三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

倉塚平『ユートピアと性』(2)

2015年05月26日 | 問題のある考え

倉塚平『ユートピアと性』によると、アメリカでは、1663年から1970年までに、大小約600ものユートピア・コミュニティがつくられています。
もっとも、存続期間が1年以内というものが圧倒的に多く、19世紀のユートピアのうち、一世代以上続いたのは9つしかないそうです。

なぜアメリカに多くのユートピア・コミュニティがつくられたのか、倉塚平氏は2つ理由をあげています。
1 アメリカが自由な空間、処女地だった
2 千年王国思想がアメリカの市民宗教といわれるほど、広く行き渡っていた

千年王国思想とは、イエスが再臨し、千年王国が出現するという考えで、前千年王国主義と後千年王国主義とがあります。
ヨーロッパでは、千年王国樹立に先立って戦争、飢饉、疫病といった状況が生じ、キリストが再臨し、千年王国が始まるという前千年王国主義が支配的でした。
キリストの再臨→千年王国の樹立
終末をもたらすのは神です

アメリカでは後千年王国主義が支配的で、黄金時代が絶頂に達した時点でキリストが再臨し、終末となります。
千年王国の樹立→キリストの再臨
こちらだと千年王国実現の主体は人間で、人間の理性と努力、福音の宣布と全人類の信仰によって千年王国が実現します。

一人でも多くの人が罪を悔い改めて回心すれば、千年王国は近づいてくる。
だが、集会にも来ることができない悲惨な状態にある人々を不信仰のまま放置したら、それだけ栄光の日は遠ざかる。
こうして、リバイバル運動(信仰回復運動)は奴隷制廃止、禁酒、女性の地位向上、貧困者の救済、売春婦の更生などの社会改良運動へと発展し、ユートピア運動が活発になった。

倉塚平氏は、宗教的ユートピア、社会主義的ユートピア・世俗的ユートピア、新しい類型のユートピアに分けます。
ヨーロッパで迫害されていたキリスト教異端派セクトがアメリカに渡ってユートピア・コミュニティの建設をする。
セクト的ユートピアの特徴は、カリスマ的教祖のもとに団結し、極度に厳格な規律と献身の体系を持っている。

それに対して、空想社会主義者の世俗的ユートピア、たとえばフーリエ主義ユートピアの建設も盛んに行われた。

オナイダの教祖ジョン・ハンフリー・ノイズはフーリエの影響を受けていたそうです。
私はフーリエの『四運動の理論』を読んだことがありますが、単なる妄想としか思えませんでした。

1960年代末から70年代にかけて、宗教的や世俗的とは異なる、新しい類型のユートピア建設の波が起きた。

自己実現、自己の成長が目的で、理論的綱領がなければ教祖もおらず、厳格な規律や絶対的忠誠の要求もない。
新しい類型のユートピアとは、ヒッピーやニューエイジ的なコミューンのことでしょうか。

倉塚平氏は次の二つにも分けています。
・伝統的正統的ユートピア(ハード・ユートピア)
完璧な制度をつくりあげ、その中に人々を組み入れて、悪徳の発生する余地を奪い、一人は万人のため、万人は一人のためという公共精神のみを第二の天性たらしめようという、制度を通じて人間変革の発想のもとに構築された共同体。
公共精神を目的意識的に注入するための集団的思想感情変革の体系や統治のための厳格なヒエラルキー、あるいは違反者を罰する強制装置が、共同体を支える裏の部分としてある。

・隠遁型、アナーキスト型ユートピア(ソフト・ユートピア)
制度こそが人間疎外を生み出すものだと考え、完璧な制度をつくって人間を変革しようという発想に対立する。
ゆえに、制度を最小限化し、制度に拘束されないあるがままの人間を肯定し、人工に対して自然との一体化が理想となる。

なぜユートピアは崩壊するのか、その原因として5つあげています。
1 無計画性
2 方針をめぐる内部分裂
3 教祖の死亡
教祖の後継者をどうするか、教祖がいても、カリスマが失われると、ユートピア集団は対立、内紛を起こして分裂する。
4 会員の減少
5 経済的繁栄
5番目の経済的繁栄がユートピア崩壊の主たる原因だと倉塚平氏は言っています。
人々は贅沢に流れ、禁欲精神が失われ、肉体労働を厭い、規律は衰え、エゴイズムがはびこる。
豊かになることを求めてユートピアを建設し、豊かになることによって崩れ去るわけです。

迫害や苦難には耐えぬくが、豊かさには弱いのだ。

マックス・ウェーバーが中世修道院について「禁欲は富を生み、富は規律を弛緩させ、崩壊に導く」と述べているそうですが、インドの仏教僧院もそうだったのでしょうか。

プラトン、モア、カムパネラらユートピア主義者は、いずれもその共和国の市民にふさわしくない下賎な労働を奴隷の肩の上に転嫁した。イスラエルのキブツでも外のアラブ人労働者を多数傭って自由で豊かである。オナイダでも外の労働者の負担によって労働のスポーツ化や楽しいペア労働が可能となった。だが中世の修道院も豊かになって規律が弛緩したのは農奴労働にすっかり依拠するに至ったためである。アメリカのユートピアで成功したものは労働者を傭ったためだが、崩れていく原因の一つのその富のためである。


オナイダ・コミュニティは、最初は生活に困窮していたが、罠の製造によって資産が増え、豊かになり、そして外部から賃金労働者をやとうようになった。
当時の労働条件は過酷で、罠工場では始業時間は午前5時半、終業時間が午後7時、食事時間は各30分で、実働12時間半。
絹糸工場では31人の少女が働き、そのうち12人は10歳から15歳。
それでも高賃金、短い労働時間、友好的雇用関係という点では、外の労働条件より優れていた。

ユートピア崩壊の原因としてもう一つ、閉鎖的な空間で生活しているので、第二、第三世代は社会悪を知らず、無葛藤的人間として成長したため、この世の誘惑に抵抗する術を知らず、世俗の波に溺れるということがあります。
「売家と唐様で書く三代目」じゃないですが、ユートピアでも苦労を知らずに育った三代目の問題があるわけです。

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倉塚平『ユートピアと性』(1)

2015年05月23日 | 問題のある考え

倉塚平『ユートピアと性 オナイダ・コミュニティの複合婚実験』はフリーセックスのユートピアについて書かれているとどこかで読み、図書館で借りました。
『ユートピアと性』によると、オナイダ・コミュニティはいわゆるフリーセックス、自由恋愛が認められていたわけではなく、セックスのコミュニティ管理を実行していたとのことです。
まとめてみましょう。

ジョン・ハンフリー・ノイズは1811年生まれ。
1848年にニューヨーク州北部のオナイダ湖の近くの農場で、信奉者である数百人のキリスト教的完全主義者たちと共同生活を営み、コミュニティは1879年に崩壊するまでの31年間存続した。

ジョン・ハンフリー・ノイズは次のような考えを説いています。

キリストの説く隣人愛の教えとは、万人を区別することなく愛することである。特定対象に愛を集中することは独占的所有欲から発するものであり、差別と不和と分裂を生む悪魔の業に等しい。さらにこの無差別的隣人愛は、たんに精神的レベルに止まるべきではなく、肉体的レベルにまで及ばなければならない。なぜなら神は性の交わりに二種類の機能をお与えになったからである。すなわち生殖という劣った機能と人を愛するという優れた社会的機能である。留保的性交によって受胎を避け、後者の機能のみを発揮しつつ、コミュニティの各人はその異性のすべてと愛の交わりをしなければならない。それは無私の精神から発するものであり、罪から解放された完全主義者がまさしく地上に天国をもたらさんとする行為なのであると。


言葉の説明をしますと、「完全主義者」とは、罪を犯すことのない信仰者になったと称する人。

完全主義者は完全な社会を求め、地上における天国を求め、社会改良運動に乗り出し、悲惨な境遇にある人たちが罪を犯すことのないように社会を改善しようとした。
中には、ユートピア建設によって黄金時代の到来を目指す人たちもいた。
完全主義者は罪から解放されているので、何をしてもいいということになる。

「留保性交」とは、妊娠することを防ぐために、性交はするが射精しないという、ノイズの大発見。

そもそも男は霊的にも女の上に立つ存在であるが、その理由の一つとして自制心があることである。女をなんどもオルガスムに達しさせてやり、しかも自分はそれに達するのを我慢してこそ、神がその似姿として作り給うた者にふさわしい。

接して漏らさずということらしいです。

性交それ自体は自然な行為で飲食と同様恥ずべきものではない。いやそれどころか、愛という崇高な目的に奉仕する。神はそのためにこそ男女の性器を作られたのだから、それを使用しなければならない。

ほほ~という教えですが、オナイダ・コミュニティではフリーセックスや乱交を認めていたわけではありません。

ノイズの複合婚は厳しいルールと規律に基づくコミュニティ管理下のセックスであった。

央委員会の管理下に置かれ、淫乱な行為は厳しく排除されたし、ある特定パートナーと継続的に交わることはスペシャル・ラブとして許可されなかった。彼らはこの性的関係を複合結婚と呼んだ。


複合婚を成り立たせた前提を倉塚平氏は3つあげています。
1 留保性交の厳格な実施
のちに妊娠、出産が認められますが、男女の組み合わせも管理しています。

2 スペシャル・ラブの禁止

母性愛、夫婦愛、家族愛を否定し、一夫一妻制は奴隷化の制度と見なした。
夫婦関係は加入と同時に解消され、男女二人だけの排他的な恋愛はスペシャル・ラブの名のもとにエゴイズムとして糾弾され、引き裂かれた。
親が自分の子をとくに可愛がることもスペシャル・ラブとして批判された。
男女の愛、親子の愛、友情といった、特定個人に対する愛はコミュニティを崩壊させる最も強力な力として働くからである。

3 組み合わせの上長者優位

男の子は13歳~17歳で複合婚にイニシエートされるが、20歳ぐらいまでは更年期後の女性としか交わることを許されなかった。
ある調査では、コミュニティで育った女性がイニシエートされた年齢は、10歳1名、12歳7名、13歳8名、14歳4名、15歳2名、18歳1名で、初潮年齢と同じ。
初潮が始まるとイニシエートされた。
イニシエートしたのは、ノイズがコミュニティにいるときはいつも、ノイズが外に行っているときは側近の2、3の者が行なった。

ノイズは性交に神の生命の霊を媒介伝達する機能を認めた。

神の霊に捉われる二度目の回心体験を得るために「霊の人」との性交を通じてその霊を伝達してもらわなければならない。


1869年から優性主義思想による出産が認められた。
カップルはノイズを中心とする中央メンバーが決めたが、カップルの関係は永続的なものではない。
ノイズはというと、8~10人の子供の父親になった。

1879年8月、複合婚を廃止。

1881年1月、有限会社に組織替えした。
ノイズはナイアガラの滝の近くにある豪邸で優雅な余生を送り、1886年、この世を去った。
何ともうらやましい人生です。

オナイダ・コミュニティは巨大な株式会社に成長し、1987年の売り上げは2億6800万ドルとのことです。

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死刑囚の権利保護

2015年05月17日 | 死刑

死刑囚の権利保護、強く要請する決議 国連人権理事会
 国連人権理事会はスイス・ジュネーブで26日、死刑廃止に向け、死刑制度が残る国に死刑囚の権利保護などを強く要請する決議案を、賛成29、反対10、棄権8で採択した。(略)朝日新聞 2014年6月26日

2014年7月15日から16日にわたって、国連自由権規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)における人権状況を審査する自由権規約委員会による日本審査がジュネーブで行われ、以下のことなどが懸念されています。
・死刑確定者が執行までに最長で40年も昼夜間単独室に収容されていること
・死刑確定者もその家族も執行日を事前に通知されないこと
・死刑確定者と弁護士との秘密交通権が保障されていないこと
・執行に直面する人々が「心神喪失の状態にある」か否かを判断するための精神鑑定が独立したものでないこと
・再審あるいは恩赦の請求が刑の執行を延期する効果を持たず,実効的でないこと
・死刑が,袴田巌の事件を含め,自白強要の結果として様々な機会で科されていること

「FORUM90 vol.141」によると、日本政府審査において日本政府は、死刑囚のみの監房はなく、窓もあり、新鮮な空気に自然光の入る、清潔な独房であるという写真を示して反論したそうです。

ところが、新獄舎が完成した大阪拘置所では、「死刑確定者の収容体制が,残虐,非人道的又は品位を傷付ける取扱い又は刑罰にならないよう保障すること」はなされていないように感じます。
最新の警備システムで管理され、死刑囚は職員との会話も壁に取り付けられたマイクでインターホン越しにする。
刑務官とさえ顔を合わせて話せない。
向かいの居室内は見えぬようガラスで遮蔽されており、外向きの窓は全面目隠し、天候もわからない。
水道の蛇口はなく、洗面台に埋め込まれた出口からボタンを押すと15秒ほど水圧の弱い水が出る。
食事を出し入れする小窓も、廊下から閉められ、房内は密閉状態。

かつて大阪拘置所では死刑囚の俳句の会があり、福岡拘置所では死刑囚のソフトボールチームがありました。
昭和50年以前の東京拘置所の運動場には、死刑囚が花を植えたり、刑務官が朝顔を育てているスペースがあり、レンギョウ、あじさい、ダリアが咲いていたが、保安上の理由から刈り取られてしまったそうです。

自然や人間との関わりを断ち切ろうとしているわけで、「非人道的」だと思います。
死刑囚はそれだけのことをしたのだから苦しむのは当然だ、死刑囚の権利なんて、と感じる人がいるでしょうが、そうした感覚は中国やサウジアラビアのような国民の人権すら認めない国と一緒なわけです。

「拷問あるいは不当な処遇によって得られた自白が証拠として援用されないことを確保すること」ですが、裁判員経験者である田口真義さんは「裁判員裁判は冤罪を防げるか」で、裁判員裁判に冤罪が存在する要因として3つあげています。
1 不全な判断材料
2 感情による評議の傾向
3 世論の形成及び圧力

「不全な判断材料」というのは、証拠が足りない、あるいはあるはずの証拠がないということ。
そして、証人のあり方は、証人尋問で行われる検察官との主尋問は演劇じみている。
公判前整理手続にも問題があり、非公開なので、裁判員にはまったく知らされない。
裁判員に負担にならないようにというので、公判前整理手続の期間がどんどん延びている。

「感情による評議の傾向」とは、劇場型の法廷が展開されるということ。
一番の問題は被害者等参加制度で、裁判員に与える影響は無視できない。
被害者の声が大きくなればなるほど、それに傾いていく。

「世論の形成及び圧力」とは、同調圧力に左右されるということ。
評議室のなかでも、人がそういうのなら自分もと、手を上げてしまう傾向がある。
そして、マスコミの報道次第で裁判員の事件の受けとめ方が違ってくる。
裁判官も世間を大変気にしている。
この要因を是正するためにまずできるのは取調の可視化である。

鹿児島県議選を巡る選挙違反事件(志布志事件)で無罪が確定した元被告ら17人が、損害賠償を求めた訴訟で、鹿児島地裁は国と県に賠償を命じる判決を出しています。
全面可視化をしていればこんな冤罪事件は起きないはずなのに、どうして検察や警察はいやがるのかと思います。

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民主主義

2015年05月07日 | 日記

民主主義とは何か、何人かの文章を集めてみました。
ちょっとずつ違っていますが、基本的なところでは共通しています。

大島渚
多数決は、一部の力のある者が横暴になることを防ぐためのもの。集団いじめのようになっては本来の意義から外れてしまう。それで、民主主義の基本原則はいつも、多数の利益と少数の尊重が並列される。だから、多数決はそれ自体が問題ではなく、それをどこまで適応させるかが問題になる。

 

渡辺靖
民主主義は多数決とイコールではない。むしろ、勝者(多数派)が敗者(少数派)に対してどれだけ耳を傾け、信頼と共感を勝ち得てゆくかによって真価が問われる。「数の論理」を盾に敗者(少数派)を軽んずることは、トクヴィルが懸念した「多数派の専制」に他ならない。

民主主義=多数決ではなく、少数者を大切にするのが民主主義なんだということです。

平川宗信
日本では「民主主義イコール多数決」だと考えられがちですが、民主主義は決して多数決ではありません。その本来の意味は「自治」で、自分たちのことは自分たちで決める、その権限と責任を引き受けるということです。よく「市民自治」と言われますが、「市民が自治を行う」、これが民主主義です。

「民」と「公」について。

神野直彦
民主主義の「民」は支配される者という意味ですし、「主」は支配する者を意味します。

つまり、民主主義とは「支配される者が支配すること」を意味します。
デモクラシーの「デモス」とは民衆、「クラシー」は権力、民衆が権力を握ることがデモクラシーだそうです。
「公」ということについて宇沢弘文は、ゲーテの、封建領主や貴族が独占している庭園をすべての社会の構成員に開放して公園をつくろうという「公園の思想」を紹介しています。
公園とはみんなのもの。
中国で公用電話とは誰もが利用できる電話。
「公」とはみんなに開かれたものということになります。
ところが、日本で「公用車」といえば、誰もが利用できる車ではなく、官僚が使用する車のことを指すように、「官」のことになっています。

神野直彦
日本では「公」に「官」というレッテルを貼ってしまいます。その上で「官から民へ」と、心ないメディアが騒ぎ立てます。(略)「民」には市場とか、企業とかいう意味はありません。(略)
「官から民へ」という合い言葉は、「公」の領域を、市場の領域に委ねるべきだとか、企業に委ねるべきだとかいう意味として使われるのです。

「官から民へ」というといいことのように感じますが、公共財の私有化です。

誰もが排除されなかった「公」の領域が、豊かな者の手に委ねられ、貧しき者が排除されてしまうことになるわけです。

渡辺靖『アメリカン・デモクラシーの逆説』によると、アメリカでは1990年代半ば頃から「政府による規制」よりも「市場による規制」、つまり企業のほうが政府よりも優れた市場調整機能を持つという発想が強まり、年金保険や健康保険、公共交通、エネルギー供給、刑務所、軍事・安全保障、学校教育や大学教育に関わる広い分野で民営化が進んだそうです。
民営化・規制緩和→小さな政府→公共サービスの低下(教育、インフラ、医療、年金、住宅など)
というわけです。

水島朝穂
民主主義とは突き詰めると「多数決」であり、多数者の立場を重視するのです。立憲主義は違うのです。多数者ではなく少数者を守るために立憲主義はあるのです。つまり、端的に言うと立憲主義は「反多数者主義」なのです。民意を最重視する政治家もいます。彼らは政策を実行するのに「民意だから」と言いつつ、個人の権利を侵害してきます。それを「民意にかかわらず」と少数者を守るのが立憲主義なのです。
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野田正彰『うつに非ず』

2015年05月02日 | 

野田正彰『うつに非ず』を読んだあと、野田正彰氏の講演を聴く機会がありました。
講演の中から、自死、ウツ病、抗ウツ剤についての話をまとめてみます。

「自殺はウツ病です」というキャンペーンがされ、ウツ病の人は医療にかからず死んでいくんだと思われているが、実態は全然違う。
自死者の85%は精神科に通っており、しかも大半の人は薬を飲みながら亡くなっている。

自死者の数は徐々に減っている。
それは不況が落ちついたということと、消費者金融対策がようやく行われるようになったからだと思う。
消費者金融、つまりサラ金を育てたのは大蔵省で、局長は退官したらサラ金の役員に天下りしていた。
高金利のせいなのに、多重債務に陥る人が悪いんだとされた。

日本ではお金を借りた時に生命保険をかけさせる。
そして親族への連帯保証制度があり、保証を公的に行うよう制度化すべきなのに、明治時代の民法のまま維持している。
経済的に行き詰まった時に、せめて家族に家と土地を残したい、親族に迷惑をかけたくないと自ら死んでしまう。

ところが、借金で行き詰まったり、身体が悪くなったり、自殺の原因は違っていて、さまざまな理由があるのに、医師はすべてウツ病のせいにしてしまう。
これにマスコミが乗って、新聞やテレビでは「ウツ病は心の風邪だから、薬を飲みましょう」と薬の宣伝をしている。

ウツ病と抑ウツ状態は全然違う。
さまざまな形でその人への何らかの負荷がかけられて、本人がそれに苦しんでなる状態が抑ウツ状態で、「何でこんなことになったんだ」「何でこんなことをするんだ」と焦燥感を持つ。

本来のウツ病は30歳までに起こり、個人の体質的な面がある。
理由もなく、負荷もなく、感情が湧いてこない、意欲も湧いてこない状態で、楽しみを楽しめない、悲しみを悲しめない。

ウツ病は時代によって増えるものではないし、もともとそんな多い病気ではなかったのを、ご飯食べなくなった、寝れなくなった、だからウツ病だということにして薬を出す。

ウツ病と抑ウツ状態をごちゃまぜにしてウツ病にしたのは、90年代からの終わりで、その動きはアメリカで作られた。
その背景にあるのはウツ病の薬の開発ということだった。

抗ウツ剤なるものは80年代に精神剤安定剤の代替物として開発され、それを抗ウツ剤として製薬会社が売り出した。
どうしてウツ病になるか、セロトニンとウツ病が関係があるとされているが、実はどうなのかわかっていない。

2010年のウツ病患者は2000年に比べて3倍を超えている。
病気はそんなに急激に増えるものではなく、病気が2倍とか3倍になることは強力な伝染病でないかぎりあり得ない。
そんなにウツ病が増えたのは、診断基準がいい加減だということでしか説明がつかない。

ウツ病が3倍になったのに、2000年代の抗ウツ剤の売り上げは100億円ちょっとなのに、2010年には1100億円を超え、10倍になっている。

いかに今の医療が腐っているかという一例として、2009年に鑑定したケースを紹介する。
30代の奥さんが近くの精神科に行ったら、「あなたはウツ病の可能性があるから、東大病院に行きなさい」と言われ、東大病院では「ウツ病だから入院しましょう」と診断された。
そして夫に「里心がついてはいけないので、二週間は面会に来ないで下さい」と医者は言った。
二週間後に行ったら、奥さんの顔はげっそりとして、よだれを流し、オムツを当てられてベットに横たわっているという変わり果てた姿だった。
夫は大変なことになったと思ったけど、何も言えずに帰った。
一週間後にお金を払いに行くと、30何万円で、3分の1だから、東大病院は100万円の医療費を取っていたことになる。
弁護士に相談して、カルテや健康保険の記録を取ると、奥さんの病名はウツ病の他にエイズ、統合失調症、梅毒の疑い、テンカンの疑い、神経症、肝炎など22の病名が書いてあった。
そもそもウツ病と統合失調症と神経症とテンカンが併発することは絶対にない。
入院した翌日から抗ウツ剤と精神安定剤の点滴が行われ、同時に電気ショックが行われている。
電気ショックを1回すると病院は4万円のお金が入る。
電気ショックはコンピュータに強い電圧をかけて破壊するようなものだから、健忘症になり、自分の名前もはっきりしなくなることがある。
それで悩みを忘れさせるという効果があるというわけだが、とんでもないことで、最悪の犯罪だとしか言いようがない。
東大病院は請求書が誤って記載していたという言い訳をし、一部訂正、たとえば精神療法をしてないのにしているというので、お金を返してきた。
それを保険診療機関は認めた。
通常、こういう不正があると保険医を取り消されるが、東大病院を取り消すと困るから、このケースについてだけお金を返すことになった。
大学病院でも今やこの程度です。

以上です。
野田正彰氏の話を聞き、ウツ病で入院したら薬漬けにされ、よだれを垂らしてぼうーっとするようになったとか、処方薬の依存症になった人が多いということを思い出しました。
かといって、薬を飲まないというのも大丈夫かなと思います。
それと、「自殺」を「自死」と言うようになりましたが、『ウツの非ず』ではそのことも批判しています。
というのが、自殺の原因の多くは経済的なことや、パワハラ、過労死など労働条件に問題があるのに、「自死」という言葉は個人の問題(ウツ病)に歪曲することになる。
自殺するまで追い詰める環境を変えていくのが先決だ、という野田正彰氏の意見はもっともだと思います。

人の気分は直線ではない。嫌なことがあれば気分が沈む。むしろ、嫌なことがあっても気分が沈まない人は活き活きと生きていないと言えよう。そして嫌なことがあろうとなかろうと、その人の基本的な気分はゆっくり動いている。以前は嫌なことがあってもそれほど気にならなかったのに、ある時は気分が沈むこともある。
気分がゆっくりと揺れていることを認め、そのなかで苦しみや不安を直視することは、自分が何に向かって生きているのか、何を幸せとして生きているのかを考える契機となる。掛けられた負荷を通して、人は自分の人生を豊かにしていくのである。(野田正彰『うつに非ず』
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