三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

坂本敏夫『死刑執行人の記録』

2007年07月27日 | 死刑

坂本敏夫『死刑執行人の記録』は刑務官が書いた、刑務官が主人公の小説。
実際に見聞したことが小説の中に取り入れられているだろうと思う。

受刑者のちょっといい話(刑務所の運動会に幼稚園児がやって来て、涙を流す受刑者など)、刑務所のちょっといやな話(刑務所長が自分の出世のために綱紀粛正を行い、懲戒免職にする刑務官を無理矢理作り上げるなど)、そして死刑囚と死刑執行の話が語られる。

坂本敏夫は死刑にははっきりと反対の立場らしい。
小説の中に、こういう会話がある。

「ほう、所長は死刑に反対なんじゃのう」
拘置所では主のような地元の主任が言った。
「人殺しをやりたくないのは当たり前だろうが…」
所長が酔いに任せて大声で言った。

あるいは、別の所長と主人公の牧村との会話。
牧村「所長、所長は死刑をどう思いますか」
所長「君はどう思う。君は反対だろう」
牧村「はい、そう見えますか」
所長「ああ、刑務官という職業に誇りを持っている男は、皆どう思って当然だよ…」
牧村「所長もそうですか」
所長「僕も反対だ。僕が法務省に入ったころは、まだまだ、刑務官が死刑の問題を論じておったよ。僕は刑務官なら、死刑廃止を叫んで当然だと思うんだが」

そして所長が「なあ牧村君、殺人の再犯は僕たちが責任を感じなければならないことだよ。今うちでやっている処遇の中に、命の重さ、大切さを考えさせる教育をやっているかね」と問うのに対して、牧村はこう答える。
「どこの刑務所も受刑者をあの手この手で締めつけて、馬鹿にし、蔑み、苛めぬいているように思われます。人格を傷つけられて、更生する気になるでしょうか…」

死刑の執行は刑務官にとってきつい仕事だという。
刑務官の仕事に死刑を執行することがあるとは知らずに採用試験を受けた者がほとんどである。
にもかかわらず、上司の命令ならば「良心にまで背くこの仕事」に立ち会わなければならない。
精神に異常をきたして退職する刑務官もいる。

こういう批判を主人公にさせている。

彼ら(法務省の役人)には、死刑囚を十数年拘置し、処遇している拘置所職員の苦労に対する思いやりがない。まして死刑囚に対しては、人間としての尊厳を思うかけらすらない。


刑罰には応報刑と教育刑とがあるが、死刑はそのどちらとも矛盾している。
応報刑から考えると、「死刑囚に安らかな死、達観した境地での死を迎えさせることは、応報という刑罰の本質に逆行する」ということになる。
受刑者の更生と社会復帰という教育刑の理念から考えれば、「矯正は不可能」という死刑は教育刑の理念と矛盾する。

中川(拘置所の職員)は「死刑は自己矛盾ですよ」と言う。
刑務官が犯罪者を矯正するという教育者の顔を持ちながら、一方ではそれを放棄して人殺しをするということを指摘しているのだろう。

それにしても、「刑務所側は徹底的に苛めぬくことで、反抗できない受刑者をつくり上げる」と坂本敏夫は書いている。
刑務官が刑務行政批判、刑務所批判を書き、発表するとは、すごい勇気だと思う。

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末木文美士『日本宗教史』

2007年07月21日 | 仏教

柳田国男の宗教観・死後観、あるいはアニミズム・縄文文化が日本文化の底流だという梅原猛といった人たちにはどうも違和感を感じてきた。

末木文美士『日本宗教史』を読み、彼らは日本人の発想を制約している歴史を貫く不変の何か(古層)を明らかにしようとしたんだとわかった。
末木文美士は、歴史を貫く一貫した〈古層〉は認めず、それを歴史的に形成されたものと考える。

では、〈古層〉はどのように形成されたのか。
末木文美士の考えをいくつか紹介します。

・記紀神話は天武・持統政権の正当化のために作られた。
記紀神話は仏教や中国文化の影響下にある。

・元寇を契機にナショナリズムの機運がおこり、日本優越的思想が形成された。
日本の神こそが根本であり、中国やインドの宗教は神道が展開したものだという考えである。
江戸時代になると、日本中心主義を儒者がとなえだした。
そして、仏教、儒教が相対化されるとともに、国学者は日本文化の優越性、普遍性を主張するようになった。

・豊臣秀吉の豊国社、徳川家康の東照宮のように、権力者が神として祀られるのは近世以降。天皇が現人神として崇拝の対象となるのも、この流れに位置づけられる。

・儒教や神道からの仏教批判があり、仏教を排除するためには神道や儒教独自の神葬祭、儒教式葬儀を行う必要があった。
しかし、仏教以外の葬式は広まらなかった。
葬式を担当できるかどうかが、宗教として定着できるかどうかを決める決定的な要因となっている。

・柳田国男の死後観である「霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰」は、柳田国男が言うように仏教渡来以前からのものではなく、平田篤胤の来世観を受け継いだものである。
死者が身近にいるというのは、少なくとも死者のケガレがそれほど恐れられなくなった時代になってはじめて成り立ちうるものであるから、せいぜい近世頃からのことに過ぎない。

・明治になり、宗教は国家主義道徳の優位を認めなければならなくなった。
北村透谷、清沢満之らは、自己の内面に沈潜することによって世俗を超えた普遍的な真理を求めようとしたが、それも行き詰まっている。

〈古層〉を相対化することで呪縛からいくらかでも解放されるかもしれない。
しかし、別の何かを立ててしまったのでは同じことになってしまう。
問題となるのが、仏教史を貫く一貫した教え・真理というものはあるのだろうかということである。
釈尊は阿弥陀の本願を説くためにこの世に生まれたと、真宗では考える。
仏教の〈古層〉は本願だということになるのだが、それでいいのだろうか。

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田中公明『性と死の密教』

2007年07月18日 | 仏教

田中公明『性と死の密教』は後期密教について書かれた本である。
読んでいる時は、釈尊からインド仏教最後の時輪タントラまでが私の中で何となくつながったように思った。
それと、今まで報身とは何か、よくわからなかったが、ある程度はっきりした。

 二身説―色身・法身
色身―ブッダの物質的身体
法身―ブッダが悟ったダルマ(真理)こそ真の身体

 三身説―応身・報身・法身

如来の法身は、抽象的な真理自体だから、至高の存在には違いないが、そのダルマを悟って実際に苦悩する衆生を救済する、肉体をもった仏が出現しなければ働きがない。これに対して仏の色身は、人間の姿をとって現れるから、真理を直接悟る叡智のない者でも、姿を拝し、説法を聞いて救済される。
しかし仏といえども、形をもった存在は必ず滅びるというのが、仏教の根本思想である。


そこで報身が登場する。

仏は修行の果報として、理想的な身体を完成し、自在に衆生を救済することができるが、衆生に諸行無常の理を示すために、仮に涅槃を示現すると考えるようになった。そして功徳の果報として、成仏の後に享ける理想的な身体は、報身と呼ばれた。

この報身説が後に密教に大きな影響を与えることになる。

ある先生の話に、仏とは何かというと、他人を導くことを目的としているということがあった。
つまり、自分が悟ってから人々を導こうというものではなく、人々を助けたいがために仏になろうとするのが仏なんだということである。
衆生済度という願いが人格化したものが報身ということか。

『生と死の密教』によると、アンベドガールの新仏教はテーラヴァーダ仏教からの支援を期待していたが、アンベドガールは輪廻転生説を否定していたので、拒否反応を示されたという。

ということは、テーラヴァーダ仏教では業に報いとして、どこに輪廻するかが決まると、今も説いているのか。
アウト・カーストに生まれたのは前世の宿業のためだということをアンベドガールが認めないのは当然のことである。

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山岸俊男『心でっかちな日本人』

2007年07月15日 | 

「心でっかち」とは、知識と行動のバランスがとれていない「頭でっかち」のように、心と行動のバランスがとれなくなってしまっている状態のこと。
心の持ち方さえ変えればすべての問題が解決される、と考える「精神主義」がその極端な例である。

心でっかちは「現実を見る目」を微妙に曇らせてしまう。
たとえば、「若者たちの心の荒廃」という心でっかちな思い込みが、現実には存在しない「凶悪な少年犯罪の増加」という幻を生み出している。

いじめの原因として、子供たちの心がすさんで共感性、つまり他人を思いやる心が失われているという説明はほとんどの人が同意しているが、この説明も「心でっかち」の落とし穴にはまっている。

他人を思いやる心の持ち主は、他人を苦しめる行動をとらない。
だから、「いじめ」をする子供は相手を思いやる心を失った子供なのだ。

しかし、相手を思いやる心を持った子供は「いじめ」をしない、という前提そのものが必ずしも正しくない。

「いじめ」に加わるか、「いじめ」をやめさせようとするか、それはみんながどうするかにかかってくる。
一人だけ「いじめ」をやめさせようとする生徒がいても、一人だけではその生徒も一緒にいじめられてしまう。

この場合、「いじめ」が悪いことだと思い、いじめられる生徒がかわいそうだと思っても、自分の身を守るためには「いじめ」に加わるか、見て見ぬふりをする必要がある。
しかし、ほとんどの生徒が「いじめ」をやめさせようと思っている場合、安心して「いじめ」をやめさせる行動がとれる。

「いじめ」に加わるか、「いじめ」をやめさせようとするか、クラスの中でそれぞれの行動をとっている生徒の数に依存している。
「いじめ」阻止をするためには、何人かが加勢してくれるかによって違ってくる。

担任が「いじめ」を許すつもりはないと生徒たちに断言すると、安心感を与え、「いじめ」阻止行動をしやすくなる。
逆に、頼りない担任だと不安感を与えることになって、「いじめ」を阻止行動に加勢することができなくなる。

その行動をとることによって得られる自分の利益の大きさや、自分の身にふりかかってくるコストの大きさは、他の人が同じ行動をとっているかどうかによって変わる。
ほかにたくさんの人が同じ行動をとっていれば、自分もその行動をとりやすくなる。

といったことが山岸俊男『心でっかちな日本人』に書かれてて、なるほどなと思った。
「それは心の問題だ」と言えば何だかわかった気がする。
だけど、実は何も言っていないのと同じなのかもしれない。

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井上順孝『若者と現代宗教』

2007年07月09日 | 問題のある考え

井上順孝『若者と現代宗教』は若者が宗教をどう考えているかを分析している。
オウム真理教の地下鉄サリン事件が1995年、『若者と現代宗教』の出版は1999年。
「日本のお寺は風景でしかなかった」という、オウム真理教をやめた人の言葉は仏教関係者にショックを与えた。

井上順孝が「ハワイの若い日系人の間では神社と寺院の区別がつけられない」という話を講義でしたら、一人の学生が「神社とお寺って違うのですか」と質問したそうだ。
こういう質問を発する学生は決して少数派ではなく、まさに「お寺は風景」である。

終戦直後は信仰をもつ人の割合が、60%前後から70%を超えるものがあったのに対し、90年代には、20~30%が平均的になってきた。


とはいっても、科学が発達しても宗教は人間に必要だと答える学生は半数で、神・仏・霊魂の存在を信じる学生は半数強。
若者は教団宗教の現状にかなり不信を抱いているが、宗教性そのものへの関心はそれほど弱まっていない。

では、どういう宗教に関心が持たれているのか。
刺激に満ちた宗教に接したいと願う若者は、あまり既成宗教には足を向けない。
新宗教のほうがずっと生命力を感じさせる。

しかし、もともと新宗教は民俗信仰と連続面を多くもつし、日本独自の文化的社会的条件の中で形成されたものである。

日本の新宗教、そして世界の新宗教運動は、19世紀から今日にかけて、各地で次々と生じたが、実はその大半は、それぞれの民族や国家における既存の伝統的宗教の再生、刷新という点に、基本的性格を見出すことができる。それらの多くは、既存の伝統的宗教との連続が大前提となっている。

新宗教も組織化が進行すると、儀礼化や教義の硬直化が生じてくる。

組織化、硬直化が起きにくいのがオカルトと戯れる世界。
組織の束縛から自由であり、教義にこだわる必要はなく、自分の感性に率直になれる場である。
ということで、若者はオカルトにひかれるわけだ。

オカルトがいけないのなら、祈祷やお祓いとオカルトはどう違うのかと突っ込まれたら、既成教団はどう答えるのだろうか。
伝統的というか、社会が認知しているかどうかの違いしかないのかもしれない。

井上順孝は宗教が相対化・情報化・グローバル化していると言う。

宗教についての多様な情報が乱れ飛ぶようになると、伝統的な宗教がもっていた価値というものも容易に相対化されてしまう。伝統的であるから価値があるとか、長く続いたから価値があるというような考え方は、情報化社会では説得力が乏しくなる。


相対化ということの背景には、当然自由競争ということが考えられる。
これからの時代は「うちは昔から○○宗だ」とか「××寺の檀家だ」とは言わなくなるだろう。

三世代同居や地域共同体によって伝えられていた宗教的伝統に関する基本的な作法を、現在の若い世代は習得する機会を失いつつある。

宗教について何も教えられてこなかった若い世代は、たまたま出会った宗教が、社会が伝統的に維持してきた宗教のイメージと同じなのか違うのか、違うとしたらどの面で違うのか、といったような判断基準をほとんど身につけていないので、独自の感性でその宗教に接する危害が増える。

これは「なぜオウム真理教に入信したか」の答えの一つである。

グローバル化によって、日本の新宗教は韓国、台湾、マレーシア、タイ、シンガポールなどの国において信者を増やしている。
ところが、グローバル化は伝統を破壊し、宗教の文化的コントロールを乱す方向に作用する。

宗教の相対化、情報化、グローバル化によって生まれた「伝統的倫理規範や暗黙の宗教的規範にあまりとらわれない」宗教を、ハイパー・トラディショナルな宗教と井上順孝は名づける。

最近は、それぞれの地域における伝統的宗教との連続性が希薄で、しかも民族・国家の枠が当初からあまり感じられないような運動があらわれ始めてきた。
ラジニーシ、サイエントロジー、オウム真理教などのニューエイジ系の宗教で、カルトとして批判されている。

グローバル化の中で、民族・国家の規範の自明性を奪っていく作用を果たす運動は、今後もどんどん出現するであろう。東アジアで言えば、儒教的倫理、仏教的な教えから導き出されるモラルのようなものが当然の価値観ではなくなっていく。価値の再構成が地球レベルで進行することになっても、それはよりよい価値を目指しての協力といったような麗しいものではないだろう。基本的に競争原理が作動するから、新しい運動は既存の価値観に対して「敬意」など払わない。長い目で見れば、それはよりグローバルな価値観の構築への序章かもしれない。しかし、当面はそれが既存の文化規範に挑戦していく面が脅威として受け止められるだろうし、民族という単位が、こうしたタイプの宗教と親和性を保つことは、基本的に困難と思われる。
そしてまた、新しい運動は、「宗教」の境界線を、より曖昧にしていくに違いない。


その反動からか、伝統回帰も見られる。
その動きの一つがファンダメンタリズム(根本主義、原理主義)への傾斜である。

ファンダメンタリズムの特徴 三つの「げんてん」主義。
・原点主義 その宗教の創始された時点、あるいはその宗教の出発点と考えられる時点の精神なり状態なりに帰れということ。
・原典主義 その宗教の聖典に忠実であれという立場。しかしその解釈が歴史的に適切であり正統的であるかどうかはまったく別問題。
・減点主義 現在の状況を負の状態、かつてあった信仰形態からすれば堕落した状態として捉えること。

つまり、回帰すべき時点とそのモデルがあり、かつ現在がそこから隔たりつつあるという認識をもつ運動がファンダメンタリズムということである。

グローバル化・情報化が急速に進行した現代世界において、価値の相対化、アイデンティティの薄まりが価値の相対化は判断基準をなくしてしまう。
現代のファンダメンタリズムは、価値の相対化への危機感に対する過激な対応という面を持つ。

伝統的な宗教観念は、長い歴史の中に築かれてきたわけで、それぞれの社会で特定のストーリーになったのは、それなりの十分の理由をもつ。従来の新宗教も、伝統的基盤の上に乗っていたわけであるから、その歴史的ストーリーをはっきりと、あるいは暗黙のうちに認め、その現代的解釈を行ったことになる。

ところが、伝統的なストーリーが、もはやリアリティをもてない現代社会や現代文化の構造がある。
天国と地獄、悪魔、前世のカルマ、そうしたものよりアダルトチルドレン、トラウマといった言葉のほうが説得力をもってしまう時代。

生と死に関わる伝統宗教のストーリーに、リアリティをもてなくなった世代は、もしそういうものが必要になったときは、自分で構築しなければならない。

ひょっとしたらスピリチュアルブームは、伝統的霊魂観とのつながりを持ちつつ、オカルトの領域とも近く、既成教団とは無関係という新しさという新しいストーリーなのかもしれない。

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大澤孝征『犯罪少年』

2007年07月06日 | 厳罰化

光市事件の差し戻し審があったが、大澤孝征弁護士は「みのもんたの朝ズバ!」で「(同じ)弁護士として恥ずかしい」とコメントした。
それで大澤孝征『犯罪少年』(2000年発行)を読んでみた。

副題が「凶悪な10代後半、驚愕の10代前半」というんだからすごい。
もっとも十代前半と後半の犯罪の違いをこの本では説明してはいないが。

最初はまともなことを書いている。

殺人者に対して、自分とは無関係だと決め込んでしまうと、理解の糸口を失ってしまう。それに、そのような人が本当に自分とは無関係であるといえるかどうか。心のどこかに闇の部分のない人間など、いないのではないだろうか。
善悪の大小、殺意の濃い薄い、あるいは実行するかしないかは別にして、そういう気持ちが自分の中にもあるということを、人間も社会も、正面から見つめる必要があるのではないだろうか。(略)
人間には悪の部分、影の部分、いけないとされている部分があり、善の部分、光の部分、よいとされている部分があり、その両者が揃ってはじめてちゃんとする人間、正常な人間たりうるのではないだろか。


「人を殺す経験をしたかった」というので女性を殺した豊川市の17歳についてもそう。

この事件の異常さのみを強調し、加害者の少年は精神を病んでいると決めつけてよいものだろうか。その心情を深く探ることもなく、自分には理解できないという「排除の論理」だけで済ませることは、間違っていないだろうか。

ところが、手のひらを返してこんなアホなことを書く。

彼の中には、こういう犯罪を犯すのは今しかないという打算もあったのではないだろうか。なぜならば、今の少年法では、18歳を超えると、殺人罪に対して、場合によっては死刑判決もありうるからだ。

そんなのは大澤孝征の思い込みにすぎないじゃないか。

そして、こんなトンデモ発言。

少年犯罪が、教育水準の高い家庭の中でも、いわゆる人権派の物わかりのいい父親を持つ少年に多いというのも、偶然ではないだろう。

信じられないくらいの偏見だが、成育環境が悪い子供が多いことを知らないのか。

「今の刑罰は、犯罪の内容に比べて軽すぎる」
「諸外国に対し、日本の量刑はあまりにも軽い」
こういう誤解はよく耳にするが、きちんと調べて書いてほしい。

大澤孝征の死刑肯定論。

人の命を奪った者は、本来自分の死をもって贖うことから始めなければいけない。検討は死刑から始めてしかるべきなのである。

こういう考えの弁護士に刑事事件の弁護を依頼する人がいるのだろうか。

オウム真理教の井上嘉浩被告は地裁で無期懲役の判決について。

社会全体としての制裁装置として、また被害者に代わってリベンジ(報復)をする装置として、そして一種の見せしめ的な意味(専門用語で一般予防という)においても、一審の判決は「死刑」であるべきだった。

「見せしめ」とはね。

大澤弁護士は凶悪な少年犯罪が急激に増えていると指摘している。
しかし、少年犯罪の激増、凶悪化、低年齢化というのは間違い。
他にもウソが多い。

この刑(無期懲役)の実際の執行がどのようになっているかというと、ほとんどの場合、短い年数の刑期ですんでしまっているのが現状。

『犯罪少年』が書かれた2000年の仮釈放者の平均在所期間は20年以上である。
仮釈放が認められず50年以上在所している人もいるし、獄死する人もいる。
ちょっと調べればわかることなのにウソを書く。

大澤弁護士は少年犯罪は「戦後平等主義の負の遺産」だと言い切り、教育論に話は展開していく。
「少年犯罪が増えて生きている背景に、悪しき平等主義がある」
「戦後教育にも、かなりの問題があったのではないだろか」
「明治・大正時代には、日本人はもっと背筋がピンとしていた。武士の精神のようなものがあった」

武士道か。
江戸時代、武士は1割ぐらいで、ほとんどが農民だったのに、どうして武士道が日本精神なのか。
そもそも明治、大正に生まれてもいないのに、見て来たようなウソを言う。

そのあと、どうして検事から弁護士へ転身したのか、テレビ出演をしまして…、という自慢話で終わる。
そういう本でした。

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