『美しき冒険旅行』は、オーストリアの原野をさまよう姉と弟(14歳と6歳という設定)の物語である。
黒澤明『素晴らしき日曜日』が少しも素晴らしくない日曜日だったように、『美しき冒険旅行』も美しい冒険旅行ではない。
アボリジニの子供が強制的に隔離、収容されていたという『裸足の1500マイル』を見れば、『美しき冒険旅行』はアボリジニの生活を美化しているように感じる。
主役のジェニー・アガター(当時19歳)がいいんですよ。
そして最後のシーン、姉(ジェニー・アガター)が結婚し、遠くを見るような目で美しき冒険旅行を思い出す。
『美しき冒険旅行』の日本公開は1972年、私は高校生でした。
私にはそんな美しい思い出はありませんが。
原作のジェームズ・ヴァンス・マーシャル『美しき冒険旅行』は何やらいやらしい感じがしてオススメ。
インド思想では輪廻からの解脱を目的とする。
松本史朗氏によれば、解脱とは我(アートマン)が我ではないもの(欲望、渇愛、煩悩など)の汚れから解き放たれることである。
我は本来清浄であるが、さまざまな汚れの中にある。
何らかの手段、たとえば苦行とか瞑想とかによって、汚れを落とし、汚れから解き放たれること、それが解脱である。
涅槃についても松本史朗氏は、「火が吹き消された状態」という意味だとされているが、「覆いをとりさる」という意味であり、解脱と同じ意味だという。
自分の中に光り輝くものがあり、心の磨いて汚れを取り除くという考えはきわめてわかりやすい。
しかし無我説に立つならば、解き放たれるべき我、清浄な光り輝く我などない。
ということで、松本史朗氏は、
と、またまた激しいことを言っている。
仏教でも我(アートマン、本質、自性)が実在するという考えを取り入れ、如来蔵、仏性、アラヤ識などと呼び、梵(ブラフマン)に当たるものを真如、法身、法界、一如などとして立てるようになった。
ということで、松本史朗氏は『縁起と空』の冒頭で、
とまず断言している。
仏性を「仏になるタネ」としたら、実体的な感じがしてよろしくないが、「仏になる可能性」だったらいいのではないかと私は思うが、そつのない松本史朗氏のことだから、「仏性には仏になる可能性という意味はない」とちゃんと釘を刺している。
真理、真如についても、松本史朗氏は
と否定し、
とびっくりすることを言う。
真理とは何かということになるのだが、真理とは実体的実在であり、さらには最高の存在、絶対者、すなわち梵(ブラフマン)として執着するならば、たしかに問題ではある。
しかし、法(真理)を法則の意味だと解釈したら問題はないのではなかろうか。
あらかじめ常にそういう反論を予想している松本史朗氏は、またまた「法(ダルマ)には法則の意味はない」ときちんと説明する。
「法(ダルマ)」とは「真理」あるいは「存在」だと理解されている。
しかし、定説を次々と否定する松本史朗氏は、「法」には「真理」という意味も「存在」という意味もない、十二支縁起の中の十二支が法なんだと言う。
では「諸行」とは何か。
すなわち「諸法が常住(永遠)でも、実在(有)でもない」ということが諸行無常、諸法無我ということなんだそうだ。
如来蔵とは「衆生の煩悩の中に覆われ蔵されている、本来清らかな如来法身のこと」と辞書にある。
水野弘元氏は
と問題提起している。
『自分の時代の終わり』に、定方晟氏の如来蔵思想についての説明がある。
それで正道を歩みはじめた人はいいのですが、人間をひどく悲観的に見るものが出てきてしまった。そこでこの暗い考え方を否定する立場が出てくる。これが大乗の立場だと思うんです。
その際一つの言い方として、「すべてのものは仏の表れである、本質的に仏である、人間は本来清浄である」というのもあるでしょう。
こういう立場を表現する言葉がいっぱいあるわけです。本覚思想とか、如来蔵思想とか。人間は決して最初から汚れているとか、煩悩に満ちた存在だとかいうふうに決めつけるべきものではないと。
山川草木悉皆成仏、すなわち自然物まで成仏の可能性があるというアニミズム的な考えについて、袴谷憲昭氏や松本史朗氏は否定するが、定方晟氏は次のように擁護する。
つまり、言葉に対するとらわれを仏教は問題視しているわけです。
松本史朗氏の主張は説得力はある。
すごく刺激的である。
しかし、あれもこれも仏教ではないと切り捨てていったら、仏教がやせ細ってしまう危険も出てくるのではないかとも思いました。
風邪を引いたのか熱が出た。
しかし、雨にも負けず風邪にも負けず、映画館に行く。
で、見たのが『オーシャンズ12』だが、うつらうつらしながらなので、おろそかなことは言えないが、どうも話が手抜きであると感じた。
二カ所で泥棒するのだが、その困難さは強調されていても、じゃあどのようにして盗んだのか、肝心なところは描かれない。
それとか、ジュリア・ロバーツがジュリア・ロバーツを演じる状況は面白いが、どうしてそういう危ないお芝居をしなくてはいけないのかも、後から考えると納得できない。
薬を飲んでも少しもよくならないので、再度医者に行くと、インフルエンザB型との診断。
「この薬がよく効きますよ」ともらった薬を飲んで、『きみに読む物語』を見に行く。
ところが、物語がありきたりで、熱が出ている私の頭でも先が読めてしまうし、こういう女がいるからみんなが迷惑するんだと腹が立った。
にもかかわらず、不覚にも涙が出てしまった。
監督のニック・カサベテスの母親ジーナ・ローランズが出演しているが、ジーナ・ローランズと夫のジョン・カサベテスの恋愛も、この映画と同じように二人の家の身分差のためにかなりの苦労があったそうだ。
インフルエンザにかかったのはたぶん生まれて初めてだと思うが、こんなにしんどいとは考えもしなかった。
とにかくだるいし、何も食べたくない。
横になると、起きる気力が出ず、いつまでもゴロゴロしてしまう。
それと悪寒。
ストーブをつけて、毛布を二枚、布団を二枚掛け、やっと震えが止まった。
これでもB型だからまだ症状としては軽いらしい。
病人になるのも楽じゃない。
1月も半ばを過ぎるとスーパーやデパ地下(デパートの地下食品売り場)では、チョコレートの山が見受けられるようになる。さまざまなかざりやリボンに彩られたかわいいチョコレートたちが、今か今かと出番を待ってならんでいる。
2月14日はバレンタインデー。カトリックの祝日で、女性から男性に愛を打ち明けることが許される日であるという。
カトリックというと、女性は良妻賢母で、不倫は許されない。純血を守り、夫に尽くすというイメージが強い。日本にも男尊女卑の差別があったが、洋の東西を問わず、女性への風当たりは強かった。仏教にも五障三従の思想がみられ、女性は女性のまま成仏できないとされた。
しかし、そんなことはどこ吹く風。現代の女性はたくましい。本命、義理チョコ使い分け、思いの男性をゲットしようと作戦を練っていることだろう。今年も世の男性は甘い言葉と甘いチョコに翻弄されるのだろうか。
海老で鯛を釣るという言葉があるが、男には本命なのか義理なのかの判断は難しい。甘いチョコで高価なブランド品を釣られないように、義理チョコ諸君はくれぐれも甘い誘惑にご注意の程。
「バレンタインデー」という言葉を辞書で引いたら、その次の言葉は「破廉恥」という言葉であった。ウーン。