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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

南京事件 3

2009年10月30日 | 戦争

なぜ日本では南京事件否定派の影響力が大きいのか。
南京事件は本来は歴史という学問の領域のはずなのに政治的問題になっていると、笠原十九司氏は指摘する。
「南京事件が日本国内において日中戦争を侵略戦争と批判的に見るか、「正当な戦争」であったと肯定的に見るかという日本の戦争認識の鍵となる象徴的事件になって」いるのである。
南京大虐殺を肯定すると、日本が中国に侵略したと認めないといけない。
だから、南京事件を否定する。
「日本の戦争が侵略戦争であることを国民に認識させないために、南京大虐殺否定論者が必要とされるようになったのである」
その意味で南京事件は慰安婦問題とつながっているし、南京大虐殺否定論は東京裁判否定論とセットである。

否定派は、日本は侵略なんかしていないし、不法なことはしていない、それなのに一方的に非難されるのは中国やアメリカの陰謀だと主張する。
「藤岡(信勝氏)・東中野(修道氏)らの論理は、南京大虐殺は中国が日本を国際社会から放逐するために、国際的にしかけてきた情報戦・思想戦の一手段であり、それに欧米のメディアが加担して日本を孤立させるために「国際情報戦」を展開している、というものである」
日本は加害者どころか、陰謀に巻き込まれた被害者なんだというわけである。
だから、南京で虐殺があったと主張する者は中国の手先ということになる。

私も正直なところ、南京事件など日本軍の加害事実を認めたくない。
そんな昔の話を今さらほじくり返さなくてもという気持ちがあるし、日本がした悪いことばかり強調しなくてもいいじゃないかと思ったりもする。
過去の加害事実を認めないのはトルコも同じだそうで、第一次世界大戦時期にオスマントルコ軍がアルメニア人を虐殺したことをトルコ政府は認めず、虐殺の事実を公的に主張すれば国家侮辱罪に問われるという。
しかし、自虐史観として自国のマイナス面を見ようとしないのは誤りである。

相も変わらず世界のあちこちで戦争、内戦、紛争が起き、ソンミ、ボスニア、ルワンダ、コンゴ、ダルフールなどなど半端ではない虐殺、暴行、強姦、略奪が絶え間なくなされている。
どうしてそういうことが起きるのか、どのようにしたら防止できるのかを考えていくためにも、負の遺産である南京事件を否定せず、日本軍はどうしてあんなことをしてしまったのかを研究することが必要だと思う。

英国聖公会の宣教師・登山家であり、日本アルプスを世界に紹介したウェストン(1861-1940)は大変な日本びいきだった。
満州事変後の対日感情悪化の中、日本を擁護するために日本を紹介する幻灯機を持って英国中を講演して回っている。
そんなことをしてたら非難を受けるのを承知の上で日本のために尽くしたのである。
ウェストンが南京事件を耳にしたら、まさか日本人にかぎってそんなことをするわけがないと思っただろう。
日本や日本人に惚れ込んだ西洋人はウェストンばかりではない。
幕末から明治にかけて日本を訪れた西洋人の多くが日本を絶賛している。
彼らが書いた旅行記を読むと、日本人の勤勉さ、働き者、温厚、親切、器用、知識欲が旺盛、きれい好きといった言葉であふれている。

そんな日本人でも何をするかわからないという事実をしっかりと見ていかないといけないと思う。

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南京事件 2

2009年10月27日 | 戦争

昭和12年12月から13年3月にかけての南京で一体何があったのか。
以下、笠原十九司『南京事件論争史』と秦郁彦『南京事件』からの引用。

「(東京裁判で)検察側が立証したのは、南京占領直後中国側の軍事抵抗がすでに終わっていたにもかかわらず、日本軍は虐殺、強姦、略奪、その他の非人道的行為を武装解除していた中国兵や市民にたいして大規模におこなった事実、そうした不法、残虐行為は少なくとも南京陥落後の六週間にわたって大規模におこなわれたという事実であって。そして、南京の日本軍による残虐行為について、日本政府の高級官僚や軍部指導者が事件当初から外交筋、報道関係などから詳細な情報を受けていたという事実であった」
1937年12月13日、南京は陥落した。
南京事件の情報は発生と同時に外務省に報告が送られ、さらに陸軍省、海軍省当局に伝えられている。(以上、笠原)

12月13日の南京陥落を目撃した外国人ジャーナリストは5人いた。
第一報は早くも12月18日の「ニューヨークタイムズ」でダーディンによって南京事件が報道されている。
「一般市民の殺害が拡大された。警官と消防夫がとくに狙われた。犠牲者の多くは銃剣で刺殺された」
「日本軍の略奪は市全体の略奪といってもよいほどだった。建物はほとんど軒並みに日本兵に押し入られ、それもしばしば将校の見ている前でおこなわれた」
「多数の中国人が、妻や娘が誘拐されて強姦された、と外国人たちに報告した」
etc
1938年2月ごろまで南京にいたフィッチは「九週間の間、昼も夜も日本軍の暴行はつづいた。とくに最初の二週間がひどかった」と新聞に報告している。
南京進軍の第十軍には「老若男女をとわず人間を見たら射殺せよ」という命令が出ていたという。(以上、秦)

南京虐殺の責任者とされる中支那方面軍司令官松井石根大将と1938年1月1日に話をした日高信六郎大使館参事官は「同将軍は部下の中に悪いことをしたものがあったことを始めて知ったといって、非常に嘆いておられました」と述べている。
1938年1月4日付けの参謀総長閑院宮からの訓示に「軍紀風紀において忌まわしき事態の発生近時ようやく繁を見、これを信ぜざらんと欲するもなお疑わざるべからざるものあり」とある。
1938年1月12日、阿南惟幾少将は中支那方面軍の軍紀について「軍紀風紀の現状は皇軍の一大汚点なり。強姦、略奪たえず」と報告している。
宇都宮直賢少佐の回想録に「私が南京駐在の日本領事たちと現地ではっきり見聞したところでも、多数の婦女子が金陵大学構内で暴行され、殺害されたことは遺憾ながら事実であり、実に目を蔽いたく光景だった」とある。
畑俊六大将の1938年1月29日の日記に「支那派遣軍も作戦一段落と共に軍紀風紀ようやく頽廃、掠奪、強姦類のまことに忌まわしき行為も少なからざる様なれば、この際召集予后備役者を内地に帰らしめ現役兵と交代せしめ、また上海方面にある松井大将も現役者をもって代わらしめ、また軍司令官、師団長等の召集者も遂次現役者をもって交代せしむるの必要あり」と杉山陸相に進言したと記している。
そして、1938年2月14日に松井石根中支那方面軍司令官は解任された。
1938年2月7日に挙行した慰霊祭の終了後、松井大将は飯沼守少将に「南京入場の時は誇らしき気持ちにて、その翌日の慰霊祭またその気分なりしも、本日は悲しみの気持ちのみなり。それはこの五〇日間に幾多の忌まわしき事件を起こし、戦没将士の樹てたる功を半減するにいたればなり」と訓示した。
松井石根大将は2月7日の日記に「今日はただ悲哀そのものにとらわれ責任感の太く胸中に迫るを覚えたり。けだし南京占領後の軍の諸不始末とその後地方自治、政権工作などの進捗せざるに起因するものなり」と書いている。(以上、笠原)

昭和13年夏、岡村寧次第十一軍司令官に中村陸軍省軍務局長が「戦場から惨虐行為の写真を家郷に送付する者少なからず、没収すでに数百枚」と語っている。(秦)

1938年7月13日、岡村寧次中将は「従来派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜の多くはこれを殺すの悪弊あり。南京攻略時において約四、五万に上がる大殺戮、市民にたいする掠奪強姦多数ありしことは事実なるがごとし」と記している。
「飯沼守日記」には山田支隊だけで捕虜一万数千人を刺殺、機関銃殺で処刑したこと、難民区に将校が率いる部隊が侵入して強姦したことが記述されている。
しかし、東京裁判で飯沼守少将は、多少の暴行、強姦はあったが、南京暴虐事件などといわれる事件はなかったと証言している。(以上、笠原)

巣鴨拘置所で教誨師をしていた花山信勝師は、松井石根が死刑判決が出た後にこう語ったと書いている。
「南京事件はお恥ずかしい限りです。(略)慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だった。折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった。ところが、このあとでみなが笑った。甚だしいのは、ある師団長の如きは『当たり前ですよ』とさえ言った」
この師団長とは中島今朝吾第十六師団長のことらしい。
秦郁彦氏は「中島第十六師団長のサディスト的言動」という表現をしている。
中島今朝吾師団長の日記には「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシ」と書かれ、松井石根軍司令官の注意に対し中島師団長は、「強姦の戦争中は已むを得ざることなりと平然として述べる」ことをするような人だった。(以上、秦)

1943年に中支那派遣軍憲兵隊教習隊長が作成した『軍事警察勤務教程』には「支那事変勃発初頭すなわち南京陥落直後の頃においては、中支における軍人軍属の犯罪非行はすこぶる多く、とくに対上官犯など悪質軍紀犯をはじめ、辱職、掠奪、強姦などの忌まわしき犯罪頻発せる」と記されている。
東京裁判では、弁護側は南京事件自体は認めて否定せず、それほど大規模で深刻なものではなかったと主張している。
旧軍将校の親睦団体である偕行社の機関誌『偕行』では南京攻略戦に参加した将校たちの証言を募集したのだが、虐殺をやった、見たという証言や記録がかなり出てきたので、1985年3月号に「南京事件はその当時、すでに軍によって大きな問題として扱われたようである」と指摘し、南京事件が事実だと認めている。(以上、笠原)

三笠宮の自伝『古代オリエント史と私』の冒頭「なぜ私は歴史に関心をもったか」に、次の文章がある。
「一九四三年一月、私は支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして一年間在勤しましたが、その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました。ここではごくわずかしか例をあげられませんが、それはまさに氷山の一角に過ぎないものとお考えください。
 ある青年将校―私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのです―から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった、と語っていました。
 「聖戦」のかげに、じつはこんなことがあったのでした」
そして三笠宮は「これらのショックこそ私をして古代オリエント史に向かわせた第一原因なのです」と書いている。
三笠宮に対して自虐史観だと非難する人はいないだろう。

さらには、裁判で南京事件否定派は負けているのである。
百人斬り競争の記事によって名誉を毀損されたとして二人の将校の遺族が本多勝一、毎日新聞社、朝日新聞社を提訴したが、最高裁で原告側の敗訴が決定した。
逆に、『「南京虐殺」の徹底検証』で被害者の夏淑琴氏をニセ被害者と書いた東中野修道氏は、夏淑琴氏から名誉毀損で提訴され、地裁では名誉毀損が認定された。
判決文は「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」とまで言っている。(以上、笠原)

『南京事件増補版』によると、南京事件における不法殺害者数が限りなく0に近いと考えている人は、東中野修道氏、藤岡信勝氏、阿羅健一氏たちで、渡部昇一氏は40~50人、櫻井よしこ氏、岡崎久彦氏たちは1万人前後である。
しかし笠原十九司『南京事件論争史』や秦郁彦『南京事件』に載っている証言や文書を読むと、南京事件はなかったと否定することは不可能で、どう考えても不法殺害者がゼロということはあり得ない。
ところが、なぜか日本では南京大虐殺否定説が広く流布され、影響力をもっているのである。
不思議な話である。

秦郁彦氏は『南京事件』のあとがきに「もしアメリカの反日団体が日本の教科書に出ている原爆の死者数が「多すぎる」とか、「まぼろし」だとキャンペーンを始めたら、被害者はどう感じるだろうか」と書いている。
その通りだと言わざるを得ない。

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南京事件 1

2009年10月24日 | 戦争

笠原十九司『南京事件論争史』を読んだので、ついでと言ってはなんだが秦郁彦『南京事件 増補版』(2007年刊)も読む。
南京事件について私が今まで読んだ本は
阿羅健一『聞き書 南京事件』(『「南京事件」日本人48人の証言』)と秦郁彦『南京事件』(1986年刊)ぐらいなもので、本音を言うと南京大虐殺懐疑派だった。
というのも、『聞き書 南京事件』は将校や新聞記者たち35人にインタビューし、30数人と手紙のやりとりをしたものだが、ほとんどの人が虐殺を否定しているのである。
その一人がなんと
『生きている兵隊』を書いた石川達三。

「昭和五十九年十月、インタビューを申込んだが、会うことは出来なかった。理由は後でわかったが、それから三ヵ月後の昭和六十年一月に石川氏は肺炎のために亡くなった」
そのおり、阿羅健一氏は次のような返事をもらっている。
「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。
大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。
何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」

これを読んで、ええっ、虐殺はなかったのか、と思いましたね。

秦郁彦氏はというと、『南京事件』で対象と被害を
Ⅰ 対軍人
a、敗残兵の殺害
b、投降兵の殺害
c、捕虜の処刑
d、便衣兵の処刑
Ⅱ 対住民
a、略奪
b、放火
c、強姦および強姦殺害
d、殺害
e、戦闘に起因する死者
と分類し、そして「第二次世界大戦で、もっともお行儀が悪かったと定評のあるソ連兵も、帰還邦人の回想によると対住民についてはaとcどまりであり、cもほとんど単純な強姦で、殺害にまで至った例は少ないようである。それに対し、日本軍の蛮行はⅠとⅡのa~dをすべて網羅しており、中国からどう責められても仕方のないところだろう」とか、「昭和の日本軍は一段と悪質だった。建前では、強姦が発覚すると処罰されることになっていたので、証拠滅失のため、ついでに殺害、放火してしまう例が多かったからである」とまで断じているのである。
そんなことをはっきりと書いている秦郁彦氏にしても、犠牲者数は4万人としている。
『南京事件 増補版』も、犠牲者数は初版と同じ4万人(軍人捕虜の不法殺害3万人、民間人の不法殺害1万人)とある。
「四万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下まわるであろう」
3万人が殺されたとしても立派な大虐殺なのだが、20~30万人という数字と比べたら、なんだ、それくらいなのか、と思ってしまう。

で、『南京事件 増補版』には「南京事件論争史」が追加されている。
阿羅健一『聞き書 南京事件』について秦郁彦氏は
「阿羅健一『聞き書 南京事件』は、現場にいた陸軍の将校など六六人からのヒアリングを収録したもので、ほぼ全員がシロの証言者だった。
秦は証言者の顔触れを目次で見た瞬間に、「結論はシロだな」と直感した」
と、きついことを書いている。
つまり、虐殺を否定するだろう人を選んでインタビューしているわけだ。
笠原十九司『南京事件論争史』は、証言者の著書では虐殺があったとしているのに、『聞き書 南京事件』では「見なかった」「無かった」としていたり、「虐殺はあった。それを否定してはならない」と言っている人の聞き書きを単行本にする際に削除していると指摘している。

石川達三のことだが、石川達三は南京占領後の1938年1月5日から8日間、南京の警備で駐屯していた将兵たちから聞き取りをおこなって『生きてゐる兵隊』を書いた。
「中央公論」三月号に掲載されたが、内務省から発売禁止され、「新聞紙法」違反で起訴、禁錮四ヵ月、執行猶予三年の判決を受けた。
あるサイトに「読売新聞」昭和21年5月9日に載った石川達三のインタビューが転載されている。
「武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使ふのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で片ツぱしから殺害し」
「戦争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた」
「何れにせよ南京の大量殺害といふのは実にむごたらしいものだつた」

石川達三が死んだ今となっては本当のところはわからないが、阿羅健一氏が受け取ったという石川達三の手紙、どうもあやしい。
で、単純な私は笠原十九司『南京事件論争史』を読んで史実派にあっさり鞍替えしたのでありました。

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米本和広『新装版 洗脳の楽園』

2009年10月21日 | 問題のある考え

米本和広『新装版 洗脳の楽園』(2007年刊、1997年発行のものの増補)を読む。
山岸巳代蔵は理想社会を人間社会で実現するために、1953年ヤマギシ会を結成した。
「ヤマギシ会はヤマギシズムをもとに、世界を〈無所有一体〉の理想社会に塗り替え、世界中の人間を幸福にしたいと願っている。「実顕地」はその拠点であり、理想社会のモデル村なのである」

米本和弘氏は94年、豊里実顕地(三重県津市)を訪れる。
金のいらない村。
お腹がすけば食堂に足を運べばいい。
浴場、クリーニングもただ。
下着以外の服、装身具、靴、タオルなどは共用だが、これもただ。
日用品もほしいものがあれば展示供給所に行き、自由に持っていくことができる。
病気になれば無料で診てもらえ、死ねば共同墓地に埋葬される。
エドワード・ベラミ『顧みれば』を思わせるユートピア社会である。

案内をしてくれた女性はこう言う。
「この村は無所有社会だから、所有観念はいっさいないの。すべて誰のものでもないから、誰が何を使ってもいい。食堂だってお風呂だって、みんなが使う。一体なのよ。誰のものでもないっていうのは物だけでなく、私の子どもだって私のものではない。だから、この村にいる子どもは誰のものでもない。私の身体だって、私のものではないの。世界中のすべてのものは誰のものでもない、すべては一体なのよ」
学生運動に挫折してヤマギシの村に入った一人はこう言う。
「簡単なことですよ。働いて得たお金を〈村の一つの財布〉に入れる。その財布のなかからみんなの生活費に充てる。それだけのことですよ」

村での労働時間は長く、元日以外の毎日が労働日である。
だから、日本の平均労働時間より二倍近く働く。
「そりゃあ、あなたが生活のため、金のために働く労働を考えるから大変だと見えるだけなんだよ。ここではみんなが理想社会を実現し、世界中の人が幸福になる〈全人幸福社会〉を実現するために、それぞれ専門の分野で働いている。だから、みんな楽しくてしかたがない」
村人の一人に「諍いはないのか」と聞くと、こういう答えが返ってきた。
「それは村人に我執がないからですよ。この世の諍い、いがみ合いのもとは我執です。我執があるから所有にこだわったり、競争が始まる。ここでは我執がないから、喧嘩が起きない、誰とでも仲良くできるんです。〈無我執〉はこの村の最大の特徴です」

大変結構な話ではあるが、なんだかソ連のプロパガンダ映画のセリフみたいである。
まさに洗脳の楽園、ザミャーチン『われら』やオーウェル『1984年』で描かれた世界が現実のものとなっている。
これらのアンチユートピア小説はスターリンのソ連を念頭に置いて書かれたものだが、米本和広氏はヤマギシ会は中国の文革と共通すると言う。
「〝ヤマギシズム〟の創始者である山岸巳代蔵にみんなが魅かれたのは、我執のない人たちが所有意識なく自他の分け隔てなく暮らせるような、争いのない幸福社会を夢想したからである。
毛沢東が発動した文化大革命のことがついよぎってしまう。
文化大革命の本質は毛沢東の奪権闘争だったが、それを抽象すれば、利己主義や所有意識を生む資本主義的要素のすべてを消滅させる運動であった。知的労働者も肉体労働者もみんな同じ人民服を着て、人民公社の食堂で同じものを食べる。私心ある利己的人間は告発され、人民集会の場で吊し上げられた。世界の若者は文化大革命を熱狂的に支持し、当時の学生運動に大きな影響を与えた。
ヤマギシズム運動と文化大革命に共通するのは、物欲に限らず個性的でありたい・自由でありたいといったすべての欲望を否定し、人の心をある鋳型に流し込み作りかえようとしたことにある。それが同時に運動が瓦解する原因ともなったのは皮肉な話である」
アンチユートピアがヤマギシ会によって実現したわけである。

米本和広氏は特講(研修会みたいなものだが、実際は洗脳)を受ける。
その報告を読むと、私自身もその場にいあわせているような気がして、なんだか気分が悪くなった。
ヤマギシ会は政治とのつながりもあり、将来どうなるのだろうと、『洗脳の楽園』を読んだ時は恐ろしくなったものです。
しかし、『新装版 洗脳の楽園』は1997年以降のヤマギシ会の衰退を報告している。
ほっとした。

コメント (13)
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オリバー・ストーン『ブッシュ』2

2009年10月18日 | キリスト教

それにしても、アルコール依存症で、40歳ぐらいまでちゃんとした仕事をしていなかった人物がどうしてテキサス州知事となり、そしてアメリカ大統領になり、おまけに二期も務めることができたのか。
『ブッシュ』のエンドクレジットの一番最後、十字架がW(原題)になる。
のだろう。

ブッシュ前大統領は1985年にビリー・グラハム牧師と出会ってアルコール依存症を克服したそうだ。
アール・ハッド師という牧師が『ブッシュ』に出てくるが、おそらくビリー・グラハム師がモデルだろう。

で、ビリー・グラハム師についてレイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』にはこんなことが書いてある。
「道徳に関するビリー・グラハム理論では、犠牲者は犯した罪に対する責任を負ってその犠牲を担っているのだ、と考える。だから、黒人は、人種差別の罪を負っているし、北ベトナム人たち自身が、自分たちの国に破壊をもたらしたのだ。こうしたことはすべて、罪を犯した者が地獄を作り出す、という原理に基づいている」
どんな目に遭おうとも、それは因果応報だというわけである。
こういう発言をするビリー・グラハム師ではあるが、上坂昇『神の国アメリカの論理』によると宗教右派の中では穏健派だというのだから、頭が痛くなる。

上坂昇氏によると、宗教右派という言葉は、アメリカでも決まった定義がなく、保守的なクリスチャンやキリスト教右翼(右派)などを指すあいまいな表現だという。
ボーンアゲイン、福音派(エバンジェリカル)、その過激派ともいえるファンダメンタリスト(原理主義者、根本主義者)、場合によってはユダヤ教右派までもが含まれていることがあるそうだ。

宗教右派は、クリスチャン・シオニズムにおけるイスラエル支援、中絶の禁止、反同性愛の運動を共和党に働きかけることで実現しようとしている。

宗教右派の代表的な指導者がジェリー・ファルウェル師だった。
「ファルウェル師のファンダメンタリスト的な姿勢は、建国当時のアメリカの価値観をよみがえらせ、リベラル派が支配した1960年代から始まった伝統的価値観の崩壊を食い止め、公立学校での祈りを復活させ、妊娠中絶と同性愛を禁止することだった。ソ連の軍事力に対抗するために、アメリカの軍事力増強や核使用も辞さないという頑迷な反共主義者でもあった」

『ブッシュ』でも、父ブッシュの大統領選の際、子ブッシュが宗教右派の力を借りるよう父を説得するシーンがある。
どうして宗教右派が共和党を支配する勢力になり、大統領候補の指名や党綱領の採択などの重要な活動に多大な影響力を発揮できたのか、上坂昇氏はこう指摘する。
「その秘密は大統領選挙制度にある。たとえば、1998年大統領選挙の予備選挙の平均投票率はわずか19%であり、党員集会への出席率にいたっては3%にすぎない。つまり、アメリカの有権者は一般的に、本選挙では投票するが、それまでの党の活動には無関心である人が多い。熱心な活動家をもつ草の根の組織であれば、党の地方の代議員に選ばれ党大会に参加することは、それほど難しいことではない」

困ったことに宗教右派はハルマゲドンが起きると信じている人が多い。
「イエスと反キリストが対決するハルマゲドンが起こるかどうかに関する『ニューズウィーク』誌の世論調査では、起こると答えた人は、アメリカ人の成人全体では40%である。しかし、クリスチャンは45%、そのうちエバンジェリカルは71%である」
ブッシュ前大統領がイラクに侵攻したことを非難するより、核兵器を使わなかったことを喜ぶべきかもしれない。

ブッシュ前大統領は人から好かれるタイプなんだそうで、つき合ってみると面白い奴だろうなと、『ブッシュ』を見て思った。
それに、記者会見で「大統領としてどんな間違いを起こしたか」という質問に真面目に答えようとして答えにつまってしまうシーンが『ブッシュ』で描かれ、誠実な人柄だと感じさせる。
しかし、父ブッシュが「人間には器というものがある」と言ったと子ブッシュがつぶやくように、残念ながら大統領の器ではなかった。
『ブッシュ』を見て、麻生前首相がブッシュ前大統領とだぶってきた。

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オリバー・ストーン『ブッシュ』1

2009年10月15日 | 映画

できの悪い息子が尊敬する父親にほめられ、認められ、愛されたいとがんばるのだが、酒好きで女好きだし、父親のコネで仕事についても長続きしないので、両親からは優秀な弟といつも比較され、ついには父親から「失望したよ」とまで言われてしまう。
オリバー・ストーン『ブッシュ』を見てたら、なんだかブッシュ前大統領がかわいそうになってきた。

町山智浩『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』を読んで『ブッシュ』を見ると、なるほどね、こういうことかと思うことがいくつかある。

まず、イラク侵攻について閣僚の中でパウエル国務長官だけが反対するということ。
なぜか。
富裕階級の軍隊経験者が激減しているそうだ。
1956年、プリストン大の卒業生750人中400人が軍に志願している。
ところが、プリストン大2004年の卒業生1100人中、軍隊に入った者は10人。
アイビーリーグの大学全体でも同じ割合である。
アメリカの上下院議員のうち軍隊経験者は5%、自分の子どもを軍隊に入れている議員は7人しかいない。
ブッシュ政権の閣僚の多くは兵役を逃げたり、軍隊の楽な部署にいた。
世界各国に派遣されている米兵の多くは、大学に進む学費を稼ぐために志願した貧しい家庭の出身なのである。
「デューク大学の調査によれば、大統領の閣僚や議員に軍隊経験者が少ない時ほどアメリカは戦争を起こしやすくなるという。自分や身内が兵士でないと、戦争の痛みはわからない」

その一方で、アメリカ兵の質が落ちているという。
捕虜の虐待や一般人の殺傷などの不祥事が起こるのはストレスのためばかりではなく、刑罰の軽減を求めて入隊する者が増えているということもある。
その背後には深刻な新兵不足がある。
「軍では入隊時に適性検査で情緒や倫理観に問題のある者をふるい落とすが、05年に、適性検査のハードルが下げられ、最低評価の「4」でも採用できることになった。さらに新兵訓練もゆるくなった。05年まで、訓練の過程で新兵の18%以上が落とされたが、今では半分以下の7.6%になっている」
「世界に20万人のアメリカ兵が派遣されているが、05年だけで、「人格障害」で除隊になった米兵は1038人にのぼる」

これは正規軍の話。
イラクやアフガニスタンなどには多くの傭兵がいるそうだ。
冷戦後、アメリカ軍は縮小されたので、正規軍の兵員不足を埋め合わせる民間企業が増えている。
2007年9月、バグダッドで兵士が渋滞の車列に銃を乱射し、イラク市民が14人負傷、11人が死亡した。
この虐殺を行ったのは米兵ではなく、ブラックウォーターという警備会社の警備員である。
ブラックウォーターはアメリカ政府から約700億円に上る契約をしている会社で、兵士2万人、戦闘ヘリなど航空機を20機以上擁している。
イラクにはこのような警備会社が世界中から50以上参加し、約5万人が働いているそうだ。

傭兵については『ブッシュ』に出てこないと思うが、これを読んで、『消されたヘッドライン』という映画を思いだした。
イラクやアフガニスタンで軍事業務を請け負う傭兵会社を公聴会で追及しようとしていた下院議員が女性スキャンダルに巻き込まれて、というお話だが、企業がアメリカの軍事を仕切るようになるというのは空想上の話ではないわけだ。

あるいは、『ブッシュ』の中で、ブッシュがチェイニー副大統領と国内では拷問が禁じられている云々という会話をする。
これは『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』に書かれている次のことを指しているに違いない。
CIAに拉致され、中東に密かに移送されて拷問を受ける人たちがいるという。
「この行為をCIAはエクストラオーディナリー・レンディション(特殊容疑者移送)と呼んでいる。米国内でテロ容疑者を拘束しても期限内に自白が得られなければ釈放するしかない。しかもアメリカの法律は拷問を禁じている。そこでCIAは容疑者をエジプトやヨルダン、モロッコ、シリアなどに送り始めた。警察による無期限拘禁や拷問が容認されている国で代わりに拷問してもらうのだ」
「EUの調査では欧州内でCIAに拉致されて行方不明になった人数は100を超えるという」

えっ、こんなことが本当に行われているのか、という話だが、こんな事件があった。
イタリア:CIA工作員に拉致事件で求刑…ミラノ地裁公判
イタリアで03年、米中央情報局(CIA)工作員とイタリア軍情報機関員計33人が、ミラノ在住のエジプト人聖職者、ハッサン・ナスル氏を拉致しカイロへ連行したとされる事件で、ミラノ地裁の裁判が先月30日、結審した。検察は米側工作員26人全員に誘拐罪で懲役10~13年を求刑。イタリア側には4人に懲役3~13年を求刑、残る3人の赦免を求めた。
ナスル氏はテロ容疑者として連行され、米当局者らによる尋問の際、拷問を受けたと訴えている。ミラノの検察当局は不当拘束とみなし、当時のローマ駐留CIA指揮官らを起訴。07年6月に審理が始まった。ミラノ地裁は被告の米国人に逮捕状を発行したが、米政府は起訴内容を全面否定し、裁判は被告欠席のまま行われてきた
。(毎日新聞10月1日
これじゃあ北朝鮮に強く言えないはずです。

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職業病

2009年10月14日 | 日記
先週のことだが、下痢かと思って便所に行ったら血がどばっと出た。
で、病院で診てもらうと大腸憩室出血という診断。
大腸の血管が切れて出血したわけで、つまりは鼻血みたいなものです。
出血量は半端じゃなかったけど。
まあ、あれこれと考えました。
次の法座で話すことになるでしょう。
転んでもただでは起きない、何でも法話のタネにしてしまうというのは職業病だと思い、それもまた法話で話そうかなと考えるのでした。
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イザベラ・バードと赤松連城

2009年10月06日 | 仏教

イザベラ・バード(1831~1904)は世界を旅しては旅行記を書いた女性。
日本にも明治11年、47歳の時に来ている。
通訳を一人連れただけで、日光から会津、新潟、秋田、そして北海道に渡って日高のアイヌにしばらく滞在する。
横浜に戻って、今度は神戸から京都、伊勢をめぐっている。
大したおばさんなのである。
西本願寺にも行っており、『イザベラ・バードの日本紀行』にはなんと赤松連城とのQ&Aが載っている。

浄土真宗をイザベラ・バードはこのように紹介している。
「仏教の数ある宗派や分派のなかで、[浄土]真宗ほどわたしの関心をそそるものはありません。真宗は門徒と呼ばれることもあり、一二六二年に親鸞が創始しました[一二六二年は親鸞の没年]。禁欲主義、苦行、断食、巡礼、尼僧院、修道院、社会からの隠遁、魔除け、お守り、知らない言語で書かれた経典を読むことに異議を唱え、思想と行動の自由を謳い、伝統的な神道や国家の影響からの解放を求め、また家庭は清浄の源でありその実例だとして、親鸞は京都のある高貴な家柄の女性をめとり、妻帯した僧の第一号となりました。門徒は最大の宗派ではないとしても、知識層、有力者層、資産家層にまず広がってたいへんな力を発揮し、外国式の神学校を組織しています。そこでは神道とキリスト教ばかりでなく仏教の腐敗を阻止・攻撃することができるよう仏教学と西洋学が教え込まれます。いまこの瞬間にも京都ではすばらしい設備の新しい学校[西本願寺大教校]が建設されていて、その目的は若い僧侶を英国に送って梵語を学ばせること、反キリスト教論を強化することにあります」
「仏教の僧侶の顔にふつう見られる間の抜けた表情やさも信心深げな表情がほとんどありません。この宗派の信条は禁欲や、他人の務めや喜びからの隔離というようなものをなんら求めておらず、その分健全で人間的です」
「この宗派は他の宗派によって広められた処世訓や教義は真理を改悪したものである、禁欲の誓いや断食、生活に役立つものをふつうに使うことを節制するのは虚栄のなせるわざ、あるいは迷信的行為である、妻帯した聖職者は世の中で清浄さを最も保持している、一般の意味でいう僧侶の才覚は妄想であり罠である、と教えています」
イザベラ・バードは浄土真宗にずいぶん好意的なのである。
これはたぶんイザベラ・バードがプロテスタントだからという気がする。

そして、赤松連城を次のように紹介する。
「この動きは仏教を日本の精神的な力として新しく改革すること、再編することを目的としていますが、その先頭にいるのがとびきりすぐれた知性、高い教養、不屈のエネルギー、知名度の高さを兼ね備え、自分の信仰の将来に対して遠大な志を持った僧である赤松氏なのです」
これほど賞賛されている赤松連城(1841~1919)は、島地黙雷と並んで明治初期の仏教界をリードした本願寺派の傑僧である。
赤松連城はイギリスに留学しているので、英会話が達者だったらしい。
「赤松氏はとても紳士的で礼儀正しく、英語を非常にうまく話し、表現力豊かで、わたしには驚くほど率直に話してくれているように思えました」

イザベラ・バードは赤松連城にいろんな質問をする。
仏教宗派のちがいについて。
「教義はキリスト教の宗派と同じように広く異なっていますが、あなたがたのすべてがひとつの神とキリストを信じているように、仏教徒はすべて阿弥陀への崇敬という点、それから魂の不滅と転生を信じているという点で一致します」
「あなたがたは『創造主』に制限を受けています。わたしたちは創造主をなにも信じていませんが、その精神(永遠なるもの)が原子を生み、原子が英語で言う『偶然の組み合わせ』によりわたしたちの目にしているすべてのものを生み出したと考えています。仏陀はあなたがたにとっての神のように至高の存在ではありませんが、すべての上にあります。あなたがたは死んでも神にはなりませんが、わたしたちは死ぬと仏陀になるのです」

仏陀はただ存在しているだけだ。
「涅槃に達することは容赦なく生まれ変わらなければならない状態から解放され、『概念も、概念がないという意識もない』状態に到達することです。これは死における命、命における死です。英語にはそれを表すことばがありません」

仏教という信仰の目的はなにか。
「人を浄化し、魂の不滅を信じ続けさせること。これはあらゆる高潔さの基本なのです」
「赤松氏は転生について多く語りましたが、彼は肝要な信条として転生を絶対的に信じると認めています」

高潔でないまま死んだ人は浄化の期間、拷問を受けるか。
「いいえ。そういう人の魂は転生され、獣の肉体に生まれ変わるのです」
それでは浄化の望みが絶たれてしまうのではないか。
「そうではありません。仏陀は獣の姿になって獣が理解できるように教えを伝えますから」

日本の宗教の現状をどう思うか。
「神道は本当に自然崇拝の最も素朴な形で、儒教や仏教との接触によりやや装飾されています。宗教としては絶えており、政治的道具としては衰えつつあって、活気のあったためしがありません。仏教はかつては強力であったもののいまは弱く、復活するかもしれないし、しないかもしれない。仏教の肝要の真理―清浄、輪廻、不滅―はなくなりません」

日本人を非宗教的な人々と見なすことしかできない。
「現在はそうです。儒教の哲学はずっと昔上流階級のあいだで急速にひろがり、教育があって思考力のある人々は霊魂の不滅を否定して、あなたがたが言うところの唯物論者になりました。彼らの不信仰は徐々に平民のあいだに浸透していき、日本では本当の信仰はほとんどありません。迷信はいまでもいろいろ残っていますが」

あなたの宗派はことに上流階級に向けたものなのか。
「純粋な仏教には階級などありません。仏陀はあなたがたのいうところの平等論者なのです。あらゆる霊魂は平等であり、あらゆる人が高潔さにより仏陀になれるのです」

高潔でないことはなんだと思うか。
「嘘をつくこととみだらであること」
「仏教は人々に清らかであることを教え、清浄であることの果ては休息であると示しています。清浄は休息への明らかな道なのです。仏陀の道徳の教えはキリストのそれより高度です。キリストの道徳的な教えは効力がありません」

阿弥陀仏や本願、浄土などについての説明はない。
そういうことにイザベラ・バードは関心がなかったということだろう。
赤松連城は日本語で考えたことを英語で話し、それを聞いたイザベラ・バードが自分の理解した内容を英語で記し、その英文が日本語に翻訳されたものを私は読んでいるからかもしれないが、仏教とは偶像崇拝だ、迷信だと思っているイザベラ・バードがその考えを改めたわけでもないような、そんな仏教の説明でした。

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『おくりびと』と『納棺夫日記』3

2009年10月04日 | 問題のある考え

というので、青木新門『納棺夫日記』を再読しました。
第一章と第二章には感動したが、第三章がちょっと。

宮沢賢治が壊血病となって歯から出血して止まらず、結核の喀血もあって倒れ、40度の熱の病床で作った詩『眼にて云う』青木新門氏は出会い、親鸞の教えが理解できたと言う。
「この『眼にて云う』という詩は賢治の臨死体験の作品と言える。ここにみる賢治の視点は、病床にある肉体に視点はなく、肉体から離れた空中の、医者や自分の出血がみえるくらいのところにある。そして、きれいな青空が見えるところでもある。
この詩に出会って、朦朧としていた親鸞の思想が霧が晴れたように鮮明に見え始め、辞書を繰っても理解できなかった仏典用語も、ごく自然に理解できるようになった」

『眼にて云う』が臨死体験を描いたものだ、というのはまあいい。
しかし、臨死体験の詩を読んで親鸞の思想や仏教用語が理解できたというのが困ってしまうわけです。

青木新門氏は臨死体験はさとり体験だと考えているらしい。
宮沢賢治が死の淵で見た透き通った空や風の世界を親鸞も体験していたのだ、と青木新門氏は言うわけで、臨死体験で見た世界が浄土だということになる。
「人が死を受け入れようと思い立った瞬間に生じる不思議な現象こそが、親鸞を解く鍵だと思う。この不思議な現象は、理性では理解できない異次元の現象であって、実体験以外に理解の方法はない」
「親鸞の中有の理解は、宮沢賢治の臨死体験の詩『眼にて云う』にあるような、『さんたんたる景色』と『すきとおった世界』とが同時に見える第三の視点に留まる時間を指しているようである」

そして、親鸞の浄土のイメージは『ひかりの世界』、阿弥陀如来は『ひかり』そのものだと言う。
この「ひかり」が問題でして。
「あらゆる宗教の教祖に共通することは、その生涯のある時点において、『ひかり』との出遇いがあることである。イエス・キリストをはじめとし、天理教の中山ミキや大本教の出口なおなど、すべての教祖は『初めに光ありき』から出発した体現者であった。
親鸞も、ひかりの体現者だったと言える」
「親鸞は『ひかり』との出遇いを体験し、『ひかりの世界』を垣間見たところから、この教行信証の著作を思い立ったにちがいない」

青木新門氏の考える「ひかり」とは、対象化される実体的なものじゃないかと感じられるわけです。
しかし、広瀬杲先生は臨終来迎についての説明の中で、「仏法は、いわゆる実体観から自己を解放していく道を説く以外に何もないのです」と言われているように、臨死体験や臨死体験で見る「ひかり」を実体化すると仏教ではなくなる。

だけども、青木新門氏の考える浄土は死後の世界ではないらしい。
「さんたんたる景色(現世)を横目で見ながら、すきとおる世界(浄土)へと直行(成仏)するわけで、死はどこにもない。死体や霊魂や死後の世界などは、さんたんたる世界にいる人々の関心事であっても、死者にとってはすきとおった風の世界からすき透るひかりの世界へとストレートに進むだけである。そこには死もないから、往生という。生きて往くのである」
このあたり、どうもよくわからない。
というのも、「死んでもまた会える世界があるんだ」ということをよく耳にする。
じゃあ浄土は死後の世界なんですかと尋ねると、そうではないと皆さん言われる。
死んでから行く世界が死後の世界じゃないというのはどういうことなのか、いつも不思議に思う。

そして、青木新門氏は「ひかり」について
「親鸞のイメージした光は、はかり知れなく、きわもなく、すべてのものをすき通す光であり、そしてこのような光がかたちもすがたもないまま永遠に存在し、永遠の彼方からやって来るのかと思うと、常に我々の近くにあって照らしつづけているといった光なのである」
と書いたあとに、「すがたもかたちもない、すべてのものをすえとおす」ニュートリノについて論じる。
ニュートリノの性質が親鸞がイメージした「ひかり」と共通しているということらしいんですね。
「すなわち星たちが死をむかえる一瞬にニュートリノが光速で抜け出し、次の瞬間に星の構成物質が爆発し、その残骸から再び新しい星が生まれる。
太陽も地球も、そして地球上の生物も、はるか昔に爆発して死んだ多くの星が残した死骸(物質)からできているのである。
このようにして生まれた我々人間も、その生死の瞬間における現象が類似しており、それゆえに、回帰本能や複製本能が、生命の起源や太陽系の誕生やさらに宇宙の誕生といった母の母なる根源へと遡上を促されるのかもしれない」
「我々人間の生死の瞬間にも、精神と肉体と世界などが統一される瞬間があるのかもしれない。その瞬間を仏教では、一如と言っているのだと思う」
うーん、科学的知見を持ち出して自己の主張を証明しようとするところがニューエイジっぽいのである。
もしも『おくりびと』のラストが、死んだ父親が天井から息子が自分の身体を清めているのを見て、そして光に向かっていく、というようなシーンだったら、キネ旬のベスト1にはならなかったと思う。

お子さんを亡くされた方が光体験ということを話された。
「愛する子供は失われたわけです。その失われた子供は二度と取り返すことはできませんが、失うことによって「自分自身」を知ることができました。そして、その自分がどんなに不安定なところで生きていたか、そういう自分の足下を見ることもできたわけです。
そして、その不安定で真っ暗な世界の底にも暖かな光が注がれていることを知りました。それは、どん底の暗闇を知らない人には見ることができない暖かな光だったわけです(もちろん、精神的な光、たとえですよ)。子供を失った悲しみ苦しみを持ちつつも(いえ! 持っているからこそ)出会えた光の存在。これなんです」
それに対して、「光」とは具体的にどういうことかと尋ねると、このような返事をもらった。
「「光」というと、何だかとってもまぶしくて、幸福一色の感じがしてしまう表現ですね。だから、「光」という言葉はこの場合、ふさわしくないのかもしれません。ただ、私が陥ってしまった絶望の世界は、あまりにも真っ暗闇だったので、そこに差し込んできた「光」はとっても有り難くて、精神的には目映く感じてしまったのでしょう。
その「光」をもっと具体的にお話ししましょう。我が子の誰の死もなかったとします。つまり、普通の人生ではそうですよね。子供の死という経験は特別です。あまり経験される方はいないでしょう。
その場合、きっと可もなく不可もなくという感じで人生が終わったことと思うのです。子供が「存在」するというだけで幸福だなんて思わなかったでしょう。自分の「存在」を有り難いと、自分の人生があることを感謝することもなかったに違いありません。今のように日常の当たり前な事柄一つ一つに感謝したでしょうか?(今は、感謝感謝です)
それから、時たま腹立たしいことに遭遇することはあっても、後になって、「それも私の人生には必要なことだったなあ」と、感謝できる私になったこと。
それら全ては、子供の死がなかったら味わえなかった世界観です。子供を失うという経験が、今までできなかった思考の仕方を生んでくれたのです。それは「光」でなくてなんでしょう? これが私にとっての、大事なものを失った時に初めて得られたことだったのです。
私は視力を失う経験は持っていませんが、目が見えるという素晴らしさが本当にわかるのは、視力を失った人だと思うのです。「今生きている!」この不思議で素晴らしいことについて、死を間近に控えた人が一番わかるように。
子供の死によって自分の死を疑似体験した私です。自分の死とは違うと言われてしまえば、それに反論はできませんが、自分の死に一番近いのが、我が子の死ではなかろうかと思います。もっと言えば、ある意味、自分の死よりもつらいわけですから。
わたしの光体験というのは、日常(生きているという事実そのもの)が有り難く、「自分の力を越えたもの」で成り立っていることに気がついたということですから。つまり、「他力本願」なのですよ、根本はね。「光」に自力で出会えた、というよりも、「光」が自分を照らしてくれていた(人生の初めから今までずっと)ということに気がついた、ということだと思います。悲しいことに子供のの死がなくてはその真実に気がつかなかったということです、私の場合は」
この方の光とか自分の力を超えたものについての話は納得できます。

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『おくりびと』と『納棺夫日記』2

2009年10月01日 | 問題のある考え

某氏と話をしていて、『おくりびと』は臨終の善し悪しを言っている、という批判を某氏がした。
今さらながら、ああ、そうかと思ったわけです。
というのが、死に際を気にする人は多くて、「苦しんだんですけど、最後は穏やかでした」と話す遺族は多いし、弔問に行くと「まるで眠っているようですね」とか「いいお顔ですね」が慰めの言葉となる。
これは臨終に苦しんだらいいところに行けないのでは、という不安があるからである。
だから、納棺師の仕事の一つは「いいお顔」にすることで遺族に安心してもらうことである。
しかし浄土真宗では平生業成、臨終の善し悪しを問わない。
このことが青木新門氏が『おくりびと』の原作者とされるのを断った理由の一つかもしれない。

では、青木新門氏はどう言っているのだろうか。
名古屋別院暁天講座で青木新門氏は話をされたのだが、その案内文に次の言葉があった。
「映画のタイトルから原作者であることを外してもらったのは、拙著「納棺夫日記」の主題である「後生の一大事」の部分が完全に削除されていたからであった」

青木新門氏は自身のホームページにはそこらを詳しく書いている。
「私は納棺の現場で<人は死んだら何処へ往くのだろう?>と真剣に考えるようになっていた。
 いくら本を読んでも頭で考えてもわからなかった。やがて死に往く人や死者たちから死の実相を教わり、死後の世界をイメージとして描けるようになった。それは蛆も光って見える塵一つない美しい世界であった。これが宗教の云う<永遠>というものであり、仏教の説く<浄土>なのだと思った。うれしくなって<後の世を渡す橋>の一助になればと「納棺夫日記」を著したのであった。
 しかし、映画「おくりびと」は<世渡る>納棺師が描かれていた。即ちヨーロッパ近代思想の人間愛で終わっていた。私は著作権を放棄してでも「納棺夫日記」と「おくりびと」の間に一線を画すべきと思った。妥協することの出来ない一線であった。
 私の住む富山県内の葬儀は、現在も八十%以上が浄土真宗で行なわれている。お通夜などで蓮如の御文「白骨の章」がよく読誦される。その中に「後生の一大事」という言葉がある。また別の御文に「それ八万の法蔵を知るというども後世を知らざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを知者とすといえり」とある。現代の著名な知識人が死に直面して哀れなほどうろたえているのを見るたびに蓮如のこの文を思い出す。何も蓮如を引き合いに出さなくとも、あらゆる宗教は後生を一大事としているのである。
 この世を安心して生きるには、後の世も安心であることが絶対条件なのである。
 それは私が納棺の現場で死者たちから教わった真実であり、ブッダが説く真理であった」

うーん、さてさて、「後生の一大事」「後の世」が『おくりびと』では描かれていないとのことだが、では「後生の一大事」「後の世」とは何なのか。
『おくりびと』は日常の中の死を描いている。
それだけで終わっていて、
死んだらどうなるか、死後が語られていないことが青木新門氏にはどうも気に入らなかったのではないかと思う。

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