今年の映画ベストテンを選ぼうと、見に行った映画の題名を書いているノートを開く。
悲しいかな、記憶力の減退のため、題名を見てもどういう内容だったか覚えていないものが多い。
それと感動力の衰退。
周防正行『それでもボクはやってない』やロバート・デ・ニーロ『グッド・シェパード』を見た時は、今年のベスト1だと思ったのだが、はや印象が薄れてしまっているんだからどうしようもない。
ということで順位をつけることはできないが、面白かったなとまだ記憶している映画を並べると、
山下敦弘『天然コケッコー』のさわやかさと石見弁
コリーヌ・セロー『サン・ジャックへの道』のユーモアと景色の美しさ
ラリー・チャールズ『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』のぶっ飛びと毒
新海誠『秒速5センチメートル』の切なさ
クリストファー・ノーラン『プレステージ』にはだまされた
といったところです。
見るんじゃなかったと思った映画。
荻上直子『めがね』「何が自由か、知っている。」
「自由」とか「たそがれる」とかは自分の価値観を押しつけることなのか。
河瀬直美『殯の森』
山の中からどうして出ようとしないのか。
ニール・ジョーダン『ブレイブ ワン』「許せますか、彼女の“選択”」
許せるわけない。
被害者だったら何をしても構わないのか。
マイケル・ウィンターボトム『マイティ・ハート』「彼女は愛する人を待ち続けた。生まれてくる新しい命と共に…。」
「南無妙法蓮華経」と共に、が正しい。
フランスでは創価学会がカルトと認定されていることを制作者は知っているのか。
フランシス・ローレンス『アイ・アム・レジェンド』「地球最後の男に希望はあるのか」
すべては「神のご計画」ということなのか。
原作のラストだとこの題名が効いてくるが、映画だと人類の救世主になってしまう。
他多数あり。
ニューエイジ系宗教の本を読むと、量子力学がどうしたこうしたとか、遺伝子がなんたらとか書いてあることが多い。
教義の正しさをを科学によって証明しようとして、逆に墓穴を掘っている。
先日、私の家の郵便受けに「陽光ライフ」№204が入っていた。
面白い。
前文引用したいが、長いので半分ぐらい引用。
「三次元世界から高次元世界へ
二十世紀、素粒子物理学は飛躍的進展を遂げました。湯川博士の中間子論が認められノーベル物理学賞を受賞したことをはじめ、原子核を構成する陽子や中性子が、もっと小さなクォークからできていることが解明されています。さらに理論上では、ヒッグス粒子の存在が考えられていますが、仮に発見されないとすれば、クォークなどにさらに内部構造がある可能性があることも否定できなくなり、素粒子物理学は未来への分岐点に立たされていると言えるでしょう。今まさに、見えない世界の入り口にさしかかった、すなわち三次元から四次元以上の高次元世界の入り口に一歩足を踏み入れたと言えるのではないでしょうか。
このように最先端科学は物質を探求し、極微の世界へと踏み込んでまいりました。
一九六〇年代前半、ヒッグス粒子はおろかクォーク理論も提唱されていない時代に、崇教真光の初代教え主・岡田光玉師は「物質を追求していくと原子から素粒子の世界に入り、ついには量子力学では捕まえることのできない真空の世界に到達するであろう」と説かれ、真空の世界にこそおそるべきパワーが秘められており、その力界こそが霊界であることを示されたのです。
物理科学の領域はどんどん目に見えない世界へ突入し、素粒子の世界が物質の世界に影響を与えていることが明らかになっております。素粒子の世界の奥には霊の世界が存在することに、やがては到達することでしょう」
(略)
「人間の細胞の核にある遺伝子には、わずか一グラムの二千億分の一という極微の空間に、百科事典千冊分に相当する膨大な情報が書き込まれているというのです。これは人間の意志で書かれたものではありません。人間は神様のつくられた最高の芸術品なのです。その人間の身体は霊魂が抜けてしまうと、生命が止まってしまう儚いものなのです。
万物の源泉は霊の世界にあり、人間の場合も霊魂が心や身体に対して主体的な働きをするといった強い影響力をもっています。この霊の世界が実は、人間の幸・不幸への重大なターニングポイント(分岐点)を握っていると言っても過言ではないのです。
幸福へのミチしるべ
そこで、幸福とは「健」と「和」と「富」の三つをそろえることが最も基本的要件となってまいります」
(略)
「このように「健」と「和」と「富」の三つがそろっている家庭が少ないのが現状ではないでしょうか? ほとんどの人が、あるいは家庭が、病気で苦しんでいる、経済的不安で困っている、争いごと等、何かしら悩まされています。
真光の業で霊障解消へ
その真因は何かというと「霊障」(霊的障害)にあります。霊は、恨みや憎しみ、または頼みごとや戒めなど、さまざまな感情や理由で人に憑依します。そして、憑いた人の心や肉体を自由に操って苦しめ悩ましめ、生活に悪影響を及ぼします。これを「霊障」と言っています。憑かれた人は、まずその人自身の行動を左右されるようになります」
(略)
「実は、現代人の八十%以上は、さまざまな霊的な障害に侵されて不幸になっているのです。幸福になるには、まず霊障を解消することが何よりも大切になってくるわけです。その霊障を解消する業が、手のひらから高次元の真の光を放射し、一切を浄め、あらゆる悩みや問題を解消していく「真光の業」であるのです」
この文章の流れから言うと、原子は素粒子でできており、さらに素粒子は霊によってできている、というふうに読める。
それが正しいかはともかくとして、どうして「この霊の世界が実は、人間の幸・不幸への重大なターニングポイント(分岐点)を握っている」ということになるのだろうか。
「人間の幸・不幸」とは「健」と「和」と「富」、つまり貧病争だが、貧病争の苦しみと素粒子とがどう関係しているのだろうか。
ま、こんな突っ込みするのも恥ずかしいぐらいだが、誰もが考えるであろう、そのあたりの論理の飛躍に、信者の方は「あれっ」と思わないのか、不思議である。
少なくとも「陽光ライフ」を我が家の郵便入れに入れた人は、是非このすばらしい教えを読んでもらいたいと思っているのだろう。
次号も是非いただきたいと思う。
柿田睦夫『霊・因縁・たたり』よると、「手かざし(浄霊)」には二つの系統があるそうだ。
・世界救世教系 手のひらからでた霊光が相手に伝わり、あらゆる不幸の根本原因となる霊の曇りを解消する。それにより浄化作用がすすみ、病気や不幸、災難を解消する。そうして、この世から貧病争をなくし、地上天国を建設する。
・真光系 貧病争などの不幸は憑依霊の霊障だから、手かざし(真光の業)をほどこすことで、なぜとりついたのかが解明し、悪霊を鎮める。
これにしても、「あらゆる不幸の根本原因となる霊の曇り」や「貧病争などの不幸は憑依霊の霊障」といったことは科学的に証明されているのだろうか。
信者であり、手かざしをしている人たちは病気にならないのだろうか。etc
とにかく疑問が次々にわいてくるのだが、こうした疑問に対する返答は、「コインの表が出れば私の勝ち。裏が出ればあなたの負け」的なものだと思う。
たとえば、健康食品をやめさせない屁理屈(やめれない理由でもある)。
・風邪をひかなくなった→この健康食品のおかげだ
・相変わらず風邪をひく→この程度の風邪ですんでいる
・一年間飲んでいるが効果がない→急に効くものではない、長い目で見なくては
・健康食品をやめたい→飲んでいるから健康を保っている、やめれば今より悪くなる
あるいはこういう言い方。
「水子は成仏しにくいから、特別の秘儀を行わねばならない」(梅原正紀『宗教に未来はあるか』)
あるいは、
「献金や布施をするのは自我を捨てるためだ。大切なもの(特に金)を捨てることで我執を離れることができ、誠意を示すことができる」(柿田睦夫『霊・因縁・たたり』)
これは現世利益を謳わず、逆に執着を離れよと言っているので妙に説得力がある。
法の華三法行の足裏診断もそうだし、「波動」「場のエネルギー」「マイナスイオン」といった言葉を使う宗教、エセ科学と結びつく宗教はあやしいと考えていいと思う。
米本和広『教祖逮捕』に、洗脳が行われる仕組みについて書かれてある。
脳にも容量があるが、情報量ではなく、時間が関係する。
洗脳セミナーでは脳に休む暇を与えない。
思考力の容量が限界に達し、自我はパンクしてしまう。
自我がパンクし、思考が停止した状態でも情報はインプットされる。
そこでカルトの教えが刷り込まれる。
カルトの教義は普通に考えると理解できないものだが、自我がパンクしているので論理的思考ができず、直接教えが刷り込まれてしまう。
それに加えて、パンクした瞬間、ドーパミンやエンドルフィンといった脳内物質が放出され、感動体験、神秘体験を経験する。
そうした体験を伴う教義の刷り込みだから、しっかり脳にこびりついてしまう。
教えを理解し、納得して結論を出したのではない。
だから、「本当の自分に出会えた」「すばらしかった」といった抽象的で幼稚な表現しかできない。
カルトの教えを他人に論理的に説明することはできない。
カルト信者に見られる共通した特徴である。
頭を空っぽにさせて、そこに教義を詰め込むということだが、超常現象大好き人間としては神秘体験の部分に興味をひかれる。
というのも、オウム真理教の元信者の
「初めての体験(神秘体験)の感動は「今までこのために生きてきたんだな」と思うほどでした。
具体的にはまず気持ちが良くなり、身体が驚くほど軽く、柔らかくなり、ものすごい解放感と自在感に包まれ、「この肉体は仮の姿だったんだ」と気づき、輪廻転生の存在を確信しました」(『オウムをやめた私たち』)
という告白を読むと、神秘体験を経験をしなかったら何だか損をしたような気になる。
とは言っても、不精だから瞑想なんて続かないし、自己啓発セミナーを受けるのはお金がもったいないし、クスリなら簡単神秘体験ができそうだが度胸がない。
神秘体験に何か特別な意味を見出すアヤシイ宗教は多い。
オウム真理教はどういう神秘体験を経験したかで、その人のステージを決めていた。
神秘体験にどういう意味づけがされているのだろうか。
小阪修平『そうだったのか現代思想』に、
「自分の弱さをごまかすために、人間は自分自身に耐えかねて、「背後世界」というものを作ってしまう。八十年代はそういうものにたいする興味が非常に強くなってきた時代という感じがします」
とある。
神秘体験は「背後世界」との通路だということなのだろう。
ま、「背後世界」があればの話だが。
だが、神秘体験に意味づけをすること自体が間違いである。
一遍の伝記にこういうことが書かれてある。
「往生される前に、空に紫の雲がたなびいていることをお耳に入れたところ、「すると、今日明日は私の臨終の時にはならないに違いない。私の命が終わるその最後の時に、そんなことは決してあるはずがない」と言われた。
上人が日頃おっしゃっていたことも、「もののわきまえもつかない人に、仏法に害をなす魔王にとりつかれたような心で不思議の現象に心を奪われて、ほんとうの仏陀の教えを信じようとはしない。まったく意味のないことである。確かなものは南無阿弥陀仏だけである」とのご教示であった」(『一遍上人語録』)
これは神秘体験ではなくて超能力だが、立場としては同じである。
「湖のほとりに予言者が暮らしていた。信奉者に向かって、自分は水の上を歩く能力がある、明日の朝、それを実際にやってみせよう、と語った。約束の時間に信奉者たちは湖に集まった。
「みんな、私が水の上を歩けると信じているのだね?」
と予言者が尋ねると、忠実な信奉者たちは声をそろえて、
「信じています」
と答えた。
「それなら、やってみせるまでもない」
と予言者は言った」
「修行者に弟子入りした若者が修行の旅に出た。師のもとに帰って、
「水の上を歩けるようになりました」
と言って、やって見せた。すると師は
「わしは昔から水の上を自由に行ける」
と舟に乗った」
この予言者や修行者のようであれば、インチキ宗教にだまされることはないだろう。
そうは言っても、超能力があればいいなと思うし、現実とは別のところに何かあるのではと思いたいのが人情である。
キューブラー=ロスも「背後世界」にはまりこんでしまった一人である。
『死ぬ瞬間』の著者であるキューブラー=ロスは実はかなりアブナイ人で、死んだ人を見たり、寝ている間にアンタレス星(だったと思う)に行ったりしたと言っている。
そうして、いんちきチャネラーに何度もだまされながらも信じつづけた。
キューブラー=ロスのトンデモな主張はポール・エドワーズ『輪廻体験』に詳しい。
いかにへんてこりんなことを言っても、キューブラー=ロスは高い評価を受けている人だから、スピリチュアルの世界ではそのトンデモ発言は「背後世界」を証明するものとして認められている。
ポール・エドワーズはこう言う。
「キューブラー=ロスのメッセージは微妙な形で害を及ぼす。知的水準を低下させるのだ。少なくとも宗教的な問題においては、何であれ自分にとって喜ばしいことを信じるがよいと説いているに等しいからである。苦痛を回避することだけが善ではない。「誠実であること」にも価値があるのだ。たとえ不愉快きわまりない結論であろうと、それが正しいという証拠があれば潔く受け入れるという態度である」
今を生きている実感を持てない人はキューブラー=ロス的な考えに共感するだろうし、神秘体験を売りにする宗教やサークルにハマるに違いない。
現実に対するリアリティが薄れ、別の何かが実在するように思うなら、オウム真理教のように今の生すら軽んじるようになってしまう。
神秘体験から生みだされた虚構ではなく、今生きているこの世界について関心を持つこと、そして自分がどう行動するか、そこを宗教は語るべきだと思う。
ずっと以前、夜行で創価大学の学生と一緒になり、あれこれと話をしたことがある。
たまたま池田大作批判の記事が載っている週刊誌を持っていたので、創価大生にその週刊誌を渡したが、ちらっと見ただけで、まるっきり関心を見せなかった。
その人にまた会うことがあれば、ベンジャミン・フルフォード『イケダ先生の世界』の感想を聞きたいところだが、やはり手に取ろうとはしないだろう。
創価学会に限らず、多くの教団の信者は外部からの批判を受けつけない。
自分の信仰する宗教が真実であることが当然のように考え、疑問を持つことをしない。
批判者は悪魔の手先だから耳を傾けたら地獄に堕ちるとか、誹謗されるからこそ教えの真実さが証明されるというふうに教えられ、それを素直に信じている。(親鸞は念仏者をそしる者は「名無眼人」「名無耳人」だと手紙に書いている。批判と誹謗とどう違うのかということも考えなければいけない問題である)
信者の中では話が通じても、外へ出たら通用しないことがわかっていない。
『イケダ先生の世界』で面白いのは、ベンジャミン・フルフォードの実体験の部分。
・日本にやってきたフルフォードはバイト先の居酒屋で、二人連れの東大生に誘われて創価学会の会合に行く。あとから東大とは東洋大学のことだと知る。
・3日間、飲まず食わずのガーナ人学生がいて、「創価学会(SGI)は人助けの宗教だ」と聞いていたので、二人で創価大学を訪れる。応対に出てきた創価大学生は「南無妙法蓮華経と唱えれば助けがくる」と言うだけだった。
・創価学会に造反した山崎正友弁護士と一緒に歩いていると、不審な男がつけてくる。「あの人は、私を尾行しています」と山崎が言うので、フルフォードは「あなたは尾行していますか」と誰何したら逃げてしまった。
・フルフォードが『フォーブス』に書いた創価学会批判の記事が出て数日後、友人と六本木を歩いていると、突然、誰かが「人間のウンコ」を投げつけてきた。
これは単なる悪口にすぎないかもしれない。
しかし、アーノルド・トインビーの孫の話はあっさりと切り捨てるわけにはいかないと思う。
池田大作は72年と73年に行ったアーノルド・トインビーとの対談を、トインビーが亡くなった75年に『21世紀への対話』という本にしている。
「世界の知性」との交遊をはくづけに使った最初である。
84年、トインビーの孫ポーリー・トインビーは池田大作の代理人から招待を受け、日本にやってきた。
「聖教新聞」に書かれたポーリー夫妻と池田大作との会見記事は、ポーリー夫妻と池田大作が和やかに歓談したと書かれている。
ポーリー自身も「インタビューを受けるたびに、大衆の目には池田氏とアーノルド・トインビーの仲が、より親密なものとして映ったと思います」と述べている。
ところが、ポーリーは「池田氏が大袈裟に祖父の思い出を書き立て、自分のために利用している」と批判し、池田大作と会った感想をこのように書いている。
「池田氏のような絶対的権力者のオーラを持った人物と会ったことはありません」
「私はめったに恐怖を感じることはないのですが、彼の中にある何かにゾッとしました」
「聖教新聞」とポーリー・トインビーの体験記を読み比べると、あれっと思うはずだが、この程度のことで疑問を感じるようでは信者失格なのかもしれない。
ライフスペースとなるともっと奇々怪々。
死体が目の前で腐っていき、臭いが立ちこめ、うじ虫がわいているのに、家族や信者はグルの高橋弘二の「生きている」という言葉を信じるのである。
そして、「小林晨一闘病ドキュメント」という標題の、遺体の写真付き観察日記を「グルがグルであることを立証する証拠」として裁判所に提出している。(米本和広『教祖逮捕』)
原爆が投下されても、まだ日本の勝利を信じるようなものだろうか。
西研は、オウム真理教は「生きててもなんとなくつまらないなあ」と感じている若者たちに、とても明確なストーリーを与えたと言う。(『哲学のモノサシ』)
しかし、オウム真理教にかぎらず、外からルールを与えてもらうやり方には欠点がふたつある。
①そのルールは宗教団体の内部でしか通用しないから、教団の外の人ときちんと関係をむすぶことはできにくくなる。
②宗教生活のなかでいきづまったときに、それをどうするか考えていくための方法がない。
というわけで、信者は教団という狭い世界の中だけで生き、外の世界を見ないまま終わってしまう。
これは宗教だけの話ではない。
ヒトラーの秘書で、最後までヒトラーたちとともに地下壕で生活したトラウデル・ユンゲは
「祖国の戦争がいったいどうなっているのか、破壊と荒廃がどんなに甚大なものだったか、ヒトラーは一度も見なかった。いつも来るべき報復と成果と確たる最終勝利を語るだけだった」
「どんな噂も私たちの耳に届かず、敵の放送も聞けず、立場の違いも対立もなかった。ただ一つの意見と確信があるだけだった。ときどき、ここにいる人たちは皆同じ言葉と同じ表現を使っているのではないかとさえ思った」(『私はヒトラーの秘書だった』)
と書いている。
「ヒトラー」を「教祖」に、「私たち」を「私たち信者」と置き換えることができる。
閉鎖的集団はいずれも同じだということである。
じゃ、真宗はどうなのか。
「オウム真理教はニセモノの宗教で、仏教はホンモノの宗教だ、などという区別は、しょせん仏教者の独りよがりにすぎない」(末木文美士『仏教vs.倫理』)
と言われると反論できない。
アルコール依存症は否認する病気なんだそうだ。
自分はアル中ではない、酒をやめようと思えばいつでもやめられるとか、自分はほんとはこんな飲んだくれではないんだとか。
そして、人との違い探しをする。
あの人たちとは違う、自分はまだ若い、精神病院に何十回と入ったわけではない、自分には家族がいるし家もあるなど。
あるいは自己憐憫、被害者意識。
そんなふうに考えている間は酒はとまらないそうだ。
自分の力では生きていくことがどうにもならなくなったことを認めるのが第一歩。
そして仲間の存在。
一人では酒はとまらない。
真宗的だと思う。
かつて西丸震哉の山歩きエッセイを愛読していた。
だけど、お説教口調の中にはえっと思うものがあって、こういうことを書かれるとムッとする。
「宗教者だって、ほんとうに心から感謝しながら生活しているかどうか。きいたことはないし、きいてもどうせ本心を正直に答えるはずはないから、きこうともおもわない」
聞きもしないで勝手なことを言わないでほしい。
では、讃岐の庄松さんに尋ねてみましょう。
「庄松はん、如来の御恩ということは、何ともないが、真実領解が出来たら、御恩御恩の日暮が出来ますか」
「おらはそんな難しいこと知らぬ。お前はお前の持ったまま暮らせ、おらはおらだけで暮らす。そんなこと聞いて何にする」
次に浅原才市さんは何と言っているでしょうか。
「才市よい うれしいか ありがたいか
ありがたいときゃ ありがたい
なっともないときゃ なっともない
才市 なっともないときゃ どがあすりゃ
どがあも しようがないよ
なむあみだぶつと
どんぐり へんぐり しているよ
今日も くる日も やーいやーい」
最後に田原のおそのさんに聞いてみましょう。
「おそのさん、あなたがおいでると、同行の方々が集まって、さも嬉しそうにご相談しておられますが、私はいかなる邪見者やら、ただこの世ばかりが面白うて、後生のことは嫌いで御座います」
「そうそう、お前さんもさようか。私もそれよりほかはない。毎日、仏法の話はしているけれども、仏法が好きではありませぬ。実は後生のことは大嫌いで、この世のことが好きで御座ります。けれども嬉しいことには、後生が嫌いで、この世が好きな者も、親様が好いて下されますげなで、この世好きの後生嫌いの者が,一番けにお浄土へ参らせて下されますげなで、それが何より嬉しいでのう。このことを毎日談合しているのじゃげなあ」
念仏申したり、仏法を聴聞したからといって即身成仏するわけではないし、人格が向上するわけでもない。
ありがたいと感謝の気持ちがわくことがあっても、やはり欲も起これば腹も立ち、不平や愚痴はつきない、どうにもならないお手上げの私である。
なのに、西丸震哉(トンデモ系の部分もあるらしい)のように、自分はよくわかっているという気になってしまうどうしようもなさ。
米本和広の言う「絶対を旨とし信者の全精神を支配する教祖と、教祖に対する病的なまでの依存(批判力の喪失)」とは、つまりは生き神信仰、生き仏信仰の問題である。
それは今に始まったことではない。
末木文美士『日本宗教史』によると、江戸時代には突発的に流行し、熱狂的に信仰されるが、やがて忘れられてしまう生き仏、生き神がいたそうだ。
たとえばお竹大日というのがいて、出羽国から出てきて江戸の商人のところで奉公していたお竹が、羽黒の修験者によって大日如来の化身として信仰された。
「何の特別のこともない庶民が突然仏の化身とされ、やがて大々的な宣伝によってブームを呼ぶこともあった」
麻原彰晃は最終解脱者だと自称し、統一協会の文鮮明は自分はメシア(救世主)だと説き、幸福の科学の大川隆法は釈尊の生まれ変わりだと言っている。
このように、新興宗教の教祖には神様や仏様がゴロゴロしている。
江戸時代の庶民を笑えない。
生き仏信仰を善知識だのみと言い、異義として否定する真宗でも、本願寺の住職が善知識であり、法主が地方に巡行した時、法主が入った風呂の残り湯を競って飲んだというのだから、人のことは言えない。
私たちは、生き仏、生き神を立てて、拝むのが好きなんだから困ったものです。
どうして好きなのかというと、仏と神とかいった見えないものによってではなく、具体的な人間から「あなたは大丈夫だ」と言ってもらって安心したいという気持ちがあるからである。
それが生き仏、生き神を生み出す。
人間を生き神、生き仏としてあがめるならば、教祖が「絶対を旨とし信者の全精神を支配する」ということと、信者の「教祖に対する病的なまでの依存(批判力の喪失)」という問題が生じる。
新興宗教の教祖の中には、自分は生き仏、生き神ではない、信仰の対象ではない、と自らの神性を否定する人もいる。
しかし、教祖が神ではないとしても、神と信者を結びつける唯一の存在とされる。
たとえば、福永法源は日本で唯一天の声を聞き伝えることのできる、天と修行者とのパイプ役である。
これは真光。
「教え主さまは私達を導いて下さいますけど、信仰対象にしてはいけない方です。教え主様は神様と我々組み手の中間に位置し(御神意を我々組み手に伝える方とでも言いましょうか)、神様の御光は教え主様を通して送られると教えられております。また教え主様は御神意によって選ばれます。現在の教え主様も御神意によって選ばれたそうです」
教祖が生き神・生き仏、あるいは神との唯一の仲介者ならば、教祖だけが何が正しいか間違っているか、この人は救われるか救われないかを決める力を持つことになる。
教祖から「お前はダメだ」と言ったら、もうどうしようもない。
だから、信者は教祖の言うことに何でも従うしかないし、疑いを持つことは許されない。
こうして絶対的な権威を持った教祖は信者を支配する。
「オウムでは、「上司の指示はグル麻原の指示」とされていました。指示に疑問を持つことは、グルに対する疑念を意味し、弟子として恥ずべきこととされていました。また、指示に従わなければ、オウムにいることはできなくなります。そのことは生活の基盤のすべてを失ってしまうだけでなく、修行ができなくなり地獄行きになってしまうと思い込んでいたのです」(『オウムをやめた私たち』)
真光です。
「我々は疑ってはいけないのです。教え主様を疑うこと、手かざしを疑うこと、御み霊の力を疑うこと、これは神様を疑うことと同じで非常に悪いことであると教えられています。これらを疑うと神様からの霊線が切れてしまい、いろいろな不幸現象が起こることがあるとも言われます」
信者に対してこういう力を持つ人が支配欲が強ければ、信者を自分の言いなりにあやつろうとするだろう。
信者は教祖に気に入ってもらうために何でもするようになる。
オウム真理教の信者だって、最初のうちは人を殺したり、サリンをまくことに抵抗を感じたと思う。
しかし、結局は自分で考えることをやめて、麻原の言いなりになってしまった。
「その救済も、初めのうちは、曲がりなりにも他のために生きるということに主眼が置かれていたのですが、それがいつのまにか「グルのために生きる」→「グルの言いなりになってなんでもする」という方向にシフトしていってしましました」(『オウムをやめた私たち』)
「「真理の実践だ! 麻原尊師の指し示す道こそ最善の救済だ! 他のことは考えるな! 自分の考えを持つな! 疑問を持つな!……」とマインド・コントロールを受け、じぶんをなくした」(滝本太郎、永岡辰哉編『マインド・コントロールから逃れて』)
これはオウム真理教だけの問題ではない。
また、真光。
「我々は手かざしによって幸福になれると教え主様から教えられております。それはつまり神様の言葉と同義なのです。神様そして教え主様の考えは我々一般の組み手には到底理解できないことです。しかし、そのお考えはおそらく素晴らしく、そして正しいのでしょう」
特定の個人を絶対化、神格化し、批判力を喪失するのは宗教の世界だけではない。
あさま山荘事件で逮捕された加藤倫教はこう書いている。
「何かを絶対視して信じることは、楽で気持ちのよいものであるが、必ず自らの主体的な思考の放棄を伴ってしまう」(『連合赤軍少年A』)
稲盛和夫の私塾の塾生の言葉。
「右と左、どちらが正しいかをジャッジする場合,右が正しいとするのが通念とします。でも、塾長(稲盛和夫)が左が正しいと言われたら、周りの人間も納得して左が正しいと思わせてしまう神業みたいな力がありますね」
「塾長講話録第六巻『利他の心』を全員で拝聴し、心の底からこみあげてくる涙に只々嗚咽の連続で、すべてを忘れて利他愛の声に聞き入ってしまいました。我を忘れて肩をふるわせ、しゃくりあげ、ひとしきり泣いたあとのすがすがしさはいったい何なのでしょう」(斎藤貴男『カルト資本主義』)
これは冗談ではないところが、おかしくもあり、恐ろしくもある。
増谷文雄先生は、釈尊は法、すなわち永遠なる真実を発見し、私たちは釈尊の教えによって法にうなずくのだが、仏教の歴史を見ると、釈尊を尊敬するあまり釈尊を絶対視して神格化している、と言われている。
釈尊はそうした絶対化を否定しているのだが、後世の仏教徒は法よりも釈尊を上に置き、法そのものを見ようとしない傾向がある。
そうして、釈尊ばかりではなく、宗派の開祖をも絶対視するようになった。
人ではなく法に依ること、独立者であることは今も昔も難しいことなんだと思う。
米本和広『教祖逮捕』を読み、問題のある宗教を見分けるポイントをいくつか思いついた。
以下、順不同
・信者が支払う金額の多寡
借金をしてまで無理矢理に寄付をさせる教団は法の華三法行に限らない。
・教祖の言行が一致しているかどうか
質素倹約をうたう教団なのに、寄付金をつのって豪華な神殿を作る。
欲望をなくせと説く教祖が豪邸で贅沢三昧。
報恩感謝を教える教祖が、信者を悪罵し、人使いが荒い。etc
・簡単に解決法、答えを与える宗教
オウムの元信者は、若者がカルトに魅かれるのは、「絶対」「存在」「意味」という三つのキーワードが絡むと言っているそうだ。
元信者はこう説明している。
「『絶対』は変わらない永遠不滅の真理です。『存在』は自分が生きているという実感。そして『意味』は自分が何のために生きているのか納得することです。これらの解答を与えてくれるのがカルトだと思うんです」(米本和広『教祖逮捕』)
エホバの証人もそういうところがある。
「エホバの教えは簡単で、今はエホバ神とサタンが戦っており、近いうちに人類は滅亡する。唯一生き残れるのは信者のみ。そのために聖書を研究しながら、ひとりでも多くの人たちをエホバの証人にしようと家々を回る」(米本和広『教祖逮捕』)
悪く言えば単純なのである。
・白か黒かの二元論
・絶対を旨とし信者の全精神を支配する教祖と、教祖に対する病的なまでの依存(批判力の喪失)
他にもまだまだあるだろうが、これくらいにして、「白か黒かの二元論」をもう少し説明しましょう。
絶対者の教祖に依存する信者のことはその次に。
『教祖逮捕』に、心理療法家の服部雄一と米本和広の対談が載っている。
服部雄一は
「カルトは物事をすべて極端な善悪に分けます」
すなわち、善か悪かの二元論がカルトの特徴だと言う。
二元論は内外、上下、高低、中心と周辺、時間の前後など、そして善悪、正邪、優劣、浄穢、貴賎、尊卑というふうに世界を二つに分ける。
そして、どちらかを選ぶよう迫られる。
エホバなら、ハルマゲドンで滅びるか、パラダイスに入るよう選ばれるか
オウムはハルマゲドンで滅びる社会と理想郷を建設する選ばれた民か
顕正会は日本が滅びる道か、日蓮に帰依して日本を救う道か
親鸞会は阿弥陀仏に救われた大満足の世界か、無間地獄に堕ちるか etc
これは宗教に限らず、政治でも二者択一が迫られる。
自民党か民主党か
資本主義か共産主義か
戦争か敗北(じり貧)か
テロの側につくか、反テロ側か
改革に賛成か反対か etc
ところが、二つの選択があるようでも、一つしか選べない仕組みになっている。
「改革に賛成か、反対か」と言われたら、「反対」とは言いにくい。
テストの点が悪いよりはいいほうが決まっている。
「二元論の罠にはめられると、自分の意思で相手が望む道を選んでしまう。しかも決定は自分がするから、誤った道であろうと、それは自分の選択になる。カルトに入った人たちは「組織に強制されていない。自分で選んだ道だ」とみんなが言いますが、本当にそうなんです」
と服部雄一の指摘に、なるほど、自分が選んだんだということがカルトを抜け出る難しさだと納得。
二元論の罠に落ちるのは、「理解したい」ということ、そして「正しくありたい」という気持が我々にあるからだと思う。
どちらも真っ当な願いである。
しかし、善か悪かで割り切れることはほとんどないのだが、単純なほうがわかりやすいし、正しさにすりよって自己正当化をしてしまう。
そして、理解できないことは無視し、自分の正しさとは違うことは排撃する。
以前、アンチユートピアについて書いたが、「カルトはユートピアを実現しようとする集団」という定義はどうだろうか。
宗教の教えと脅しとは紙一重だと思う。
柿田睦夫『霊・因縁・たたり』に引用されている真光の教えはどうだろうか。
以下引用。
「ご家庭の幸福は正しい先祖供養から
心霊科学の発達に伴い、人間の体は、肉体だけでなく、その裏に幽体、さらに霊体、そして、それらを支える魂で構成されています。人間の死とは、魂・霊体・幽体が肉体から離れたことを意味します。そして、肉体が食物をとって維持してゆくように、霊体・幽体も食物の気を吸って維持している、というところまでわかってきています。
人種、地域によって霊界の法則は多少違っていますが、アジアの場合、私たちの身近にある位牌や仏壇が特に重要視されています。霊界の法則は、この世のしきたりに比べると格段に厳しく、位牌・仏壇をとおしてでないと、子孫との交流や食事の供養を受けることができないのです。そこで、仏壇も位牌もなく日々の供養をしていない子孫ですと、そのご先祖たちは食事がいただけないために飢餓に陥り、子孫の体に憑いて〝注意信号〟を送ってきます。これを、私たちはご先祖の〝戒告〟と呼んでいます。
たとえば、頭痛などは〝目の上の方に注意しなさい〟という意味です。また、胃腸病や家庭の大黒柱の失業などは〝先祖も食事がとれていない〟ということなのです。これは、ご先祖として子孫に苦しさをわかったもらうために行うことなのですが、何も知らない子孫は、それを不幸現象と感じるわけです。もちろん、不幸現象のすべてがご先祖の〝戒告〟によるものではありませんが、霊的なものが原因になっていることも非常に多いのです。
守護霊とは、私たちを背後から守り導いてくださっている霊界の指導者のことです。自動車にはねられても、かすり傷くらいで済んだり、予約していたホテルに急な用事のため宿泊できなくなったところ、そのホテルが大火になり、焼死をまぬがれたなどは、守護霊の守護と導きのおかげなのです。
人生において、より高く強い守護霊に導かれることほど安心なことはありません。そして、守護霊はほとんどの場合、ご先祖の霊から選ばれて、私たち子孫を守ってくださっているのです。私たちが正しい先祖供養をしますと、ご先祖の一人でもある守護霊もより守護力がつき、安心して私たち子孫を導くことができるわけです。したがって、正しい先祖供養をするということは、ご先祖への感謝の面、ご先祖の〝戒告〟を受けないという現実的な面、さらに守護霊の霊力を強くしてもらう面からも、大変重要なのです」(崇教真光「陽光ライフ」より)
「なぜ自分はこんなに苦しみが多いのだろう?なぜ自分には、病・貧・争・災が絶えないのだろう?あなたはこういう疑問を持ったことはありませんか。これらの不幸現象は実は霊魂の暗躍の結果です。私達のまわりには、あの世に往っても成仏できない先祖の霊や怨み憎しみなどに執着しつづけている霊魂が群がっています。そして、その霊魂が肉体に侵入(憑依)して、私達を自由に操り、苦しみ悩ませているのです。
人間の八〇%はさまざまな理由で侵入してくる霊魂にとり憑かれており、世間にみる不幸のほとんどはその霊魂によって引き起こされております。このような目に見えない世界のことを、一般には〝因縁〟といい、この因縁を切ることは非常に難しいとされてきました。しかし諦める必要はありません。奇跡の霊術〝真光の業〟によってあらゆる悩みに〝奇跡の救い〟がもたらされます。真光の業(手かざし)は人間にとり憑いて成仏できない霊を救い、不幸現象の原因を取り除き、運命を好転させます」(世界真光文明教団「奇跡の世界」)
明覚寺の霊視商法とならべて引用してあるのだから、柿田睦夫としては、真光は霊が災いをもたらしていると脅して、手かざしで幸せになれますよとアメを与えると考えているのだろう。
脅して不安にさせ、アメを与えるというのは、よくある手口である。
どうして脅しを真に受けるのだろうか。
弱点を突くからだと思う。
弱点はいろいろあるが、その一つが霊信仰であり、ご利益信仰である。
霊信仰は日本人の血となり肉となっているから、たとえば、先祖が霊界で苦しんでいる、先祖との因縁を切らないと不幸になる(あるいは、先祖の霊を成仏させると幸せになる)と言われると、どうしても気になる。
もう一つは、ご利益信仰である。
「ご利益を求めていない」と誰もが言うけれども、幸せを願うことがご利益を期待することなのである。
我々は「信仰すれば幸せというご利益をさずかる」とどこかで信じている。
だから、自分の幸せのために信心することがご利益信仰といえる。
他にも弱点はいろいろあるが、手かざしはこの二つの弱点をうまく利用していると思う。
『イソップ寓話集』にこういう話がある。
英雄(ギリシア人は神と人間の間に生まれた者を英雄と呼んだほか、一種の死者崇拝として英雄を祀った)
家で英雄を祀り、惜しみなくお供えをする男がいた。生け贄のために連日金を使い、おびただしく注ぎこむので、英雄が夢枕に告げるには、
「そこの者、財産を蕩尽するのはやめよ。ことごとく使い果たして、貧しくなったら、わたしのせいにするのがおちだ」
このように、己れの無考えから不幸に陥っておきながら、神々のせいにする者が大勢いるものだ。
ご利益を期待して先祖を祀り、結局はスッカラカンになる人が古代ギリシャにもいたわけである。
ご利益を期待して信心する人には明恵上人のこのエピソードを読んでほしい。
ご祈祷をして下さいと希望する人がいれば、明恵上人はこのように答えられた。
「私は朝夕にすべて人々のために祈念をいたしておりますので、必ずあなたもその中に入っておられるでしょう。ですから、わざわざ特別にお祈り申す必要はありません。あなたの願いは、叶うことなら望みどおりになりましょうし、できないことなら仏のお力にすがってもどうしようもないことでしょう。
その上に、万事平等であれと思う心に反してあなたの願い事だけをお祈りするのでは、一方ばかりを贔屓したようになりますから、そうした依怙贔屓をするような者がお願いすることを、仏様や神様がお聞きとどけにはならないでしょう。
また仏はすべての人々を自分の子のように思って下さるのに、あなたの願い事を叶えていただけないのは、どうしても子細があるからでしょう。譬てみれば、子供が毒を毒と知らずに食べたがっているのを、親が奪い取れば、子供は恨んで泣くようなものです。
また仏を信じず勝手気ままの心の持ち主を千仏も救われません。ゆえに自分のいたらぬことを反省されて、我が身をこそ恨みなさい。自分の祈りが果たされない時でも仏の処置には子細があるのだろうと思いなさるがよいでしょう」(『明恵上人伝記』)
ま、明恵上人のおさとしも受け取り方次第では妙なことになるかもしれない。
米本和広『教祖逮捕』に、法の華三法行の福永法源について書かれてあった。
福永法源が詐欺罪で逮捕されたのが2000年、ずいぶん昔の話という気がする。
詐欺ということは、最初からだまして金を儲けようとしたということである。
福永法源が考えたシステムは「本」「脅し」「特訓」だ、と米本和広は言う。
本を次々に出して、全国紙や一流週刊誌に広告を載せる。
悩みを抱えた人は全国紙に広告が載っているのだからと信用して本を買い、アンケート葉書を投函する。
その人たちに電話をかけ、面談するよう勧める。
福永法源は相談者に対して不安を煽り立て、特訓に参加させる。
面談者へのマニュアルにはこういうことが書かれてあるそうだ。
「足裏を見てこのままでは絶対にいけない、とにかく今すぐ何とかしないと、という気持にさせる」
「まず第一声を吐いて相手をびっくりさせる」etc
そして、こういうふうに脅す。
「あなたは一生独身ですよ」
「あと二ヵ月で倒産するよ」
「病気でずうっと苦労する」etc
特訓とは二泊三日とか一週間の研修である。
特訓の狙いは、粗末な食事、睡眠不足、休みなく大声を出し続ける過呼吸、何時間も目隠しをするなどの修行をさせることによって、自我を一時的に解体し、異常な心理状態に陥って神秘体験を経験する。
そうして福永法源の言葉を信じ込んでしまうようになる。
法の華三法行がやっていたことは目新しくなく、ありふれたやり口だと思う。
まず「本」だが、蓮如の『御文』が文書伝道の最初かもしれない。
大がかりに本を出版して布教活動したのは出口王仁三郎『霊界物語』(全81巻)からだそうだ。
そして、大本の信者だった谷口雅春は『生命の實相』(全40巻)を次々と出す。
大川隆法や福永法源もこの手法を真似たわけである。
悪徳商法も本を出しては全国紙に広告を出している。
一時、アガリクス関係の本の広告が毎日のように載っていた。
この手の本の著者・監修者は大学教授や医学博士がほとんどで、この人らは詐欺に手を貸していることをどう思っているのだろうか。
「脅し」は古来からどの宗教もしていることだ。
脅しはアメとセットになっていて、一向一揆の「進むは往生極楽、退くは無間地獄」がその好例。
「地獄に堕ちるぞ」という脅しはいまだに有効なようで、オウム真理教や親鸞会も使っている。
福永法源はどういうアメを与えていたのか、『教祖逮捕』ではもうひとつわからない。
神秘体験もアメだが、信じさせるための手段であって、目的ではないだろう。
法の華三法行では、病気治しなどの現世利益がやはり一番のアメということなのだろうか。
たいていの新興宗教は、最初は現世利益を説くが、それだけでは行き詰まる。
そこで、生きがいというアメを与えるようになる。
「世のため人のため」というのもその一つで、難民のためにとか、地球のためにとか言って、金集めをさせたり働かせたりさせる。
「人を救う」ということは「信者を増やす」とイコールになる。
中には、終末論と一緒になっている「世のため人のため」もある。
天理教の終末論と「世直し」思想、あるいは大本の「三千世界の立て替え、立て直し」がその例で、ヤマギシ会、オウム真理教も同じ。
終末が脅しで、世直しがアメ、というわけである。
そして「特訓」だが、これは自己啓発セミナー体験記の二澤雅喜,島田裕巳『洗脳体験』、ヤマギシ会の特講体験記である米本和広『洗脳の楽園』に詳しい。
高橋紳吾氏によると、真光の二泊三日の研修に参加して精神的な病気になってしまう人もいる。
「真光あたりから始まったのは、一般の者が真光のわざを学ぶことによって霊能者になるというシステムができたんです。ところが、きちんとした訓練を受けていないために、精神的な病気になってしまったりする例がたくさんあります。
そもそも霊能力なんて、あるのかどうかということが問題で、病気が暗示作用によって治った気がするだけなのに、教団の持っている霊能力で治ったんだという錯覚にとらわれて、そこで縛られてしまうことがあるわけです。
だけども、手かざしなんてことをやっていると、自分がとてもいいことをしているような、熱い気持ちになれるんですね。自分は価値のない人間だけど、真光のわざによって人のお役に立てるという気持ちになって、自分の存在が認められて、とても生き生きとしてくる。
カルトに入っている間は熱くなっていって、それである種の快感を得ているわけです。人を救うとか、仲間と一体化するとかいうのは、ちょうど恋愛でもしたようないい気持ちになっていくものですから、そこを取り去られると、心が全く空虚になって、生きていく現実がなくなったりしてしまいます。
そしてもう一つ、カルトに入る時には、何かを求めてカルトに入るんだけれども、やめる時にその問題が解決しないまま残っているんです。これをカルトのマインド・コントロール後遺症といいます」
ということで、福永法源の法の華三法行が特別なことをしていたわけではない(だからといって問題がないと言ってるわけではないのはもちろんである)。
似たようなことをやってるとこはいくらでもある。
どこまでがOKで、どこからダメなのか。
米本和弘のカルトの定義は
「カルトとは、組織や個人がある教えを絶対であると刷り込み、それを実践させる過程で人権侵害あるいは違法行為を引き起こす集団」
だが、カルトかどうかの線引きは微妙だと思う。
では、なぜ福永法源は逮捕されたか。
短期間に何千万円もむしり取るといったやり方があまりにもあくどすぎたからだと思う。
法の華三法行の特訓を受けた人は2万人を超え、平均すると1人あたり約500万円を払っているそうだ。
金を出すことを躊躇すると、「自殺者が出る」「ガンで死ぬ」「借金がふくらむ」と脅すので、修行者の4割が言われるままにお金を出したという。
悪徳商法で逮捕された社長たちにしてもそうなのだが、このままではいつか行き詰まるとは考えなかったのだろうか。
1994年、統一教会の信者たちが福岡市内の高齢の女性二人に「献金しないと先祖の祟りがある」と言って、計3700万円献金をさせたという事件で、福岡地裁は「3700万円を返せ」と命令を出している。(1997年に最高裁で確定)
他の宗教だって似たり寄ったりのことをやっている、だから大丈夫、と思ったのか。
それとも単に、簡単に金を奪い取ることができたので、マヒしてしまっただけのことなのだろうか。