三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

ダニエル・L・エヴェレット『ビダハン』

2019年08月24日 | キリスト教

 1951年生まれのダニエル・L・エヴェレットは、17歳の時にキリスト教福音派の信仰に入り、18歳で結婚します。(妻の両親はアマゾンの伝道者)
聖書をピダハン語に翻訳するため、SIL(夏期言語協会)から派遣され(経費と給料はアメリカの福音派教会が払う)、1977年にアマゾン川で狩猟採集の生活をしているピダハン族の村に入ります。
ウィキペディアによると、国際SILは非営利のキリスト教信仰に基づく少数言語のための組織です。

妻と娘がマラリアにかかって死にそうになったりとか大変な目に遭ったにもかかわらず、30年以上もピダハン族の村に通います。
『ピダハン』(2008年刊)を読むと、ピダハン族の魅力が伝わります。

話す人が400人を割っているピダハン語は、世界の言語のなかでもかなり特異な言葉。
音素が11しかない。(日本語は23音素、英語は44音素らしい)
右左の概念がない。
数の概念がない。
色の名前がない。

エヴェレットは聖書の翻訳をしては、村人に聞いてもらっていた。
すると、「おまえはわたしたちにアメリカ人のように暮らしてもらいたがっている。だがピダハンはアメリカ人のように暮らしたくない。おれたちはひとりよりたくさん女が欲しい。イエスは欲しくない。しかしおれたちはおまえが好きだ。おまえはおれたちといていい。だがおれたちは、もうおまえからイエスの話を聞きたくない」と言われてショックを受ける。

当時の自分の気持ちとしては、彼らに無意味な生き方をやめ目的のある生き方を選ぶ機会を、死よりも命を選ぶ機会を、絶望と恐怖ではなく、喜びと信仰に満ちた人生を選ぶ機会を、地獄ではなく天国を選ぶ機会を、提供しにきたつもりだった。


ピダハン語がかなり上達したころ、自分がなぜイエスを信じ、救い主と考えるようになったかを話した。
話をする者のイエスを受容する前の人生がひどければひどいほど、神の救いの奇跡は大きく感じられ、イエスを信じていなかった聴衆が信じようとする動機も大きくなるということだ。
それでこんな話をする。

以前はわたしもピダハンのようにたくさんお酒を飲んだ。女に溺れ、幸せでなかった(略)。継母が自殺したこと、それがイエスの信仰へと自分を導き、飲酒やクスリをやめてイエスを受け入れたとき、人生が格段にいい方向へ向かったことを、いたって真面目に語って聞かせた。


それまでの経験だと、この話をすれば、聴衆はエヴェレット自身が味わってきた苦難の連続に感極まり、そこから救いだしてくれた神に心打たれて「ああ、神様はありがたい!」と嘆息する。
ところが、ピダハンたちは一斉に爆笑した。

「どうして笑うんだ?」
「自分を殺したのか? ハハハ。愚かだな。ピダハンは自分で自分を殺したりしない」


ピダハンは自分たちが実際に見るものしか信じないから、イエスを見たことがないエヴェレットの話も信じない。
そもそも、ピダハン族は直接的な体験しか話さないので、過去や未来がない。
神に相当する単語がないし、創造神話はない。
葬式など儀式がない。
ということは、宗教もないらしいです。

幼児も一人の人間として認めるから、赤ちゃん言葉がない。
「心配する」に対応する語彙がなく、「心配だ」と言うのを聞いたことがない。
抑うつや慢性疲労、極度の不安、パニック発作などの精神疾患が見られず、精神的に安定している。
貧しくても満たされているピダハンは貧しいという概念がない。

人の手など借りずとも、自分のことは自分で守れるし、守りたいピダハンは、救いを求める必要も感じていなかった。
人々が自分たちの生活に何か満たされていないものを感じていなければ、新たな信仰を受け入れるとは考えにくいし、まして神や救いを求めようとするはずもない。

キリスト教のメッセージは世界のどこでも通じると決め込んでいたエヴェレットの自信に根拠などなかった。
エヴェレットはピダハン族に福音を拒否され、自分の信念に疑念を抱くようになる。

ピダハンはわたしに、天国への期待や地獄への恐れをもたずに生と死と向き合い、微笑みながら大いなる淵源へと旅立つことの尊厳と、深い充足とを示してくれた。


ピダハンへの敬意が膨らんできたエヴェレットは、自分が大切にしてきた教義も信仰も、ピダハンからすればたんなる迷信であり、エヴェレット自身も迷信だと思えるようになった。

聖書やコーランのような聖典は、抽象的で、直感的には信じることのできない死後の生や処女懐胎、天使、奇跡などを信仰する。ところが、直接体験と実証に重きをおくピダハンの価値観に照らすと、どれもがかなりいかがわしい。彼らが信じるのは、幻想や奇跡ではなく、環境の産物である精霊、ごく正常な範囲のさまざまな行為をする生き物たちだ。ピダハンに罪の観念はないし、人類やまして自分たちを「矯正」しなければならないという必要性ももち合わせていない。おおよそ物事はあるがままに受け入れられる。死への恐怖もない。彼らが信じるのは自分自身だ。


1980年代の終わりごろ、聖書の言葉も奇跡も信じていないと認めるにいたったエヴェレットは、そのことを人に知られてもいいという心境になるまで20年が経った。
キリスト教の信仰は不要と考えたエヴェレットは宣教をやめたので、妻から離婚されます。

ピダハンは類を見ないほど幸せで充足した人々だ。わたしが知り合ったどんなキリスト教徒よりも、ほかのどんな宗教を標榜する人々よりも、幸福で、自分たちの環境に順応しきった人々であるとさえ、言ってしまいたい気がする。




ジョエル・エドガートン『ある少年の告白』は実話をもとにした映画。
自分は男性が好きだと気づいた主人公は、福音派の牧師である父親の勧めで同性愛を治す矯正セラピーへ参加して・・・という話。
今でも、同性愛は病気であり、治療すべきだと考える人が大勢いて、こんな施設までがあるのかと驚きます。
福音派の独善性(思い込み)は好きにはなれません。
ほとんどの宗教は地獄で脅すわけですが、ピダハンの生き方のほうが健全だと思います。

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ポール・シュレイダー『魂のゆくえ』

2019年08月18日 | 映画

ポール・シュレイダーの作品を最初に見たのは『ローリング・サンダー』。
ベトナムで8年間捕虜になっていた軍人が故郷のテキサスに帰る。
妻と息子を殺した強盗のアジトに、ベトナムでの部下と殴り込む。
『タクシードライバー』と同じく脚本だけです。
ポール・シュレイダーは東映ヤクザ映画のファンだそうで、真似をしていると小林信彦が批判的に書いていました。

 

次に見た『ハードコアの夜』は監督作品。
ミシガン州に住むオランダ系カルヴィン派の信者(ジョージ・C・スコット!)が失踪した一人娘の行方を捜すという話。
娘がポルノ映画に出ていることを知り、サンフランシスコでポルノ女優と一緒に娘を捜す。
これまた最後は殴り込みをかけて娘を取り戻します。

ハッピーエンドのようですが、父親は娘と家路につき、ほっとかれたポルノ女優は父親の後ろ姿を冷たい目で見るショットで終わります。
仲間以外の人間なんか知ったことではないという態度がはっきり表されたラストシーンでした。

ポール・シュレイダーもミシガン州の生まれで、カルヴィン派の家庭で育っています。
カルヴィンの教えでは、天国に行くか地獄に落ちるかは最初から決まってて、本人がいかに信仰しようが、いかに努力して善行を積もうが、救いとはまったく関係ありません。

『魂のゆくえ』の主人公トラー牧師は、妻が反対するのにもかかわらず、息子に自分や父と同じ従軍牧師になれと命じますが、息子は半年後にイラクで戦死。
アルコール依存症になり、妻とは離婚。
今はメガチャーチが経営する「観光客相手」の、ミサには10人ぐらいしか来ない教会の司祭をしています。

オランダ系移民が建てた教会で、ファースト・リフォームド教会という名前です。
ウィキペディアによると、改革派教会 (Reformed churches)は、ツヴィングリを指導者としてスイスのチューリヒに始まり、カルヴィンの神学と、それに基づく段階的な会議制を特徴とした教会組織で、「カルヴァン派」という通り名が用いられることがあるとあります。

メガチャーチや教会に多額の寄付をする金持ちが出てきます。
公害垂れ流し企業の社長をしており、人間の力より神の力がまさっているから、いろんな問題が生じても、最終的には神が人間のためになるようしてくれるといったことを話します。
聖書を自分の正当化に利用しているわけです。
メガチャーチの牧師はそれに対して何も言いません。

映画の最初に、環境問題に関わる夫を心配した妻がトラー牧師に相談します。
夫は公害企業の爆破を考えていたらしい。
環境テロです。
ベネディクト・エルリングソン『立ち上がる女』でも、環境を守るために一人でテロをする女が出てきます。
動機が正しければ何をしてもかまわないのか。

映画の最後でトラー牧師は何をしようとしたのかはっきりしません。
トラー牧師が影響を受けたというトマス・マートンはカトリックの神父で、黒人の人権運動、平和運動に関わった人。
たぶんここらがヒントかなと。

 

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渡邊博史『生ける屍の結末』

2019年08月05日 | 厳罰化

渡邊博史『生ける屍の結末』は「黒子のバスケ」脅迫事件の加害者の手記です。
1977年生まれで、逮捕時は36歳。
2012年11月から脅迫状を何度か出し、2013年12月に逮捕される。

最初のほうに「自分は最低限の生活費を稼ぐため以外に働くことはしませんでした。自分は生来救い難い愚鈍で、何をやっても人並みに務まりません。ですからどこで働いても必ず上司や同僚や後輩たちから見下され、いじめられました。自分にとって労働とはすなわち苦痛でした。働く時間を減らせるように、とにかく切り詰めた生活をしていました」と書かれてあります。

高校卒業→浪人→専門学校を卒業→引きこもり→再び専門学校→中退→アルバイトを転々
正社員になったことがない。
同性愛者で童貞、バスケのユニフォーム姿の男性に強い性的興奮を覚える。

小学校1年からいじめられ、両親や担任から暴力・暴言を受ける。
以来、自殺念慮が消えたことがない。
時折、幻聴が聞こえる。
事件の時は、風呂なしエアコンなしトイレ共同のアパート住まい。
自虐ぶりにびっくりします。

2012年9月に事件の準備を始める。
これだけのお金と手間暇をかける努力・熱意があれば、仕事に就いて普通の生活ができたのではないかと思いました。
手記はちゃんとした文章だし、細かく具体的に書かれている一方で、ふざけた筆致やオタクっぽいとこを織り交ぜています。
最初のイメージと違ってかなり頭がいいんだろう、いったいどういう人間なのか、本音はどこにあるのかとも感じました。

Q&Aで生い立ちを書いています。
小1から中学までいじめられる。
小1・2の担任は暴力教師で、些細なことですぐにビンタをする。
小5から通った塾でもいじめを受け、講師から殴られる。
両親の暴言、暴力、理不尽な対応。
アレルギー性鼻炎で鼻水が出て、それでいじめられるのに、父親は医者に行かせない。
マンガや将棋などの好きなことは禁止される。
親から「顔が汚い」「お前ほどのバカはいない」と言われる。
いつもビクビクしていた。
高1の終業式の日、両親を殺そうと計画をしたが、父親が急に倒れて死ぬ。
その後、被虐うつを発症し、21歳までつづく。
20歳過ぎで自殺未遂。
何をしてもダメなんだと思う。
でも、妹はまともに育っているそうです。

拘置所で差し入れてもらった児童虐待についての本を読んで納得した。
「虐待」という言葉は「乱用」を意味するabuseの訳語。
child abuseは「児童乱用」と訳されるべき言葉。
虐待の本質とは「両親が子供を利用して、自身の欲求を満たそうとすること」。
両親のしつけは「子供に非合理的で理不尽なガマンを強いることこそしつけの基本であり親の務め」というのが考え方の根本にあった。
このあたり、私自身が同じことをしてたなと恥ずかしく思いました。

最終意見陳述に、渡邊博史氏独自の言葉で説明しています。
「社会的存在」社会と接続でき、自分の存在を疑うことなく確信できる人間。
人間に自分の存在を常に確信させているのは他者とのつながりであり、乳幼児期に両親もしくは養育者に適切に世話をされれば、子供は安心を持つことができる。
「感情を共有しているから規範を共有でき、規範に従った対価として『安心』を得る」というサイクルの積み重ねがしつけ。
このしつけを経て、子供の心の中に「社会的存在」となる基礎ができる。
両親から与えられてきた感情と規範を「果たして正しかったのか?」と自問自答し、心理的再検討を行うのが思春期で、自己の定義づけや立ち位置に納得できた時にアイデンティティが確立され、「社会的存在」として完成する。

「生ける屍」このプロセスがうまくいかなかった人間。
感情や規範を両親から与えられず、人や社会とつながっていない。
・自分の感情や意思や希望を持てず、自分の人生に関心が持てない。
・対価のない義務感に追われ疲れ果てている。
・自立ができず、孤立している。
・心から喜んだり楽しんだりできない。
・自責の念や自罰感情を強く持つ。
両親からの虐待やいじめを受けた人間に多いタイプ。

「努力教信者」の枠内での強者が「勝ち組」で、弱者が「負け組」。

「埒外の民」自分の人生に興味が持てなかったり、自分には可能性が皆無と思い込んでしまう人間であり、努力することを思いつきすらしない。
大人になってからの精神の安定度を決めるのが「キズナマン」と「浮遊霊」。

「キズナマン」人や社会や地域とつながっている人間。
「社会的存在」であれば、自動的に「キズナマン」になれる。

「浮遊霊」人や社会や地域とつながっていない人間。
浮遊しているだけだから、基本的に無害な存在。

「生霊」浮遊霊が悪性化した存在。
渡邊博史氏自身は事件直前に「生霊」と化していた。

この世はすさまじい風が吹きすさぶ空間。
風をやり過ごす薬は、オタク化(趣味や嗜好品で現実逃避する)とネトウヨ化(不満や怒りを外敵に向けさせる)の2種類がある。
この2種類の薬は「生ける屍」にはあまり効かないが、「埒外の民」には効きやすい傾向がある。

以上は何かの本をヒントにしたのかもしれませんが、うまくまとめてあり、なるほどとうなずけます。
さらにこのように書いています。

「無敵の人」は基本的に肉体の死を望みこそすれ拒絶することはまずありません。死は地獄のような生からの解放だからです。ですから犯行時に懲役を恐れて死刑になるまでのことをやってしまう可能性があります。加藤被告(秋葉原無差別殺人事件の死刑囚)も著書の中でそのような意味のことを述べています。「無敵の人」にとって釈放とは刑務所からの開放ではなく社会への追放です。


冒頭意見陳述にも同じ趣旨のことが述べられています。

死にたいのですから、命も惜しくないし、死刑は大歓迎です。自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗感のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの「無敵の人」が増えこそすれ減りはしません。日本社会はこの「無敵の人」とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです。


「無敵の人」による事件は少なくないですが、厳罰化では解決しないと思いました。

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