三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

イスラエルとパレスチナへの旅(2)

2018年08月29日 | 戦争

1993年、ノルウェーの仲介によってオスロ合意が成立、PLO(パレスチナ解放機構)とイスラエルとの間で暫定自治協定が調印されます。
そして1996年、ヨルダン川西岸地区とガザ地区からなるパレスチナ暫定自治政府が発足しました。

パレスチナ自治政府ができたとはいえ、パレスチナはイスラエルによって実質的に占領されています。
パレスチナ自治区はA地区、B地区、C地区に分けられています。


A地区 濃い茶色の部分。行政権と警察権はパレスチナ自治政府・自治警察が担っている。18%を占める。
B地区 薄い茶色の部分。行政権はパレスチナ自治政府が担い、警察権はパレスチナ自治警察とイスラエル軍が権限を持っている。22%を占める。
C地区 白い部分。イスラエル軍が管理する。つまりイスラエルの完全占領下にある。60%を占める。
http://seichi-no-kodomo.org/2017/02/21/blog-170221/

C地区は軍政下にあるので、普通の法律が適用されません。
軍人がパレスチナ人を殺しても、軍法会議で数か月の刑期ですんでしまうそうです。
ところがパレスチナ人だと、石を投げただけで、16歳以上は懲役1年、16歳以下は懲役6カ月。
案内をしてくれたパレスチナ人の一人は、軍の車に足を轢かれて骨折したそうで、今も足を引きずっていました。
イスラエル軍は、いつでも何でもできることを誇示しています。

ユダヤ人入植地のほとんどはC地区にあり、40万人(東エルサレムを除く)のユダヤ人が住んでいます(2014年)。
C地区はA地区とB地区を取り囲むように設定されており、西岸地区を細かく分断しています。

パレスチナで目につくのが分離壁です。

2002年、イスラエル政府はヨルダン川西岸地区に、入植地とヨルダン川西岸地区を取り囲むように高さ5~8mのコンクリートやフェンスの分離壁の建設を開始しました。
国際司法裁判所は占領地での壁の建設は違法との判断を下していますが、現在も分離壁は建設中で、2017年時点では460kmが完成しています。
http://palestine-heiwa.org/wall/wall.html


http://altertrade.jp/archives/11771

イスラエル政府の説明は「テロリストから入植地を守る」であり、安全保障壁と言っています。
ある場所では、フェンスの分離壁が途中まで建設されていました。
入植地を作る予定だそうです。

分離壁の検問所には、「イスラエル人は生命の危険があるから入らないように」と書かれてあるそうです。
分離壁は自分達を守ってくれていると、ユダヤ人は思っています。
入植者が守られることで、さらに入植者が増えることになります。

手前がフェンスの分離壁。
向こうの丘の上にあるのが入植地の住宅。
丘の下には動物園があり、車がたくさん停まっていました。

分離壁の手前で昼食をとりました。

ここは以前、木がたくさん生えていて、子供たちの遊び場だったそうです。

分離壁の一部が門になっているところがあります。



この向こうにはパレスチナ人の家が1軒だけあり、イスラエルはこの家を壊そうとしたのですが、国際的な注目を浴びて家を破壊できなかったので、門を作り、カメラで監視して、その家の人だけが通ることができるようにしました。

パレスチナ人の村を分断するように分離壁が作られたところもあり、家と畑が分離壁で二分された人、学校や職場に行けなくなった人たちが大勢います。
今まで道路があったところに分離壁ができたので、向こう側に行くためには検問所まで遠回りをしないといけません。
しかし、検問所は通行制限が厳しく、パレスチナ人が通過するのは面倒です。
そんな簡単に行き来はできません。

分離壁をハシゴやロープで越える人もいるそうです。
ハニ・アブ・アサド『オマールの壁』に、分離壁を越えるシーンが何度か出てきます。


分離壁のすぐ横にザ・ウォールド・オフ・ホテル(世界一眺めの悪いホテル)があります。
バンクシーや多くの人が分離壁に絵を描いている場所です。
https://www.huffingtonpost.jp/2017/03/04/banksy_n_15150968.html




ホテルから北に8分ぐらいのところに検問所があるので行ってみました。
ここは車と歩行者との検問所が別になっています。


歩行者はここを通ります。


歩行者の検問所から出てくる人。


歩行者の検問所の前はタクシーがたくさんいて、野菜や果物の売ってて、バザールのようです。

イスラム教徒の女性は外に出ることがあまりなく、買い物は男性の仕事だそうですから、お父さんが仕事から帰りに晩ご飯のおかずをここで買うのでしょうか。

私は、ヨルダン川西岸地区のベツレヘムに行くときは検問所を通らなかったと思いますが、帰りはパスポートのチェックがありました。



この若い軍人はパレスチナ人にはいじわるをするのか、と思いました。

外国の空港に入国するとき、パスポートに入国スタンプを押してもらいますが、イスラエルではそれはありません。
イスラエルでは青色の入国(滞在)許可証をもらいます。
http://eurasia-walk.sub.jp/abroad/2015israel/2015israel01.html
パスポートにイスラエルのスタンプを押されると、イスラエル入国履歴が残り、入国を認めない国があるからだそうです。

帰国する前日、食事をしながらみんなと話していると、入国許可証の話になり、「これがないと出国できない」と言われました。
しかし、私はもらった記憶がないし、そんなものが必要だとも聞いていませんでした。
あせってスーツケースやバッグを調べましたが見つからない。
うわ~、どうしようと必死になって何度も調べたら、スーツケースからやっと発見。
助かったと思いました。
入国許可証の存在を知らないままだったら、この軍人にいじわるされるどころの話ではなかったでしょう。
ああ、よかった。

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イスラエルとパレスチナへの旅(1)

2018年08月24日 | 戦争

アースキャラバンのツアーに参加して、イスラエルとパレスチナ(ヨルダン川西岸地区)に行ってきました。(全日程の半分の参加)
https://www.earthcaravan.jp/ec2018/ec2018_MEtour.php
エルサレム旧市街や死海などを観光しましたが、目的はパレスチナ人の話を聞き、パレスチナの現状を見ることです。

一緒に行った人がブログを書いています。
https://satoshi-suzuki.com/palestine-east-jerusalem/

イスラエル政府・軍人・入植者たちがパレスチナ人に対して弾圧・迫害・いやがらせなどをしていと聞いて、最初は、なんぼなんでもそこまでは、と感じました。
しかし、何人ものパレスチナ人から話を聞き、実態を目にすると、こりゃひどい、なんとかできないものかと思いました。
じゃ、私は何ができるのか。

パレスチナ問題に関する本やドキュメンタリーはたくさん作られているし、ネットでも多くの記事を読むことができます。
みんながよく知っていることなら、今さら私が書くこともないかもしれません。
しかし、あるパレスチナ人の「自分たちのことを1人でも多くの人に伝えてほしい」という言葉を聞いた者の責任として、私の見聞したことをご紹介したいと思います。

パレスチナはどこにあるのか、パレスチナ人は誰のことなのか、今までの経緯は、といったことを私自身もよく知らなかったので、まずはそこらあたりから。
岡真理さんの話がわかりやすいと思います。
 

山井教雄『まんがパレスチナ問題』やネットなどを参考にして、私なりにまとめてみました。
パレスチナとは、ヨルダン川以西のイスラエルを含む地域を指します。
近代以降、世界各地から移住してきたユダヤ人(ユダヤ教徒)に対して、パレスチナに在住するアラブ人がパレスチナ人と呼ばれます。

パレスチナの人口は495万人、ヨルダン川西岸地区が約300万人、ガザ地区が約194万人です(2017年)。
パレスチナ難民は国内外に約587万人います(2017年)。

19世紀になり、ユダヤ人の中からパレスチナにユダヤ人国家を建設しようというシオニズム運動が起こり、19世紀末からユダヤ人のパレスチナ入植が始まりました。
1917年、イギリスはパレスチナにユダヤ人のホームランド(ユダヤ人の国)建設を認めます。
当時、パレスチナには70万人くらいのアラブ人が住んでおり、6万人程度のユダヤ人と共存していました。
第一次世界大戦後の1922年から、パレスチナの委任統治をしたイギリスは、ユダヤ人を無制限に移民させ、国造りの準備をしました。

そして、1948年にイスラエルが建国されます。
当時の人口は197万人で、そのうちユダヤ人は60万人でした。
パレスチナ人との間で内乱状態になり、70万人以上のパレスチナ人が逃げ出して難民となりました。
パレスチナ難民は70年も不安定な生活を強いられているのです。

1949年、第1次中東戦争後の休戦調停で、エルサレムは東西に分割、西エルサレムを含む地域はイスラエルが、東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区はヨルダンが統治することになりました。
聖地がある旧市街は、東エルサレムの中にあります。
といっても、東西エルサレムの間に境界があるわけではありません。



https://www.ngo-jvc.net/jp/projects/palestine/health-education.html

1967年の第3次中東戦争で勝ったイスラエルは、東エルサレムを含むヨルダン川西岸、ゴラン高原、ガザ地区、シナイ半島を占領しました(1982年にシナイ半島からは撤退)。
この戦争でも100万人が難民となっています。


http://ccp-ngo.jp/palestine/

イスラエルとパレスチナは何度も和平交渉を行い、合意することもありました。
しかし、イスラエルは「神がユダヤ人に約束をした土地だ」「昔からそこに住んでいる」と言い張り、アラブ人は「7世紀以来、アラブ人が住んでいる」と主張、どちらも妥協しません。

『まんがパレスチナ問題』の中で、山井教雄氏は少年にこのように言わせています。

宗教は人間の最善の部分を引き出すように作られてるはずだけど、時として、人間の一番邪悪な部分、「憎しみ」を引き出す。経済が原因の戦争なら、大損すれば戦争をやめるのだが、宗教がらみで「聖戦」となってしまうと、損をしようが、自分が滅んでしまおうが戦いをやめない。


圧倒的な軍事力を持つイスラエルは、パレスチナ人から土地を取り上げ、ユダヤ人入植地をどんどん建設し、東エルサレムやヨルダン川西岸地区の支配を既成事実化しようとしています。
しかし、それは国際法上の違法行為です。
国連安全保障理事会は、ヨルダン川西岸地区と東エルサレムでイスラエルが進める入植地建設を違法だと非難しています。
https://www.bbc.com/japanese/38425927
にもかかわらず、現在も入植地は新しく作られ、それにともないパレスチナ人は迫害され、追い出されているのです。

http://palestine-heiwa.org/map/s-note/

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旗手啓介『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』

2018年08月20日 | 戦争

1992年、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)に、自衛隊と75名の警察官が派遣されました。
文民警察官としてPKOに従事していた岡山県警の高田晴行さん(33歳)は、1993年5月4日に「正体不明の武装勢力」(おそらくポル・ポト派)に襲撃され、殺害されます。
旗手啓介『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』はNHKスペシャルで放送されたものを基に、加筆して書籍化した本です。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54154

1991年10月、パリ和平協定が締結し、内戦を続けてきた四派が和平協定に調印し、20年以上続いたカンボジア内戦が終結した。
1992年3月、UNTACが活動を開始。
1992年6月、PKO協力法案が成立。
ポル・ポト派は武装解除を拒否、ポル・ポト派抜きで武装解除を進めることをUNTACは表明。
1992年7月、政府調査団がカンボジアに向かう。
1992年9月、警察庁が先遣隊を派遣し、情報収集を行う。

各国の文民警察隊を束ねるオランダ人の本部長は、治安情勢について説明し、最も危険な地域の一つがタイ国境に近いアンピルだ、と語った。
「アンピルは無法地帯というべき地域です。毎日のように殺人事件が起こっていますが、捜査はされておらず、訴追されることもなければ、罰も与えられてもいません」
高田晴行さんたちはアンピルに派遣されています。

1992年10月、75名の隊員は成田を出発した。
勤務は9か月。

自衛隊にはメディアは関心を持ったが、文民警察はあまり注目されていない。
自衛隊の活動地域であるタケオはカンボジアでも安全な地域の一つだった。
タケオの自衛隊宿営地は、プレハブの宿舎の中にレクリエーション施設があり、自動販売機で日本製のビールが購入でき、自前の風呂も作られるという、参加各国の中でも最も恵まれた宿営地という評判だった。

その一方、文民警察官は任務地さえも決まっていなかった。
日本の文民警察官は、32カ国の中で31番目に現地入りをしているから、配置場所のいいところは各国にとられていた。

文民警察官の実際の任務は選挙のために村や町に赴き、住民たちに選挙とは何かを教え、有権者登録用の顔写真を撮影するなどの業務を支援する役割だった。

1992年10月27日、アンピル班10名の任務がスタートした。
アンピルはタイとの国境に近く、プノンペン政府の力が及ばない場所だった。
カンボジア全体に大量の地雷が埋設されており、アンピルのあたりもポル・ポト派が地雷を埋めていた。

ポル・ポト派は停戦違反をし、各地で他派や国連を攻撃した。
内戦状態のため、自動小銃を一般市民も持ち歩き、簡単に人が殺され、死体がゴロゴロしている。
目の前で起きていることは戦争そのものだった。

元隊員の日記やビデオには、「戦闘が起こると防空壕に身を潜めるしかなかった」「市街戦そのものの戦場」とある。
ところが、パリ和平協定によって停戦合意が成立し、それを前提としてPKO協力法が可決され、自衛隊や警察から派遣されている。

日本政府としては「紛争地域に行くわけではない」という前提だった。
文民警察官は特別な装備や銃を携行しておらず、丸腰の状態で、隊員のほとんどは海外勤務の経験がなく、事前準備もなかった。

班長だった川野邊寛さんはこう語ります。
「PKO協力法の根底にあるのが、紛争地域に行くのではない、和平条項が締結されて安全なところに行くんだと。だから自衛隊も緊急避難の際に使用する機関銃は一丁でいいじゃないかと、二丁はダメだと、そういう議論になっていたわけですよね。文民警察はあくまで文民なんだ、平和なところへ行くんだ、(略)そういう根底からの雰囲気ですよね」

1993年1月13日、カンボジア北西部のアンクロン村にある日本人文民警察官の宿舎などが武装集団に襲撃された。
文民警察官は防空壕を作り、砲撃があると、防空壕へ逃げ込んだ。
1993年4月8日、国連ボランティアの中田厚仁さんが殺害された。

そして、1993年5月4日、ポル・ポト派の襲撃により、高田晴行さんが殺害、日本人2人が重傷、2人が軽傷。
停戦の合意が崩れていないことにするために、襲撃は正体不明の武装勢力によるものとされた。

スウェーデンやオランダではカンボジアPKOに関する検証がなされているのに、日本は検証を行なっていないそうです。
高田晴行さんが殺害された責任は曖昧なままなのでしょう。

2016年7月11日、菅義偉官房長官は南スーダンの情勢について「PKO法における武力紛争発生とは考えておらず、参加5原則が崩れたとは考えていない」と述べています。
ところが、廃棄していたと言っていた日報には「戦車や迫撃砲を使用した激しい戦闘が確認される等、緊張は継続」などと書かれてあることが判明しました。
https://mainichi.jp/articles/20170208/k00/00m/010/154000c
カンボジアPKOから何も学ばないまま20年以上が経ち、政府は相変わらずウソをついてごますという点では少しも変わっていません。

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井川意高『熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録』

2018年08月13日 | 

西日本での水害でドタバタしている隙に、カジノ法案が強行採決されてしまいました。
カジノの一般的な法律は2017年に作られ、今回の法案はその実施法案。

福島みずほ「いのちとくらし、平和憲法をまもりぬく」では、カジノ法案にも触れています。
賭け麻雀をすると賭博罪で逮捕されるのに、民間がカジノをつくっても賭博罪にならないのはなぜか。
利用者はほとんどが外国人だと言っていたが、今は7~8割が日本人だろうと試算されている。
ギャンブル依存病防止のため週に3回しか入れないように制限するというが、科学的根拠はない。

連結子会社から106億8000万円の金を融資させ、バカラで使いきった大王製紙社長井川意高氏の『熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録』を読みました。
会社経営や有名人との交流などといった自慢話が半分で、懺悔しているとは感じられません。

井川意高氏が初めてカジノに出かけたのは、1996~97年にオーストラリアに家族旅行に出かけたとき。
2003年ころからマカオに時々行くようになる。
最初は金を借りるという発想がなく、300万円の種銭をすって帰国した。
2回目のマカオで金を借りるシステムを知った。
2007年6月に大王製紙の社長に就任。
2008年になると、カジノに通う頻度が上がる。
2010年、資金繰りが行き詰まり、グループ企業の子会社から金を借り入れる。
2011年が明けたころから完全に歯止めがきかなくなる。
2011年3月に父親が20億円分の借り入れの事実に気づいたので、FXで損したと嘘をつく。

2011年4月以降、ほぼ毎週マカオに出かけてバカラをやり続けた。
金曜日の夕方に仕事を終えると、その足で羽田空港に向かい、マカオではほとんど眠らずに勝負をし続ける。
2011年9月、子会社7社から106億8000万円を借り入れていた事実が、社内メールの告発によって発覚し、会長を辞任。
2011年11月、特別背任の容疑で逮捕。

連結子会社から55億3000万円を借り入れた会社法違反(特別背任)で起訴、求刑は懲役6年。
保釈金は3億円で、現金で支払う。
55億3000万円は株を売却して全額返済した。
2013年9月に懲役4年が確定。
99%をギャンブルに、1%を飲み食いに使った。

カネを借りることに強い抵抗をもつ私が、異常なほどの金額の借金をしてしまった。逆に言えば、カジノは私という人間を根本から揺るがすほど、蠱惑的なまでの吸引力をもっていた。


「マジック・モーメント(魔法の時間)」と呼ばれる、連続勝利が起きることがある。
150万円を4時間半で22億円にしたことがある。

ギャンブラーはそんな常識人のような発想はしない。4時間かけて500万円が2000万円に膨らんだのであれば、8時間かければ1億円を3億円にまで爆発させることだってできるはずだ。元手がゼロになってしまう可能性は思考から排除し、倍々ゲームの未来を自分本位の脳内確率で夢想してしまう。


どこのカジノでも、大勢の客が出入りする「ザラ場」で何百万円、何千万円を賭ける客はあまり多くなく、そうした観光客を目当てにしていては、カジノの収益はさして上がらない。
VIPルームに上客を呼び込み、高待遇をしながら金を使わせる。

マカオのカジノでは、VIPルームで勝負するには800万香港ドル(約1億円)を積まなければならない。
その代わり、飛行機はビジネスクラス、ホテルはスイートルームを無料で提供してくれる。
シンガポールのマリーナ・ベイ・サンズでは1ゲームに約3900万円を賭けることができた。

金銭感覚が麻痺しているというよりも、ただひたすら高揚感に支配されてしまう。


次の文章はギャンブル依存症者の心理はこういうものかと妙に納得させます。

カジノのテーブルについた瞬間、私の脳内には、アドレナリンとドーパミンが噴出する。勝ったときの高揚感もさることながら、負けたときの悔しさと、次の瞬間に湧き立ってくる「次は勝ってやる」という闘争心がまた妙な快楽を生む。だから、勝っても負けてもやめられないのだ。地獄の釜の蓋が開いた瀬戸際で味わう、ジリジリと焼け焦げるような感覚がたまらない。このヒリヒリ感がギャンブルの本当の恐ろしさなのだと思う。
脳内に特別な快感物質があふれ返っているせいだろう、バカラに興じていると食欲は消え失せ、丸1日半何も食事を口にしなくても腹が減らない(略)カネか時間が切れるまで、勝負はいつまでも続く。もし私に仕事がなく、資金が無尽蔵にあるならば、何日だろうが何週間だろうがマカオやシンガポールのカジノで勝負し続けたはずだ。


『熔ける』は刑務所に入るまでのことまでですが、文庫版には、刑務所での生活、そして出所後のことが加筆されています。
罪の意識はあまりないようだし、ギャンブル依存症だという自覚も感じられません。

驚くことに、井川意高氏はカジノ法案に反対ではありません。

私は「なんで他人がオカネを使うことをそんなに心配してくれるの?」と質問したい。まったくおかしな話だ。

自分のこずかいならともかく、会社の金を100億円以上も使って実刑判決をもらった人がよく言うもんだとあきれます。
井川意高氏自身のように、ギャンブルにのめり込んで借金をこしらえ、横領したり窃盗したりする人は後を絶たないことを知らないのでしょうか。

たしかに、盗人にも三分の理はあります。

メディアはカジノを批判する前に、パチンコや競馬、宝くじの問題点を指摘するべきだ。そちらを放っておいて「カジノを作るな」と反対するのは、明らかに論理が破綻している。

もっともな意見ですが、このあとがひどい。
依存症者は自分が依存症であることを否認しますが、井川意高氏もひたすら自己正当化します。

さらに言えば、ギャンブル依存症の人にとって、カジノを開いたほうが少しは救いになる。宝くじの控除率は約55%だ。100円の宝くじを買えば、55円を寺銭として胴元が取る。配当されるのは残りの45円だけだ。競馬は馬券のうち25%前後を胴元が抜き、パチンコの控除率は10~20%に達する。世界的に見て、これはバクチではなく「搾取」と言っていい。ギャンブラーにとってみれば、最初から25%も55%も寺銭を抜かれたら、勝負に勝てるわけがないのだ。
その点、カジノの控除率は平均3%程度にとどまる。ルーレットは4%弱、バカラは平均2.3%であり、カジノの控除率はパチンコや競馬、宝くじよりもはるかに低い。日本にカジノができれば、ギャンブラーが胴元による「搾取」に遭わなくて済むのだ。


バカラが客に優しいのなら、どうして100億円も損したのか。

「自分は破滅するかもしれない」という瀬戸際でやっているからこそ、ギャンブルにはたまらない快感がある。月収20万円の若者が、パチンコにハマって借金をしてしまう。「この次負ければサラ金を返せなくなって、逃げなければいけない。あるいは首をくくらなければいけない」。こういう瀬戸際で勝ったときの快感はたまらない。
カジノができようができまいが、ギャンブル依存症の賭博師は必ずどこかでプレイするだけなのである。

井川意高氏は「刑務所にまで堕ちた私が、同じ轍を踏むことはもうない」と断言します。
どこか他人事です。

井川意高氏によると、カジノができても、簡単には黒字にならないとそうです。
普通の観光客が出入りする「ザラ場」で少額のプレイをされても、商売にはならない。

私のような客がVIPルームにいるおかげで、カジノ全体が黒字になっているのだ。

日本ではVIPルームは作れないだろうし、有名人は行かない。
海外の富裕層に日本の新参カジノが営業をかけるのは容易ではない。
そして、負けた金を回収するノウハウが外国のカジノにはあるが、日本人はそういうノウハウがないので苦労するだろう。
外資系カジノが参入しないかぎり、日本のカジノ運営は混乱を極める。
つまり、カジノ法案は外資系カジノを儲けさせるという売国的法律ということでしょう。

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福島みずほ「いのちとくらし、平和憲法をまもりぬく」(2)

2018年08月09日 | 日記

・狭山事件
被害者宅の玄関に差し込んであった脅迫状を書いた万年筆は被害者のもので、その万年筆が石川一雄さんの家で発見されたということになっている。
ところが、脅迫状の文字をコンピューターで筆跡鑑定をしたら、石川一雄さんの字とは99.9%違うという結果が出た。
万年筆自体も、インクの成分が違っているので被害者のものではなかった。
http://log.sayama-case.org/date/blog-entry-234.html

狭山事件とは、1963年5月1日、狭山市で16歳の女子高生が行方不明になり、身代金を要求する脅迫状が届けられ、5月4日、遺体が発見されたという事件です。
逮捕された石川一雄さんは強盗強姦・強盗殺人・死体遺棄・恐喝未遂・などで起訴され、一審は死刑、二審の無期懲役が確定しました。

日野町事件の再審開始が決定しました。
1984年に滋賀県日野町で起きた強盗殺人事件です。
阪原弘さんは無期懲役で服役中の2011年に死亡しています。

毎日新聞「記者の目」に山本直記者がこんな記事を書いています。

滋賀・日野町事件再審決定 心証にこだわりすぎた
(略)
1審裁判官が裏で検察誘導
 ところが、審理が大詰めを迎えた95年に入って、検察は突然、訴因(起訴状に書かれている具体的な犯罪事実の主張)のうち、殺害場所を「日野町内」▽殺害時刻を「28日午後8時過ぎごろから翌日午前8時半ごろまでの間」▽被害品を「在中金額不詳の手提げ金庫など」--と大幅にぼかす予備的訴因の追加を地裁に請求した。2月には殺害場所を「日野町内とその周辺」にまで拡大した上で無期懲役を求刑したのだ。
 地裁は結審間近にもかかわらず、これらの請求をほぼ認めた。そして同6月、最大の争点と思われた自白の信用性を否定する一方、検察側の主張通り阪原さんが遺体や金庫の場所を知っていたと判断、店内の鏡に阪原さんの指紋が付着していたことも有力な証拠として無期懲役を言い渡した。20年以上も前の話なので、今回の再審開始決定に関する報道でも、こうした経緯はほとんど触れられていない。
 しかし、この背景に重大な「秘密」があった。担当裁判官が検察に対し、殺害の場所や時刻などをぼかす公判対策を行うよう法廷外でこっそり働き掛けていたのだ。裁判のもう一方の当事者である弁護側には秘密で。
 複数の検察関係者によると、合議制の裁判官3人のうち一人が担当検事との打ち合わせで、起訴内容にある殺害場所や犯行時刻、被害品をぼかした方がいいと勧めていた。裁判が長期化し、担当検事は何度か代わったが、その度に同じような働き掛けをしていたという。最終的に予備的訴因の追加に踏み切った理由について「裁判所は有罪の心証を持っていた。状況証拠だけで有罪にできると言われたも同然と判断したからだ」と語る関係者もいた。
 刑事訴訟法は起訴に当たって犯行の日時、場所、方法をできるだけ特定するよう求め、裁判所が追加や変更を命じることができるとも定めている。ただ、こうした「裏取引」は公平性・公開性の観点から問題がある。弁護側にとっては対策を取る時間的余裕がない上、殺害現場をあまりに広げられては十分な防御ができないからだ。
 「地裁としては、自白の信用性がないから殺害の日時と場所が認定できない。だが、心証はクロ。だから何としても有罪にするため、訴因をあいまいにさせたのだろう」。弁護団は地裁の動きをこう分析し、憤った。(略)(2018年7月24日)。

https://mainichi.jp/articles/20180724/ddm/005/070/007000c

驚くことに、裁判官は検事がぐるになって有罪判決を出したわけです。
石川一雄さんや阪原弘さんのように、自白を強要されて死刑判決を受けた死刑囚は他にも大勢いるのではないでしょうか。

・憲法改正
憲法改正国民投票は最低得票数の規定がない欠陥法案。
投票率が40%だと、有権者全体の21%で憲法が変えられることになる。
国民投票になれば、投票日の2週間前までCMが流し放題で、金があるところが有利になる。
国民投票するには852億円の費用がかかる。
国会議員選挙と同時にやれば経費は抑えられるが、選挙の争点と国民投票の争点がぐちゃぐちゃになってしまう。

自民党の改正案によると、第9条にある「必要最小限度の」という言葉がなくなっている。
何がやれて、何がやれないのかがわからないので、これはできないということがなくなる。

また、9条の2には、権力を縛るものが入っていないので、防衛費が拡大するだろう。
2018年度の防衛予算は5兆2500億円で、過去最高。
自民党の中には、GNPの1%から2%にせよ、10兆円に増やせという意見がある。
年間税収が50兆円くらいなのに、その2割が防衛費だと財政破綻するし、社会保障費をさらに削らなくてはいけない。

「法律の定めるところにより」とあるので、新しく法律をつくれば何でもできる。
「国会の承認その他の統制に服する」とあるが、「事前承認」ではないので、戦争するとしても、国会の事前承認すら必要としない。
議論さえせずに戦争を始め、国会で質問をすれば、秘密保護法のもとで回答を拒否されるという状況になりかねない。、

そして、自由が制限されていくのではないか。
今でさえ国会議員の発言に圧力がかかっている。
2015年、「戦争法」「鉄面皮」と言ったことに対して、削除要求を受けた。
1999年、共産党の「周辺事態法は戦争法ではないか」という質問に、小渕総理は「御党が戦争法というのは分かりますが、私たちはこういう意味でこの法律をつくろうとしています」と答弁している。

「緊急事態宣言条項」を憲法に加えることは、国会から立法権を取り上げ、内閣で実質的に法律がつくれるようにすることであり、三権分立の侵害になる。
緊急事態宣言条項は独裁政権のもとで使われ、ナチスの国家授権法と同じで、フランスのアルジェリア戦争、韓国の独裁政権支配体制強化のためにも使われた。
教育の無償化、参議院の合区解消は、憲法を変える必要はなく、教育政策で実現すべき課題だし、公職選挙法でやるべき問題。

(追記)

「FORUM90」VOL.160に、飯塚事件と袴田事件の再審請求棄却について、弁護士の講演録が載っています。
それを読むと、弁護側のDNA鑑定を裁判所が認めなかったのはおかしいとしか思えません。
飯塚事件では、科警研はDNA鑑定をするための試料がないと言い、鑑定写真を改竄しています。
森友・加計問題でのデータの廃棄・改竄とも通じます。
裁判官と検察はグルなのではないかと邪推したくなります。
冤罪なのに執行された死刑囚は少なくないかもしれません。

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