三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

石原慎太郎『新・堕落論』

2012年10月28日 | 

石原慎太郎氏が衆院選に出馬するそうだ。
80歳なのにお元気なことです。

某氏から石原慎太郎『新・堕落論―我欲と天罰』をいただく。
自分のことは棚に上げて、上から目線で慨嘆し、世を憂いながら、自分はこういう人と親しいとか、こういうことをしたんだとかと自慢話をしている駄本。
「大人たちの物欲、金銭欲、性欲にまかせた心の荒廃」「物欲、金銭欲、性欲といった我欲が野放図に氾濫するこの日本」などと、自分は無欲のつもりでいるのか知らないが、『太陽の季節』を書いた人がよく言うなと思う。
自分は政治家なわけで、日本が堕落したのというのなら、自らの至らなさを恥じてもよさそうなものである。

某氏は「ゴーストライターが書いたんじゃないか。小説家の文章とは思えないほど下手くそ」と言ってたが、ゴーストライターならまともな文章を書くのではないかと思う。
たとえば、「ですます」と「~だ」が混在していて文体が不統一、読点(、)がないダラダラ文など、内容以前の問題である。
新潮社には優秀な編集者がたくさんいるだろうに、この体たらくはどうしたことか。
編集者が何も言えないとしたら、裸の王様である。

決して読みやすいわけではない『新・堕落論』が、本当に20万部も売れたのかと不思議である。
序章を読むだけでうんざりした。

「日本列島そのものを歪めて二米半も東へ押しやってしまった巨大な力が、一体何のためにふるわれ、多くの人命を奪い町を壊滅させたのだろうか」
石原慎太郎氏は、超自然的な「巨大な力」が何らかの意志・目的があって地震+津波を起こしたと考えているらしい。
「何のため」か、それは我執まみれの日本民族に天罰を与えるためなんだろう。
霊友会の信者であり、崇教真光の代表と親しい石原慎太郎氏ならではの考えである。

「私たちはもう一つ別の復元復興を志さなければならないのではないでしょうか。
それは六十五年前の敗戦の後今日まで続いてきた平和がもたらした、日本という国、日本という民族の本質的な悪しき変化、堕落の克服と復興です。
その内訳は、アメリカという間接的な支配者の元に甘んじ培われてきた安易な他力本願が培養した平和の毒ともいえる、いたずらな繁栄に隠された日本民族の無気力化による衰退、価値観の堕落です」
日本民族が堕落したのは65年間の平和だというわけだ。
65年間、軍事介入を続けたアメリカや、内戦で疲弊した国々のほうがずっとましだと思っているのだろうか。


「国民全体の意識の反省と向上に繋げていかなければ、この災害で犠牲になった同胞は浮かばれないでしょう」

では何をすべきかというと、自動販売機とパチンコが標的なんですね。
オリンピックの誘致・開催や尖閣諸島の都による購入、核兵器の保有といった主張のほうが問題ありだと思うのですが。

「この大災害の克復には多大な財源が必要なことは自明のことです。それを誰が負担するかといえば国民です。消費税の税率のアップも含めて、外国の有名ブランド製品など奢侈な買い物への物品税等、国民の責任負担なしにこの国が立ち上がれる訳はないし、今後の混乱の中で高福祉低負担などという幻想が続く訳もない」
日本が高福祉低負担の国だとは知らなかった。

「人間自身にとって非現実な現況からの逃避のために、弱い人間たちは安易な他力依存での救済を求めます」
「他力本願」を「自分は何もせずに人にまかせる」という意味に誤用するのは、言葉を大切にしている小説家としての堕落である。
それはともかく「弱い人間」への冷たさ、蔑視には虫酸が走る。

たとえば、集団自殺についてこう書いている。
「少なくとも彼等は死に至るまでに、死ぬほど恋したり、死ぬほど何かに悩んだりしたことはあるまい、ということだけは確かでしょう」
自ら死を選ぶ人たちの苦悩が想像できない人間が小説家と言えるか。
でもまあ、1999年、府中療育センター (重度知的・身体障害者療育施設) を視察した後、記者会見で「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた」と、平気で公言する人なんですからね。

失言・暴言がお得意の石原慎太郎氏だが、「老人を食い物にして蓄財発覚して裁判にかけられ責を問われた岡光なる厚生次官の存在ですが、昔ならこんな男は裁判を待たずに一連の壮士によって報復殺害されていたろう。しかし今の日本にはそのための壮士もいません」とテロの肯定、推奨をしているのはどういう感覚なのだろうか。
ウィキペディアで「石原慎太郎」を見ると、「不透明な政策・私物化疑惑」という項があるのに。

2007年に世界47カ国の人を対象に「政府は、自力で生活できない人に対応する責任があるか」と聞いた調査結果で、「全く思わない」「ほとんど思わない」と答えた人の合計は、米国28%、フランス17%、韓国12%、中国9%、英国8%、インド8%、ドイツ7%、そして日本は38%で、断トツの1位である。(「What the World Thinks in 2007」The Pew Global Attitudes Project)
困っている人は放っておけという考えこそ我欲まみれであり、そんな人が38%もいるということが日本の堕落である。
この38%は、自己責任や自助をことさら言い立てる政治家を支持していると思う。

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「つけ麺日本一決定戦」とB層

2012年10月25日 | 日記

先日、東京に行った時、「つけ麺日本一決定戦」というのをやっていた。
食券を買うための長蛇の行列。
そして、つけ麺を求めてまたまた並ばないといけない。
当然のことだが、人気店の行列が長くて、東京の人は忍耐強いと感心した。
「つけ麺日本一決定戦」のサイトを見ると、第一陣から第三陣まであって、全部で24店が出店している。
どの店がおいしいかを投票して、1位を選ぶわけである。
期間は3週間だが、全店のつけ麺を食べるのも一苦労です。

東京行きの新幹線でたまたま読んでいたのが、適菜収『ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体』。
小泉政権が郵政民営化の広報において広告会社が作成した企画書で、国民を「構造改革に肯定的か否か」を横軸、IQ軸を縦軸として、4層に分類している。

A層

・財界勝ち組企業
・大学教授
・マスメディア(TV)
B層
・小泉内閣支持基盤
・主婦層&子供を中心
・シルバー層
・具体的なことはわからないが、小泉総理のキャラクターを支持する層
・内閣官僚を支持する層
C層とD層は略。
広告会社はB層に向けた戦略を提言し、自民党は選挙で圧勝したというわけである。

頭のいい人間、すなわちA層がB層を対象に商品をつくっている。

B層はマスメディアを妄信することに疑問を感じない。
「A層は資本主義の原理によって動きます。そこにB層がいる限り、B層に向けた経済活動を行います」
ベストセラー、ヒット曲、テレビ番組など。

「B層にこよなく愛される店の料理が「B層グルメ」ですね。
具体的には、メディアに踊らされてラーメン屋に並ぶような人々が好む店です」
となると、つけ麺日本一決定戦で行列している人はB層だということになる。
ラーメンが大好きな私もその一人。

「いわゆる「オレ様系」の鮨屋も増えました」
店主が客に自慢話をし、「文句を言う奴は出て行け」みたいな。
ラーメンばかりでなく、鮨屋もB層化しているそうだ。

ラーメンに関するうんちく本なら速水健朗『ラーメンと愛国』。
もっとも、著者がどこまで本気なのか、それとも風が吹けば桶屋が儲かる的論理を楽しめばいいのかわからない本です。

他の飲食業に比べてラーメン業界は、宗教やオカルト色の強い自己啓発的な成功哲学にはまる傾向が強いそうだ。
1990年代半ば以降、ラーメン屋はラーメン道的になった。
店員が作務衣か、手書きの漢字がプリントされた黒のTシャツを着ている。
「そのイメージは、おそらくは陶芸家に代表される日本の伝統工芸職人の出で立ちを源泉としている」
ラーメン屋のオヤジがラーメン職人に変化したのである。

店の壁やメニューに手書き風の文字で人生訓(ラーメンポエム)を書き、〝ラーメン哲学本〟というラーメン業界で成功した人が出した本が売れる。
「多くの本に書かれているのは、生い立ち(悪かった過去とか)、ラーメンとの出会い、成功までの物語、ラーメンへのこだわり、弟子の扱いといったことである」
ラーメン界の右傾化、保守化である。

「従来、左翼がナショナリズムを批判するときに、伝統や正当性を掲げるナショナリストに対して、その伝統や正当性がまがい物であることを突きつけるという手法があった。例えば、日本には建国の当初から続く天皇という伝統がある。これに批判するために、天皇制は明治以降に確立された近代の産物に過ぎないと批判するやり口がそれである。
だが、大澤真幸は21世紀型ナショナリズムにはその批判のやり口は通用しないと言う。なぜなら、彼らは伝統や正当性のなさを自明のものとしてあらかじめ理解した上で、ナショナリストになっているからである。逆に「構築主義的な視線」(つまり「近代の産物だ」とやり込める手口)こそが、彼らをナショナリズムに誘う張本人であると言う」

ラーメンの右傾化も同様である。
「ラーメン的愛国心の大本が、ニセモノであること、捏造された伝統であることは、問題ではないのだ。人々は、それを自明のこととして、「伝統の捏造」を、リアリティーショー的、遊戯的に行っているだけなのである」
適菜収氏はラーメン屋に行列する人をB層だとするが、並んでいる人たちはそれを楽しんでいるだけかもしれない。

ちなみに、『ゲーテの警告』はB層をバカにすることでB層に受けるようとするいやらしさがある。

そして、民主党を非難し、鳩山元首相たちをB層政治家とけなしている。
では、東大卒の大金持ちである鳩山由紀夫氏はA層なのか、B層なのか。

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石川幹人『超心理学』

2012年10月21日 | 問題のある考え

石川幹人『超心理学 封印された超常現象の科学』に、皆神龍太郎氏との対談本『トンデモ超能力入門』が紹介され、「対談の最初のほうで、皆神がより否定論者のようにふるまい、私がより肯定論者のようにふるまっただけで、後半のほうはほとんど本心に近い」と石川幹人氏は書いている。

私の読んだ感じだと、石川幹人氏は『トンデモ超能力入門』では、超能力が実在することを自信なさそうに話していたが、『超心理学』では間違いない事実だと自信たっぷりで、否定論者のネガティブ・キャンペーンで超心理学の研究が妨げられると訴えている。

米国科学振興協会メンバーへの調査では、工学者の40%、生物学者の34%、医学者の28%、物理学者の18%、心理学者の5%がESPを信じている。

アメリカの一般の人は、49%がESPを信じ、25%が幽霊を信じている。
奇術師がインチキ能力者をあばいているので、奇術師は超能力の実在を信じていないのかと思ったら、カリフォルニアの奇術師の82%が、ドイツの奇術師の72%がESPを信じているそうだ。

石川幹人氏は中学生の時から奇術の魅力のとりことなった。

高校のころ、「(ユリ・)ゲラーに触発されて超能力が芽生えたという、ゲラーチルドレンと呼ばれる日本の子どもたちには会うことができた。幸運なことに、そうした子どもたちに対する実験に立ち会い、研究者の補助をさせてもらう多くの機会を得た。(略)
ほとんどが中学生だった素朴な彼らが、私の知らない奇術のトリックを弄しているとはとても思えなかった」

石川幹人氏はNHKドラマ「七瀬ふたたび」の科学監修を担当している。
能力者へのインタビューをTBSの本間修二プロデューサーに依頼し、佐藤くんと田中さん(仮名)を紹介してもらっている。
本間修二氏と親しいということは、密閉した瓶の中に木の葉が実在化した云々の話を疑っていないということなのだろうか。
佐藤くんと田中さんは、本間修二氏がプロデュースした「ギミアぶれいく」に出ていたのかもしれない。

佐藤くんは介護の仕事をしていて、「お年寄りの体の痛みや要望が手にとるようにわかる」と言う。
佐藤くんは「ふだんは心の声が聞こえないようにスイッチをオフにしておき、能力を発揮するときだけオンに切り替える」
オフにしないまま新幹線に乗ってしまったら、「座席に座っていた人々の想念が騒音のように心に反響してきたと言う。耳をふさいでも効果がなく、しばらく辛抱するしかなかったそうだ」
田中さんは心理カウンセラーである。
「ふつうの人の心は複雑でわかりにくいけど、来談する人々の心はわかりやすいのです」
佐藤くんと田中さんに協力してもらってテレパシー(透視?)の実験をしたら、さぞかし高い正答率をえられたと思うのですが。

むむむと思ったのが、「第10章 霊魂仮説について考える」である。
イアン・スティーヴンソンは世界中の生まれ変わり事例を調査し、信憑性の高い225例の調査報告書が出版されている。

スティーヴンソンが退けた超常的解釈
1,超心理発揮説
「子どもたちが超心理的能力を発揮し、「前世」に当たる死者の状況を透視したという解釈」
2,人格憑依説
「「肉体をもたない人格」という実体を認めて、それが肉体にとり憑いて支配する」

石川幹人氏は超心理発揮説の可能性を検討したいと言う。
ポルターガイスト現象は霊魂などの仕業ではなく、八歳ぐらいの心理的に不安な少女によるPKだという考えがある。
「超心理学では、該当の少女が「自分はこのような人間だ」という観念の成立に失敗し、PK発揮によって繰り返し不適当な自己主張をしていることが、現象の源だとみている」

生まれ変わりもポルターガイストと似ていると石川幹人氏は言う。

「子どもたちが「前世」を語りはじめるのは、二歳から五歳であり、ほとんど喋れるようになるのと同時に開始される。そして、五歳から八歳まで続くと、通常、ぱたりと語るのをやめてしまう」
八歳は自我を確立する時期であり、「自我確立の過程に超心理的能力の発揮が伴う」と仮説する。
「子どもはみな、さまざまな手がかりをもとに「自分らしい自我」を創造しようとする。しかし、より簡便な方法は、模範となる他者の人格を模倣することだ。
ここで私が提示する超心理発揮仮説は、この他者模倣を、ESPを駆使して過去の生者に対して行なっていると考える。つまり、自分にはこのような母斑がある、同位置に傷を負って死亡した過去の人がいる、その人の生活や人格を自分のものと考える、といった過程が無意識に、それも超心理的能力を伴って起こる。その結果、人格が生まれ変わったかのようにふるまうという解釈だ」

しかし、2~5歳の子どもが、自分には母斑があり、過去に死んだある人も同じ母斑があったのではと、無意識にせよ推測するものだろうか。
それと、臨死状態になった人が臨死体験することはさほど珍しくない。
臨死体験が死後の世界をかいま見た現象であり、生まれ変わりの証拠だとするなら、前世の記憶を持って生まれてくる人がそこそこいてもおかしくはないと思う。

菊池誠大阪大学教授と石川幹人氏が対談した際、石川氏は予感実験について解説をした。
菊池誠氏は「未来から情報がきているようですから、やはり相対性理論に抵触しますね」と発言したそうだ。
超能力が実在したら、物理学は根底から変わらざるを得なくなると思う。

(追記)
『トンデモ超能力入門』についてもお読み下さい。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%B3%A7%BF%C0%CE%B6%C2%C0%CF%BA%BB%E1%A4%CF

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『職業欄はエスパー』と『トンデモ超能力入門』4

2012年10月18日 | 問題のある考え

『トンデモ超能力入門』は超心理学についての鼎談である。
超心理学は超能力の実在を明らかにしたのか?
まえがきで皆神龍太郎氏は「超心理学の研究成果からは、人の超能力はもし存在するとしても、普段の生活で気付くこともできないほど小さな効果しかないことが判明しているのです」と書いている。

皆神「石川先生はテレパシー系の超能力現象をはじめとするESPの実在ははっきりしたけれど、PK(念力、物体移動、金属曲げ、念写、空中浮遊など)系統の実在はまだよく分からないという、そういうご認識ですよね?」

ESP系(透視、テレパシー、予知など)の実験では、確率的に有意な結果が出ているそうだ。
たとえば、数字が書かれたカードが5枚あって、裏返しにして数字を当てるとして、適当な数字を言っても、当たる確率は20%。
それよりも何%か多いと、何かあるのでは、ということになる(今はカードを使った実験はしていない)
ガンツフェルト実験といって、4枚の写真や絵のうち送り手が選んだものは何かを、感覚遮断されている受け手が当てる実験があり、偶然に当たる確率は25%だが、成功率は約32%である。

もっとも皆神龍太郎氏によると「確かな結果をつかんだんだと思うと、その効果がやがて煙のように消えてしまうというのが超心理学のお約束のパターンなのね」ということらしい。
石川幹人氏もあとがきに「かなり厳密な状況下で行った実験でわずかながらも奇妙な現象が確認されています。しかし、それは安定した現象ではなく、「超能力」と呼べるようなものかどうかはっきりしていません」と書いている。

超心理学ではどういう研究がなされているのか。
ディーン・ラディンという超心理学者のやっている実験。
石川「クモの絵とかヘビの絵とか見るとギョッとしますよね。そのギョッとする3秒くらい前から生理的な変化が出ていると。ウサギの絵だとギョッとしないんで、ヘビが出るかウサギが出るか分からない状態にして、画面を見ている。その間の皮膚電位とか生理状態とかを測定するんですよ。そうすると、ずっと調べるとヘビが出る3秒くらい前から信号の変化が出るんです」
つまり予知である。

小久保秀之氏のキュウリを使ったヒーリング効果の実験。
「キュウリに手をかざしてしばらく放置し、かざしていないものと比較するとしなびる速度が遅くなるというもの」
超能力といっても、せいぜいそういうささやかなものらしい。

皆神「テレパシーで世の中のことが何でも分かっちゃったり、サイキック能力で物を宙に自在に飛ばせちゃったりとか、そういうことが可能だと思いこんだ人がたくさんいたんでしょう。本当にそんな派手な超能力現象が存在してくれていれば、今さら「超心理のあるない論争」なんてやっているわけがないと思うんですよね」

超心理学の知見だと、高橋つくしちゃんが密閉した瓶の中に木の葉を実体化したような「派手な超能力」という現象はないらしい。

皆神「そもそも、何で「超心理現象を調べよう」って最初に思いついたのかというと、「超能力は実在する」という強い思い込みが先にあったからだと思うんです。でも今、超心理学の結果によれば、万が一、超能力が実在するとしても、それは人が気づけないほど小さい効果にすぎない、ということなわけですから」
石川「実験してでるのはそうですね」

それにしても、森達也『職業欄はエスパー』に登場する人たちが嘘をついているとは思えない。
真実は何なんでしょう。

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『職業欄はエスパー』と『トンデモ超能力入門』3

2012年10月14日 | 問題のある考え

森達也『職業欄はエスパー』にこんなことが書いてある。
森達也氏は、清田益章氏が切断したスプーンの折れ口(切り口のはず)に柄の部分を近づけると、スプーンの先端が微かに動いたような気がした。
清田益章氏は「ああ、磁力を持つみたいだよ」「折れた後はしばらく引き合うんだよ」と言う。
磁力が発生しているとしたら、調べたらわかるはず。

ところが、清田益章氏によると科学者は研究してくれないらしい。
「前々から大槻先生には、俺を実験材料にしてくれてかまわないから、ちゃんと測定してくれって言ってるんだよ。大槻さんの望む場所で望む実験方法で、とにかく徹底的にやりましょうって。何ヵ月かかってもかまわないよ。ギャラもいらないよ。脳波でも何でも好きなように測定してもらっていいですよって何度も言ってるんだよ。そのうえでやっぱりこれはトリックだって確証が持てるのならメディアにそう言ってもらってかまわないからってさ。だけど俺がそう提案するたびに、あの人はテレビカメラがないと意味がないとか、また今度ねとか、いつもちゃんとした返事くれないんだよな。本当にきちんと実験ができるのならいい機会だよな」
頭から否定するだけで、ちゃんと調べないのだとしたら、これは科学者のほうに問題があるのではないか、と誰しもが感じる。

でも、皆神龍太郎・石川幹人『トンデモ超能力入門』を読むと、ちょっと違ってくる。
この本は皆神、石川両氏と編集者の鼎談。
超能力のトンデモさをあげつらった本ではなく、題名を『超心理学入門』とでもすべき内容である。
石川幹人氏は明治大学教授、超心理学の研究者で、超能力肯定派である。
皆神龍太郎氏は懐疑派。

否定派と懐疑派はどこが違うのか。
懐疑論者「本当のことを知りたいから、理解できるまで、できる限り真摯に対話をしていきたいという人種」
否定論者「相手の主張もまともに研究せずに「そういうことはあり得ないんだ」みたいなことを主張する人々」
私は否定派です。

で、清田益章氏のことである。
生徒(編集者)「清田君とかはどうなんですか?」
石川「ああ、清田君は友達ですよ」
皆神「そうなんですか!(笑) 石川先生は清田君がスプーンを曲げるところを見たんですか?」
石川「見ましたけどねぇ。個人的体験を述べてもいけませんから」
ん? この微妙な発言はどういう意味でしょう。

清田益章氏をめぐるこんな会話もある。
石川「また研究フィールドに戻って来て下さいって研究者みんなでいっているんですけど……」
皆神「清田君はもう研究協力みたいなのは全然しないんですよ?」
石川「「脱・超能力者宣言」してました。(略)なんとか引き戻したいんですけどねぇ」
皆神「(小声で)もしかしたら、帰れない大人の事情があるのかもしれませんよ」
石川「(小声で)インチキだから?」
皆神「いやいや、そこまで僕はいわない」
れれれ、研究者は清田益章氏を「実験材料」にしたけど、実は「インチキ」だった、ということですか。

超心理学ではスプーン曲げをどのように考えているのか。
皆神「超心理学者の中でスプーン曲げをまともに認めている人なんて、ほとんどいないんじゃないですか?」
石川「スプーン曲げはそうですね。超心理学の実験では通常行われません」
石川幹人氏は「超心理学者の中でも、念力はないんじゃないかと考えている人も結構います」と語っている。
『職業欄はエスパー』とはずいぶん話が違っている。

ついでに書くと、『職業欄はエスパー』に綾小路鶴太郎という、奇術師もどうやってスプーンを曲げたのかわからない腕前の持ち主が人物が出てくるが、皆神龍太郎氏はこう言っている。
「スプーン曲げっていうのは、ユリ・ゲラーの頃は親指と人差し指で首をちょっと触るだけで落とすっていうのが暗黙の了解だったはずなの。ところが、今はスプーンの端と端を持ってしまってもいいことになっていて。それじゃもはや超能力じゃないだろうって(笑)。「長野曲げ」って呼ばれているんだけど、長野にいた綾小路鶴太郎っていうスナック店主のオジサンが最初にそういう技を始めてから、そうしてもいいことになちゃった」

清田益章氏の念写については、皆神龍太郎氏はこんな話を紹介している。
『デジャーヴュ』という雑誌で念写の特集が組まれたとき、荒俣宏氏が超能力があるかどうかを調べるのではなく、超能力による念写をアートとして扱いたいので、アート的な光をフィルムに映し込んでくれるように清田益章氏に依頼した。
皆神「でもね、そのときにさすがと思ったのは、荒俣宏は、持って行ったポラロイドカメラのフィルムの番号を事前にちゃんと控えておいたんだ。清田君は何度も失敗した後に、念写に成功するわけなんだけど、その成功したときのフィルム番号を見てみると、事前に用意したものじゃない。誰も気がつかないうちに、フィルムが入れ替わっていたというわけ。最後に清田君が「ちぇっ、俺も持ってきたフィルムじゃ、信用されないよね」とかつぶやいて、その記事は終わってましたね」
『職業欄はエスパー』を読んで感じた清田益章氏のイメージが壊れてしまった。

ちなみに石川幹人『超心理学』では、能力者に密着して取材し、能力が現れる現場を記録することにある程度成功したのが「職業欄はエスパー」(本ではなく、テレビ・ドキュメンタリーのほう)だと評価している。

「各人(秋山眞人、清田益章、堤裕司)の映像に現れる、超能力発揮に対する冷めた態度、あきらめにもとれる達観した姿勢から、彼らと社会を隔てる「見えない壁」の存在が感じとれる」
「ドキュメンタリー「職業欄はエスパー」は、能力者を自称する人々の孤独と苦悩を浮き彫りにすると同時に、彼らの特異な視点から社会を見ることで、逆に私たちは社会の特異性に気づかされる」

本当のところ、石川幹人氏は清田益章氏を能力者だと思っているのだろうか。

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『職業欄はエスパー』と『トンデモ超能力入門』2

2012年10月11日 | 問題のある考え

森達也『職業欄はエスパー』は三人の超能力者に取材している。
ダウジングの堤裕司氏は「自分は超能力者ではない」と言う。
堤裕治氏によると、ダウジングとは地下の水脈や鉱脈を樹の枝で見つけるというだけのものではなく、ダウジングは技術なんだそうだ。
「すべての物質が持つ波動や固有のエネルギーなどの情報を潜在意識が感知して、それが腕の筋肉に伝わり、振り子の動きに増幅されるという理論だ。
つまり、地面の下の水脈や鉱脈が発散する波動を、自身の精神と肉体を媒介にして表出するわけだ」

「〝万物には固有の波動があり、人間の潜在意識はその波動を感知している〟という法則を前提とするダウジングの基本理念は、確かに感覚的にはある程度の説得性はある。しかしダウジングで的中できることは水脈や鉱脈の所在だけではない。人の感情や未来のことまで、基本的には答えられない質問はないと堤は断言する」

森達也氏がタバコの箱を隠したら、堤裕司氏は振り子でタバコがどこにあるかを当てた。

「巷に言い伝えられる霊現象というのも、僕は場に残された一種の意識エネルギーの現象であると考えます」
森達也氏はこう書く。
「ある程度の説得性はある。そして視点を少しずらせばこれ以上ないほどにオカルトだ」
そして、幽霊の出るというスポットをテレビ取材している途中に、森達也氏は体調を突然崩す。

びっくりしたのが、TBSのプロデューサー本間修二氏の話。
本間修二氏は1990年代前半、普通の子供たちが練習によってスプーン曲げや透視などの超能力を獲得する経緯を記録した番組をプロデュースした人。
中国の超能力者を取材した時、超能力の授業がある長春の小学校に行く。
「小さな紙に字を書いて、それを丸めて子供たちに握らせるのだけど、ほとんどの子供たちが握り拳を開かずにその字を当ててしまうんです」
それで、日本から6人の子供を中国に連れていって、その授業に参加させた。
「で、結果は?」
本間「驚きました。中国に行く前にも日本で実験したのだけど、まあ当然というかまったく的中しなかった。それが長春の小学校で、中国の子供たちがどんどん当てている状況に放りこんだら、まるでスイッチが入ってしまったみたいな感じで、みんなどんどん当たりだしたんだよね」

小学校4年生の高橋つくしちゃんの能力は群を抜いていた。
本間「途中から秋山さんも子供たちの合宿に参加してもらって、いろいろ実験をやったんです。密閉した瓶の中に何かを実在化してみようみたいな実験をやっていたら、秋山さんが手にしていた瓶の中に木の葉が現れましてね。間近で見ていたからあれは衝撃でしたね。
そのときはね、それを見ていたつくしちゃんがやっぱり同じように瓶の中に葉っぱを実在化してね。それもしっかり撮れたしね」

ところが、番組では放送しなかった。
本間「……どう言えばいいのかなあ、怖くなったんですよね」
以前、視聴者からのクレームがものすごくあった。
本間「その瓶の中の葉っぱが現れるというものすごい映像をオンエアしたとき、いったい何が起きるのだろうと考えた……怖くなったという感覚かなあ。うまく表現できないのだけど」
超能力のあるなし論争はこれで決着するはずなのに、と思うのは甘いのだろうか。

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『職業欄はエスパー』と『トンデモ超能力入門』1

2012年10月08日 | 問題のある考え

私は超常現象否定派である。
認めたくないという気持ちが強いが、それは地動説を否定した異端審問官と似ているかもしれない。
自分の信じていた世界が根底から覆されることを恐れるといった気持ち。

スプーン曲げの清田益章、UFOなどの秋山眞人、ダウジングの堤裕治の三人の超能力者を被写体にしたドキュメンタリーを、森達也が1993年に企画し、1998年に番組が放送された。

そして、番組を基にした『職業欄はエスパー』が出版されたのは2001年。

『職業欄はエスパー』を読むと、この三人のエスパーや関係者が嘘をついているとは思えない。
ひょっとしたら本当なのかと、否定派の私は動揺してしまった。

超能力を「信じる」「信じない」という二者択一を迫られる。
しかし、ある・なし論争は不毛だ、と森達也氏は言う。
森達也氏は死刑問題やオウム真理教についても同じことを言っている。
だけど、読み進むにつれ、森達也氏が超能力者に心を寄せて肩入れしていることが明らかになり、超能力に懐疑的な人たちに批判的だということがわかる。

清田益章氏の両親は清田氏が子供のころ、カウンターに置いたスプーンがひとりでに曲がったり、隣の部屋の玩具が壁をすり抜けて来たり、清田氏がテレポーテーションらしきことをしたと語っている。
両親は嘘をついているようにも、また目立ちたいから言ってるとは思えない。

1976年、アメリカの火星無人探査機バイキング一号が火星に着陸して、火星の写真を地球に電送したのだが、その時に清田益章氏は火星に行ったという。
清田益章氏は地表探査機のカメラの前で手を振り、砂に「2B」という文字を書いた。
本人は「夢の可能性もあるからな」とは言うけれども。
森達也氏はこう書いている。
「率直に書く。僕にはお手上げだ。仮に嘘だとしたら、常に神経質なほどにリスクと他者の視線を自覚している清田が、こんな割の合わないフィクションを捏造するはずはない。ならば真実なのか? 僕にはわからない」
こういう書き方をされると、ひょっとしたら本当なのかという気がしてくる。

秋山眞人氏は、一円玉を何枚か額にのせて、4枚がひっついたまま落ちない超能力を見せる。
これはともかく、今まで宇宙人には400回ぐらい会っているそうだ。
秋山眞人「地球に今来ている宇宙人は三種類なんです。ひとつはグレイといいますけど、爬虫類が進化したタイプです。よくSF映画なんかにも出てくる、眼の大きな皮膚に光沢のあるあの感じですね」
「もうひとつはヒューマノイド・タイプ。今地球上ではいちばん数が多いし、僕に頻繁に接触してくるのもこのタイプです。(略)
僕が頻繁に会うヒューマノイド・タイプは、外見は地球人とまったく変わりません。骨格や筋肉を多少は変えられるようですね。名刺も持っているし家族もいるし保険証も持ってます」
もうひとつは巨人族。
「大きいんです。身長は四メーターから五メーターぐらい。これは地球で言えば犬が進化して二足歩行になったタイプです」
秋山眞人氏は静岡駅地下街の「草苑」という喫茶店で何人もの宇宙人と会った。
「彼らは僕自身が『会いたい』と望まなければ絶対会いに来ません。つまり、こちら側の怖れが助長されるというか大きくなることを非常にいやがるんですね」

こんな話を聞かされたら、たいていの人は一歩引いてしまうと思うが、森達也氏はどう思ったのか。
「草苑」という喫茶店は宇宙人の溜まり場になっていたという。
ところが1980年、静岡駅地下街でガス爆発事故があり、「草苑」も吹っ飛んでしまった。
「じゃあこれは、グレイの陰謀?」
秋山「わかりません。可能性はあると思うけど」
『職業欄はエスパー』には、静岡駅地下街ガス爆発事故のことを細かく紹介されており、陰謀説に説得力があるように思わせている。

秋山眞人氏は、宇宙人と会いたいと言う現代グループの会長と食事していたときに、宇宙人に念を送ると目の前に石が落ちてきた。
調べるとイエローダイヤだったという。
秋山眞人氏はいろんな会社のコンサルタントとして相談に乗っているそうだ。

でも、集合無意識の例として、百匹目の猿やグリセリンの結晶化を秋山眞人氏はあげているのはどうか。
「かつてはかなりの低温でも決して結晶化しなかったグリセリンが、欧米のある実験室で突然結晶化を始めたその瞬間、世界中でグリセリンの結晶化が始まったのです。有名な実話です。これは最早、モノにも集合無意識が存在しているとでも仮定しなければ説明できない現象です……」
しかし、百匹目の猿もグリセリンの結晶化もライアル・ワトソンが広めた与太話である。
ちょっと調べたら間違いだとすぐにわかることなのに、相手の言い分だけを紹介する森達也氏のやり方こそ問題があるのではないかと思う。

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アグネス・スメドレー『女一人大地を行く』

2012年10月05日 | 

高校、大学のころは角川文庫をせっせと読んでいた。
気になっていたけど読んでいない本を時々図書館で借りている。
アグネス・スメドレー『女一人大地を行く』もその一つ。
訳はなんと尾崎秀実
高杉一郎『大地の女』によると、ゾルゲに尾崎秀実を紹介したのはスメドレーで、尾崎秀実の処刑をスメドレーに伝えたのは石垣綾子なんだそうな。

スメドレーは1892年2月23日、貧しい農民の次女(5人兄弟)としてミズーリ州に生まれたジャーナリストである。
父は放浪癖がある飲んだくれで、母とはよく喧嘩をした。
10歳の時にコロラド州に移る。
9歳の頃から皿洗いや赤ん坊のお守りなど雑役労働をさせられ、中学校は卒業していない。
住んでいた家は埴生の宿である。

「埴生の宿」という歌があるが、埴生とは「土の上にむしろを敷いて寝るような粗末な小屋。また、赤土を塗ってつくった小屋」という意味だとは知らなかった。
ウィラ・キャザー『マイ・アントニーア』は同じころのネブラスカ州の農民を描いた小説。
アントニーア一家はチェコスロバキアからの移民で、洞窟を掘って、穴の前に家を継ぎ足した家に住んでいる。
その家には床はないので、やはり埴生の宿である。
王兵『無言歌』で、右派とされて砂漠の農場(といっても緑なんてない)で労働改造させられる人たちは壕の中で暮らすのだが、埴生の宿とはそんな家のことらしい。



スメドレーが19歳のころ、弟から手紙が来る。
弟二人は農場で働いていたのだが、こき使われ、ムチで打たれていると書かれてあった。
女工哀史みたいである。
明治末から大正初のアメリカ中西部がこんな状態だったとは知らなかった。

尾崎秀実はあとがきで「アグネス・スメドレー女史の顔」について書いている。
「私はその時つくづく女史の顔を見た。彼女の顔はなるほど綺麗とはずいぶん縁の遠いものだった。しかし私はその後幾度か会ううちに女史の顔を美しいと思うことすらあった。とても無邪気な笑い顔だった。その頃初めて女史のこの小説のドイツ版が到着した。その表紙に女史の顔が、あの複雑な表情が大写しで出ているのには驚いた。私の行くドイツ人の本屋のおかみさんは、その絵をひどく気にしてこれは実物よりひどい、こんな写真を出しては気の毒だと同情していた。
こちらへ帰ってから、日本訳の口絵に入れるつもりだから写真を呉れないかといってやったら、女史の返事には、「私はまったく醜い、そのことは昔から気になっているんです。だから写真はなるべく撮らないようにしています。ドイツ版でこりごりしました」ということであった」
『大地の女』にスメドレーの写真が何枚かあるが、そんなブスでもないと思うのだが。



尾崎秀実訳に「寄せぎれ蒲団」(パッチワークか)、「美爪術師」(マニキュア師か)という言葉があった。
こういう言葉を探すのも読書の楽しみの一つ。

コメント (4)
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最近見た映画の感想

2012年10月01日 | 映画

ジャンルカ・マリア・タバレッリ『ジョルダーニ家の人々』
あれれ、イタリアと日本とは違うと思ったことをいくつか。
高校生の三男が授業で、教師からコサインとは何か聞かれて答えられない。
成績は優秀なはずだが。
そして、ガールフレンドの家に泊まることを両親に話し、両親は喜ぶ。
何をするかはもちろんみんな知っている。
トランプなどではない。
三男はその帰りに、運転する車が川に落ちて死ぬ。
母はガス自殺を図り、入院したいと言うのだが、次男は「あんなところに」と反対する。
川に落ちて壊れた車を処分せず、自宅のガレージに置いている。
長男の恋人(男性)が重態なり、救急車を呼ぶのだが、救急隊員(女性)に支えられて歩いて救急車に乗る。
父の浮気を責める次男は、大学の指導教官の妻といい仲になって妊娠させ、指導教官に知られる。
イタリア男はほんとにもう。
6時間39分はさすがに疲れた。

フィリップ・ル・ゲ『屋根裏部屋のマリアたち』
ラストのシーンで、近所の人がマリアに「娘の調子、どう?」と声をかける。
ああ、結婚したのか、苦い終わり方だなと思った。
でも、男と会ったマリアの笑顔で映画は終わるわけで、あの笑顔は何か。
ネットで調べたら、マリアが出ていく前日に二人はセックスをするのだが、その時にできた子供だろうと書いているブログがあった。
映画には一発妊娠の法則があり、ここでも法則が適用されたのかと納得。
ハッピーエンドのほうがいいですからね。

熊切和嘉『莫逆家族 バクギャクファミーリア』
元暴走族のおじさんの話で、高倉健や『許されざる者』のクリント・イーストウッドのように、カタギになって真面目にしていたのに、という物語かと思ったら違っていた。
友達の娘が強姦され、昔の仲間が集まって犯人をボコボコにする。
そこまではいいのだが、回想シーンになってやたらと登場人物が増え、しかし人間関係がさっぱり理解できず、殴り合いになる理由が不明で、彼らが何をしたいのかわからぬまま。
早く終わらないかと思いながら見ていた。

フレッド・ジンネマン『ジュリア』
以前、テレビで見た時には、汽車でパリからベルリンへ行く場面ではハラハラした。
だけど再見すると、手助けする人が何人もいるし、さほど危険なようにも思えない。
自伝が原作なので、実体験かと思っていたが、どうやらフィクションらしい。
他のところも嘘くさく思えてきた。

タチアナ・ド・ロネ『サラの鍵』
原作を読んだ。
映画では秘密の部屋で死んでいる弟の姿を見せないが、小説ではこのように描写されている。
「わずかな戸の隙間から、納戸の奥がちらっと見えた。膝を抱いてまるくなった、小さな人間の塊。そして、あの愛おしい、愛おしい、小さな顔。それはすっかり黒ずんで、目鼻立ちもくずれていた」
「私」の義父はこう話す。
「本当に痛ましい光景だった。波打つ金髪がまだ残っていた。膝を抱いた手に顔をのせて、体を丸めたまま硬直していたんだ。肌はぞっとするような緑色に変色していた」
サラがあんな死を選ぶのも、義父が60年間忘れることができないのもわかる。
ラストは映画を見て知っていても、やはり泣けました。

山本直樹『僕らはみんな生きている』
漫画版を読む。
映画は1993年公開。
あとがきで原作の一色伸幸は「山本直樹さんは一般的には女の描くのが見事だと評価されている」と書いているが、たしかにセーナはかわいい。
セーナとタルキスタンで暮らしてもいいという気になる。
戦闘の絵は上手とは言えないけど。



『ビリーバーズ』も読んだ。
オウム真理教を思わせる団体の信者3人の孤島での生活。
1人はこういう展開になるのも当然というかわいい女性で、島での生活も苦にならないのではと思った。
3人は内部でしか通用しない、外部の者にとっては意味が不明な言葉で話し合う。
その言葉を理解できない人たちは汚染されているというエリート意識がそこにはある。
連合赤軍事件の手記にもそういう言葉が散見し、カルトの特徴を伝えているように思う。
しかし、既成教団はもちろん、趣味のサークルやボランティア団体でも自分たちだけが理解できる言葉を使いがちで、初めて来た人はとまどうことになる。
専門用語は使わないようにしていても、一般の人には届いていないことに気づかない。
『僕らはみんな生きている』と『ビリーバーズ』のラストは夢で終わる。
二作ともなので安易な終わり方だと感じた。

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