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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

石川義博『少年非行の矯正と治療』(2)

2025年04月13日 | 死刑
石川義博医師が行なった永山則夫の精神鑑定は、面接が進み、犯行時の状況や心理の供述に至った。
ところが、警察調書や検事調書との食い違いを説明してもらおうと質問しただけで、永山則夫はたちまち不機嫌になり、憤怒して黙りこむか、全然関係のない要求をもち出すかして、激しく抵抗した。

それまで築き上げてきた良い関係も、重大な利害にかかわる時点に至るや一挙に覆ってしまう。
こうして、犯行時、特にタクシー運転手強盗殺人事件の司法調書と供述とのつき合わせ作業は頓挫した。

本来、精神鑑定は、被鑑定人の外的な世界の現実と、内的なファンタジーの世界の双方を認識する複眼的な視線によって、真実をともに探していく態度が必要である。
しかし、則夫のような特異な強い激しい人に対しては、その態度を維持することは不可能だった。

やむをえず彼の供述を容れ、精神鑑定を進めざるをえなかった。さもなければ、精神鑑定を完結することさえできなくなるおそれが大であったからである。

苦心惨憺のあげく、精神鑑定は終了にこぎつけた。
石川義博医師が精神鑑定において最も強調したかったことは次の点である。

第一に、則夫が5歳の時に母親から酷寒の網走の地に「棄てられ」、生命を脅かされるほどの「飢え」を味わったこと。
第二に、母代わりに可愛がってくれた長姉が精神病で入院し、「生き別れ」になったこと。
その他、本人しか知りえない悲惨で劣悪な生育環境。
その結果、深刻な外傷後ストレス障害(PTSD)を何度も体験したという事実。

則夫は知性、感性、意欲、社会性のすべてにわたって発達が阻害され、未成熟無知のまま社会に旅立っていったのである。その後の人生においても、劣悪な環境や人間関係から這い上がることができず、心の傷は因となり果となって悪循環的に増大し、極限状況を招来した。あげくの果てに、後先のことも考えずに逃亡したり、十九回も自殺を図ったり、衝動的に行動し、いっそう自分を不利な状況に追いこんでしまうのだった。その瞬間には、理性も判断力も働く余地がきわめて少なくなってしまうのであった。

しかし、一審の東京地裁では、「幼小児期における情動体験」を過大視しているとして却けられた。
裁判官は、犯行の結果の重大性、4人が次々に殺害されたこと、被害者感情、社会的な影響、性格が自己中心的・他罰的・非人間的であり、改善は至難と思われることなどを重視して、死刑が相当であるとした。

これに対し、二審の東京高裁の判決は、被告人の情状について再検討を加え、「第一に、本件非行は被告人が少年の時に犯されたもので、犯罪時十八歳に満たない少年に対しては死刑を科し得ないとする少年法五一条の精神を生かすべきであるところ、被告人は出生以来極めて劣悪な成育環境にあったため、精神的成熟度においては、犯行時実質的には十八歳未満の少年と同視しうる状態にあったとさえ認められるのみならず、かような劣悪な環境にある被告人に対し救助の手を差し伸べなかった国家社会もその責任をわかち合わなければならないと思われること、第二に、控訴審係属中に誠実な人柄の伴侶を得て、第一審と異なり本人質問に応じるなど心境の変化があらわれたこと、第三に、被告人は著作の印税を被害者の遺族に贈り、二遺族はこれを受領しており、将来も印税は遺族に対する支払にあてると誓約していること」などの事情を挙げて、無期懲役に処するのが相当とした。
同じ事実を前にして、裁判官によって評価が異なった。

二審が「極めて劣悪な幼児の成育環境」を重視したことは、精神医学的に妥当であったと考えられる。
なぜならば、幼時体験の重要性はすでに精神分析が明らかにしてきたが、ベトナム戦争や性的被害などのPTSDの研究結果、また最近著しく進歩した大脳生理学の研究などにより、乳幼児期から学童期における栄養障害や外傷的情動障害などが脳ないし心の発達にとっていかに重大な作用を及ぼし、後々まで甚大な障害を残すかが、明らかにされてきたからである。

石川義博医師は、被告人と鑑定人が「事実を明らかにしたい」という共通の目的を目指して共同作業を行い、被告人の自由な供述をもとに、犯罪に至る過程や心理をより深く明らかにしたので、裁判官や検察官の評価はともかく、永山則夫は自分の自由な内心の記録として認めるのではないかと考えた。

ところがである。彼は後に鑑定書を読んだ時、たとえば「被害妄想的」という言葉にひっかかった。彼は、「『被害妄想的』という言葉は精神病を指すものだ、鑑定人は自分を精神病だと診断したのか、精神病扱いするのか」と大変な権幕で怒ったそうである。そして、「石川鑑定書は裁判所に代表される権力者側を有利にし、自分を陥れるものだ」と断じた。筆者の思いもよらぬ言い分であり、驚きかつ呆れた。
さらに彼は、「石川鑑定書の自分についての描写は、自分でない別の人の記録のような感じがする」と述べた。

この発言は石川義博医師に大きな衝撃を与えた。
「より深い精神鑑定への模索」が共同作業の相手から否定されたからである。
無力感が石川義博医師の心の中を去来した。

もしこのことが、普通の精神療法を中心とした精神科臨床の場面で生じたのであれば、患者が提出した問題を面接で取り上げ、十分話し合ったり、確かめ合ったりすることが可能であったろう。治療関係を続ける中で、理解をより深め合うこともできたであろう。しかし、精神鑑定ではそれができない。筆者は、この点でも精神鑑定の限界を悟ったのである。

石川義博医師は、則夫の精神鑑定を通じて多方面にわたる深刻なジレンマに直面させられた。
さらに法廷技術的な争いに巻き込まれ、不愉快な体験をさせられた。
そのうえ、鑑定書は、司法からも、被告人本人からも否定された。
一体、何のための精神鑑定だったのか、という徒労感と空しさがつのった。

このように『少年非行の矯正と治療』には書かれています。
永山則夫の精神鑑定をした後、石川義博医師が精神鑑定の依頼をすべて断りました。
この後も、永山則夫と弁護団、支援者の関係は大きく揺れ動きます。

石川義博『少年非行の矯正と治療』(1)

2025年04月08日 | 死刑
堀川惠子『永山則夫』を読むと、石川義博医師の精神鑑定はいい雰囲気で終始したように感じます。
永山則夫(24歳)の写真は石川義博医師が八王子医療刑務所でこっそり持ち込んだカメラで撮したものです。


しかし、石川義博『少年非行の矯正と治療』を読むと、精神鑑定は並大抵の苦労ではなかったことがわかります。

当初、永山則夫は友好的でいんぎんであり、石川義博医師の精神鑑定に対する考え方を理解し、共同して生い立ちから犯罪までの事実を明らかにしていくことを約束した。
面接のたびごとに自分から挨拶し、質問には真面目に正直に答えるなど、きわめて協力的であった。質問がわからないと、冷静に問い直し、正確に詳細に幼小児期からの自分の気持ちや事実を述べようと試みた。

鑑定は順調に進展していくと思われたが、回を重ねるにつれて、自分の内心に忠実のあまり、ごくごく細部まで詳しく話そうとしては、たびたび質問からそれ、自由連想のように次々と飛び、長々と説明しようとした。
面接は常に長時間に及び、鑑定書の完成はいつになるかわからなくなりそうだった。

そこで、石川義博医師は聴き入る態度は続けながらも、話が質問の目的からあまりにもそれたときは注意を促し、元へ戻そうとせざるをえなかった。
そのつど鑑定の目的を話すと、彼は納得するものの、たび重なるにつれて「自由に語らせてくれない」と言ってしだいに不機嫌になっていった。彼は、自分の知るすべての事柄を納得ゆくまで話さないと気がすまないのであった。強迫的であった。それは彼の勉強の仕方や著書と共通する特徴であった。
石川義博医師はほとほと困りぬいた。

そのころ、折悪しく彼には弁護団の解任や出版社との契約などのがふりかかってきた。それらの現実から押し寄せるストレスも重なった彼は、「弁護団や出版社とのいざこざを、すべて、すぐ解決せよ」と迫った。無理難題であった。

堀川惠子『永山則夫』に、出版関係の中に『無知の涙』の発行部数をごまかして印税をくすねる者がいたとあります。
弁護団とのいざこざですが、武田和夫『死者はまた闘う』にはこのように書かれています。

1971年6月、死刑を求刑され、支援者たちは新たに弁護団をつくって心理をやり直すことをすすめ、永山則夫は弁護人を解任、第二次弁護団が選任された。
1873年、第二次弁護団が石川義博医師に精神鑑定を依頼し、翌年1月から4月まで鑑定を行なわれた。

永山則夫は精神鑑定を自分にとって良かったと言っている。
永山則夫の法廷での態度が変わっていった。
「情状はいらない。死刑をくれ」と自棄的な態度で居直っていた初期の頃と違い、傍聴席に向かって涙ながらに深く頭を下げ、犯行をわびた。

ところが、1974年10月、第二次弁護団の主任弁護人が辞任し、1人を残して他の弁護士を解任。
『死者はまた闘う』にはこの間の事情は書かれていませんが、静岡事件についての考えが永山則夫と弁護団では合わなかったのかもしれません。

1968年11月、名古屋の事件の後、永山則夫は事務所に侵入して通帳と印鑑を盗み、銀行で金を引き出そうとした事件です。
この事件で永山則夫は起訴されていません。
1973年5月、法廷でこの事件は自分がやったと告白しています。
自分の犯した事件に向き合うためだと武田和夫さんは書いています。

1975年、支援者が一新し、永山則夫の要望に添って3名の弁護団が静岡事件の事実審理を法廷で追及することを方針とした。

石川義博医師は精神鑑定を進めるどころではなかった。
彼は暗い顔をして沈みこみ、押し黙り続けたあげく、突然、爆発的に興奮し、怒り狂った。その有様は精神病のようで、それまでの心の余裕は一片もみられなくなり、理性的な判断や判断から行為への筋道もほとんど自由性を失って、選択を越えた必然のごとく振る舞うのであった。

鑑定を開始した時の友好的、協力的態度はなくなった。
後に振り返ってみると、彼のこの激変ぶりは、彼の人生での生き方や行動の特徴であった。奇しくも精神鑑定中に、彼の行動パターンを眼前に見ることができたのであった。このことは、精神鑑定にとっては非常に参考になったが、このさき鑑定を終えることができるのかどうかさえ危惧される状況に追いこまれたのである。

この困難な状況をどのように打開するか。
永山則夫の態度の激的ともいえる変化は心の奥に潜む苦しみや悩みの現れであり、精神的な症状ないし障害として臨床的かつ治療的に扱わざるをえない。
本来の精神科臨床医に立たなければ、精神鑑定を続けることはできない。

当初の心を開いた自由な供述を得るためには、永山則夫が解決できず苦悩している問題を理解することから始めねばならなかった。
徹底して言い分を聴き、折り重なった要求を整理し、順位をつけさせた。
次に、今すぐに解決すべき問題を選び出し、当事者と折衝し、解決を図った。

10日間にわたる努力の結果、ようやく話す気持ちになり、面接は再開された。
協力関係が深められる中で、再び内面的生活史が語られ始めた。
さまざまの体験が思い出され、微に入り細にわたって供述されていった。幼小児期から学童期、職歴を経て犯行に至る事情と心理は、それまでの供述調書にみられない則夫本人にしか知りえない事柄に満ちていた。今度こそ則夫の犯罪に至る過程がより深く明らかにされるのではないか、と期待がふくらんだ。則夫は、思う存分に話す自分の供述を聞いてもらえることに喜んでいるように見えた。このころの彼は血色も良くなり、かなり太り、笑顔を絶やさず、人あたりも良くなっていた。彼の言い分が通り、自分の心が十分に表現されたときの彼の行動様式であった。


堀川惠子『永山則夫』(3)

2025年03月29日 | 死刑
中学を卒業した永山則夫は上京して渋谷のフルーツパーラーに就職する。
しかし、長続きしない。
牛乳屋で住み込みで働き、定時制高校に通ったことは3回ある。
10~20回転職しており、一番長く続いたのが5か月。

一生懸命働き、高校では生徒会を熱心にする。
しかし、則夫は家族からはかまわれず、小中学校にほとんど行っていないので、世間の常識を何も知らない。
友達を作る知恵も経験もなく、人間関係の作り方も知らない。
小さなミスをすればクビになるとビクビクし、よいことも悪いほうに考え、自分を責める。
「自分が行ったら話が止まる」「自分の悪口を言っている」などと被害妄想や猜疑心をつのらせる。
人を信じることや甘えることができないので、悩みを誰にも相談せずに抱え込む。
そして、孤立して衝動的に身ひとつで職場から逃げ出す、窃盗や密航をして捕まるというパターン。

石川義博医師は「人間不信、そして不安、それが異常なレベルで強いと感じました」と語っている。

職場の同僚や兄たちから馬鹿と言われると、自分も姉のように「キチガイ」になるのではと脅えた。
自殺を考えたり実行したのは19回。

昭和43年8月、米軍基地の住宅からピストルを盗む。
10月に東京と京都で警備員を射ち殺してしまう。
網走で死のうと思い、北海道に行くが、函館と名古屋でタクシーの運転手を射殺した。
なぜか。

石川義博医師の鑑定書には「何かに対して強いうらみが心の中でうずまいてどうしようもないと、まず強いうらみを感じた」とある。
堀川惠子さんは「永山が怨んだ相手とは「兄たち」である」と書いています。
永山則夫も石川義博医師に「兄貴に対する当てつけみたいなのがあったんだ」と語っている。

昭和54年、東京地裁は永山則夫に死刑判決を下す。
石川鑑定について、判断の材料となる前提を間違えており重大な疑問があるとして一顧だにしなかった。
二審判決は無期懲役。
最高裁判決でも、石川義博医師による精神鑑定書は顧みられなかった。

地裁の判決から34年目、一審で右陪席だった豊吉彬元裁判官が、石川鑑定が採用されなかった事情について証言している。
合議で三人の裁判官が話しをするわけなんですが、石川鑑定を読んで驚きましてね。「これじゃ極刑、無理じゃねえか」と言っていた人もいたほどでした。わたし自身あのような立派な精神鑑定書は見たこともなくて、その後の自分の裁判でも何かと参考にさせてもらいました。だけど、当時の裁判官には心理学的な知識もありませんし、どこか「所詮は医者が言っていることだから」というような雰囲気がありましたよね。
裁判の結論は決まっていましたから、排斥するより仕方がない、そう、仕方がないということになってしまうんです。ある結論を導き出すために、ある証拠を否定しなくてはならない。そういう時、良いところは言わないで、悪いところを見つけて、それで敢えてひっくり返すと、そういうことでしたね。それは今だって変わらないんじゃないんですか?

そして豊吉彬さんは、最近の裁判員裁判を見ていると、まるで被害者の仇討ちの場になっているようで危惧を感じると話している。

堀川惠子『永山則夫』には、永山則夫の兄弟と姪についても書かれています。
長女(昭和5年生)は精神病院を入退院を繰り返す。
1992年(平成4年)に死亡(62歳)。

長男(昭和7年生)は高校を卒業して網走で就職する。
その後、栃木でセールスマンをする。
結婚して婿養子に入る。
住宅会社の支店長をしていたが辞め、月賦詐欺で逮捕、実刑判決を受けた。

次女(昭和10年生)は高校を卒業すると家を出て看護婦になる。
結婚して名古屋に引っ越した。

三女(昭和15年生)は中学を卒業し、実家の真向かいの美容院で住み込んで働く。
2年後に美容師の資格を取ると、東京の美容院に勤めた。
実家に帰ったことも、手紙や電話をしたこともない。
結婚して退職、長男が生まれるが、数年後に離婚、ホステスなどをする。

次男(昭和17年生)は、中学を卒業して東京で就職。
運転手をするが事故を起こして、長男が勤める会社でセールスマンをする。
結婚して婿養子になり、息子が生まれるが離婚。
水商売の女と東京に出て、女の稼ぎで暮らし、ギャンブルばかりする。
昭和59年、路上で倒れて病院に運ばれるが死亡(42歳)。

三男(昭和20年生)は中学を卒業して東京で働きながら定時制高校に通う。
法律専門の出版社に就職。
裁判後に退職、妻の姓に変えた。

四女(昭和27年生)は針子、看護師見習いをし、未婚で出産。
ホステスなどするが、心の病で入院。

姪(昭和27年生)は結婚するが離婚。
次男に相談したら、置屋に売られた。

1993年、母ヨシ死亡(83歳)。
1997年、則夫死亡(48歳)。

非行というのは、親のひどい仕打ち等にこれ以上がまんできなくなった少年が、やむにやまれず行動で示すことだ。自分を助けてほしいとの切実な叫びであり、救いを求めるシグナルでもあるのだ。(石川義博『少年非行の矯正と治療』)

みんな被害者だと思いました。

堀川惠子『永山則夫』(2)

2025年03月23日 | 死刑
昭和28年10月末、冬の網走に置き去りにされた永山則夫と三女、次男、三男の4人は、翌年の春に福祉事務所が母親に連絡して、板柳町の母の家に行った。
堀川惠子『永山則夫』によると、三女、次男、三男は、則夫は母親と一緒に青森に帰ったと記憶している。

青森では生活保護を受給したが、母親の行商と合わせても生活はぎりぎり。
母親は則夫が夫と何から何までそっくりと思いこんでいて(実際は母親似)、憎んでいる夫への憤懣を則夫にぶつけた。

母親に疎んじられた則夫は、薄汚れて穴が空いた服を着ていた。
しかも中学2年まで続いた夜尿のせいでくさい。
則夫は網走で育ち、青森では幼稚園に入らなかったので、津軽弁がしゃべれない。
そうしたことから、小学2年のころ同級生にいじめられた。
石を飲まされたこともある。

次男には毎日殴られ、気絶することもあった。
次男は成績がずば抜けていて、近所の人には愛想がよかったが、中学まで夜尿をしている。
母親は次男が則夫を殴っていると知っても何もせず、時には母親も則夫を道具で叩いた。
三男は暴力をふるわなかったが、無視しバカにしている。

母親は四女には何かと世話を焼いており、四女と姪は幼稚園に行った。
家族の中で則夫は孤立し、小学2年のころから家出を繰り返す。

則夫は小学校にはほとんど行っていない。
5年の時に網走の精神病院に入院していた長女が帰って来ると、学校に行くようになった。
ところが、妊娠7か月でまた堕胎させられた長女は、それから死ぬまで精神病院の入退院を繰り返す。
則夫は再び学校に行かなくなった。

昭和36年12月、中学1年の時に父が死んだという報せが届く。
岐阜県垂水駅で、電車の中で倒れていた。
息を引き取る間際に名前と住所を答えたが、妻の名前は言わなかった。
54歳。
所持金は10円だけ。

父親の葬儀の時、次男が「おふくろが俺たちを(網走に)置いてきぼりにした」と言った。
則夫には母親に捨てられた記憶がない。
この時、初めて母親に捨てられたのかという疑念を抱くが、母親を信じる気持ちもあり悩んだ。

しばらくして、仏壇にしまわれていた父親の死体の写真を見つける。
父親は優しい人だと思っていた則夫にとって、汚い格好をした父親の死に顔はショックだった。
それまで持っていた父親のイメージが打ち壊された。
姉の発狂、父親の死などから、「なんで俺、生まれてきたんだろう」と自殺を考えるようになった。

兄たちが家から出て行くと、則夫は木刀を持つようになる。
姪を木刀でしばしば殴った。
苗字が違っている姪は何度も養女として出されたが、夜尿が止まらなかったため、しばらくすると送り返される。
長男は娘に会いに来ていない。
姪を殴った理由の一つは、父親の葬儀の香典を長男と次男がすべて持ち帰ったことへの復讐。

父親の死後、母親は男と付き合うようになった。
中2の夏、母はテープレコーダーを買うため、天ぷら屋(愛人の一人)ら数人と夏休みの一か月、北海道にリンゴの仕事に出かけた。

石川「則夫君や四女や孫には言って行ったんですか?」
母「言わね。言わねえで行ったの。あのさ、友達に言ったら稼いで来いって言うからさ」
石川「子どもたちは誰が見てくれたんですか?」
母「友達がさ。帰って来たら夏だったからさ、シャツもなんも三人とも真っ黒いの着てさ、ははは」
石川「洗わないと真っ黒でしょうねえ」
母「黙って行っても友達がやってくれると思って。それで二万円稼いでさ、すぐに(テープレコーダー)買いに行ったの」
石川「シャツも真っ黒でね、子どもは痩せてませんでしたか?」
母「いえ、食うもんはちゃんと置いていったの」

中3の秋、母が入院した。
則夫が妹や姪に暴力をふるうので、2人は母親が入院している病院に逃げ出し、病院で寝泊まりする。
母親と妹、姪は11月から則夫が上京する翌年3月まで一度も家に帰って来なかった。

母親は「妹らに時々、食べ物を届けさせたから則夫が困ったはずはない」と言っている。
しかし、則夫は飢えに苦しんだ。
近所の人や同級生が食べ物を持って来てくれることもあった。

永山家は不良少年のたまり場となり、彼らが盗んだ商品が保管された。
盗品を見つけられても則夫は仲間の名前は言わなかった。

上京の支度をする金が一銭もないので、長男、次男、三男に手紙を出して送金してほしいと頼んだが、長男と次男からは音沙汰がなかった。
2月頃、三男から母親宛に3千円が送られてくる。
母親が2千円を取り、則夫は千円を持って東京に行った。
上野駅に迎えに来てくれると思っていた三男は来ていなかった。

永山則夫は青森から上京して3年半で事件を起こしています。

堀川惠子『永山則夫』(1)

2025年03月14日 | 死刑
堀川惠子『永山則夫 封印された鑑定記録』 は読み応えがありました。
それは、石川義博医師による永山則夫の精神鑑定(録音テープ49本)と、「永山則夫精神鑑定書」をもとに、両親や兄弟たちについて詳しく書かれてあるからです。

昭和43年に4人を射殺した永山則夫は昭和44年4月に逮捕されます。
昭和48年、弁護人より精神鑑定を依頼された石川義博医師は、昭和49年1月から4月までの3か月間、八王子医療刑務所で面接を重ねた。
278日間かけて書かれた「永山則夫精神鑑定」は182ページもあるそうです。

木谷明元裁判官はこのように語っています。
これを読んで、被告人(永山則夫)の心が初めて理解できたような気がします。決して犯罪を正当化する意味ではありませんが、彼がなぜ事件を犯したのか、その疑問がやっと晴れたような気持ちです。
『永山則夫』を読んで同じ感想を持ちました。

永山則夫の両親(どちらも明治43年生まれ)は昭和5年に青森県板柳町で結婚した。
恋愛結婚だった。

父親は2歳で実父を病気で亡くし、義理の父に育てられた。
小学校では常に3番以内の成績だったが、家が貧しくて小学校を中退し、家計を助けるためリンゴ農家を手伝い、リンゴ栽培の技師になった。
義理の父譲りの博打好きなので、母親の親族は結婚に反対した。

長女が昭和5年に生まれ、長男(昭和8年?)、そして次女が昭和10年に生まれた。
父親の稼ぎは多かったが、稼いだ金を博打につぎこむ。
親から受け継いだ家屋敷はすべて賭博の借金のかたに取られた。

昭和11年、網走からリンゴ栽培の技師として声がかかり、借金を残したまま永山一家は網走に渡った。
網走では真面目に働くようになった。

長女は網走女学校を入学から卒業まで首席で通した。
長男も高校を首席に近い成績で卒業、道庁土木現業所に就職した。
次女も優秀な成績だった。
上の3人は高校を卒業している。

昭和19年、父親が召集された。
帰ってきた父親はそれまで飲めなかった酒をひどく飲み、博打にのめり込むようになった。
母親の行商だけでは生活できず、生活保護を申請したが認められなかった。

永山則夫が生まれたのは昭和24年6月。
昭和27年に長男が高校の同級生に妊娠させて生まれた女の子を永山家が引き取った。
母親に代わって家事や育児をしていた長姉(則夫の19歳年上)が堕胎させられて精神を病み、昭和28年に精神病院に入院する。

母親は四女(1歳)、孫(1歳)と次女(17歳、四女と孫の世話をさせるため)を連れ、実家のある青森県板柳町に帰ってしまった。
11月の網走に三女(13歳)、次男(11歳)、三男(8歳)、則夫(4歳)が残された。
母親は一週間分の食料だけ置いていった。
青森から仕送りはしておらず、4人の子供の心配はしていない。
父親や長男が網走にいたはずですが、何もしなかったようです。

母親は永山則夫は逮捕された1か月後に少年鑑別所に送られる。
その4日後、母親が鑑別所に面会に来た。
則夫は「おふくろは、俺を三回捨てた」とだけ言った。

一度目は網走。
二度目は中2の夏。
母親は何も言わずに北海道にリンゴの仕事に行き、則夫と四女と姪が残された。
三度目は中3の秋。
母親が入院し、妹と姪は則夫の暴力から逃れるために病院に逃げ出した。
則夫が中学を卒業して東京に行くまで、母親、妹、姪は家に帰ってこなかった。

なぜそんなことができたのか。
「散々苦しめられてきた夫への〝当てつけ〟でもあった」と堀川惠子さんは書いています。
母親ヨシは子供たちを「捨てた」ことを悪いことをしたとは思っていないようです。
石川義博医師はヨシに生い立ちを尋ねています。

明治43年(1910年)に利尻島で生まれる。
2歳の時に漁師をしていた父親は船の遭難して死亡。
母方の祖父も同じ船に乗っていて死んでいる。

4歳の時、母親はヨシと樺太に渡り、缶詰工場の女工をした。
ヨシは小学校に通わず、子守りをした。
母親が一緒に暮らした男は飲むと暴行した。
母親にも殴られている。
母親から心中を迫られたこともある。

5年後、男は去り、母親は別の男と住む。
ヨシは子守り奉公に出された。
数えの10歳のころ、男は実家がある板柳町に母親と帰る。

樺太に置き去りにされたヨシは料亭に住み込んで子守りなどをした。
1919年、ヨシは料亭の主人らと一緒にロシアのニコラエフスク(尼港)に渡った。
1920年、尼港事件が起きる。
赤軍パルチザンによって日本人731人を含む6000人超の住民が虐殺された。
ニコラエフスクの2年間をヨシはほとんど語っていない。

尼港事件を生き伸びたヨシは、12歳の時に日本軍の憲兵隊に助けられて板柳町の母親のもとに送られる。
母親とは暮らさず、住み込みで働く。
小学校にはほとんど行っていない。
そして、結婚した。

両親からの愛情を知らないまま育ち、母になったヨシはからすれば、子どもを網走に捨てたことは何ら特別なことではなかったのだ。自分がかつて実母からされたのと同じことをしたにすぎない。

母親は石川義博医師に「食べるんだったら、一週間分、置いてきたもん」と語っています。
母親からされたのと同じことを自分の子供たちにしたわけです。
いったい誰が悪いのかとため息が出ます。

徳田靖之「飯塚事件再審 無実の人の死刑執行を暴く」(2)

2025年02月27日 | 死刑
第三の柱
女の子たちを最後に目撃したとされているΟさんの証言が、飯塚事件の死刑判決の第三の柱。

Oさんは事件から26年たって徳田靖之弁護士の事務所に電話をかけてきた。
自分が女の子たちを見たのは事件の日ではないと言っているのに、警察官に強引にその日にされてしまった。
自分のいい加減な証言が久間三千年さんを死刑にしたのではないかとずっと悩んでいた、何か力になれば、ということだった。


第二次再審請求の新証拠としてのΟ証言で第三の柱がつぶれることになる。
もう一人、木村さんが西日本新聞に、自分は真犯人を目撃した、と情報提供している。

事件当日、八木山峠で小型の貨物自動車に運転する男と後部座席にいる女の子2人を見た。
1人は横たわっていて、もう1人は追い抜いた際に自分のほうを見た。
土曜日でもないのに、どうして子供たちが乗っているのか気になった。
ラジオで2人の女の子が行方不明だと知り、翌朝、警察署に連絡をした。
二週間後に来た警察官に状況を詳しく説明し、男は色が白くて久間三千年さんとは別人だと話した。
しかし、法廷で検察官がDNA型が一致したと言ったので、そうかと思った。
ところが、再審請求でDNA鑑定が間違っているという報道を聞き、やはり目撃した男が犯人だと思った。

検察は新しい証拠と古い証拠を比べた際、古いほうが信用できると言い張るので、Oさんの捜査報告書、木村さんの供述調書を出せと言ったら、検察は「不見当」、見当たらないという回答だった。

裁判長は「警察から捜査記録が送られてくるときにリストは一緒に来るんですか」と質問したら、検察官は「それは残ってます」と答えたので、裁判長は「それを開示してください」と言った。
ところが、検察官は「そのような勧告をする権限が、現行法上、裁判官にはない。したがって自分たちは応じる必要はない」と言った。

裁判官が怒ると思ったら、決定は「Oさんの30年を経た供述にはいくつかあやふやなところがあって信用できない。本人が当日ではないと言っているのに、警察が当日だと証拠を作る必要性がないことをするはずがない」ということだった。
木村さんの供述は、具体性、特定性がないから目撃した車両や人物が本件と関係しているとはいえないとした。

裁判所は検察がリストを出さなかったことを批判すべきなのにしなかった。
それは、死刑判決の証拠が全部つぶれると、再審開始する以外にないから。

第一次再審請求の段階で、検察官は提出していない証拠が段ボール1杯ある、探すのに時間をくれと言った。
高裁の裁判長は、提出していない証拠を探し、リストを出しなさいと言った。
証拠が出てくると、再審開始に大きな道が開く。

徳田靖之弁護士は死刑制度についてこのように断じています。
死刑制度を存置しようとする人たちは、冤罪の問題と死刑制度存置の問題は切り離して議論をしようという主張をされる。それは要するに、冤罪を防ぐための方策を確立すればすむ話であって、それがゆえに死刑をなくすのはおかしいという議論なんですけど、冤罪がなくなるということを考えるということ自体が現実的ではありません。冤罪というのは必ず起こります。人間は過ちを犯すんです。

全くそのとおりです。
警察は容疑者に自白を強要し、証人を誘導して供述させ、検察は証拠を隠して開示しない。
これでは冤罪はなくなりません。

部分冤罪もあります。
共犯や従犯なのに正犯とされたり、殺人と窃盗なのに強盗殺人とされたりといったこともあります。
また、同じような事件でも死刑になることがあれば、無期懲役のこともあります。
死刑に賛成の人は、冤罪で死刑になる人がいても仕方ないと思っている気がします。

徳田靖之「飯塚事件再審 無実の人の死刑執行を暴く」(1)

2025年02月24日 | 死刑
1992年2月、小学校1年生の女の子2人が殺された飯塚事件では、久間三千年さんが逮捕され、死刑執行されています。
飯塚事件のドキュメンタリー木寺一孝『正義の行方』を見て、冤罪かどうか灰色だと思いました。

ところが、徳田靖之「飯塚事件再審 無実の人の死刑執行を暴く」(「FORUM90」vol.194)を読み、有罪はあり得ないと考えが変わりました。
徳田靖之弁護士はこのように語っています。

冤罪事件では虚偽の自白の信用性が問われることが多い。
久間三千年さんはあらゆる強引な取り調べ等を受けたが、自分はやっていないと言い続け、一度も自白はない。

死刑執行は2008年10月28日。
警察庁の科学警察研究所で、飯塚事件の有罪判決の証拠の柱となったMCT118型というDNA鑑定を行なった技官が、同じ方法で同じ時期に犯人を特定したのが足利事件。
この二つの事件の犯人のMCT118型は16-26型だと特定し、菅家利和さんも久間三千年さんも16-26型で犯人に違いないとして逮捕された。
しかし、足利事件は本田克也筑波大学教授、押田茂實日本大学教授たちがこれはおかしいということで再審請求が進み、東京高裁が最新のDNA型鑑定を行なうことを決めた。

この報道がされたのは2008年10月17日。
その直後の10月24日に法務省矯正局は、法務大臣に対して久間三千年さんの死刑執行の上申書を起案した。

通常、死刑執行の上申書が出されると、大臣はどういう事件だったかを調べ、そのうえで判を押すかどうか結論を出す。
しかし、上申書が提出された日に大臣が捺印した。
そして、4日後の10月28日に死刑が執行された。

推測すると、一貫して無実を主張していること、再審の準備をしていることが隠されたと思われる。
記者会見の際に、「大臣、久間さんは一貫して否認しています。再審準備中でした。そのことをご存じでしたか」という質問に、法務大臣は絶句した。

死刑執行は、足利事件で間もなく再審が開始されるかもしれないという想定を置いたうえで、久間さんの飯塚事件の再審が、再審開始無罪の方向に行くことを防ぎたいという思いが、この死刑執行に至ったのではないかと思わざるを得ないのです。

飯塚事件の確定判決の証拠は大きく三つの柱がある。
①科学警察研究所のDNA鑑定
被害者の膣内をぬぐった綿花から犯人のものと思われるDNA型が発見され、それが久間三千年さんの毛髪から検出されたDNA型と一致し、なおかつ血液型も一致した。

②女の子たちのランドセルや着衣、スカート等が発見された山中付近で、不審な車を目撃したというTさんの目撃証言。

③女の子たちが最後に目撃されたとされる飯塚市内の三差路で、女の子たちを目撃したという証言と、その時に付近に居合わせた人たちが、その直後に不審な紺色のワゴン車を見たという証言。

飯塚事件で久間三千年さんの死刑判決が出た証拠の三本の柱はいずれも問題があると、徳田靖之弁護士は語っています。

第一の柱
科警研に保管されていたネガフィルムと鑑定書に添付されていた写真を比べると、鑑定書に添付されていた写真はカットされている。
第一次再審請求のとき、本田克也筑波大学教授が「これは完全に改竄だ。ここにバンドが写っている。これが真犯人の可能背がある。これを見せたくないので写真を切り取っている」と証言した。

最初にマスコミが検察庁に問い合わせた時は、検察庁は鑑定書の台紙に余裕がなかったから切ったと弁明した。
しかし、鑑定書には余裕があった。
すると検察庁は、科警研の技官によると、このバンドはエラーだと実験によって確かめられたと言う。
実験で確かめたという写真を出してくれと言うと、その写真はない、DNA鑑定をした技官が定年で辞めるときに私物として処分したと言う。
エラーであることを確かめるために実験を何回したのかと尋ねると、3回だと言う。
科警研に送った綿花は電気泳動実験を100回以上できる量があった。
しかし、残った綿花はないと言う。

しかも鑑定書に添付されている写真は真っ黒。
なぜか。

被害児の心臓血から採取した試料から行なった実験データに久間さんの型とされた16という部位にバンドが映っている。
しかし、心臓血に他人のDNA型が入ることはない。
完全なエラーなので、実験をした人はまずいと思い、黒く焼き付けてエラーを隠した。

第一次再審の裁判官は、確定審の段階と同じような証拠として扱うことはできない、だから事実認定から外すという言い方をした。
これで第一の柱が崩れた。


第二の柱
Tさんの最初の供述は、カーブが連続する山道を車で下ってきたところ、停まっていた車があり、不審な人物がいたというもの。
「トヨタや日産ではない。車の横にラインがなかった。後ろのタイヤがダブルタイヤだった。中が見えなかったので、フィルムか何かを貼っていたと思う。人物はだいたい30代で、頭の前のほうが禿げていた。カッターシャツを着ていた」と述べた。
この車はマツダの後輪がダブルタイヤのボンゴ車で、久間三千年さんの車と一致している。

厳島行雄人間環境大学教授にこの供述書を見てもらうと、注意力を要するカーブで一瞬見た程度で、これほど多数の特徴を目撃し、なおかつそれを記憶して供述することはあり得ない、という意見だった。

第一次再審請求で、この目撃証言は怪しいと主張した。
裁判長は検察で何か追加して立証することはないかと言葉をかけた。
その時に検察官が開示した報告書に「3月7日捜査員現認 ラインはなかった」とあり、その右に「大坪部長」と書いてある。
3月9日にTさんの供述調書を作ったのが大坪巡査部長。

Tさんから供述調書を作る2日前に久間三千年さんの家に行き、車の特徴を頭に入れた。
マツダのウエストコーストにはラインがあるが、久間三千年さんは車のラインを消している。
そして、Tさんに会って供述調書を作っているので、「ラインがない」という不思議な供述になった。

だから、裁判所はT証言を排斥すると思った。
ところが、ダブルタイヤについては誘導された可能性はないから、証拠として維持できると言った。

しかし、後ろのタイヤがダブルタイヤだと通りすがりに見ることができるのか。
Tさんは窓を開け肘を出して運転してて、10mぐらい通りすぎたところで振り返って見たと説明した。
しかし、事件は2月。
窓ガラスを開けて運転し、カーブを曲がろうとする時に後ろを振り返るか。
https://news.ntv.co.jp/category/society/fsc710c66ec7dd47d889ab3a3ead896343

その後、警察は久間三千年さんの車を入手して検証した。
8m過ぎて振り返らないと、ダブルタイヤだとはわからない。
そこで、後ろを振り返ってダブルタイヤを見たのはおかしいということになって、前のタイヤと後ろのタイヤの大きさか違い、後ろのタイヤが小さかったからダブルタイヤだと判断したという供述調書に変えた。
起訴する前に供述調書を変えたことを裁判所は知っている。

一番許しがたいのは、捜査の指揮をとった主任警察官が高裁で、このT証言を得たので、犯行に使用された車がマツダで、後輪がダブルタイヤだと行きつき、飯塚市内の該当する車を洗い、久間三千年さんがそういう車を持っているという情報があり、久間三千年さんにたどり着いた、と証言したこと。

3月7日に久間三千年さんの家に行って車を見ているのに、嘘の証言を平気でする。
この偽証を裁判官はそのまま受け入れた。

残った証拠は後輪ダブルタイヤだけだから、これを叩けば第二次再審請求は開始決定が出るだろうと確信していた。
しかし、後輪ダブルタイヤだという部分だけを認め、そのほかの状況証拠を総合すると、久間さんが犯人であることに合理的疑いを抱く余地はないと、請求を棄却した。

小川秀世「袴田再審無罪から死刑廃止へ」(2)

2024年11月29日 | 死刑
袴田事件の再審裁判では静岡地裁は無罪判決が出ました。
しかし、弁護人である小川秀世さんは、他の事実についての認定については、判決文に納得できない部分がたくさんあると語っています。(「袴田再審無罪から死刑廃止へ」(「FORUM90」Vol.193))

ステテコには大量の血がついていたが、ズボンの裏生地はほとんど血がついていなかった。
ズボンの下にはいていたステテコについている血がズボンについていないのはおかしいじゃないかということに対して、一次再審の判決文には「犯行の途中でズボンを脱ぐこともある」と書いてある。
今回の判決でも同じような屁理屈で排斥している。

袴田さんが犯行時に履いていたとされるズボンを、袴田さんは太ももがつかえてはけなかった。
このことについても今回の判決は、袴田さんは73センチぐらいだから、この73センチのズボンは入ったはずだと言っている。

ズボンの生地にBという記号が打ってある。
検事が最高裁で「B体だ」と嘘をついた。
しかし、Bとはメーカーが決めた色の記号だった。
検事が嘘をついたことは否定できないのに、今回の裁判は「はけたはずだ」と言っている。

刑事司法制度は捜査機関に対する信頼が前提となって作られているから、捜査は密室で行われる。
だけど、監視する人がいない。
唯一検証できるのは取調べの録画の部分だけで、あとは全く検証できない。

裁判の証人尋問でたくさんの警察官が出ているが、取調べの録音テープが出てくるまでは嘘をついていた。
袴田さんが「ここで小便させてくれと言ったから便器を持ってきた」だとかいうことを証言している。
警察官が嘘をついたというのは録音テープがにはっきり残っている。

「B」という記号は色の記号だったという証拠を持ちながら、検察官はB体だと嘘をついた。
こういう証拠隠しや捏造をしていると、どんどん嘘をついて、嘘まみれの裁判資料になる。

裁判所は反省しない。
死刑再審の免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件が無罪判決になった後、裁判所はただ一つ、『自白の信用性』という本を作った。

冤罪事件はまず自白がある。
自白の信用性をきちんと判断するためにはどうしたらいいかと、たくさんの判例を2つの類型に分けた。

①自白の信用性が争われて無罪になった判決例
無実の人の自白にはこういう特徴があると書いてある。

②自白の信用性が争われたが有罪になった例
真犯人の自白にはこういう特徴があるということが書いてある。
自白の信用性が争われて有罪になった事件の例として布川事件、狭山事件、名張事件も入っている。

味噌に一年以上つけていた衣服が変色するかしないか、ズボンが縮むかどうか、実際にやってみればすぐにわかることです。
検察や警察は実験をしたので、袴田さんが有罪だと主張しているのでしょうか。

名張毒ぶどう酒事件の弁護人の話を聞いたことがあります。
死刑になるかもしれないから、やっていなかったら自白しない、自白したのは犯人だからだ、と裁判官は信じているんだろうと言われてました。

しかし、人間は弱いものです。
長時間の取調べ(人質司法)で心が折れることもあります。
また、刑事事件では、いくら被疑者が否認しても、無罪判決は極めて稀だそうです。
検察の証拠捏造、取調での威圧などが次々と明らかになっています。
畝本直美検事総長は警察の取調は全く問題ないと思っているのでしょうか。
冤罪は他人事ではないと思います。

畝本検事総長は矯正局長の時、更生保護の重要性を訴えています。
更生保護の理念と死刑は矛盾しています。

(追記)
「検事総長の談話は「袴田巌さんの名誉を毀損」…弁護団が賠償を求め国を提訴へ」
https://www.yomiuri.co.jp/national/20250213-OYT1T50232/
袴田巌さんを犯人扱いにしているんですから当然です。


小川秀世「袴田再審無罪から死刑廃止へ」(1)

2024年11月23日 | 死刑
袴田事件の再審裁判で静岡地裁は無罪判決を出しました。
ところが、畝本直美検事総長の談話を読むと、検察は今も有罪だと確信していることがわかります。

検事総長 談話 袴田巌さん無罪確定へ
改めて関係証拠を精査した結果、被告人が犯人であることの立証は可能であり、にもかかわらず4名もの尊い命が犠牲となった重大事犯につき、立証活動を行わないことは、検察の責務を放棄することになりかねないとの判断の下、静岡地裁における再審公判では、有罪立証を行うこととしました。
そして、袴田さんが相当な長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれてきたことにも配意し、迅速な訴訟遂行に努めるとともに、客観性の高い証拠を中心に据え、主張立証を尽くしてまいりました。
本判決では、いわゆる「5点の衣類」として発見された白半袖シャツに付着していた血痕のDNA型が袴田さんのものと一致するか、袴田さんは事件当時鉄紺色のズボンを着用することができたかといった多くの争点について、弁護人の主張が排斥されています。
しかしながら、1年以上みそ漬けにされた着衣の血痕の赤みは消失するか、との争点について、多くの科学者による「『赤み』が必ず消失することは科学的に説明できない」という見解やその根拠に十分な検討を加えないまま、醸造について専門性のない科学者の一見解に依拠し、「5点の衣類を1号タンク内で1年以上みそ漬けした場合には、その血痕は赤みを失って黒褐色化するものと認められる」と断定したことについては大きな疑念を抱かざるを得ません。
加えて、本判決は、消失するはずの赤みが残っていたということは、「5点の衣類」が捜査機関のねつ造であると断定した上、検察官もそれを承知で関与していたことを示唆していますが、何ら具体的な証拠や根拠が示されていません。
それどころか、理由中で判示された事実には、客観的に明らかな時系列や証拠関係とは明白に矛盾する内容も含まれている上、推論の過程には、論理則・経験則に反する部分が多々あり、本判決が「5点の衣類」を捜査機関のねつ造と断じたことには強い不満を抱かざるを得ません。
このように、本判決は、その理由中に多くの問題を含む到底承服できないものであり、控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容であると思われます。
しかしながら、再審請求審における司法判断が区々になったことなどにより、袴田さんが、結果として相当な長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれてきたことにも思いを致し、熟慮を重ねた結果、本判決につき検察が控訴し、その状況が継続することは相当ではないとの判断に至りました。(NHK2024年10月8日)

「客観性の高い証拠を中心に据え、主張立証を尽くし」、「多くの争点について、弁護人の主張が排斥されて」おり、しかも「理由中で判示された事実には、客観的に明らかな時系列や証拠関係とは明白に矛盾する内容も含まれている」にもかかわらず、なぜ検察は控訴しなかったのか、その理由には説得力がありません。 

それでも、捏造について「何ら具体的な証拠や根拠が示されて」いないし、「「5点の衣類」が捜査機関のねつ造であると断定した上、検察官もそれを承知で関与していたことを示唆していますが、何ら具体的な証拠や根拠が示されていません」と言われると、そうかなとも思いました。 

ところが、小川秀世「袴田再審無罪から死刑廃止へ」(「FORUM90」Vol.193)を読むと、警察、検察による証拠の捏造や隠匿があったとしか思えません。
小川秀世さんはこのような話をしています。

裁判所は3つの捏造に言及した。
①唯一証拠として採用された9月9日の検面調書。
②五点の衣類。
③五点の衣類とズボンのすそと一致する共布。

静岡地裁は検察官が警察と連携して「捏造した」はっきりと言っている。
検面調書、供述調書の捏造は検察官が勝手に書いたものに署名させたのではなく、自白を強要する取り調べがあった結果、袴田さんがその状況から逃れたいがために、警察からヒントをもらいながら、苦し紛れで話をしたことを書いたのが自白調書になっていることを、捏造であるという表現で言っている。

捏造認定の根拠は、証拠開示で録音テープが出てきて、強要しているところが客観的に出ている。
袴田さんがトイレに行きたいと言ったら、ここでやらせりゃいいというやりとりがある。

しかも、検察官と警察官が同じような内容の調書を作っているということで、連携して自白強要をしたと言った。
そこで連携しているのであれば、五点の衣類の捏造も連携したし、袴田さんの実家から警察が発見したと言っている、ズボンのすそを切り取ったとされる共布も捏造だと。

五点の衣類の捏造については、五点の衣類が一年二ヵ月も味噌に漬かっていれば、血痕の赤みが残っているはずはなく、黒褐色になるから、犯行着衣ではありえない。
犯行着衣でなかったら捏造しかない。

捏造したのは誰かというと、捜査機関しかない。
五点の衣類が捏造だと証拠排除されたら、有罪にする証拠がなくなったので、無罪を言い渡すことができるという議論です。

茶色になった緑色ブリーフの写真を40年前に見ていた。
味噌に漬かっていたのかと思うが、2010年に証拠開示で出てきた写真は緑色のまま。
今回の判決は、中心証拠である自白と五点の衣類が捏造だから無罪にしかないと言っている。

「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(13)

2024年04月01日 | 死刑
⑮ 死刑と裁判員裁判
裁判員裁判が行われるようになってから厳罰化しているそうです。
裁判員が被害者に同情し、応報感情や正義感情を持つからではないかと言われています。

しかし、被害者が処罰感情を持っているとしても、裁判員が被害者感情に同調して判決を決めるべきではありません。
自分の子供が殺されたらと考えることと、殺人事件の裁判員になることは違います。
裁判員にとってそれは難しいことだそうです。

宮下洋一『死刑のある国で生きる』で、精神鑑定医である村松太郎慶応大学医学部准教授が裁判員裁判について語っています。
精神障害の症状が影響した複雑な事件の判断を、裁判員に委ねるには無理があります。無理を通すために事件が単純化されている。法廷に出てくる前に、複雑な部分が削ぎ落とされてしまう。裁判員裁判が素人判断だからよくないのではなく、裁判員に提出されるデータが限られることが深刻な問題です。限られたデータによって事件が単純化された時点で、もはや真実は分からなくなっていると思います。
鑑定が増えている大きな理由のひとつとしては、裁判員には判断が難しい責任能力のことは、公判前に済ませたいという裁判所の狙いが見え隠れしています。
村松太郎さんは「裁判員裁判にはまったく反対」と明言し、「廃止すべきか、適用を見直すべき」と明言しています。

残酷な殺し方をするのは脳の機能のひとつ。
前頭葉が脳腫瘍、または、血管障害や外傷などで損傷を受けた人は、後天性サイコパスになり得る。
前頭側頭型認知症などの認知症の変性疾患もそのひとつとされ、倫理機能の低下をもたらすことがある。
そういった症状があって犯罪を犯した時、それが本人の責任だとどこまで言えるのか。突き詰めると、先天的にそういう脳を持って生まれた人の責任をどう考えるのかという話になりますが、追及していくと誰の責任でもなくなるのです。
自分は絶対にそんなことをしないと思っていても、脳の損傷などでそんなことをすることがあるかもしれないわけです。

重大事件を起こした人が精神疾患患者だったとしても、極刑が避けられないと思うことがあるかという質問に、このように答えています。
精神鑑定の作業を進めて被告人の病気がよく分かるようになるにつれ、病気がなければこの人は絶対こんなことはやらなかったはずで、それなのに死刑にしていいのか、と思うこともあります。しかしそうすると、次の瞬間に、病気じゃない人は死刑にしていのかという問いが出てきて、私はこれに応えられない状態です。

心神喪失(精神の障害によって自己の行為の善悪を判断できないか、判断したように行動する能力がない者)は無罪とされます。
あるいは、アルコールや薬物の依存症者が事件を起こし、事件のことを覚えていないと主張することがあります。
そうした場合、情状酌量すべきかどうか判断を裁判員はできないと思います。

⑯ 暴力と話しあい
世界各地で争いが絶えません。
スーダン内戦は1983年から。
ソマリア内戦は1988年から。
シリア内戦は2011年から。
イエメン内戦は2015年から。
ミャンマーのクーデターは2021年。
ロシアのウクライナ侵攻は2022年。
イスラエルのガザ攻撃は2023年。

毎田周一「暴力は言葉の放棄だ」という言葉があります。
紛争が起きたら、暴力(武力)ではなく言葉(外交)で問題解決を図るべきです。
しかし、現実は力の強い者の勝ちという状況です。

平野啓一郎『死刑について』にこうあります。
本来、人間の社会の中では、自分の意思を実現させたい時、相手と話し合いをしなければなりません。自分がこうしたいと思っても、そうしたくないと思う人もいる。その時には、相手の意見を聞いて、相手を説得したり、あるいは、自分が譲歩したりという様々なプロセスを経て、たとえ少しであっても、自分の意思が実現できる方向に動いていくわけです。民主主義的な社会の最も基本的な仕組みとも言えます。
ところが、暴力というのは、そうした複雑なプロセスを経ることのない、非常に単純な方法です。相手を力でねじ伏せて自分の言うことを通してしまう。非常に単純であるが故に、無理の大きい方法です。到底受け入れられないと感じている人を従わせるわけですから、これでは、正しいことも、通らなくなるし、そもそも何が正しいのかという議論も失われてしまいます。

犯罪を犯した人に対して、口で言ってもわからないなら、体に教え込むしかないというやり方は間違いです。
力で抑えつけることで犯罪が減り、犯罪者が更生するとは思えません。

入江杏さんはこのように言っています。
最後に私が到達したのは、殺人には殺人で、暴力には暴力で報いたなら、凶悪犯罪が引き起こした暴力の連鎖を断ちきることはできない、という想いだ。人間同士の許しあいは、犯罪の事実をうやむやにすることでも、正しい裁判を行わずに犯罪者を野放しにすることでもない。「ゆるし」とは一つの長い「あゆみ」だ。
https://www.crimeinfo.jp/wp-content/uploads/2018/09/07.pdf

人を殺さない、傷つけないという原則を守っていきたいです。