三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

清水潔『「南京事件」を調査せよ』

2016年10月29日 | 戦争

清水潔『「南京事件」を調査せよ』は、NNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」という放送をもとにして書かれた本。
番組を製作するにあたり、虐殺された捕虜の写真はどこで撮られたのか、日記を書いた兵士が中国へ渡るのに神戸から乗った船が上海に着いた日時など、そうした細部を一つひとつ検証したとあります。

番組への意見は9割が肯定、否定は1割だったそうです。
産経新聞は「「虐殺」写真に裏付けなし 同士討ちの可能性は触れず 日テレ系番組「南京事件」検証」という記事で、番組を批判しています。

清水潔氏によると、否定派の論理は一点突破型です。
たとえば、
・被害者の人数30万人などあり得ない、と数字を否定する。
だから「虐殺は捏造だ」と主張するわけだが、30万人虐殺という数字を嘘だと言ってるだけで、虐殺そのものをなかったと証明したわけではない。
30万人という数字の否定にも論拠はない。

・南京市街には当時20万人しかいなかったから、30万人も虐殺できない。
南京事件は南京城内や中心部だけで起きたわけではない。
南京周辺の人口は100万人前後で、時期も6週間から数か月だった。
南京事件は、南京陥落の前後に南京周辺の広範囲の地域で起こった捕虜や民間人の虐殺、強姦、放火などを総称している。

ちなみに、「南京虐殺」「南京事件」など呼び名がいろいろありますが、清水潔氏によると、「南京事件」という場合、「大虐殺という程のひどいことはなかった」という意図と、「虐殺だけではない。強姦、放火、略奪など野蛮の限りを尽くしたのだから総合して〝事件〟と呼ぶべきである」という肯定の意味もあるとのことです。


・虐殺を伝える本や記事の中から何かのミスを見つけ出し、「だから全部嘘だ」になる。

何でもない写真が南京虐殺の写真として誤用されると、捏造したことになり、さらには「南京虐殺はなかった」となる。

・多くの従軍記者がいたのだから、虐殺や数多くの死体などがあれば記事になったはずだ。

当時は厳しい報道統制が敷かれており、検閲を受けなければならなかったので、日本では報道できなかった。
しかし、海外の新聞には南京での虐殺に関する記事が出ていた。
たとえば、「ニューヨーク・タイムズ」1937年12月18日に、「無差別に略奪し、女性を凌辱し、市民を殺戮し、中国人市民を家から立ち退かせ、戦争捕虜を大量処刑し、成年男子を強制連行した」とある。

・番組への批判として「あれは南京虐殺ではない。幕府山事件だ」というものがある。

事件を分断し否定することで、「南京事件はなかった」とする。
兵士の日記や証言によると、揚子江岸の捕虜虐殺は数か所で行われたらしい。

・幕府山事件について両角聯隊長は「あれは銃殺ではない。自衛発砲だった」と言っている。

山田支隊が捕虜にした15000人のうち、非戦闘員を釈放、収容所に入れたのは8000人。
収容所での火事のどさくさで半数が逃げ、司令部からは「皆殺セ」という命令が下るが、捕虜の解放を決意し、捕虜を解放するために、揚子江岸に連行したが、暴動を起こされたのでやむなく銃撃した。
このように両角聯隊長は説明しているそうです。

しかし、第66聯隊第一大隊の戦闘詳報には、聯隊長の命令として「旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ、其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ遂次銃殺シテハ如何」とあり、虐殺は軍の組織的命令だったことがわかります。

両角聯隊長の説明には疑問が残ります。

清水潔氏が初めて中国に行った時のこと、水の入ったペットボトルを手に席を廻っていた客室乗務員が隣に座っていた中国人男性に水を注いでたら、機体が揺れて、水が清水潔氏のズボンにこぼれた。

客室乗務員の女は男性客に面罵し、さらには男性が膝に載せていた毛布で清水潔氏のズボンを拭くと、「毛布で拭くな」と怒った。
清水潔氏は「どうしようもない国だ」と感じた。

清水潔氏は大学院で教えることがあるが、あるとき、授業のあとに教授や学生とレストランでランチを取った。

そしたら、ウエイトレスが中国からの女子留学生にコーヒーをこぼし、白いブラウスにかかった。
それなのに、ウエイトレスはテーブルだけを拭いたあと、何ごともなかったかのようにスマホを操作していた。
後日、その女子留学生にウエイトレスに対して腹は立たなかったかと聞くと、「あの人もわざとじゃないから、ミスをした本人も悔しいんですよ。私が怒ったら気持ちが重くなって落ち込むんじゃないでしょうか」と答えた。

どうしてそういうことに清水潔氏がこだわるかというと、清水氏の父はシベリアの抑留者だったが、「中国人ってやつは、どうしようもない」と言っていたからです。

私たちには「中国人は・・・」という先入観が正直なところあります。
南京事件や慰安婦問題を否定するのは、そういう差別偏見があるからではないかと思いました。

中国政府によって南京大虐殺の資料をユネスコの世界記憶遺産登録申請されたことに対し、原田義昭元文部科学副大臣は「南京大虐殺や慰安婦の存在自体を、我が国はいまや否定しようとしている時にもかかわらず、申請しようとするのは承服できない」と記者団に語った。
慰安婦問題とは日本軍による強制連行だと、私は思ってましたが、慰安婦の存在自体をも否定しようとする人もいるんですね。

「「虐殺」写真に裏付けなし 同士討ちの可能性は触れず 日テレ系番組「南京事件」検証」を書いた人は、一般人や捕虜への虐殺等はなかったと全否定しているのでしょうか、それとも虐殺はあったことは認めているのでしょうか。
すべては中国の嘘だと否定することは無理だと思います。

(追記)
南京事件については他にも書いています。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%8F%B8%E3%80%8E%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E8%AB%96%E4%BA%89%E5%8F%B2%E3%80%8F

http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/7ccbac87d494d869c90e4428e49fb0fb

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垣添忠生『妻を看取る日』

2016年10月24日 | 

『妻を看取る日』は、国立がんセンターの総長をされた垣添忠生氏が、ガンで亡くなった奧さんのことなどを書いた本です。

驚いたのが、奧さんの死を誰にも言わなかったこと。

「くれぐれも私の葬儀はしないでちょうだいね」妻は生前、ことあるごとにこう言っていた。
なぜなら、夫の社会的立場によって、先に逝った妻の葬儀がやたらと盛大に行われる例をいくつも見てきたからである。
自分とは面識がないのに、夫の仕事上の知人というだけで葬儀に参列してもらうのは申し訳ないと、妻は嫌がった。また何よりも、私に煩わしい思いをさせたくなかったのだろう。それに私たちは、何度も書いているように、とくに決まった宗教を持っていなかった。(略)
私は一人で妻を看取り、一人で送ろうと決心していた。

たまたま弟夫婦が聞きつけ、どうしてもといって見送りに加わったので、火葬場で立ち会ったのは3人。

東京では葬儀をしない直葬が3割というし、葬儀をしないのはともかく、妻の死を誰にも知らせないのはおかしいと思います。
それも奧さんの遺志なのかは『妻を看取る日』には書いてありません。
奧さんは社交的な方だったようなので、友人、知人が大勢いたでしょうに。
「この決断は、後に親戚からいろいろと非難されるところとなった」と垣添忠生氏は書いていますが、当然です。

垣添忠生氏は葬儀などの儀式を否定しているわけではないようです。

徐々に回復してきた私にはずみをつけてくれたのが、百ヶ日法要であった。これも先人の知恵なのだろうか、悲しみ抜いて百日たったころというタイミングに、意味があるように思われた。
妻の墓については、何も決めていなかった。妻の両親と兄はすでに他界し、家の近くの法華宗の寺に眠っている。妻もここに納骨するのが自然であろうと考え、住職に相談した。
そして百ヶ日法要をすることに決め、そのときに戒名をいただくことにした。定式に従い、世の中の動きに合わせて生きていくのも大事なことだろうと思ったからだ。


ところが、最後にこう書いています。

私も葬儀はしないつもりだ。私の遺骨と妻の遺骨をまとめて散骨してもらう手配も必要だ。

垣添忠生氏には子供がいないということもありますが、残された者は身近な人の死をそんな簡単に割り切れるものではありません。
でも、何もしないことがいいことだ、人に迷惑をかけないから、という悪しき風潮がだんだんと広まっていくように思います。

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山本博文「日本人の名誉心及び死生観と殉教」

2016年10月18日 | キリスト教

山本博文「日本人の名誉心及び死生観と殉教」(竹内誠監修『外国人が見た近世日本』)に、日本人キリスト教徒の殉教について論じられています。

江戸幕府はキリスト教への弾圧を厳しく行い、信者を拷問し、処刑したと思っていましたが、山本博文氏によると「殉教は積極的な一つの主張、もしくは自己願望の実現」という面があるそうです。

殉教の勧めは、イエズス会士らがキリストの教えとして持ち込んだもので、その特徴を3つあげています。

①迫害は、神の教えが真実であることを示すために神がはかられたものであり、迫害の場で初めてそのものの信仰が真実であるかどうかが試される。
②棄教を迫られた時、口先だけでも神を否定することは、棄教することと同じである。
③殉教者になることは、神の前で高い地位に就くことになる。

日本人のキリスト教信者の特質は、強固な信仰を持つ者は信仰を捨てるよりも命を捨てるほうがよいと信じ込んでいたことである。

ただ口先だけでキリシタンではないと言いさえすれば、助かる可能性があった殉教者は大勢いた。
慶長19年に家康が禁教令を出した時点でも、役人はできるだけ信者を処刑しないようにしていたが、信仰は捨てないし、逃亡したり身を隠したりしなかった。
家康没後、秀忠によって禁教令が強化され、司祭をすべて死罪に処すると命令しても、信者の願望は殉教することにあった。

火刑に象徴される幕府の弾圧は、草の根を分けてもキリシタンを捜し出し、拷問の上で信仰を白状させるといった苛酷なものだったように見えるが、実は殉教を望む少なくない数の信者たちがおり、彼らは進んで信仰を告白し、喜んで火刑に赴いていた。むしろ、幕府の役人の方が、口先だけでも信仰を否定するよう説得することがあった。

役人でさえそう言って、殉教者を増やさないようにしようとしていたにもかかわらず、キリシタンたちは進んで信仰を表明し、殉教しようとした。

宣教師の手紙。

キリストの御教え以外に救いの道がないことを十分知っており、信仰を決して捨てない強い信念で決意しております。(信仰を捨てること)より、むしろ生きたまま焼き殺され寸断されようと、いかなる恐ろしい拷問にも耐えることの方を選ぶでしょう。


宣教師にも殉教願望があり、変装もせずに屋外でミサを行い、斬首された宣教師もいた。

司祭らは、「自分たちはいかなる理由によって死刑に宣告されたのだろうか」と尋ね、「汝らは国主の法令に背いてイエズス・キリストの掟を説くために日本国へ渡来したためであり、また他の者に対しては、国守の命令に背いて同類の人々を日本国へ渡航させたためである」との返答を得て、「彼らは自分たちがイエズス・キリストのために死刑を宣告されたことを知って信じ難いほどの喜悦に浸った」というのである。

遠藤周作『沈黙』に出てくる転びバテレンは特殊な例なのかと思いました。

キリスト教の信仰を禁止する理由は、宣教師の言葉によれば、「キリストの教えが各地方に弘まっていけば、―それがキリスト教の普及ということであるが―、自分の王国が強奪されてしまうことになる」という秀忠の確信だったと、山本博文氏は言うわけですが、死や拷問を恐れないかからこそ、幕府は弾圧したのではないかと思いました。


佐藤吉昭氏の推定によると、日本の信者数は約40万人で、日本では5万人程度だそうです。

ちなみに、古代教会の殉教者数が10万人程度。
日本では棄教者のほうが圧倒的に多く、殉教を望んだ信者ばかりではないことは言うまでもない。
しかし、少なからぬ信者が心から殉教を望み、また宣教師を助けるために命を捨てた者がいたことは事実である。
神を裏切ることを恐れただけではなく、積極的に神の栄光を得るため、殉教を望んだと考えて間違いない。

司祭の説得すら拒んで殉教という名誉を得ようという心性は、キリスト教伝来以前からの日本人の心性が表れたものと感じられる、と山本博文氏は書いています。

日本軍が玉砕をしたり、捕虜になるよりも死を選ぶ心性と共通するのではと思いました。
その心性とは、名を惜しむということであり、それは世間の目を気にすることでもあるのではないでしょうか。

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大石学「外国人が見た近世日本と日本人」

2016年10月13日 | 仏教

竹内誠監修『外国人が見た近世日本』は、16~19世紀に日本を訪れた外国人の記録を元に、日本人や生活について論考した本です。
大石学「外国人が見た近世日本と日本人」(竹内誠監修『外国人が見た近世日本』)には、外国人が書いた日本の宗教事情について引用されています。

(1)「この国民は特に迷信的でも無ければ宗教的でも無い。彼らは朝夕、食前・食後、あるいは時々祈ることも無い。一カ月に一度寺院に参詣する者は信心深いと言わざるを得ぬ」(カロン『日本大王国史』)
フランソア・カロンは1619年に来日、22年間滞在し、第8代オランダ商館長となった。

(2)「日本各島ともどこも宗教組織は同じである。然し宗派は無数に分かれる。そして各宗派は他の宗派に対し互いに極めて寛大な態度に出てゐる。各宗派の間には盟会或協調の如きものすら見られる。宗派の上に一人の長が居る。これが内裏である。その権力及び職能はかなり法王に似てゐる」(ツンベルク『ツンベルク日本紀行』)

カール・ぺーテル・ツンベルクは1775年から1776年にかけて来日した。

(3)「日本人は必ずしも宗教を信ずる訳ではないが、皆お勤めと思って信心をしている。だから神道も仏教も、分別ある日本人は何の満足も与えていない。教養のない日本人は、ただ信心は自分の義務であると覚っているから、満足しているが、彼らには神道であろうが、仏教であろうが信心さえすればよいので、中にはこの二つを一緒に信心している者すらある……たとい表面的には仏教徒もしく神道信者であろうとも、教養ある日本人は儒教の教養を奉じ、政府もまた、この道を実践しているのである」(カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』)

リッダー・ホイセン・ファン・カッテンディーケは1857年から1859年まで滞日し、長崎海軍伝習所の教官を務めた。

日本人の宗教心の薄さは今に始まったことではないようです。

しかし、宗派の対立のなさ、天皇の優位、儒教の普及などが、西洋人が考える信仰心とは異なっており、日本人は宗教心が薄いと誤解したのではないかという気がします。

シーボルトは「江戸では、人が足繁く訪れる場所、寺の境内などの壁や垣根のそばに、およそ二フィートの□の箱がよく置かれている。そこではさまざまな小間物の必需品、楊枝などが、しっかりと値をつけて販売されているが、売り手はいない。客はなんでも好きなだけ手を取り、お金を足元にある小さな引き出しの中に入れる」と驚いているそうです。

ザビエルも書簡に「盗みを極度に嫌う」と書いています。
盗みが厳しく罰せられ、理由の如何を問わず処刑されるから、盗みが少なかったということはあるでしょう。

しかし、それよりも宗教が人々の生活を律していることが、無人販売所なのに、商品を盗む者も代金を奪う者もいなかった原因であり、すなわち日本人なりに宗教心が篤いのではないかと思います。

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上杉聰『日本会議とは何か』

2016年10月06日 | 
日本の憲法は、実は日本が作ったものではありません。日本が戦争に負けた後、日本を占領したアメリカが作成し、日本に押しつけたものです。(略)
その時、アメリカ側は、これを受け入れなければ天皇の身体の保証はできないと日本に伝えました。

美しい日本の憲法をつくる国民の会のチラシにこんなことが書かれていますが、上杉聰『日本会議とは何か』は、間違いだと指摘しています。

日本国憲法は単純にマッカーサーが日本側に押しつけたようなものではない。
日本国憲法の原案はアメリカが作ったが、多数の日本人がその憲法を審議し、修正し、決議して受け入れた。
1946年6月20日、GHQ案をもとに日本政府が帝国議会へ憲法改正案として提出した。
前文はもちろん、第1条も第9条も徹底して変えられている。
日米が中心となって共同して作り上げ、さらに連合国・極東委員会による監視とチェックも加えられたのが日本国憲法なのである。

「アメリカ側は、これを受け入れなければ天皇の身体の保証はできないと日本に伝えました」ということ。(「保証」ではなく「保障」です)

松本烝治が、GHQ民政局長のコートニー・ホイットニーは「天皇ノ身体(パーソン、オブ、ゼ、エンペラー)ノ保障ヲ為スコト能ハス」と言ったと記しています。

しかし、ホイットニーは次のように述べている。

最高司令官は天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。これまで最高司令官は、天皇を護ってまいりました。それは彼が、そうすることが正義に合すると考えていたからであり、今後も力の及ぶ限りそうするでありましょう。しかしみなさん、最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています。

天皇を殺すと言っているわけではなく、東京裁判で戦犯容疑として裁かれることがなくなる、と言っているにすぎない。
「天皇の身体の保障はできない」というのは松本烝治の誤訳である。
新憲法を日米だけでまとめ、日本を平和国家へ転換させ、天皇も無力になったことを世界に知らしめ、東京裁判で天皇が裁かれるのを防ぎたかったのだ。

ホイットニーの言葉をその場で通訳していた白洲治郎が「押しつけ」と激怒したが、後に次のように書いている。

(アメリカが)新憲法を押しつける決心であったかどうかは別として無理のない事情もあった。それは松本烝治博士による日本政府最後の(アメリカへ提出した松本蒸治の)憲法修正案も天皇主権であったからだ。終戦直後においても事態の認識はあまかったようだ。……
その(新憲法)プリンシプル(原理・原則)は実に立派である。マックアーサーが考えたのか幣原総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか。」(『プリンシプルのない日本』)


日本会議のチラシ「自衛隊の存在を憲法に明記しよう!」について。
上杉聰氏は、「憲法が自衛隊に触れていなくても、それは合憲であり、むしろ自衛隊に憲法が触れないことこそ、重要なのだ。」と言います。

「戦力の不保持は、国際紛争を武力で解決することを放棄するため」だと、第9条の目的をより厳密に定義した結果、「国際紛争を武力で解決する」以外の目的で戦力を持つことはどうなるか。
マッカーサーは最初、日本には自衛戦争さえ認めないとし、「国の主権の発動としての戦争は廃止され、日本は、国際紛争を解決するためだけでなく、自国の安全を保持する手段としても戦争を否定する」と書いていた。
ところが、日本へ憲法案を提案した段階で、「自国の安全を保持する手段としても」が削られ、自衛戦争の放棄を取り消した。

金森徳次郎内閣憲法担当大臣は憲法改正小委員会で次のように語っている。

(原案の)第1項は『永久にこれを放棄する』という言葉を用いましてかなり強くでております。しかし第2項の方は永久という言葉を使いませんで、これは私自身の肚(はら)勘定だけかもしれませんが、将来国際連合等との関係におきまして、第2項の戦力保持などということにつきましてはいろいろ考うべき点が残っておるのではないか、こういう気が致しまして、そこで建前を第1項と第2項とにして、非常に永久性のはっきりしておる所を第1項に持って行った、こういう考え方になっております。

つまり、憲法改正原案では、国際連合との関係で戦力をもつことを可能にするため、第9条第2項にある戦力不保持に永久性を持たせないようにした(将来、戦力を持てるようにした)と語ったのである。

社会党の鈴木義男委員の発言。

ある国際法学者も、交戦権を前に持ってくる方が、自衛権というものを捨てないということになるので宜いのだということを説明しておりました。


憲法改正案委員会委員長の芦田均は自著の『新憲法解釈』に「自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたのではない」と書いている。

極東委員会の中華民国政府代表のタンの指摘。

衆議院において(憲法第9条が)修正され、第9条(第2項が)第1項で特定された目的以外の目的で、陸海空軍の保持を実質的に許す解釈を認めていることを指摘したい。(略)
それは日本が何らかの口実のもとで、たとえば自衛という口実で軍隊を持つ可能性があることを意味する。

この憲法改正小委員会が非公開とされ、議事録も1995年まで秘密にされていた。

なるほど、なるほど。
となると、日本国憲法は個別的自衛権や国連による平和維持活動を認めているということでしょうか。

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