三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

袴田事件と鳩山法相

2007年09月26日 | 死刑

冤罪だと言われている死刑事件はいくつもあるが、袴田事件もその一つ。

1966年6月、家族4人が殺された事件で袴田巌氏が逮捕された。
袴田巌氏は取り調べで自白しているが、後に否認。
物的証拠はなく、自白調書のみ。
その自白調書にしても、45通のうち、44通は任意ではなく強制されたとして証拠採用されなかった。

たった1通の自白調書によって、一審で死刑が下されたのである。
そして、1980年に死刑確定。

ところが、事件から40年経って、一審の裁判官だった熊本典道氏が「あの判決は間違いだった。袴田巌氏は無罪だ」と告白している。

熊本典道氏は講演で次のように語っている。

自白のほとんどを証拠として使えなくなると、当時出てた証拠では、彼と四人殺害と放火、これを結びつけるものはほとんどなかった。あとはもう審理しなくても無罪にできるなと思った。


熊本典道氏は無罪の判決文を書き、それが法廷で読まれるはずだった。

私のその無罪の判決をもって合議をしようということになって三人で合議を始めたんです。

ところが、2対1で死刑になってしまった。
なぜか。

自白調書がたくさん出たことと、「メディアの圧力」だと熊本典道氏は言う。
45通も自白調書を作った捜査官に対して「よくやったな」という気持ちと、メディアの圧力に裁判官が影響されたということである。

新聞報道、「あの事件の犯人は袴田以外には考えられない」というような論調がものすごく多かった(略)。裁判官って人種は活字に非常に弱い。活字を大事にする。目の前にあるやつは、書いてあるものは全部読む。そうすると、みなさん考えてごらんなさい。朝昼晩、テレビ、ラジオで放送はする。来た新聞は全部まじめに読む。そうすると、それなりに有罪のイメージが、「ああ、袴田が犯人に違いない」ってイメージができ上がりますよ。


メディアが大騒ぎする事件と、あまり話題にならない事件とでは、裁判の結果に違いが出ることは今もある。
マスコミ報道によって判決が左右されるというのだから恐い話である。
一審判決は1968年、そのころでもメディアが裁判に影響を与え、裁判官ですら無罪と確信した事件が死刑になっている。
昭和40年代のメディアの圧力は、何か事件があると、テレビや週刊誌があることないこと垂れ流し、世論を煽り立てている現在の比ではあるまい。

裁判官はマスコミ報道に対する態度について、熊本典道氏はこう語る。

自分のみを律する厳しさを持っているか持っていないかが、裁判官か素人かどうかの違いだとしか僕は思っていない。

マスコミ受けを狙ったり、出世をまず考える裁判官が多いのではないかと心配になる。

鳩山法相がまたこんなことを言っている。

鳩山邦夫法相は9月25日の閣議後会見で、死刑執行に関して「法務大臣が絡まなくても自動的に(執行が)進むような方法を考えたらどうかと思うことがある」と述べ、死刑執行に必要な法相のサインがなくても自動的に執行が行われるようなシステムをつくるべきとする考えを明らかにした。問題提起としたうえの発言で、法務省に検討は命じていないという。
死刑執行については、刑事訴訟法475条で「法務大臣の命令による」と規定。さらに同法475条第2項は、執行は死刑判決の確定後6カ月以内に行わなければならないと定めているものの、実際は確定から執行まで数年かかるのが通例となっている。
鳩山法相は法律の規定と死刑執行の現状との乖離を指摘したうえで、「法務大臣に責任をおっかぶせるような形ではなく、半年以内に死刑執行されなければならないと自動的に進むような方法がないのかなと思う」と述べた。(2007年9月25日 産経新聞)


要は、法務大臣が死刑執行のサインをするのが嫌なだけだと思う。
何だかんだ言っても、人を殺すわけだから。

じゃ、誰が執行の責任を負うのか。
拘置所所長や現場の刑務官だって死刑執行に関わりたくないだろう。
まして、自分の責任でしたくないはず。
仕事だから仕方ないと、無理矢理納得させているのではないかと思う。
刑務官の気持ちを鳩山法相が考えているとは思えない。

それと、気になるのが、「半年以内に死刑執行されなければならないと自動的に進む」と鳩山法相は言ってること。
再審請求があった場合はどうするのか考えているのだろうか。
「自動的」というからには、再審請求があろうがなかろうが、とにかく執行するシステムにしたいということなのか。
あるいは、精神に異常をきたしている人も自動的に執行するのか。

おそらく鳩山法相は、袴田巌さんたち冤罪の死刑囚のことなどを考えておらず、ただ単に責任逃れしたいに違いない。
だったら、死刑の執行などしなければいいのに。

厳罰化で死刑判決がどんどん増え、死刑囚も増える一方である。
いちいち法務大臣がハンコを押すという手続きは面倒だから、さっさと処分するシステムにしたら楽だという効率優先の考えもあるだろう。

私としては、死刑執行には法務大臣、死刑判決を下した裁判官、求刑した検察官にボタンを押してもらい、そして遺体を棺桶に納めてほしい。

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鑑定医の証言の違いと手紙の謎

2007年09月21日 | 死刑
 山口県光市で99年、母子を殺害したとして殺人や強姦致死罪などに問われた当時18歳の元少年の差し戻し控訴審は20日、広島高裁(楢崎康英裁判長)で3日目の集中審理が始まった。検察側の依頼で遺体の法医鑑定をした川崎医療福祉大学の石津日出雄教授の証人尋問があり、石津教授は、元少年が右手の逆手で首を締めたとする弁護側主張について、「逆手だと力が入らず、簡単に払いのけられ、現実的にはあり得ない」と否定した。(略)
 石津教授は、弥生さんの殺害方法について「被害者は必死に抵抗するので押さえるための力が必要で、逆手では力が入らない」と指摘。夕夏ちゃんについては、弁護側が頭にあった皮下出血は打撲程度で、たたきつけるなどはしていないと主張している点について、「乳児の頭の骨は薄くかわら状になっているので弾力があり、衝撃を吸収して骨折は起こりにくい」と話した。(毎日新聞9月20日)

 

 山口県光市の母子殺害事件で、殺人などの罪に問われ、最高裁が1、2審の無期懲役判決を破棄した元会社員の男性被告に対する差し戻し控審の第10回公判が20日、広島高裁(楢崎康英裁判長)で開かれ、検察側が申請した法医鑑定人の証人尋問が行われた。
 尋問で鑑定人は、被告が被害者の本村弥生さんを死亡させた際、「右手を逆手にして、あごの下付近を押さえているうちに死亡した」と供述していることについて、「逆手では力が入らず簡単に払いのけられるため、現実的にはありえない」と否定する証言を行った。
 また、弁護側は「上告審判決が認定した殺害方法と遺体の首に残った跡は整合しない」と主張しているが、「順手で絞めた場合は親指と小指に力が入り、手のひらの側面が跡として残っても不思議でない」と、検察側の主張を裏付ける証言も行った。
 長女の夕夏ちゃんについては、「ひもで絞められた際にできる首の表皮剥奪がない」とする弁護側の主張に対し、鑑定人は「首を絞めるのにはひもを引っ張る力の一部が作用するため、接触部分に剥奪がなくても不思議ではない」と疑問を示した。(産経新聞9月20日)


光市事件の裁判で一番の要となるのが、法医学者の遺体鑑定だと思う。
昨日の検察側鑑定人の証人尋問は5時間もかかったというのだから、かなり突っ込んだやりとりがなされただろう。
ところが、弁護側、検察側両方の鑑定人の証言については、なぜかニュースであまり取り上げられない。

弁護側、検察側の鑑定結果はまったく異なっている。
素人の感想だが、石津証人の話は説得力がないように思う。
片手では簡単に払いのけられるから、両手で首を絞めたと説明している。

しかし、被告は次のように供述している。

僕は今度は、僕の左手の親指と人さし指を開いてMさんの喉仏の辺りに置き、その左手の上に僕の右手の親指と人さし指を開いた状態で右手のひらを重ね、全体重をかけて思い切りMさんの首を絞めました。僕はMさんを殺すために、全体重をかけて、かなり長い時間Mさんの首を思い切り絞めました。(略)Mさんの首を絞めて殺した直後、僕の手がまるで接着剤でMさんの首にくっ ついて離れず、僕の指も、Mさんの手を締めたままで固まってしまったことでした。(略)僕がUちゃんの首を絞めた時には、Uちゃんの首をいくら絞めようとしてもMさんの首を絞めたままの形で指が固まってしまい、Uちゃんの首をうまく絞められませんでした。

このように首を強く絞めつけたのなら、首の左右と喉仏のところに指の跡があるはずではないか。

また、幼児の頭の骨は弾力性があるから骨折は起きにくいということだが、被告は次のように供述している。

両手でUちゃんの脇の下を持って抱き上げ、そのままコタツの脇のカーペットの上にUちゃんを後頭部から仰向けに思い切り叩き付けました。

思い切り叩きつけたのに外傷がないのはなぜか。

Uちゃんの首に巻いた紐の先端を僕の左右の小指と薬指紐がはずれないように一回巻き付け、手を左右に力一杯引っ張って首を絞めた。

紐を力一杯絞めても痕跡が残らないものだろうか。

弁護団の一人である今枝仁弁護士はこう書いている。

(遺体の)解剖医は、現在東京大学の法医学教授にまで出世しているようですが、検察側がなぜこの人を証人とせず、ほかの証人を立ててきたのか、疑問を感じます。
弁護人は、「実際に遺体の解剖を担当した解剖医に聴くのが一番いいじゃないか。」と考えていますが。

https://seesaawiki.jp/w/keiben/d/%ba%a3%bb%de%ca%db%b8%ee%bb%ce%a4%ce%c5%ea%b9%c6%a1%ca%a4%de%a4%c8%a4%e1%a1%cb
もっともな疑問である。
マスコミは鑑定をどうして検証しないのか不思議である。

光市事件の被告が拘置所から「友人」に出したという手紙にしても、マスコミは相変わらず被告が反省していない証拠だとする。
しかし、手紙を証拠として取り上げた二審の判決文にはこうある。

被告人の上記手紙の内容には、相手から来た手紙のふざけた内容に触発されて、殊更に不謹慎な表現がとられている面もみられる。(略)
本件各犯行に対する被告人なりの悔悟の気持ちをつづる文面もあり


テレビ局は「ま、しゃーないですわ今更」ばかりでなく、「悔悟の気持ちをつづる文面」も紹介すべきだ。
それに、7年以上も前のことを持ち出して、今も反省していないと決めつけるのはどうかと思う。

この手紙だが、実はかなりアヤシイものである。
今枝仁弁護士は次のように書いている。

これは私は、手紙の相手が酷いと思います。仮に相手をA君とします。
A君は、検察に「こういう手紙をもらっている」として被告人の手紙を提出しながら、並行して、被告人に手紙を書き、その中で被告人を挑発し、誘惑してことさら不謹慎な手紙を書かせています。
『天国からのラブレター』を差入れ、「こんなん書いてるけど、どう思う?」と感想を求めたのもA君です。ほとんど「おとり捜査」です。
一方被告人は、自分の認識している事実とは異なる事実に反省を求められ、親からも見捨てられ、親しく話や手紙ができるのはA君でした。A君とは拘置所の部屋が隣りだっただけの関係なのに、A君を「親友」と呼びます。
A君には分かってもらいたい、A君に離れていってほしくない、そういう寂しい状態の被告人が、A君が手紙の中でふざけた手紙や本村さんへの非難に迎合して、書いたものに過ぎません。少年記録にも、「その場ごとの期待に合わせて振る舞う順応性を見せる」「周囲の顔色をうかがいながら行動することが習性になっている」等と評価されています。

http://t-m-lawyer.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_6056.html

今枝仁弁護士はこういうことも書いている。

その「友人」は、検察庁に被告人からの手紙を提出しながら、並行して、被告人にふざけた手紙を出して煽り、また返事を検察庁に出すということを9ヶ月間続けていました。
また「天国からのラブレター」を被告人に差し入れたのもその「友人」で、そ
れを揶揄して被告人に本村さんの悪口を書かせています。検察庁に提出を始め
た後で。

これには驚いた。
https://5ch-ranking.com/cache/view/newsplus/1190182460/1-100

『天国からのラブレター』に感動した「友人」が手紙をまとめて検察に提出し、それで文通をやめたかと思っていたら、そうではない。
検察に手紙を提出した後も、被告と文通し、その手紙も検察に渡していたのである。
となると、検察が「友人」に何か指示をしたのではと邪推したくなる。

そもそも「友人」はどうして手紙を出そうと思ったのか。
被告がその拘置所にいること、そして被告の名前をどうして知っていたのか。
また、拘置所にいながら拘置所にいる被告に手紙を出すことができるとなぜ知っていたのか。
テレビ局は「友人」にインタビューしてもらいたいと思う。

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L・フェスティンガー他『予言がはずれるとき』(2)

2007年09月14日 | 問題のある考え
ぜひね、全国の人ね、あの弁護団に対してもし許せないって思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求かけてもらいたいんですよ。


橋下徹弁護士が「たかじんのそこまで言って委員会」で、光市母子殺害事件の弁護団への懲戒処分を弁護士会に申し立てるよう呼び掛けたことに対して、弁護士数人が損害賠償を求めて提訴するそうだ。(橋下徹は懲戒処分された)
橋下徹の言っていることはあまりにもひどい。(他の出演者も似たり寄ったりだが)

懲戒請求を1万,2万とか10万人とか、この番組見てる人が、一斉に弁護士会に行って懲戒請求かけてくださったらですね、弁護士会のほうとしても処分出さないわけにはいかないですよ。

橋下徹によるこの予言が当たるかどうか、今のところまだわからない。(懲戒処分はなされなかった)

ところが、橋下弁護士は自分のブログでこのように書いている。

今回の弁護団の主張が荒唐無稽であること、あまりにもふざけた内容であること、この点については批判はしません。

弁護団の主張を批判しないなんて、テレビでの発言と違うではないか。

では、弁護団はなにゆえ懲戒事由にあたると主張するのか。

一言で言えば、説明義務違反、被害者に対して、国民に対してのね。
一審・二審で全く主張していなかった、新たな主張をなぜ差し戻し審で主張することになったのか。
第一に被害者への、そして第二に裁判制度という制度の享受者である国民への説明を怠っている。


しかしながら、橋下弁護士を提訴した弁護士の広報担当をしている弁護士は、橋下徹の主張を否定する。

『懲戒請求』は刑事事件で言えば、告訴・告発に当たるものです。だから、数の問題ではないし、しかも報道を根拠にして、署名活動のように懲戒請求することを扇動することは理解に苦しみます。

https://news.livedoor.com/article/detail/3293850/
多くの人は懲戒請求とは署名運動のようなものと理解しているらしいが、それは間違い。

おまけに橋下弁護士はこんな言い訳を言っている。

自身は懲戒処分請求していないことを問われると「時間と労力がかかる。弁護士である僕というより大多数の国民がどう思うかが非常に重要」と述べた。

あまりにもいい加減ではないか。

橋下弁護士は懲戒請求には「時間と労力がかかる」と説明したのだろうか。
ところが、ネットでは橋下弁護士を擁護する声をよく耳にする。
たとえば「たかじんのそこまでいって委員会大会議室」の「橋下弁護士が光市母子殺害事件弁護士から提訴」というスレッドに、こうしたコメントがある。

「99パーセントの弁護士が橋下さんに反対とのこと、だからこそ私たちが橋下さんを応援したいですね」
「橋下さんに反対する弁護士さんは懲戒請求は簡単にしてはならないと、脅しているようにも取れるご意見を述べられてます」
「弁護士さんを相手に一般のものが言うのなんですが…「非常識」なのでしょうか?非常識です」
「国民は黙っていろという事になってしまいます」
「弁護士とは普通の人間ではできない職業だと思いました」
「日本の法曹界にはほとほとあきれ返ります」。


橋下弁護士が自分では懲戒請求を出していないことに対しての弁護。

「橋下弁護士本人が懲戒請求を出していない件について、批判があるようです。
橋下弁護士本人が懲戒請求を出していたら、それこそ『煽動した』といわれても仕方がなくなるのではないでしょうか?」
「橋下弁護士が実際には懲戒請求を出していないからこそ、自主的なものとできるのであって、もし橋下弁護士が自分が懲戒請求を出した後にそれを強化すべく派手に宣伝したとすれば余計非難を浴びたのではないでしょうか」

橋下弁護士自身は「時間と労力がかかる」から懲戒請求をしなかったと言っているにもかかわらず、である。
なぜ怒らないのか不思議である。

「脅している」「黙っていろということか」と感情むき出しで反発して、「非常識」「一般人の感覚と違う」と非難し、聞き入れない。
インチキ宗教の教祖をあくまでも信じようとする信者のようではないか。

橋下弁護士の主張はおかしいと、江川紹子はこのように論じている。

現弁護団が弁護人として活動を始めたのは最高裁の段階からで、彼らが「主張を変えた」わけではない。会見を見ればわかるように、弁護団は1、2審の弁護人について「被告人から十分に事実を聞き出していない」として、批判をしている。
 刑事事件では、弁護人が代わって新たな視点で証拠を見直した結果、主張が変わったり、まったく違う弁護方針をとる、ということは決して珍しくない。以前の弁護人とは違う主張をしてはならない、というのでは、裁判を三審制にしている意味も半減してしまう。

http://www.egawashoko.com/c006/000235.html

「弁護団は差し戻し審で新しい主張を始めた」わけではないと、弁護団は記者会見で説明しているし、今枝仁弁護士はあるブログのコメント欄に書いている。
http://t-m-lawyer.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_8ff1.html

しかし、弁護団を許せないと思い込んでいる人たちにとって、橋下弁護士の予言が誤りだと認めることは困難だろう。
「認知的不協和の理論」に従うならば、橋下信者は橋下弁護士の正しさを主張することで同じ信念を持つ人を増やそうとするだろう。

懲戒請求は3日の段階で3900件、それがさらに「7日昼までに10弁護士会、4022件に達した」そうだ。
懲戒請求をする人はまだ増えるだろうと私は予言します。

それはともかく、テレビに出ている弁護士は、弁護士としての仕事をする時間があるのかと気になる。
テレビに出演するとなると、打ち合わせなどを含めたら何時間も拘束されるだろう。
法律家としての発言を求められているのだから、判例などを調べる必要があるだろう。
レギュラー番組を持つとなると、かなりの時間を費やさなくてはならない。

橋下弁護士の8月のスケジュールを見ると、毎日のようにテレビ、ラジオに出演している。
本業をする時間があるのかと不思議になる。
弁護士という仕事はヒマとは思えないのだが。

(追記1)
続きを書きました。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E7%94%B1%E7%BE%8E

(追記2)
その後、橋下徹は大阪府知事、大阪市長になった。
政治家は辞めたが、今も影響力を持っている。

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L・フェスティンガー他『予言がはずれるとき』(1)

2007年09月11日 | 問題のある考え

この世の終わりが来るという終末思想は昔からある。
そもそも予言とは日時をはっきりと断言しない。
ノストラダムスもその一人。

ノストラダムスについて『トンデモ超常現象99の真相』にこう書かれている。

ノストラダムスは決して無能な人間ではなかった。彼は確かに天才であり、自分の予言がはずれないよう巧妙に計算し、工夫をこらしていた。(略)
第三のテクニックは、「期限を明確にしないこと」である。彼の予言には、その事件が起きる年をちゃんと記載したものはほとんどないのだ。「○○年に起きる」とはっきり書いてしまうと、その年が過ぎてしまったら、はずれたことが誰の目にも明らかになってしまう。逆にいえば、期限を指定しない予言はいつまでたってもはずれないわけで、はずれないかぎりは予言者としての名声に傷がつくこともない。


「○年○月○日にこの世の終わりが来る」と、終末の日時を明言することもある。
予言者の言葉を信じる信者の中には、終末に備えて財産を処分したり、仕事を辞める、畑を耕さない人がいる。

言うまでもなく、終末の予言はすべてはずれた。
だったら信者は去っていくかというと、L・フェスティンガー他『予言がはずれるとき』(1956年出版)によれば、予言がはずれても信者はかえって熱狂し、活発に布教活動するようになる。

予言がはずれた後、かえって布教活動が活発になり、結果として信者が増大して大きな教団となっていくという現象は、これまでの宗教史上でも数多く観察されてきたのであり、キリスト教でさえもその事例に数えられる、と著者たちは考えている。

イエスをメシアだと信じた人たちが、イエスの処刑後に布教活動に出かけたことも同じかもしれない。

『予言がはずれるとき』は「明確になされた予言が実際にはずれた後、このグループの布教活動が全体的に以前より活発化するという、理論的に予測された逆説的な現象を実証しようという研究の報告」である。

キーチ夫人という女性が12月21日に大洪水が起きてアメリカの大部分が水没するという予言をする。
この予言を取り上げた新聞記事を読んだL・フェスティンガーたちは、先の理論が実際に当てはまるかどうか、予言がはずれた時の信者たちの心理状況はどうかといったことを観察するために、キーチ夫人のグループに接触する。

キーチ夫人(というか宇宙人)の教えはニューエイジそのもので、目新しくはない。
キーチ夫人はある日、自動書記をするようになる。
最初は死んだ父の霊だったのだが、次第に高次の霊(宇宙人)が現れてくる。
そして、大洪水が起き、少数の人が空飛ぶ円盤によって他の惑星(高次の世界)に連れて行かれると予言するのである。

自動書記は珍しいことではなく、天理教の中山みき、大本の出口なお、幸福の科学の大川隆法といった人も自動書記をしている。

洪水の前に空飛ぶ円盤がやってくると信じ、寒さにふるえながら空飛ぶ円盤を待っていたが、キーチ夫人の予言ははずれ、洪水は起きないし、宇宙人はやって来ない。
それにもくじけず、その後、彼らは活発に活動し始めるのである。

そして、キーチ夫人の教団は『予言がはずれるとき』が出版されてから30年以上たっても活動を続けており、数千名の会員がいるという。
ということで、L・フェスティンガーたちの理論が証明されたわけである。

エホバの証人は1843年、1874年、1878年、1881年、1910年、1914年、1918年、1920年、1925年、そして1975年と、何度も終末の予言をしては、見事にはずれている。
にもかかわらず、いまだに活発な活動をしているのだから大したものだ。

セブンズデー・アドヴェンティストは1840年代に創設され、ウィリアム・ミラーが1843年3月21日に世界の終末がやってくると予言したことが、この宗派の結成のきっかけ。
終末が来ないので、ミラーは計算をやりなおし、1844年10月22日に修正した。

年代の計算ミス、信仰を試した、祈りが届いて危機が回避された、などという言いわけを信者は信じるわけだから不思議な話である。

L・フェスティンガーは「認知的不協和の理論」を提唱した著名な社会心理学者。
「認知的不協和の理論」とは、訳者の解説によると、二つの認知要素AとBが不協和な関係にある時、調和のとれた状態に近づけようとする動機づけが生み出される。

たとえば、「タバコを吸っている」(認知要素A)と「タバコが有害であることを知っている」(認知要素B)とは不協和を生じている。
タバコをやめれば不協和は解消される。

しかし、タバコをやめられない場合、Bを変える、つまり「タバコは有害ではない」というふうに認知を変えなければならない。
そこで、タバコ有害説を論じる情報を避けるなどする。
しかし、タバコ有害説は広く認められているから、Bを変えるのは難しい。
そうなると、不協和を低減する別の戦略を考え出さなければならない。

たとえば、タバコを吸おうと吸うまいと、人間は必ず死ぬものだと考える。
たとえば、喫煙はリラックスさせる効果があるといった、タバコの効用を付け加える。

キーチ夫人のグループの場合。
A 予言を含む教えを確信している
B 予言は完全にはずれ、否定しようがない

不協和な状態だが、信念に深くコミットしている人(仕事を辞める、家財を売り払うなど)ほど信念を捨てることが難しいから、どちらも変えるわけにはいかない。

では、どうするか。
予言がはずれても信念を信奉する人がいることが、信念にとって協和的要素になる。
だから、同じ信念を抱く人を増やし、協和的要素をより多く得るために布教活動が活発化することになる。
その結果として信者が増えれば、予言失敗の正当化を含めて、自分のまわりには現実を同じように見る人ばかりになり、信念が客観的現実に転じる。
こうして、予言がはずれたことによってでは、信念が揺らぐことがなくなる。

多くの人々によって非合理的信念が信じられ、客観的には誤った現実が受け入れられるのは、こういう心理が働くからである。

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正義と暴力

2007年09月08日 | 厳罰化
 電車マナーの悪い男子高校生(16)を殴ったとして現行犯逮捕された神奈川県警大和署の巡査長(33)(釈放)を擁護する意見が、県内外から県警に約1000件寄せられ、県警は6日、事件についての説明が足りなかったと異例の追加の記者会見を行った。
 県警は「寄せられた意見は、『高校生が言うことを聞かないから殴った』という誤解に基づいている」と困惑している。
 意見のほとんどは「殴ったのは悪いが逮捕する必要はない」「マナーの悪い若者を注意できなくなる」「厳しい処分をしないで」などと巡査長を擁護する内容。数件だけ「暴力は絶対にいけない」と非難する意見があった。
 再会見は、巡査長が逮捕された翌日の5日に続くもので、西村昇監察官室長が行った。西村室長は「高校生は駅員らに注意を受けて素直に従っていた。巡査長はいきなり高校生の髪の毛をつかんで殴った」と説明。高校生の母親からも「事実関係が間違って伝えられている」と苦情が寄せられているとした。
 県警によると、高校生は4日夜、横浜市旭区の相鉄線二俣川駅で、普通電車の中からホームに向けて拳銃型のライターを撃つまねをした。車掌らが注意し、高校生は「分かりました」と従い、ライターをカバンにしまった。隣の車両からその様子を見ていた巡査長は、高校生が友人と談笑しているのを「反省していない」と思い込み、次の駅で降りた高校生を呼び止め、髪の毛とカバンをいきなりつかみ、「カバンの中のものを出せ」と顔を殴った。この間、高校生は反論しないで黙っていた。
 県警は「巡査長の行為は警察官として許されない行為。注意したというより、因縁をつけて殴った状況で、巡査長の行動を正当化する見方に戸惑いを感じる」としている。(2007年9月6日23時33分  読売新聞)


この事件が最初、どのように報道されたか知らないが、巡査長を擁護する人の気持ちは私にもわかる。
近ごろの若い者は口で言って聞かせただけじゃわからん、言ってもわからない奴には身体でわからせるしかないという思いがあるからこそ、巡査長が暴力を振るう気持ちに共感したのだと思う。
暴力による教育だから、戸塚ヨットスクールと同じ心性である。

我々の心にはこうした独善的正義感を振りかざした暴力衝動がある。
テレビで殺人事件のニュースを見ながら、あんな奴はさっさと死刑にしてしまえと思ってしまう私がいる。
心の底では暴力を正当化しているのである。

真城義麿先生がこういう話をされている。

自分の中にいろんな情報が入ってきます。例えば「嫌なことを言われた」というのが入ってきます。ストレスで出入り口が緊張して「ギュッ」と縛ってしまうと「嫌なことを言われた」が出て行けないわけです。
すると出口をなくしたその嫌なことが渦巻いて濃縮し、やがて毒となっていく。するとなんかの拍子で、口が開いたとたんに、非常に攻撃的で凶暴なものとして出てくるわけです。

毒を吐き出す人は特別な人間ではない。
誰もが、いつ毒を出すかわからない。

ハドン・クリングバーグ・ジュニア『人生があなたを待っている』にこんなことが書いてある。

立証に際してのバイアス(自分の信念を裏づけてくれる情報を探し、これに反する情報は無視する)と信念への固執(反証にあっても自分の信念にしがみつく―対立する視点を考慮すらしない者もいる)。

その通りだなと思う。
正しい人はこうしたバイアスに陥りやすい。

バイアスや固執を防ぐことはできないと思う。
だから、自分の考え、ものの見方にはバイアスと固執は必ずあるということを、頭のすみっこに置いておかないといけない。

『人生があなたを待っている』はV・E・フランクル(『夜と霧』の著者)の伝記。
フランクルは「ときとして厳しく、気短で、討論ではせっかちで辛辣な態度をとる。公開講演や私的な会話の場でも威圧感を感じさせることがあったし、自慢好きで自己満足にひたっているような印象を与えた」そうだ。
フランクルは人格円満な人だとばかり思っていたが、フランクルでさえこういうとこがあると知り、ホッとしたというか、がっかりというか。

(追記)
プロレスラーの木村花さんがSNSの誹謗中傷で亡くなり、新型コロナウイルスによる休業要請にもかかわらず開いている店に自粛警察が抗議する。
この人たちは正しいことに酔っていると思う。
正義による暴力の肯定は怖い。

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被害者感情と報道

2007年09月06日 | 厳罰化

2006年、福岡市で飲酒運転によって3人の子供が死んだという事件があった。
この事故をきっかけに道交法が2007年6月に改正され、ひき逃げの最高刑は懲役5年から10年に、飲酒運転(酒酔い)では3年から5年に引き上げられた。
飲酒運転をそそのかしたり、車両や酒類を提供する行為への罰則も新たに盛り込まれた。

ところが先月の新聞には、父親である大上哲央さんのこんな話が載っていた。

飲酒運転事故がなくならない現状に「私たちと同じ悲惨な事故が二度と起きないよう、注意してほしい」と訴える一方、厳罰化については「必ずしも事故の減少につながるとは思わない。厳罰化すればするほど事故現場から逃げる人が増えるのではないかと思う」との懸念も示した。


この記事だけでは厳罰化についての大上さんの気持ちはわからない。
しかし、厳罰化が事故防止のために効果あるかどうか、疑問を感じておられることはたしかだと思う。

第三者である我々が厳罰化を求めるのは、再発防止や加害者の更生などではなく、単なる応報感情、処罰感情にすぎないのではないか。

お父さんがお母さんの面前で射殺されたれたが、今は犯罪被害者家族の死刑廃止団体MVFR代表をされているレニー・クッシングさんが、「父が殺されたことについてとても怒っていました」が、友人から「犯人が早く死刑になればいいね」と言われてショックを受けたと講演で話された。

被害者感情がことさら強調され、被害者感情=厳罰化だとされているが、被害者の気持ちはそんな単純なものではないのだろう。
怒り、恨み、憎しみとともに、こういう事件が二度と起こらないでほしいという願いがあると思う。
再発を防ぐためにどうしたらいいのか、感情論だけでは答えは出ない。

この事件の裁判で、こんな記事があった。

福岡市で昨年8月、幼児3人が犠牲になった飲酒運転追突事故で、危険運転致死傷罪などに問われている元市職員今林大被告(23)の第6回公判が4日、福岡地裁=川口宰護裁判長=で開かれた。
 検察側は、3人の両親の大上哲央さん(34)、かおりさん(30)の供述調書を証拠として申請、採用された。調書の中で、かおりさんは「絶対に(同罪とひき逃げを併合した最高刑の懲役)25年の刑が下されることを確信しています。1年でも短ければ犯人を私が殺します」と訴えた。(2007年9月4日14時8分  読売新聞)。


お子さんを亡くされたお母さんの「殺します」という気持ちは当然のことだと思う。
しかし、これは一種の殺人予告である。
検察が裁判で朗読し、マスコミが報道していいものだろうか。

たぶん検察としては、被害者の心の傷は深いことを訴えようとしたんだと思う。
しかし、「裁判の結果次第では覚悟しとけよ」という脅しと受け取られるかもしれない。

復讐を認めるべきだという意見の人もいる。
たとえば、竹田恒泰は死刑について聞かれ、敵討ちを認めるべきだと答えた。
受けを狙っただけかもしれないが、実行に移す人間が出てきたらどうするつもりか。
殺人予告を平気で流すメディアは何を考えているのだろうかと思う。

コメント (39)
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