組みではないかと私は考えています」
中島「つまり、近年見られる偏狭なナショナリズムは、一見、宗教とは無関係に見えるけれども、実はその背後には国家神道の姿が見え隠れしているということですね。そして、その影響が安倍内閣にも押し寄せている」


日本は戦前のようになるんじゃないかと心配になります。

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江戸時代に寺院は増えたのか

2017年12月10日 | 仏教

日本の寺院は400年以上の歴史を持つか、150年未満の寺に大別できる。
それは、1631年(寛永8年)と1692年(元禄5年)、幕府によって「新寺建立禁止令」が出たことによって、250年の間、まったく寺が建てられなかった。
廃仏毀釈が終わる1877年(明治10年)から新寺が建立されるようになる。
このように鵜飼秀徳『寺院消滅』に書かれてあります。

1632年(寛永9年)に幕府が提出させた、各宗派の本山に所属する寺の一覧表(末寺帳)によると、全国に1万2080ヵ寺あるそうです。

全国にある寺院のうち約10%が明治以降の寺だと『寺院消滅』に書いてありますが、現在は7万ヵ寺以上ありますから、計算が合いません。

松浦静山『甲子夜話』には全国の寺院数が40万ヵ寺以上と記されていて、浄土宗が12万ヵ寺、東本願寺が8万ヵ寺、西本願寺が4万5千ヵ寺とのことです。
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18471/KJ00005090886.pdf#search=%27%E7%94%B2%E5%AD%90%E5%A4%9C%E8%A9%B1++%E5%AE%89%E6%B0%B8%EF%BC%96%E5%B9%B4+%E5%AF%BA%E9%99%A2%E6%95%B0%27
別の論文には10万ヵ寺程度ともあります。
https://system.jpaa.or.jp/patents_files_old/201205/jpaapatent201205_063-072.pdf#search=%27%E5%AE%89%E6%B0%B8%EF%BC%96%E5%B9%B4++%E5%AF%BA%E9%99%A2%E6%95%B0%27
この論文に指摘してありますが、人口3千万人で寺院が40万ヵ寺以上もあるとなると、70人が一つのお寺を維持していくことになるわけで、この数字には無理があると思います。

国立公文書館デジタルアーカイブで「諸宗末寺帳」を見ることができます。
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0400000000/0407000000/00
そこには「天台と浄土真宗は除く」とありますから、
寛永年間の寺院数は末寺帳に載っている1万2千ヵ寺よりも多かったことは間違いないでしょう。

千葉乗隆『真宗の組織と制度』によると、江戸時代に西本願寺の末寺が増えています。

天文年間(1532年~1555年)259ヵ寺(本願寺の東西分派前)
元和9年(1623年)1,000ヵ寺
元禄7年(1694年)8,337ヵ寺(西本願寺の末寺のみ)
文化3年(1806年)9,699ヵ寺
嘉永7年(1854年)10,264ヵ寺
新寺の建立が禁止された元禄以降も寺院が増えています。
とはいえ、『甲子夜話』にある数字ほどではありません。


寛永年間に道場の寺院化が急増したのは各宗共通の傾向であると、千葉乗隆師は説明しています。

惣道場・寄合道場・下道場・兼帯道場を、所属の寺または門徒から委任されて管理する僧を看坊または看主という。
個人建立の道場、または看坊道場が道場主の私有化を認められた場合、これを自庵(道場)と称する。
道場のまま寺号を許されたものもあるが、自庵化することで寺院として本山の末寺になったものが多い。
末寺帳の作製が看坊の自庵化、寺院化の大きな理由の一つである。
いったん末寺帳に登載されると、本山の直参化への動きが強くなる。
しかも、寛永の末寺帳は不備な点が多くあり、いずれ再調査される可能性が多分に予想されたので慶安年間にかけて本末の争いが多く生じている。
それに加えて、東西両本願寺の分派問題がからんでいる。
それとともに、キリシタン禁制に伴う宗門改めが普及し、寺請制による檀那寺の需要が寺院数の増加を要請した。
こうして道場の寺院化、看坊の自庵化、新寺創設が促進されることになった。

寺院数の増加についてネットを調べたら、「『福井県史』通史編3 近世一」にこのように書かれていました。

たび重なる新寺建立の禁止令にもかかわらず、一向宗道場の寺院化は減少しなかった。これらの新寺は、本山から寺号を下付されても藩庁ではこれを寺院として認めず道場格であった。このような寺号は「本山限りの寺号」、または「呼寺号」と呼ばれた。(略)
江戸中期以降になると、主として天台宗・真言宗などの旧仏教系寺院のなかには、「浮寺号」として台帳に寺号のみ残る廃寺が目立つようになった。呼寺号では満足できない一向宗の道場のなかには、これらの浮寺号を買得することによって、藩庁の寺院台帳上の寺号移動という形で古寺になろうとする道場が現れた。

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-5-01-02-03-02.htm
末寺帳には記載されていないけど、本願寺の末寺として認められている寺がかなりあるということでしょう。
そして、廃寺になった他宗の寺の寺号を買い取ること行われたとあります。
現在、宗教法人が売買されていることが問題となっていますが、江戸時代にも同じことが行われていたわけです。

ちなみに、現在、西本願寺(浄土真宗本願寺派)の末寺は10183ヵ寺ですから、幕末よりも寺院が減っていることになります。
廃仏毀釈で多くの寺院が廃寺になっています。
鹿児島県では千ヵ寺ちょっとあった寺院がゼロになりました。

平成27年の仏教の寺院数は77,254ヵ寺。
明治10年は72,599ヵ寺ですから、あまり変わりません。
http://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/shumu_kanrentokei/pdf/h26_chosa.pdf

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『宗教年鑑 平成28年版』

2017年11月23日 | 仏教

『宗教年鑑 平成28年版』に、宗教法人と信者の数が載っています。
http://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/shukyo_nenkan/pdf/h28nenkan.pdf#search=%27%E5%AE%97%E6%95%99%E5%B9%B4%E9%91%91+%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%92%EF%BC%98%E5%B9%B4%E7%89%88+%E4%BF%A1%E8%80%85%E6%95%B0%27
信者数が100万人を超える教団、宗派です。

神社本庁 77,240,643人(宗教法人の数は一番多い)
出雲大社教 1,262,503人
天台宗 1,363,553人
高野山真言宗 3,831,300人
真言宗豊山派 1,419,052人
浄土宗 6,021,900人
浄土真宗本願寺派 7,922,823人(寺院・教会数は浄土真宗本願寺派HPとは違う)
真宗大谷派 7,918,939人
曹洞宗 3,511,798人(仏教教団の中で寺院数が一番多い)
日蓮宗 3,486,041人
霊友会 1,295,497人
佛所護念会教団 1,145,826人
立正佼成会 2,705,319人
天理教 1,191,422人(2番目に宗教法人が多い)

キリスト教の信者数です。

カトリック中央協議会 443,721人
新教系 514,827人
カトリックとプロテスタントを合わせて100万人ぐらいです。

信者数が100人未満の教団もあげておきます。

大日の本教 38人
日の本教 22人
大自然教 63人
祖神道本庁 80人
真言宗鳳閣寺派 7人(寺院・教会数は7)
現證宗日蓮主義佛立講 70人
霊照教団 81人
彦山修験道 55人
カルバリキリスト教団 20人

ただし、以上の数字は文部科学大臣所轄包括宗教法人のものであって、幸福の科学や創価学会のような文部科学大臣所轄単位宗教法人は含まれていません。


文部科学大臣所轄単位宗教法人で、信者数が100万人以上のものです。

幸福の科学 1100万人
この数は公称で、ピーク時の実数は13万5000人だそうです。
2017年衆議院選挙で立憲民主党は11,084,890の得票で37議席を獲得していますから、信者が1千万人以上であれば、幸福実現党は30議席以上になっているはずです。

創価学会 827万世帯
1世帯3人としても2500万人ということになりますが、実際は250~300万人ぐらいだそうです。

顕正会 167万人

顕正会は日蓮正宗の信者の団体ですが、日蓮正宗は信者数は668,000人です。
http://www.news-postseven.com/archives/20141227_291384.html

宗教法人と信者の数が『宗教年鑑』に載ってます。
おそらく文部科学大臣所轄単位宗教法人の信者数はこの数字には含まれていないと思います。

平成18年 208,845,429人
平成27年 188,892,506人
宗教法人の数はあまり変わらないのに、信者数は10年間で2千万人、1割も減っています。

宗教離れはかなりのものです。

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小山聡子『親鸞の信仰と呪術 病気治療と臨終行儀』(2)

2017年06月22日 | 仏教

小山聡子『親鸞の信仰と呪術』の続きです。

・親鸞
① 呪術による病気治療
親鸞は、末法の世における自力による極楽往生は否定したものの、天台宗の呪術信仰を全面的に否定してもいない。
まして、天台宗教団に対して敵対的な姿勢や排他的姿勢などとってはいない。
したがって、その信仰を天台宗の信仰と完全に異質なものであると理解することには無理がある。
親鸞は、呪術をはじめとする自力の行の効果を真っ向から否定できる社会には生きていなかった。

『恵信尼文書』に、親鸞が衆生利益のために浄土三部経の千部読誦しようとしたことが書いてある。
親鸞が経典読誦による衆生利益の効果については否定していない。
あくまでも呪術による救済の限界を指摘しているのであり、呪術の効果そのものについては否定していなかった。

つまり、親鸞の信仰を、天台宗の信仰とは全く異質なものであると見なすことは正しくないことになる。
親鸞は、比叡山での20年間の習慣(経典読誦による病気治療、自力の念仏)を完全に捨て去ることはできなかった。
習慣として、呪術による病気治療が身についてしまっていたのである。

② 臨終行義
親鸞は、信心が定まった時に往生することも定まると主張している。
極楽往生のために臨終を待つことと来迎により往生することは、自力の行者にあてはまることだと説いている。
ところが、曇鸞と法然に臨終来迎があったことを和讃に書いている。

六十有七ときいたり  浄土の往生とげたまう そのとき霊瑞不思議にて  一切道俗帰敬しき(曇鸞は67歳で死亡したが、そのとき不思議な霊瑞があったので、僧侶も俗人もすべて教えに帰した)

「霊瑞」の左注に

れいすい(霊瑞)とはやうやう(様々)のめてたきことのけん(現)し ほとけ(仏)もみ(見)えなむとしたまうほとのことなり

と書かれている。
すなわち、「霊瑞」とは、来迎を指す。
親鸞は、曇鸞の臨終には来迎があったとする和讃を詠じたのである。

本師源空のおわりには  光明紫雲のごとくなり  音楽哀婉雅亮にて 異香みぎりに暎芳す(法然の臨終には、紫雲が覆うように光明があり、来迎の音楽が聞こえ、芳しい香気がただよった)

法然の臨終時に来迎があったという和讃を作っている。
源空和讃には生まれ変わりが書かれてあり、どういうことかと思います。

親鸞は、法然の教えと自身の教えが異なるとは考えていなかった。
当然のことながら、平生念仏を行う者の臨終時には必ず来迎があり、それにより正念となって極楽往生できるとする法然の教えを、親鸞は熟知していた。
親鸞は、臨終時の来迎という奇瑞を全面的に否定したのではないと考えられる。

そもそも親鸞は、他力の行者の臨終時には来迎がないとは述べていない。
他力の信心を得た者が来迎を期待することは無意味なことだ、と主張したのである。

東国の門弟たちから多くの異義がでたのは、門弟たちの理解不足だけでなく、親鸞には病気治療や臨終来迎などに論理の揺れがあったこと、教えが難解だったということもある。

・恵信尼
『恵信尼文書』によると、晩年、恵信尼は非常に困窮した生活を送っていたにもかかわらず、五重の石塔を建立しようとした。
恵信尼は、もし生前に石塔を建立することができなければ、子どもに建ててもらいたいという希望を持っていた。
これは追善供養のためである。
石塔の建立を切望する姿からは、恵信尼が自らの極楽往生を確信することができていなかったことをうかがえる。

自身の往生極楽に不安を抱いていたので、自分の後世、すなわち極楽往生を確実なものにしようとした恵信尼は、死装束についても気に掛けていた。
確実に来迎を得るためには、穢れた衣や着古した衣は適切ではなく、念入りに洗った浄衣や新調の晴れ着、もしくは極楽往生したと推定される人物の衣を身につけなくてはいけないと考えられていたので、恵信尼は阿弥陀仏の来迎を得ることができるよう死装束を用意していた。

もし、恵信尼が他力の信心を重要視し、他力の信心を得た者は正定聚の位にあると考えていたのであれば、五重の石塔や死装束について気に掛けることは全くなかったはずである。


恵信尼は親鸞と同一の信仰を持ってはいなかった。
恵信尼の念仏は、親鸞の念仏よりもむしろ法然のそれに近いといえる。

・覚如、存覚
本願寺を建立した覚如は如信の追善供養をしているし、妻や子供の存覚夫妻とともに四天王寺、住吉社に「密々」に参詣をしている。
たとえ彼らの著作物の中で他力の信心の重要性が強調されていても、実際の信仰が他力の信心を重んじるものであったとは必ずしもいえない。

思ったのが五木寛之氏のことで、親鸞についての著書はもっともなことが書かれていますが、他の著書を読むと、なんだ、これは、というものもあります。http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/d5b236b2bb76f0103f76cdd20bafcbf8
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/09f225265a27e1d7ec9721712ed4d07e覚如や存覚も教えと自分の生活とに矛盾があることを気にかけていなかったのかもしれません。

呪術による病気治療を否定した法然や親鸞でさえも、呪術を用いて病気治療を行なっていた。また、臨終行儀は不要であるとした法然が、自身の臨終時には円仁の九条の袈裟をかけ、臨終のあり方にこだわりを持っていた。法然の門弟や親鸞の家族、子孫らにも、呪術による病気治療や臨終行儀を重んじていた形跡を認めることができる。

中世という時代は、呪術による利益を得ることが一般的であり、宗教にはそれこそが求められたのだから、そのような信仰を完全に排除することは無理である。
自力信仰と完全には決別しなかったからこそ、親鸞の教えは継承され、教団の拡大が実現したのである。

現代の感覚で親鸞像を作り上げるのは間違いだと思いました。
小山聰子氏の意見についてはどういう批判がされているのでしょうか。
小谷信千代師の親鸞の往生論についてはきちんとした反論はないと聞きますが。

コメント (2)

小山聡子『親鸞の信仰と呪術 病気治療と臨終行儀』(1)

2017年06月18日 | 仏教

親鸞は呪術を否定しており、呪術とは関係ないと想ってたので、小山聡子『親鸞の信仰と呪術 病気治療と臨終行儀』は題名に興味をそそられ。『浄土真宗とは何か』と合わせて読みました。
親鸞やその家族、子孫の信仰と呪術信仰との関連、特に病気治療や臨終のあり方を中心に書かれた本です。

平安時代中期から鎌倉時代は、呪術への信仰が盛んな時代で、呪術は生活と密接に結びついていた。
親鸞が生きた時代には、経典読誦や念仏は呪術であり、それによって現世利益を期待し、さらには極楽往生できると考えることが当たり前であった。
ここでいう呪術とは、仏菩薩や神に由来する超自然的な力をもとに、求める現象を引き起こそうとする行為である。

物気(もののけ)をはじめとする不可視のものが跳梁し、病気の多くが物気や呪詛、神罰などによるものであると信じられていた。
物気とは、死者の霊であることが多い。
また、臨終のあり方によって極楽往生の可否が決まると信じられ、臨終の念仏が重視されていた。

・呪術による病気治療
貴族社会では、僧侶、医師、陰陽師によって病気治療が行われていた。
病人が出ると、まず陰陽師が呼ばれ、その原因を占う。
そして、原因が何かにより、僧侶、医師、陰陽師のうちからふさわしい者が病気治療にあたることになる。
原因が物気である場合には、主に僧侶が調伏を行い、神や呪詛である場合には主に陰陽師が祭や祓(はらえ)を行い、食中毒や風邪の場合には主に医師が投薬などによる治療にあたった。
投薬は、しばしば薬に加持を加えた上で行われていた。

僧侶は、病気治療の時に護摩を焚いて加持をし、物気を憑座(よりまし)に憑け、調伏する。
物気は憑座の口を借り、病気をもたらした理由などを話す。
その後、僧侶は物気を遠方に放つことにより、病気が完全に平癒する。

なぜ憑座は物気の言葉を語ることができたか。
なぜ病人や周囲にいる者たちは物気の声を聞くことができたか。
それは、護摩修法の時に、芥子や麻、附子などの毒物が供物として投じられたからである。
毒物の中には、麻や罌粟など、陶酔作用をもたらすものも含められていた。
護摩修法を行う僧侶のそば近くに憑座が侍らされており、護摩壇からの煙を吸入して恍惚とした状態になった。
病人も護摩の煙を吸うことで幻覚を見たはずであるし、気を失うこともあったであろう。
それによって、憑座は物気の言葉を語り、病人やその周囲にいた者たちは物気の声を聞くことができた。

・法然
親鸞の師である法然は、当時の常識であった呪術による病気治療や、臨終行儀の必要性を否定し、神仏への祈禱による治病には意味がないと説いた。
それなのに、法然は貴族からの依頼により、授戒による病気治療も行なっていた。

① 呪術による病気治療
九条兼実に招かれて、九条家の人々に授戒による医療行為を行なっている、
そして、法然が病に倒れた時には、弟子たちによって祈禱、すなわち呪術による病気治療が行われていた。

『法然上人伝記』にこんな話が記されている。
法然が瘧病を患った時、九条兼実は善導の御影を病床の法然の前に置いて供養したいといった。
聖覚も瘧病を患っていたが、法然の恩に報いるために、病をおして仏事を行なった。
すると、善導の御影から異香が薫ってきて、法然と聖覚の病気が治ってしまった。

② 臨終行義
臨終行儀についても、法然は臨終行儀を必要だとは考えておらず、平生時の念仏によって極楽への往生が定まる、としていた。
法然の臨終が近づくと、仏像と結んだ五色の糸を持つように弟子から勧められても断った。
ところが法然は、円仁の九条の袈裟をかけて息を引き取っている。
法然は、極楽往生を確実にするためにこのようなことをしたのだろう。
あくまでも天台僧として息を引き取ったのである。

要するに法然は、専修念仏の重要性を説き示し、神仏への祈禱による治病を否定する一方で、貴族の邸に出入りして病気治療の祈禱に携わる、というはなはだ矛盾した行ないをしていたのである。
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鵜飼秀徳『寺院消滅』(2)

2017年05月11日 | 仏教

鵜飼秀徳『寺院消滅』、水月昭道『お寺さん崩壊』、村井幸三『お坊さんが隠すお寺の話』によると、なぜ寺院が衰退しているか、その理由は3点あります。

①廃仏毀釈
廃仏毀釈により多くの寺が廃寺になったが、特に鹿児島県は熾烈だった。
江戸末期には1066ヵ寺あった寺院が、明治7年には寺院と僧侶がゼロになった。
打ちこわされたり、首を切られたりして山や川に遺棄された仏像の一部が、土木工事や山作業の際に今も出てくることがある。
中国の文化大革命やタリバンのバーミアン石仏破壊と同じことを、日本では幕末から明治初期に行なったわけです。

1872年(明治5年)、「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」という太政官布告が出され、僧侶の世俗化、弱体化が図られた。
伽藍などの物的破壊に加え、僧侶を俗化していく一連の弾圧により、仏教は骨抜きにされた。

②農地解放
戦後の農地改革によって、田畑や山林を保有する寺院は小作料が入らなくなり、大打撃を受けた。
布施収入だけでは生活できない寺院は、住職が兼業をせざるを得ない。
また、土地を奪われた寺は、小作人だった檀家との関係が悪化し、地域や檀家からの支えを失った。

③過疎による人口減少、高齢化
現在の寺院の衰退は、大都市圏への人口集中による家の弱まり(若い人は家の宗教とは考えない)と地方の疲弊が大きな原因である。

そして、宗教への無関心。
戸松義晴(全日本仏教会元事務総長)の話。(鵜飼秀徳『寺院消滅』)
ハワイの日本寺院がどうなったかを見れば、日本の宗教の未来をある程度予測することができる。
寺院は地域のコミュニティーの中核で、日本人のアイデンティティーの柱でもあった。
ところが日米開戦で、日系二世はアメリカ人であることを証明するためにキリスト教に改宗し、祖国アメリカに忠誠を誓った。
戦争を契機にハワイの日本仏教は「家の宗教」から「個の宗教」へ転換したのである。
日系三世は宗教に無関心になったが、父母が亡くなると、日本の寺で葬儀をする。
しかし、次の世代は、信仰は家で継承するものではなく、自分たちで決めるという。
三世以降は「私たちはアメリカ人だ」と割り切っている。

今後の寺院、僧侶のあり方としては、住職個人の資質、そして寺院の取り組みが大切となってくる。
会津坂下町の浄土宗寺院住職斎藤裕慈さんの話(鵜飼秀徳『寺院消滅』)。

空き寺を整理していく宗門の方向性は、筋違い。確かに、田舎で無住寺院が増え、多くの問題を抱えていることは否定しません。しかし、信仰が失われたがために空き寺になったのではない。田舎ほど寺の存在を大事にしていると思います。だからこそ、空き寺になっても、ムラの人が掃除をし、草取りを続けている。そうした姿を見れば、寺という存在がいかに田舎の人にとって愛おしい存在かが分かります。その点は都会とは大きく違うところです。
それと僧侶の資質とはまた別の問題としてあります。特に、大きな寺の住職は上から目線で檀家さんに対してモノを言うことが多い。『寄付は檀家の務めだ、義務だ』と平気で言う。『多めに寄付を出してもらえれば、いい戒名を付けてあげる』などと、〝取引〟もやっている。僧侶がそんな体たらくだから、住職はいらない、自分たちだけで守っていく、ということになっているのです。

空き寺の中には、檀家が寺の維持・管理をしており、住職がいないほうが金がかからないと、後継者を探さない寺もあるそうです。
水月昭道氏は、地方寺院の一般住職は法座で自分が法話をすることはまれで、葬儀や法事でも読経するだけだと書いていますが、法話をしない坊さんがそんなに多いのでしょうか。

定年退職した人を僧として迎え入れるべきだ、年金があるので小さなお寺に入っても生活には困らない、と村井幸三氏は提案しています。

臨済宗妙心寺派では、仕事を退職してから僧侶を資格を取る人が増えてきた。
長野県千曲市の開眼寺(妙心寺派)住職 柴田文啓さん(80歳)を鵜飼秀徳氏が取材。
柴田文啓さんは横河電機の元役員で、ヨコガワ・アメリカ社の社長も務めた。
65歳の時、永源寺で修行に入り、2001年、13年間、空き寺だった開眼寺の住職になる。
開眼寺の檀家は1軒、建物は傾き、ホコリだらけだった。
「檀家数の少なさがかえって都合が良かった。法事や葬儀などのスケジュールに縛られず、自由に活動できるからだ。それに退職金と年金があれば、贅沢はできなくとも生活に困ることはない。だから、ビジネスマンの余生の送り方として、寺の住職は理想的だ」と柴田文啓さんは語る。

臨済宗妙心寺派は、2014年、リタイア組専門の修行道場を開いた。
60歳以上なら誰でも入れ、僧侶の資格を得る者は20人に上がる。

僧侶の資質について玄侑宗久氏がこんな意見を述べています。(鵜飼秀徳『寺院消滅』)

読経の際には、無意識状態で、瞑想と言える境地に入ります。(略)
人間が目や耳などの感覚器で把握しているのは、本当に狭い世界です。見えない世界や霊的な世界に想像を巡らせることが、どれほど大事なことか。
この無意識の力を引き出すのが僧侶の役割なのです。宗教的技術をもって、阿頼耶識に入っている、ありとあらゆるものを引き出す技術は、僧侶以外には不可能なことです。
こうした宗教的な叡智を僧侶が広く提示できるかどうか。提示できていないから、「葬式仏教」とか言われるんです。


これはちょっとなあと思いますが、戸松義晴(全日本仏教会元事務総長)の話にはうなってしまいました。

アメリカでは僧侶に対して、人徳と清貧を求めている。
アメリカ人の宗教者に対する尊敬の念は強く、その分、宗教者に多くの制約を求める。
人徳と清貧とは何か、こんな話を戸松義晴氏はします。

タイのエイズ患者を収容するホスピスに戸松義晴氏が行った時のこと、ホスピスは寺院が運営しており、僧侶は、感染するかもしれないのに、躊躇なくエイズ患者の手を握って回る。
手を差し伸べる患者の手を握り返すことができず、悲しくて泣いてしまう戸松義晴氏に、タイの僧侶はこう言った。

当然ですよ。あなたには守る家族がいて、守る寺があるのでしょう。でも、タイでは僧侶として出家したということは、支えてくれる人々に命を預けたということを意味するのです。だから私には妻も子供もいません。仮にエイズに感染して死んでも弟子が後を継いでくれます。何の問題もありません。


戸松義晴氏は「私はその時、初めて分かりました。出家、つまり僧侶の独身主義には意味があったんだなと」と語り、このように延べます。

日本の多くの僧侶は命を賭してまで、本来の「宗教者」にはなり切れない。

うーん、大きな問いかけです。

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鵜飼秀徳『寺院消滅』(1)

2017年04月29日 | 仏教

寺院の現況について書かれた本を3冊読みました。
鵜飼秀徳『寺院消滅』、水月昭道『お寺さん崩壊』、村井幸三『お坊さんが隠すお寺の話』です。

 寺院の現況
全国に約7万7000ヵ寺の寺院があり、そのうち住職のいない無住寺院は約2万ヵ寺。
宗教活動を停止している不活動寺院は2000ヵ寺以上と推定されている。

臨済宗妙心寺派の寺院は、2015年現在で3362ヵ寺あり、そのうち30.7%に当たる1032ヵ寺が無住状態である。

妙心寺派の無住寺院は1980年代半ばで160ヵ寺ほどだった。

井上研士氏の分析によると、宗教法人の約36%(およそ6万法人)が25年後には消滅の危機にある。


浄土宗の、過疎地寺院への調査によると、檀家数301軒以上の寺では、後継予定者がいない割合は13%、檀家数100軒以下では43%となる。


地方(特に山間部)にある寺院の空き寺化は今に始まったことではないが、深刻化して危機的な状態にある。

長崎県の宇久島は人口2330人、寺院は11ヵ寺あり、そのうち4ヵ寺は住職が不在。
活動寺院の7ヵ寺でも、住職が寝たきりだったり、後継者がいなかったりする。

尼僧も1980年代では全国に2000人以上いたが、現在は数百人程度ではないかと推定される。

年齢はおおむね70代以上で、40歳以下の尼僧は皆無だから、尼寺も消滅の危機にある。

石井研士(國學院大學神道文化学部長)の話から(鵜飼秀徳『寺院消滅』)。

戦前までは神棚と仏壇は家庭に100%あったが、今は、神棚がある家庭は40%、仏壇は50%で、東京だと、神棚のある家の割合は22%ほど。

島田裕巳『0葬』には、2013年、2人以上の世帯で暮らす30代から60代の調査によると、仏壇のある家39.2%、ない家60.8%。

独り暮らしの家だと、仏壇のない家がもっと多いと思われます。

不活動宗教法人は4500ぐらいあると言われているが、実数はもっと多く、今後さらに増えると予測されている。

2040年までに消滅する可能性がある市区町村は896ある。
2040年をピークに、日本の死亡者数は減少する。
地域が消滅していくのに、寺や神社だけが残るということはあり得ない。

 寺の収入
寺院の収入だけで維持していくことができるかどうかの採算分岐点は、村井幸三氏によると檀家400軒、水月昭道氏だと檀家300軒、鵜飼秀徳氏は少なくとも檀家200軒と、地域差はあるでしょうけど、かなり違っています。

1ヵ寺あたりの人口は、全国平均が1677人だそうで、1世帯の平均が3人家族だとすると550軒、4人家族だとすると420軒ですから、一ヵ寺あたりの檀家数は平均400軒ということになりますが、どうなんでしょうか。


村井幸三氏によると、檀家の葬儀は年間に檀家数の10%というのが目安だった。

ところが、高齢者の死亡数が減り、今は檀家数の5~7%だといわれている。
400軒の檀家だと、年間24~5件ということになる。

水月昭道氏によると、寺院の収入はお布施と年会費(護持費)。

100軒の檀家があれば、布施収入は年間300~400万円。
年会費は1軒あたり1~2万円が普通。
檀家数300軒だと1千200万円の年収となる。

もっとも、布施の金額は地域・宗派によって大きく違います。

鵜飼秀徳氏によると、東京が50万円、京阪神や名古屋がその半分、地方都市だと10万円を切るところも多い。
島根県の浄土宗寺院では、葬儀は導師が5万円、脇が3万円だが、広島に住む檀家の葬儀では20万~30万円。
陸前高田市の浄土宗の葬儀の布施相場は20万~30万円だったが、震災後は下がった。
東北では葬儀の布施相場は東京以上に高いが、法事などではあまり布施を包まない。

浄土真宗本願寺派による葬儀の平均布施金額の教区ごとの調査では、全国平均は23万円ぐらいで、東京教区が40万円超と一番高く、10万円以下は沖縄教区と鹿児島教区。(棒グラフなので正確にはわからない)

山口教区では30万円強で、東京教区に次いで多いが、隣の安芸教区では15万円と半額。

島田裕巳『0葬』によると、ある民間墓地で院号のついた戒名を調べた調査では、明治では全体に占める院号の割合は18%、大正では20%、昭和の前半10%。

院号が急増するのは高度経済成長の時代に入ってからで、昭和30年代から40年代は55%、50年代から60年代は64%、平成に入ると66%と、3分の2の人に院号がついている。
しかし、島田裕巳氏が調査した山梨県の村では、院号のついた戒名は昭和50年代から60年代は5%である。
都会では院号のインフレ化が進行し、その分、戒名料が高騰した。
戒名料の平均額は40万2000円で、20万円未満が24.7%、20万円以上40万円未満が32%、100万円以上は8.2%。
2001年の同じ調査では戒名料の平均額は38万1700円。

水月昭道氏の本にもどり、檀家数300軒だと布施収入1200万円というのは、住職の収入ではなく、寺院の収入であり、会社の売上高と同じ。

1千200万円で、教化費、本堂・境内の営繕費、光熱費、賦課金(本山への上納金)、通信費などをまかない、残りが人件費(住職の給料)となる。

水月昭道氏の寺は、門徒戸数は約150軒、布施収入は約450万円、年会費が150万円(実際は若干少ない)。

老住職(水月氏の父)の給料は年200万円で、所得税・市県民税・保険・年金などを支払うと、手取りは100万円台に下がる。

兼業せざるを得ない僧侶は、以前は学校や役場に勤めることが多かったが、今は葬儀があるからといって休めないので、公務員をしている僧侶は減っている。


平成27年度の浄土真宗本願寺派における一般会計歳入予算は56億3千万円で、前年比では4億円のマイナス、つまり収入源なので、末寺も厳しい状況にあることは間違いありません。


臨済宗妙心寺派の調査によると、住職が兼業している寺院では、布施収入ゼロが約2割、100万円以下は76%を占める。


檀家数300軒の規模となると、住職1人では葬儀・法事をこなせないので、お坊さんを雇わないといけないし、事務を支えてくれるアルバイトも必要だと、水月昭道氏は書いていますが、檀家数300軒のお寺がそ事務員を雇うほど忙しいものでしょうか。


それと、水月昭道氏の試算には寄付がないのが疑問です。

地方では数万円で葬儀一式をするところは多いが、普段から彼岸、盆、施餓鬼などの仏事や年中行事で檀家と深く係わり合いをもっている。
布施の額は少なくても、寺の寄付は進んで出す地域もあるそうです。

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神舘和典『墓と葬式の見積もりをとってみた』

2017年04月23日 | 仏教

『墓と葬式の見積もりをとってみた』(2015年)は、題名通りに神舘和典氏が墓や葬儀はいくらかかるかを実際に取材した本。

 1 一般の墓地

都立青山霊園の敷地使用料は1㎡あたり271万4千円、管理料は610円で計算されている。
2014年度の募集では、もっとも面積の小さい1.55㎡の墓地は、420万6700円。
谷中霊園では、1.6㎡の使用料が268万8000円。
多磨霊園は、1.75㎡の使用料が153万8250円。

 2 樹木葬

千葉県にある樹木葬霊園は、最初の1人が70万円、2人目からは40万円。
ペットも可で、納骨代はお気持ち。
管理費は年に5千円。
墓苑使用のほか、プレート代、名前の刻印、納骨代、戒名代、掃除代が含まれる。
最後の1人の納骨から33年後には、遺骨はみんな一緒の合祀墓に移される。
最初から合祀タイプを選ぶ場合は、1人につき50万円。

一緒に見学をした女性は、墓があるが、父親の骨壺に水がたまって骨が水浸しになっていた。

「私、なんて親不孝をしていたんだろうと、とても悲しい気持ちになりました」
そこで、土に還る樹木葬を検討しているというわけですが、どうして骨壺に水が入っていたら親不孝なのかわかりません。

品川区の樹木葬霊園では、13年間は鼻の下の土に眠り、その後10年は骨壺で安置され、合祀墓に移される。

家族タイプは4人分190万円から、夫婦タイプは2人分140万円から。
管理費はそれぞれ年間1万5千円と1万円。

都立霊園でも樹木葬の墓地が造られており、価格は安い。

樹木墓地は、木の周囲に一体ずつ遺骨を埋葬する。
樹林墓地は、共同埋葬のスタイル。

 3 散骨

海洋散骨には3つのスタイルがある。
①委託型
散骨を行う会社に委託する。
5万円前後。

②合同型

複数の家族が同乗して散骨を行う。
10万~15万円くらい。

③プライベート型

一つの家族が船を借りて散骨を行う。
20万~30万円。
ハワイやグアムで散骨するのは、30万~40万円。

散骨を希望する理由

「自然に還りたい」
「墓参りをしなくてもいい」
「低コストである」

 4 納骨堂

納骨堂は、主に4タイプある。
①機械タイプ
自動車の立体駐車場というイメージ。

②仏壇タイプ

二段に分かれていて、上段に位牌、下段に遺骨を納める。

③ロッカータイプ

銀行の貸金庫のように、遺骨がロッカーに納められている。

④墓石タイプ

墓地を室内に作ったスタイルで、室内墓地ともいわれる。

新宿にある立体駐車場のような機械タイプの納骨堂では、一基90万円、管理費は年間1万5000円。


都営霊園にも納骨堂がある。

建物内にカロートというスペースがあり、一か所に3人まで納めることができ、納骨してから20年間経ったら、合祀墓に移される。
青山霊園が60万1000円、谷中霊園が47万2000円で、管理料はない。

島田裕巳『0葬』に、2010年の調査によると、墓がある人は62.7%、ない人は35.6%で、2003年には、墓がある人73.2%で、ない人23.9%だったから、7年で墓がない人が10%も増えている、とあります。


樹木葬、散骨、納骨堂と、いろんなタイプの埋葬が生まれたのは、少子化と、人口の都市集中によって、墓地を代々継承するシステムが崩れ始めたからだと、神舘和典氏は説明します。


新宿の納骨堂には神舘和典氏の知人(40代の女性)の母親のお骨が入っている。

母親が他界して、父親が自分と妻の分を購入したが、墓参りに訪れても、そこに母親の遺骨があるとは感じないという。

(姉は)墓地にお参りしていた頃は、石に向かって手を合わせるときだけでなく、空を見上げた時にも、母が見守ってくれている気持ちになったそうです。私も同じでした。
ただ、矛盾するようですが、自分が入るお墓だったら、私自身は納骨堂を選ぶかもしれません。父がそう考えたように、自分の子どもに負担をかけたくないからです。母は、生前、子どもたちにお墓参りの負担すらかけたくなかったらしく、私の骨は海に撒いてもらいたいわ、と話していました。


負担とは何かというと、金と時間と労力でしょう。

親は自分が死んだ後も子どもに手間をかけさせたくなく、しかし子どもは手間をかけてでも親を想いたいのだ。

この神舘和典氏の言葉、すごく深いと思いました。

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