三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

2017年キネマ旬報ベスト・テン

2018年02月18日 | 映画

「キネマ旬報ベスト・テン発表特別号」です。

日本映画
1位『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』314点
2位『花筐/HANAGATAMI』242点
3位『あゝ、荒野』237点
4位『幼な子われらに生まれ』195点
5位『散歩する侵略者』172点
6位『バンコクナイツ』164点
7位『彼女の人生は間違いじゃない』117点
8位『三度目の殺人』110点
9位『彼女がその名を知らない鳥たち』103点
10位『彼らが本気で編むときは、』100点
まあ、順当なところでしょうか。

11位『ビジランテ』95点

12位『エルネスト』81点
意外な高評価。
13位『家族はつらいよ2』70点
これまた意外。
14位『アウトレイジ 最終章』68点
15位『禅と骨』65点
16位『光(大森立嗣)』62点
17位『愚行録』60点
18位『夜は短し歩けよ乙女』59点
19位『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』56点
20位『勝手にふるえてろ』51点

その他

21位『美しい星』
24位『光(河瀬直美)』
河瀬直美はキネマ旬報ベストテンの評価はいつも低い。

外国映画
1位『わたしは、ダニエル・ブレイク』223点
2位『パターソン』209点
そんないい映画だったですかね。
3位『マンチェスター・バイ・ザ・シー』154点
4位『ダンケルク』143点
5位『立ち去った女』133点
6位『沈黙・サイレンス』127点
7位『希望のかなた』101点
キネマ旬報から愛されている。
8位『ドリーム』98点
9位『ムーンライト』91点
10位『ラ・ラ・ランド』89点
こちらもまずまず順当なところです。

11位『残像』86点
12位『エル ELLE』77点
12位『メッセージ』77点
14位『婚約者の友人』63点
14位『ノクターナル・アニマルズ』63点
16位『ローサは密告された』61点
17位『お嬢さん』60点
18位『ブレードランナー2049』59点
19位『ありがとう、トニ・エルドマン』54点
主人公の行動にはまったく共感できない。
19位『タレンタイム~優しい歌』54点

その他
21位『エンドレス・ポエトリー』
21位『女神の見えざる手』
23位『ベイビー・ドライバー』
37位『新感染ファイナル・エクスプレス』
38位『哭声/コクソン』
この2作より『お嬢さん』のほうが上位とは。
65位『セールスマン』
アカデミー外国映画賞なのに。
75位『ハクソー・リッジ』
4人しか選んでいない。がっかり。
89位『ワンダーウーマン』
こちらは2人だけで、11点。
『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』は誰も選んでない。ティム・バートンは賞味期限切れか。

驚いたのが、読者選出ベストテン。
2位『忍びの国』
キネノートでは71.6点。評論家は1人も選んでいない。
8位『ラストレシピ』
10位『帝一の國』
キネマ旬報の読者はこの手の作品が好みだとは。

SCREEN外国映画ベストテン
1位『ドリーム』120点
2位『ダンケルク』
2位『ラ・ラ・ランド』
4位『わたしは、ダニエル・ブレイク』
5位『マンチェスター・バイ・ザ・シー』
5位『メッセージ』
7位『ムーンライト』
8位『ノクターナル・アニマルズ』
9位『パターソン』
10位『ベイビー・ドライバー』68点
すべて英語の映画です。

11点『ブレードランナー2049』59点

12位『エル』
13位『新感染』
14位『沈黙』
15位『エンドレス・ポエトリー』
16位『レゴバットマン』
17位『女神の見えざる手』
18位『残像』
19位『希望のかなた』26点
19位『婚約者の友人』
19位『否定と肯定』
19位『ローさは密告された』
19位『ワンダーウーマン』

その他
27位『立ち去った女』
見ていないのでは?

ヨコハマ映画祭
1位『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』
2位『幼な子われらに生まれ』
3位『彼女がその名を知らない鳥たち』
4位『あゝ、荒野』
5位『彼女の人生は間違いじゃない』
6位『彼らが本気で編むときは、』
7位『愚行録』
8位『三度目の殺人』
9位『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』
10位『アウトレイジ 最終章』
次点『散歩する侵略者』

今年のベストテンは『スリー・ビルボード』と『シェイプ・オブ・ウォーター』が1位争いと予言します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中島岳志『親鸞と日本主義』

2018年02月12日 | 仏教

戦前の日本主義とは、天皇を中心とした国体を信奉する国粋的イデオロギーのこと。
中島岳志『親鸞と日本主義』は、大正から昭和初期の親鸞主義者が、親鸞の思想を国体の正当化する論理としたことが論じられています。

この時代、革命やテロ、軍事的陰謀などによって社会を根本的に改造し、理想社会を自らの手で構築することができるという確信を抱いていた日蓮主義者が多く存在した。
自らの力によって世界をよき方向に改造することができるという超国家主義者の発想は、親鸞思想の中からは出てくるはずがないように思われた。
しかし、三井甲之『親鸞研究』を読み、マルキストやリベラリスト、革新派右翼を徹底的に糾弾し、思想弾圧の先兵となった原理日本社の三井甲之が親鸞主義者であったことを知る。
親鸞思想の核心部分に極めて危険な要素が内在しており、親鸞思想が無原則な現実肯定の論理になるなら、絶対他力の論理は権力者の恣意的な全体主義に取り込まれる。

このように中島岳志氏は『親鸞と日本主義』で問題提起しています。

・三井甲之

三井甲之と『原理日本』の同人たちは、日本の存在そのものを礼拝の対象とし、天皇の絶対化を唱えた。

われらの帰命すべき総体意志はなんであるか、それは日本意志である。それが本願力である。此の本願力としての日本意志に帰命し帰依するといふのは「日本は滅びず」と確信することである。現日本の日本人にとつては反復すべき名号は「祖国日本」である。われらの宗教は祖国礼拝である。「日本は滅びず」と信ずるが故にわれらのはかなき現実生活も悠久生命につながらしめらるるのである。それが摂取不捨である。摂取して捨てざるが故に阿弥陀仏といふ。即ち摂取して捨てざるが故祖国といふ。

三井甲之らの行動の原理は、弥陀の本願という他力にすがることが考えの中心にある。
簡単に言ってしまえば、自力はけしからん、ということである。
ちっぽけな理性で世界を改造しようなどという考えは邪悪以外の何ものでもない。
三井における親鸞の教えは、世界そのものを絶対肯定し、人生や現実を無条件で肯定する哲学として受け止められていた。

しかし、どこかで弥陀の本願が天皇の大御心へとすりかわり、「阿弥陀仏の本願力」が「日本意志」や「天皇の大御心」と読み替えられていく。

天皇という超越者のもと、平等の存在として一般化された国民は、総力を結集することによって、唯一かつ無限の自然に溶け込んでいく。

祖国日本の精神に帰命するためには、明治天皇の和歌を「拝誦」すればいい。
そうすることによって明治天皇の大御心に包まれ、無限の自然の中に没入する。

自力を捨て、天皇のもと、大御心のもとに、今まさに何の不自由も隔てもない理想国家がそのままの形で存在している、

それを三井甲之が「中今」と名づけた。
そして、「中今」が、親鸞の「絶対他力」に基づく「自然法爾」だと言う。

ありのままの状態で国体があらわれていれば、それこそが幸せな状態なのだ。
ところが、現実の日本の社会は格差が広がり、苦しんでいる人々がいる。
天皇の大御心が存在する以上、世界はユートピアであるはずなのに、なぜそんなことが起きているか。
天皇の大御心が人々に届かないように邪魔をしている「君側の奸」が存在するからだ。

マルクス主義者や革新右翼の論理の中に「はからい」を見出し、それらを自力の思想として三井甲之たちは攻撃した。


・マルキストの転向と教誨師

多くのマルクス主義者は転向にあたって、共産主義者から仏教者へと転向し、親鸞の信仰に帰依することで、権力に従順な国民としての道を歩んだ。
本願寺教団の僧侶である教誨師たちは親鸞思想の方向へと教化を進めていった。

思想犯は真面目な人間で、社会の矛盾に目を背けず、世界を改善しようと活動するうちに、共産党へと吸い寄せられた純真な学徒であり、熱心な求道者である。

マルクス主義というのは行きすぎた自力の思想であるから、マルクス主義に代わる絶対真理の探究へと熱情を回路づける必要がある。
共産主義は社会悪ばかり重視するが、問題は人間悪の認識であり、そこから絶対的な真理への道が開かれる。
自力への過信と自らの愚かさを直視した時、目の前には自然法爾の世界が広がる。

親鸞の教えは自己の生活の立脚点となったのと同時に、体制批判を無効化する装置としての役割も果たした。


・亀井勝一郎

亀井勝一郎『親鸞』(1944年)は戦後、大幅な削除がされているそうで、がっかり。

「おのづから」とは、わが国においては皇神のひらき給うた道であつて、「神ながら」といふ。この道に微妙に包摂さるるかぎりにおいて、大乗ははじめてだいじょうでありえた。

『原理日本』と亀井勝一郎の論理構造は、阿弥陀仏を天皇と置き換えることによって、国家への絶対的な随順の論理を導き出し、神ながらユートピアの現前を思考し、そこに自然法爾の実現を夢想する。
さらに、戦争などの個別的な罪を、人間不変の罪悪へと回収してしまう。

倉田百三、吉川英治たちは省略。


・暁烏敏

真宗大谷派の暁烏敏は、阿弥陀仏の本願は天皇の大御心と同一視する。

私共は仏の顕現として天皇陛下を仰ぎまつるのであります。

自分の意見を持つことは自力の道であり、そのような計らいは捨てなければならない。
我々は自力や計らいを捨て、天皇の大御心にすべてを委ねなければならない。
天皇への随順こそが他力本願の教えである。
兵士となって天皇の「仰せ」に従って命を捧げることこそが「弥陀の本願」に適うことである。

純一な雑じ気のない率直な魂で、今の生活に大御心を仰ぎ、大御心に順うて、大御心の御用をつとめさしていただくのであります。その素直な心、そこには悩みはないのであります。

日本は阿弥陀仏の真実報土と一つ世界である。
日本人は浄土に生まれた選ばれた民である。

西方の極楽浄土は日本の国に輝いてをるといふことを教へられたのが、平生業成と云はるる親鸞聖人の教であります。

暁烏敏の夢想するそんな日本=世界は、『素晴らしい新世界』みたいなアンチユートピアを連想させます。

・親鸞を信奉する宗教者・文学者・思想家が日本主義へと傾斜したのはなぜか

多くの親鸞主義者たちが、阿弥陀仏の「本願」を天皇の「大御心」に読み替えることで国体論を受容した背景には、浄土教の構造が国学を介して国体論へと継承されたという思想構造の問題があった。

浄土宗の信者だった本居宣長の大和心という観念は、浄土教の思想と構造的に接続しやすい。

すべて神の御所為(みしわざ)であり、人間の賢しら計らいを排除し、ありのままの神に随順することを本居宣長は説いた。
政治体制の是非を論じることは私意を立てる「漢意(からごころ)」であり、どのような政体であろうと、神意のはからいであるかぎり、批判すべきではない。
宣長における「漢意」は、法然・親鸞における「自力」であり、「やまとこころ」は「他力」に随順する精神である。
「本願」こそ「神の御所為」だとされた論理を、阿満利麿氏はこのように説明しているそうです。

国体論は国学を土台にして確立されたため、国学を通じて法然・親鸞の浄土教の思想構造を継承している。

法然・親鸞の浄土教が国体論に影響を受けているのではない。
国体論が浄土教に影響を受けているのである。
そのため、親鸞の思想を探究し、その思想構造を身につけた人間は、国体論へと接続することが容易になる。
浄土教が生み出した国体論が、逆に浄土教を飲み込んでいく現象が起こった。

日本の全体主義は、親鸞思想の影響のもとに加速していったのです。


私は、国家神道での天皇の役割は本願寺の法主をモデルにしたということも、日本主義に飲み込まれた原因の一つではないかと思います。

葦津珍彦氏は、島地黙雷が国家神道を作ったと論じてますし。
それはともかく、『親鸞と日本主義』ははなはだ興味深い論考でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中島岳志、島薗進『愛国と信仰の構造』

2018年02月06日 | 仏教

中島岳志、島薗進『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』と中島岳志『親鸞と日本主義』を読みました。
どちらも刺激的でした。

『愛国と信仰の構造』は島薗進氏と中島岳志氏との日本の全体主義をめぐる対談。
全体主義の定義として想田和弘‏氏のものはどうでしょうか。

僕の定義は簡単です。ファシズムとは全体主義のこと。つまり個人の思想や違い、人権、多様性を犠牲にしてまでも、社会や国全体の利益や一体感を優先させる思想や態度。自民改憲案は完全にこの定義に当てはまるし、秘密保護法や共謀罪など自民党の基幹政策やトップダウンの政治手法も完全にこの傾向。


島薗進氏が最初にこのように指摘しています。
国民的な連帯が弱まっている現代では、「日本固有」の神道、あるいはそれと重なる国体的伝統というものに回帰していきたいという流れが急激に強くなる。
同時に、中国や韓国に対抗しなければならない、という民族主義的な考え方も強くなってきている。
ナショナリズムと宗教が結びつくのが日本の特徴で、靖国参拝問題や日本会議が分かりやすい形だ。

・ナショナリズムについて
ナショナリズムとは「国民主義」と「国家主義」という意味。
国民主権 下からのナショナリズム  「国家は、国民のもの」
国家主義 上からのナショナリズム  「国民は、国家のもの」

・国家神道

島薗「中国や韓国への対抗意識から、広範囲な層にわたってナショナリズムの高揚が見られます。そしてそのナショナリズムを政治的に活用しようという動きが露骨になってきている。そこに、国家神道的な思想が動員の道具とされているわけです」

島薗進氏によると、国家神道は、多分に儒教的である。
明治維新以前には、日本各地にさまざまな神社があり、それぞれ多彩な信仰を培ってきたが、日本中の神社を束ねる統一的な宗教組織は、幕末までは存在しなかった。
それが明治になると、皇室祭祀と連携しながら、伊勢神宮を頂点にした組織を作り上げていく。

明治維新でのスローガンが祭政一致。
政治の中心には祭祀をつかさどる天皇がおり、その祭祀を通じて下々にも天皇崇敬がゆきわたり国民が統合される。
天皇を国家の中心に置いて「上からの」統合をめざす、非常に儒教的な要素の強いものである。

国民の中に国家神道が根づいていったのは、1890年の教育勅語発布のころから。
教育勅語や軍人勅諭などを通して、民衆が自発的に国家神道の価値観を身につけ、日本人は強力な国家神道の規範秩序に組み入れられていった。

・一君万民

一君万民とは、超越的な天皇のもと、すべての国民は平等だという思想。
中島岳志氏によると、超越的な天皇にだけ真の主権を認めることによって、天皇以外の民の間には一切の身分差・階級差を作らない。
みんなの心がつながり合えば、天皇の大御心と溶け合って、ひとつになっていく。
水戸学の人々は、「一君万民ナショナリズム」は武士と農民を同じ「万民」と捉え、封建秩序を決定的に破壊するからと、警戒した。

・自由民権運動

自由民権運動は、身分制や専制的な政府のあり方を批判し、国民主権の原則が主張された。
しかし、自由民権運動に関わった人たちには天皇主義者が多く、「一君万民」に基づいたナショナリストたちだった。

中島「幕末期以来、「一君万民」に基づく国民主権ナショナリズムを求めて、体制批判の急先鋒の役割を担った「右翼の論理」は「体制の論理」と化し、現実政治への批判の契機を根源的に失ってしまいました」


・ユートピア主義

維新は「回復」「復興」という意味。
天皇と人民が神意に従って一体化しているような世界が理想であり、そういったユートピア的な世界は古代日本において成立していたと考える。
天皇の存在を前提とする社会への復帰をめざしたのが明治維新だった。

中島「古代への回帰を理想とする、国学が源流のユートピア主義的な傾向が、日本の右翼思想から消えてしまったわけではありません。(略)
そうした古代への回帰を理想とするユートピア主義的な右翼思想は、自由民権運動を経由した玄洋社のように、「国民主権」と「天皇の大権」の一致をめざすナショナリズムと合流していく。そして、昭和維新と言われる国家改造運動を生み出します」


左翼 人間が理性を使って正しく設計すれば、未来はよい方向に変革できる。つまり、未来にユートピアをつくることができると考える。

右翼 歴史を遡り、過去の社会にユートピアを描いてしまう傾向がある。過去のよき社会を復古させることさえできれば、世の中はユートピアになる。

玄洋社など国民主権的な伝統右翼は、立憲主義に基づいた民主制によって国体が確立され、国民の意思と天皇の意思が一致する社会が成立すると考えていた。
革新右翼は「上からの」設計によってよき社会をつくることができる、革命によって国家を改造することが可能だと思っていた。

日蓮主義(自力のユートピア主義) 革命やテロ、軍事的陰謀などによって社会を根本的に改造し、理想社会を自分たちの手で作っていくことができるという確信を強く抱いていた。


親鸞主義(他力のユートピア主義) 天皇の大御心と自分たちを一体化すれば、ユートピアは現前すると考え、計らいを徹底的に糾弾する。


保守 未来にも過去にもユートピアを求めない。人間の理性だけでは、未来に理想社会が実現できるとは考えない。絶対に人間は誤るから、少しだけでもよりよい社会にするためには漸進的な改革を進めていくしかない。


・日蓮主義

中島岳志氏は、天皇崇敬を掲げる超国家主義的な変革運動の指導者の多くが、日蓮主義の影響を受けていると指摘します。

中島「日蓮主義の教義には、そもそも国家救済のヴィジョンがある。そのために、国体論と融合し、日本が中心となって世界を統一するという「八紘一宇」の理念が日蓮主義の中から生まれました。と同時に、こうした日蓮主義の世界変革的な理念は、北一輝のような革新右翼が生まれる磁場にもなったわけですね」


法華経と国体との一体化を説く国柱会を作った田中智学の考えを、中島岳志氏は次のように説明します。

法華経や日蓮遺文に国体論的なものを読み込んで、末法の世に出現する上行菩薩を天皇だと言ってみたり、法華経の「転輪聖王」や「賢王」といった存在を天皇と同一視していく。
天皇は存在そのものが仏教的真理を具現しているから、「世界を統一すべき国体こそ日蓮仏教のめざす最高の理想である」と考える。

まずは在家信者によって新しいグループが作られ、そしてそれが本体の日蓮教団を大きく揺り動かしていく。
さらにそれによって国民が日蓮思想へと感化され、その延長上に天皇が日蓮主義へと改宗し、国立戒壇(国家によって仏門に入るための戒律を授ける壇)が建立され、日蓮主義国家が誕生する。
この発展段階の最終段階として、天皇を中心としたすべてがひとつのもとに成立するユートピア世界、つまり「八紘一宇」が現前する。

・親鸞主義

革命的な社会変革をめざす日蓮主義者に対して、親鸞主義者は「絶対他力」だから、「自力」「計らい」を否定する。理想に向けて自力で世の中を変革するという理念は出てこない。
次回は中島岳志『親鸞と日本主義』についてご紹介します。

・ネット右翼

ネット右翼の言葉には「レジスタンス」や「本音」という言葉が頻出する。
つまり、既得権に対する強烈な反発が彼らの中に強くあり、特権を享受している人間へのレジスタンスだという感覚があると、中島岳志氏は指摘します。
たとえば在特会は、ある集団の人々が特権を握り、自分たちはそこから除外されている「市民」だという認識を持っている。
その苛立ちはマス・メディアに対しても向けられ、自分たちの主張が大手メディアからは排除されていると主張する。

・立憲主義の危機

天皇の神聖化と、天皇は憲法の規定に従って統治するという立憲主義の原則は、戦前の最終局面で解体された。
そして、現在は安倍政権が引き起こした立憲主義の危機にある。

島薗「新しい歴史教科書を作る会や近年のネット右翼などは、一見、宗教的とは見えない政治的ナショナリズムが前面に出ていますが、それらの下支えしているものは、天皇崇敬と国体論を核とする戦前の国家神道という枠組みではないかと私は考えています」
中島「つまり、近年見られる偏狭なナショナリズムは、一見、宗教とは無関係に見えるけれども、実はその背後には国家神道の姿が見え隠れしているということですね。そして、その影響が安倍内閣にも押し寄せている」


日本は戦前のようになるんじゃないかと心配になります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする