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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『玉耶経』

2023年07月23日 | 仏教

『仏典説話全集』(昭和3年)を読んでいたら、『玉耶経』の話がありました(井上恵宏訳)。

給孤独長者が息子の嫁に玉耶という貴族(長者か)の娘を迎えた。
玉耶は容姿端麗で天女のような美人だったが、自分の美貌を恃んで驕豪傲慢で、舅姑や夫に仕えることをしなかった。
給孤独は玉耶の慢心を正さなければと、釈尊に来てもらう。
釈尊は玉耶に「婦人は自分の顔形の端正婉麗なことを鼻にかけてはいけない。容姿の美しいことが真の美人とはいえない。心がけが正しく、人に愛され敬われる人を真の美人という。顔形の美しいことを自慢にして好き勝手な行いをするなら、後世には卑賎の家に生まれて婢となるから、心をつちかうようにしなければならない」と語った。
そして、三障十悪、五等、五善三悪を説いた。

ネットで『玉耶経』の翻訳を調べると、住岡夜晃「女性の幸福」がありました。
http://tannisho.a.la9.jp/YakoSnsyu/Josei(4)/4_3_4.html
三障十悪、五等、五善三悪について、井上恵宏訳を住岡夜晃訳で補って紹介します。

三障
① 女性は幼少の時には父母に障えられる。
② 嫁に行ったら夫に障えられる。
③ 年老いたら子に障えられる。

住岡夜晃訳には三障はありません。
三障とは三従のことだと思います。
三従は『マヌ法典』と『儀礼』にあって、「婦人は幼にしてはその父に、若き時はその夫に、夫の死したる時は子に従う」というものです。
「障える」は「さまたげる」「邪魔をする」という意味なので、女性は父、夫、子供に邪魔されながら生きなければいけないという意味だとしたら、ちょっと面白いです。

十悪
① 女の子が生まれると父母が喜ばないこと。
② 娘は父母が一生懸命に養育しても、その育て甲斐がないこと。
③ 娘の嫁入りについて、父母は心配せねばならないこと。
④ 女性はその心が常に人を畏れるということ。
⑤ 生みの父母と生別せねばならないこと。
⑥ 成長の後は、その身を他家に嫁がせねばならないこと。
⑦ 妊娠せねばならないこと。
⑧ 子を出産せねばならないこと。
⑨ 常に夫に気がねしなければならないこと。
⑩ 常に婦人は自由を与えられないこと。
この十のことは、どんな婦人でも本来もっている特性である。

結婚、妊娠、出産が悪だとされています。
自由が与えられないということは、父、夫、子供に束縛されるという三障に通じます。
十悪とは、女であることの悪ではなく、社会の習慣が生み出している悪に女性が苦しむという意味だと解釈しておきましょう。

五等 婦人の践むべき道
① 母婦
夫を愛することが母が赤子を愛護するようにするのをいう。
② 臣婦
臣下が君主に仕えるように夫に仕えるのをいう。
③ 妹婦
兄のように夫に仕えるのをいう。
④ 婢婦
婢のように夫の奉仕するのをいう。
⑤ 夫婦
永く父母を離れて、形は異なっていても、心を同じくして、夫を尊敬して、決して驕慢の情を起こさず、家の内外をよく治め、賓客に応接し、家産を殷盛にして、夫の名を揚げる。

住岡夜晃訳は、七婦の説をさとした、とあります。
七種の婦(おんな)
① 母のごとし
母婦 夫を愛念すること慈母のごとく、昼夜そのそばに侍べって離れず、食物や衣服にも心をこめて供養し、外で夫があなどられることのないように、うまず厭わず、夫をあわれむこと母のごとくする。
② 妹のごとし
妹婦 夫につかえること、妹の兄におけるがごとく、誠をつくし、敬い尊び、異体同心、みじんの隔てがない婦のことである。
③ 善知識のごとし
善知識婦(師婦) 愛念、ねんごろにして、恋々としてあい捨てることあたわず、何事も打ち明けてその間に秘密のことなからしめ、もし夫に過失があれば、教え呵めて、これを繰返すことのないようにし、よいことがあれば、それをほめ敬って、さらに善事にむかわせ、相愛してゆくこと、善知識が人を導くような態度をもって夫に侍じするのが、善知識婦である。
④ 婦のごとし
婦婦 親には誠をもって供養し、夫につかえて、へりくだってその命に従い、早く起きおそくねて身口意の三業をつつしみ、なおざりでなく、よいことはほめ、あやまちは自分の身にきて、人たるの道を歩み、心ただしく婦としての節操を持って欠くところなく、礼を守り、和を尊ぶのが婦婦である。
⑤ 婢のごとし
婢婦 常に自ら慎んでたかぶらず、まごころあり、言葉柔らかに、そまつでなく、性はやわらかく、横着でなく、心を正しく、礼をもって夫につかえ、それを受け入れられても、たかぶることなく、たとえ受け入れられなくても恨みもせず、むち打たれても、ののしられても、甘んじて受けて恨まず、夫の好むところは勧めてやらせ、嫉妬せず、冷たくされてもその非を口にせず、貞操を守り、夜食の善悪を言わず、ただ自分の足らないことを恐れて夫につくすこと、下婢が主人にするようなのが婢婦である。
⑥ 怨家のごとし
怨家婦 夫が喜ばなければ、これを恨みいかり、昼夜に夫とわかれようと考え、夫婦の心のないこと一時の客のごとく、犬のほえるようにけんかしておそれず、頭を乱して臥て、つかわれない。家を治め、子を養育する心なく、他に対してみだらな心をおこして恥とせず、自分の親里すらそしって犬畜生のように言う。いっさいがかたきの家にいるような生活態度だから怨家樹というのである。
⑦ 奪命のごとし
奪命婦 夫に対していかりの心をもって昼も夜もこれに向かい、なんらかの手段で夫から離れようとし、毒薬を与えたら人に知られはしないかと恐れ、親里にゆけば、あちこちに立ち寄り、夫を賊することをなし、夫が財宝をもっておれば人を雇ってこれを奪いとり、あるいは情夫を頼んで殺そうとする。夫の命をうらみ、しいたげ奪うから、奪命婦というのである。
①~⑤が五善、⑥⑦が三悪になるわけです。

五善
① 婦人は、夜は遅くに眠りにつき、朝は早く起きて、衣髪を整え、家事をし、おいしいものはまず舅姑や夫に勧めるようにする。
② 家の品物や家財をよく管理し、失わないようにする。
③ 自分の言葉を慎んで怒ったり恨まないようにする。
④ 常に自分を戒め、及ばないのを恐れるようにする。
⑤ 一心に舅姑や夫に仕え、家名を高くし、親族を喜ばせ、人にほめられるように心がける。

三悪
① 日が暮れないのに早く寝て、日が高く上がっても起床せず、夫に怒られると、かえってその叱責を嫌悪することがあれば、婦道にもとった悪事である。
② 美味は自分が先に食べ、悪い味のものを舅姑や夫に勧め、夫以外の男に心を向けて、妖邪の念を抱くのも悪事である。
③ 生活経済を念頭に置かず、遊蕩にふけると同時に、人の長所短所を探したり、好醜を言って、言葉を慎むということをせす、争いを好み、ついには親族から憎まれ、人々から賎しまれるのも婦道に背いたことである。

住岡夜晃訳の五善三悪は少し違います。
五善
① 妻たる者は、晩おそく臥し、早く起きて、髪かたちを整え、食事するにも目上の者を先にして、心からこれに従い、もしうまいものがあったら、目上にまず供えよ。
② 夫にしかられても恨みをいだいてはならない。
③ ただわが夫のみを守って、みだらな念を抱かぬこと。
④ 常に夫の長生きを願い、夫が外に出た時は、家中を整頓すべきである。
⑤ 夫の善を思って、悪を思わぬこと。

三悪
① 親や夫に礼を守らず、おいしいものを早く食べたがり、早く寝ておそく起き、夫が教えしかると、夫をにらみつけ、これをののしる。
② 夫のみを思わないで、他の男のことを思う。
③ 早く夫を死なせて、さらに他に嫁かそうと考える。以上が三悪である。」
http://tannisho.a.la9.jp/YakoSnsyu/Josei(4)/4_3_4.html

齊藤隆信「女性徳育と『玉耶女経』の韻文」によると、5本ある『玉耶経』の一つは『増一阿含経』のものです。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/59/1/59_KJ00007115332/_pdf/-char/ja

原始経典の時代から女性のあるべき姿が説かれていたわけです。
では、舅や姑、夫はどうあるべきかを説いた経典があるのかと思いました。
仏教と道徳との関係もどうなんでしょうか。

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西田幾多郎と念仏

2023年03月28日 | 仏教

西元宗助『宿業の大地にたちて』を読んで、西田幾多郎が務台理作宛ての書簡に浄土宗や念仏について書いていることを知り、『西田幾多郎全集』を図書館で借りました。
務台理作は西田幾多郎の門下生です。

昭和19年12月21日

ミダの呼声といふものの出で来ない浄土宗的世界観は浄土宗的世界観にはならないと思ひます そんな世界では何処から仏の救済といふものが出てくるのでせう あの人は宗教といふものを事実とせないで唯頭で考へて居るので少しも体験的に沈潜して見ないのです ザンゲばかりの世界は道徳の世界で宗教の世界ではありませぬ 宗教心といふものそのものが自分からのものでなく 向かうのものでなければなりませぬ(略)
私は浄土宗の世界は煩悩無尽の衆生ありて仏の誓願あり 仏の誓願ありて衆生ある世界と思つて居ります キリスト教では此世界は正邪をさばく世界 神の意志実現の世界とすれば 浄土宗では仏の慈悲救済の世界 無限誓願の世界だと考へてゐます 唯凡夫と仏と不対応な世界には何処から我々が仏を求め何処から仏の呼声が出て来るか 場所の自己限定は我々の個に対し偉大なる仏の表現 切なる救の呼声です 君が「自己表現」について云はれた様に場所論理にては内在的即超越的なものからその自己表現として仏の御名といふものが出てくるのです 故に我々は仏を信じその御名を唱ふることによつて救われるのです 仏を観ずるなど云ふのではありませぬ 観ずることのできないものだから唯の名号を唱へるのである

「あの人」とは田辺元のことです。

12月22日

田辺の様な立場からは信によって救はれると云ふことが出て来ない つまり回心といふことの世界だ これが宗教的世界か 罪悪重々の凡夫が仏の呼声を聞き信に入る そこに転換の立場がなければならない これまで独りで煩悶してゐたが実は仏のほどころにあつた 仏の光の圏内に入つて仏に手を引かれて居ることとなる そこにはどうしても包まれるといふとこがなければならない


12月23日

場所の自己限定として我々が弥陀の光明に摂取せられる否せられて居る所に場所的論理こそ真に浄土宗教的世界観を基礎附けるものとおもひます 唯対立の立場からは入信といふことは考へられない 何処から歓喜の念が出てくるのでせう 唯 意志的努力的によつて仏に近づくと云ふなら それこそ唯 行の聖道門的宗教だ 否単に道徳ではないか


昭和20年1月6日

大拙の名号の論理 あれはとてもよいです 浄土真宗はあれで立てられねばならぬ あれは即ち私のいふ表現するものと表現せられるものとの矛盾的自己同一の立場から考へられねばならない そこが天地の根源 宗教の根源です 絶対現在の自己限定の底から仏の名号を聞くのです


1月8日

唯人間の迷だけから出立せねばならぬと(田辺ハ何処ニカウ云フコトヲ云ツテ居ルカ御存知ナラ知ラセヲ乞フ)田辺が云ふと云はれるが 唯の人間の迷から宗教があるのではない 相場師でも迷ふ 神があるから人間の迷があるのだ 凡夫との自覚は神の呼声ではないか 日本精神に論理がないといふがそれは西洋論理がないといふ事だ 生命のある所そこに論理ありだ

西田幾多郎は昭和20年〉6月7日に75歳で亡くなります。

西元宗助はこのように書いています。

西田幾多郎先生は、禅体験を基盤とした希有の哲人として周知の如く高く評価されている。しかし前述の書簡の一端にうかがわれるように、すくなくとも晩年の先生は、いわゆる禅とはいいがたいものがある。そこには心境の転換が看取されるようである。


「宗教心といふものそのものが自分からのものでなく 向かうのものでなければなりませぬ」
「観ずることのできないものだから唯の名号を唱へるのである」
「意志的努力的によつて仏に近づくと云ふなら それこそ唯 行の聖道門的宗教だ 否単に道徳ではないか」
「凡夫との自覚は神の呼声ではないか」
念仏によりどころを求めていたように思います。

西田幾多郎は明治44年に真宗大谷大学の講師をしているし、鈴木大拙は親友です。
務台理作も大正12年に大谷大学教授に迎えられています。

それにしても、西田幾多郎は手紙やハガキを毎日のように何通も出しています。
すごく筆まめです。

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滅罪とカルマの浄化(5)

2022年11月22日 | 仏教

 4 苦行(つづき)
統一協会に1億円以上の献金をしたり、借金をしてまで献金する人がいることが明らかになっています。
しかし、京都仏教会HPによると、献金の強要は非難されるべきではありません。

物欲を捨て、執着を離れ、あるが儘にすべてを受け入れ、生を神にゆだねて生きるということを知性で理解することはできても、現実にそのように生きることは容易ではない。したがって、宗教によっては献金の指導通してこれを実践的に体得せしめようとする教団もあるのである。そして物欲を離れる体験を得させるためには、しばしば当人が無理だと感じるほどの金額であることが必要になる場合がある。もちろん、それは対象者の信仰の状態を見極め、慎重に指導を進めなければならないわけで、指導に失敗すればトラブルに発展することもありえる。しかし、このような指導は一概に批難されるべきものではなく、実際このような体験を通して信仰に生きる喜びを獲得する者もいるのである。

http://www.kbo.gr.jp/books/kenkai-02.htm

加藤基樹「苦行と滅罪」(『日本の宗教と文化』)にこうあります。

「御布施」とか「香典」というものには苦行とか滅罪という意味があります。(略)「身銭を切る」ということで苦行性というふうにいえます。

「無理だと感じるほど」の献金を強いられて、無理をしてまで工面するのは苦行でしょう。

 5 罪とケガレ
肉体は不浄であり、苦行によって肉体を浄化すべきだと考えられました。
断食、断穀、断塩は肉体を清浄にするためです。
アップル荒井しのぶ「法華経と苦行と滅罪─東アジア仏教のパースペクティブ1」にこうあります。

身体の不浄性は煩悩という内的存在の不浄性と関連付けられている。したがって、このような不浄観念が「(罪を重ねてゆく身体を、良い服や食べ物で)更に覆い養はず」というように、断穀断塩、蔬食という、生体に対する抑圧的行為に結びついていると考えられよう。すなわち、断食行という苦行は、罪をつくる主体である自己の内的存在の不浄性に対峙し、浄化するため、すなわち滅罪のために、その内的存在の「仮舎」であるところの身体を極限まで制限し抑圧すること、また捨身行者にとっては身体それ自体の損壊をすら目的とした宗教行動と考えられる。


また、世間も不浄だと考えられています。

浄穢の観念が罪の有無に基づく形で発達したことで、それはとりわけ空間的認知の点から、仏道修行者が苦行を行う山林/山岳と在俗の人々の属する里、都市である「人間(じんかん)」を、それぞれ浄穢を軸にして観念する思考法として展開した。


山林や山岳は清浄であり、人間の住む世界が不浄=罪というわけです。

深山について「清浄善根の境界」とし、欲愛などの煩悩を持つ者達が住む地を「人間」としており、その浄穢の違いは「罪が滅しているかどうか」によって決定されている。

https://www.totetu.org/assets/media/paper/k024_266.pdf

オウム真理教でも世俗=罪だと説いていました。
広瀬健一『悔悟』です。

当時私は、会話をするなどして非信徒の方と接したり、街中を歩いたりすると、カルマ(悪業)が自身に移ってくるのを感じました。これは、気体のようなものが振動(ヴァイブレーション)を伴いながら身体に入ってくるような感覚でした。また同時に、表現し難い不快な感覚も誘起されました。まるで、自身の生命活動を維持している源が、蝕まれるような。そして、この感覚の後に私は、自分が気味悪い暗い世界にいるヴィジョンや、奇妙な生物になったヴィジョン――カンガルーのような頭部で、鼻の先に目がある――などを見ました。


罪とケガレ、滅罪と鎮魂(ケガレを祓う)は関係があるそうです。
滅罪は奥の深いテーマです。

 6 滅罪の得益
①死後に三悪道に堕ちない
②死後に人・天に生まれる
③死後に仏国土に往生する
④来世の安楽
⑤除災招福

オウム真理教では、カルマの浄化は三悪道に堕ちない手段です。
滅罪も本来は解脱が目的ですが、実際には現世における災いを防ぎ、利益を得ることが求められていました。

アップル荒井しのぶさんはこう指摘しています。

『霊異記』当時の人々の滅罪の捉え方は、煩悩などの執着を断ち切って解脱するとか、罪空思想など仏教教理の上からの理解の仕方ではなく、大祓の儀式によって全ての罪が悉く無くなるように、災いや苦しみとしてあらわれる罪を祓い、贖い、免れることという理解だったと考えられる。

https://www.totetu.org/assets/media/paper/k022_222.pdf

滅罪に期待した庶民の信仰の目的が現世利益です。
加藤基樹さんによると、お百度参りも苦行です。
お百度参り(裸足、お茶断ちなど)という苦行で病気の原因である罪を滅することで、病気平癒が叶うと信じられました。
これは代受苦という考えです。

カルマの浄化を求める気持ちは日本人にとってごく自然な感情なのかもしれません。

河口慧海『チベット旅行記』に、カムの人は泥棒が多く、聖地を巡礼して今まで作った罪を消すと同時に、これからも泥棒をするので、これから作る罪も消してもらうよう祈るといったことが書かれています。
滅罪行は過去の業だけでなく、未来の業をも消すと信じられているわけです。

 7 滅罪批判
『歎異抄』に滅罪の利益を批判しています。

一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしということ。この条は、十悪五逆の罪人、日ごろ念仏をもうさずして、命終のとき、はじめて善知識のおしえにて、一念もうせば八十億劫のつみを滅し、十念もうせば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといえり。これは、十悪五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といえるか、滅罪の利益なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。


中村元『仏教語大辞典』の「懺悔」の項にこうあります。

大乗仏教では、自己の罪を認めた者は諸仏の前に懺悔し、帰投し、摂受されて罪の恐れから解放されるという形のものになった。


私たちは罪報を恐れるわけですが、本当の滅罪は罪をなくすのではなく、罪の報いを恐れる必要がなくなったということではないかと思います。

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滅罪とカルマの浄化(4)

2022年11月11日 | 仏教

 4 苦行による滅罪
釈尊は苦行を否定していますが、多くの宗派では苦行を行なっています。
滅罪のための苦行には、
・過去世から現在までの悪業を清算する。
・肉体と精神を浄化する。
・自分の悪業によって来世で受ける苦しみを軽くする・なくす。
・浄土往生する。
・他者の罪を消す(回向)。
・他者の業苦を自分が代わって受ける(代受苦)。
といった意味があるようです。

アップル荒井しのぶ「法華経と苦行と滅罪─東アジア仏教のパースペクティブ1」に、こうあります。

実践の過程で身体上に「苦痛を受ける」ことこそが、自己の滅罪、浄化を、身体感覚の上に確認する行為となりうる。


熊野では断食行・断穀・断塩、火断、捨身行、焼身行、山林修行、水行・滝行といった苦行による滅罪が行われていました。
平安時代から吉野の金峰山や熊野へ多くの人が参っていますが、一般の人にとって巡礼は苦行であり、滅罪行という意味もありました。

多くの苦行僧が仏や菩薩、天、神などを見ています。

我宿罪の故に仏身を見ず。(略)罪滅するを以ての故に、現に諸仏を見る。(『観仏三昧海経』)

清浄化の証しとして見仏という神秘体験をしうると考えられていた。
https://www.totetu.org/assets/media/paper/k024_266.pdf

アップル荒井しのぶさんは『観普賢菩薩行法経』の色を見る神秘体験を紹介します。

釈迦牟尼仏及び分身の諸仏を見たてまつらんと楽わん者、六根清浄を得んと楽わん者は当に是の観を学すべし。此の観の功徳は諸の障碍を除いて上妙の色を見る。


広瀬健一『悔悟』にも、オウム真理教の極厳修行で色を見たとあります。

極厳修行において、麻原とシヴァ神を24時間にわたって礼拝――立位の姿勢から五体を床に投げ出しての礼拝を繰り返す――したときのことです。(略)私は赤・白・青の三色の光をそれぞれ見て、ヨガの第一段階目の解脱・悟りを麻原から認められました。特に青い光はみごとで、自身が宇宙空間に投げ出され、周囲一面に広がる星を見ているようでした。

このように、教えの正しさと苦行の得益を神秘体験によって実感するわけです。

統一協会でも苦行による滅罪が説かれます。
櫻井義秀、中西尋子『統一教会』に罪と罪の清算についてこう書かれています。

罪とは何か。それは原罪、遺伝罪、連帯罪、自犯罪という四つである。「堕落論」によれば、原罪はアダム、エバの堕落によって人類全てが受け継いだ罪、遺伝罪は先祖が犯した罪、連帯罪は国家や民俗などが犯した罪、自犯罪は自分が犯した罪である。このうち原罪は祝福を受けることによって清算される。残りの三つ、遺伝罪、連帯罪、自犯罪は善行の積み重ねによって清算しなければならない。日本人女性信者達の韓国での生活はこの三つの罪の清算のためにある。


罪の清算は統一教会の言葉でいえば「蕩減」です。
蕩減の本来の意味は、借金を全部帳消しにすることです。

祝福(合同結婚式)では、アダムとエバが性の罪を犯したので、自らも罪を償う意味で新郎新婦が蕩減棒でお互いに尻を3回叩きます。
「オヤヂの呟き」という統一協会脱会者のブログに「蕩減棒の思い出」があります。

祝福の行事の一つ蕩減棒の儀式がやって来た。バットよりも一回り細い棒(何の木かは不明)で、新郎新婦がお互いのお尻を力一杯に叩く。最初は男性が女性のお尻を三回、続いて女性が男性のお尻を三回、六千年の蕩減を清算する為に、力一杯。先輩家庭から『総ての罪の清算だから、決して加減をしない様に』と言われていたから、やりましたよ。(彼女の六千年の罪が清算出来ます様にと念じながら)一発目ジャストミート! 奥方様は3メートル位飛んで行きました。顔面蒼白。すると、そこの宿舎のアベル(責任者)が小声で、『もう少し緩くしてあげて…』。

https://plaza.rakuten.co.jp/norihiro5/diary/200806120000/

統一協会では日本人が作った罪を清算しないといけないと説かれます。
合同結婚式で韓国人と結婚した日本人妻は、離婚や脱会は蕩減が重くなって地獄で永遠に苦しむと教えられている。
夫が仕事をせず酒を飲んでは妻を殴ることは日本人が韓国に対して作った罪の報いだから、それに甘んじることが罪の清算になると、肉体的苦痛によって実感する。
これも苦行による滅罪だと思います。

『ミリンダ王の問い』に、如来が暴力や殺人によって利益を与えると説かれています。

大王よ、如来は人々の利益のために〈かれらを〉打ち、人々の利益のために〈かれらを〉落とし、人々の利益のために〈かれらを〉を殺すこともするのです。大王よ、如来は人々を打ったのちにかれらに利益を付与し、落としたのちにも人々に利益を付与し、殺したのちにも人々に利益を付与するのです。


苦しみを与えて導くことを、オウム真理教ではカルマ落としと言います。

麻原は、竹刀で信徒を叩くことがありました。竹刀が折れるほど強く。また、様ざまな〝働きかけ〟をして、信徒を精神的に苦しめることもありました。よく聞いたのは、信徒の苦手とする課業を故意に指示し、信徒が強いストレスにさらされる状況を形成することです。このような方法で対象のカルマを浄化することを、「カルマ落とし」といいました。(広瀬健一『悔悟』)

https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/cd331bfbd4debe96de283f7a614bbd39

日本人妻は、自分が作った罪ではないのに罪の報いを受けると信じ込まされているわけです。
業報思想の問題の一つは、自分が現世で作った罪だけでなく、過去世で作った罪、あるいは先祖が作った罪の報いまでもが説かれていることです。
ですから、過去世や他人の罪も消さなければいけないことになります。
そんなことはほぼ不可能です。

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滅罪とカルマの浄化(3)

2022年11月03日 | 仏教

 3 罪、罪報、滅罪の方法(つづき)
③十悪
積善、すなわち善業を積むことで、マイナス(罪)をなくし、プラス(得益)を得る。
十善戒を守るだけでなく、供養や布施をする、読経や写経をするなども善業。

とはいえ、西村玲「不殺生と放生会」に引用されている『金光明経』によると、殺生の滅罪は困難です。
屠殺は畜生が来世に人として生まれることを阻む罪であるから、殺された畜生は冥府で屠殺者を怨む者となる。
あらゆる罪は懺悔すれば滅するが、殺生の罪だけは懺悔してもなくならない、
なぜならば、怨む者がひたすら訴えるからである。

『梵網経』にある戒、肉食を禁止し放生を勧める次の文言を根拠とする。

なんじ佛子、故さらに肉を食せんか。一切の肉は食することを得ざれ。それ肉を食するものは、大慈悲の仏性の種子を断つ。(梵網経・三食肉戒)

 

なんじ佛子、慈心を以ての故に、放生の業を行ぜよ。まさにこの念を作すべし、一切の男子はこれ我が父、一切の女人はこれ我が母なり。我れ生生にこれに従って生を受けずということ無し。故に六道の衆生は、皆これ我が父母なり。しかも殺し、しかも食せば、即ち我が父母を殺し、亦た我が故身を殺すなり。一切の地水はこれ我が先身、一切の火風はこれ我が本體なり。故に常に放生の業を行ずべし。生生に受生する常住の法なり、人を教えても放生せしめよ。(梵網経・二十不行放救戒)

眼前の動物は、六道を輪廻する衆生であり、かつて代々の父母であり我が身である。
動物や虫魚を殺して食べるのは父母を殺して食べることと同じ。
file:///C:/Users/enkoj/Downloads/eco-philosophy6_047-053.pdf

波逸提法では、虫や植物の殺生も罪になります。
・掘地戒 大地に生命があると世間では信じられているので、自分の手で大地を掘ったり、他の人に指示して大地を掘らせてはならない。
・伐草木戒 植物に生命がやどるので、自分で草木、樹木を伐ったり、他の人に伐らせてはならない。
・用虫水戒 虫が死ぬから、水の中に虫があるのを知りながらその水を用いたり、泥や草の上にその水をそそいではならない。
・奪畜生命戒 殺そうという意志をもって動物を殺してはならない。
・飲虫水戒 水の中に虫があるのを知りながらその水を飲んではならない。
http://www.suijoji.sakura.ne.jp/asia/kairitu.html

④仏法を誹る
アップル荒井しのぶ「日本古代の法華経滅罪信仰の形成と民間への浸透について(1)」によると、『法華経』は、「滅罪の呪力を持つ経典であるが、誹るならば厳罰がある」と、『霊異記』では理解されていました。

『法華経』誦経者等を誹謗する者への護法神による刑罰としての悪報。
・乞食の僧を迫害したために呪縛された男が、その僧の観音品読誦で助かる。
・法華経持経者を誹ったために、口が歪む。
・法華経誦持の人を嘲ったために、口が歪み悪死する。
・法華経書写の経師が淫行の為に、女とともに悪死する。
・猿聖と呼ばれる法華経読誦の尼をあざけり笑った人が、空から降りた神人によって悪死する。
・法華経書写の人を悪口したために、口が歪む。
・子供の作った塔を壊したために、悪死する。
https://www.totetu.org/assets/media/paper/k022_222.pdf

日蓮『佐渡御書』に「法華経の行者を過去に軽易せし故に」とあります。
岡田榮照「日蓮に於ける滅罪」はこのように説明しています

日蓮にとつて受難こそ、体験的滅罪であり、流刑を通じて自己に於ける過去の罪障の苦果と甘受し、自己自身に対する折伏を随件していたと考えることは、従来忽諸に附せられていたかに思われる。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/13/1/13_1_170/_pdf/-char/ja

日蓮は過去世で『法華経』の行者を侮り軽んじた業報によって佐渡に流罪になるなどしたと受け取ったわけです。

⑤生死の罪
生死とは輪廻のことですから、何度も輪廻しないといけない罪が生死の罪です。
『観無量寿経』は称名による滅罪を説きます。

悪業をもってのゆえに地獄に堕すべし。命終わらんと欲る時に、地獄の衆火、一時に倶に至る。(略)
十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。命終の時、金蓮華を見る。猶し日輪のごとくしてその人の前に住す。一念の頃のごとくに、すなわち極楽世界に往生することを得ん。
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滅罪とカルマの浄化(2)

2022年10月22日 | 仏教

 3 罪、罪報、滅罪の方法
罪と悪とは同じなのか、それとも違うのか、気になったので、中村元『仏教語大辞典』を調べてみました。

①悪いこと。人をそこなう事がら。理法に背いて現在と将来に苦を招く力のある性質。
②悪の行為。悪業のこと。


①つみ。悪。
②人としての道に反すること。


罪悪

悪とみなされる罪。

となると、悪とみなされない罪があるのかと思います。
たぶん罪と悪は同じようなものと考えていいのでしょう。

小笠原亜矢里「『観無量寿経』における滅罪について」に、『観無量寿経』で滅罪の対象とされるのは主に①罪、②業障、③悪業だとあります。
『仏教語大辞典』を調べました。

業障

①悪業のみをなす障り。
②悪の行為によって生じた障害。
③成仏をさまたげる悪業。


悪業

悪い行ない。好ましくない果を招く、身・口・意一切の動作をいう。すなわち十悪。人は自身の業(行為)にひかれて六道に行く。修羅道以下は悪業によってつれていかれる悪道である。

これまた似たような意味です。

滅罪

懺悔・念仏・陀羅尼などによって罪を滅すること。こうした滅罪を目的に儀式化されものが悔過・懺法などである。


滅罪の対象となる罪、滅罪の方法、滅罪によって得られる得益は経典によってさまざまです。
滅罪の方法としては懺悔、悔過、積善、供養などがあり、具体的には布施、読経、写経、造像、斎会、観仏、称名、祈禱、沐浴、苦行、斎戒、不殺生、放生、出家といったことです。

①破戒
戒律を破れば罰則があります。
波羅夷はサンガからの追放。
僧残は一定期間、比丘としての資格が剥奪され、その後に懺悔する。
不定、捨堕、波逸提、提舎尼、衆学、滅諍は懺悔する。
http://www.horakuji.com/lecture/vinaya/construction.htm

懺悔とは何か、『仏教語大辞典』です。

人に罪のゆるしを請うこと。犯した罪を仏の前に告白すること。悔い改めること。


具体的には布薩と自恣です。
布薩

半月ごとに同一地域の僧が集まって自己反省し、罪を告白懺悔する集まり。


自恣

安居が終わった最終日に修行僧が互いに自己の犯した罪を告白し、懺悔して許しを乞うこと。


懺悔と同じような言葉が悔過です。

①過ちを悔いること。懺悔すること。
②仏前に懺悔して、罪報を免れることを求める儀式。古くは「悔過」と訳されていたが、その後「懺悔」と訳されるようになった。

奈良時代に吉祥悔過や薬師悔過などが行われていましたが、密教の流通とともに廃れていきます。

②破和合僧
出家の功徳が『ミリンダ王の問い』に説かれています。
デーヴァダッタがサンガを破壊したことで、一劫の間、地獄で苦しみを受けることを釈尊は知っていたのに、なぜ出家を許したのかというミリンダ王の問いにナーガセーナが答えます。

かれの無限の業は、わが教えの下で出家したならば終りをつげるであろう。前生〈につくった業〉に基づく苦しみは、終りをつげるであろう。だが、出家したとしても、この愚かな人間は一劫の間、〈苦しみをうける〉業をなすであろう」と知って、デーヴァダッタを出家させたのです。
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滅罪とカルマの浄化(1)

2022年10月11日 | 仏教

中野義照『印度古法典概説』に消罪について書かれてありました。

消罪しない者は輪廻転生の苦海に入り国家も共業合成して不安不平とならざるを得ないのである。
目に見えざる罪咎を祓い善を生ぜん為に、慎みある生活を為し衣食を摂し性欲を却け応分の布施を為し聖地を巡礼し聖典を読誦するが如きことは、法律的生活以外の仏教の生活に於いて既に古くから行われて来たことであり、密教が流行するに及びて以後の大乗仏教国の消罪法は全く婆羅門教道教のそれと外貌を一にする迄になって居る。


消罪とは滅罪のことだと思います。
中野義照師の文章を読み、オウム真理教のカルマの浄化は消罪(滅罪)だと気づきました。

オウム真理教は仏教の教義から多くを取り入れており、カルマの浄化もその一つです。
オウム真理教の教義では、業(カルマ)によって輪廻する境界が決まるから、三悪道に堕ちることを防ぎ、輪廻転生から解脱するためにはカルマ(悪業)を浄化、すなわち滅罪する必要があります。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/d6d3a340f9f9659d7c9a8a7ef2e69d2c

 1 滅罪の意味
まずは滅罪の意味をネットで調べました。

滅罪 迷いの世界に生死輪廻する原因となる罪悪を除滅すること。除罪とも言う。そのための方法として、称名・観仏・礼拝・懺悔・陀羅尼などが挙げられる。(『新纂浄土宗大辞典』)

http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%BB%85%E7%BD%AA

 2 滅罪を説く経典
多くの経典が滅罪を説いていますが、いくつかご紹介。

日本で最初に受容された護国三部経は滅罪の功徳を説きます。
・『法華経』
光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで『法華経』を信奉した。
『源氏物語』に、死期の迫った紫の上(43歳)は法華経千部供養を行なったとある。

年ごろ、私の御願にて書かせたてまつりたまひける『法華経』千部、いそぎて供養じたまふ。わが御殿と思す二条院にてぞしたまひける。七僧の法服など、品々賜はす。


ウィキペディアに、「ツォンカパは主著『菩提道次第大論』で、滅罪する方便として法華経を読誦することを勧めている」とあります。

①『金光明最勝王経』
藤谷厚生「金光明経の成立と展開」
『金光明経』の中心テーマは懺悔滅業の思想である。
個人の懺悔によってその個人の悪業が浄化すると説かれていたものが、内容の発展において具体的な懺悔滅業の実践法が体系化して説かれた。
経典受持による功徳によって、個人のみならず国家の救済までも説かれるようになる。
このような護国の思想の背景には、国家自身の業が前提となっている。
つまり、国家にも善業(安楽)と悪業(困苦)があり、悪業を滅除することによって国家が安泰となる。
しかも、国家の業は王自身の業とも密接に関わっている。
王は国家に代わって善根功徳(王が経典(法)を受持し講説すること、また仏や僧を供養すること)をなすことによって国家が善根を積むことになる。
その功徳によって国家の悪業を善業へと転換し、国家の安泰が得られるようになる。
このように、護国の思想の根底には滅業の思想が前提となつている。
file:///C:/Users/enkoj/Downloads/%E9%87%91%E5%85%89%E6%98%8E%E7%B5%8C%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B%E3%81%A8%E5%B1%95%E9%96%8B-2.pdf

②『観無量寿経』

十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。


③道元『修証義』

彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。(過去現在未来の悪業の報いを受けなければならないといっても、懺悔するなら悪業の報いは軽くなる。また滅罪は心は浄らかにさせる)

他にもたくさんあると思います。

中野義照師が書かれているように、平安時代、密教が渡来して以後は滅罪の方法は密教の修法が中心となったそうです。

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法然と三昧発得(2)

2022年07月03日 | 仏教

玉城康四郎『冥想と経験』を読んでたら、法然は三昧発得を否定しているとありました。
『諸人伝説の詞』(『和語灯録』所収)

乗願上人のいはく、ある人問ていはく、色相観は観経の説也。たとひ称名の行人なりといふとも、これを観ずべく候か、いかん。上人の答ての給はく、源空もはじめはさるいたづら事をしたりき。いまはしからず、但信の称名也と。(然阿良忠『決答授手印疑問鈔』より)

https://www.arigatozen.com/interview_a04.php

現代語訳

乗願上人がいう。「ある人が問うていう。『仏の外に現れて見られる姿形を観想するのは、『観経』に説かれていることですが、たとい阿弥陀のみ名を一心にとなえている人であっても、これは観想すべきものでしょうか。いかがでしょう』
上人が答えていわれる。『源空もはじめはそのようなむだなことをしました。いまはそうではありません。ただ信じて阿弥陀の名号をとなえているだけです』と」(『日本の名著』5)

法然は初めは三昧発得を得ようと「いたづら事」をしたと反省しています。
「いたづら事」とは、無意味なこと、くだらないこと、 無用なこと、役に立たないことという意味です。

『つねに仰せられける御詞』(『法然上人絵伝』所収)

又云、「近来の行人観法をなす事なかれ。仏像を観ずとも、運慶・康慶がつくりたる仏ほどだにも、観じあらはすべからず。極楽の荘厳を観ずとも、桜・梅・桃・李の華菓ほども、観じあらはさん事かたかるべし。


『現代語訳 法然上人行状絵図』

近ごろの行者は、心に対象を顕現させる観想の行をしてはならない。仏の姿を観想しても、運慶や康慶が造った立派な仏像ほどさえも、心に観じ現すことは出来ない。極楽の荘厳を観想しても、桜や梅、桃や李の花や果実の美しさほどにも、観じ現すことは難しいであろう。

観想をするな、すぐれた仏像や、自然の木や花には及ばないと、法然は諫めています。

仏の三十二相を観想する方法を善導は『観念法門』で説いています。
一部ご紹介します。

先づ仏の頂上の螺髻よりこれを観ぜよ。頭皮は金色をなし、髪は紺青色をなす。一髪一螺巻きて頭上にあり。頭骨は雪色をなして内外明徹す。脳は玻瓈色のごとし。次に脳に十四の脈あり、一々の脈に十四道の光あり、髪根の孔よりほかに出でて髪螺を繞ること七匝して、還りて毛端の孔のなかより入ると想へ。次に前の光二の眉の毛根の孔のなかより出でてほかに向かふと想へ。


現代語訳

そこで心眼をもってまず仏の頂上の螺髻よりこれを観ぜよ。 頭皮は金色で、 髪は紺青色をしており、 すべての髪の毛はうず巻いて頭上にあり、 頭骨は雪の色をして内外にすきとおり、 脳は玻璃のような色をしている。 次には脳に十四の脈があり、 その一々の脈に十四本の光があり、 それが髪の根元の孔より外へ出て髪螺を七たびめぐり、 また毛端の孔から入ると想え。 次に、 前の光が二つの眉の毛根の孔より出て外に放たれると想え。

http://www.yamadera.info/seiten/d/kannenmon_j.htm
たしかに仏を観想するよりも運慶や康慶の仏像を見たほうがよさそうです。

法然が観想を否定したのはいつなのでしょうか。
『三昧発得記』は1198年から1206年までの体験が記されています。
法然が流罪になったのが1207年、死亡したのは1212年です。
しかし、曽根宣雄「法然浄土教と三昧発得」を読むと、観想を否定しているわけではないようです。

『選択本願念佛集』は三昧発得の体験を踏まえた上での書物である。
三昧発得は具体的かつ個別的な宗教体験である。
本願行である称名念仏が重要であって、三昧発得は浄土往生の条件でもなく、求めるべきものでもない。
法然浄土教の中で称名念仏行による有相見仏の三昧発得は大切な意味をもっている。
・有相見仏により阿弥陀仏及び浄土の実在を実体験し、有相の阿弥陀仏及び有相の浄土に対する確証を得たこと。
・自ら三昧発得したことが善導の追体験であり、善導教学の真髄に触れたこと。
『選択本願念仏集』に、「偏依善導」の理由を述べて、「善導和尚はこれ三昧発得の人なり」と記している。
法然にとっての口称念仏による三昧発得は、単に善導の追体験を意味するものでなく、善導教学の正しさを具体的に証明するものであった。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/bukkyobunka1992/1998/7/1998_7_53/_pdf/-char/ja

法然が観想を「いたづら事」だと言ってても、三昧発得は大切にしていたということでしょうか。
何万回も称名念仏することによって神秘体験をし、そのことで念仏往生を確信したのだとしたら、これは阿弥陀仏の本願を疑うことになる気がします。

オウム真理教の信者たちは、教えのとおり修行したら、教えのとおりの神秘体験をしたので、教えが正しいと信じました。
法然は三昧発得が幻覚なのか、それとも真実の仏を観たのか、どうやって判断したのでしょうか。
親鸞は「建久九年正月一日記」を書写しながら、どのように思ったのか知りたいです。

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法然と三昧発得(1)

2022年06月26日 | 仏教

法然の絵伝である『法然上人行状絵図』(『四十八巻伝』)には数々の奇瑞が書かれており、三昧発得にも触れられています。

三昧発得を『浄土宗大辞典』にこのように説明されています。

心を一点に集中させた深い静寂の状態(禅定)において正しい智慧が生じ仏などの勝れた境地を感見すること。浄土宗では、口称念仏によって散り乱れている心が安らかで深い静寂の状態(三昧)に達したときに、求めずして正しい智慧が生じて自ずから極楽の依正二報(浄土の様相と仏・菩薩・聖衆など)を目の当たりに感じ見ることを念仏三昧発得という。


三昧発得については、『三昧発得記』(『拾遺漢語灯録』所収、『西方指南抄』は「建久九年正月一日記」)に詳しく記されています。
http://www.yamadera.info/seiten/c4/hottokukiD.htm

建久9年(1198年)から元久3年(1206年)正月までの記録です。
建久9年は法然66歳、『選択本願念仏集』を著した年です。
少々長いので、簡潔な『法然上人行状絵図』から引用します。

上人、専修正行としをかさね、一心専念こうつもり給しかば、つゐに口称三昧を発し給き。生年六十六、建久九年正月七日の別時念仏のあひだ、はじめにはまづ明相あらはれ、次に水想影現し、のちに瑠璃の地すこしき現前す。同二月に宝地、宝池、宝楼を見たまふ。
それよりのち進々に勝相あり、或時は左の眼より光をいだす。眼に瑠璃あり、かたち瑠璃のつぼのごとい。つぼにあかき花あり、宝瓶のごとし。或時ははるかに西方を見やり給に、宝樹つらなりて、高下心にしたがひ、或時は座下宝地となり、或時は仏の面像現じ、あるときは三尊大身を現じ、或時は勢至来現し給。すなわち画工に命じて、これをうつしとゞめらる。或時は宝鳥、琴笛等の種々のこゑをきく。くはしきむね御自筆の三昧発得の記にみえたり。(『法然上人絵伝』)

『現代語訳 法然上人行状絵図』

法然上人は、ひたすら正行の念仏を称えて歳月を重ね、一心に念仏に専念して功徳を積まれたので、ついに口称念仏による三昧を起こされた。六十六歳の建久九年(1198)正月七日の別時念仏の最中、初めに光明が現れ、次に極楽の池水が現れ、後に極楽の瑠璃の大地が少しばかり目の前に現れた。同年二月には宝地・宝池・宝楼をご覧になった。
それから後は、次々にすぐれた様相が現れた。ある時は左眼から光明を放たれた。眼中に瑠璃があるように見え、形は壺のようであった。壺には赤い花があり、まるで宝瓶のようであった。ある時は遠く西方を眺められると、宝樹が連なり、心のままに高くなりあるいは低くなり、ある時は座っておられるところが宝地となり、ある時は仏のお顔が現れ、ある時は大きな阿弥陀三尊が現れ、ある時は勢至菩薩がお越しになった。上人はすぐに絵師に命じてこれらの有りさまを写し留められた。また、ある時は美しい鳥や琴笛などの種々の音声を聞かれた。詳しいことは、上人ご自筆の『三昧発得記』に書かれている。


『三昧発得記』には、なぜ浄土の荘厳を観ることができたかが書かれています。

総して水想・地想・宝樹・宝池・宝殿の五の観、始正月一日より、二月七日にいたるまて、三十七箇日のあひた、毎日七万念仏。不退にこれをつとめたまふ。 これによりて、これらの相を現すとのたまへり。

新井俊一『親鸞「西方指南抄」』

全体として水想観・地想観・宝樹観・宝池観・宝殿観の五つの観を、正月一日から二月七日に至る三十七日の間、毎日七万回の念仏を怠ることなく勤められた。そのためにこれらの姿が現れたのだ、と仰った。


中野正明「「三昧発得記」偽撰説を疑う」に、田村圓澄氏は『三昧発得記』が内容的に非法然的であるとして偽撰であると述べられたとあります。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/38/1/38_1_131/_pdf/-char/en

しかし、法然自らが筆をとって書いたようです。
神秘体験したのは念仏を数多く称えた功徳だと、法然が喜んでいたとはがっかりです。

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仏教と死刑(3)

2021年11月30日 | 仏教

死刑は国の制度ですから、古代インドでは国王が定めたはずです。
ですから、『サティヤカの章』や『宝行王正論』では、国王に死刑をしないよう説いています。
『宝行王正論』は龍樹がシャータヴァーハナ王朝の王に教えを説いた書簡体のものです。
http://media.dalailama.com/Japanese/texts/Nagarjuna-Precious-Garland-JPN-2019.pdf

龍樹は死刑囚や囚人についても、二個所で王を諭しています。

偉人の相好 三十二相について
殺生を犯すことなく、死刑囚を釈放するならば、身体は美しく、直立にして大きく、命が長く、指が長く、踵が広い者になられましょう。

 

慈愛と恩恵
たとえ彼らが正しい判断にもとづいて、処罰・入獄・笞打ちなどの罰を下すとも、あなたはつねに慈愛をもち、恩恵を施す者となりなさい。
王よ、あなたは常に慈愛によって、すべての人びとに対して利益する心を起こしなさい。たとえ恐ろしい罪を犯した人びとに対してであっても。
慈悲は、ことに恐ろしい罪を犯した悪人たちに向けられねばなりません。このような憐れむべき人びとこそ、心の高潔な人の慈悲にふさわしい対象でありますから。
囚人の釈放
毎日または五日ごとに、、力の弱った囚人を釈放し、また残りの者も適宜釈放してください。けっして拘禁しておくことがないように。
もしあなたに、ある人びとを釈放する心が起きないならば、彼らに対しては自制を欠くことになります。このように自制を欠くならば、永久に罪を受けるでありましょう。
また、彼らが拘禁されているあいだは、牢獄を楽しいものとし、理髪師、浴場、飲食物、薬、衣類を備えつけておきなさい。
処罰をなすときには、あたかも値打のない息子たちを値打のある者にしようと願って処罰を加えるように、慈悲をもって行なわねばなりません。けっして惜しみからしてはなりませんし、また財を欲してなしてはなりません。
事情を正しく考慮し判断して、たとえ罪深い殺人を犯した人びとであっても、処刑に処することなく、また責苦を与えることなく、彼らを追放しなさい。

龍樹の提言は今も死刑を廃止していない日本にも通用します。

死刑は執行人に殺人という悪業を作らせます。
『テーリー・ガーター』に、寒さに震えながら沐浴するバラモンとプンニカー尼とのやりとりがあります。

「バラモンよ。あなたは誰を恐れていつも水の中に入るのですか。あなたは手足がふるえながら、ひどい寒さを感じています」
「老いた人でも若い人でも悪い行ないをするなら、水浴によって悪業から脱れることができる」
「もしもそうなら、蛙も亀も竜も鰐も、その他の水中にもぐるものも、すべて天に生れることになりましょう。
また、屠羊者も屠豚者も漁夫も猟鹿者も盗賊も死刑執行人も、そのほか悪業をなす人々はすべて水浴によって悪業から脱れることになりましょう」

死刑執行人や業者は悪業を作る人とされているのです。
殺生の業報をいつか受けることになると、本人も思っていたでしょう。
しかし、死刑執行人は国王の命令に従っているだけです。
なのに国王は何の報いも受けないとしたらおかしな話です。

仏教は不殺生を説いているので、本来は戦争や死刑で人を殺すことも罪です。
ところが、時代とともに殺生を認めるようになりました。
敵を殺すことが菩薩行だとまで言う僧侶もいたほどです。
このようにして、殺生が正当化されていったのです。

アヒンサー(不害)が説かれたということは、残酷な刑罰や拷問が実際に行われていたからだとも言えます。
死刑は残酷な刑罰だという認識が現代では世界的に広まっています。
ところが日本ではそうではありません。

1948年、死刑制度の存在は違憲であるか、合憲であるかが争われた裁判で、最高裁判は「死刑制度は憲法第36条で禁止された「残虐な刑罰」には該当せず、合憲である」としました。
当時は死刑が残虐な刑罰ではなかったとしても、70年以上も経った現在は違うはずです。

2011年、パチンコ店放火殺人事件で、絞首刑は残虐で違憲と主張する弁護側の証人として元最高検検事の土本武司筑波大学名誉教授の証言しました。
岩瀬達哉『裁判官も人間である』からの引用です。

絞首刑が惨たらしいとはいえないとは実態を知らな過ぎる指摘というほかない。(略)
つい十数分前まで自分の足で歩いていた人間が、両手・両足を縛られ、顔は覆面をさせられ、刑務官のハンドル操作により踏み板が開落するや地下部分に宙吊りになり、首を起点にして身体がゆらゆらと揺れる。その際、血を吐いたり失禁をしたりし、やがてその宙吊り状態のままで、死の断末魔のけいれん状態を呈する――それはまさに見るに耐えないものであり、人間の尊厳を害することこれに過ぐるものはないということを痛感させられるシーンである。(『判例時報』2143号)

ところが、2016年、最高裁は「死刑制度が執行方法を含めて合憲なことは判例から明らかだ」という判決を下しました。
https://www.sankei.com/article/20160223-BHAAMD6OFNOWZNSWI6FQHFOB64/

中川智正弁護団『絞首刑は残虐な刑罰ではないのか?』には、絞首刑は残酷だということが詳しく説明されています。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/7b7140abd9acb8c5e42700c606da6fa2
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/cf4e163f561b3d22b69f3ed15682d31a
オウム真理教の死刑囚は全員執行されました。
日本では、死刑は今も残虐とはされていないのです。

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