三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

ホメオパシーと『神との対話』と真宗

2010年08月28日 | あやしい教え・考え
「溜息通信」60号の〈シリーズ 親鸞〉批判にはうなずけることばかりだが、しかし、
「執筆者を身内の教学者(大学のセンセ)で固めてしまうところに、宗門の閉鎖性と硬直性が表れている」
「私だったら版元に一切合切まかせて、宗門外の親鸞好きの方々に、大谷派の教学なんか気にせず、自由に親鸞の魅力を表現してもらう」

とあるのには賛成できない。
たとえば、梅原猛氏が「自由に親鸞の魅力を表現」したら『誤解された歎異抄』みたいなトンデモ本になるだろうし、田口ランディ、帯津良一といった方たちが親鸞について書いたものなんか読みたくない。

ところがですね、東本願寺で「御遠忌テーマ館企画 公開講演会・シンポジウム」全4回が行われるのだが、4回目はなんと田口ランディ氏の記念講演、帯津良一・藤原新也両氏がパネリストである。
何ともむかつく話で、こんなことに金を使うんだったら経常費を返せと言いたくなる。

帯津良一氏は日本ホメオパシー医学会の理事長である。
ホメオパシーとは、毒を限りなく薄めて水と変わらない状態になったレメディー、つまり単なる水を薬として与えるという治療法である。
このホメオパシーによって死亡する事件が起きている。

5600万円の賠償求める 山口地裁 ホメオパシー絡みトラブル
山口市の女性(33)が同市の助産師(43)を相手取り、約5600万円の損害賠償を求める訴訟の第1回口頭弁論が4日、山口地裁であった。
訴状などによると、女性は2009年8月に長女を出産。助産師は出血症を予防するためのビタミンK2シロップを投与せず、長女はビタミンK欠乏性出血症にもとづく急性硬膜下血腫を発症し、同年10月に死亡したという。
朝日新聞8月5日

代替療法ホメオパシー利用者、複数死亡例 通常医療拒む
代替療法ホメオパシーを利用している人の中で、病気が悪化して死亡する例が相次いでいる。通常の医療は末期になるまで受けていなかった。東京では5月、国立市の女性(当時43)が、がんで死亡した。埼玉でも昨年5月、男児(同生後6カ月)が死亡した。女性の遺族らは先月、「憂慮する会」を設立し、ホメオパシー療法家らに真相解明を求めて運動を始めた。
朝日新聞8月11日

ホメオパシー信者にもいろんな流派があるらしくて、帯津良一氏は穏健派らしいが、それでも単なる水を薬だと言って処方しているんですよ。
毒にも薬にもならないはずの水が、ホメオパシーとかレメディーという名前がつくことによって毒になってしまう。
たとえ話として使えそうです。

私は未読なのだが、五木寛之・帯津良一『養生問答』という本で、五木寛之氏もホメオパシーを肯定的に扱っているそうだ。
目次を見るとかなりアヤシイ本である。
アヤシイ人の友達はアヤシイという法則に従えば、帯津良一氏との共著が何冊かある五木寛之氏はアヤシイ。

うれしいニュースがあった。
ホメオパシー、学術会議が否定=「根拠なく荒唐無稽」と談話
 日本学術会議は24日、最近広まっているとされる療法「ホメオパシー」について、「科学的に明確に否定されている。治療に使用することは厳に慎むべき行為」との金沢一郎会長(皇室医務主管)名の談話を発表した。
 ホメオパシーは、健康な人間に投与するとある症状を引き起こす物質を患者にごく少量投与することにより、似た症状の病気を治すという療法。植物や鉱物などを入れてかくはんした水を極めて薄く希釈、砂糖の玉に染み込ませて与えるなどする。(略)
 談話は、ホメオパシーについて「科学的根拠がなく、荒唐無稽。今のうちに排除しなければ、『自然に近い安全で有効な治療』という誤解が広がり、深刻な事態に陥ることが懸念される」としている。
時事通信8月24日
それにしても、東本願寺は疑似科学についてどのように認識しているのやら。

で、田口ランディ氏だが、千葉茂樹『マザー・テレサと生きる』で、山谷で在宅型ホスピスを運営している夫婦の活動を紹介している。
世の中には無名の大した人がいるもんだと感心した。
だけど、奥さんが話している後ろに本棚があって、そこにある本が『神との対話』『神とひとつになること』『魂との対話』『魂の療法』なんですね。
アヤシイと思って、ネットで調べたらやっぱり精神世界、スピリチュアルの本でした。
たまたまカメラが写しただけなのか、意図的なものか、どっちでしょう。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』『神とひとつになること』は神との口述筆記形式の対話をまとめた本で、大川法氏の霊言シリーズみたいなもの。
『魂の療法』の作者は『前世療法』のブライアン・L・ワイス
退行催眠によって前世の記憶を取り戻して云々という本である。
田口ランディ氏は『神との対話』の解説を書いているわけでして、こんな節操のない人物の本を東本願寺は出し、あまつさえ御遠忌記念事業の講師として招聘するという信じられないアホなことをするわけで、またまた怒りがムラムラ。
知識人が親鸞のことをもっともらしく口走ったら、すぐに持ち上げる悪い癖はやめるべきだ。
大谷派のスピリチュアル化はかなり重症である。
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〈シリーズ 親鸞〉

2010年08月25日 | 仏教
東本願寺企画、筑摩書房発行の〈シリーズ 親鸞〉全10巻が毎月一冊ずつ送られてくる。
「溜息通信」60号に、この〈シリーズ 親鸞〉への手厳しい批判が書いてある。
まずお金の問題。
〈シリーズ親鸞〉全10巻は大谷派全寺院に無償配布されるのだが、この費用が馬鹿にならない。
「6掛での買取りだと1800円×0.6×10巻×9000か寺=9720万円
7掛なら1億1340万円
にもなる」
そうか、1億円か。
「真っ当なコスト感覚があれば、自前で安く作ることを選択しただろう」
たしかになあ。

1億円ものお金を使うほどの中身が〈シリーズ親鸞〉にあるかどうか。
今のところ4冊読んだが、決して読みやすくはなく、親鸞や真宗に対する予備知識がかなりないと読み進めることはまずできない。
また、経典などからの引用文に現代語訳がないのは不親切だと思う。
というわけで、私には難しかった。
ところが「刊行にあたって」に、「読者に分かりやすく読んでいただけるように、筑摩書房の協力を得て、可能な限り監修いたしました。『シリーズ 親鸞』は学術書ではありません。学問的な裏付けを大切にしつつも、読みやすい文章表現になるよう努めました」とある。
うーん、単に私がアホなのか。
でも、「溜息通信」には「宗門内でしか通じない閉じた言葉の羅列からは、宗門外の読者に親鸞を届ける意識は感じられない。かなり専門的な内容なので、ひょっとしたら門徒のことも念頭になく、同業者の評価しか関心がないのではないか」とか、他にもきついことが書かれてあって、そこまで言っていいのかとは思うが、まあ、ほっとしました。

以前、増谷文雄『仏教概論』を読んで、仏教入門書としていいなと思い、仏教を勉強したいという知人ふたりに貸したのだが、ふたりとも「難しくてわからなかった」というのが感想だった。
そんなもんだと思う。
タダで本をもらって文句をつけるのは申し訳ないのだが、どういう読者を想定してこのシリーズが企画されたのだろうか。
このシリーズ、いったい何部刷っているのだろうか。
実売数は何冊なんだろうか。
全巻読み通す住職さんがどれだけいるだろうか。
まして、自腹を切って全巻求める人はほとんどいないのではないかと思う。

もっとも、「溜息通信」に「愚見を残る8巻が粉砕してくれることを念ずるばかりである」とあるが、5冊目の一楽真『親鸞の教化』はなかなか面白い。
恥ずかしながら、親鸞の和文の著作にはほとんどの漢字に読み仮名が付されているとは知らなかった。
「親鸞は漢字の読みに対してはきわめて厳密で、『教行信証』においても一つの文字に対して、漢字の音や意味を示す「訓」が文字の右ないし左に付されていることが多い。また、発音する際のアクセントを示す「声点」が付されている箇所も見られる。声点とは、声の調子や清濁を示すために文字の四隅に付される記号で四声点とも言われる。漢字を正確に読むと同時に、意味を正しく受け取るための配慮がなされているのである。これが和文の著作の場合、さらに丁寧になっているのである」
以前、なぜ「法身」は「ほっしん」、「報身」は「ほうじん」と読むのかと言われたことがあって、真宗聖典にそう書いてあると答えたら、親鸞がどう読んだかわからないじゃないかと突っ込まれて、返事に窮した。
なあんだ、親鸞自身がそう読ませていたのかと、納得。
勉強が足りないと反省でした。
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小川一乗『親鸞が出遇った釈尊』

2010年08月22日 | 仏教
小川一乗『親鸞が出遇った釈尊』は〈シリーズ親鸞〉の第二巻、〈いのち〉という言葉がやたらめったら頻出する本である。
「生死の世界から出離する〈いのち〉」
「輪廻に流転する〈いのち〉」
「すべて生きとし生ける〈いのち〉」
「〈いのち〉(霊魂)」
「理性ではどうにもならない〈いのち〉の事実」
「すべての〈いのち〉は無条件に平等である」
というふうに、〈いのち〉には種々のあり方があることがわかる。
だけど、こんなにたくさんの意味がある概念を、どうしてわざわざ〈いのち〉という言葉でひとくくりにしなければならないのかと思う。
たぶん、それら〈いのち〉に共通するものがあるからなんだろうけど、それは何なのかとなるとはっきりしないのではないか。
わざわざ「いのち」という意味不明の言葉を乱用するよりも、仏教語をそのまま使ったほうがよっぽどいいと思う。

それとか、「私たちの〈いのち〉の本来的あり方であるゼロ」と小川一乗師は言っていて、「ゼロ」とは何なのかというと、そのあとに「ゼロ(空)」とあって、つまりは空のことらしい。
だけど、読者としたらゼロとは無のことだと思うのではないだろうか。
これにしても、「空」をそのまま使ったほうが誤解が減ると思う。

で、阿弥陀の「いのち」と「生命」とは違うらしい。
小川一乗師は「私たちの〈いのち〉は、生命という物質的存在としてだけでありえているわけではない。生命も、私たちの〈いのち〉を〈いのち〉たらしめている因縁ではあるけれども、それだけではない」と言っている。
御遠忌テーマの英訳は「Your life and my life are a part of one Life」だそうだ。
lifeとLifeの違いが「生命」と「いのち」の違いということか。
でも、「one Life」とはアートマンみたいな感じで、何だかあやしい。

以下は、『親鸞が出遇った釈尊』のまとめである。
「私たちの〈いのち〉とは「縁起する〈いのち〉」であり、本来的にゼロ(空)である、ということが釈尊によって覚られた。ゼロ(空)であるにもかかわらず、もろもろの因縁によって、ただいま「生かされている私」としてありえている。その〈いのち〉が必ず浄土に往生していくことによって、釈尊の覚りが私たちに実現される。
この〈いのち〉への感動と歓喜とをもって、私たちの〈いのち〉が生きていく。それこそが浄土思想の内実である」
この文章をどう思うか、海野孝憲氏の感想を聞きたいものです。
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海野孝憲『「いのち」の意味』

2010年08月19日 | 仏教
海野孝憲『「いのち」の意味』の副題は「あなたは「今、いのちがあなたを生きている」がわかりますか?」、つまり御遠忌テーマ批判の本である。
「「今、いのちがあなたを生きている」は、日本語の文章としては通常の言葉ではありません。強いて悪く考えれば、このテーマの作者は、テーマの言葉の響きに酔っているのではないでしょうか」とあって、思わず笑ってしまった。

それとか、「真宗」2007年3月号に寺川俊昭、池田勇諦、小川一乗という三師の座談会が掲載されたのだが、この座談会に先立って「いのちを生きている私のあり方を問わずして生きている私たちに、生きる主体である我が問われ、我に歩みが起こるような精神を、いのちという文言に吹き込んでいただきたい」という資料が三師に配布されたそうだ。
海野孝憲氏はこの文章を、
「これは何という意味不明で、難解な悪文でしょうか」
「このような難解な日本語は、本山から出る文章の特徴の一つです」

とけなしていて、これまた、そうそうとうなずいてしまった。

もひとつ、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌専門委員会「御遠忌テーマに関する委員会」報告書の中にあるこの文章。
「「いのち」という言葉は、同朋会運動の中でもよく使われた言葉であり、生物学的な命なのか、自覚語としての無量寿としてのいのちなのか、不明確であるという問題が提起されている。「今」にしても「いのち」にしても、一般的には自覚語として受け取られることはほとんどないのではなかろうか。であればこそ、そこに問題提起として、あえて、「今」「いのち」という言葉を自覚語として掲げたいのである。生物学的な生命と、「無量寿」という自覚的な「いのち」とのちがいは何かなど、教学的議論の多いところであろうが、それは今後、宗門として責任を持って応えていかなければならない」
これについても海野孝憲氏はきついことを言っている。
「「自覚語」のような曖昧な言葉を連発して、問題の核心をぼやかしたまま、最後には「生物学的な生命と、「無量寿」という自覚的な「いのち」とのちがいは何かなど、教学的議論の多いところであろうが、それは今後、宗門として責任を持って応えていかなければならない」と述べて、意味不明なままの状態で、今日まで責任をとることもなく逃げていませんか」
いやほんと、「いのち」「願い」「問う」「歩み」「自覚」といった言葉を何かと使いたがるが、これは仲間うちだけで通じる隠語みたいなものだと思う。(通じていると思っているだけかも)

御遠忌テーマのどこが問題か、『「いのち」の意味』を読んでこういうことだと思った。
私は以前、テープ起こしをした原稿をある人に見てもらったことがある。
その時に教えてもらったのが、一つの文章に「わたし」と「私」が混在してはいけないということ。
読む人が「わたし」と「私」が別人だと考えるかもしれないから。
あるいは、「あっちのほうに」と「あっちの方に」が混じる文章もダメ。
「あっちの方に」を「あっちのかたに」と読むかもしれないので。
それとか、「行った」は「いった」「おこなった」、「止める」は「とめる」「やめる」、「正しく」は「ただしく」「まさしく」の両方に読めるので要注意などなど。
読む人が誤解しかねない意味の取りにくい文章はなるべく避ける、ということである。

で、普通、「いのち」とはどういう意味かというと、生物的「いのち」(死ぬとなくなる)と永遠の「いのち」(霊魂、もしくはアートマン)ということになる。
こういったのとは別の、独自の意味を「いのち」という言葉に持たそうとする場合がある。
御遠忌テーマでは「いのち」とは阿弥陀の「いのち」なんだ、私のものではないと訴えたいのだと思う。
それぞれ独自の「いのち」観があって厄介なのである。

生と死を考える会というところから時々案内が来て、事務局の人はキリスト教徒らしいのだが、科学(=進化論)嫌いの案内文がトンデモ気味で、読むと頭が痛くなる。
今月の例会の案内です。
「《永遠の命》を考える
科学では人の命を猿と同じように考えています。人生のない人の命ならば、それでもよいでしょう。人生には喜びや苦しみとともに正しい生き方と不正な生き方がありますが、猿と同じ命でそれは考えられません。善人も悪人も猿も死ねば同じなら、人間の生きがいや善悪はみな勝手に考える他なくなります。そのように人間を科学で考えることの不見識と幼稚性や誤謬も知って、真実の人生と命を真剣に考えみたい方のご参加を歓迎します」

いつもよりはましなほうなのだが、それはともかく、この人にとって人の命と猿の命は違うわけで、これは仏教の立場とは違う。

というふうに、何かよくわからない「いのち」(なぜ平仮名なのだろうか)、一筋縄ではいかない「いのち」ではない、もっと別のいい言葉はないものかと思う。
海野孝憲氏は「今、み光があなたと共に生き、あなたは生かされている」というテーマを提案する。
でも、「み光」じゃあ真光と間違えそうだし、実体的な光をイメージされても困るし、これもちょっとね。
北海道教区の御遠忌テーマは「あなたは、与えられたいのちとどう向き合う?」だそうで、これなら普通の日本語なので、まあいいのではないかと思う。

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柴五郎と石光真清

2010年08月16日 | 
昭和17年秋、陸軍元大将の柴五郎(84歳)は石光真人に日中戦争について厳しい批判をしている。
「中国という国はけっして鉄砲だけで片づく国ではありません」
「中国は友としてつき合うべき国で、けっして敵に廻してはなりません」
「この戦は残念ながら負けです」
「中国人は信用と面子を貴びます。それなのに、あなたの御尊父もよく言っておられたように、日本は彼等の信用をいくたびも裏切ったし面子も汚しました。こんなことで、大東亜共栄圏の建設など口で唱えても、彼等はついてこないでしょう」
石光真人の御尊父とは「石光真清の手記」4部作石光真清のことで、昭和17年になくなっている。
柴五郎が世話になった野田豁通は石光真清の叔父である。

石光真清は1868年に生まれ、陸軍軍人となり、軍の諜報活動に関わる。
たしか「本の雑誌」の何かのベストテンで『曠野の花』が1位か2位だったと思うが、下手な冒険小説よりも波瀾万丈のおもしろさ。
石光真清は対ロシアのために諜報活動をするが、日露戦争後は軍から追われる。
ロシア革命が起きるとシベリアに渡り、日本人会をまとめて義勇軍を作るなどして苦労する。
シベリアに出兵した日本軍がロシア人に掠奪、暴行をするので、「隠匿している武器を出せとか、弾薬を出せとか言って日本兵が侵入しました。そんなものは無いと申しますと、銃劔を突きつけて私ども家族を一室に監禁して家の中を捜しまわり、大切なものを持ち去りました」といった、市民からの訴えを次々と聞いた石光真清は、軍司令部に報告して調査を依頼する。
しかし、その後も同じような訴えが続く。
そうして、司令官大井成元中将に反ソビエトのアムール政府の崩壊が近いことその他を説明したが、大井司令官は「そう心配せんでええさ」と言って相手にしない。
そこで石光真清は「部隊の整備をするでもなし、それかといって実力のあるロシア反共軍の援助もせず、崩壊寸前の州政府の経済救済もやらないとすれば、その結果はもう明らかなことです。しかも日本軍は出兵の目的を認識しておらず、ロシア市民を敵にして小競合いが絶えません。一体シベリア出兵の目的が何であるか私にもわからなくなりました」と、状況を説明して訴えた。
ところが、大井司令官は「君は一体……何を報告に来たのかね。日本軍に忠告に来たのかね」と不快の色を浮かべて言う。
これ以上の行動ができないなら、この際は潔く撤兵すべきだと述べると、「もう聴かんでもええ!」「君は一体誰のために働いとるんだ、ロシアのためか」「君は出兵の真意を解しておらん」とののしられる。
「任務を解除していただきます。不適任です」
「よかろう。辞めたまえ」
売り言葉に買い言葉で軍とは決別する。
シベリアを去ろうとする石光真清に、反革命政権のアムール州長アレキセーフスキーはこう言う。
「連合国からも日本政府からも、援助を受けることは諦めました。ヤポンスキーよこれ以上ロシア市民を傷めつけないでいただきたい。わたしは大変思い違いをしていたのです。日本をはじめ連合国は、いずれも共産主義の恐るべきことを知って、防戦するわれわれを援助してくださるものと思っていました。私が日本に亡命中に受けた好意にも報い得る日があると信じていたのです。ところが、チェコスロバキア軍救出の見込みがたつと、いずれも目標を失って連合国の結束は乱れて来ました。チェコスロバキアの祖国再建の戦いには私も同情と声援を惜しみませんが、ロシアの祖国再建に戦っている私たちは何故に棄て去られるのでしょう」

石光真清だって、国のために尽くしながら報われることはなかった。
事業の挽回のために中国に行く時のこと、東京駅まで見送りに来た中学生の石光真人に、「お父さんは失敗したんだよ。何もかもね。気が付いているだろう? だが諦めてはいない。考えてみると……どうも人生観というか、近頃の新しい言葉で言えば社会観というのかね、根本的にものの見方が間違っていたかもしれないよ。人間を信じすぎ、人情に溺れてね……世の中というものは、それだけで動いているものじゃなかった。そのようには出来ていなかった。だが諦めてはいないがね………」と、石光真清は話すのである。
それからも事業に失敗し、家を手放し、公設市場で塩鮭の切り身を売るなどし、妻の看病をするという生活を送った。
石光真人が柴五郎の日本軍批判にうなずくのも当然である。
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石光真人編著『ある明治人の記録』

2010年08月13日 | 

先日、江田島の旧海軍兵学校(海上自衛隊第1術科学校)を見学した。
海軍の史料が展示されている教育参考館を見て、この展示は海軍の美しい歴史だと感じた。
将軍や士官の写真や遺墨が展示されており、彼らの経歴を読むと、いずれも武勇、智略、人望を兼ね備えた方ばかりである。
それなのに戦争になってしまい、連合艦隊はこてんぱんにやっつけられて、結局は負けてしまったのはどうしてなのかと思った。
海軍に召集された新藤兼人脚本の『陸に上った軍艦』で描かれたしごき、いじめは教育参考館からはうかがうことができないし。

歴史は美しいことばかりではなく、暗部もあることは言うまでもない。
石光真人編著『ある明治人の記録』を読む。
柴五郎という人が残した遺書を石光真人がまとめ、解説を加えたものである。
柴五郎は安政6年(1859)会津に生まれ、のちに陸軍大将になっている。
明治元年、柴五郎10歳の時に官軍が会津を攻め、祖母、母、兄嫁、姉、妹は自死した。
その後、会津藩あげて下北半島斗南に移封されて開拓に励むも、寒さと飢えに苦しみ、辛酸の歳月をすごす。
そのために柴五郎たち会津人の薩長に対する恨みは深く、西南戦争には競って従軍している。
西郷隆盛の自刃、大久保利通の殺害の際には喝采をあげたという。

明治政府のこうした扱いは会津藩に対してだけではない。
たまたま結城昌治『森の石松が殺された夜』を読んでたら、「博徒さむらい」に、黒駒の勝蔵が相楽総三の赤報隊の一員として戦ったとあったのにはいささか驚いた。
黒駒の勝蔵は清水の次郎長の敵役にされているが、実際は次郎長よりもはるかに立派な親分だったらしい。
結城昌治氏はこう書いている。
「戦争に一人でも多くの手兵が欲しい事情は倒幕派も幕府側も同じで、双方ともさかんに各地の博徒を集めて即成の一線部隊をつくった」
「官軍について命がけの戦いをした博徒も、もはや厄介者でしかなかった。利用価値がなくなれば捨て去るのが権力政治の論理」
「彼ら博徒の多くは、時代の流れに乗ったつもりで、結局は権力に利用されて捨てられるという運命を辿った」

黒駒の勝蔵は明治3年、休暇届の期限内に帰隊しなかったというので脱走と見なされて斬首された。
結城昌治氏は、次郎長に関する資料を読みあさるうちに、次郎長がいよいよ嫌いになったという。
「次郎長のように要領のいい者だけが、新しい権力に取り入って、後の世までうさん臭い名声を博している」
赤報隊については、長谷川伸『相楽総三とその同士』に詳しいが、読み直すのが面倒なので省略。
「yahoo!百科事典」には、「総督府は農民層を多く編成したこの隊が、民衆と結ぶことを恐れて弾圧し、相楽らは3月に「偽官軍」の名の下に信濃国下諏訪にて処刑された」とある。
東山道軍の先鋒として活躍した相楽総三たちも、結局は利用されて捨てられた厄介者だったのである。

ついでに書くと、明治政府の宗教政策も無茶苦茶で、神仏分離、廃仏毀釈を強制したため、各地で一揆が起きている。
岐阜県東白川村と奈良県十津川村では寺が破壊され、今でも寺院がないそうだ。
安丸良夫『神々の明治維新』によると、竹生島では弁財天をもって都久夫須麻神社と改称せよと命令した強引なやり方に寺院は抗議したが、県庁はそれに対して「左程迄に仏法を信ずるなれば、元来仏法は天竺より来りし法なれば、天竺国へ帰化す可し」と強要している。
熱心な仏教信仰を続けた山階宮晃親王は明治31年、その死にさいして仏式の葬儀をするように遺言した。
しかし、「仏葬式の可否は枢密院に諮られたが、皇族の仏葬を許すことは「典礼の紊乱」をもたらす恐れがあるという理由で、山階宮の仏葬式は認められなかった」そうだ。
面白いと思ったのが、慶応4年、山陵稜汚穢についての審議である。
「その趣旨は、山陵は天皇の死体を葬ったものであるから穢れたものとすべきかどうかということであった。死体によって穢されたとすれば、僧侶にその管理を任せなければならないことになるのである。この問題の検討を命ぜられた国学者谷森種松は、天皇は現津御神であるから、現世でも幽界でも神であり、穢れるということはない旨を答えた。そうして、天皇霊は、寺院と僧侶から切り離されて、べつに祀られることになった」
サギを烏だと言いくるめるこういう御用学者はいつの時代にもいるものである。

柴五郎の遺文を読んだ石光真人は「いったい、歴史というものは誰が演じ、誰が作ったものであろうか」という疑問を『ある明治人の記録』に述べている。
「古事記以来、私どもはいくたびか数えきれないほど、しばしば歴史から裏切られ、欺かれ、突き放され、あげくの果てに、虚構のかなたへほうり出された」
「一藩をあげての流罪にも等しい、史上まれにみる過酷な処罰事件が、今日まで一世紀の間、具体的に伝えられず秘められていたこと自体に、私どもは深刻な驚きと不安を感じ、歴史というものに対する疑惑、歴史を左右する闇の力に恐怖を感ずるのである」
歴史とは事実を叙述したものではなく、恣意的に作られるものだなと思った。
『「東京裁判」を読む』のあとがきでも、井上亮氏は「歴史とはある意味、勝者によって刻まれた史観であり、地下には必ず敗者の歴史が埋もれている」と書いている。

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『ザ・コーブ』と表現の自由

2010年08月10日 | 日記
『ザ・コーブ』をめぐって表現の自由について論議があるらしい。
イルカ漁の中止を求める映画を製作する自由、その映画を上映する自由、その映画の上映中止を求める自由、そして上映を中止することは自由な言論を弾圧することだという主張。
報道の自由、表現の自由とは何かについては平川宗信『報道被害とメディア改革』が参考になる。

なぜ報道・表現の自由が大切なのか、平川宗信氏によれば民主主義を守るためである。
「もともと、報道・表現の自由は、テレビ局や新聞・雑誌社の利益追求のために憲法が保障したものではありません。報道・表現の自由は、もっと高次元の目的のために保障されているのです。それは、「民主主義」という、現代国家・憲法の基本原理に関わります。
民主主義社会は、人民主義を基本原理としており、主権者は一人ひとりの市民です。主権者である市民が政治や社会に関わるさまざまな問題について意見交換・議論してコンセンサスをつくり、それにもとづいて政治や社会を動かしていくのが民主主義です。その意味では、民主主義の本質は、市民による自治、すなわち市民自治にあります。日本では、多数決が民主主義のようにいわれることが少なくありませんが、「多数派の支配」が民主主義なのではありません。議論の積み重ねによる市民自治こそが民主主義の本質なのであって、多数決は議論を積み重ねたうえでの最後の決定方法にすぎません。
したがって、民主主義の基礎となるのは、市民間の徹底した意見交換・議論です。
そのためには、政治や社会に関するさまざまな情報が必要です。具体的な情報がなければ、現実に何が起こっているのか、何が真実なのかがわかりませんし、事実に即した意見交換・議論ができず、自分の意見・判断を形成することもできません。民主主義・市民自治には、意見形成や議論の前提となる情報が必要です。そして、自分の意見を自由に表明することができなければ、意見交換や議論はできません。民主主義・市民自治には自分の意見を表明する自由も必要です。
このように考えるならば、民主主義・市民自治が成り立つためには、政治や社会の問題について意見を形成し議論するのに必要な情報を市民が入手する権利すなわち「知る権利」が認められなければならず、また自分の意見を自由に表明する権利が認められなければならないことになります」
「それゆえ、メディアの報道の自由の中核も、民主主義・市民自治に必要な情報を伝えて市民の「知る権利」に奉仕することにあります」

知っていなければ、その問題について議論できないし、自分なりの判断をすることもできない。
ということは、『ザ・コーブ』を見なければ、『ザ・コーブ』上映の是非について議論できないということになるから、上映を中止すべきではないという、何やらこんがらがった話になる。
このあたりポルノの規制と同じだと思うのだが、あるポルノ映画が猥褻かどうか、そのポルノ映画を見ないと判断できない。
かといって、問題あるポルノ映画を公開したのでは社会の秩序が紊乱してしまう、という矛盾。
これはカルトと表現の自由とか、そういう問題とも通じると思う。
ウィキペディアによると、わいせつ物と表現の自由との関係について定説がないそうで、なかなか微妙なのである。

また、メディアに報道の自由があるといっても、報道される側の人権を守らなければならない。
実際、『ザ・コーブ』は水産庁の役人や太地町の人たちを悪者扱いしていて、あれはひどいなと思う。
しかし、平川宗信氏は「報道被害防止・救済のためであっても、報道の自由を不当に侵害・抑圧することがあってはなりません」と言う。
それはなぜかというと、
「参政権が保障されていなければ、民主主義は成り立ちません。それと同様に、報道・表現の自由の保障がなければ、やはり民主主義は成り立ちません。その意味で、報道・表現の自由は、参政権と同じように民主主義を底支えする一種の政治的権利と考えられます。
そして、一般の人権が侵害された場合には民主的なプロセスでこれを回復することが可能なのに対して、報道・表現の自由が失われた場合には民主的なプロセスでこれを回復することは不可能です」
「報道・表現の自由が失われた場合には、そのことを社会に訴え、これを問題として市民間で意見交換し議論すること自体が不可能になります。報道・表現の自由が失われると、民主的なプロセス自体が失われ、民主的なプロセスによる回復は不可能となります。
そうだとすると、報道・表現の自由に関しては、とくに手厚い保護が必要だということになります。そのため、報道・表現の自由は、他の人権に優越する「優越的権利」とされ、他の人権以上の「優越的保護」を受ける特別の権利とされています」
ということで、基本になるのは民主主義なのである。

もっとも、どんな報道であろうとも優越的権利があるわけではなく、報道の中身によって違ってくる。
「報道・表現の自由には、その本来の意義に基づく限界があります。
報道・表現の自由が優越的保護を受ける優越的権利とされるのは、その本来の意義が、市民の民主的自治に必要な情報を伝えて市民の「知る権利」に奉仕して民主主義を底支えすることにあるためです。そうだとすれば、優越的保護を受けるのは、市民自治に必要な情報を伝えて市民の「知る権利」に奉仕する報道・表現に限られるはずです。そうではない報道・表現は、民主主義とは無関係であり、優越的保護を受ける趣旨から外れます」
「たとえば、政治家、高級官僚、大企業・大労組の幹部等の社会に対して大きな影響力をもついわゆる「公人」については、市民の批判・監視のもとに置いて、場合によっては選挙等でその地位を左右する必要があります。このような人びとの行実は、場合によってはプライバシーをも含めて市民自治に必要な「知る権利」の対象になると考えられます」
「しかし、これに対して一般の市民の場合は、その私的な行実が政治や社会の動きに影響することはありません。それゆえ、一般市民のプライバシーは、市民自治に必要な「知る権利」の対象ではなく、その報道は許されないということになります」

公と私ということだが、『ザ・コーブ』はどっちなんだろう。
たとえば、イルカは絶滅の危機に瀕しているにもかかわらず大量のイルカを殺しているとか、イルカには許容量以上の水銀が含まれているのを隠してイルカの肉を販売しているということであれば、これは公共のために報道の必要性がある。
だけど、「イルカのようにかわいくて賢い哺乳動物」は殺してはいけないというのは個人的な価値観というか感情論にすぎない。
たとえば、インド人が「牛のような神聖な哺乳動物を殺してはいけない」と屠畜業者に抗議したとして、それは個人の宗教的価値観に基づいた抗議だと思う。
あるいは、農作物に害を加えるというのでイノシシを駆除し、その肉を食べることを非難する人はまあいないだろうけど、ニホンザルなら私も抵抗がある。
イノシシならOKで、ニホンザルならダメ、というのは感情的なものだと思う。
イルカはかわいくて、サメなら殺してもいいというのも同じ。

ついでに言うと、製作側が『ザ・コーブ』で主張したいのは、哺乳類であり、知能が高いイルカを殺すことがいけないということか、水銀汚染されているから食べてはいけないということか、そこらがはっきりしない。
もう一つついでだが、日本人の中にも、今の日本ではクジラやイルカを食べなければならない必然性はないと言う人がいる。
食料の廃棄率を考えたらその通りだが、だったらマグロや鯛やヒラメといった高級魚を食べなくても死ぬことはない。
なぜクジラやイルカは特別なのか。
『ザ・コーブ』は、日本人は魚を食べすぎるから魚類が減っているとも言っていて、牛や豚を食べるのはいいが、海洋生物はダメだということなのか、と築地市場のシーンを見ながら私は憤然としたのでした。

「個人の幸福は、他人に迷惑をかけない範囲で追求すべきものです。他人の幸福を犠牲にして自分の幸福を追求する権利は、誰にもありません。したがって、このような自由は、他の人権に優越するものではなく、それが他者の人権を侵害する場合には引き下がらなければなりません。この見地から、興味本位の覗き見的な報道や、他人のプライバシーを暴露するような報道は、許されないことになります」
私は『ザ・コーブ』には「興味本位の覗き見的な報道や、他人のプライバシーを暴露するような報道」という要素が感じられる。
事実をそのまま写し出したというよりも、かなり作為があるし。

で、表現の自由について、結論としては平川宗信氏の次の意見ということになるだろう。
「市民の誰にも必要かつ可能なことは、メディアをさまざまな視点から分析・評価して読み解き、メディアを使いこなし、情報を受動的に受けとるだけでなく、自分からも積極的に発信して相互に伝えあうコミュニケーション能力をさまざまな形で身につけることです。このような力は、「メディア・リテラシー」と呼ばれます」
「市民がメディア・リテラシーを身につけ、メディアに対してより批判的・積極的に関わり、より多くの人が報道被害・メディア問題NPOに参加するようになれば、メディアも変わらざるえません。それが、報道被害の防止、減少にもつながります。
市民が動けば、メディアも変わります」
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『ザ・コーブ』を見た

2010年08月07日 | 映画
暑いし、あれやこれやと用事はあって忙しいし、おまけにブログのアクセスは少ないしするのに、それにもかかわらずブログを何とか三日ごとに更新しようとするのは、自分でも偏執狂的だと思いつつ、『ザ・コーブ』であります。
上映中止騒ぎでさぞや大入り満員かと思ったら、上映三日目なのにさほどの入りではなかった。
日本人としては反発を感じる、見て楽しい映画ではないからかもしれない。

『靖国』の時もそうだったが、抗議して上映中止に追い込もうとする人たちは何を考えてそんなことをするのかと思う。
本来ならひっそりと上映され、注目を浴びることもないだろうに、あんまり騒ぐから、じゃあ見にいこうかという気になる。
『右翼の掟 公安警察の真実』に、鈴木邦男氏がこんなことを北芝健氏に言っている。
「今は、公安警察が右翼を焚きつけているんですよ。
右翼が上映妨害をしたってことで話題になった映画『靖国』の騒動だって、右翼の人間はあの時点で誰も映画を観ていないんですからね。右翼側の人間として試写会で観たのは僕一人です。映画が公開されて右翼が見て『これはけしからん!』と言うんだったら分かるんですよ。あの騒動はそうではなかった。公開もされていないのに『週刊新潮』が反日映画だと書いた。『週刊新潮』は右翼に対して情報を提供し続けている雑誌です。『週刊新潮』に書かれたのに右翼は何も行動していない。『これは俺たちがやらなくちゃ』と右翼は思う。『天の声』だと思う。と同時に公安も煽ってるんじゃないですか」

それに答えて元公安の北芝健氏は「『週刊現代』なら百パーセントのウソを何度も書いてきたから、ちゃんとしたメディアも公安も信用はしてませんが、『週刊新潮』となると、かなりの信用度だから、公安警察が右翼の尻を叩いて起きた騒動ってことですか?」と聞き返す。
鈴木邦男氏は「そうとは言いませんが、何かあると、煽っていることはある」と言い、そしてこうも言う。
「公安は右翼が死滅したら自分たちの仕事が無くなっちゃう。そのためにいろいろな工作をしかけてくるんです」

そこらはともかくとして、『ザ・コーブ』の感想だが、イルカ漁はひどい、許せないと、まあ正直なところ思いましたね。
あの血で真っ赤になった海を見たら誰でもそう感じる、そういう映画です。

イルカの虐殺といえば、昭和53年、壱岐で魚を食い荒らすイルカを殺したことが世界中から非難され、オリビア・ニュートン=ジョンが来日公演をボイコットしたことがありましたな。
オリビアは、「イルカのようにかわいくて賢い哺乳動物を殺すことを認めるような国では歌を歌う気にはなれません」と発言したとか。
『ザ・コーブ』にも、壱岐とおぼしき海岸に何十頭ものイルカが横たわってて、男がわざわざイルカを踏んで歩いている映像が映され、観客は日本人の野蛮さにあきれ果てるようになっている。

つまり、『ザ・コーブ』は面白く作られた映画だということである。
私が他国の人間なら、日本政府に圧力を加えてでもイルカ漁をやめさせるべきだと考えるに違いない。
これは映像の怖さである。
昔々、佐藤栄作首相が退任の記者会見で「テレビカメラはどこかね?」「新聞記者の諸君とは話したくない」「偏向的な新聞は大嫌いなんだ」「直接国民に話したい」「新聞は間違って伝える」「新聞記者は出てください」と言い、新聞記者が退席したあとテレビカメラに向かってしゃべり続けた。

佐藤栄作氏がそれほどテレビを信用していたとは驚きだが、カメラが真実を伝えるかどうかはわからない。
ヤラセや捏造、恣意的な編集などによって情報操作しているのかもしれない。
そんなことを考えると、アンドレス・オステルガールド『ビルマVJ 消された革命』(2007年にビルマで起きた反政府デモのドキュメンタリー)にしても、ビルマ軍事政権は「ビルマ民主の声」は虚偽の報道をしていると非難しているわけで、何が真実で、何が嘘なのかわからないことになる。
『ビルマVJ 消された革命』を『ザ・コーブ』と比べたら怒られるだろうけど。

『ザ・コーブ』がプロパガンダ映画だとしたら、日本で上映中止されてもまるっきり意味がない。
外国では自由に見ることができ、見た人は日本及び日本人を非難するのだから。
『ザ・コーブ』がどこがどのようにおかしいかをきちんと議論して、製作者に間違いを指摘し、誤解を解くようにすべきである。
私も『ザ・コーブ』を見ながらいろんな疑問がわいた。
たとえば、「日本のイルカを救いましょう」という、『ザ・コーブ』の主人公リチャード・オバリー氏のサイト(たぶん)がある。
そこで主張されている三点に関する疑問。
・イルカを銛で突いて殺すのが残酷だというのなら、『いのちの食べかた』で牛や豚や鶏を殺すように、機械による流れ作業によってイルカが苦しまないように殺して解体すればいいのか。

・イルカには許容量をはるかに超える水銀が含まれているからイルカを食べてはいけないのなら、水銀の含有量が少なければ食べてもいいのか。
・イルカを水族館で飼うことがイルカを苦しめているのなら、動物園や水族館にいるすべての動物や魚を解放すべきなのか。

『ザ・コーブ』の公式サイトにはルイ・シホヨス監督のメッセージがあり、そこにはこう書かれている。
「私はダイバーであり、水中カメラマンでもあるので、海の環境が汚染され破壊されていくのを間近で見てきました。そこで、そのような海洋環境に関する懸念を広く伝えるため、慈善団体OPSをスタートさせました。私は地球存続には海洋保護が重要だと思っており、それには大きな情熱を持っています」
海洋汚染についての問題提起を『ザ・コーブ』ではどうしてしていないとのか思う。(水俣病のフィルムはあったけど、それは日本政府批判で使ってた)

それと、リチャード・オバリー氏をはじめとして、『ザ・コーブ』では、イルカ大好き人間の方たちがあれっと感じる発言を当たり前のようにしているのを聞いて、そういえば『トンデモ本の世界』にイルカについてのトンデモ本が紹介されていたなと思いだした。
それは植木不等式「イルカに乗ったトンデモ 鯨類をめぐるフシギな本あれこれ」という文章で、「イルカ・オカルティズム」についてこういう説明がしてある。
「イルカ・オカルティズム」は二つの主張を柱とする。
「ひとつめは、イルカやクジラと直接的・非言語的な交流(テレパシーとかチャネリング)による深いレベルの精神的交流が可能であるという主張。ふたつめは、彼らが人間にまさる知性と徳性を持っており、そんな彼らとの精神的交流を通じて人間は自らの救いとなるいろいろなメッセージやパワーを受け取れるのだという主張である」
これを読んで笑ってしまったのだが、シー・シェパードの人たちは「イルカ・オカルティズム」的発言をしてるわけだ。
クジラやイルカを愛する人たちはトンデモ的思考の持ち主がどうも多いように感じる。
そして植木不等式氏はこうしめくくる。
「イルカやクジラをむやみに賞賛するのは、もうやめようじゃないか。彼らはたぶん、自分たちを食肉にしたかと思ったら今度はヒーリンググッズにしてしまう人間の身勝手さに、いい加減イライラしているのだ」
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大阪2児遺棄事件

2010年08月04日 | 日記
児童虐待のニュースほど気がめいるものはないが、大阪2児遺棄事件はただただため息である。
新聞によると、容疑者は「子供の世話が嫌になり、いなければよかったと思い、2人を残して家を出た」「風俗店の仕事がしんどくて、育児もいやになった」「子供なんていなければ良いと思った」「自分の時間がほしかった」「もっと遊びたくて育児が面倒になり、家を出た」などと供述しているそうだ。
この記事を読んで、川口浩史『トロッコ』という映画に、夫を亡くし、8歳と6歳の息子を抱えた母親が「同年代の人で子どものいない人をみるとうらやましく思う時があるんです」というようなセリフがあったのを連想した。
そして、秋田の連続児童殺害事件の畠山鈴香が「離婚した時、無理に引き取らなければよかった。彩香がいなければ職を探しやすいのに」とたびたび口にし、登校中の児童の列に車が突っ込んだニュースを見て、「あの中に彩香がいたなら、人生変わっていたかもしれない」と友人にメールしたということも思いだした。

もっとも、『トロッコ』はフィクションだし、北羽新報社編『検証秋田「連続」児童殺人事件』によると、裁判の鑑定医は「子育てのストレスから、この子がいなかったらと思うのは不思議ではない」と言ってるしで、子どもを抱えた夫のいない母親の似たような発言であっても、この三つを単純に並べるわけにはいかない。
だけど、「この子がいなければ」という思いが浮かんだことのない人は少ないのではないかと思う。
以前、知人の女性に児童虐待をどう思うかと尋ねたことがある。
ある女性は、子どもの夜泣きがひどい時にマンションのベランダから落とそうかと思ったと言ってた。
別の女性は、育児放棄をする気持ちはわかる、30分でもいいから一人で喫茶店でゆっくりコーヒーを飲みたいと思って、そうしたらそのうちそれが当たり前になってくる、といった話をしてくれた。
もちろん、この女性たちが実際に虐待や育児放棄をしたわけではない。
多くの人はそういう気持ちがふっと浮かぶことがあり、だけどもその衝動を抑える。
それは自分の力ではなく、愚痴を言う人がいたとか、ほっと一息つける機会があったとか、そういうことなのかもしれない。
では、どうして一線を越えてしまうのか。

新聞には、「大阪市西区のワンルームマンションで幼児2人が遺体で見つかった事件で、死体遺棄容疑で逮捕された母親の風俗店従業員、下村早苗容疑者が「大阪には育児などを相談できる友人がいなかった」と供述していることが、捜査関係者への取材で分かった。下村容疑者は今年1月から初めて大阪で生活。大阪府警西署捜査本部は、慣れない土地で仕事や子育てに追われ心理的に孤立したとみて、事件との関連を慎重に調べる」
しかし、「子育てに嫌気がさしていた下村容疑者が、子供を親類などに預けようとした形跡はないという」
どうして助けを求めなかったのか。

『検証秋田「連続」児童殺人事件』によると、畠山鈴香は娘が死んだ時の記憶がないらしい。
あとがきに、「検証取材を進める中で、彩香さんの水死事件は判決が認定したような殺害事件ととらえることに疑問を抱かざるを得なくなりました。そこで、本書の表題では、連続殺害に疑問符を付ける意味を込め、「連続」殺害と、連続をカッコでくくることにしました」とある。
娘を殺そうとして橋の欄干から突き落としたのか(検察)、抱きついてくる娘を誤って払い落としたのか(弁護側)、無理心中未遂なのか(一審の鑑定医)、娘はピカチューの人形を落としてしまい、それを取ろうとして誤って川に落ちたのか(控訴審の精神鑑定)、真実はどうだったのかわからない。
また、男児を殺した理由もはっきりしない。
控訴審で、裁判長から「どうして豪憲君を殺したのかな」と聞かれ「分かりません」と答えている。
「気持ちだけでなく、行動も覚えていないところが多い。なぜ覚えていないのか自分でもよくわかりません」
本人もなぜ殺したのか、その時は本人なりのちゃんとした理由があったかもしれないが、それを覚えていないようなのである。
『検証秋田「連続」児童殺人事件』を読む限り、ウソを言っているわけではないと感じる。

精神鑑定によると、畠山鈴香は社会性、主体性がない。
「社会性の欠如とは、社会との交わりが持てない未熟さ、内向性のほか、部屋の片づけもほとんどできない、だらしなさにも顕著に見られる」
「馬鹿正直は、実直さや誠実さとは無縁で、すぐバレると分かるうそをついたり、通常なら胸に秘めることでも思わず口にし、自分に不利になることを思わずしゃべってしまう自己防衛の貧弱さを指す」
別の鑑定医は「なぜそうなったのか本人も説明できないのではないか」と言い、性格傾向を「場当たり的」と指摘し、「幼少期の被虐体験などに基づく被告の「処世術」のようなものと説明。意図的に人をあざむき、その場を上手に乗り切ろうとするタイプではないとし、統合失調症質人格障害など複合的な人格障害、広汎性発達障害の影響がみられる」という。

『検証秋田「連続」児童殺人事件』は次のようにまとめている。
「控訴審判決は、被告の記憶の後退を、被告の「作為」と切り捨て、彩香さん事件や豪憲君事件の動機を含む事実認定や、二つの事件の関連性もすべて社会常識の範囲内に押し込み、分かりやすいように解釈し、罰を下したという印象が残る。何かどこかがズレており、そこに事件の全容があるとは思えなかった」
「結審までのわずか5カ月、計13回の審理で、何がどう明らかになったのかというと、はなはだ疑問だ。そこには検察側と弁護側の両極端の主張があるのみで、審理を尽くしたとは言いがたい。また、裁判員制度は、裁判への市民感覚の反映が狙いとされる。法的解釈や常識で裁くことの限界のようなものすら感じられた。この事件が裁判員裁判の対象となっていたとするなら、どうなっていただろうかと考えると、途方もない戸惑いを覚える」

私も本を読んで、検察が主張するわかりやすい解釈は間違っていると思った。
大阪の事件についても、なぜに対するどんな答えも隔靴掻痒の感をまぬがれないだろう。
それにしても、新たに高速道路や新幹線などを建設するよりも、児童相談所の人員を増やすなど児童虐待を防ぐことに税金を使ってもらいたいと思う。
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