三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(13)

2024年04月01日 | 死刑
⑮ 死刑と裁判員裁判
裁判員裁判が行われるようになってから厳罰化しているそうです。
裁判員が被害者に同情し、応報感情や正義感情を持つからではないかと言われています。

しかし、被害者が処罰感情を持っているとしても、裁判員が被害者感情に同調して判決を決めるべきではありません。
自分の子供が殺されたらと考えることと、殺人事件の裁判員になることは違います。
裁判員にとってそれは難しいことだそうです。

宮下洋一『死刑のある国で生きる』で、精神鑑定医である村松太郎慶応大学医学部准教授が裁判員裁判について語っています。
精神障害の症状が影響した複雑な事件の判断を、裁判員に委ねるには無理があります。無理を通すために事件が単純化されている。法廷に出てくる前に、複雑な部分が削ぎ落とされてしまう。裁判員裁判が素人判断だからよくないのではなく、裁判員に提出されるデータが限られることが深刻な問題です。限られたデータによって事件が単純化された時点で、もはや真実は分からなくなっていると思います。
鑑定が増えている大きな理由のひとつとしては、裁判員には判断が難しい責任能力のことは、公判前に済ませたいという裁判所の狙いが見え隠れしています。
村松太郎さんは「裁判員裁判にはまったく反対」と明言し、「廃止すべきか、適用を見直すべき」と明言しています。

残酷な殺し方をするのは脳の機能のひとつ。
前頭葉が脳腫瘍、または、血管障害や外傷などで損傷を受けた人は、後天性サイコパスになり得る。
前頭側頭型認知症などの認知症の変性疾患もそのひとつとされ、倫理機能の低下をもたらすことがある。
そういった症状があって犯罪を犯した時、それが本人の責任だとどこまで言えるのか。突き詰めると、先天的にそういう脳を持って生まれた人の責任をどう考えるのかという話になりますが、追及していくと誰の責任でもなくなるのです。
自分は絶対にそんなことをしないと思っていても、脳の損傷などでそんなことをすることがあるかもしれないわけです。

重大事件を起こした人が精神疾患患者だったとしても、極刑が避けられないと思うことがあるかという質問に、このように答えています。
精神鑑定の作業を進めて被告人の病気がよく分かるようになるにつれ、病気がなければこの人は絶対こんなことはやらなかったはずで、それなのに死刑にしていいのか、と思うこともあります。しかしそうすると、次の瞬間に、病気じゃない人は死刑にしていのかという問いが出てきて、私はこれに応えられない状態です。

心神喪失(精神の障害によって自己の行為の善悪を判断できないか、判断したように行動する能力がない者)は無罪とされます。
あるいは、アルコールや薬物の依存症者が事件を起こし、事件のことを覚えていないと主張することがあります。
そうした場合、情状酌量すべきかどうか判断を裁判員はできないと思います。

⑯ 暴力と話しあい
世界各地で争いが絶えません。
スーダン内戦は1983年から。
ソマリア内戦は1988年から。
シリア内戦は2011年から。
イエメン内戦は2015年から。
ミャンマーのクーデターは2021年。
ロシアのウクライナ侵攻は2022年。
イスラエルのガザ攻撃は2023年。

毎田周一「暴力は言葉の放棄だ」という言葉があります。
紛争が起きたら、暴力(武力)ではなく言葉(外交)で問題解決を図るべきです。
しかし、現実は力の強い者の勝ちという状況です。

平野啓一郎『死刑について』にこうあります。
本来、人間の社会の中では、自分の意思を実現させたい時、相手と話し合いをしなければなりません。自分がこうしたいと思っても、そうしたくないと思う人もいる。その時には、相手の意見を聞いて、相手を説得したり、あるいは、自分が譲歩したりという様々なプロセスを経て、たとえ少しであっても、自分の意思が実現できる方向に動いていくわけです。民主主義的な社会の最も基本的な仕組みとも言えます。
ところが、暴力というのは、そうした複雑なプロセスを経ることのない、非常に単純な方法です。相手を力でねじ伏せて自分の言うことを通してしまう。非常に単純であるが故に、無理の大きい方法です。到底受け入れられないと感じている人を従わせるわけですから、これでは、正しいことも、通らなくなるし、そもそも何が正しいのかという議論も失われてしまいます。

犯罪を犯した人に対して、口で言ってもわからないなら、体に教え込むしかないというやり方は間違いです。
力で抑えつけることで犯罪が減り、犯罪者が更生するとは思えません。

入江杏さんはこのように言っています。
最後に私が到達したのは、殺人には殺人で、暴力には暴力で報いたなら、凶悪犯罪が引き起こした暴力の連鎖を断ちきることはできない、という想いだ。人間同士の許しあいは、犯罪の事実をうやむやにすることでも、正しい裁判を行わずに犯罪者を野放しにすることでもない。「ゆるし」とは一つの長い「あゆみ」だ。
https://www.crimeinfo.jp/wp-content/uploads/2018/09/07.pdf

人を殺さない、傷つけないという原則を守っていきたいです。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(12)

2024年03月27日 | 死刑
⑭ 死刑は誰のためにあるのか
「死刑囚表現展」のアンートに「死刑は誰のためにあるのか」と問題提起するものがありました。
被害者や遺族のためというより、復讐が善だと考える第三者のためにあるように思います。

宮下洋一さんの死刑についての考えが『死刑のある国で生きる』に書かれています。
欧米人が死刑を廃止できたのは、人権という理想が、「赦し」という宗教的価値観に支えられているからではないのか。日本人の大半は、凶悪殺人犯を「赦す」ための信仰心は、備えていないように思える。
加害者をゆるすキリスト教文化圏の欧米とは日本は文化が違うということでしょうか。

バド・ウェルチさんとジョニー・カーターさんが加害者をゆるし、死刑に反対するのはキリスト教の影響が大きいと思います。
だからといって、恨みや憎しみを忘れずに敵討ちをすることが日本の文化ではありません。
菊池寛『恩讐の彼方に』に感動するわけですから。

イスラム教国の多くは死刑制度があります。
しかし、マレーシア(イスラム教が64%、キリスト教が9%)では2018年以来、死刑を執行されていません。
しかも2023年には、マレーシアの下院は殺人やテロを含む11の犯罪に必ず死刑を適用してきた強制死刑制度を撤廃する法案を可決しました。
死刑の存廃は文化、宗教で決まるわけではありません。

また、加害者に怒りや憎しみを持つことと、死刑を望まないことは矛盾しません。
平野啓一郎『死刑について』にこうあります。
もし僕の家族が犯罪によって殺されるようなことがあったら、僕は犯人を一生ゆるさないかもしれない。でも、僕は死刑を求めません。これらは両立可能なのです。

犯罪被害者が死刑を求めないからといって、犯人をゆるしたと考えるのは短絡的。
逆に、犯人をゆるせないなら、死刑を求めて当然だと考えるのも同じ。
どちらも被害者に勝手な思い込みを押し付けている。
怒りや恨みという感情と、死刑制度の是非は分けて考えるべきだと思います。

ところが、被害者が怒り、恨み、憎しみを持つのは当然だと考える人がいます。
平野啓一郎さんもこう語っています。
私たちは、被害者の感情を、ただ犯人への憎しみという一点だけに単純化して、憎しみを通じてだけ、被害者と連帯しようとしているのではないでしょうか?。

社会は、被害者は加害者を憎んで当然であり、憎まなければならないと思い込んでいる。
だから、被害者遺族が死刑を望んでいないと話すと、「身内が殺されたのに相手が憎くないのか」「愛する人が殺されたのに、死刑を望まないなんておかしい」「あなたは亡くなった人に対する思いが薄いんじゃないか」などと非難する人がいる。
そのため、ゆるすという形で苦しみを終わらせたいと思っている人が、苦しみを終わらせることができなくなってしまう。

犯人をゆるすなんて信じられないという人は、憎しみは理解できるから共感するが、ゆるしはわからないと突き放すのか。
偽善であり、本心じゃないはずだと批判するのか。

死刑に反対する被害者遺族の原田正治さんは非難されたことがあるそうです。
「良い被害者」と「悪い被害者」とがあるんです。仏壇に手を合わせ、冥福を祈り、黙って悲しみに耐えていく犯罪被害者が「良い被害者」なんです。「悪い被害者」というのは、表に出て、声を出し、国に文句を言い、自分の主張していく人です。さしずめ僕なんか悪い被害者なんでしょうね。僕みたいに声を出す被害者は異常なんです。直接面と向かって言われたこともありました。

平野啓一郎さんはこう問います。
もし、皆さんが殺されて、あの世から残された家族を見守っているとします。その時、家族の周りにただ、犯人への憎しみにだけ共感する人たちが集まり寄っている様が見えたとして、それは本当に喜ばしいことでしょうか?

「被害者の気持ちを考えたことがあるのか」と言う人は、「憎しみ」の部分にしか興味がなく、それ以外の部分で被害者の悲しみをどう癒やすかにはコミットしようとしない。

社会が被害者の抱えている憎しみ以外の複雑で繊細な思いを無視して被害者とかかわろうとするのなら、被害者と社会との接点は憎しみの一点だけになってしまう。
被害者は憎しみだけに拘束されるとしたら、それはあまりに残酷なことではないか。
手助けをしてくれる人たちが気づかってくれるなら、それは憎しみの連帯よりも望ましい。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(11)

2024年03月23日 | 死刑
⑬ 遺族の恨み、怒り、憎しみ

光市事件の遺族である本村洋さんはこう書いています。
犯人に対する怒り、憎しみを抱き続けて生きていくことを改めて心に誓ったのです。(「週刊新潮」1999年9月)

しかし、怒り、憎しみ、恨みを抱え続けることはしんどいものです。
怒ってもすっきりしないどころか、逆に後悔の念にかられることもあります。
それはわかっていても、怒りや恨みを手放すことが困難だからこそ、恨みや怒りを手放すための支援が必要だと思います。

平野啓一郎さんも『死刑について』にそのことを語っています。
復讐心を抱いて、相手を憎み続けるというのは、際限もなく生のエネルギーを消耗させます。被害者を、その人生の喜びから遠ざけてしまうことになります。

連邦ビル爆破事件で娘を失ったバド・ウェルチさんはこのように語っています。
怒りや憎しみ、復讐の気持ちを持ったままでは、癒しのプロセスには入れません。癒しに入るためには、それを越えなければいけないのです。なぜそう言えるのか。私もその道を通ってきたからです。ですから、まだ数家族の人たちが怒りや憎しみ、復讐の気持ちにとらわれていることは、とても悲しいことです。(「死刑を止めよう」宗教者ネットワーク第10回死刑廃止セミナー講義録)

娘の死によって死刑賛成に気持ちが傾いたバド・ウェルチさんがが、再び死刑に反対するようになったのは、主犯のティモシー・マクヴェイが犯行に至った動機を考えたからだと、布施勇如「米国の犯罪被害者支援―新聞記者の視点から」にあります。
湾岸戦争に出征したティモシー・マクヴェイは心に深い傷を受け、政府を恨んだことが連邦ビル爆破事件の大きな動機になっている。

バド・ウェルチさんは最終的にこういう考えに至ります。
マクヴェイを死刑に追いやることは、彼が娘のジュリーら168人を殺した理由と同じ、復讐と憎しみから死刑に追いやることになる。つまり、因果応報と怒りというのは、人を悪の行動に駆り立てるだけだ。

もう一つ大きな契機はティモシー・マクヴェイの父と妹に会ったことです。
テレビに映った父親の陰鬱な表情を見て、「彼も同じ犠牲者の一人なんだ。息子の犯行によって、心の傷を受けている」と感じた。
「マクヴェイのお父さんは毎朝起きると、自分の息子だけでなく、ジュリーと167人の犠牲者のことがまず頭に浮かぶに違いない。とすれば、一人の娘を失った自分以上の被害者じゃないか」と考えるに至った。

爆破事件の3年半後、バド・ウェルチさんはマクヴェイの父と妹を訪ね、3人で肩を寄せて泣きじゃくった。
そして、「僕ら3人は同じ気持ちだよ。君のお兄さんを死なせたくはない。そのためにできることは何でもするから」と言った。
バド・ウェルチさんは「この時ほど自分が神のそばに引き寄せられたと感じた瞬間はない」と思った。

1990年、ジョニー・カーターさんの孫娘キャサリン(7歳)は性的暴行を受けた後に刺殺されました。
犯人のフロイド・メドロック(19歳)を「この手であの男を絞め殺してやりたい」と思った。

ところが、その年の暮れから2ヵ月間、放射線治療のため入院生活を送る中で命について深く考え、そのうち変化が起き始めた。
そして、足が遠のいていた教会に再び通い、孫娘の命を奪った男への「ゆるし」ということについて、牧師と対話を重ねた。
あらためて気づいたのは、「物事には全て両面がある」ということ。

フロイド・メドロックは幼少時代、性的・精神的に家族らの虐待を受け、高校を中退し、友だちもほとんどいなかった。
家庭環境とか教育環境はフロイド・メドロックが自分の意思で選んだものじゃない。

ジョニーさんは「彼に対する怒りにさいなまれて生きていくよりは、彼をゆるして、多くの人が知らない彼の内面を理解しよう」と思うようになりました。死刑よりは仮出所なしの終身刑を望むようになり、地元の死刑反対グループに参加し、メドロックと文通を始めました。

入江杏さんは中谷加代子さんにゆるしについて質問しています。(「刑事司法と被害者遺族」)
『ゆるし』は加害者のためというより、『被害者』のためにある、と私は思うのです。もし私が、更生教育の一端を担えるなら、加害者の中の被害性に呼びかけるしか、できない気がします。

中谷加代子さんの返事。
被害者から加害者に対しての『赦し』は、こだわりを持っている被害者がそれを手放すことが出来れば、救われるのは『被害者』。また、同じことが加害者にも言えると思います。加害者が、事件を起こしてしまった自分を赦せるかどうか。これを赦すことができる最後の一人は、きっと加害者本人だと。被害者からの赦しは、加害者の力にはなるけれど、それが全てではないと思っています。
https://www.crimeinfo.jp/wp-content/uploads/2018/09/07.pdf

平野啓一郎さんは、憎しみにのみ共感を示すのではなく、それ以外の部分で被害者をサポートしていくことで、被害者の気持ちに寄り添っていくことが可能なのではないかと言います。
子どもたちが父親を殺された恨みを抱えながら、人生の大半の時間を費やして生きていく姿を見たとしたら、僕は彼らに「一度しかない人生だし、もっとほかのことに時間を使ったほうがいいよ」と声をかけてあげたいと思います。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(10)

2024年03月18日 | 死刑
⑪ 死刑執行と気持ちの区切り

死刑執行が遺族にとっての慰めや癒やし、あるいは気持ちの区切りになるでしょうか。

平野啓一郎『死刑について』は否定します。
社会は勝手に、遺族は死刑にならないことには収まりがつかないし、死刑になったらそれで一つ区切りがつくと考えて、犯人が死刑宣告を受けて死刑にされたら、途端に遺族のことはすっかり忘れてしまいます。しかし、実はその時にこそ、遺族は社会の中で最も孤独を感じているかもしれない。加害者を憎むということにおいてのみ被害者の側に立った人たちは、加害者に死刑が執行された途端に、被害者への興味を一切失ってしまいます。

加害者が死亡すれば、恨みや怒り、悲しみが消えるのかというと、そうは思えません。
大山友之さん(坂本都子さんの父親)は「殺してやりたいと自分の中で何度も言ってきた。死刑執行は当たり前と本当は言いたいけれど、良かったという思いはない」と語り、強盗殺人で妻を失った方は「死刑になったら、そこで相手の苦しみはなくなるし、我々も空虚になるだけですよね」と話しています。

布施勇如「米国の犯罪被害者支援―新聞記者の視点から」に、孫娘を殺されたジョニー・カーターさんへのインタビューが書かれています。
ジョニー・カーターさんにメドロックの死刑執行によって区切りがついたのかどうかと尋ねますと、「たしかに私はメドロックをゆるしはした。だけれども、事件や悲しみを決して忘れることはできない。死刑によって区切りがつくなんて、私には想像できない」と言っています。

名古屋の闇サイト殺人事件では、1人が死刑(すでに執行)、2人が無期懲役となり、無期の1人は他の事件で死刑になりました。
娘さんを殺された磯谷富美子さんはこのように語っています。
事件は忘れたくても、大切な娘を失った悲しみは、時間の経過に関係なく、薄れる事も無くなることもありません。深い悲しみに形を変えるだけです。一日たりとも、涙を流さぬ日はありません。だからといって、泣いてばかりでも、憎しみに満ちた生活を送っている訳でもありません。表向きは、ここにいらっしゃる皆様と同じように過ごしています。でも、二度と幸せを感じる事はありません。(入江杏「刑事司法と被害者遺族」)
この喪失感を死刑執行で埋めることはできないと思います。

⑫ 遺族へのケア

弟さんを殺された原田正治さんは被害者への支援を訴えています。
被害者は平穏な生活の中から、加害者やその家族と一緒にがけの下に突き落とされる。で、「助けてくれ」と、がけの上に向かって声をあげる。ところが、「死刑は当たり前なんだ。なくちゃいけない」と言う人たちは、誰一人として下にいる我々に手を差し伸べてくれない。手を差し伸べようとする感覚さえない。そして、加害者を死刑にして、これで終わったと思っている。我々はがけの下に放り出されたまま。

日本では被害者に対するケアが不十分だと、平野啓一郎さんは『死刑について』で批判しています。
被害者がほとんど社会からケアされていない状況では、「死刑制度は反対」とか「加害者にも人権がある」という声に、社会は非常に強く反発します。「被害に遭った人たちはあんなにかわいそうな目に遭っているのに、なんで加害者の人権が守られなきゃいけないんだ」と。僕はこの反応は、ある意味では一理あると思います。しかし、よく考えてください。被害者のケアを怠っているのは、国だけじゃありません。「準当事者」である僕たちですよ。僕たちは、ニュースで見た犯罪被害者のために、一体、何をしているのでしょうか?。
犯罪被害者は犯罪に巻き込まれたうえ、社会からも置き去りにされている現実がある。
傷ついた人たちを受け入れていくという意思を社会が明確に示し、生きていく上で困らない金銭的、精神的、現実的な支援をすべき。
ところが被害者の気持ちを考えろという世間は、被害者への支援制度改革の要望には無関心である。

金銭面についてですが、家計を支えていた家族が死亡すれば収入がなくなります。
被害者が損害賠償を求めても、加害者が支払った賠償金の割合は、傷害致死で16%、殺人で13.3%、強盗殺人で1.2%。
犯罪被害者給付金の額は320万円~2964万5000円で、年齢や被害者の収入額などから算定され、家族の生計を支えている場合はその人数に応じて加算されるそうです。

青木理さんの話だと、日本は予算が少なくて遺族給付金の平均額は約600万円だが、欧米では数百億円規模の予算を組んでいて、日本とは桁が違うとのことです。
死刑を声高に主張するより、生活面の心配を共有し手助けしてくれる人の存在が重要だと思います。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(9)

2024年03月13日 | 死刑
⑨ 被害者遺族の気持ち

被害者や遺族の思いは複雑で、時間の経過とともに気持ちが変わることがあれば、いつまで経っても変わらない部分もあり、一人ひとりが違うそうです。

絶対に死刑、すぐに処刑してほしい人。
死刑とは言い切れない人。
死刑に反対の人。
死刑を望まない理由もさまざまです。
罪に向き合ってほしいと考える人。
執行で区切りがついた人。
執行で区切りがつかない人。
執行されても許せない人。

家族の中でも考えが違います。
オウム真理教の死刑囚が死刑執行された時の、坂本堤弁護士の家族のコメントです。
坂本ちよさん(坂本堤さんの母親)
私も麻原は死刑になるべき人だとは思うけれど、他方では、たとえ死刑ということであっても、人の命を奪うことは嫌だなあという気持ちもあります。

大山友之さん(坂本都子さんの父親)
殺してやりたいと自分の中で何度も言ってきた。死刑執行は当たり前と本当は言いたいけれど、良かったという思いはない。

大山やいさん(坂本都子さんの母親)
私は死刑を喜ぶ人間ではない。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/574b14ef16537139c29feaf54c6519f0

妹一家4人が殺された入江杏さんは「亡夫もそうでしたが、息子も応報・厳罰派です」と書き、さらに「私は揺れています」とも記しています。
入江杏「刑事司法と被害者遺族」にこうあります。
世間の「被害者遺族はこうあるべき」という「べき論」には違和感を抱いてきた。被害者遺族の中に、憎しみが生きる糧になっている人がいてもいいし、加害者やその家族に寄り添うという考えの人がいてもいい、というのが私の立ち位置だ。刑罰・司法に関して、「厳罰か、修復か」、死刑に関して、「存続か、廃止か」、という二項対立ではなく、柔軟で豊かな論議を望む。
https://www.crimeinfo.jp/wp-content/uploads/2018/09/07.pdf

⑩ 死刑と終身刑

死刑に反対の遺族がおられます。
中谷加代子さんの娘さんは同級生に殺され、加害者は自殺しました。
死刑制度について、私は、「死刑は国家による合法的な殺人」だと考えています。罪を犯してしまった人に必要なのは、向き合い、反省、謝罪、更生、そして本来の自分を生きることであり、そのための時間です。「死刑」は、その贖罪の機会を奪ってしまうことになります。
死刑ではなく、加害者の更生を望んでいるのです。
https://www.crimeinfo.jp/wp-content/uploads/2018/09/07.pdf

終身刑を望む遺族もいます。
仮釈放中の強盗殺人事件のもう一人の被害者遺族への宮下洋一さんのインタビューです。
宮下「もし、遺族の心に平安が訪れないとなると、死刑は何のためにあるのでしょうか」
息子「僕の中では、何も解決しません。西口が死のうが生きようが、母親は帰ってこないわけですからね」
宮下「ならば、死刑でなくとも、仮釈放のない終身刑という考え方もあると思うのですが」
夫「それやったら、まだ分からなくないです。その代わり恩赦がなく、死ぬまで監獄生活。(略)悪い環境の中で一生暮らすなら、いいんやないですか。一瞬にして死刑を受けるよりも、きっと苦しくて、それが死ぬまで続くことを考えればですね」
宮下「酷い殺され方なら、遺族は、何が何でも犯人の死を求めていると思っていたのですが、それは……」
息子「その思いは変わらないですよ。要は犯人が、死ぬ死なんよりも、苦しみを受けろと。それが死刑(の執行)がいつ来るのか分からんという恐怖に慄くのか、一生普通の生活ができないか、どっちのほうが苦しいのかということです」
宮下「苦しむならどんな手段であれ、それを肯定したいということですか」
夫「そうですね。むしろそうですね」
宮下「死んでしまえば、もう相手を苦しませることはできないですよね」
夫「死刑になったら、そこで相手の苦しみはなくなるし、我々も空虚になるだけですよね。(略)死刑をなくすけれど終身刑に置き替える。それやったら考えられんことはないですね」(『死刑のある国で生きる』) 

テキサス大学元教授マリリン・ピーターソンと、ミネソタ大学教授マーク・ウンブライトは、極刑が遺族の感情にどう影響を及ぼすかの研究を行なった。
死刑があるテキサス州と、仮釈放のない終身刑を最高刑とするミネソタ州の遺族を比較している。
調査結果によると、ミネソタ州の遺族のほうが体力的、心理的、行動的に健康であることが分かった。
死刑がある州では、裁判が長引いたり、死刑判決が覆ったりするなどの影響もあり、遺族のストレスが継続する特徴があることを証明した。

日本とアメリカは事情が違いますが、死刑が遺族の負担になることもあるようです。

内閣府による死刑制度に対する世論調査(2019年)によると、仮釈放のない「終身刑」が新たに導入されるならば、死刑を廃止する方がよいと答えた者の割合が35.1%です。
https://survey.gov-online.go.jp/h26/h26-houseido/2-2.html
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(7)

2024年03月02日 | 死刑
⑦ 加害者の更生

被害者は加害者の更生への努力をどう考えるでしょうか。
加害者が更生するということも、被害者の側にとって本当によいことなのかは、単純には言えないことだと思います。
このように平野啓一郎さんは『死刑について』で語っていますが、加害者の更生を考える遺族もいます。

入江杏「刑事司法と被害者遺族」に、犯罪を犯した人に被害者の経験を伝える人権の翼のメンバーである小森美登里さんと中谷加代子さんの言葉が引用されています。
中谷さんは「(加害者も)幸せになっていい」、小森さんは加害者を「責める」ことなく、常に「寄り添う」、と言う。どうしてそんなことができるのか、なぜ、そんな道を選んだのか、と思う人も多いだろう。

小森美登里さんの長女は高校1年生の時にいじめを受けて自ら命を絶ちました。
死を選ぶ4日前の香澄さんの言葉は、「優しい心が一番大切だよ。その心を持っていない(いじめている)あの子たちの方がかわいそうなんだ。

中谷加代子さんは刑務所や少年院で話をしています。
入江杏さんは中谷加代子さんの話を聞いた感想を書いています。
私は、中谷さんが受刑者の人に語りかける言葉を聞く機会を得た。中谷さんの真摯な姿に感銘を受けた。「事件はなぜ起きたのか。環境や生い立ちがあなたを追い詰めたのかもしれません。」、「苦しかったですね。」、「皆、弱いんだから」。中谷さんが声をかけると、俯き、涙ぐむ受刑者もいた。更生を願わずにはいられなくなるのだ。

中谷加代子さん。
初めて美祢社会復帰促進センターに行ったときは、お話しすることで精一杯でした。現在ほど加害者寄りの感情を持っていたわけではありません。実際に行ってみると、目の前の受刑者は、『どこにでもいそうな』、『普通の人』でした。
矯正教育の末端に参加させてもらって、幸せに蓋をして、それでも生きなくてはならない人がいることを知って、やっぱり、この人たちにきちんと生きてほしいと思いました。(略)
目の前の受刑者に、生き直してほしい。幸せを感じてほしい。100%加害者、100%被害者はいない。人間ってみんな弱いものだし、加害者・被害者と今の立場は違うけど、いつ反対になるかわからない。違わないとこもいっぱいある、と思っています。

中谷加代子さんへの入江杏さんの質問
厳罰・応報、死刑存置へと向かう御遺族がおいでなのに、なぜ、かよちゃんが、『自己肯定感を持ち、自分の人生を主体的に生きることが、本物の反省・心からの謝罪に繋がっていく。』と思い至っていくのか?お聞かせください。

中谷加代子さんの返事
もし、私が加害者だったら、『どうしたら反省や謝罪に至れるか』。私なら、温かい言葉をかけてもらったとき、ゆるしてもらったとき、初めて、相手のことを考える余裕が生まれると思いました。反省する気があっても、強要されたり、責め続けられていたら、心は反省から遠のいて、ひいては自暴自棄になるかも。逆効果だと思う。
私なら、反省できるような状態においてほしいし、教育も受けたいです。『自分が加害者なら』と考えられたら、きっと理解してもらえると思うけど、相手を憎んでいるときは、『自分なら』と考えるのが難しいんでしょうね。

アンケートに「処刑されたら罪をつぐなえなくなる」という感想がありました。
償いについて中谷加代子さんはこう書いています。
奪ってしまった命を償うことは、自分の命を犠牲にしてもできません。償うことができるとしたら、それは、加害者がその後の人生をどう生きるのか、加害者の人生の中にこそ「償い」があると、私は思います。罪を償いたいと思う加害者には、残りの人生を無駄に生きるのではなく、充実して生きてほしいと思います。
https://www.crimeinfo.jp/wp-content/uploads/2018/09/07.pdf
加害者の更生は償いにつながるように思いました。

宮下洋一さんは欧米の人と日本人との違いを言います。
結局、日本人は、欧米人のそれとは異なる正義や道徳の中で暮らしていることになる。だからこそ、西側先進国の流れに合わせて、死刑を廃止することは、たとえ政治的に実現不可能ではなくとも、日本人にとっての正義を根底から揺るがすことになりかねない。
人を殺した人間を死刑にすることが日本人にとっての正義だということでしょうか。

過ちを犯した人間は死をもって償うべきだという価値観について、平野啓一郎さんは反論します。
この価値観においては、死なずに生き続けていることは無責任であり、罪を自覚していない、社会に対して本気で謝罪していないことと受け止められます。

死んでお詫びをするという言葉がありますが、中谷加代子さんの娘さんを殺した加害者は自殺しています。
自殺することがお詫びになるでしょうか。
遺族はそれで気が休まるのでしょうか。
死をもって償うのではなく、どう生きるかが償いにつながるという中谷加代子さんの考えはもっともだと思います。
反省は更生につながらないと意味がありません。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(5)

2024年02月07日 | 死刑
④犯罪抑止効果

平野啓一郎『死刑について』は死刑の犯罪抑止効果を否定しています。
犯罪の抑止効果に対する懐疑も強くあります。すでに多くの研究が、死刑制度には、終身刑などの刑罰に比して、犯罪抑止の特別な効果がないことを示しています。

「拡大自殺」と呼ばれているが、死刑制度がある国では、人生に絶望している人が通り魔的な殺人を犯し、「死刑になりたいからやった」と述べる事件が起きている。
抑止効果がないどころか、むしろ死刑制度があることが無差別犯罪を誘発する原因にさえなっている。
本人が死刑になることを願って事件を起こしている場合、死刑という刑罰は意味をなさない。

アムネスティ「死刑廃止 - 死刑に関するQ&A」に、死刑が犯罪の抑止効果があるかないかについて書かれています。
国連からの委託により、「死刑と殺人発生率の関係」に関する研究が、たびたび実施されています。最新の調査(2002年)では「死刑が終身刑よりも大きな抑止力を持つことを科学的に裏付ける研究はない。そのような裏付けが近々得られる可能性はない。抑止力仮説を積極的に支持する証拠は見つかっていない」との結論が出されています。(略)
フランスの統計でも、死刑廃止前後で、殺人発生率に大きな変化はみられません。韓国でも、1997年12月、一日に23人が処刑されましたが、この前後で殺人発生率に違いが無かった、という調査が報告されました。また、人口構成比などの点でよく似た社会といわれるアメリカとカナダを比べても、死刑制度を廃止していない米国よりも、1962年に死刑執行を停止し、1976年に死刑制度を廃止したカナダの方が殺人率は低いのです。つまり、死刑制度によって殺人事件の悲劇を封じ込めることは、できないのです。
https://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/qa.html

「死刑囚表現展」のアンケートに「近年、死刑になりたいから罪を犯した、という事件を見聞きするたび、死刑は犯罪の抑止力になっていないのだなあ、と感じます」と書いている人がいます。

間接自殺という言葉があります。
死刑望む「間接自殺」
1986年から昨年までの裁判報道で被告が「死刑になりたかった」と述べた成人事件は少なくとも33件ある。
86年から昨年までの裁判報道によれば、少なくとも8人の成人の被告が、残りの人生を刑務所で過ごしたかったと述べている。(毎日新聞2024年1月27日)
https://mainichi.jp/articles/20240127/ddm/001/040/127000c

厚生労働省の令和3年度自殺対策に関する意識調査
「本気で自殺したいと考えたことがある」と答えた者は27.2%。
「今までに「自殺したいと思ったことがある」と答えた者の中で、「最近1年以内に自殺したいと思ったことがある」と答えた者は34.9%。
https://www.mhlw.go.jp/content/12201000/000887631.pdf

つまり、約8%の人が1年以内に自殺したいと思ったことになります。
有権者数は約1億人ですから、8%は800万人です。
そのうちの何人かが「誰かを道連れにしよう」と考えても不思議ではありません。
実際、1999年に起きた下関通り魔殺人事件の加害者は自殺未遂を4回したそうです。

一審で死刑判決を受けた被告が控訴せずに確定することがしばしばあります。
これも一種の自殺でないかと思います。
死刑制度が犯罪の抑止になるとは思えません。

⑤メディアの影響

メディア報道について平野啓一郎さんは批判的です。
長く親しまれているドラマやアニメなどには、勧善懲悪の物語が多く、そのことが正義をめぐる考え方に長年、影響を与えてきました。

フィクションの中では、リンチによる殺人が肯定的に描かれることがある。
結局のところ、私たち一人ひとりの倫理の中に、殺人に対する例外的な許可の感覚を与えています。

高倉健の任侠映画がそうですが、悪者退治が一番の見せ場になります。
悪いことをした奴は殺されて当然というストーリーがあふれています。
悪い奴らは手段を選ばずに成敗され、被害者の恨みが晴らされたと、私たちはカタルシスを感じます。

勧善懲悪という場合、自分は善の側に立っていると思っているわけです。
それは戦争でもそうで、戦場では何をしてもかまわないという意識につながるように思います。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(4)

2024年01月30日 | 死刑
②死刑をめぐる世界の状況 平野啓一郎さんは世界では死刑制度がどうなっているのかを知るべきだと、『死刑について』で語っています。
他国の状況なども視野に、国際社会の中で議論していくことが大切です。
ヨーロッパで作家やアーティスト、出版関係者などと話をしていると、当然のごとく死刑制度に反対している。
死刑廃止が実現すると、死刑を望む声は死刑制度があった時よりも弱くなっていく。
深刻な犯罪が起きても、死刑にすべきだという発想自体が出てこない。

「死刑囚表現展」のアンケートに「死刑廃止論者の方々についても、なんて罪深い団体なのだろうと各メディアで廃止を訴えている様を見掛ける度に死刑囚と同等に罰してもらいたい程の気持ちになります」と書いている人がいます。
しかし、死刑を廃止している国のほうが多いのですが。

アムネスティによると、2022年、すべての犯罪に対して死刑を廃止している国は112か国です。
死刑制度は存続しているが、死刑執行が停止している事実上廃止の国を含めると144か国。
存置は55か国。
7割の国が廃止、もしくは事実上の廃止です。

1985年、欧州評議会は「平和時における死刑を廃止する」という欧州人権条約第六議定書が発効。
2003年に発効された第十三議定書には「あらゆる状況下での死刑の廃止」が謳われ、第1条に「死刑は、廃止される。何人も、死刑を宣告または執行されることはない」と明記されています。

OECD加盟国では、アメリカの一部の州と日本だけが死刑を執行しています。
アメリカでも23州が廃止し、3州が停止しています。
いくつかの州は19世紀半ばに死刑廃止を決めているそえです。
https://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/DP_2022_country_list.pdf

死刑存置国は中国、北朝鮮、イラン、ベラルーシなど、独裁国家、強権国家が多いです。
その一方で、最高刑が有期刑という国もあります。

2011年、ノルウェーで69人が殺された事件がありました。
ノルウェーの最高刑は懲役21年です(人道に対する罪は30年、軍事犯罪のみ終身刑)。
判決は禁錮最低10年、最長21年でした。

宮下洋一『死刑のある国で生きる』に、2009年、スペインで介護施設の職員が11人の入所者を殺した事件について書かれています。
27人が死亡しているが、そのうち16人は死因が解明できなかった。
裁判で加害者は患者たちの「死を助けるためだった」と証言している。
しかし、11人全員が終末期患者だったわけではない。

津久井やまゆり園事件の植松聖死刑囚と同じことをしたわけです。
判決はスペインの最長刑である懲役40年の刑だった。
仮釈放でもっと早く出られるかもしれない。

③死刑や死刑囚の情報を公開しない
日本では密行主義といって、刑務所などの刑事施設や刑罰の執行状況などの情報をなるべく公開しないのが法務省の政策なんだそうです。
死刑や死刑囚に関する情報も公開しません。

その点を平野啓一郎さんも『死刑について』で批判しています。
死刑執行がどのように決められ、どのように行われているのかなどの情報の開示がなされていないため、多くの人にとって死刑はどこか抽象的に受け止められています。

死刑に関する情報公開は不十分で、死刑囚や執行の情報が制限され、第三者のチェックがない。
死刑が確定すると、家族と特に許可された外部交通者しか面会・文通はできない。
死刑囚がどういう状態(心神喪失など)かわからない。
執行の状況、執行の順番はどういう基準かなどわからない。
拘置所のどこに死刑場があるかもわからないし、死刑場を見せない。
絞首刑が残虐かを判断する資料がない。

「死刑囚表現展」のアンケートに「静かな環境で絵を描いたりすることの違和感をとても感じる。きっと充実している時間を持っているのだろう」と誤解している人がいます。

死刑囚がどういう生活をしているか、私たちは直接知ることはできません。
石川顕「東京拘置所の視察報告」(「FORUM90」VOL.188)に、国会議員3名が東京拘置所を視察したことが書かれています。
他の収容者との会話、接触、交流を完全に遮断する方策が至るところで見受けられた。異動する時、運動、入浴、診察、面会など、常に監視のもと、他者と接することも話すことも動植物との触れ合いもない。外の景色も見られず、孤独を強いられる生活が続く。

死刑囚には多くの制約があります。
絵を描くのでも、色鉛筆は削り器の刃物が問題となって使用不可、クレヨンや水彩絵の具も使用できない、など。

死刑囚は監視カメラで24時間監視されており、夜も電灯が点いています。
心情の安定という名目でなされていることが、逆に精神を不安定にさせることになっています。

宮下洋一『死刑のある国で生きる』を読むと、アメリカの死刑囚のほうがましだと思えてきます。
テキサス州刑事司法省のHPで死刑囚の情報を見ることができる。
刑法犯情報、姓名、生年月日、人種、出身郡、死刑執行予定日などが並んでいて、刑法犯情報には死刑囚の顔写真、以前の職業、前科、事件の概要、共犯者、犠牲者の人種と性と、5つの情報が掲載されている。
死刑囚のメディアインタビューは毎週水曜日に許される。

宮下洋一さんはHPを見て、会いたい死刑囚との面会を申請し、処刑まで1か月弱の死刑囚へのインタビューをしました。
面会では刑務官の立ち会いはなく、ビデオカメラ、ICレコーダーの持ち込みが可。
日本と大違いです。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(3)

2024年01月24日 | 死刑
平野啓一郎『死刑について』はいろんな視点から死刑を論じています。
①応報刑と教育刑

国家というのは罪を犯した人間に対して、一定のペナルティを科すことができる。そして、このペナルティは自由を制限する自由刑であり、同害応報ではありません。犯罪者の更生が期待される以上、多くの人が教育刑の観点に立っています。

「目には目を」式の同害応報を基本とする絶対的応報論は、現代の刑法では身体刑の否定という意味でも不可能。
基本的には、「より重い罪にはより重い刑罰を」という相対的応報論である。
教育刑という考え方からは、死刑は教育の成果を生かす可能性が断たれるのだから正当化されない。

「人の命を奪った罪はやはり命をもって償うべきである」という意見が「死刑囚表現展」のアンケートにあります。
しかし、殺人事件の加害者すべてが死刑になるわけではありません。
ある調査によると、殺人既遂または強盗殺人の事件の中で、検察官が死刑を求刑したのは2.6%で、死刑求刑事件のうち死刑判決が下されたのは55.8%。
つまり、殺人事件のうち死刑の判決が下されるのは約1.5%です。(井田良「いま死刑制度とそのあり方を考える」)

傷害致死や過失致死も人の命を奪うわけですが、傷害致死の法定刑は3年以上20年以下です。

刑法が改正され、拘禁刑は受刑者を刑事施設に拘置した上で「改善更生を図るため、必要な作業を行わせ、必要な指導を行うことができる」と規定しています。
受刑者の処遇は改善更生が主眼とされたわけです。

つまり、犯罪者に罰を与えてこらしめる応報刑ではなく、再び社会で生きられるように更生の機会を提供する教育刑になったのです。
ところが、死刑だけが教育や更生を指向しない応報刑、身体刑なのです。

宮下洋一『死刑のある国で生きる』に、死刑に賛成する弁護士へのインタビューが載っています。
川上賢正弁護士は、遺族側から見れば、凄惨な事件を起こした加害者が絞首刑で済むなんて生やさしいと思うはずだ、と指摘した。
焼かれたり刺されたり、助けてくれと言いながらも殺されるんです。だから被害者は、家族が八つ裂きにされたなら、同じように八つ裂きにしてくれと言うんです」。応報刑罰だと。
では、誰が八つ裂きにするのでしょうか。

吉田はるみ衆議院議員が死刑を執行する刑務官から聞いた話です。
凶悪犯なのだからと思って執行に携わった方でも、ちょっとね、精神的にその後とても苦しみます。気持ちがふわふわするような、私もなんと表現したらいいのか分からないんですけれども、絶対賛成だったという人も、執行の現場や、それにかかわることになると、精神的に相当なダメージを受けるということを、私ははっきり申しあげたいと思います。(「FORUM」vol.188)

アルベール・カミュの父親は死刑の執行を見に行きました。
三野博司「父は死刑執行を見に行った 『異邦人』『ギロチン』『最初の人間』」
1957年、カミュは『NRF』に『ギロチンに関する考察』と題した論文を発表し、その冒頭において、かつてアルジェで行われた死刑執行について想起している。「1914年の戦争が始まる少し前、おぞましい罪を犯した(農場主の一家を3人の子どももろともに殺害した)ひとりの殺人者が、アルジェで死刑を宣告された」。この事件は大きな反響を呼び、そして、カミュの父はとりわけ子どもたちの殺害に憤慨していた。
「いずれにせよ、私が父について知っているごくわずかのことがらのひとつは、彼が生涯において初めて死刑執行に立ち会いたいと望んだということだ。彼は夜も明けないうちに起き出して、町の反対側の群衆が押しかける処刑場へとでかけていった。その朝彼が見たものについては、だれにも話すことはなかった。私の母は、父が顔色を変えて疾風のごとく戻ってきて、何も話そうとせず、しばらく寝床に身を横たえて、それから突然嘔吐を始めた、とただそれだけを語った」
カミュの父親は、「虐殺された子どもたちのことを考えるのではなく、首を斬るために台の上に投げ出された息もたえだえの体のことしか、もう考えられなかった」のである。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ecsj/8/0/8_14/_pdf

アンケートで「自分だけ楽に死ねるのは間違っている」と書いている人がいますが、死刑は執行に関わる刑務官も、執行を見た人もつらい思いをする残酷な刑なのです。

世田谷一家殺害事件の遺族である入江杏さんは教育刑と冤罪ということから死刑に疑問を呈しています。
刑罰とは、被害者やその家族を満足させるためのものでも、社会の怒りに配慮するためのものでもなく、犯罪者に罪を償わせ、更生と社会復帰を可能にするためのものであるはずだ、と考えなければならない。死刑の執行は犯罪者から、「悔い改め、償い、更生」の機会を奪い、彼らの再生の歩みを不可能にする、と言える。同時に、冤罪の問題も考えなければならない。もし、無実の人に死刑を執行してしまえば、誤った判決を正す可能性は永遠に奪われてしまう。裁判官が誤った判決を下す可能性を否定できない以上、死刑制度を受け容れていいのか?という疑問が残る。(入江杏「刑事司法と被害者遺族」)

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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(2)

2024年01月19日 | 死刑
平野啓一郎さんは『死刑について』で、国家の責任を問います。
②国家の欺瞞

死刑判決が出されるような重大犯罪の具体的な事例を調べてみると、加害者の生育環境が酷いケースが少なからずあります。そうした中で、犯してしまった行為に対して、徹底的に当人の「自己責任」を追及するだけでよいのかと疑問に感じたことも、死刑に反対するようになった理由です。

成育環境が悪い人や精神面の問題を抱えている人などを国家が放置し、事件が起きたら死刑を宣告して社会から排除し、何もなかったような顔をすることは国家の怠慢ではないか。
そういう状況に置かれている人たちを、共同体の一員として支えなければならない。

「死刑囚表現展」のアンケートには、「罪を犯した人はこの程度なんだ」という感想がありました。
マスコミの犯罪報道は事件そのものを伝えるだけで、事件の背景や加害者の成育歴などを取り上げ、なぜ事件が起きたのかを掘り下げることはあまりないそうです。

しかし、加害者がなぜ事件を起したのかを描いた小説やドラマを見た人が加害者の生育歴、置かれた状況に同情するなら、死刑だと単純には思わないでしょう。
犯罪を犯す人の多くは貧困、親の依存症や障害、離婚・再婚、虐待などで家庭が居場所になっていなかった。
学校では、親のネグレクト、本人の障害などでいじめられたり、授業についていけないなどで、学校が居場所にならなかった。

私たちが今まで犯罪を犯していないのは、自分がすぐれているからではありません。
「私を育ててくれた両親に感謝したいです」とアンケートに書いている20代の人がいますが、そのとおりだと思います。

平野啓一郎さんが死刑に反対する3番目の理由です。
③例外を設けてはいけない

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを突き詰めていった時に考えたのは、「人を殺してはいけない」ということは、絶対的な禁止であるべきだということです。

加害者を同じ目に遭わせてやりたいと思う人がいても、国家がそれをやってはいけないと了解されている。
強姦をした犯人を誰かに強姦させることはない。

ところが、殺人に関しては、犯人も同じ目に遭わせないといけないと信じられている。
例外規定を設けているかぎり、何らかの事情があれば人を殺しても仕方がないという思想が社会からなくならない。

2019年、ひきこもりだった人が無差別殺人を起こした。
すると、ある父親が、自分の息子も長年ひきこもりなので、同じことをするのではという不安を抱き、子供を殺したという事件があった。
この事件に対し、息子を殺したのはやむをえなかったという声があった。

「よほどのことがあったのだから、殺すのも仕方なかった」という肯定の仕方は、間違っている。
一人ひとりの人間は基本的人権を備えていて、命を尊重する共同体であるという前提は、それを破る人が出てきても崩してはならない。

あなたは人を殺したけど、我々の社会はあなたを殺さない、それが我々の社会です、ということを維持しなければならない。
この社会には、一人ひとりに人権が認められているのだから、それは絶対に例外なく侵してはいけないものだということを認識しなければなりません。何か事情があれば人を殺してもよい、という発想自体を否定していくことが、未来の被害者を生まないためには重要なはずです。

アンケートに、「どんな人にも生きる権利はあっても良いと死刑に対する考え方が変わりました」とか、「死刑囚といえど、1人の人間であり、その人権は尊重されるべきである」と書いており人がいます。

死刑は人権問題だと言うと、被害者は人権を踏みにじられたのに、加害者の人権ばかりが大切にされていると言う人がいます。
しかし、生きる権利はどんな人にもあり、例外はないとしなければ、人権はどんどん浸食されます。

人を殺しても罪にならないどころか、ほめれることもあるのは戦争と死刑です。
人の命を大切にしない社会は、いつ私の命を奪うかもしれません。

戦争になると敵も味方もなく、同じ国民でも殺し合うことがあります。
一般人や子供もも命を奪われます。
イスラエルにとって、パレスチナ人は戦闘員も民間人もいつ命を奪ってもかまわない死刑囚のようなものです。

青木理さんは、世界は人権感覚が進歩していると言っています。
ヨーロッパで、青木理さんが日本は8割が死刑に賛成していると言うと、人権問題なのに多数決で決めるのかと言われたそうです。

ヨーロッパ人権裁判所は、受刑者に釈放への希望を認めない終身刑は非人道的で品位を傷つけるものであり、ヨーロッパ人権条約第3条に違反すると判断していました。
https://cdn.penalreform.org/wp-content/uploads/2018/04/Japanese_PRI_Life-Imprisonment-Briefing.pdf
日本では40年以上も出所できない受刑者がいます。

弱者に寛容な社会は誰にとっても生きやすい社会です。
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